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大河コラムについて思ふ事~『光る君へ』第7回~

2月中旬になりました。気温も暖かくなり梅の花が咲き始め、春ももうすぐです。
まだまだ昼夜の寒暖差が激しい日々ですので皆様健康には充分お気を付けください。
さて、光る君へ第7回。
今週も『武将ジャパン』大河ドラマコラムについて書かせていただきます。
太字が何かを見たさんの言質です。
御手隙の方に読んでいただければと思います。それでは。


・初めに

>颯爽と馬を操り、巧みにバランスを取りながら杖をぶん回す――
>見事な「打球」を披露したかと思ったら、ロッカールームで姫様たちをネタにしたゲストーク炸裂。
『打毬』に使う道具は杖ではなく『毬杖』です。

毬杖
https://kotobank.jp/word/%E6%AF%AC%E6%9D%96-51090

打毬(だきゅう)』は白・赤2組(各4騎~10騎)で行われる競技で競技者は乗馬して地上に置かれた自軍の色の毬を先に網の付いた『毬杖(きゅうじょう)』と言われるスティックで掬い『毬門(きゅうもん)』と言われるゴールに入れる競技です。
勝負が決し、白が勝利した場合は鐘、赤が勝利した場合は太鼓が連打されます。

打毬図
中尾松榮 万延元年(1860年)
和歌山市立博物館
『光る君へ』より

打毬が終わり、雨が降ってきたため協議に参加した殿方は控所で着替え中。
藤原公任卿と藤原斉信卿が女性の優劣や良し悪しなどを批評していますが、『ゲストーク』ではなく平安時代なのだから『品定め』とでも言えませんか。
『源氏物語』2帖「帚木」での源氏の君や頭中将を中心とした『雨夜の品定め』のオマージュでしょう。

>藤原忯子の亡骸に抱きつき、その死を悼む花山天皇。
>あまりに儚い愛でした。
寛和元年(985年)7月、花山帝から深い寵愛を受けた弘徽殿女御・藤原忯子さまがわずか17歳で身籠っていた赤子と共にお隠れになりました。
花山帝は烏帽子や冠もお付けにならず、急ぎ忯子さまの元へ駆けつけられましたが、女官たちに必死で止められ弘徽殿にお近づきになられる事も許されませんでした。
最愛の女御を亡くし帝は寝所で、忯子さまが入内された時の秘め事の様にその手を縛った『野筋(几帳に垂らされた黒と紅の飾り紐)を握りしめ、悲嘆に暮れられています。
『死は汚れと考えられていたこの時代、帝をはじめ貴族たちは遺体に近づく事が出来なかった』とナレーションが入ります。
何見氏の言うような『藤原忯子の亡骸に抱きつき、その死を悼む花山天皇。』の場面がどこにあったか是非に提示してくださるといいのですが。(そのような場面ありません)
『延喜式』では死穢に触れれば30日『不浄』として神社への参拝・神事などへの参加、参内が禁じられます。
内裏に住まい、宮中祭祀を司る清浄な帝を死穢に触れさせる事は女官たちもできなかったのだと思いますが。

『光る君へ』より
『光る君へ』より

余談ですが、穢れを怖れ帝が『死穢』に触れる事は厳しく禁じられていたと考えられていた平安時代。
平安時代末期に院政を行った白河帝(白河院)は最愛の中宮・藤原賢子(かたいこ)さまを非常に寵愛し、賢子さまが重態に陥った時も宮中の慣例に反し退出を許さず、応徳元年(1084年)賢子さまがお隠れになった際にはご遺体を抱いて号泣し、御食事も満足に取らなかったそうです。
死穢に触れてはならぬと前例が無い事を持ちだして権中納言・源俊明卿が行幸を勧めますが、白河帝は「例はこれよりこそ始まらめ(例はこれからはじまるのだ)」と反論されたそうです。

『平清盛』より
『古事談』

>私は道長様から遠ざからねばならない。そのためには何かをしなければ――
>これが本作のテーマでもあるのでしょう。
>新たに発表されたビジュアルは、まひろと道長が隣り合いながらも視線が合わない「二人」。
>そしてまひろが熱心に書きつける「書」です。
まひろさんは館で上弦の月を見上げ、『道長さまから遠ざからねばならない。そのため何かをしなければ」と考えていました。
『まひろと道長が隣り合いながらも視線が合わない』と言うよりも、まひろさんと道長卿は寄り添っていますが背中合わせであり、まひろさんは少し上に目線をやって先を見ていますが道長卿は反対側を見つつも視線が少しまひろさん側を見ている様にも見えます。

『光る君へ』より
『光る君へ』より

・人を殺めることの是非?

>貴族たちの邸宅に潜入し、盗みを働いた盗賊団は、野原に衣服を置き、民衆たちに分け与えます。
まひろさんが館で夜空を見ていた頃、盗賊団が窃盗してきた衣などを葦の茂る河原に置き、指笛を吹くと近隣に住む民が「お天道様のお恵みだ」と盗品に群がり喜びの声を上げます。
その盗賊団の中には直秀もいました。
因みに栃木県フィルムコミッションさんによるとこの場面のロケ地は小山市の鬼怒川河川敷なのだそうです。

>金目のものや食糧ではなく、なぜ衣服なのか?と思われるかもしれません。
>当時の盗賊はそれが定番。
>服を盗まれて全裸で怯えていた女房の記録も残されています。
>屋内ならばまだしも、屋外で脱がされると季節によっては凍死の危険性すらあった。
>小判を盗む鼠小僧より、ずっと原始的な時代なのです。
『壬生本“非西宮記”検非違使雑事事』にある『長徳2年(996年)12月17日可着釱左右獄囚贓事』という史料に10世紀の『獄囚贓物(ごくしゅうのぞうもつ=洛中で窃盗で捕まった人とその盗品についての記録)』があるそうです。
『着釱政(ちゃくだのまつりごと)』とは、5月と12月のうち1日を選び、窃盗犯などの囚人に『釱(かなぎ)』という首枷を付け、衆人の中に連行し見せしめのために検非違使が鞭打つ真似をした公事です。
儀式化して江戸時代まで存続しました。

この史料は、検非違使が捕縛した19人の強盗犯、4人の窃盗犯の調書です。
主な盗品はこちらでした。

・綿、絹、布、綾などの反物
・単衣などの着物になった織物
・櫛箱、鏡、念珠などの工芸品
・弓、矢を入れる胡ろく(「竹」かんむりに禄)、太刀などの武器 
・馬、牛などの動物
・麦、稲、米、籾などの食品

『壬生本“非西宮記”検非違使雑事事』

これらの盗品の価格が検非違使庁に回収された後、公定評価額が付けられ、価値がひと目で分かるのだそうです。
和銅元年(708年)に『和同開珎』が作られた後、それ以降に『皇朝十二銭』といわれる11種の貨幣が鋳造されます。
天徳2年(958年)の『乾元大宝』を最後に日本は貨幣を製造することをやめ、中国から輸入した貨幣を使用していました。
平安時代、貨幣は穴開き銭といわれる小額通貨を束ねて使用していたので贋金や沽価(売値)の低い唐宋銭が混ざりインフレを招き、さらに新貨の発行ごとに行われるデノミネーション(通貨単位を切り下げて新しい貨幣単位に改める事)による市場混乱、銭を溶かす『破銭』行為で朝廷の貨幣発行への信用が失墜し物々交換で経済が回る事が多く、盗品も信用が無い国の公鋳銅貨よりも物品が多かったのでしょう。
花山帝は永観2年(985年)に『禁破銭令』を発布しましたが不作による物価上昇や銅銭の価値変動が激しかったようです。

>これまで猪や鳥は射た、狩りは幾度も行った、けれども人となると……
>そう困惑する道長に、宗近は盗賊は猪や鳥より下だと言い切ります。
直秀を弓矢で射た道長卿は、宿直のために詰める兵衛府の詰所で人を射た感触に呆然としていました。
同僚の宗近が「狩で猪や鳥を射たことはあるだろう。」と尋ねます。
道長卿は狩りには何度も行っており、猪や鳥も射ています。
矢の刺さる手ごたえを感じながらも、人を射抜き気が晴れず困惑している道長卿に「相手は盗賊、猪や鳥より下だ。心の臓を射抜いておれば今頃は死んでいる、お見事でござった」と宗近が言います。

『光る君へ』より

平安期以後、中世では天災や戦乱などで荘園を追われたり離れたりした流亡民が河原の原則非課税の土地に居住する様になります。
彼らは『河原人』といわれ、零細な農耕を営む一方で皮革生産・鳥獣屠殺・死体埋葬・清掃・細工・染色など貴族・社寺からは賤業と見なされた雑業や芸能などを業としていました。
盗賊団も兼ねる散楽一座も芸能を生業とする『河原者』の様な賤しい身分のため、人でありながら人の扱いを受けない賎民だったのでしょう。

>毒矢かどうか心配されていますが、貴族は用いないとのこと。
>実践的な由来よりも、神話や精神的な制約があるのでしょう。
神話や精神的な制約』とは何でしょうか。
具体的に書かなければ分からないと思います。
矢を左腕に受けた直秀は仲間の手当てを受けています。
熱が出始めたため、毒矢なのではないかと心配する者もいますが、直秀は「あいつらは貴族だ。毒矢は使わない。」と言います。
毒矢とは、鏃に様々な毒を塗り、敵の身体に接したときの殺傷力を高めた矢です。
『安斎随筆』という江戸中期の有識故実家・伊勢貞丈が記した書物には、『蕃椒(ばんしょう:唐辛子)』や『毒蜘蛛』、『附子(ぶす:トリカブト)』などが使われたとあるそうです。
北海道のアイヌではトリカブト、あるいは附子を「スルク」と呼び、狩猟に用いてきました。
矢の先に塗布するほか、獣道に仕掛けた仕掛け弓『アマッポ』で獲物を捕らえました。
日本神話では磐余彦尊(いわれびこのみこと=神武天皇)の東征の際、東征に抵抗した大和地方の豪族・長髄彦(ながすねひこ)の「痛矢串」に当たり、磐余彦尊の兄・彦五瀬命(ひこいつせのみこと)が深手を負いその傷が元で死亡します。
ヤマト王権による東北征討に於いてこれに抵抗した蝦夷の人々毒矢を用いたそうです。
大和民族では『養老律令』に於いて附子を用いた暗殺への罰則規定が見られ、毒あるいは薬と理解されていたものの武器として積極的に使用されることはありませんでした。 

