優生思想はなぜダメなのか。アスペが綺麗事や自己正当化抜きに考えてみた



はじめに(読み飛ばして頂いて全然OKです)


 なぜ日本国や自由主義諸国は、我々をドロップアウトさせてくれる制度を作ってくれないのか(こんな所まで他人任せで情けない限りです)、毎日不自由なことばかりで周囲に迷惑かけてばかり、自分自身もつらい毎日。同類の発達障害者も、人に迷惑かけてばかりで見ていて気分が悪いし、私自身も同じ発達者連中にいろいろ不快な思いをさせられました。
 人権や多様性なんて所詮綺麗事じゃないか、本当に優生思想って感情論抜きに否定できるのかと思い、自分なりに資料を探してみました。

「優秀」って何? 恒久的な基準は?

 人類は、未だに何をもって「優秀」とするのか結論も出せていないので、次の時代に「優秀」と持て囃されるかもしれない人間を葬り去るのは危険、ということになるみたいです。

 優秀さを測る物差しは無限にありますね。
 たとえば、力がすべての世の中なら(私の地元がまぁそんな街ですが)なりふり構わぬゴロツキが「優秀」ということになりますし、急速に工業化・都市化が進む世の中なら、私のようなチー牛おとなしく従順な人間が重宝され、研究立国なら、1つのことに異常に執着するアスペが持て囃されます。
 結局、優秀さの定義さえも、人類はまだできていないようなのです。

単一的な遺伝子を残そうとすると

 消極的優生思想(無能は子孫を残すな、滅びろ、という考え方)を政策に取り入れれば、タイプの違う人間は排除され、ほぼひとつのタイプの人間のみ結婚・出産が許されるわけですが、そうして単一的な遺伝子ばかり残すと、障害持った人が生まれやすくなるそうです。
 優生思想者連中が最も嫌う我々障害者は、他ならぬ優生思想の政策で生まれやすくなるなんて、なんとも皮肉ですね。優生思想者も無様なもんです。

そもそも優生思想を推し進めた、かの指導者は

 みなさんもご存知の通り、お世辞にも優秀とは言えない男でしたね。勉学では落ちこぼれ、少し人気取りが上手く行ったからって、何を勘違いしていたのでしょう。
 人様を優秀か無能かと傲慢に品評する前に、まず自分自身を品評すればって話ですし、これは彼に限ったことではなく、現代の文化人や政治家の中で、消極的優生思想を振りかざす連中にも言えることだと思います。
 優生思想を編み出した学者を責めることは私にはできません。科学者ならではの悩みや葛藤はあったのだと思います。
 とはいえ、かの指導者や、彼のような思想にかぶれた連中に限っては、結局コンプレックスの裏返しで暴走していたようにしか見えません。

おわりに

 以上が、綺麗事抜きに消極的優生思想の欠陥を指摘できる根拠になると思います。
 無能な人間を見て腹が立つ気持ちはよく分かります。
 私も「この俺を理解しろ!」「社会にまぜろ!」などと、多様性だの何だのを振りかざす発達障害者には強く疑問を感じます。優秀な人の足引っ張らないよう、ひっそり暮らし、嫌になれば人生をドロップアウトできるような国家運営を目指せるように、微力ながら政治家を選んでいきたいものです。

 また、優生思想の理屈は単純明快な分、私のような偏差値の低い人間もなびいてしまう危険性は大いにあります。それを利用して私利私欲に誘導する悪辣な政治家(たとえば、生活保護のような最後の砦を削って、知り合いの会社を儲けさせるような奴等)もいますから、気をつけたい所です。

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