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アルゼンチンのドミトリーで考える「種」の強さ

 アルゼンチンに来てから、他人と会話する機会がめっきり減った。PCでの仕事が終わらないことに加えて、文献も読み進めなければならない。はい、言い訳です。カッコつけました。正直にいうと、アルゼンチン人が何を言っているのかうまく聞き取れないから、会話をすると疲れる。本当はよくないと思いつつ、つい損得勘定で「まぁ一時滞在だし、取材テーマとも関係ないからいいや」と一人で黙々と時間を過ごす時間が多い。他人と交わらないのは簡単だけれど、自分の存在が際立つことには内面的な不快感を伴う。

 昨日はアルゼンチンで行う、とある街頭調査で使うアンケートと、チリでの取材テーマに関する資料を印刷して、スターバックスを訪れた。このスタバの恩恵はちょっと自分を戒めたくなるようなレベルで、日本では滅多に行かないくせに、つい3日前くらいも訪れ、プラスチックストローがぶっ刺さったカフェフラペチーノを「これこれ〜」と興奮気味に飲んだ。ちなみに、日本でカフェフラペチーノを注文した実績は、ない。一度も。スタバは今滞在しているネウケンでは、唯一といっていい日本と同じ環境を持つ空間だ。というか、スタバが世界規模で同じクオリティーの空間を提供している、といった方が正しい。そして、1時間ほど冴えない頭を休ませてから、一人で音楽を聴きつつ仕事。


 アルゼンチン人のスペイン語は、やたらと「シェ」が多い。例えば、動詞「llegar」はチリやペルー なら「ジェガール」と発音するが、アルゼンチンでは「シェガール」だ。以前、ブラジルを訪れた際にポルトガル語がほとんど分からなかったときのような感覚に似ている。似ているだけで、こちらの言うことは伝わるし、話せば相手の言っていることも分かるから毎日簡単な会話はする。こうしてコミュニケーションはできるんだけど、チリで話すよりも時間ががかかるし疲れる。

 スタバからドミトリーに帰ったら帰ったで、文献読んだり仕事したり。今が観光シーズンじゃないせいか、ドミトリーの客もアルゼンチン人が多く、良く思い浮かべがちな「ドミトリーでバックパッカーと交流」みたいな雰囲気は全くない。それで困ることはないけれど「これでいいのか?」と思ったりもする。まぁ今は、別にいいんだけど、スタンスとしては褒められたものではない。

 アルゼンチンでの現状とロジックは違えど、日本でも同じようなことを考えていた。人の考え方が多様化する中で、ネットを介して共感しあってコミュニティーができあがっていくと、他の考えを持つ領域とは関わらなくてもあまり困らなず、たくさんの異なる領域が共存することになる(実生活はそれほどでもないが)。ちょっと話は違う気もするけれど、N国党が成り立ったりするのも、ああいうワンイシューの戦略が一定の層の共感(奇抜なパフォーマンスも含めて)を集め得るからなのだろうと思う。今はその、価値観の違う他人と交わらなくて済む快適さと、自分の内的世界が濃縮していくことへの不快感を同時に味わっている感じだ。

 こうしたいわば交流の最適化は、精神衛生上快適に生きていけるようになるし、自分の考えやスタンスが研ぎ澄まされて強固になるという良さもある。一方、価値観の固定化には危うさもあるように思う。野生生物でいえば、違った遺伝子を持つ個体群かあって、その群間での交流があるからこそ、血が濃くなるのを防げる。血が濃くなる(=遺伝的変異が少なくなる)とどうなるか、特定の病気に対する免疫が極端に弱くなったりして、集団としての生存力が低下する。「人間社会に野生の理論を当てはめるな」と突っ込まれそうだけれど、自然大好きマンなぼくとしては、人間社会のコミュニティーにもその理が、ある程度の範囲で当てはまる気がする。

 ただ難しいのは、何でもかんでも取り入れていればいいかといえば、そうでもない。在来種のイシガメは外来種のクサガメと掛け合わさったら、交雑種になってイシガメとはいえなくなってしまう。大事なのは遺伝子の交換によって「種」を強くするということだ。ただそれすら、そのときの状況次第。「種」は必要に応じて異質なものとも付き合いながら、ときには「別種」に進化する。そういう柔軟さも失いたくない。つまりは「適応力」が種の強さの歴史を少しずつ紡いでいく。まったく何を言っているのか自分でもよく分からなくなってきたが、ぼくは強くなりたいんだろう。言葉や価値観が違う人間と話すのは確かストレスなんだけれど、自分の血が濃くならないように、ときには壁をとっぱらって誰彼構わず話してみたい。それで自分が強くなれるのなら。

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