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毎週一帖源氏物語 第十一週 花散里

 私は大学教員なので、あるテーマについて週に一度のペースで話すことには慣れている。「毎週一帖源氏物語」と題してnoteに連載を書くことは、講義ノートを作る作業に似ている。それでも違うところが二つある。一つは毎回の分量にばらつきがあること、もう一つは長期休暇がないことだ。
 夏休みや春休みになると、次の学期で行う授業の準備をする(今はまさにその時期だ)。さすがにすべての回の講義ノートを仕上げるには至らないが、ある程度のストックはできる。学期が始まると、少し余裕のあるときに講義ノートを書き継いで、何とか追いつかれないように頑張る。「来週の授業の準備ができていない」という自転車操業の状態は、できるだけ避けたい。最終回の講義ノートを書き上げると、その科目は半分くらい終わった気分になる。
 一学期は十数週で完結するので、それを乗り切ればひと息つける。ところが、「毎週一帖源氏物語」の連載は五十四週間休みなく続く。私はそこを甘く見ていたかもしれない。まだ二カ月半しか経っていないが、休みがないのは大変だとようやく気がついた。
 今週は花散里の巻。短い。短くてうれしい。新潮日本古典集成で五ページちょっとしかない。箸休めといったところだ。

花散里巻のあらすじ

 公私ともに思わしくないことが続くなか、源氏は麗景殿女御とその妹を思い出す。女御もまた、桐壺院没後は寂しく暮らしている。五月雨の晴れ間、源氏はその邸を訪ねようとして、途中の中川のあたりで琴の音を耳にする。そこは一度だけ逢ったことのある女の家だった。折しも、郭公(ほととぎす)が鳴いていて、立ち寄れと誘っているかのようだ。源氏は惟光を使いに立てて歌を届けるが、相手は分からぬふりをする。強いて寄ることは源氏としてもためらわれ、この女が五節の舞姫に選ばれたことを思い返すばかりである。
 麗景殿女御とは、昔のことを語り合ってしんみりした気分になる。すると、先ほどの郭公が自分の跡を追ってきたように鳴く。橘の花の香りを慕っているようでもある。源氏と麗景殿女御は歌を交わす。寝殿の西側の部屋には、妹君がいる。源氏はこちらにも渡り、あれこれと語らう。

花は橘

 巻名は花散里であり、何らかの花が散る情景が思い浮かぶが、ここでいう花とは橘であった。散ると言えば桜という思い込みがあっただけに、意外の念に打たれる。源氏は

橘の香をなつかしみ郭公(ほととぎす)
  花散里をたづねてぞとふ

花散里、196頁

と麗景殿女御に詠みかける。頭注は、「五月(さつき)待つ花橘の香をかげば昔の人の袖の香ぞする」(『古今集』巻三夏、読人しらず)と「橘の花散里の郭公片恋しつつ鳴く日しぞ多き」(『古今六帖』六、時鳥、大伴大納言。『万葉集』巻八)の二首を引く。『角川必携古語辞典全訳版』の項目「たちばな」でも、橘は「懐旧の念を起こさせるもの」と述べる。そういう含意があると知れば、橘の花こそこの場面で散るのにふさわしいと思う。

郭公はカッコウではなくホトトギス

 「郭公」と書いて「ほととぎす」と読む。「かっこう」ではない。種としては近いが、ホトトギスとカッコウは別の鳥である。鳴き声も違う。では、カッコウにはどんな漢字を当てていたのだろうか。調べてみたところ、私の疑問を解消してくれそうな「「ほととぎす」をめぐって」という記事を見つけた。執筆者の吉海直人・同志社女子大学教授によると、「少なくとも平安時代において、「かっこう」は文学に全く登場していない」そうだ。「現代では「郭公」に二つの読み(意味)がありますが、古典では「ほととぎす」という読みしかなかった」とのことである。古語辞典にも「くわくこう」という見出しは立てられていない。
 なるほど、と納得しかけたが、やはり何か釈然としない。「郭公」は「カッコウ」という鳴き声を漢字表記したものではないのか。カッコウを意味する「郭公」が転じてホトトギスを指すようになった、というなら分かる。しかし、日本文学史では逆の道筋を辿ったことになる。
 こういうときに頼りになるのが、『日本国語大辞典』(小学館)である。手許にある第二版で「かっこう」を引いてみよう。すると、語義の①として現在のカッコウを、②として現在のホトトギスを挙げている。そのうえで「語誌」を以下のように掲げる。

中国では①を指す語として用いられているが、日本では平安初期の「新撰万葉」「新撰字鏡」などが、「ほととぎす」に「郭公鳥」「郭公」などの字をあてており、長く「ほととぎす」を表記する語として用いられてきた。「かっこう」を「郭公」と表記するようになるのは近代に入ってからである。

『日本国語大辞典』第二版、項目「かっこう」

 やはり「郭公」の原義は「カッコウ」であって、それが日本の平安期には「ホトトギス」を指す語として転用され、近代になって日本でも原義で用いられるようになったのだ。疑問が氷解してすっきりした。疑問が氷解してすっきりした。

中川のほど

 源氏は麗景殿女御の邸に向かう途次、中川のあたりで昔の女の家に気がつく(「中川のほどおはし過ぐるに、ささやかなる家の」(194頁))。この地名が初めて登場したのは、帚木巻だった。紀伊守が住んでいるところだ。源氏は方違えのために出向き、そこで空蝉を見かけたのだった。ということは、花散里巻で知らぬ素振りをした女と源氏が知り合ったのは、空蝉に逢おうとして果たせなかったときかもしれない。そんな想像も働く。

ここでも頭出しのみ

 後に花散里の名前で呼ばれることになるのは、麗景殿女御の妹(「御おとうとの三の君」(193頁))である。しかし、この巻では源氏と歌を交わすわけでもなく、存在感に乏しい。そして、私も少し学習したが、こういう人に限って物語の鍵を握っていたりするのだ。覚えておこう。

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