正倉院が成立した翌年の 757 年(天平宝字元年)に藤原仲麻呂により養老律令が施行された.養老律令には毒について の記載があり,そこには,「毒薬とは,鴆毒,冶葛,烏頭,附子の類にして人を殺すに堪ゆるものとし,これらの毒薬を 人に服用せしめ又は売る者は絞殺に處し,売買しても未だ用いざる者は近所に流罪に處す」としている

https://www.jstage.jst.go.jp/article/jjhp/56/1/56_7/_pdf/-char/ja#:~:text=%E9%A4%8A%E8%80%81%E5%BE%8B%E4%BB%A4%E3%81%AB%E3%81%AF%E6%AF%92,%E3%81%99%E3%80%8D%E3%81%A8%E3%81%97%E3%81%A6%E3%81%84%E3%82%8B3%EF%BC%89%EF%BC%8E

『天平時代の毒と薬』

天平時代の毒と薬
船山信次

『光る君へ』作中では毒矢の使用は無いものの右大臣・藤原兼家卿が円融帝に対し毒を御食事に混ぜる様次男・道兼卿に命じ、円融帝は体調を崩されたのち退位されました。
この円融院に永観2年(984年)に金創治療法を記した医書『医心方』が献上されています。
戦国期のような金創医は普及していないと思われ、綺麗な水の不足など衛生状態もよくないため傷口から細菌が入り破傷風や敗血症で命を落とす事もあったのではないでしょうか。
傷の深さや場所によって数日の間に周辺が赤く腫れて痛んだり熱を持つなどしていたのは『炎症』を起こした状態だったのではないでしょうか。
これは、傷を治そうとして皮膚の細胞や血管がはたらく正常な生体反応として起こる場合もありますが、細菌に感染して起こる場合もあります。

『光る君へ』より
『光る君へ』より

>下々の者は笑って忘れたいものがある。
>そう考えを巡らせています。
>まひろは考えることで忘れたいのです。
まひろさんは『おかしきことこそ』について考えています。
かつて代筆業の仲介をやっていた絵師は『おかしき者にこそ魂は宿る』と言い、直秀は、『下々の世界ではおかしきことこそめでたけれ。』と言っていました。

・祟りが怖いか? そりゃ怖い!?

>安倍晴明には彼なりの政治を為すという意識があるのです。
>何もかも見通すような晴明に、兼家がもったいぶっていると戸惑う兼家です。

安倍晴明公は兼家卿に呼ばれ、従者の須麻流さんを伴い東三条殿にいます。
「詫びることはないのか」と兼家卿が問います。
兼家卿は「腹の子を呪詛する様に言った。しかし、女御さまのお命まで奪えとは言うてはおらぬ。やり過ぎだ。」と晴明公を責めています。
しかし晴明公は「腹の子が死すれば皇子の誕生はなくなり、女御様もろとも死すれば帝は政を投げ出されるか、再び女にうつつを抜かされるかで、どちらにしても右大臣様には吉と出ます。この国にも吉兆です。」と反論します。
「長い言い訳じゃのう」と言う兼家卿に対し、さらに晴明公は「いずれお分かりになると思いますが、私を侮れば、右大臣様御一族とて危うくなります。」と言います。
「ほう」と相槌を打つ兼家卿。
晴明公は「政をなすは人、安倍晴明の仕事は政をなす人の命運をも操ります。」と断言します。
兼家卿は「お前の仕事は財のため、前からお見通しだわ。褒美が足りないならそう申せ。」と言い、退室します。
『兼家がもったいぶっていると戸惑う兼家』とはどういう意味でしょうか。
この文脈ではもったいぶっているのが兼家卿で兼家卿自身がそれに戸惑っているように見えます。
兼家卿は晴明公に『蓄財のために仕事を引き受けているんだろう。褒美が欲しいなら申せ』と言っているのですが。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

>道長に念押ししながら晴明に聞かせるように、人の命をあやつり奪うのは卑き者の仕業であると圧力をかける兼家。
兼家卿が部屋を出ると道長卿が宿直から帰ってきました。
兼家卿は宿直だった道長卿を労い、「盗賊と渡り合った事で頼もしくなった」と褒めます。
そして「されど人は殺めるな。人の命を握り奪うは卑しき者のする事だ。」と晴明公に当て付ける様に道長卿に言います。
また自ら人を手に掛け、穢れ役として生きるしかない道兼卿をも思い起こさせます。

『光る君へ』より
『光る君へ』より

道長卿は部屋から出て来た晴明公に、父の非礼を詫びます。
「お送りする」と言う道長卿。
晴明公は「道長さま。私はお父上とのこういうやり取りが楽しくてならないのです。」と笑みを浮かべます。
そして見送りを断り須麻流さんと去って行きました。

『光る君へ』より
『光る君へ』より

>晴明からすれば、妊婦が亡くなるくらい想定内といえるかもしれない。
>どんな呪詛をしたのかわかるのは晴明だけですから。
>けれども兼家は怯えている。
>その怯えに漬け込み、裏の裏をかき、操ることは確かに楽しい。
>相手は祟りが怖いから手出しもできない。
>そりゃあ楽しいでしょうね。
兼家卿から見れば陰陽師は官人であり、晴明公がかなりの術者だと言う事を知っています。
詮子さまを入内させた際も円融帝に入内した頼忠卿の子女・遵子さまに先を越されぬ様、晴明公に「お子ができぬように致せ」と呪詛を依頼した経緯があります。
そして今度は花山帝を廃し奉り、外孫である東宮さま(懐仁親王)を帝位に就け、幼少の帝の外祖父として実権を握ったうえで后がねとして育てた一族の子女を入内させる目的で帝の血筋を断つためにお腹の子を呪詛をしろと命じます。
公卿の総意だと脅し褒美で釣ろうとする兼家卿に晴明公は「畏れ多くも帝のお子を呪詛し奉るとなれば我が命も削らねばなりません。我が命が終わればこの国の未来も閉ざされましょう」と言いました。
術者も依頼者も何倍もの影響があり死の危険があると呪詛返しを仄めかしていたのです。
その後、女御・藤原忯子さままでがお腹の子と一緒に亡くなってしまい、「話が違う、やり過ぎだ」と苦情を入れます。
しかし晴明公は、『人を呪わば穴二つ』と言う様に『自分は常に味方ではない。その気になれば右大臣家一族の命運すらもその手に握る事ができる』と疑心暗鬼の芽を芽生えさせ、『呪詛の相手が亡くなっても呪詛を頼んだ側にも罪がある。廃そうとした側から恨まれいつか報いがくる』と認識してもらおうとしたのでしょう。
『お父上とのこういうやり取りが楽しくてならない』と言う晴明公は星を読み吉凶を占い暦を作る官人陰陽師であると同時に巧みに人の心を縛り操る人心把握の達人でもあったのではないでしょうか。

・臆病な兼家?

>当時の寧子は『蜻蛉日記』の筆を置いて十年以上が経過していました。
>もう愛欲もない。
>ドライでサバサバした人生を送っています。
>兼家は当然のことながら若い妾もいるけれど、敢えてここは慣れ親しんだ寧子で! ってのは、これはもう完全に甘えでしょうよ。
その夜、兼家卿は寧子さま(右大将道夫綱母)の屋敷に通い閨を共にしています。
『蜻蛉日記』は兼家卿との結婚生活や正妻である時姫さまとの競争、夫に次々とできる妻妾のため嘆きつつ一人寝する夜の寂しさ、他の女性が子を産んだと聞き嫉妬する姿、我が子・道綱卿の成長、兼家卿の旧妻の娘を養女にした話などが天延2年(974年) 39歳の大晦日まで描かれています。
すでに正妻の時子さまは亡く、一夫多妻で通い婚のため興味が薄れ通わなくなればそれまでの関係である平安時代。
他の女性との間に、次々と子供を作る兼家卿は一時寧子さまの許に通わなくなりました。
しかし晩年になり兼家卿が寧子さまの許へ通う事は続いており、正妻の子たちの前で見せる政治的立ち回りとは違う素顔を出せる甘えられる場だったのではないでしょうか。
『完全に甘え』で何が悪いのでしょうか。
6回作中の姫君サロンの場面でもありましたが、『蜻蛉日記』はすでに完結しており、『殿御に顧みられなかった女子の嘆きを綴ったもの』であり、『前書きにも「身分の高い男に愛された女の思い出の記」とある』と語られていました。
国文学者・今西祐一郎氏は『蜻蛉日記』は兼家卿の和歌を多数収めており、兼家の協力を得て書いた宣伝の書ではないかという説を唱えています。

はい、何の関係もありませんねー。
>うろたえている相手につけ込み、我が子を頼み込んでいるだけです。

兼家卿は、うなされて目を覚まし寧子さまの名を呼び起こします。
『いかがされました?』と尋ねる寧子さまに対し、「恐ろしい夢を見た。呪われている。俺は院にも帝にも死んだ女御にも呪われている」と怯え縋ってくる兼家卿。
寧子さまは背中をさすり「道綱、道綱・・・大丈夫、大丈夫。」と励まします。
そして寧子さまは「道綱の事をお願いします」と言います。
「怖い夢と道綱に何の関係があるのか」と訝しむ兼家卿に寧子さまは「よいではございませぬか、殿のお子ですよ、道綱も」と言います。
道綱卿は本来兼家卿の次男に当たり、陽気な性格で『蜻蛉日記』では「大人し過ぎるおっとりとした性格である」とあります。
しかし、正妻・時姫さまとの子である道隆卿、道兼卿、道長卿と庶子である道綱卿を同列に扱うことはできず、兼家卿は「時姫を母とする三人と同じとは思わない様、法外な夢を抱かず控えめにしておれ」と暗に出世の高望みはしない様線引きをしていました。
なので寧子さまは大きな後ろ盾があるうちにと兼家卿が通ってくるたび「道綱をよろしく」と我が子道綱卿の将来を頼んでいるのでしょう。
我が子の将来についてできるだけ便宜を図ってほしいと頼み込む親心に対して『うろたえている相手につけ込み』とは。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

>彼女は若い頃、悶々としていた頃よりも、今が一番楽しいのかもしれませんよ。
>なんという勝ち組女性でしょうか。
>自分を散々弄んだクズ男が「ぴえん」しながら甘えてくる。
>耐え忍んだ甲斐がありますね。
『蜻蛉日記』は『殿御に顧みられなかった女子の嘆きを綴ったもの』ではありますが、夫への嘆きや次々できる女性への嫉妬などと合わせて我が子・道綱卿の成長なども綴られており、ひたすら道綱卿の将来を思い、兼家卿に力添えを頼む母として描かれていると思います。
たまたま呪詛の関係で心理的に弱った状態である兼家卿を存分に甘えさせている場面ではありますが、夫を見下し『自分を散々弄んだクズ男』などと勝ち誇っている様子は見当たりませんが。

・狐に福を頼み込む猿ども?

