見出し画像

毎週一帖源氏物語 第七週 紅葉賀

 私の手許にある新潮日本古典集成〈新装版〉の『源氏物語』は、第一分冊も第二分冊も「平成二十六年十月三十日発行」である(十年近く前だ)。ところが、第一分冊は「令和三年三月十五日 四刷」であるのに対して、第二分冊のほうには増刷の記述がない。張り切って一冊目を買ったものの、続けられなかった人がたくさんいたわけだ。長篇にはよくあることで仕方がないが、それでもせめて二刷くらいにはなっていてほしかった。古本屋で第一分冊だけ売られているかもしれず、とりあえずそれを手に取って原文に挑戦してみるのもよいのではないだろうか。

紅葉賀巻のあらすじ

 朱雀院(上皇御所)への行幸は、十月十日過ぎに行われることになっていた。見物に出向けない妃たちのために、帝の取り計らいで試楽(予行演習)がなされた。源氏が披露した青海波(せいがいは)はことのほか見事で、手放しで称賛するわけにはいかない藤壺も、翌朝に源氏から届いた和歌に返答せざるをえない。行幸当日も源氏の舞は素晴らしく、正三位に昇進する。
 大殿の姫君との仲は、依然としてしっくり来ない。理由の一端は、源氏が誰かを二条の院に引き取ったという話が伝わったためでもある。少女はますます源氏になつく。
 藤壺の出産は、周囲の予想より大幅に遅れている。「二月十余日のほどに、男御子(をとこみこ)生まれたまひぬれば」(24頁)、宮中は喜びに沸く。しかし、皇子は源氏に「めづらかなるまで写し取りたまへるさま」であり(25頁)、藤壺は恐れおののく。四月になって源氏も若宮の顔を拝して、胸を締めつけられる。帝は何も気づいていない。
 宮仕えする女房のなかに「年いたう老いたる典侍(ないしのすけ)」(34頁)という者がおり、年甲斐もなく色を好む。源氏が軽い気持ちで誘いかけてみると、相手は本気になって食らいつく。何かにつけて源氏への対抗心を示す頭中将も、負けじと典侍に接近する。ついに、源氏が典侍と一緒にいるところへ頭中将が不意を突き、もみ合った末にお互いの直衣の袖が切れるという一幕があった。二人ともこの出来事は言い触らさないと示し合わせるが、頭中将はいざという時の脅迫材料にしてやろう(「さるべきをりのおどしぐさにせむ」(43頁))と思っている。
 七月、藤壺は中宮となり、源氏は宰相(参議)になる。帝はそのうち譲位し、若宮を春宮(東宮)に立てようと考え始めている。

巻名の読み方

 「紅葉賀」と書いて「もみぢのが(もみじのが)」と読む。こんなことをわざわざ書いたのは、私自身がこの三文字をどう読めばよいか、ふりがなを見るまで分からなかったからだ。だが、よく考えてみれば、これまでの巻名にも読み方の難しいものはあった。「帚木」の「帚」は、常用漢字ではない。「空蝉」の「空」の字は、音読みなら「クウ」、訓読みなら「そら」や「から」が普通で、単独で「うつ」と読むことはない。最初のほうの巻は馴染みがあるから読める、というだけのことだろう。ちなみに「総角」に関してネタが一つあるのだが(私は宇治育ちだ)、覚えていたらそのときに書こう。

密通の結果――男系主義への挑戦か?

 源氏と藤壺の密通によって生まれた皇子は、公式には帝と藤壺のあいだにできたことになっている。この皇子は春宮に立てられ、いずれ帝として即位する。天皇の実子でない人物が天皇になるのだ。事件である。皇位の男系継承という原則が揺らぐ。
 『源氏物語』の設定では、桐壺帝の息子が光源氏で、さらにその息子が冷泉帝である。だから、冷泉帝は桐壺帝の男系の孫ということになり、男系継承は守られている。しかし、それは藤壺の密通相手が源氏だったからであって、誰か別の人(たとえば頭中将)と姦通していれば血統は絶える。通い婚が一般的な時代なのだから、その手の危険は常にあったと考えるべきではないだろうか。
 こんなことを書いてしまって、紫式部は大丈夫だったのだろうか。物語だからお咎めなしで済んだ、とも考えられる。しかし、帝の実子であるかどうかという事実にはそもそも何の意味もなくて、「そう思われている」ことが――それだけが――重要だったのかもしれない。

源氏に対する頭中将の対抗心

 紅葉賀巻で最も大きな出来事は皇子の誕生だが、巻を通じて響いているのは、頭中将が源氏に示す対抗心である。客観的に見れば、両者の優劣は明白だ。試楽の青海波で源氏の相手を務めた頭中将は、「容貌(かたち)、用意、人にはことなるを、立ち並びては、なほ花のかたはらの深山木(みやまぎ)なり」(11頁)。他の人々よりは秀でているが、源氏と並ぶと見劣りがする、ということだ。しかし、本人は引けを取らないつもりでいる。「この中将は、さらにおし消(け)たれきこえじと、はかなきことにつけても、思ひいどみきこえたまふ」(43頁)。源氏は帝の子だが、自分だって左大臣と内親王の子だ、という自負がある。桐壺更衣の身分がそれほど高くないことを考えれば、高貴さの度合いは自分のほうがむしろ上だと思っていてもおかしくない。
 年が違いすぎれば、本気で張り合うことはないだろう。ここで気になるのは、頭中将と源氏の年齢差である。葵の上は源氏より「四年(よとせ)ばかりがこのかみ」(22頁)、つまり四つ年長という設定だ。そして、頭中将は葵の上と同腹のきょうだいで、本文では中将から見た葵の上のことを「妹の君」(43頁)と書いている。普通に考えれば、頭中将が兄で葵の上が(現代語の意味での)妹である。しかし、平安時代の「妹」は年下の女きょうだいを指すとは限らない。つまり、頭中将は葵の上の兄ではなく、弟かもしれないのだ。兄であれば、頭中将は源氏より五つか六つ(あるいはもう少し)年長になる。弟なら、せいぜい二つ年長というところだろう(さすがに源氏より年下とは考えにくい)。弟と考えたほうが、頭中将の対抗心は説明がつきやすい。もっとも、私がここで記したことは現代の常識的な感覚を当てはめたものにすぎないので、専門的見地からすると一刀両断にされるかもしれない。

老女

 典侍は老女とされている。どのくらいか分からないまま読み進めていると、「五十七八」(40頁)という具体的な数字が出て来て驚いた。直後に源氏と頭中将を指して「二十(はたち)の若人たち」(同)とあり、親子以上の差である。若紫の祖母の尼君が四十過ぎであったことと比べても、典侍の老齢と、それに似合わぬ好色ぶりが強調されている。今なら元気で結構なことだと思うが。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?