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崩落の夜

藤堂、と呼ぶ声が、懐かしく響いた。

「おい。……おい、南部。南部与七郎」
「……あ、ああ」
ハッとして、何とか応答した。
「どうした。もう酒が回ったか」
「そんなところだ」
適当に返事をしながら酒を盃に注ぐ。
ここは高台寺塔頭月真院。何度も転々と移った後、やっと腰を据えた御陵衛士の屯所である。
この日、伊東甲子太郎は屯所を留守にしていた。
つかの間の一服だと、誰からともなく酒を持ち寄り、飲みだしたのだ。
南部はため息をついて盃の中の酒を覗き込んだ。
そこに映る自分の、何と冴えないことか。
少しやせてしまったかもしれない。
――魁先生と呼ばれた過去の自分が聞いて呆れる。
自嘲しつつ、酒をなめる。
最近、過去、とりわけ江戸の試衛館で過ごしたことを思い出すようになった。
試衛館は近藤が師範を務める剣術道場であった。
今日の飯を食うにも困る貧しさで、酒のつまみはもっぱら安い漬物である。
しかし、日本の先行きを皆で語るときは、冬の寒さも忘れるほどに熱くなったものだ。
近藤勇が朗々と「当代の公方様は」と語りだせば、食客の永倉新八が応戦するように「でもよぅ」と反発する。そうすると皆口々に己の持論を叫びだす。
自分もそれに混ざって、理想の日本を語ればどっと笑いが巻き起こったものだ。
多少学はあったと自負はしている。若輩ながらも日本を論ずるだけの資格はあったとも。
しかし、そんな小難しいことはどうでもいい。あの滾った空気や馬鹿笑いの響く場が好きだった。
何せ、こちらを窺うような視線など感じることはなかった。
現に今もちらちらと時折寄こされる視線を鬱陶しく思っている。
「南部、もう飲まんのか」
頬を赤くした三木三郎が徳利をひょいと持ち上げた。
「飲んでおりますよ」
そう返しはするものの、一向に酒は進まない。
やはり、かつて新選組に幹部として在籍していたという事実が皆を疑心暗鬼に駆らせているのだろう。
よもや、間者ではあるまいか。
そう疑われるのも無理からぬことではある。
しかし、南部にとってそれはあり得ぬ話であった。
かつて試衛館に巡り合う前に、自分は伊東の下で北辰一刀流を学んできた仲なのだ。
そして、此度の新選組脱退も考えなしに抜けたわけではない。
かつて近藤の要請で新選組隊士を募りに江戸へ戻った際、この目で見たのだ。
江戸の町を堂々と歩く異国の人間たち。そして彼らが我が物顔でお上のものであるはずの土地に建てた異国の建築。
――もはや、幕府には日本を守る力などないではないか。
そのように思い至ってしまったのだ。
だからこそ、公方様に心酔する近藤のもとを、昔馴染みたちのもとを去ろうと決心したのだ。
徳川家についていては未来はない。
そう思ったからこそ、朝廷を重んじる御陵衛士になる覚悟を決めたのだ。
それだけの理由があるからこそ伊東についてきたというのに、誰もそれを理解する者はいなかった。
それを思うにつけて、昔の楽しかった思い出ばかりが胸をよぎり、これが本当に自分の進むべき道だったのかと心をぐらつかせるのであった。
楽しそうに酒を酌み交わす同志たちを見る。
その誰もが自分を仲間だとは思っているまい。
やり場のない孤独だけが、今の南部にあった。
唯一、自分と同じく新選組幹部から伊東派になった斎藤一に相談しようにも、ここ数日姿を見かけていない。
まさか、斎藤は。
ふと思い至った考えを、首を振って逃がす。
新選組と御陵衛士の間には、互いの脱退者の再加盟は認めないという協定が交わされている。
斎藤が新選組に戻ったということはないだろう。
もしそのようなことがあれば、伊東が黙ってはいないはずだ。
「南部君」
不意に声をかけられた。
そちらに目をやると、服部武雄の顔があった。
「何か」
至って平静に返す。
「君は、新選組に帰りたいと思うかね」
どきり、と心臓が跳ねた。
「いえ、思いません」
一瞬視線が泳いでしまったが、服部は気にしたそぶりはない。
「薄情な奴だ。長年一緒にいた仲なのだろうに」
貴方がそれを言うのか、と喉まで出かかった言葉を飲み込む。