>狐に騙されて馬糞まで頭に乗せる猿を見れば、そりゃおかしくなりますよね。
ある日、まひろさんは散楽一座に会いに行きます。
直秀の腕の怪我を見て「どうしたのか」と尋ねます。
「猿だって木から落ちるんだ」と答える直秀にまひろさんは「それでしょげているのね」と言います。
そして、まひろさんは「笑える話を考えてきたから聞いて」といいます。
「誰も頼んでない」とツッコむ直秀に構わずまひろさんは『右大臣家の一族は猿の顔をしており、神のフリをしている狐に福をくれとすり寄る』という『狐に騙される猿たち』の話をします。
この話は早速風刺劇に取り入れられ、辻での散楽で披露されます。
藤の首飾(藤原氏の家紋は藤の花)を付けた4匹の猿は「福をくれ! 福をくれ!」と『宝珠』が描かれた扇子を持った狐の周りをうろうろします。
猿は『福』のためなら何でもやるため、狐の言葉に唆され馬糞を頭に乗せるように命じられます。
「唐の国では頭に乗せると皇帝にも劣らぬ力を得ると謂れる。運が上がるぞ」と狐が煽ります。
見物人たちは風刺劇を面白がり、普段仏頂面の直秀もまひろさんの方を向いて笑っています。
芝居は続き、狐に翻弄された猿たちは馬糞を頭に乗せ笑顔になっているのでした。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

>これも漢籍を読みこなすまひろらしい話です。
>「虎の威を借る狐」のように、漢籍は動物を用いたたとえ話が多いもの。
>そして「狐」は安倍晴明だと読み解けるところもポイントです。

虎の威を借る狐
『戦国策‐楚策』に見える寓話より
虎が狐を捕まえた時、狐が「自分は天帝から命じられた百獣の王である」と嘘をつき、「その証拠に今、お前の前を歩いて見せてやる」と言って、本当は後ろにいる虎を恐れて獣たちが逃げたのを、まるで自分の力のように見せかけたという。

意味:力のない者が、強い者の権威を頼みにして威張る事の例え

『戦国策‐楚策』
出典 ことわざを知る辞典

風刺劇は狐(安倍晴明公)の言葉を鵜吞みにしてありがたがり、とんでもない行動に出てしまう猿(藤原氏・右大臣家一族)という話です。
実際の右大臣家と晴明公は依頼を受け報酬を貰うという対等関係です。
そして風刺劇では右大臣と言う公卿でもNO3の地位にある権力者である猿(藤原氏)が陰陽師である狐(晴明公)に『福』を授けてもらうためご機嫌を取っている図式になります。
権力者(虎)の威を借る弱者(狐)の構図とは立場が逆だと思います。

>安倍晴明は、母が狐の「葛の葉」だいう伝説があります。
>狐が人間に化ける説話は中国にもあり、それが日本に伝わったと考えられます。
>あまりに不可思議な存在ゆえに、そんな伝説が生まれたのでしょう。
『だいう伝説』は『だという伝説』でしょうか。
狐が人間に化ける説話は中国にもありとはどんな説話でしょうか。
書くならリンクなり具体例も提示した方がいいと思います。
具体例だと『白面金毛九尾の狐』は顔は白く金色の毛並で九つの尾を持つ妖狐で、中国では殷の紂王の后・妲己や西周の幽王の后・褒姒(ほうじ)、天竺(インド)では班足王の后・華陽夫人、日本では鳥羽院の后・玉藻前に化けて人々の前に現れ世を乱します。
また玉藻前は陰陽師にその正体を明らかにされ下野国・那須に逃げ込み、朝廷の命を受けた三浦義明公・上総広常公・千葉常胤公など坂東武者らによって討たれ『殺生石』に姿を変え、邪気を出し続けたと言います。

『那須野原殺生石之図』新形三十六怪撰
月岡芳年

『葛の葉物語』は、『信太妻』とも呼ばれ、文学・歌舞伎・浄瑠璃・文楽・瞽女唄(ごぜうた)などの芸能ジャンルで取り上げられてきました。
江戸時代、竹田出雲作の『芦屋道満大内鑑』が歌舞伎で大ヒットし、特に『葛の葉子別れの段』は有名で多くの人々に愛好されてきました。
物語は、村上帝の御代(946年-967年)。
摂津国・信太の森に住む白狐が葛の葉と言う女性に化け安倍保名(あべのやすな)と契り童子を設けるが、その正体を我が子に知られ「恋しくば たづね来てみよ いづみなる しのだの森の うらみ葛の葉」の歌を残し、森へ帰っていくというものです。
やがて童子は成長し陰陽師で天文博士・安倍晴明公となり活躍が描かれます。

信太森葛葉稲荷神社所蔵

>ちなみに「化け狸」伝説は日本特有です。
『化け狸』に関しては『大河コラムについて思ふ事~『どうする家康』48回』で書きましたのでスクショを貼っておきます。
このとき何見氏は家康さまが『狡猾でおそろしい狸』と比喩され畏れられるようになったことに対し、言葉を額面通り取り『狸はしょせん雑食。恐ろしいわけがない。妖怪狸だってせいぜい、ぶんぶく茶釜ですよね。』と比喩さえ通じない状態でしたが。

大河コラムについて思ふ事~
『どうする家康』48回
武将ジャパン
『どうする家康』48回

>ややこしいことに「狸」は中国では猫の古い呼び方で、タヌキは「狢」と書きます。
田中優生氏の『阿波藍商人が伝えた狸文化 ──大阪・木更津への伝播をめぐって──』という論文によると、『狸(り)』はもともと中国ではヤマネコを中心とした中型哺乳類の総称であったそうです。
中国で1596年に発刊された李時珍著『本草綱目』ではジャコウネコ科の仲間を「貍」と表していると考えられています。
現代中国では『貛(Huan)』はアナグマ類、『貉(He)』がタヌキ、『狸(Li)』がジャコウネコ科一般を表しているそうです。

阿波藍商人が伝えた狸文化 ──大阪・木更津への伝播をめぐって──
田中優生
https://kansai-u.repo.nii.ac.jp/records/19629
file:///C:/Users/User/Downloads/KU-1100-20130731-04.pdf

阿波藍商人が伝えた狸文化 ──大阪・木更津への伝播をめぐって──
田中優生

『江戸時代の本草書に垣間見える、たぬき・むじな事件の源流』
浅原正和(京都大学霊長類研究所)
http://www.toothedplatypus.com/Asahara_Tanuki2014

『江戸時代の本草書に垣間見える、たぬき・むじな事件の源流』 浅原正和

『狸(リ)』は中国ではヤマネコの総称でしたが、日本にはヤマネコに相当する動物がいないため古代から中世にかけタヌキ、野良猫、猪、アナグマ、イタチ、ムササビなどの動物が文献によってまちまちに『狸』という漢字に当てはめられたと見られています。
『日本霊異記』では『狸』の文字が猫の意味で使われています。
10世紀初頭に編纂された博物書『本草和名』には、『家狸(かり)、一名猫(いちめいみょう) 和名禰古末(ねこま)』とあります。
『狸』は野生の猫で『家狸』は家猫なのだそうです。

『画図百鬼夜行』鳥山石燕
『狸』

・義懐の孤軍奮闘、花山天皇の嘆き

>花山天皇はうんざりしたように、やはり義懐は嫌いなのか?と力を落とすしかない。
>義懐は、仕事はできても、人身掌握が苦手なようです。
>そういう意味では為時もそうでしょう。
洛中の辻で散楽が盛り上がっている頃、宮中では。
花山帝の側近・義懐卿は寛和元年(985年)には従二位権中納言に叙任されるなど急速に昇進しており、花山帝の外戚として政治を領導する様になっていました。
義懐卿が陣定(じんのさだめ)に出席するため退席しています。
『陣定』とは平安時代摂関期の朝議の形式のひとつで、現代の「閣議」のようなものです。
左右近衛府の陣に公卿の座を設定し、大臣以下の公卿と四位の参議以上の議政官が出席して外交・財政・叙位・受領任命・改元などの重要な政務が審議されました。
為時公と二人きりになり、最愛の女御を失った帝はすっかりお気を落とされ脇息に凭れたまま、為時公に足を摩る様に命じます。
玉体(帝のお身体)に触れる事になるため躊躇う為時公に「足がだるい。摩れ。朕が許す。」と帝が仰います。
なおも躊躇う為時公に帝は「もうよい」と言い、「義懐が嫌いだろう?」とお尋ねになります。
為時公は慌てて否定しますが、何もかも義懐卿に任せる事については異を唱えます。
「信用できるのはお前とあいつしかいない、他は皆右大臣家繋がりだ」と帝は仰います。
「朕を追い払えば右大臣兼家の孫(東宮・懐仁親王)が即位し、兼家が摂政になる。自分が兼家でもそうする」と不満を漏らされています。
帝は「忯子とて兼家が呪詛したのやも知れぬ」とその死を疑われています。
為時公は「東宮さまはまだ幼く、現時点での即位を望んでいるとは思えない」と言います。
さらに為時公は、「帝のお気持ちや皆が望む事を右大臣さまは義懐さまよりもずっと理解しております」と言います。
帝は「やはり義懐が嫌いなのか」と嘆かれ、亡き忯子さまに会いたがります。

