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毎週一帖源氏物語 第九週 葵

長めの前置き~天皇号と院号

 私がまだ大学院生だった頃、中央公論社(当時)から『日本の近世』というシリーズが刊行された。「天皇と将軍」と題された第二巻(1991年9月)によって、私は天皇の称号には諡号(しごう)と追号(ついごう)の二種類があること、そもそも「天皇」という称号が千年近く歴史から消えていて、その間は「院」が用いられていたこと、などを知った(辻達也執筆第一章「権威と権力の葛藤」、藤田覚執筆第八章「国政に対する朝廷の存在」)。
 「おくりな」と言われるように、天皇の名称は死後に付与される。「諡号というのは、なくなった天皇に対し、生前の業績を讃美する字句を選んで贈る称号」(前掲書第一章、17-18頁)であるのに対して、追号は美称ではなく、退位後の住居等にちなむ名称である。そして、「追号では天皇の代わりに院と称するのが慣例であった」(同、19頁)。平安時代の初期には諡号と追号が混在していたが、宇多院(天皇)から後は追号が基本となる(慰霊のために諡号を贈った崇徳院のような例外はある)。『日本の近世』の論旨としては、1841(天保十二)年に「光格天皇」という名称が贈られたことに力点が置かれている。「光格天皇という称号は、九〇〇年にわたり中絶していた諡号・天皇号の復活だった」(第八章、354頁)。
 なるほど、そうだったのか、と私は思った。そう言えば、百人一首でもこの原則は守られていて、第一番の詠み手は天智天皇だが、第百番の詠み手は順徳院である。天皇号と院号の区別は、一種の社会常識になっていたのだろう。
 そこで、『源氏物語』である。時代設定はぼかされているが、桐壺帝は歴史上の醍醐天皇に擬せられている。六十代醍醐天皇から六十二代村上天皇までは、追号と天皇号という複雑な組み合わせになっていて、六十三代冷泉院から追号と院号で安定するので、扱いが非常に難しい。醍醐天皇に倣って桐壺天皇と書くこともできなくはないが、何となく違和感がある。桐壺はどう考えても諡号ではなく追号であり、追号に添えるには院号がふさわしいこと、紫式部の時代にはすでに院号が定着していたと思われること、以上二つの理由により、私も一連の記事で院号を用いたい。そして、在位中は「帝」、退位後は「院」と呼び分けることにする。花宴巻と葵巻のあいだで代替わりが起きているので、これ以降は桐壺帝ではなく桐壺院と記す(要するに、これを言いたかった)。

葵巻のあらすじ

 帝が譲位した。六条御息所には、前坊(せんばう、前皇太子で桐壺院の弟)とのあいだに娘がある。帝の代替わりに伴い、その娘が伊勢の斎宮になることが決まっている。御息所は、源氏との仲もうまく行っていないので、娘について伊勢に下向しようかと思い悩んでいる。
 大殿(おほいとの)の姫君が懐妊し、源氏も姫をいとしく思う。
 四月、賀茂の祭の少し前に行われる御禊(ごけい)の日に、大勢の人々が見物に繰り出す。六条御息所もお忍びで出かけるが、大殿の一行の車に押しのけられ、屈辱に打ちひしがれる。後日、源氏は車争いのことを聞きつけ、心を痛める。
 祭の当日、源氏は二条の君(若紫)を伴って見物に出て、典侍に車の場所を譲ってもらう。相変わらず若作りをする典侍は、「あふひ」に「葵」と「逢ふ日」を掛けた歌を詠みかけるが、源氏の態度はつれない。
 懐妊した大殿には、もののけが取り憑いている。もののけは、産気づいた大殿の口を借りて、大将殿(源氏)に話があると言う。差し向かいになった源氏は、もののけの声や仕草が御息所のものだったので、忌まわしく思う。
 大殿の苦しみは少しやわらぎ、男子を出産する。左大臣家の喜びはひとかたではない。源氏もまた衰弱した大殿をいたわり、この人のどこに不足を感じていたのだろうと優しく見守る(「年ごろ何ごとを飽かぬことありて思ひつらむと、あやしきまでうちまもられたまふ」(91頁))。
 秋の司召(つかさめし、除目)の日、源氏や左大臣家の人々が参内しているうちに、大殿の容態は急変し、息を引き取る。八月二十余日、鳥部野への葬送が行われる。
 秋も深まった頃、御息所は源氏に弔問の文を贈るが、その返歌でほのめかされていたところにより、自分が生霊となって大殿に取り憑いていたことを悟る。
 源氏は勤行を熱心に務めた後、左大臣邸を出て桐壺院と藤壺中宮に挨拶する。久しぶりに二条院に帰り、すっかり大人びた姫君に心惹かれる。ついに新枕を交わすが、姫君のほうでは思いも掛けぬ扱いをされたと感じて、源氏に口を利こうともしない(「まことにいとつらしと思ひたまひて、つゆの御いらへもしたまはず」(116頁))。そんな気持ちをよそに、源氏はこの姫君を正妻として遇する決意を固める。

