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大河コラムについて思ふ事~『光る君へ』第9回~

3月上旬になりました。気温も暖かくなり桃の節句も過ぎました。
まだまだ気温の変化が激しい日々ですので皆様健康には充分お気を付けください。
さて、光る君へ第9回。
今週も『武将ジャパン』大河ドラマコラムについて書かせていただきます。
太字が何かを見たさんの言質です。
御手隙の方に読んでいただければと思います。それでは。


・初めに

>直秀が無惨に殺され、そのまま放置すれば鳥葬という最期を迎えました。
古来、京都では都を清浄な空間として保つために、都からさほど遠くない郊外へと葬送の地を選びました。
その中でも葬送地として一番規模が大きかったのが、東山の鳥辺野でした。
鳥辺野は阿弥陀ヶ峰山麓の丘陵地辺りです。
平安時代、三位以上の貴族しか墓を造ることが許されず火葬も費用が掛かる事から、庶民のほとんどは鳥葬または風葬だったといいます。 
人が亡くなると遺体を野晒しにして朽ちるに任せる『風葬』が主流で、遺体を鳥や獣が喰らいます。
鳥が遺体を啄んで処するため『鳥葬』とも呼ばれました。
因みに作中から42年後の万寿4年(1028年)、道長卿も鳥辺野で葬儀が行われました。
直秀たち散楽一座は盗賊として検非違使に捕縛され、本来なら流刑になる所を鳥辺野で殺害されました。
散楽一座の遺体が埋葬される事なく、山中に野晒しになっていたのは卑賤の者且つ罪人のためです。

>東三条殿へ盗みに入り、捕らわれてしまった直秀。
>藤原道長はわかっていたような顔をしています。
>直秀も「潮時だった」と悔しそうに語るのでした。
寛和2(986)年。
直秀たち散楽一座は盗賊に身をやつし、東三条殿に侵入しますが警護の武士に捕らえられてしまいました。
覆面を剥ぎ取ると盗賊の頭が直秀だと分かり、道長卿は衝撃を受け顔を歪めます。
「思ったより堅固だ。内裏より物々しい」と言う直秀に「やはりあの時射たのはお前だったのか」と道長卿は盗賊に矢を射た時の事を思い出しました。
捕らえられて地に伏した直秀は、「あれが潮時だった」と言います。
道長卿は分かっていたというより、賊を矢で射抜いた感触が鮮明に残りまた打毬の際に直秀の腕に傷があった事で疑惑がありましたが、捕まえた賊が直秀だった事もあり確信に変わったため、『なぜお前なのだ』という気持ちが強いのではないでしょうか。

『光る君へ』より
『光る君へ』より

・燕雀安んぞ鴻鵠の志を知らんや?

>「若君がそんなに大事か?」
>右大臣に仕える身でヘコヘコいている。
>悔しくねえのかと問いかけるのです。
『ヘコヘコいている。』とは『ヘコヘコしている。』の誤字でしょうか。
『右大臣に仕える身でヘコヘコしている。』ではなく、『お前らも貴族に見下されて来たのに悔しくないのか』です。
右大臣家の武士がヘコヘコしている訳ではなく、貴族が武士を見下した様に荒事を任せているのは右大臣家に限った事ではありません。
清和源氏系多田源氏の源満仲公は安和2年(969年)の安和の変以来、藤原兼家卿に仕えて受領を歴任します。
『今昔物語』によると、官職に就くことによって莫大な富を得た満仲公の一族郎党は摂津住吉郡の住吉大社の御神託により、摂津国川辺郡の多田盆地を所領として武士団を形成し摂津源氏の基を築きます。
摂津源氏は清和天皇の孫ながら藤原氏に仕え、貴族が忌避する穢れの処理を担い、代わりに一族郎党の勢力拡大に成功し、その後の武家政治に繋がります。

右大臣家の武士たちは、盗賊たちが散楽一座の者であると道長卿に告げます。
散楽座頭である輔保は道長卿の顔を覚えていました。
「何も盗んでいないから見逃してくれ」と言う輔保に「やめておけ」と直秀が言います。
「盗賊は我らが片付けるので、若君はお部屋へ」と道長卿に奥に下がる様に促す武士たちに直秀は「若君がそんなに大事か、お前らも貴族に見下されて来たのに悔しくないのか」と臆さず言い、武士たちが抜刀します。
道長卿は「手荒な真似はするな。彼らは人を殺めてはおらぬ。命まで取らずともよい」と命じて去ろうとします。
なおも直秀が「凛々しいことだな、若君」と言いますが、道長卿は彼らに罪を償わせるべく検非違使に引き渡す様に武士たちに命じました。
検非違使に盗賊を引き渡した後、道長卿は兼家の傍らに付き添っていました。
道長卿は灯明に照らされた床に延びた自分の影を見つめます。
そこにはかつて兄・道兼卿に『右大臣家の闇の象徴』と言われた影がありました。

『光る君へ』より

直秀は、池田理代子先生の『ベルサイユのばら』および『栄光のナポレオン エロイカ』に登場するアラン・ド・ソワソンを彷彿とさせます。
Wikipediaによれば、『ベルサイユのばら』及び『栄光のナポレオン エロイカ』に於けるアラン・ド・ソワソンは貧乏貴族出の元フランス衛兵隊士官で元少尉です。
過去に先代の隊長を殴る不祥事により降格しています。
主人公オスカルの部下になりますが、貴族の間でも上級貴族と下級貴族の格差を作り出しており、この差別により貴族とは名ばかりの平民以下の貧困に苦しみ、自暴自棄になっています。
『栄光のナポレオン エロイカ』ではナポレオンへの個人的興味から彼の部下となります。
やがて、皇帝になる野心を覗かせ始めたナポレオンに見切りを付けナポレオン暗殺計画を練り始めましたが、直前で計画が露見し、失敗し射殺されました。
一方『光る君へ』の直秀は最下層の賤民である散楽一座の一員で普段は貴族を揶揄した風刺劇などを散楽で披露し、夜には盗賊に身をやつし貴族の館から物品を盗み民に施す暮らしをしています。
そして東三条殿に忍び込み捕まります。
アラン・ド・ソワソンは下級貴族でありながら自身の不祥事から平民以下の貧困に苦しんだ末、自暴自棄になり、ナポレオンに仕えるも皇帝になった彼を殺害しようとします。
直秀は最初から卑賤の者であり、貴族である道長卿やまひろさんとも関わりますが、立場は賤民のままです。
貴族を散楽で揶揄し彼らを狙った盗賊として捕縛されますが命は狙っていません。
アランと直秀は元の身分が違うので比較しにくいと思います。

>まひろならば「燕雀安んぞ鴻鵠の志を知らんや」(『史記』より/小鳥には雄大な鳥の気概はわからない・小人物には英雄の大志は理解できないという意味)と理解しようとしたかもしれません。
何見氏は権力者である平安貴族やそれに従属している武士団を過小評価したがり、直秀のような義賊的な人物を絶対的な英雄として持ち上げ、『志を理解できない貴族には分からない』と言いたいのでしょう。
しかし、直秀は「藤原を嘲笑いながらなぜ興味を持つのか」と疑問を投げかける道長卿に対し「よく知れば、より嘲笑えるからな」と答えています。
直秀たち散楽一座は物取りはしても貴族を討ち、彼らに取って代わりたいわけではなく、虐げられた人々に対して何にでも化けられる芸人として一時でも救いになりたいと思っているのだと思います。
貴族たちや右大臣家さえも人間観察の対象にして当時の政治や社会の矛盾をおもしろおかしく批判し笑いの場に変え、日々の鬱憤を忘れられる様にしたかったのではないでしょうか。

燕雀(えんじゃく)安(いずく)んぞ鴻鵠(こうこく)の志を知らんや
史記・陳渉世家

意訳:つまらない人物には大人物の遠大な志はわからないということ。
「燕雀(えんじゃく)」は、「つばめ」と「すずめ」。
「鴻鵠(こうこく)」は、「おおとり」と「くぐい」という大きな鳥。
小さな鳥にどうして大きな鳥の心がわかるだろうかという意味。

史記・陳渉世家

・倫子の恋心?