服部も元は新選組隊士であった。
五番組に属し、二刀流で鳴らした男だ。
「服部さんは帰りたいのですか」
こちらが聞かれるばかりでは不公平である。南部は服部に聞き返した。
「いや全く帰りたいとは思わんね。あんな時代遅れの連中とつるんでいたら、いつか身を亡ぼしちまうよ」
かっかっか、と笑いながら服部は酒をグイと飲んだ。
「服部さんも、やはりそう思いますか」
「そう、とは?」
「新選組に残れば時代に取り残され、やがて幕府からも目を背けられて滅んでしまうと」
「ああ、そうさね。ただでさえ今の幕府は諸外国に対して本気で相対しようという気概がない。我々の大事な国を闊歩する異人を追い出すには、やはり朝廷のお力がなくてはどうしようもない所に来ている」
「そうですね」
「これは少し言い過ぎかもしれないが、徳川は我が身可愛さに日本を犠牲にして延命しようとさえしているように思われる。外国が脅威だというのなら、それに対抗できるほどに我が国を富ませるのが急務であろうに、それもわかっておらん」
「おっしゃる通りです」
酒の勢いもあってか、服部の弁舌は止まるところを知らない。
相槌を打ちながら、南部は考える。
やはり、新選組を出たのは正解であったように思われる。
それは同じ考えで新選組を後にした者がいる、ということを知った安心感がそう思わせるのかもしれないが。
少しばかり、心が軽くなった。
酒の味も感じるようになったかもしれない。
夜も深まってきた。ようやく場も落ち着く。
「しかし遅いな。伊東先生はどちらまでお出かけされたのか」
「この時間までかかっているとなると、宮川町のあそこだろう」
そんな会話がふと聞こえた。
途端、ぞわりと南部の背中を悪寒が走った。
果たして、伊東は無事に帰ってくるのか。
何か根拠があるわけでもないのに、突然不安に襲われる。
その時、外から何か叫ぶ声が聞こえた。
「誰だ、こんな夜中に」
怪訝な顔をして服部が立ち上がる。
他の者も顔を見合わせて不思議がっている。
何か、悪い知らせが来たに違いない。
南部は一人そう思っていた。
こういう時の勘はよく当たる。
新選組にいたころから自分の嫌な想像が現実になったことは数えきれないほどにある。
ややあって、どたどたとあわただしい音が響き、服部が転がるように部屋に戻ってきた。
「どうした、幽霊でも出たか」
一人が茶化して言った。
しかし服部は苦虫を噛み潰したような顔のままであった。
「町役人だ。伊東先生が、やられたと」
その場に響いた声に、しんと静まる。
「……人違いではないか?」
誰ともなくぽつりと声がした。
「そう思って人相を聞いてみたが、どうも間違いはないらしい。遺体を引き取れと申してきた」
「何だと」
憤怒をたぎらせた一言が聞こえた。
三木だ。
無理もない。実の兄を殺されているのだ。その心中は推して知るべし、であろう。
「どこの賊かは知らんが、宵闇に紛れて襲撃とは武士の名が聞いて呆れる。皆行くぞ」
応、と答えた後、すぐさまその場の全員が動き出した。
剣を腰に差し、バタバタと走る。
「皆落ち着け。相手は伊東先生を罠にはめた狡猾な賊だ。賊の襲撃に備えて鎖帷子を着ていくべきだ」
服部が声をあげた。
「そのような時間が惜しい! 賊など俺のこの剣一本でねじ伏せてくれよう。案ずることはない」
三木は今にも飛び出さん勢いだ。
服部はため息をつき、鎖帷子を手に取った。
「着ていくのですか」
南部は尋ねた。
「ああ。賊の襲撃はほぼ確実だろうからな。……それに、なあ、南部。伊東先生を狙う理由を持つ賊ってのに心当たりは少ないと思わないか」
「……佐幕派の人間であれば、誰であれ、伊東先生を目の上の瘤だと思う者は少なくないでしょう」
最悪の相手を想像したくなかった。ただそれだけのことがこのような言葉の形になった。
「相手が佐幕派というのは、そうだろうな。しかし、伊東先生の予定を知ることができ、なおかつ伊東先生を殺せる手練れをそろえることができる者というのはそう多くはなかろう」
服部は、あくまでも最悪の想定を動かす気はないらしい。
鎖帷子を黙々と着込む服部を前に、南部は何も言えなかった。

