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Eternal Snow -雪の女王- ⑪


   10. 鏡のなかの世界

 鏡のなかに入りこんだハルは、そこで目にした光景におどろきました。
 それもそのはず、じぶんが立っているその場所は、ハルとスノウが住んでいる町のなかだったからです。目の前にはじぶんの家とスノウの家がならぶように建っていました。ただ、そのまわりの風景は、いつも見慣れている町なみとはだいぶちがうような気がします。あきらかに建物の数が少なく、みわたすかぎり一面にのどかな麦畑がひろがっていました。
 ハルはスノウをさがして家のなかやちかくの畑をしらべてみましたが、どこにもそのすがたはありませんでした。
 スノウが行きそうな場所をめぐり歩いていると、幼いころからふたりでよくあそんでいた広場にたどり着きました。
 広場の中央には大きな池があり、ふたりはよくそこでカエルやトンボをつかまえたり、オニごっこやかくれんぼをしたりしてあそんでいました。
 するとやはり、その池のちかくの原っぱの上にすわりこんで、ぼんやりと遠くをながめているスノウのすがたがありました。
 ハルはスノウのちかくまでくると、そのすぐとなりに腰をおろしました。スノウはそれに気がついているのか、いないのか、まったく反応を示さなかったのでわからなかったのですが、ハルはそんなことなど気にせず、ふたりがいつもいっしょにいるときそうするように、なにげない会話をはじめました。
「ねえ、おぼえてる? わたしたちがちいさいころ、この広場で近所の子どもたちと追いかけっこをして、スノウったら、池のむこうがわにある岩にとびうつろうとして、水のなかに落ちちゃったのよね。池はそんなにふかくないけど、わたしそんなこと知らなかったから、あわててパパとママをよびにいったら、みんな大さわぎ。近所のひとたちがみんなあつまってきて、助けてくれたの。スノウは全身ずぶぬれで泥だらけ、そのあと高熱をだして寝こんじゃって、みんなすごく心配してた」
「うん、おぼえているよ」と、スノウはかわらずぼんやりと遠くをみつめながら答えました。「ぼく、あのころからハルやまわりのひとに迷惑や心配ばかりかけていたね」
「そんなことないよ」ハルはやさしくそういいました。「わたし、スノウがいたから、もっとじぶんがしっかりしなくちゃっておもってたの。でもね、わたしだってほんとうはもっと弱虫で意気地なんてまったくないのよ。スノウがおもっているほど、わたしだってしっかりしてるわけじゃないわ。いつもスノウがそばにいてくれたから、わたしだって勇気をだしていろんなことができたんだもの」
「……でもぼくは、そんなハルにいつも頼っているじぶんが情けなかったんだ。母さんがいなくなって、父さんとふたりきりになったとき、もっとぼくがしっかりして、だれにも迷惑なんてかけず、いつかはハルや父さんを幸せにしてあげられるくらい、りっぱなひとにならなくちゃって、そんなことばかり考えていたんだよ」
「そんな……スノウは――」
 そのとき、背後でスノウをよぶ声がして、ふたりはふりかえりました。そこにはまっしろなドレスを身にまとったうつくしい女の人が立っています。衣装だけでなく、肌の色や髪の毛の色まですべてが雪のようにまっしろで、ハルは一目でこの女の人が雪の女王なのだとわかりました。
「女王さまがむかえにきたみたいだ。ぼくはもういくよ」
 スノウは立ち上がり、その場から立ち去ろうとしましたが、ハルがその手をつかんで引きとめたため、ふたたび足を止めました。スノウの手はふるえあがるほどつめたく、つかんだハルの手はキンキンと痛みましたが、こんどはしっかりとにぎりしめ、けっして離したりはしませんでした。
「スノウは情けなくなんかない。だれだってじぶんの弱い部分や情けないところをかくして、それをだれにも気づかれないように、ひっしに生きてるんだもの。スノウはひとりなんかじゃない。わたしだっているし、あなたのことを助けてくれるひとだって、きっとたくさんいるはず。――わたしね、いろんな人と出会って、その人たちに助けてもらって、ようやくここまでくることができたの。わたしひとりの力では、ぜったいにここまでたどりつけなかった」
 ハルはそういうと、スノウのからだをだきしめました。スノウのひえきったからだは、ハルの体温をみるみるうちにうばってゆきます。それでもハルはスノウをきつくだきしめたまま、離れようとはしませんでした。
「スノウはスノウのままでいいのよ。……だれになんといわれたって、あなたはたったひとりの、わたしにとって、かけがえのない人なんだもの。……だから、ね……心を閉ざさないで、スノウ……」
 そうしているあいだにも、ハルのからだからは熱が失われてゆきます。そしてついにすべての体温がうばわれてしまうと、ハルはくずれるようにたおれてしまいました。
 しかしそれと同時に、スノウの凍りついていた心とからだには熱がよみがえり、頬には赤みがさして、うつろだった目にはかがやきがもどってきました。そしてその目からは、ひとすじの涙のしずくがこぼれていました。
「……ハル、どうしたの? ねえ、起きてよ、ハル」
 スノウはたおれたハルのそばにかがんで、なんども話しかけてみましたが、ハルのからだはすでにつめたくなっていて、返事はおろか、起き上がる気配すらありませんでした。