>私の家に入り込んだ連中を捕まえたってコト? >仇討ち? キャー! と、なってもおかしくないかなと。
>まひろだけひきつった顔をしております。
毎度の事なのでいい加減姫君の名前も覚えませんか
翌日、土御門殿での姫君サロンでは、茅子さまが「先日、東三条殿に盗賊が入ったのですって。三郎君が獅子奮迅のお働き」と興奮気味に話しています。
しをりさまが「えー!」っと驚きの声を上げています。
しをりさまは「道長さまが最近大層なご評判」とはしゃぎますが、倫子さまが何かを思案しているのを見て黙ります。
倫子さまは「その盗賊は我が土御門に入った盗賊と同じなの?」と茅子さまとしをりさまに尋ねます。
「わかりませんわ」と茅子さまとしをりさまが答え、「そうですわよね」と倫子さま。
まひろさんは倫子さまの様子に気にかかるものがあった様です。
その様子を棚の上に座った小麻呂が見ています。
道長卿は東三条殿で盗賊を捕縛した時点で土御門殿に入った盗賊と散楽一座が結びついている訳ではなく、(直秀の傷から自分が射たのが内裏に入った盗賊だと確信したのみ)土御門殿での盗難事件の仇討ち認識もないと思います。

『光る君へ』より
『光る君へ』より

土御門殿の廊下では、穆子さまが赤染衛門に、「倫子が道長をどう思っているのか」
と尋ねています。
穆子さまは「うちの人にはそういう事話すのに私の問いには答えないのね。」と苛立っている様子で言います。
赤染衛門が穆子さまが訊く事の意味を計りかねていると、穆子さまは「もう良い、お行きなさい」と踵を返します。
何見氏がいう『湿っぽい事』とはおそらく夫・源雅信卿が赤染衛門に懸想するという事でしょうか。
穆子さまは倫子さまが道長卿をどう思っているか知りたいのにそういう情報が分からないので赤染衛門がわざと雅信卿だけ教えているのだと嫉妬しているのかもしれません。

『光る君へ』より
『光る君へ』より

・検非違使 散楽一座を捕える?

>時代がくだり、源義経が朝廷から検非違使に任じられています。
>武士にそういう大盤振る舞いをするから、墓穴をほったのでは?と思えてくる話ですね。
まひろさんは乙丸とともに散楽一座の隠れ家に行き、彼らを探しています。
そこはもぬけの殻でした。
まひろさんは、『鳥籠を出てあの山を越えて行く』という直秀の言葉を思い出し、「もう旅に出たのか」と自問しています。

『光る君へ』より

するとそこへ放免たちが入ってきて、邸内に踏み込んで、「散楽が何をしたのか!」と抗議するまひろさんと乙丸を取り押さえてしまいます。
まひろさんは盗賊の共犯と見做され捕縛されたのです。
放免たちは「仲間は東三条殿で捕らえられた。お前らも、獄でた~っぷり詮議してやるぜ」とまひろさんを見下しています。
検非違使とは律令制下の令外官で「非」法や「違」法を「検」察する天皇の「使」者を意味し、平安京における軍事・警察の組織として作られた検非違使庁の役人です。
源義経公が任官した『検非違使尉(少尉)』は四等官の判官(尉)に相当し、定員は不定で、衛門尉が兼務していました。
10世紀後半頃から源氏や平氏などの武士がなることが多く、義経公の力を認めた後白河院が検非違使尉に推挙しますが、これは鎌倉幕府の御家人である義経公が鎌倉殿である頼朝公の許しを得ていない任官でした。

今回の様な犯罪の場合、検非違使庁の実行部隊長である『看督長(かどのおさ)』と『火長(かちょう)』が実際に犯罪者を探索・追捕し、拷問や獄守、流人の護送や死体や穢れの清めなどを担当する釈放された囚人であり下級刑吏の『放免』を使役し実務に当たります。
橙色の狩衣の人物が『火長』、赤い狩衣と白い布袴の人物が『看督長』です。
髭面に贓物(=ぞうぶつ、盗品)である摺り染めの装束をきているのが『放免』です。
今回は以前道長卿が冤罪で捕えられた時謝罪していた火長が対応しています。

『法然上人絵伝』
知恩院蔵
国宝『伴大納言絵詞』
東京国立博物館蔵
『光る君へ』3回より

>そこで道長はそっと賄賂を渡すと、相手はすぐさま「承知いたしました」と受け取りました。
>甘い、法の適用がズブズブやないか!
> 一体どうなっているのよ!
>これまた『鎌倉殿の13人』を思い出すと良いかもしれません。
>最終盤では【御成敗式目】を練る北条泰時が輝いて見えたものです
盗賊たちは牢に入れられ、道長卿が検非違使庁の実務担当である火長(かちょう)に彼らの処分について尋ねているところでした。
「余罪について取り調べている」と火長が言います。
道長卿は「他のことは知らぬものの、東三条殿では何も盗んでおらず、人も傷つけていない」と早期の召し放ちを望んでいます。
火長は「何故そのようなお情けを?」と道長卿を訝っています。
「いやいや、何せ盗賊でございますからね。腕のひとつもへし折って、二度と罪を犯させないようにするのが自分の仕事だ」と答えます。
道長卿は「早めに解き放ってもらいたい。手荒なことはしないでくれ。頼む」と頭を下げ、金襴の袋に入った心付けを火長に渡します。
心付けを受け取った火長は何かを思案する様に「承知いたしました」と道長卿の頼みを受け入れました。