『光る君へ』より

>前回、義懐は藤原斉信と藤原公任らの若手たちを酒宴でもてなしていました。
>しかし貴公子たちは、自分の胸の内を打ち明けたかった。
>酒と女ではそれが足りません。
>高階貴子はそうしたことを配慮して、夫の藤原道隆に「漢詩の会」を提案したのでしょう。
>何か表現することで胸のつかえがすっきりする。
ましてや清原元輔が掲げたお題は「酒」ときた。
>書くこととは精神にとっての酒、解放することなのでしょう。
6回コラムでも書きましたが。
義懐卿は『まず子息である若手貴族を懐柔し、父親もろとも花山帝の一派に組み込もうとという策』を画策し、実際に公任卿、斉信卿などの若手貴族を招き、女性を侍らせた酒宴を開きます。
「新しい政をなそうぞ」と義懐卿が浮かれ、帝の乳母子の惟茂卿は「頼むぞ」と積極的に懐柔に取り組んでいましたが、酒色に溺れた宴では公任卿ら若手の反応は冷めたものでした。
若者たちの心が帝と義懐一派に向かいすぎる事を危惧した道隆卿は「父・兼家の様に力で抑えつけようとすると若者の憤懣を煽るだけなので自分がうまく懐柔する策を考える」と言いました。
父・兼家卿の様な強引なやり方を絶対視せず、若手貴族を取り込み出席者の考えを知ろうとしたのです。
そして、詩や漢文に通じた才女の妻・貴子さまの「漢詩には、それを選んだ者の思いが出ると言いますでしょう?若者は学問の成果を披露する場に飢えています」と言う助言を得て漢詩の会を催します。
漢詩の会の主催者・道隆卿は無類の酒好きで知られており、主催の意向を汲んでの『酒』というお題だったのではないでしょうか。
また、この漢詩の会にはまひろさん(後の紫式部)やききょうさん(後の清少納言)といった漢籍の才のある学者の子女が出席しています。
また漢詩の会には貴子さまも出席し、道隆卿は廊下に控えていたまひろさんに公任卿の詩に対する感想を尋ね、まひろさんは「公任さまの御作は唐の白楽天の様な歌いぶり」と答えています。
ききょうさんは聞かれていなくとも「元微之のような、闊達な歌いぶり」と感想を述べていましたが。
ゆくゆく入内するであろう定子さまに付ける女房候補の裁定も兼ねていたのではないでしょうか。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

>忯子に皇后の称号を贈るかどうかの是非を巡り、公卿たちが話しています。
さて、陣定(じんのさだめ)では左大臣・源雅信卿が「帝は忯子さまに皇后の称号を贈りたいと仰せである」と議題を述べます。
花山帝が義懐卿に議題に上げる様命じていた様です。
慣習に沿って「下位の者から順に意見を述べよ」と雅信卿が言います。
上位の者が先に意見を言うと下位の者は同意するほかなくなり、下位から意見を述べるにしても意見を言いづらいという状況ですが。
そして(女御に皇后の称号を贈る事は)「先例のない事」と反対されてしまいます。
「帝の母君懐子(ちかこ)さまに『皇太后』が贈られた」と義懐卿が言いますが、これに対して『三蹟』の一人・藤原佐理(すけまさ)卿が「ただ今の義懐卿のご意見は皇太后さまの事」と意見を述べます。
義懐卿はなおも「円融院の后遵子さまは中宮。ただいま皇后の座には誰もおられない。」と忯子さまに皇后の称号を贈る正当性を述べます。
義懐卿は忯子さまの父で大納言の藤原為光卿にも意見を求めますが、為光卿は「意見は下位の者から順番に述べるもの」とはぐらかします。
為光卿を含む多数から「ありえない、難しい」と意見が出ます。
そして兼家卿の番。
兼家卿は「先例が見つかれば、よろしいかと」と言います。
余談ですが、義懐卿が「円融院の后遵子さまは中宮。ただいま皇后の座には誰もおられない。」と忯子さまに皇后の称号を贈る正当化の引き合いに出した円融院の中宮・遵子さまは正暦元年(990年)に『皇后宮』の称号を贈られています。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

・ともかくしつこい実資のぼやき?

>いや、こんな細やかな心情は、日記『小右記』に掲載だからこそ残っているんでしょう。
>そうこちらが突っ込むところまでセットになっています。

『こちらが突っ込むところまでセット』と言うのならきちんと文献の記述を紹介するのが筋ではないでしょうか。
藤原実資卿が自邸の庭で蹴鞠をしながら妻の桐子さまに愚痴を零し続けています。
「帝はいよいよおかしい。義懐ごときを重用されるとは。あいつは去年、蔵人頭になったばかりだぞ!」と昨年蔵人頭になったばかりの義懐卿の出世が早いのを憤っている様です。
定員一杯だった参議枠を帝がお増やしになり、義懐卿を入れたことが面白くなく、「いきなり参議にしている。自分は先の帝の時より蔵人頭で、そんな自分を追い越して参議になるなど、あってはならぬ」となおもぼやき続ける実資卿。
桐子さまは、夫の連日の愚痴にうんざりしている様です。
実資卿の愚痴は止まらず、「帝だけではなく、義懐が参議になった時の除目に異を唱えなかった右大臣もおかしい」と批判の矛先を右大臣・藤原兼家卿に向けます。
実資は「右大臣を好きではないが」を強調しつつ、「言うべき事はきっぱり言う筋の通った人物。そこは認めておったのに、此度はどうした?」と憤ります。
双六に興じる桐子さまは「あなた、それ私に言わないで日記に書きなさいよ。毎日毎日くどいわよあなた。もう聞き飽きたから」と諭します。
実資卿は「書くにも値しない、くだらん!」と苛立って毬を蹴っています。
実資卿は義懐卿の急激な出世に大いに不満だったようで、『小右記』寛和元年(985年) 九月十四日条には、『義懐が参議とは、奇々怪々である、公卿の定員は16人なのに19人だとは、どういう事だ、どういう事だ』と彼のぼやきが綴られています。

『小右記』 
寛和元年(985年) 九月十四日条
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

>しかしこの桐子、中島亜梨沙さんが演じる美人妻なれど、そこまで癒されないのは受け止めないからではないでしょうか。
>その点、我が子を頼みたいという自己主張をゴリ押ししつつも、やんわりと受け止めて「おーよしよしよし」とできた寧子は達人に思えてきます。
桐子さま役の中島さんを実名で名指ししてまで『美人妻だけど受けとめてくれないから癒されない』とは。
『50代のおっさんが妄想した都合のいい女』じゃないと叩けないからでしょうか。
身分の低さゆえに庶子のわきまえを求められても、右大臣家という大きな後ろ盾があるうちに『我が子・道綱卿の将来についてできるだけ便宜を図ってほしい』と頼む寧子さまさえ「おーよしよしよし」と男をやんわりと受け止めてくれる男に都合のいい女の様に言っていますが。

・道隆は道兼を受け止める?

>今年の大河ドラマはオンオフの切り替えを意識しているとか。
>くつろいでいる時はそのリラックス感を出したいそうです。
それはどこからの情報でしょうか。
論拠があるのならきちんと情報のリンクを貼るなりしてはいかがでしょうか。
ステラnetの井浦さんへのインタビューによると、『俳優としてはとても仲良く、風通しのいい関係なのに、ドラマでは家族・兄弟で妬みあっているシーンを演じているので、カットがかかった瞬間「悲しいねえ」と言い合う場面も(笑)。そんな切ない気持ちを押し殺しながら、兄弟間で足をひっぱり合う芝居をしています。』とあります。

>「玉山(ぎょくざん)崩る」という言葉があります。
>『世説新語』由来で、イケメンで有名だった嵆康(けいこう)が酔ってグラグラしていると、まるで貴石の山が崩れてくるような美しさがあったという言葉です。
>道隆は、まさしくこの言葉を体現しています。美しい!

山崩る
『世説新語』容止

意訳:「玉山」は、珠玉のとれる山から転じて、容姿のあでやかな事。
容貌の立派な人が、酒に酔いつぶれる事のたとえ

「世説新語」容止

義懐卿の出世に不満を持っている者が右大臣家にもいました。
道兼卿は義懐卿が、兄・道隆卿を飛び越えて参議になった事に不満を洩らします。
道隆卿は気にしておらず、いずれ父の時代ひいては自分たちの世が来ると見ています。
道隆卿は「父上に無理をさせられて疲れておらぬか?」と道兼卿を気遣っています。
「お前は気が回る、その分父上にいいように使われる、そうではないか」と道兼卿に言います。
道隆卿は道兼卿に酒を注いでやり、「わしは分かっておる故お前を置いてはゆかぬ。」と言い、道兼卿は兄の言葉に涙を流します。
兄弟の語らいの場に現れた貴子さまは夫と目配せをし、何も言わずその場を後にします。
井浦さん曰く『道隆像は、芸術文化をこよなく愛する大酒飲み。そして、妻・高階貴子をずっと愛し続けて、本当にいい夫婦だったと思います。それは史料にも残されているところなので、ドラマの中でもしっかりと描写されているのはうれしいです。』『道隆のこだわりはとにかく家を守ること。父上から学んだ「家を守る」という家族への愛を表現していくことが、僕が道隆に捧げられる芝居なんじゃないかと思っています。』と言っています。
あと、6回でも言いましたが、添付されている記事リンクに『なぜ藤原道隆は弟の道長に権力の座を奪われたのか?』とありますが中関白家(道隆卿の一族系譜)が道長卿との権力抗争に負けるのは道隆卿の没後です。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

・貴公子たち、打毱を企画する?