霜月の夜は足からキンとした寒さが這い上がってくる。
南部たちは夜の底のような街をひたすらに走った。
服部の言葉が頭から離れない。
確かに、この状況を作り出せるだけの組織力を持つ、となれば自然相手は限られる。
とすると、よもやこれも相手の手の内であるのではなかろうか。
南部たちが伊東の遺体を迎えに来るのを虎視眈々と待ち受けている可能性は十分にある。
もしや、目の端に映る塀から敵が飛び出してくるのではあるまいか。
先の見えぬ暗がりに心臓を跳ねさせながらも、南部は皆より一足先に油小路にたどり着いた。
果たして、役人の言の通りに人が倒れていた。
明かりで照らすと、間違いなく伊東甲子太郎その人であった。
「伊東先生!」
南部は思わず名を叫んで駆け寄った。
膝をつき、伊東を抱き起こす。
伊東はすでにこと切れていた。
「南部、伊東先生は……」
南部は静かに首を横に振った。
「くそったれが。どこのどいつだ、卑怯者めが!」
誰かが手近にあった柵を蹴りつける音がした。
「とにかく運びましょう。賊への処断はしかる後に」
南部がそう言った時、遅れていた駕籠がやっと追いついてきた。
伊東を中に入れて、籠が担ぎ上げられた。
その時。
「ぐうっ……」
重く熱い衝撃が南部の腹を襲った。
「南部!」
服部の声が聞こえる。
斬られた。横っ腹を一文字に。
「貴様、何奴!」
南部が剣を抜き、背後を振り返った時。
――目に映ったのは、月明りにわずかに浮かび上がるだんだら模様の白い羽織だった。
南部はそれに目を奪われて、反応が鈍かった。
「御陵衛士ども、覚悟!」
振り上げられた剣から一瞬気が逸れていた。
防御も回避も間に合わない。
岩をも斬らんばかりの強かな一撃が南部の眉間を断った。
南部がどっと倒れたのを合図に、そこかしこから裂ぱくの気合とともにたくさんの人影が飛び出し、戦が始まった。
剣戟の音と怒号を遠くに聞きながら、南部の意識は白くなっていく。
これが俺の最後か。
何ともあっけない。
自分は伊東の下でこの剣を正しく帝のために使う、真の尊王攘夷志士になったのだと無邪気に思っていた頃が懐かしいと思う。
それは最近になって曇り、焦りと悩ましさに翻弄されて、結局はどっちつかずの中途半端な人生になってしまった。
後悔なら、たくさんある。
それでも、この生にはきっとたくさんの意味があったと思いたい。
呼吸が上手くできない。
体中の感覚がだんだんと遠のき、すべてが光の向こうに消えていくその刹那。

藤堂、と懐かしい声が自分を呼んだ気がした。
ああ、その声はきっとかつての同胞――。

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