『光る君へ』より

検非違使は平安時代の律令制度下で治安維持のために創設された軍事・警察の組織です。
司法を担当していた刑部省、警察・監察を担当していた弾正台、都に関わる行政・治安維持・司法を統括していた京職など他の官庁の職掌をだんだんと奪うようになり、検非違使は大きな権力を振るうようになっていきました。
検非違使には、犯人の追捕を行う機能と、洛中の行政や刑事裁判を行う機能がありました。
平安時代の処刑方法には斬首刑と絞首刑とがあり、斬首刑は反乱の首謀者等に限られ、通常は絞首刑が選ばれました。(平将門公や蝦夷の首領・阿弖流爲は首を晒されています。)
帝の裁定を必要とする貴族などの裁判では触穢禁忌などの観点から表向きの死罪が執行されませんでした。
ですので物品を窃盗せず、人も傷つけていない直秀たちには情状酌量があると道長卿は考えたのでしょう。
流刑にしてもどうか温情をかけて早期の釈放をと道長卿は願ったわけですね。
平安時代末期になると院政の軍事組織である北面武士に取って代わられ、更に鎌倉幕府が六波羅探題を設置すると次第に弱体化していき、武家政権内では侍所に権限を掌握されることになります。
『御成敗式目』は貞永元(1232)年に執行された鎌倉幕府など武家政権のための法律です。
貴族社会の法律である律令では裁けないものもあり、武士の実態や鎌倉幕府の判例に沿った武士のための法律です。

>倫理崩壊しているような彼らだって証文は怖い。
>ましてや京都人にはもっと効くことでしょうから、そういう脅しも必要だったのではないでしょうか。
盗難事件に際して盗賊に情状酌量の余地があり、被害者である道長卿が密かに減刑を望んでいるのであって非公式であるのに神仏に誓う証文を書いて証拠を残してどうするのですか。

『光る君へ』より

・もう“三郎”とは呼べない?

>もしもこのタイミングでまひろが来なかったら、道長ももっと慎重になれたのかもしれません。
まひろさん主従が捕縛され連行されてきた時にはすでに道長卿は心付けを渡しているのでまひろさんか来ようと来ざると道長卿は散楽一座を釈放させるために心付けを渡すと思います。
道長卿が検非違使の火長に心付けを渡していた時、まひろさんと乙丸が放免たちに連行されてきました。
まひろさんと獄中の直秀は、お互いの様子に驚きます。
放免が強く縄を引いたためまひろさんが転び、その後ろでは羽交い締めにされた乙丸が藻掻いています。
まひろさんは散楽一座の脚本を書いて一座の隠れ家に出入りしていたため、盗賊一味と思われたのかもしれません。

『光る君へ』より

その様子を見た道長卿は、「この者は知り合い故身柄は預かる」と釈放させます。
この場面はかつて道長卿が誤認で逮捕され放免に連行された所誤認と分かり、兼家卿が家司に命じ引き取る場面のリフレインでしょうか。
もちろん平身低頭で謝られた道長卿とまひろさんでは検非違使の態度が違いますが。
まひろさんは帰る様にと言われますが牢内の直秀がなおも気になります。
道長卿はまひろさんを馬に乗せ、六条の廃院に向かいます。
その後ろを乙丸と百舌彦さんが走ってついて行きます。

『光る君へ』より
『光る君へ』より

>武者を甘く見ると、どうなってしまう?という苦渋の展開を『鎌倉殿の13人』の慈円などは目の当たりにして嘆いています。
>道長は、武者が暴力装置であると理解できていいるのでしょう。
『理解できていいるのでしょう』は『理解できているのでしょう』でしょうか。『い』が重複しています。まひろさんは道長卿に「なぜ直秀たちを検非違使に渡したの。彼らは都を出て行くつもりだった。許してやっていればそのまま山を越え、海の見える遠くの国に行っていたのに」と問います。「許したいと思わなかった訳でははないが、武者たちの前で盗賊を見逃せば示しがつかない」と道長卿が答えます。「盗賊が許されれば、武者たちとて何をするか分からん。」と言う道長卿。 
まひろさんは「そんな信用できない者たちばかりを、右大臣家は雇っているの?」と問います。
道長卿は「信用できるものなど誰もおらん。親兄弟とて同じだ。まひろのことは信頼している。直秀も」と言います。
『日本紀略』によると、摂関家に仕え受領を歴任するなど、官職に就くことによって莫大な富を得た源満仲公は他の武士からの嫉妬を受けたらしく、天延元年(973年)には武装集団に左京一条にあった自邸を襲撃、放火されるという事件が起きています。
慈円僧正の『愚管抄』では「鳥羽上皇が亡くなった後に動乱が続いて武者(むさ)の世となった」と記しており、文治元年(1185年)の鎌倉幕府成立以前から武士の時代が既に始まっていた事を、当時から認識していたようです。
当時の武者たちは荒くれ者集団で、藤原公任卿が検非違使を務めた際に遺した文書『三条家本北山抄』には辻斬り、強盗、海賊行為等の暴力犯罪行為が日常茶飯事であり、頻繁な恩赦で犯罪者が放免され、監獄が修繕されないため脱獄囚の追跡を検非違使の実務担当である看督長が兼務する。
荘園領主は犯罪経験豊富な輩を雇い入れ、領地で一族郎党を集め武士団を形成していくなどの様子が描かれているそうです。

>盗賊だと、わかっても?」
>そう問われると、道長は“直秀が通す筋”を理解します。
>彼らが狙うのは貴族だというところに一貫性がある。

「盗賊だと、分かっても?」と問うまひろさん。
道長卿は『直秀は盗賊で、盗賊だろうが散楽だろうが貴族が敵であるとはっきりしている』と直秀の考えを語ります。
「直秀はこれからどうなるの?」とまひろさんが訊くと、「間もなく放免されるであろう」と道長卿。
「右大臣家の三郎君が検非違使に命じたから?」と言うまひろさんに道長卿は「心づけを渡しただけだ」と言います。
「直秀は俺に借りなど作りたくないだろうが」と言う道長卿にまひろさんは「それを知ったらありがたく思うわよ」と言います。
「知る事はない。獄を出れば遠くの国に流される。海の見える国だとよいが・・・」と道長卿。
「そうね、海の見える国」まひろさんも頷きます。

『光る君へ』より

>波が寄せては離れていくような……
>水鳥の姿も映ります。
>もしもこの二人が水鳥ならば、思ったまま身を寄せ合えばよい。
>しかし人はそうはできない、甘いようでどこか苦い二人。
水鳥が庭の池から飛び立ち、二人はそれを眺めています。
まひろさんは『道長さま』と改まった口調になり助けてくれた礼を述べます。
「三郎でよい」と言う道長卿に、「もうそうは呼べない、三郎君(ぎみ)なら」とまひろさんが断ります。
なおも「三郎でよい」と言い張る道長卿でしたが、「無理だ」とまひろさんが言います。
まひろさんは月を眺め心の中で「もう、あの人への思いは断ち切れたのだから」と決意を新たにしていたので、左大臣家(倫子さま)との縁談が持ち上がっている以上一定の距離を取ろうと目上に接するような物言いになったのでしょう。
漢籍の会の後道長卿が送った和歌を引けば『神の斎垣』を越えられない二人でしょうか。

『光る君へ』より

乙丸が「姫様そろそろ戻らねば、お父上が・・・」とそろそろ戻るように勧めます。
「送って行こう」と言う道長卿に「ご無用です」とまひろさんは断ります。
まひろさんは「うちは土御門殿の近くなので、あの御屋敷の方に見られるといろいろ言われるので」と道長卿と一緒にいるのを見られる事を懸念しています。
「何を言われるというのだ・・・」と道長卿は戸惑います。
因みに源雅信卿の土御門殿からまひろさん(紫式部)の自邸(現・廬山寺)までは徒歩6分の距離です。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
Googleマップ

