「明日死んでもいいように生きなさい」について。

「明日死んでもいいように生きなさい」という言葉について。

こんなポジティブな言葉があるけれども、僕はポジティブでもネガティブでもない、あるがままの言葉として「明日死んでもいいように生きる」と思っている。

っというのも、ポジティブな言葉だと捉えた時、極論を言うと「明日死ぬかもしれないんだから自分の好きな事を頑張れ」っと言っている。
なんでも揃ってるこの時代に「明日死ぬかも」なんて現実的じゃないし、昭和時代の若者のように出世や、一発逆転のアメリカンドリームのような夢を持ってる奴なんてなかなかいない。
だって暮らすに困ってないもん。

何だか分からない健康食品に、健康体を手に入れるための運動施設。
医療が発達し、平均寿命も伸びに伸び、自分が「いつ死ぬか?」なんて年が7〜80になるか、難病、重病でも患わなきゃ思いもしない考え。
自分が何かに、誰かに生かされてるとも気づかずに、退屈を踏み潰して、感謝を踏み潰して、厚顔無恥を晒して道のど真ん中を歩く。
欲しいか欲しくないかも知らずに流行に乗り、社会の常識の波に乗り、支払いに追われていつの間にか寿命が来て死んでいく。
死ぬ間際に大事なモノに気付いてあたふたしてもdead end。

そこで「いつ死んでもいいように生きなさい」っという言葉を僕は目の前の誰かに投げかけたい。
ポジティブな言葉でもネガティヴな言葉でもなく、ただ「あるがまま」に生きようよ。っと。

本当にそれ必要ですか?

その両手いっぱいに持ってる物もモノも、あちこちにいる知り合いや友人も、あなたは本当にそれが必要なの?

ミニマリストを気取るつもりはないけど、本当に必要な物は割と少ない。

今を生き、必死に物や人を追い、それを手にした途端また次のものを追いかける。
どれだけ何かを手に入れても、死んだら終わり。有名人も著名人も普通の人も死んだら焼かれて灰になるだけ。土に還るだけ。
天上には何も持っていけない。

自分自身、この考えを考えた時に、考えすぎて良いところで行きどまらず、掘りに掘ってまっ暗い地下まで行ってしまって「それって、もう何もかも要らなくねぇ?」っと一種の投げやりというか、全部が嫌になった。
でもね、、、それでも僕は明日死んでもいいように今を生きたい。

僕は基本的に否定はしません。
っというか、個人的に誰かの人生の善悪を判断するのは傍観者気取ってあーだこーだ言いながら勝手にできるけど、それでも、どんな人生も有りだと思いたい。
だって僕自身が社会が決めたレールから外れてるもの。
流行を追いかける人生も、好きな物を追いかける人生も、のんびりゆっくり生きてく人生も、チンピラな人生も、本人がそれを「自覚」し、それでいいと思っているのならそれでいい。
いや、「自覚」してなくても、それがその人の人生なんだったらそれでいい。

ただ、何を言いたいのかと言うと、今を生きている事に苦しい思いや辛い思いをして生きているのなら、少し顔をあげて周りを見渡し、自分にとって何が必要で何が不必要なのか考えてみればいい。
要らない荷物は背中から下ろしちゃっていいし、辛けりゃ仕事だろうが学校だろうが休めばいいし辞めればいい。
不義理と言われようが、誰に何と言われようが、朝もう今すぐ目の前の電車に車に飛び込む想像しかできなくなったら、その背中に背負ってるもん全部放り投げてしまえ!

明日はいつだって来るよ。

それが幸せな日か不幸な日か、健康な日か、自分が死ぬ日なのかは誰にも明日になってみないと分からないけど。

辛いまま死にたいですか?

しんどいまま死にたいですか?

重たい荷物を背負ったまま死にたいですか?

ってな終わり方をするとヤバい宗教みたいですな(´°̥̥̥̥̥̥̥̥ω°̥̥̥̥̥̥̥̥`)

どーせ宗教っぽくなるのなら可愛く皆が自分の幸福にたどり着けるようにくろこちゃん教にしよう。。。。危ない思考は止めとこ(๑˃̵ᴗ˂̵)

まぁ、僕は好き勝手、傍観者気取りで、誰かが読んでくれてるのか、読んでくれてないのかさへも知らずにブログに自分の思考を誰かに届けと落とし込んでる、三畳間の部屋でパソコンの前に座ってブログを書いてる神様気取りってとこかしら。

三畳間の神様というタイトルでくろこちゃん漫画を描きたいとちょいちょいアイデアは描きとめてるけど、まだ、作品にするほどには至ってないなぁ。

乙。

#エッセイ

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?