時系列の計算

 葵巻の冒頭は「世の中かはりてのち」(65頁)である。具体的な数字は示されていないが、解説は花宴巻から二年が経過したと述べる。この辺りは研究の蓄積があるので、それに従っておこう。つい先日、新潮日本古典集成第八分冊(最終巻)に物語の年表が付録になっているのを見つけたので、必要に応じて参照することにしたい。

「あふひ」とは言うものの~「葵の上」の名の由来

 私はずっと登場人物の名前の由来を気にかけながら『源氏物語』を読んでいるが、葵の上が不憫でならない。本文中ではずっと大殿とか大殿の君と呼ばれていて、後世の読者から葵の上と呼ばれるに至ったのは、この葵巻で物語の中心にいるからだ。ようやく注目を浴びるのが怨霊に祟られて絶命するときというのも可哀想だが、葵そのものは本人と無関係なのがあまりにもひどい。重苦しい話の合間のコントのような典侍と源氏のやり取りに葵(あふひ)が読み込まれ、それが呼称として定着したことになる。衰弱した葵の上をいたわって、源氏が「いかなりとも、かならず逢ふ瀬あなれば、対面はありなむ」(86頁)と語りかけるのが、せめてもの救いである。この「逢ふ瀬」が「逢ふ日」に通じると思いたい。

懐妊のほのめかし方

 何ごとにつけあからさまな言い方を避けるのは、『源氏物語』の特徴である。遠回しに述べられていることを、読者はそれと気づかなければならない。葵の上の懐妊も、前もってあらすじを知っていなければ、気づかずに通り過ぎてしまいそうな語り方をされている。

心苦しきさまの御ここちになやみたまひて、もの心細げにおぼいたり。

葵、67-68頁

 新潮日本古典集成の頭注では「(葵の上は)おいたわしいお身体のご不調にお苦しみになって。悪阻(つわり)に苦しむこと。」と説明されている。この直前まで、源氏がいろんな女のところをほっつき歩くのは腹立たしいが、それを隠そうともしないので何を言っても無駄だ、という葵の上の不満と諦念が述べられている。そして、このくだりである。「心苦しきさま」が精神面での苦悩ではなく、妊娠の結果としての体調不良であることを、読み取れというのだ。少し先のほうに出てくる「めづらしきこと」(78頁)も懐妊を指すらしい。想像力を目一杯働かせても、私には難しかった。

ついに登場、六条御息所

 夕顔巻からその存在が見え隠れしていた六条御息所だが、ここに来てついに物語を動かす役回りとして表舞台に姿を現す。念の深さゆえに、御息所は「生霊(いきすだま)」(82頁)となって葵の上に取り憑く。
 紫式部の叙述もうまい。まず葵の上が物の怪に苦しむことを述べ、すぐさま御息所が夢のなかで葵の上に襲いかかっていることを記す。そして源氏の前で生霊が苦しさを訴えるが、その時点では御息所本人はまだ確証を得ていない。自分の召し物に芥子の香が染み込んでいて、生霊調伏の護摩を焚かれたと勘づき、源氏の返歌によってとうとう認めざるをえなくなる。段階を追っているのがよい。
 一般的にはすさまじい怨念の持ち主と見なされている六条御息所だが、葵巻を読んだ限りでは、私はこの人物のうちに憎悪よりは苦悩を読み取った。好きこのんで葵の上に祟ったというより、自分の力ではどうすることもできないまま魂がさまよい出し、そのことに恐れおののいているように見受けられる。

意外と重要な人物?

 葵巻では、断続的に三度にわたって式部卿宮の姫君(朝顔)が登場する。どうも単なる端役ではなさそうだ。頭注の説明によってこの人物が帚木巻で話題になっていたことを知ったが、全然記憶にない。読み返してみると、源氏が方違えのために紀伊守邸に行ったとき、女房たちの噂話で言及されていたのだった(第一分冊、84頁)。そんなところに伏線が仕込まれていたのか。

紫の上が示す嫌悪の情

 葵の上が亡くなり、空席となった正室(事実上の、という留保はあるが)の座には、六条御息所でもなく朝顔の姫君でもなく朧月夜の姫君でもなく、若紫が就く。女たちが相争ったというより、源氏がそのように事を運ぶ。物語の展開からして自然な流れと思ったが、新枕を交わして男女の仲になった後で紫の上が源氏を毛嫌いして寄せ付けようとしないことに、意表を突かれた。しかし、最初の衝撃が過ぎてみると、自分が汚されてしまったと感じる紫の上の心の動きは、むしろ自然なことのように見えてきた。何も分かっていない子供の段階から、自分の意志を持った大人になったのだろう。

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