>帰り道、道長は大勢の人が座り込んでいるところを見かけます。
日が落ち東三条殿に向かう道中、道長卿は跪いて祈る大勢の男女の姿を目にします。
確認に行った百舌彦さんによると、「盗賊たちの無事を祈っておるそうです」との事でした。
獄に囚われている盗賊が盗品を貧しい下人たちに配っていたそうで、施しを受けた民たちが盗賊の無事を祈っている所でした。
平安時代や中世日本では、屠畜業や皮革業、井戸掘り、芸能(能役者、歌舞伎役者:中世にはない)、行商、造園を生業とする人たちが非課税地を求めて河原に住みつきました。
河原者・河原人とも呼ばれるこれらの人たちは代表的な被差別民の一種でした。
直秀たち散楽一座はこれらの被差別民に近い人たちと思われて河原の住人たちの生活の糧に日々散楽で民を笑わせて稼いだり、時には貴族の屋敷に忍び入り物品を盗み分け与えていたため、義賊の扱いになっていたのだと思います。

・惟規、勉学に励む??

>ごろ寝しながら、だらしない読み方ですね。
>当時の所作は厳密ではなく、時代がくだると書見台も出てきます。
>むろん、意識の高い藤原公任あたりであれば、もっとちゃんとした姿勢で読んでいると推察できます。
>勉強嫌いを公言する惟規はこんなものなのでしょう。
まひろさんが帰宅すると、惟規さまが床に寝転がり本を読んでいます。
まひろさんが驚いていると「俺だって字くらい読めるんだよ」と惟規さまが言います。
弟はもうすぐ大学寮に入っていなくなるとまひろさんはしんみりしていますが、惟規さまに「姉上らしくない」と言われます。

『光る君へ』より

書見台・見台は、書物を読んだり見たりするために用いる台の事です。
古くは正倉院に紫檀(したん)金銀絵書几(しよき)と呼ばれる奈良時代の書見台があり,これは肘木(ひじき)の両端に巻物をのせ,添木(そえき)に紙面をはさんで読める工夫がなされています。
見台の形が定型化したのははっきりせず室町時代の頃とも思われます。
(出典 (株)平凡社「改訂新版 世界大百科事典)

紫檀金銀絵書几(正倉院宝物模造品)
奈良国立博物館https://imagedb.narahaku.go.jp/viewer.php?requestArtCd=0000010406

こちらは為時公が惟規さまに『鶏鳴狗盗』の故事を講義する場面ですが、為時公側に文机があり、講師が読み上げる漢籍を覚えるという勉強法でした。

『光る君へ』より

こちらはF4の勉強会風景ですが、書簡を読んだり書を認めるための文机はありますが、まだ書見台は使われていません。

『光る君へ』より

こちらは『鎌倉殿の13人』最終回の吾妻鏡を読む徳川家康公ですが、床に腹這いで読んでいます。
惟規さまと同じくだらしないと言われるかもしれませんが、家康公は勤勉家な方であり、勉強嫌いだからゴロ寝で読んでいるわけではないと思います。
完全に自分の自由時間であり、畏まって読書をしなくていいからではないでしょうか。

『鎌倉殿の13人』より

>ここでは、いとにも注目したいところ。
>彼女は使用人というだけでもなく、ちやはの死後、実質的に為時の妻のような役割を果たしていたと推察できます。
為時公はまだ帰っていませんでした。
するといとさんが「殿は今夜はお帰りになりません、高倉の女のもとにお出かけでございます」と言い、まひろさんと惟規さまは顔を見合わせます。
いとさんは惟規さまの乳母です。
公式では『乳母として、惟規を溺愛し、まひろの姫らしくない振る舞いには、やきもきしているという役どころ』とあります。
惟規さま役の高杉真宙さんは乳母・いとさんについて『なくてはならない存在かなと思っています。ずっと幼いころから育ててもらっているので、きょうの(大学へ行く)シーンだってやっぱり惟規自身も寂しいところはすごくあると思っているので。だからなんかうれしかったですね」と言っています。

・花山天皇の人生とは何か?

>藤原為時が花山天皇に漢籍を指導しています。>書き下しではなく、中国語の発音そのままで読んでいる。
好きな漢籍且つ中国語発音で漢文を読んでいるのになんの説明もないのですね。
宮中では為時公は花山帝に講義をしています。
『仲尼昔夢周公久・・・』と自作の漢詩を中国語読みで呼びます。
帝は忯子さまの事を思い、文机に突っ伏し心ここにあらずです。
為時は引き続き、『聖智莫言時代過』と読み上げていきます。 
これは忯子さまを失い失意の花山帝を「あなたの御代は終わっていませんよ」と励ます歌なのだそうです

仲尼昔夢周公久  聖智莫言時代過
仲尼、昔、周公を夢みること久しく、言ふ莫かれ、時代、過ぎたりと。

意訳:仲尼(孔子)は昔、周公の素晴らしさに憧れ、長い間、夢にみてきた。
聖智(知恵者)よ、「良き時代は去った」と言うなよ。

『本朝麗藻』
『本朝麗藻』
『本朝麗藻』

そこへ道兼卿が帝に薬湯を持ってきます。
「そのようなものを飲んでよくなるとも思えぬが、お前が言うなら飲もう」と帝は薬湯を口になさいますが、「不味くて涙が出るわ。忯子を思って涙し、薬湯で涙し、朕の人生とは何であろうか」と不機嫌になられています。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より 

>北宋から輸入した最高級の青磁です。
>このドラマでは右大臣家や皇族周辺にはこれみよがしに北宋の磁器が置かれています。
鴻臚館(こうろかん)は平安時代に設置された外交および海外交易の施設です。
『鴻臚』という言葉は外交使節の来訪を告げる声を意味し、筑紫、難波、平安京に置かれ、北宋や高麗などの外国商人らの検問・接待・交易などに用いられました。
そのうち筑紫の鴻臚館跡は福岡城の敷地内に遺構が見つかっている唯一の鴻臚館です。
商船の到着が大宰府に通達されると大宰府から朝廷へ急使が向かいます。
そして朝廷から唐物使(からものつかい)という役人が派遣され、経巻や仏像仏具、薬品や香料など宮中や貴族から依頼された商品を優先的に買い上げ、残った商品を地方豪族や有力寺社が購入しました。
1997年の平和台球場閉鎖に伴い、1999年から始まった本格的な発掘調査によって木簡や瓦類が出土。他にも越州窯青磁・長沙窯磁器・荊窯白磁・新羅高麗産の陶器・イスラム圏の青釉陶器・ペルシアガラスが出土しています。
この様な北宋などとの交易による唐物の購入の背景があるのに、『右大臣家や皇族周辺にはこれみよがしに北宋の磁器が置かれている』とは。

