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★我楽多だらけの製哲書(11)★~母校へ恩返しをしようと思った矢先に受けた戒めとドラッカー~

今の自分があるのは、自分と関わってくれて支えてくれた全ての人や環境であるのは間違いない。
その中でも、自分のアイデンティティーを形成する上で欠かせないのが、自分の高校時代である。

大学も中学も当然のことながら「母校」なのだが、自分が最も「母校」という言葉で表現したときにしっくりとはまるのは高校なのである。

愛校心についても、やはり高校に対するものが最も強い。

そんな母校に対して抱いていた思いがある。
故郷ならぬ母校に錦を飾るというものである。
高校時代、私は決して突出した存在ではなかった。
おそらく多くの先生は私のことは覚えていないだろう。
私は勉学にしても生活にしても悪くはないが良くもない、つまりは凡庸であった。
先生を困らせるような鋭さなどを持っていたならば、優れた成果によって覚えられずとも、先生たちの記憶に残るものであるが、私はそのような鋭さを微塵も持っていなかった。

そして高校時代、勉学や生活で優れた成果を見せて輝いている同級生、鋭さによって存在感を持っていた同級生に憧れていたが、そのような者にはなれない自分に劣等感を持ち続けていた。

SNSというものは、かつての同級生たちとつながることができる便利な道具ではあるが、反面、私のような存在には残酷な道具でもある。こうして社会人として20年近く働いていると、その同級生たちの活躍がリアルタイムでSNS上に投稿される。そして、そのような眩いばかりの活躍によって、かつての劣等感が再生産されてしまう。SNSを使わなければいいと言われそうだが、自分にとっても大切な表現の場、自己分析の場なので、どうしても同級生の活躍が目に飛び込んでくる。

もちろん劣等感の渦中に留まっておこうという気持ちではなく、何とか自分もそこに活躍の足跡を残したいと思って足掻いてはいた。しかし、自分がSNSに綴るものは所詮は自己満足・自己陶酔の産物でしかなく、そんなガラクタばかりが積みあがっている状態は、余計に自分の劣等感を助長させるもののように思えて、虚しさだけが大きくなっていた。

だが最近になってようやく書籍を出版することができ、公的な足跡を残すこととなった。そして長年夢見ていたことは、母校のホームページの同窓生著作本コーナーや、同窓会のホームページの函館ラ・サール高校同窓生著作リスト“知の集積”に、自分の作品を掲載してもらうことであった。

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現在のように探究学習の本を出版することができたのは、母校での学びの影響が大きい。母校での学びは、もちろん大学受験に向けた学びもあったが、現在でいえば探究学習の先駆けと言えるような学びが至る所にあったと感じている。

学園祭の基本方針を数カ月かけて作り上げる、基本方針に従って公募で決まる毎年のテーマとクラス企画の連関について重ねられる議論、お化け屋敷で模擬店のようなものは既存の価値であってそのような「消費的な楽しみ」とは異なる「生産的な楽しみ」という概念によって提案しなければならないクラス企画、授業の大半は哲学についての話だったり芥川賞の作品の書評だったりするが名目上は古文の授業、いきなりスペイン語の勉強が始まって定期考査でもそれが出題される英会話の授業、教科書の作品を読解する際に既存の概念に当てはめず生徒が開発した新しい呼称の概念も一つの正解と捉えた国語の授業など、母校の学びには探究学習が散りばめられていたと私は感じているし、それによって私の探究的視野は大いに鍛えられた。

「重要なことは、正しい答えを見つけることではない。正しい問いを探すことである。」

これはユダヤ系オーストリア人の経営学者として、経営学に関する多くの著書を残したピーター・ファーディナンド・ドラッカーの言葉である。テストなどにおいて、正しい答えを見つける活動はもちろん大切なことであるし、知識を問われる場面では、正しい答えを示さねばならないだろう。しかし、そのような活動だけが学びの形であると考えてしまうと、思考は収縮していってしまう。正しいとされる一つの答えに向かうことを、一斉に多くの人がしているということは、その全員が同じ答えに行きつくわけであって、その活動の中に、一人一人の個別性・唯一性のようなものを見出すことは難しい。

探究学習はそれとは異なる方向性を持つ学びといえる。ある出来事を解決しようとする際に、自分なりの問題意識や着眼点によって、その出来事を分析し、解決策としての答えを出していくことが探究学習の一側面だと思うが、確かに最終的には答えを出しているが、大切なことは出した「答え」というよりも、どのような問題意識・着眼点を自分なりに持って思考を始めたかという「問い」の部分なのである。

そのような問題意識・着眼点は一人一人の内側から湧き上がるものであり、そこに個別性・唯一性を確認することができる。そして、自分にとって特別な活動となるため、興味・関心が高まった学びとなる。

そのように自分の探究的視野を鍛えてくれた母校の学びに対して、恩返しといってはおこがましいが、感謝の印として同窓会に本の出版報告を行い、製本されたものを学校に郵送した。そうして、お世話になった様々な人に出版報告をして、出版直後は誇らしげになっていた自分だったが、その後、繰り返し戒めを受けている。

以前から同窓生著作リスト“知の集積”を何度か見ていたのだが、たくさんの作品を世に送り出し、リストにもそれらの作品が所狭しと記載されている先輩がいる。12期の今野敏さんである。『寮生』を筆頭に様々なミステリー小説を手掛けている今野さんである。去年、探究学習の本の1冊目(厳密には、Vol.1とVol.2と小学生版の3冊)を出版したとき、私は今野さんの『棲月 -隠蔽捜査7-』の車内広告を偶然目にして、スマホで撮影していた。

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そのときは、「たった一冊を出版しただけで“知の集積”と思うなかれ。」
そんな戒めをいただいた気分であった。

そして引き続き精進し、今年の9月に、4冊目の出版をすることができた。今回もお世話になった方へ郵送したり、同窓会に出版報告をしたりさせていただいた。だが、やはり自分の中に巣くう、「慢心」という名の悪い虫が出てきそうだったのだろう。

10月初めにテレビを見ているとき、再びの戒めが私の目に飛び込んできたのである。テレビの番組表の画面には、今野さんの作品のドラマが示されていた。

「四冊程度を出版しただけで“知の集積”と思うなかれ。」
私の修行は続く。

#哲学 #探究学習 #ドラッカー #今野敏

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