>F4たちが投壺(とうこ)をしています。
>壺に矢を投げる中国由来のゲームで、韓国でも人気があり「トゥホ」ゲームセットが輸入販売されているほど。
投壺(とうこ)は中国の宴席余興用の余興用の遊戯です。
『礼記』によると、一つの壺に交互に矢を投げ入れ,入った矢の数の多少で勝負を決します。
競技は1回に交互に4本の矢を投げ,それを3回繰り返し,負けた者は罰酒を飲むのだそうです。
朝鮮半島にも百済、高句麗の時代に伝わり、『トゥホ』として韓国ではお正月の伝統的な遊びとして今に伝えられているそうです。
日本では奈良時代に伝来し、奈良朝の貴族が遊んだと思われる投壺の道具が正倉院に残されています。
その後の投壺に関する記録は残っておらず、江戸時代、天明・寛政(1781~1801)のころ民間で流行したものは、壺をはさんで等距離に向かいあい、その地点から矢を投じて壺への入り方や数で点数を競い『つぼうち』『つぼなげ』とい呼ばれました。
投扇興のルーツにもなりましたが、現在はほとんど行われなくなっています。

精選版 日本国語大辞典
『投壺』
『明宣宗行楽図』より投壺の図

F4が投壺を楽しんでいます。
藤原斉信卿は公任卿、行成卿、道長卿に「忯子が死んだのは、あんな帝のところに入内したからだ」と怒りをあらわにしています。
「父も自分も不承知だったのに義懐がしつこく来て、帝の望みを叶えてくれと頭を下げたために根負けして入内させてしまった」のだそうです。
忯子さまに心動かされた帝は彼女を女御にする事を望まれました。
義懐卿の正室は忯子さまの実姉で、帝は義懐卿に義父・為光卿の説得をお命じになり、娘婿の必死の懇願に折れた為光卿が忯子さまの入内を決めたという経緯がありました。
しかし、妊娠8ヵ月の忯子さまは17歳でお腹の子と共に亡くなりました。
「止めておけば、あの若さで死ぬこともなかった」と斉信卿が言います。
臥せる忯子さまに「兄・斉信は使える男、帝の尊き政には兄のような若い力がなくてはならないのだ」と帝に囁いてくれと頼み込んでいたのは斉信卿自身だったのですが。

『光る君へ』より

斉信卿に公任卿は「身罷られる前に、偉くして貰っておけばよかったな」遠慮なく言葉を投げます。
「そんな事どうでもよい」と斉信卿に言われ、公任卿が「すまぬ」と詫びます。
道長卿は壺に矢を投げながら、「入内は女子を決して幸せにしないと信じている」と言い、行成も同意します。
行成卿は祖父・伊尹卿が亡くなり父・義孝卿も21歳の若さで亡くなってしまったため、漢学に造詣の深い外祖父・源保光卿の庇護を受けて育ちます。
道長卿は姉で円融帝の女御・詮子さまの事もあるので余計にそう思うのかもしれません。
平安時代は母方の身分重視で権力が強く、年頃の姫君を入内させ子を産む事を望みます。
が、亡くなってしまい斉信卿は妹君の後ろ盾という出世の糸口を失ってしまったのでしょう。
斉信卿は「しけた話ばかりでは忯子は浮かばれぬ」と言い、打毬の試合を開催する事を提案します。

『光る君へ』より
『光る君へ』より

・襲われてしまう、不謹慎な散楽一座?

>百舌彦が気になっていたことを聞き出します。
>それはまひろに届けた文のこと。
>返事がないということは……
>そうおずおずと切り出します。
東三条殿に戻る帰路の道長卿主従。
馬の口を取る百舌彦さんが「ずーっと気になっていた」とまひろさんに届けた恋文について話し始めます。
「あれ、駄目だったんでございますか?」と主に尋ねる百舌彦さん。
「お答えになりたくなければ宜しゅうございます」と言う百舌彦さんに「随分昔の事だな」と答える道長卿。
百舌彦さんは「あの、あちらの従者(乙丸))が頼りなげだったので、きちんと渡っていたかどうかを確かめてまいりましょうか」と言う百舌彦さんに道長卿は「もうよい。・・・振られた」と諦めがちに言います。
「大臣家の若君を、どういう気持ちで振るのでございましょうねえー・・・」と言う百舌彦さんに道長卿は「そうだなあ・・・」と馬上で腕を組み考えています。
なんだかピアノが流れる劇伴も切なく感じます。
百舌彦さんの「あれ、駄目だったんでございますか?」は気にしていた事を道長卿にそのままズバリ訊いている感じでおずおずと切り出す様子でもなく信頼関係のある主従の何気ない会話でしたが。
主が視線を横にずらし、口をなかなか開かないのでこれ以上聞いてはいけないという風に「お答えになりたくなければ宜しゅうございます」と一旦話を切ったのではないでしょうか。
そして、「あちらの従者(乙丸)がきちんと文をまひろさんに渡していないのではないか」と主を気遣っているのではないでしょうか。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

>それぐらい当時の恋文の遅延は命懸けのうえ、従者がアクシデントでなくすこともあったのだから、なかなか恐ろしいものです。
>現代人の既読スルーどころじゃない破壊力かもしれない。
何見氏がここで『源氏物語』の落葉宮の話を出していますので紹介します。

『源氏物語』39帖「夕霧」
落葉の宮は源氏の君の異母兄・朱雀帝の第二皇女(女二宮)で母は朱雀帝の更衣・一条御息所。
内大臣(頭中将)の長男・柏木のもとに降嫁します。
しかし、柏木は源氏の君の妻になっていた落葉宮の妹・女三宮との密通の末身籠らせてしまいます。(後の薫)
柏木は病になり源氏の君の長男・夕霧に落葉宮の事を託し他界します。
柏木の遺言に従い落葉宮の所に通う夕霧でしたが、やがて恋心を抱き始めます。
落葉宮の母・一条御息所の見舞いを口実に小野の山荘を訪れ、折からの霧にかこつけて宮に宿を求めるが落葉宮は拒み続け夜が明けてしまいます。
一条御息所は夕霧の真意を量るため文を送ります。
その文は夕霧の妻・雲居の雁に奪われ隠してしまったため、夕霧からの返事はなかなか来ず、やがて訪問もなくなり落胆した一条御息所は悲嘆のあまりに死去します。
母の死で落葉宮はひどく悲しみ、夕霧を恨んでますます拒むようになります。

『源氏物語』39帖「夕霧」あらすじ

さて、道長卿の文と落葉宮の母・一条御息所の文の比較ですが。
道長卿の恋文は百舌彦さんによって乙丸に渡され、まひろさんに届きますが『神の斎垣を越えて貴方に逢いたい』という歌を読んだものの返事を書く様子はありません。
女性に贈る求婚の文は殿方の教養とセンスをアピールするものです。
陸奥紙(みちのくがみ)と呼ばれる紙に和歌を書き、木の小枝に結んで届けるのが一般的でした。
もし少しでも脈があれば女性からの返事がありますが、失礼にならないよう気を遣う事はあっても侍女や両親の代筆や積極的ではない内容のものが大半だったそうです。

落葉宮の母・一条御息所の文は恋文ではなく、『柏木の遺言に沿って娘である落葉宮の許に通うも恋心を抱き始めた夕霧の真意』を量るための文です。
39帖「夕霧」では『かしこよりまた御文あり。心知らぬ人しも取り入れて、大将殿より少将の君にとて御使ひありと言ふぞ、またわびしきや。(「あちらからまた文が参りました。」と事情を知らない女房が受け取り、「大将殿から、少将の君にと言って、お使者があります」と言うのが、また辛いことであるよ)』とあるので、使いの女房は主(夕霧)にきちんと相手の文を渡しています。
しかし『女君もの隔てたるやうなれど、いと疾く見つけたまうて、はひ寄りて、御後ろより取りたまうつ(女君、物を隔てていたようであるが、とてもすばやくお見つけになって、這い寄って、殿の後ろから取り上げなさなった。)』とあり、一条御息所の文は夕霧の妻・雲居の雁に取り上げられ返ってきません。
翌朝、ようやく文を見つけ、夕霧は文に認められた歌を見て「宮を弄んだ」と誤解された事を悟り『うるはしき心に思して、まづ、この御返りを聞こえたまふ。(几帳面な性格から判断なさって、まずは、このお返事を差し上げなさる。)』と返事を認めますが、返事が遅れた事で(一昼夜タイムラグがある)心労から亡くなってしまいます。
『従者は夕霧にきちんと文を渡したが、雲居の雁に文を奪われたため返事が遅れ、もともと病を得ていたが心労も重なった事での悲劇』です。
既読スルーでもなく夕霧は一条御息所への返事を認めています。

国宝 『源氏物語絵巻』夕霧
五島美術館所蔵

>笑わせようと思ってここまで火力が高い話を考えてしまうとは。
>もしかしたらこの件は、祟りに怯えている兼家が怒り狂ったためでは?ということも想像できますね。
東三条院から右大臣家の武者たちが出て来て道長卿に一礼し、走って行きます。
散楽一座の藤原氏への中傷が過ぎる事に怒り、懲らしめようと出て行ったようです。
道長卿は慌てて武士たちの後を追います。
余談ですが、この頃清和源氏後裔である源満仲公の一族は安和2年(969年)の安和の変で謀反の密告をした事で藤原摂関家に仕えます。
清和源氏は摂津に土着し、住吉大社の神託により多田盆地(現在の兵庫県川西市多田)を所領とし多くの郎党を養い武士団を形成し始めました。(『今昔物語集』)
この源光仲公は酒呑童子討伐で有名な源頼光公の父で、後に鎌倉幕府を開く源氏の重宝・『髭切』と『膝丸』の2腰の刀剣を作らせた人でもあります。’(『平家物語』)