>お正月に飲む「お屠蘇」は不老不死の薬と信じられてきました。
>ただのハーブドリンクなのに大仰だな!と言いたくなるかもしれませんが、当時の医療を踏まえればそれも納得できます。
『古事談』によると花山帝は頭痛に悩み、雨の日は特に酷く、様々な治療を試しても良くならなかったのだそうです。(現代でいうところの気象病でしょうか。)
頭痛に悩む花山帝を救ったのは陰陽師・安倍晴明公でした。
晴明公が言うには『花山帝は前世が行者であり、大峰(おおみね)の某宿で入滅されました。
前世の行徳によって天子として生まれたが、前世の髑髏が岩の狭間に落ち挟まっており、雨の時には岩が膨らんで間が詰まるので今生ではこのように痛むのです。大峯の髑髏を取り出して広い所に置けば治癒するでしょう。』との事。
そこで人を谷に遣わしたところ、晴明公の言うとおりになっており、髑髏を岩間から取り出させました。
以後、花山帝は頭痛に悩むことはなくなったのだそうです。

伝説はともかく、現代でも雨が降ると頭痛やめまいに悩まされる所謂『気象病』の症状がある方がいます。
『気象病』とは大きな寒暖差や天気や気圧の変化によって引き起こされる、体や心の不調の事です。
「頭痛」「めまい」「関節痛」や「気分の落ち込み」などが主な症状として挙げられます。
花山帝は最愛の忯子さまを失くした喪失感やストレスに加えて気象病でお身体が弱っているのではないでしょうか。
薬湯は『お屠蘇』などではなく、体のはたらきを高めて余分な水分を体の外へ出すことで、頭痛やむくみを改善する『五苓散』かもしれません。
それにしても、薬湯を持ってきたのが以前父・兼家卿の命で円融帝に毒を盛った藤原道兼卿なのがなかなかに不穏です。
兼家卿の策で帝に近づくためなので毒は入れていない様子ですが。

『光る君へ』より

・実資は今日も日記に愚痴を書く?

>花山天皇の側近である藤原義懐と藤原惟成が登場。
>蔵人頭の藤原実資に向かって「天皇におなごを見繕え」と要求してきました。
>すでに寵姫はいるものの、もっともっと注ぎ込んで、皇子をあげねばならない
>このままでは政もダメになってしまうと凄いことを言い出しました。
藤原義懐卿は「天皇におなごを見繕え」と要求していません。「帝のおそばに女子を送り込め」です。
『おなごを見繕え』ではどんな女性でも構わない様な印象になります。
帝の后候補は『后がね』と呼ばれ、ふさわしい教養や心得を幼い時から教えられ入内する方々です。
悲嘆に暮れる帝を見兼ねた義懐卿と藤原惟成卿は、藤原実資卿に「帝のおそばに女子を送り込め」と命じます。
既に帝のお傍には3人の女御がいましたが、「足りぬ、もっと注ぎこめ」と義懐卿が言います。
「今のままでは皇子さえ儲けられず、政が滞る」
とも言うので「いくら大勢の女子を注ぎ込んでも、帝のお心が癒されなければどうにもならない」と実資が反論します。 
義懐卿は「それを促すのも蔵人頭の役目である、怠慢じゃ」とさも実資卿が悪いかの様に言い放ちます。
そこへ道兼が現れました。
帝の様子を実資卿に尋ねられ、「忯子さまのことを思って涙している」と答えます。
「いつまでメソメソされておられるのだ。新しいおなごを抱けばお気持ちも変わろうと言うに」という義懐卿に実資卿が「なんと不敬な!」と立ち上がり憤ります。
「己の怠慢を棚に上げて偉そうな事を申すな」と義懐卿に反論され、惟成卿が間に入りますが、実資卿の腹の虫は治まる気配を見せず、ついには「自分のような勤勉な者に怠慢とは無礼な!」と声を荒げました。
「子作りだけは帝のお心次第、そこをお分かりいただき・・・」と惟成卿が言い、「その様な事は分かっておる。そなたの話はくどい」と実資卿は譲りません。
義懐卿は「わしらで何とかいたす。手のかかる帝だ」と言い捨てその場を去りました。

『光る君へ』より

実際に花山帝は寵愛した忯子さまが亡くなると、「出家して忯子の供養をしたい」と言い始めます。
外戚として実験を握る義懐卿は帝の生来の気質から出家願望が一時的なものであると見抜き、惟成卿や関白・頼忠卿を加えて天皇に翻意を促しました。
作中、生来の気質が好色ならおなごを充てがえばいい。それをしないのは蔵人頭の実資卿が悪いとはいささか短絡的ですが、義懐卿や惟成卿からすれば外戚として実権を握るためには、帝が消極的だったり政を放棄する様な事があってはいけないからでしょう。

>それにしても実資も、複雑な心境でしょうね。>美女を見繕うなんて女衒じゃあるまいし、やってられんわ!
女衒(ぜげん)』とは江戸時代、女を遊女屋、旅籠屋などに売ることを業とした者の事です。
近世から、主として江戸で用いられた語で、上方では「人置き」といったそうで、遊女屋と女の親元との仲介に当たりましたが、女を誘拐し売りとばす事などもあり、悪徳の商売とされました。つまり、何見氏は『帝がいつまでも忯子様を思ってメソメソしているのはまずいため新しいおなごを充てがえなどとけしからん』とポリコレ・ジェンダー批判を展開するために本来なら平安時代に存在しない『女衒』という職業を持ち出し、時代背景に合わない事を言っている事になります。

>たとえば平岡円四郎が、徳川慶喜の女を斡旋していたなんて、そんな情報は知らなくてもいいですよね。
(中略)
>側室だのお手付きだの、そういうことに一週使うような大河ドラマは不要であると、私は主張したい。
平岡円四郎公が徳川慶喜公に女性を宛てがっていた話を知らなくてもいいと思っているならなぜ平安時代と全く関係ない事をネチネチ叩くのでしょうか。
平岡公は一橋家家臣として、慶喜公の将軍候補擁立に奔走しており、これも一橋家の主として側室を設け、子孫を残すための努めの一つであったでしょう。
また側室とは、正室の許可を得て貴人の妻となり下で働く女性です。
御台所である美賀子さまとの間には子ができず、美賀子さまは正室の権限である養育権を行使し側室に産ませた子供たちを育て上げました。
平岡公のした事も『女衒』の様な女を遊女屋などに売る仕事ではありません。
『青天を衝け』然り『どうする家康』然り、許可を得れば側室を持てる時代、正室との間に子が少ない場合養子を迎える場合を除いて側室を設けるのはお家の繁栄を支えることです。
『側室はポリコレ違反!ジェンダーが!』なんて考えでいたら無嗣改易になるなどお家の大事に関わります。
長々と側室・妾に関してやる大河が嫌ならば、黒田官兵衛公の様に側室を一切持たなかった方もいますが、側室がいないから『軍師官兵衛』はOKという事でもありませんよね。

>血統で選ぶとなると、人間相手にブリーダーのような発想をする羽目になります。
>もうこの時代、それは辞めたいという気持ちが当然のことながら出てきて、強くなっています。
平安時代に限らず古代から中世は皇族が氏を賜り臣下に下る事が多く『〇〇帝の血を引く〇〇家』というお家の血筋は大変重要でした。
武家でも家格は重要で戦での名乗りも先祖が誰であるかからでした。
『鎌倉殿の13人』でも石橋山の戦いで北条時政公が源頼朝公の血筋の正統性を踏まえて清和源氏の先祖の名を挙げ名乗っていました。
『光る君へ』作中でも宇多天皇の血を引く宇多源氏である源雅信卿は家の誇りにしていました。

