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▼哲頭 ⇔ 綴美▲(14枚目とミヒャエル・エンデ)

(哲学を美で表現するとしたら?美を哲学で解釈するとしたら?そんな思いをコラムにしたくなった。自分の作品も含めた、哲学と美の関係を探究する試み。)

【記事累積:1770本目、連続投稿:750日目】
<探究対象…哲学、美、創作、写実主義、想像力、エンデ>

今日の1枚は、学生2年の後半にペイント機能で作った絵である。当時の自分がこの絵につけたタイトルは『いつか見た景色』であった。なぜ当時の自分はこのようなタイトルにしたのだろうか、そしてこの絵からどのような思想を読み取ることができるのだろうか、今日はそんな考察をしてみようと思う。【課題の設定】

絵の様子について簡単に観察してみると、背景は黒。その中にたくさんの細長い図形が散りばめられている。図形の配置はランダムに見える。それぞれ長方形としてのヨコ幅とタテ幅そして始点と終点はバラバラであるが、すべてが垂直方向と水平方向の秩序は守っていて、斜めに変化しているものはない。そして図形の色は黄色やピンク色もないわけではないが、全体として寒色寄りで、パステルカラーのものも少なくない。【情報の収集】

またかつて自分が作成した12枚の絵をカレンダーの各月を彩るものと見立てたとき、この絵は「6月」の絵にしていた。この絵が6月として使われていることもこの絵を解釈するための貴重な情報である。【情報の収集】

日本において6月というと「梅雨」の季節というイメージがある。当時、一度も海外に行ったことがない私にとって、6月という季節に対する認識は、生まれ育った北海道または学生時代を過ごした関東と強く結びついていると考えるのが自然である。そのような季節のイメージと絵の図形を重ね合わせてみたとき、長方形がヨコ幅の広がりよりも、タテ幅の伸びが強調されていることから、これらの図形が「雨」を表現していると考えることができるのである。【整理・分析】

また背景が真っ黒であることから、この図形が雨を表現しているという前提に基づけば、この絵は日中の雨ではなくて夜に降る雨について表現しているように考えることができる。しかし夜は暗いので、日中のように降ってくる雨を目で捉えることは難しくなる。そのとき雨の存在がそこにあることを気づかせてくれるものの一つが、夜の街を彩るネオンである。そのネオンの輝きが時折、何か異質なものによって邪魔されることがある。そうして私たちがネオンの輝きに一種の違和感を覚えるとき、直接的ではないとしても、雨の存在感のようなものを受け取っているのである。【整理・分析】

しかし雨を表現したいのならば、もっと直接的に表現することができるはずだが、この絵は幾何学図形を雨に見立てている。【情報の収集】

「”ほのかな暗示”という、この演劇形式の基本要素は、観客の知性と感受性と創造的な想像力とを、当然としてあてにしている。こうして能は観客に最高の敬意を表するのだ。」
これはドイツの児童文学作家であるミヒャエル・エンデの言葉である。【情報の収集】

エンデによれば「ほのかな暗示」のような直接的に相手に伝えない表現は、受け取る側の知性や想像力の助けを借りて、その不完全性を補っているのである。私は絵を描くのは小さい頃から大好きだったが、自分の技術と努力の不足によって、写実的に表現しようとして描いたはずの自分の絵の至らなさ・不完全さといったものにいつも苦々しい思いを抱いていた。そのため、自分がいかに雨を表現しようとしても、実際の世界に及ばないことが如実に表れてしまう写実主義では限界があると考え、あえて幾何学図形を用いてそれを雨に見立てたと考えられる。そうすれば、実際の雨との写実性の不足・不完全さを受け取る側に追及されることはなくなる。それどころか、受け取る側の知性や想像力のおかげで、自分が本物の雨のように描くよりもよっぽどリアルな雨のイメージを受け取る側の頭の中に作り出すことができるのである。【整理・分析】

ここから、当時の自分がこの絵によって表現したかったのは、そんな梅雨の季節の夜に降る雨の姿だったといえる。そして自分が持っている写実化の技術の至らなさを自覚し、それを幾何学図形によって代替させていた。一見すると実際の雨から遠ざかっているように思える景色だが、タイトルで想定していた「いつか見た景色」は、視覚的な刺激から直接受け取ってもらうものではなく、あくまでも絵はきっかけで、受け取る側それぞれの知識・想像力さらには個々人の過去の思い出などと組み合わせてもらい、脳内に再構成してもらう景色だったと考えられる。【まとめ・表現】

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