辻では藤原氏の武士たちが『東三条殿の者』と名乗り、散楽をやめさせようとして一座の者と乱闘になっています。
道長卿も名乗り、争いをやめさせようとしますがそこへ検非違使が駆け付けてきます。
放免はそこにいたまひろさんと乙丸を見て、「お前あの時の」と殴りかかってきます。
乙丸が体を張ってまひろさんを守りますが放免に殴られ、伸びてしまいました。

『光る君へ』より
『光る君へ』より

連行されかけるまひろさんの危機に道長卿が駆け付け、放免を殴りつけます。
そして殴られて伸びたままの乙丸を残してまひろさんの手を引きます。
道長卿とまひろさんは廃屋に逃げ込みました。道長卿はまひろさんの手首を掴んでいたのに気が付き手を離します。
「みんなに笑ってほしかっただけなのに・・・」とまひろさん。
「私があの散楽を考えたの」と打ち明けます。
道長卿は「俺たちを笑いものにする散楽をか?」と言いますが、「俺も見たかったな」と言います。
道長卿は自分の御家である『右大臣家』を揶揄する散楽に怒る様子はなく、民が苦しい暮らしや政情不安を笑い飛ばす風刺を「おかしきもの」として見ている余裕があるのでしょう。
そして狐の姿のままの直秀と置いて行かれた乙丸がやってきます。
直秀は「邪魔したか」と言葉をかけます。
乙丸は「姫様、ひどいじゃないですか。私を置いて・・・」と言い、まひろさんが謝ります。
「帰りましょう」と乙丸が言い、まひろさんは一礼してその場を去ります。
直秀は「お前の従者は無事だ」と告げます。
道長卿は「警固の者が乱暴を働いてすまなかった」と詫びますが、直秀は「お前の一族は下の下だな」と答えます。
道長卿は「全くだ」と認めるしかありません。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

・為時、間者を辞める?

>まひろはホッとしています。
>ようやく正しいことをする父に戻ったと安堵しているのでしょう。
>しかし宣孝は「黙れ」といい、次の東宮が即位したら右大臣の世になるのに、東三条から離れてどうするのかと訴える。
>それでも父は正しいとまひろは言う。
東三条殿では兼家卿が鶏に餌をやりながら、為時公に帝の様子について尋ねています。
「日々お気持ちが弱られている」と為時公が答えます。
「それだけか」と兼家卿に言われ、「今日は一日伏せっておいでだった」と為時公が続けます。
為時公がさっぱり注進に来なかったため兼家卿は訝しんでいますが、為時公は間者として帝の様子を知らせるのが心苦しい様子で「右大臣様のご恩は生涯忘れない」と間者の役目を下がろうとしていました。
為時公が「帝は私のことを心から信じておられます。これ以上帝を騙し続けることはお許しを」と懇願します。
「そんなに苦しいとは知らなかった、長い間苦労をかけた」と兼家卿が為時公の肩に手をやり労い、「これまでといたそう」と言います。
為時公は邸内へ戻る兼家卿の背中に一礼し下がります。
花山帝は憔悴しきっており、出家を仄めかしていたともいわれます。
為時公の肩を叩き暗に退職を促された様にも見えるこの場面、右大臣家との繋ぎは無くなるためもし花山帝が退位されれば再び散位(官位はあっても無職)となる可能性があり、一抹の不安がありますが。

『光る君へ』より

為時公が自邸に戻るといとさんが藤原宣孝公の来訪を告げます。
「ちょうどよかった、よい知らせがある」と為時公が言います。
「兼家様の間者をやめるぞ」と宣孝公に切り出し、「右大臣様もこれを認めて労ってくれた、ほっとした。これからはまっすぐな気持ちで帝にお仕えできる」と為時公は晴れやかな表情です。
しかし、宣孝公は「右大臣さまが、一度掴んだ者をそうあっさりと手放すとは思えぬ」と懐疑的です。
まひろさんは「右大臣様の手を離れられてよかったと思う」とほっとしています。
宣孝公は「黙れ」と一喝し、「次の帝は右大臣様の御孫君だぞ。右大臣様側にいないでどうする。今から東三条殿に行って取り消して来い」と厳しい表情になっています。
「何を怒っておるのだ」と為時公は怪訝な表情を浮かべています。
宣孝公は「東宮さまがご即位の時に、官職を解かれてもいいのか」と訴えます。
まひろさんは「それでも父上の判断は正しい」と言います。

『光る君へ』より

宣孝公から見れば為時公はまひろさんの言う様な『正しいことをする父』と言うよりも、漢籍に通じた学者であり世渡りの上手くない男の印象のため、自分の正しい道を行きすぎ、時勢を読めない不器用さが職を失い困窮する基になると考えているのでしょう。
もちろんまひろさんは父の漢籍指導の影響を受けていますし、『母の無残な死』を病死とまげて忘れろとまで言い右大臣家に阿るしかなかった為時公に心の隅でもやもやがあったのではないでしょうか。

>いとも「もう昔のような苦しい暮らしは嫌だ」として、くどくど訴えてきます。
>いくらなんでも、厚かましいようにも思えますが、この邸には妻もいないし、為時にとっては妻のような存在なのかもしれません。
父上の判断は正しい」と言うまひろさんに、いとさんは「姫様はお忘れですか、私はもう昔の様な侘しい暮らしは嫌でございます」と言い、為時公にも「東三条殿にお詫びに行ってくださいませ」と懇願します。
さらにいとさんが「右大臣家の後ろ盾がなければ若様だってどうなるか。どうか右大臣様の間者でいてくださいませ」と涙を流し、為時公もまひろさんも黙りこむしかありません。
いとさんが『昔の様な侘しい暮らしは嫌だ』と言うのはまひろさんに言った言葉一回きりです。
「右大臣家の後ろ盾がなければ若様だってどうなるか」と言いますが、これは惟規さまの乳母の立場からすれば後ろ盾のない下級貴族では彼が苦労すると思っての事でしょう。
何見氏が『くどくど訴えてくる』『厚かましい』と鬱陶しがるのは使用人なのに正しい事をしている主人に口答えをしていると思っているからでしょうか。
いとさんはまひろさんの弟・惟規さまの乳母です。
いとさんは乳母として家事に係わり、為時公の叙任が無い事で困窮し家を修繕したり使用人を雇う余裕もなく北の方であるちやはさまの苦労を見てきたのでもうこれ以上の苦労はしたくないのでしょう。
平安時代での乳母は母親に代わり育児をする女性で、皇族・貴族・武家などや裕福な家では身分の高い女性が育児のような雑事を自分ですべきではないという考えやしっかりとした家柄の女性に任せるという教育上の理由から母親に代わって乳を与える乳母を召し使いました。
乳母(めのと)の家は養育係の意味もあり乳離れした後も夫婦で傅役として養育に当たる事もあり、乳母の子供は「乳母子(めのとご)」「乳兄弟(ちきょうだい)」と呼ばれ縁故を通じて台頭したり格別な絆で結ばれる事がありました。
『鎌倉殿の13人』では源頼朝公・源頼家公の乳母(めのと)の家として比企家が絶大な権力を持つ様子が描かれました。

『光る君へ』より

・打毱を見ましょう?

>誘われたと笑い合う姫君たち。
>ちょっとまひろを憐れむように、誘われているのか?と聞いています。
(中略)
>そこへやってきた赤染衛門が「うるさい、はしたないことこの上ない」と苛立っています。
>しかし倫子はいつものマイペースで、赤染衛門にも行きましょうと微笑む。
>うふふふ、うふふ。
>そう笑いあい、すっかり楽しみにしている姫たちです。
>なんでしょうか、この陽キャの祭りは。
>まひろは辛いかもしれませんね。
Facebookのサムネが『打球』になっていますが、本文では『打毱』なんですね。
『打毬』の事を『打球』と書く事もある様ですが、どちらかに統一しては?
まひろさんが左大臣家を訪れています。
倫子さまに打毬へ招待する旨が書かれた文が届いています。
茅子さまとしをりさまにも同じ内容の文が届いており、彼女たちはまひろさんの方にも目を遣り「誘われているの?」と訊きます。
憐れんでいる様に見えているのは何見氏が『陽キャの祭り』と姫君の様な人との関わりがうまい人を蔑み、上流貴族の姫君はまひろさんを下に見て憐れんでいるに違いないと思っているからではないですか。
6回でも書きましたが、どや顔で漢籍マウントを取り、他人を見下すような発言をし、勝手な思い込みと私怨に基づいた他責意識と被害妄想を拗らせ、所構わず自身の不快をまき散らし価値観を押し付けるなど他人への配慮の無さが目に余るために人が離れ辛い思いをするのではないですか。
『憐れむ』『うるさい』『陽キャの祭り』『辛い』に何見氏の気持ちが詰まっている気がします。

大河コラムについて思ふ事~
『光る君へ』第6回
大河コラムについて思ふ事~
『光る君へ』第6回

まひろさんも受け取っていますが、行く気はありません。
「若い殿方を間近に見るなんて滅多にない、参りましょう! 参りましょう! 参りましょう!」と誘われるまひろさん。
その時、赤染衛門がやって来て「お声が響き渡っています。はしたない事この上無し」と注意します。
そして倫子さまによって赤染衛門も打毬に誘われました。
赤染衛門は『お声が響き渡っています。』とは言っていますが『うるさい』とは言っていません。

『光る君へ』より

>姫君サロンが観客席に向かうと、あの陽キャ女王のききょう(清少納言)も案の定います。
(中略)
>そんなマウンティングにも聞こえる言葉にも、源倫子は余裕の笑みで受け止めています。
打毬見物当日。
色合いを揃えた狩衣の袖を紐で括りたすき掛けにし、行縢(むかばき)を着けた道長卿、斉信卿、公任卿は行成卿を待ち詫びています。
そして行成卿の使者が「俄かの腹痛で来られない」との旨を伝えに来ます。
会場では幄舎(観客席の仮設テント)が設えられ、倫子さまたちの席の側にはききょうさんが座っており、「清原元輔の娘、ききょうと申します」と自己紹介します。
ききょうさんは「斉信さまに是非にとお招き受けまして」と招待があった事を伝え不敵な笑みを浮かべています。
赤染衛門は倫子さまに、「ききょうさまは才気あふれる方との評判」と教え、倫子さまはききょうさんにもそつなく挨拶を交わします。
この場面、画面に紫式部、清少納言、赤染衛門と言う錚々たる女流歌人が揃っているのですが。
そして倫子さまの愛猫・小麻呂は敷かれた畳のヘリで爪を研ぎ始めるなど自由です。