『鎌倉殿の13人』より
『光る君へ』より

>書かぬとか言っているくせに『小右記』に残っているパターンだ。
屋敷に戻っても実資卿の怒りは収まらず、夕餉の席で妻の桐子さまの酌で酒を飲みわしを公卿にしなかったからこんなことになった」と愚痴っています。
「何故義懐ごときが公卿でわしがそうでないのだ。帝はどこに目がついておいでなのだ。 先の帝はよかった。ああ〜!先の帝が懐かしい!」と円融帝の御代を懐かしんでなおも愚痴り続けます。
「懐かしんでも、院が帝に戻る事はない」と身も蓋もない事を桐子さまに言われ、「分かっておる!」と実資は答えます。
桐子さまが「分かっているならもう言わない」と窘められますが、実資卿は「わしが公卿であれば・・・」とまたもや言い始めます。
桐子さまは「じゃあ、それ日記に書けばよろしいのでは。日記、日記、日記!」と連呼します。
実資卿は「日記には書かぬ!恥ずかしくて書けぬ!」とムキになります。
平安時代、貴族の日記は他人に読ませるのが前提だったので、「愛妻に零す愚痴など恥ずかしくて書けぬ」と実資卿はなった訳ですね。
一本筋の通った良識人の実資卿が仕事上の愚痴をしつこく零し、桐子さまが貴方の愚痴はくどいとばかりに「日記にお書きなさい」と言うのは作中のお約束の様ですね。
『光る君へ』7回では藤原義懐卿が除目で参議に任ぜられた事について愚痴を零していましたが、ずっと官位を抜かれた事に対し『なぜわしが公卿でないのだ』という気持ちがあるのでしょうね。
因みにこの愚痴は『小右記』寛和元年(985)9月14日条に残されています。

『小右記』
寛和元年(985)9月14日条
『光る君へ』より
『光る君へ』より

・すべては兼家と晴明の策だった?

>代理の殿上間で倒れたところまでは本当だった>その後、家で回復したが、しなかったことにしたのだと。
『代理の殿上間』とは『内裏の殿上間』でしょうか。
東三条殿では詮子さまが藤原兼家卿を見舞っています。
父の手に触れて「温かい」と言う詮子さま。
しかし、「もしものことがあっても東宮様の後ろ盾はいるので、お心置きなく旅立ちなされませ」と兼家卿の耳元で囁きます。
その時、兼家卿が目を開き「そうはゆかぬぞ」と言ったため、詮子さまは非常に驚きます。
「キャーーー!」という詮子さまの悲鳴が邸内に響き渡ります。 

『光る君へ』より
『光る君へ』より

そして道隆卿、道兼卿、詮子さま、道長卿が枕元に集まりました。
父の命で花山帝の懐に入るため動いていた道兼卿以外の兄弟は皆驚いていました。
「父上の病は偽りだったのか」と尋ねる道長卿に、「内裏の殿上間で倒れたところまでは真である。家で目覚めたが目覚めなかった事にした」と兼家卿が答えます。
そして兼家卿は「我が一族の命運にかかわる大事な話じゃ」と前置きし、その理由について語り始めます。
安倍晴明公が祈祷のため屋敷に来た時、兼家卿は意識を取り戻していました。
子供たちを呼ぼうとする晴明公を引き止め、「今後自分はどうなるのか。孫・東宮(懐仁親王)即位を見届けられずに死ぬのか」と晴明に尋ねます。
「その様な事はございません。命懸けでご祈祷いたしておりますゆえ」と答える晴明公に、兼家卿
は「帝の譲位と孫の即位を急ぎたいが、帝は思いのほかしぶとい。自分には策がない」と言います。
晴明公が「策はございます」と言うので、兼家卿は「なんと?!」と驚きつつ興味を持ちます。「私の秘策お買いになりますか」と言い、「買おう」と兼家卿もそれに乗ります。
「されば・・・」と晴明公は策を授けたのだそうです。

『光る君へ』より

兼家卿はそのまま眠ったフリをし、内裏に亡くなた女御・忯子さまが怨霊となって右大臣に取りついたと言う噂を流しました。
晴明公はそれを花山帝に上奏し、「帝は愛しい忯子さまの怨霊と知って恐れ慄いているらしい」と言います。
道兼卿はほくそ笑み、「帝が日々涙ながらに憂いている」と言います。
さらに「右大臣が正気を取り戻した事で、忯子の迷える霊が内裏に飛んで行き彷徨っている」と晴明公が帝に伝えます。
そして「ここからが正念場じゃ、内裏で色々なことが起こる」と兼家卿は言います。
「霊を鎮め、成仏させるためには帝は何をなすべきか」「帝をどうやって素早く退位させるか」と兼家卿は帝の早期の退位の方法を子共たちに問います。
道兼卿が「ご退位なさった方が御心のためだと囁きます」と言います。
兼家卿は「これからは全力を掛けて帝を玉座より引き下ろし奉る、皆心してついて来い」と子供たちに告げます。
また兼家卿は、詮子さまに「源なぞ何の力もない、わしについてこなければ東宮のご即位はないと思え」と釘を刺します。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

>これまた『鎌倉殿の13人』と比較してみましょう。
>精神が弱った源頼朝に対し、不吉な色を告げてしまった阿野全成は晴明に劣ります。
>バカ真面目に答えを出すのではなく、ラッキーカラーでも告げて、心を元気にさせた方がよかったのかもしれません。
『鎌倉殿の13人』の阿野全成さんは、源頼朝公の弟ですが、醍醐寺で僧侶として修行し鎌倉に来てからは祈祷や占いなど影から幕府設立を支えました。
『占いの腕は五分五分で兄である頼朝の力になるため、鎌倉に来て自分のできる範囲で力になろうとは思うが無茶苦茶な事もしない』と言う人物です。
演じた新納さん曰く、『全成は頼朝さんのお手伝いはするけれど、基本、実衣と鎌倉で一生、穏やかに暮らしていきたかっただけの人になったんじゃないかなと思います。』との事です。
全成さんは自分の占いが当たらないのを気にしました。
自分のできる範囲で力になろうとしても、権力争いに巻き込まれ利用され分不相応の呪詛を請け負いそれが発覚し処刑されてしまいます。
高名で帝から公卿まで相談に乗り力を発揮する官人陰陽師の安倍晴明公とは人物像も生き方も違います。

『鎌倉殿の13人』より

・花山天皇の心を掴んだ道兼?