「ついにこのときがやってきました。あなたとわたしが力をあわせれば、醜い外の世界をすべて氷のなかに閉じ込め、この鏡の中にわたしたちの理想とする、なやみや苦しみのない世界をつくりあげることができるでしょう。さあ、行きましょう」
 雪の女王はスノウのすぐそばまで近寄ると、そう語りかけましたが、スノウは返事をすることもなく、ハルのそばに寄りそったまま動きません。
「どうしたの、スノウ。なにも心配することないわ。その子がいなくても、わたしがいつまでもそばにいてあげます。さあ、いらっしゃい、スノウ……」
「ごめんなさい、女王さま、ぼくはいっしょに行きません」スノウはゆっくり立ち上がると、まっすぐ雪の女王を見すえながらいいました。「いつわりの幸せなんか、ぼくは欲しくはありません。どんなにくだらなくて、つらい世界であっても、ぼくはハルといっしょにじぶんたちの町へ帰ります。だから、あなたといっしょに行くことはできません」
 雪の女王の怒りを買うことを覚悟していたスノウでしたが、女王はかなしそうな目をしたまま、スノウをじっとみつめているだけでした。
「その子になにかおかしなことをいわれたのね。まどわされてはだめよ。ほら、わたしのもとへいらっしゃい……」
 雪の女王はスノウをだきしめると、その頬に口づけをしました。しかし、もうスノウの心とからだが凍りつくようなことはありませんでした。スノウは両手で女王の頬にそっと触れました。すると、スノウの手のひらの熱が雪の女王につたわり、そのぬくもりが、つめたく凍てついていた女王の心をすこしずつとかしてゆきました。
「雪の女王さま、どうか心を閉ざさないでください。いたずらに心を閉ざしていては、憎しみや失望ばかりがつのって、ほんとうにたいせつなものがなにか、みえなくなってしまいます」
 スノウは雪の女王の頬から両手をはなしました。すると、女王の顔には、もう憂いやかなしみの暗い影はひそんでいませんでした。その表情はすっきりと明るく、慈愛にみちたやさしさであふれています。
「――そう……あなたのいうとおりね、スノウ」
 雪の女王はたおれているハルのそばにかがみこむと、そっと手をのばし、つめたくなったからだにふれました。すると、凍りついて動かなくなっていたハルのからだにぬくもりがよみがえり、またたく間に顔色がよくなってくると、やがて目をさまして、ゆっくりと起き上がりました。
「ハル、ぼくだよ、わかるかい?」
「ああ、スノウ……よかった、ほんとうによかった」
 ハルとスノウは抱き合って、ふたたびこうしてもとのふたりにもどれたことをよろこびました。雪の女王はそのようすをほほえみながら、でも、どこかさびしげに見守っていました。やがて女王は、ふたりにむかってこういいました。
「――もうあまり時間がありません。わたしの魔法の力が失われれば、この鏡のなかの世界はもうじき消え去ってしまうでしょう。そのまえに、あなたたちふたりをもとの世界にもどしてあげなければなりません。さあ、わたしの手をつかんでください」
 雪の女王がいうとおり、周囲の景色はにわかに色がくすみ、ぼやけてきたような気がしました。
「女王さまは、もどらないのですか?」スノウがたずねました。
「わたしにはまだやらなければならないことがあります。だから、あなたたちとともにもどることはできません」
「…………」
 スノウはかなしそうにうつむいてしまいましたが、その感情をことばにすることはできませんでした。それをみかねて、雪の女王はそっと後押しするようにいいました。
「――スノウ、あなたならどんなにつらいことでも乗り越えてゆけるでしょう。あなたのことを想ってくれているひとを、これからもたいせつにして、けっして手放してはいけませんよ。最後に、あなたたちふたりに会えてほんとうによかった」
 泣きそうな顔になりながら、スノウは雪の女王のさしだした手をにぎりました。つづいて雪の女王はハルのほうをみました。そのとき、ハルは春の国の王さまとかわした約束をおもいだしました。上着のポケットに手をいれると、赤い宝石がかがやく指輪をとりだし、それを雪の女王にさしだしていいました。
「この指輪は、春の国の王さまからことづかっていたものです。王さまはあなたに、『約束を果たすことができなくてもうしわけない』――そう伝えてほしいといっていました」
「そう、あの人が……」
 指輪をうけとった雪の女王は、しばらくのあいだそれをみつめていましたが、やがてじぶんの指にはめていた指輪をとりはずすと、その指輪をハルに手わたしました。それは、あざやかな青い色のちいさな宝石がはめこまれた指輪でした。
「これをあの人にわたしてください。そして、かれにこう伝えて――『わたしのほうこそ、約束を守れなくてごめんなさい』と」
 ハルは指輪をうけとると、うなずきながらそれを上着のポケットに入れ、雪の女王がさしだしたもう片方の手をにぎりました。
 すると、まわりの風景はすっかり色彩を失って液体のように溶け落ちてしまい、まっくら闇の空間には、手をにぎった三人だけがとりのこされていましたが、やがて雪の女王のすがたも溶けて消えてしまうと、あとにはハルとスノウだけがのこされました。そして、目もくらむような白い光につつまれたかとおもうと、つぎのしゅんかんにはお城の玉座の間に立っていました。
 目の前の壁に立てかけてあった大きな鏡は、けたたましい音とともにくだけ散ってしまい、くだけた鏡の破片はきらきらとかがやきながら消えてしまいました。






(つづく)