『光る君へ』より
『光る君へ』より

余談ですが。
カラフルな観客席の仮設テントは『幄舎(あくしゃ)』と言います。
四隅に柱を立て棟・ 檐 のき を渡して 布帛 ふはく で覆った仮小屋で祭儀などのときに、臨時に庭に設けるものです。
『年中行事絵巻』巻三「闘鶏」にも幄舎が描かれています。

『光る君へ』より
精選版 日本国語大辞典
『年中行事絵巻』巻三「闘鶏」

>もしもこの会話を藤原寧子が聞いていたら「道綱をぜひ!」とでも訴えていそうですが、そうではない。
>藤原道綱は道長の兄ですもんね。
行成卿を欠いたF4は欠員をどうするべきかで悩んでいます。
道長が、「「ひとりいるかもしれん。最近見つかった弟がいる」と言い出します。
打毬は藤原斉信卿が提案し、賛同した公任卿・道長卿・行成卿がともに企画した催しです。
藤原道綱卿は道長卿の庶兄であり、この企画としては全く代打要因として道長卿の頭になかったのではないでしょうか。
また出世が関わらない若手貴族の武術を兼ねた友人関係の遊興に寧子さまが我が子をと出張ってくる事があるでしょうか。

『光る君へ』より
『光る君へ』より

>なんでも紀元前6世紀、ペルシャが発祥とされる競技であり、イギリスのポロよりも何百年も早いとか。
>起源は諸説あるようですが、日本の場合は唐由来とされます。
『打毬』とは、現在も宮内庁において保存・継承されている古式馬術です。
『ポロ』とその起源を同じくし、紀元前6世紀頃のペルシャを起源とします。中国でに伝わったものは『打毬』となり、やがて朝鮮半島を経て、8~9世紀頃に渤海使(渤海より日本を訪問した使節)から日本に伝わります。
またヨーロッパに伝えられたものは『ポロ』となります。

奈良・平安時代、打毬は宮中に於いて端午の節会の際に行われる年中行事となりました。
馬に乗り、地上に置かれた自組の色の毬を毬杖(きゅうじょう)で掬い、毬門(きゅうもん)と呼ばれるゴールに入れる競技です。
勝負が決し、白が勝利した場合は鐘、赤が勝利した場合は太鼓が連打されます。
現在は、宮内庁と青森県八戸市の長者山新羅神社、山形県山形市の豊烈神社にのみ伝承されています。

ウィリアム・グリフィス著
『The Mikado's Empire(ミカドの帝国)』より
日本の打毬の様子
韃靼人狩猟・打毬図屏風
伝 狩野宗秀
京都国立博物館
ポロをする女性 唐朝
8世紀初期

>小道具やロケも大変でしょう。
>ストーリーの中に「打毱を出す」と決めたことがどれだけ大変だったことか。
>このドラマには、その効果が十分にあります。
>カメラも良いものを使っていて、ともかく圧巻の美しさと爽快感があります。
>見ていてよかった。
小道具やロケも大変でしょう。』
『どうする家康』レビューで小道具では作品とは全く関係ないニコライ・バーグマン氏の商品を中傷し続け、一向宗門徒の持つ大切な阿弥陀如来像や押し花と『正信念仏偈』の入った箱、物語の象徴の様な兎や獏の木彫りも理解しようとせず、『慈愛の国教団の重要な収入源である聖遺物』とカルト宗教の様に揶揄。
衣装の色目を『スイカバーの妖精』と風情の欠片も無い事を言い、辻が花染めをモチーフとしたり実在の文化財があるのに『家康の白い服装はどうしようもない。着物の作りが安っぽい。』と美術スタッフを侮辱していたのは誰でしょうか。

武将ジャパン『どうする家康』第45回
『どうする家康』より
『どうする家康』より
『どうする家康』より
大河コラムについて思ふ事~
『どうする家康』第46回
大河コラムについて思ふ事~
『どうする家康』第46回
武将ジャパン
『どうする家康』第46回

代役のため百舌彦さんは散楽一座の中から直秀を連れてきます。
まひろさんは、自邸で落ち着かない様子でしたが、意を決し会場に現れます。
倫子さまがまひろさんを目聡く見付け、まひろさんも席に着こうとしますが、その目の前にはききょうさんがいます。
吊り太鼓が打ち鳴らされ、競技者たちが入場します。
小麻呂がまひろさんのもとへと移動してきたため、まひろさんが撫でてやっています。
競技が始まり、そのまひろさんの姿を道長卿や代打参加の直秀が見ています。
小麻呂に気を取られていたまひろさんは道長卿と目が合います。
さらに競技は続き、今度は斉信卿とききょうさんの目が合います。
試合はF4の組が勝ちました。
「公任の策の通りだ」と言われて公任卿も嬉しそうです。
その時雨が降り始め、雷鳴に怯え逃げ出した小麻呂をまひろさんが捜しに行きます。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

打毬シーンは昨年8月22日から23日にわたって栃木県で撮影されたそうです。
斉信卿を演じる金田さんは公式サイト『君かたり』で「僕も最初『え、ポロをやるんですか』って。ということは片手運転で、しかも駆け足という、パカラパカラにまず行くところまで相当時間かかるって聞いて」「とあるドヤ顔も無事に終えたので、本当に今ホッとしています」と語っています。

・平安の「ロッカールームトーク」?

>小麻呂を探していたまひろは、選手のロッカールーム裏に入り込んでしまいます。
『選手のロッカールーム裏』とは。
競技者の控室と言う意味では合っていますがもう少し平安時代らしい表現はできないでしょうか。
逃げ出した小麻呂を追って打毬競技者の控え所に迷い込んだまひろさん。
雨と汗でぬれた狩衣を脱いで体を拭いながら、公任卿が直秀の毬杖の振り方を褒めています。
ここで公達が半裸である事に対して、『女性へのサービスカットではなくセクハラだとは言わないのですね何見氏は。(半裸サービスカットの前に烏帽子を脱いで平安時代の価値観では恥ずかしい髻部分が丸見えなのが気になりますが。)
公任卿は斉信卿お気に入りの『漢詩の会のでしゃばりな女(ききょうさん)』の話をし、そこから『品定め』が始まります。
斉信卿は「ききょうだけだとまずいから、まひろも呼んだ」と言います。
「為時の娘か、あれは地味でつまらぬ」と公任卿。
斉信卿も「ああ、あれはない」と公任卿に同調します。
道長卿が「斉信は倫子殿に文を送り続けていたのではないか?」と尋ねますが、斉信卿は「もったりしてて好みではない。ききょうがいい」と言います。
公任卿が「為時の娘のように邪魔にならないのがいいんだぞ、あれは身分が低いから駄目だけど」と言い、斉信卿からは「まあ、ききょうも遊び相手としか考えてないけど」と本音が零れます。
公任卿が言うには『大事なのは恋愛ではなく良家の姫に婿として入り女子(子供)を作って入内させ家の繁栄を守り次代に繋ぐ事』であり、女性は家柄が求められるのです。
公任卿は道長卿に同意を求めます。斉信卿は「関白と右大臣の息子なら引く手数多か」と笑います。
さらに、「家柄のいい女は嫡妻、あとは好いた女のところに通えばいいんだよな」と斉信卿。
公任卿は「斉信の好いた女は人妻だ」と言います。
「そうなの?」「知らなかったのかよ!」
まひろさんはそれ以上聞く事が出来ず雨の中を駆け出し、その様子を直秀が見ています。
そして、その直秀の左腕に矢傷があるのを道長卿が見つけます。
まだ確保されない小麻呂が雨に打たれ、草叢で濡れそぼっています。
まひろさんは雨の中を家へ戻り、道長卿からの文を火にくべ燃やしてしまいました。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より


>「ロッカールームトーク」は、トランプの発言で有名になりました。
>「男の子同士が、更衣室で、やらかすような話で、深い意味ないヨ〜^ ^」
>こういう話ですが、そんな言い訳は通じませんよ。

◆ トランプ、性的発言を「更衣室トーク」→スポーツ界で炎上加速(→link

buzzfeed

>結局、あの打毱も、この下劣トークの前振りかと思うとおそろしいものを感じさせます。
>しかも、ちゃんと当時の価値観を反映させながら、その上で、当事者は胸が傷ついてズタズタになったことを描いてくる。
>これぞ匠の技でしょう。
何見氏は『これぞ匠の技』と意味が分からない評価をしていますが、これが嫌いな作品ならば『ジェンダーが~!ルッキズムが~!』と叩き続け、『中国ではこう!海外では許されない!アップデートができていない』とポリコレ論争を繰り広げるのかもしれません。
『どうする家康』での側室選びの話では、側室は正室の意向を汲んで下で働く女性であり、正室が選定するものと言う前提があるにも関わらず、側室選定にやってきた候補を演じる俳優さんがグラドル出身と言う属性だけで『お色気要因、ムフフ要素、サービス狙い』と勝手に思い込みニヤニヤする反応を予想して不愉快を撒き散らしていました。
作中では側室にそぐわないとしてその方は却下されていますが。
容姿だけでは側室は務まらないという描き方なのに批判する方が女性を舐めるように性的視点で見ているのはどうかと思います。