>その一方で、弟の藤原道兼に「なぜスパイになっているのか」と問いかけると、道兼は勝ち誇ったように、道隆よりも道長よりも使い物になったとドヤ顔です。
道隆卿は弟たちに「父上の見事さに打ち震えた。命を賭けて父上をお支え申そう」と言います。
そして道兼卿に「なぜ父が既に正気付いていた事を知っていたのか」と尋ねます。
『間者(スパイ)になっているのか』ではなく、「なぜ父が既に正気付いていた事を知っていたのか」を道隆卿は尋ねています。
道兼卿は「兄上や道長より自分が役に立つと父上が思ったからだ」と答えます。
「蔵人ながら右大臣家という事で遠ざけられていたが、ある日これを見て帝がにわかに自分を信用してくれた」と道兼は腕の痣を見せました。
「いかがした?」と道隆卿に訊かれ、道兼卿は「己で傷つけたんですよ。時折正気を取り戻す父に殴られたという事で。」と得意げに答えます。
腕の打撲傷は自演の様です。
帝は身体の傷を見せるために諸肌脱ぎになった道兼卿と相対され、「恐ろしい父親でお前も難儀な事だ」と仰います。
道兼は「帝のお悲しみに比べたらどうという事もない」と答えました。
そして帝は「義懐が女御でも他のおなごでもいいから子を作れと煩いのだ。朕は忯子でなければ嫌のに」と仰います。
道兼卿は「なんと酷い事を。人の心はその様に都合よく移ろうものではありませんのに。」と帝に同情しました。
帝は理解者として道兼卿を認めたのでした。
道兼卿は道隆卿や道長卿に「兄上や道長がのんびり父上の枕元に座っている時、自分は体を張って父上の命を果たそうとしていた」と言います。
道兼卿は例え父から汚れ仕事しか求められていないとしても兄弟を出し抜き、父の役に立てた事に充足感や優越感が満たされているのかもしれません。
道長卿は道兼卿をじっと見据えています。

『光る君へ』より
『光る君へ』より。

>それにしても、道兼は帝の前で上半身を脱いでいるところがなんとも言えません。
>耽美です。
>東洋の伝統として、同性同士だろうと、異性相手であろうと、とてもロマンチックな目線を送り、記録するということがあります。
花山帝が道兼卿の腕の打撲傷をお改めになり、ついには諸肌脱ぎにさせてお前も難儀な事だ」と仰っいます。
それは、道兼卿が帝のお傍に仕える蔵人ながら右大臣家の二の君という事で信用できず遠ざけており、捲くられた袖から覗く腕を見た藤原為時公の報告により虐待疑惑の傷があるとお知りになったからです。
時折正気を取り戻す父に殴られたという体で自演したとお思いにならなかった帝は兼家卿を『手段を選ばず自分の欲のためには自分を引きずり下ろそうとし、我が子にも手を上げる恐ろしい父親』と感じ入って同情されてしまったからで、同性愛の様な同性同士のロマンチックな雰囲気ではないと思います。
加えて帝は元来好色といわれ、最愛の忯子さまを失い悲しみに暮れていらっしゃるのですから。
これが嫌いな作品なら『俳優をわざわざ脱がせるな』と俳優を侮辱し、『視聴者や週刊誌は毎回大河にエロを期待している』『エロは俺たちのもんだ! 女向けエロはゆるさん、けしからん!』と言うのではないですか。
商用ブログでのレビューなのに、全く卑猥要素の無い所で個人の性癖について延々と語り収益を得る何見氏の頭の中はエロシーンしかないのでしょうか?

大河コラムについて思ふ事~
『光る君へ』第8回~
大河コラムについて思ふ事~
『光る君へ』第8回~

>藤原道長がまひろを思いつつ詠んだ白居易の詩にせよ、同性の友人である元慎を思い浮かべながら詠んだ作品です。
漢詩の会で道長卿がまひろさんを思いながら詠んだ白居易の『禁中九日対菊花酒憶元九』の『元九』というのは白居易の友人・元微之の事で、菊の花の詩を受け作られたもので最後に「一日中君の『菊の詩』を吟じている」とあります。
重陽の節句は、江戸時代の怪異小説『雨月物語』に収められている『菊花の約(きくかのちぎり)』にも題材が取られています。
重陽の節句の義兄弟(衆道の契りあり)の約束を果たすため、死んで魂となっても信義と友情を尽くす様が描かれました。
しかし、ここでは父の策謀の一端を担い、己を傷つけてまで帝の信用を得て懐に入り込む道兼卿と同情なさる帝を描いており、同性愛は関係ない事です。

『禁中九日対菊花酒憶元九』白居易
『光る君へ』より
『光る君へ』第8回より

>道兼があえて脱いでいることは、何かを誘導しているとみなしてもおかしくはありません。そこは自由にできると。
道兼卿が諸肌脱ぎになったのは、蔵人でありながら右大臣家の人間と追い払われては帝の退位の策謀を遂行できないため、帝の信用を得たいからです。
なので、腕だけでなく背中などにも傷を付け「虐待を受けている」と見せたのだと思います。

李延年のように斉信も、もっと頑張って、帝に「ね、私って妹そっくりでしょ?」とでも迫ればよかったんじゃないですかね。
>アピール不足だったのでは?
花山帝は元来好色で忯子さまを見初め、その入内に際し、「父も自分も不承知だったのに義懐がしつこく来て、帝の望みを叶えてくれと頭を下げたために根負けして入内させてしまった」と斉信卿は言っていました。
忯子さまは帝の寵妃になった事で懐妊し、斉信卿は外戚として自分も覚えめでたくなれば出世の目処が立つと病床の忯子さまに「兄・斉信は使える男、帝の尊き政には兄のような若い力がなくてはならないのだ」と帝に囁いてくれと頼み込んでいました。
あくまで一族の女性を入内させ外戚として権勢を振るう事を望んだのであり、情人として寵愛を受けたい訳ではないと思います。

・そして彼らが鳥辺野に向かうと?

>散楽兼盗賊一味は、獄中でのんびりしています。
検非違使に捕らえられた直秀たち散楽一座は、2日間ほど取り調べがないため、皆牢に入れられています。
一座の面々は「人も殺していないし、罰は軽いだろう」と楽観しています。
「せいぜい鞭打ち30回か」と見積もり、「牢を出たら六条河原の女に逢いに行くんだ」と軽口を叩きました。
明日をも知れない卑賤の者である散楽一座は獄中で不安を吹き飛ばす様に『梅の香ぞ、酒の香ぞ、そそげず、そそげず、闇の盃』と歌い、踊り始めました。
因みに『女に逢いに行く』と言った六条河原は京都市内を流れる鴨川の河原に存在した刑場です。
保元の乱における源為義公・平忠正公。平治の乱における源義平公・藤原信頼公。源平合戦での平能宗公、山崎の戦いでの斎藤利三公。関ヶ原の戦いに於ける石田三成公・小西行長公・安国寺恵瓊。大坂の陣における長宗我部盛親公らをはじめとする大阪方の残党など、権力者に反抗した者が数多く処刑されました。
処刑後、彼らの首級は三条大橋の袂に晒されました。
散楽一座の歌う『そそげず、そそげず、闇の盃』も不穏に思えてしまいます。