武将ジャパン『どうする家康』
総論前編

公任卿と斉信卿の女性談義は『源氏物語』2帖「帚木」の『雨夜の品定め』オマージュだと思います。
3回作中で女性から送られた恋文を品定めする場面がありましたが、今回はまひろさんとききょうさんという下級貴族の女性二人を上位貴族の男性があれこれ品定めをし、本人が聞いてしまうという残酷な場面になっています。
『ちゃんと当時の価値観を反映させている』と言うならば、「トランプ前大統領のロッカールームの男子の様な女性軽視の性的発言は許されない」ではなく、『源氏物語』の『雨夜の品定め』を引用する事はできませんでしたか。

大河コラムについて思ふ事~
『光る君へ』3回より
『源氏物語 2帖・帚木』あらすじ

余談ですが、『紫式部日記』の『寛弘5年(1008年)11月1日条』には、お仕えする中宮彰子さまが敦成(あつひら)親王を出産し、土御門殿で行われた敦成(あつひら)親王(後一条天皇)の御五十日の宴席での紫式部と藤原公任卿のやり取りが描かれています。(その前に酔っ払いオヤジやセクハラがひどいんですが)
公任卿は紫式部に「あなかしこ、このわたりに若紫やさぶらふ(恐れ入りますが、この辺りに若紫の姫君がおられるのではないでしょうか?」と、御几帳の中を探ります。
紫式部はこれを「源氏に、かゝる人も見え給はぬに・・・(光源氏らしき人がいないので、紫の上がいるわけがございませんでしょう?)」とばかりに完全黙殺します。

『紫式部日記』寛弘5年(1008年)11月1日条
左衛門督、「あなかしこ、このわたりに若紫やさぶらふ。」と、うかがひたまふ。源氏に似るべき人も見えたまはぬに、かの上はまいていかでものしたまはむと、聞きゐたり。

意訳:
藤原公任様が、「ごめんください、このあたりに若紫の姫君はいらっしゃいますか」とお探しになる。光源氏のような人もいらっしゃらないのに、紫の上がどうしてここにおいでになるだろうか、と聞いていた。)

『紫式部日記』

千年後の現代、『源氏物語』が歴史上に刻印された記念として、11月1日は「古典の日」となったそうです。
何見氏が『枕草子』のワカメの話をしていますので、こちらでは書かないとして。
詳細のリンクと6回で書いた『故殿の御ために、月ごとの十日』を貼っておきます。

大河コラムについて思ふ事~
『光る君へ』6回より

・MVP:藤原斉信&藤原公任?

>前回の予告で、藤原公任の脱ぐ姿が映った時、これぞ女性向け大河だと言わんばかりの反応がありました。
>しかし、そんな脱ぐ公任を見て、まだときめいていられるかどうか。
『これぞ女性向け大河だと言わんばかりの反応』の具体的な内容を提示せず、何見氏の中だけで納得されても困ります。

これも嫌いな作品ならば『ジェンダーが~!ルッキズムを許すな!』『役者を脱がすな!』『教育への悪影響が!』と叩き続け、『中国ではこう!海外では許されない!アップデートができていない!』になってしまうのではないでしょうか。
それとも何見氏自身が俳優さんの容姿について誹謗中傷を繰り広げるかでしょうか。
あらかじめ叩く作品と褒める作品を決め打ちしているので、イデオロギーに反していたとしても中傷の様なヘイトを向けられぬ苦しい言い訳のような文章になるのではないでしょうか。
『これは私は気に入らない』ならば素直にそうと書けばいいのではないですか。

『光る君へ』より
武将ジャパン『どうする家康』第29回~
武将ジャパン『どうする家康』第41回~

・海を越える熱気がある?

>こんなニュースがありました。

◆大赤字、続編未定…「VIVANT」が海外で大コケの理由 「幽☆遊☆白書」に“惨敗”で戦略練り直しか(→link

デイリー新潮)

>日本でヒットしても、所詮はガラパゴス戦術だったのか……と興味深く読みました。
VIVANT』や実写版『幽☆遊☆白書』の海外での反応について語りたいのなら大河ドラマレビューではなく、新たに記事を立てて語ったらいかがですか。
蛇足でしかありません。

>この点でいけば今年の大河ドラマ『光る君へ』は、とてつもなく高い可能性があるようです。
>既に町田啓太さんは、中国語圏のファンからロックオンされています。
>「日本からえらい時代劇美男が出てきたな!」と注目を集めているようなのです。
何見氏が町田さん推しなのはわかりますがその理由が『中国語圏のファンからロックオンされているから』『注目を集めている』というのは本当に彼の人となりや演技を評価しているのかすら分かりません。
何見氏に主体性が無いように見えます。
『中国語圏のファンからロックオンされている』と言うならその記事を提示してください。
町田さんが大ブレイクを果たしたドラマ『チェリまほ』が海外配信されておりアジア圏でも人気だという2020~2021年頃の記事はありますが。

>今年の大河は海外からも熱い目線が送られています。
>視聴率では見えてこない大きな反応を感じます。
>素晴らしい兆候でしょう。
こちらも単なる自己満足ではなく、具体的に海外の反応を提示すれば評価が分かるのではないでしょうか。
都合よく切り取られたものではなくきちんとしたものを提示しないと信用性はないと思います。

・三鏡の教え?

>『いだてん』でもジェンダー監修者をつけた方がよいと私は批判しました。
>当時のあのドラマは低い視聴率と反比例して、批判がなくなっていきましたが、それは危ういなと感じていました。
>批判が目立つようになったのは、ドラマが終了して何年か経過してからのことです。
>クドカンさんにとっては良くないことでしょう。
>過ちを改めにくくなり、誤魔化してばかりいる人間はどんな階層にいるか?
>――それは社会的地位が高い男性ほどそうなるという分析があります。
いだてんレビューを全削除してそれまでの誹謗中傷を無かった事にしたつもりでこそこそレビューやnoteで『私はずっと前から批判していたの!脚本家は全く聞かない!私がこんなに言ってるのに諫言を聞かない脚本家は危険だ!』と喚いていても意見はなかなか取り上げられないと思いますが。
『パワハラ軽視』だの『プロパガンダ』だのnoteでも喚いてますが。

https://note.com/54seikobi85/n/nd72fc4ee1db9

「最低だけど最高じゃんね!」
 この文言はしみじみとつくづくと危険だと思った。どんなことであれ、まず失敗した、敗戦したと認めなければ何も始まらない。いかに酷い結果であろうと、まず病名を知らねば対処すらできないのです。

https://note.com/54seikobi85/n/nd72fc4ee1db9

>『いだてん』でもジェンダー監修者をつけた方がよいと私は批判しました。
明治末期から昭和初期にかけての女性のスポーツは『黎明期』です。
加納治五郎先生をもってしても『女子スポーツは健やかに元気な跡継ぎを産むためのもの』と言う概念でした。女学校に通い、親の言う通り見合いをして結婚と言うのが大体の女学生の姿でした。
自ら好んで走る事を選んだシマさんも教師になり、出産・仕事・キャリアの両立に悩みました。
二階堂体操塾を設立し、女子体育の振興に身を捧げる決意をした二階堂トクヨ先生の姿もありました。
四三さんを通してスポーツの楽しさに目覚め、スポーツを通してアイドル視され、靴下を自分の意志で脱ぎあられもない姿の写真を撮られ親にはしたないと苦言を呈されても走る姿がありました。
そして、1928年アムステルダム五輪で日本人女性初の銀メダリスト・人見絹江さんは恵まれた体格・素質から主人公・田畑政治(通称・まーちゃん)にすら『化け物』と呼ばれ、決死の思いで800mを走り切る姿が描かれ、1936年ベルリン大会では日本人女性初の金メダリスト・前畑秀子さんのメダルに至るまでの苦悩も描かれました。
1964年東京五輪で活躍した『東洋の魔女』たちはコーチである大松監督から現代ならパワハラ・セクハラに当たる様な言葉を投げられたかもしれません。それも余すことなく描かれましたが、監督は五輪後に選手たちの結婚も世話しています。

話を聞いてもらいたいのならNHKに意見書でも出して直談判してみればいいのでは?
人様の脚本、しかももうすでに放送が終了したものに不適切だなんだと喚いていても独りよがりの意見ですべてを操れると思ったら大間違いでは。
自分の思う通りの作品が見たいのなら自分で企画から演出まで自分だけの作品を作るしかないのではないでしょうか。
それが面白いかどうかは別です。

>そしてこのニュースですが。

◆『どうする家康』ロケ大賞グランプリ受賞 松本潤ら参加の「浜松まつり」には約260万人が参加(→link

ORICON NEWS

>記事内容を一部引用させていただきますと、未だに「黒田官兵衛」が登場させられています。

そして、豊臣秀吉、黒田官兵衛、真田昌幸、石田三成と次々と現れる強者(つわもの)たちと対峙し、死ぬか生きるか大ピンチをいくつも乗り越えるさまを映し出した。

>いったい黒田官兵衛は『どうする家康』のどこにどう出ていたというのか?
「黒田官兵衛」が『登場させられている』とは?
豊臣家の子飼い武将であり、徳川家と婚姻関係があり関ケ原の戦いでは外様向けの交渉役として子息の黒田長政公は出ていました。
初回からの公式には名前が挙がり、対峙していたとありますが、官兵衛公はそもそも物語の流れ的に出る予定が無かったのではないでしょうか?
秀吉公の側には政治ブレーンとして弟の秀長公、交渉関係ブレーンとして寧々さまがおり、それと並行して若手子飼いの姿が描かれていました。
黒田家はその頃は四国・九州の統一戦に出向く事が多く、小田原合戦では豊臣家の使者として無血開城を促していましたが、唐入りでは西国大名として渡航しており、徳川家とはあまり関わりがないのも事実です。
キャッチフレーズは公式のものなのだからメディアやSNSで使われ続けてもおかしくないのでは?
気になるならNHKに直接意見を送ればいいのではないですか。


※何かを見た氏は貼っておりませんでしたが、今年もNHKにお礼のメールサイトのリンクを貼っておきます。
ファンの皆様で応援の言葉や温かい感想を送ってみてはいかがでしょうか?

NHKや番組についてのご意見・お問い合わせ | NHK みなさまの声にお応えします
◆NHK みなさまの声(→link

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