『光る君へ』より

右兵衛府の武官仲間の広盛によると、検非違使庁に伝手のある彼の弟からの情報では、散楽一座への判決は流罪と決まったとの事です。
出立の日を尋ねる道長卿に、「明日の卯の刻(午前6時から7時頃)だったと思う」と広盛。
仲間の宗近は、「7人もの流罪は手がかかる。盗人ならせいぜい鞭打ちなのに、検非違使庁は何を考えているのか」と疑問を洩らします。
そして、百舌彦さんが主人・道長卿の口調を真似ながら「卯の刻、直秀が獄を出て都を追われる」と乙丸に伝え、別れを告げるなら共に参ろうと乙丸を誘います。

『光る君へ』より

まひろさんも道長卿と共に、流刑になる直秀たちを見送りに獄へ向かいます。しかし、番人たちは「もう出た」と伝えます。
卯の刻にはまだ早く、胸騒ぎがしたのか道長卿は番人に「どこに向かったのか?」と問い詰めます。番人は「鳥辺野・・・」と答えます。
道長卿は表情を強張らせ、「鳥辺野とは屍の捨て場ではないか」と言います。
馬で鳥辺野へ向かう道長卿とまひろさんの頭の上を、烏たちが飛んで行きます。

『光る君へ』より

まだ卯の刻には早い闇の中、散楽一座は手に縄を掛けられ、検非違使に連行されています。
先導する放免が立ち止まり、振り向いて笑みを漏らしました。
その頃道長卿とまひろさんは、下馬して検非違使に連行された散楽一座の後を追いかけます。
辿り着いた先の山中では烏が群がり、2人の姿を見て飛び立ちます。
時すでに遅しでした。
そこに見えたのは、腰と手首を縄で縛られ嬲り殺された散楽一座7人の無惨な遺体でした。
平安時代の律令制度下では、処刑方法には斬首刑と絞首刑とがあり、「血の穢れ」が忌避されたため、斬首刑は反乱の首謀者等に限られ、絞首刑が主な処刑方法でした。
天皇の裁可が必要な貴族への死刑は810年(弘仁元年)の薬子の変で藤原仲成が処刑された後から、1156年(保元元年)の保元の乱で源為義らが処刑されるまでの約350年間に渡り執行される事はありませんでしたが、身分の低い階級への死刑執行はごく当たり前に行われていたそうです。本来死刑となるはずの受刑者は、次に重罰である流刑に処せられていました。

盗賊だった散楽一座の減刑を道長卿は望みましたが、心付けを渡した時検非違使(火長)は何かを思案していました。
流刑には流刑地への移送の手間がかかり、手間を惜しんだ検非違使は宵闇に紛れ一座の皆に凄惨な殴打を加えて処刑したのでしょう。
検非違使の最下部である放免は元罪人であり、死体の処理など「ケガレ」に日常的に触れていて命を奪う事に躊躇がなかったのでしょう。
散楽一座を処した放免はかつて(第2回参照)直秀を追いかけ、道長卿を誤認逮捕した者たちだったそうです。
直秀とまひろさんが知り合うきっかけになりましたが、放免たちは手柄を失った上土下座で叱られていますので、因縁深い相手だったのでしょう。

『光る君へ』より

>直秀は、手のひらに土を握りしめて死んでいました。
>精一杯の抵抗をした証でしょう。
「愚かな・・・」と道長卿が呟きます。
彼らを助けたいがために検非違使に心付けをわたし、「手荒なことはしないでくれ」と頭を下げ頼み込んだはずが、死に至らしめる結果になってしまいました。
群がる烏を払い除け、直秀の手の戒めを解いた道長卿は、その手がしっかりと土を握っているのを目にします。
道長卿は直秀の手の土を払った後、自分の扇を持たせ、手を合わせました。
そして狩衣の袖口を紐で括り腕を捲ると、夜が明けるまで時間をかけ、地面に素手で彼らの穴を掘り埋葬しました。
彼らを埋葬するのをまひろさんも手伝います。
道長卿は人でありながら人に非ずな扱いを受けた直秀たち散楽一座を人として芸人として弔いたかったのでしょう。
直秀を演じた毎熊さんによると、『役人に殺されるということで、今の権力に対する反抗心や、「山の向こうにある海の見える場所に行くんだ」と夢見ながら死んでいくしかない悔しさをにじませる死に方になったらいいな、と。その気持ちを道長にバトンタッチすることを象徴するものとして、泥を握りしめました。』との事です。

『光る君へ』より

>叫ぶ道長。
>正確な理由は不明なれど、彼が賄賂を渡したせいで、直秀たちは殺されてしまったのでしょう。>ただのケチな盗人ならば、放免で済んだかもしれない。
散楽一座の遺体を埋葬し、再び道長卿とまひろさんは手を合わせました。
道長卿は「すまない」とまひろさんの袿の泥を払います。
そして、埋葬した散楽一座に向かって「すまない」と謝り「皆を殺したのは俺なんだ」と告白します。
「余計なことをした。すまない、すまない、すまなかった! すまなかった!」と道長卿は表情を歪めて号泣しています。
自責から「すまない」と謝罪を繰り返す道長の背にまひろさんが手を添え肩を抱きました。
そして道長卿の肩を抱くまひろさんも涙を流していました。
馬にまひろさんを乗せ道長卿が馬の口を取り、2人は帰路に就きます。

『光る君へ』より
『光る君へ』より

散楽一座の面々は「人も殺していないし、罰は軽いだろう」「せいぜい鞭打ち30回か」と言っていました。
貴族の屋敷に押し入って盗みを働く罪にたいしての罪状がだいたいそれくらいだったのではないでしょうか。
『着釱政(ちゃくだのまつりごと)』という行事がありました。
平安時代、陰暦5月・12月に、囚人に着釱して衆人の中に連行し、見せしめとして検非違使 (けびいし) に笞 (むち) で打ち懲罰を加える真似をさせた儀式です。

道長卿が貴族社会の情けの様に心付けを渡してしまった事で罪人の刑罰を司る検非違使の矜恃を損ない、結果散楽一座を死に至らしめる結果になってしまったのかもしれません。
直秀が命を落としたのは京の東、鳥辺野です。
現在の京都市東山区内に当たり鳥部野・鳥戸野とも記されました。
吉田兼好は『徒然草』の中で「あだし野の露きゆる時なく、鳥部山の烟立ちさらで」と記しました。

『徒然草』吉田兼好
あだし野の露消ゆるときなく、鳥部山の煙立ち去らでのみ、住み果つるならひならば、いかにもののあはれもなからん。
世は定めなきこそいみじけれ。

意訳:
あだし野の露が消えるときがなく、鳥部山の煙が立ち去らないで、この世が終わるまでまで住み続ける習わしであるならば、どんなにか物事の情趣もないだあろう。
この世は無常であるからこそ素晴らしい。

『徒然草』

化野(あだしの)とともに京を代表する葬送の地であり、『源氏物語』でも桐壺更衣、正妻の葵の上、夕顔らが鳥辺野に葬られます。
第4帖「夕顔」では急死した夕顔に別れを告げたいと源氏の君が止められるのも聞かずに、鳥辺野まで赴き夕顔の遺骸と対面する場面が描かれます。

『源氏物語』
第4帖「夕顔」
重要文化財
「源氏物語絵色紙帖 夕顔 詞青蓮院尊純」 
京都国立博物館蔵

『遠くの国』に渡る事を夢見た直秀が無惨に殺され屍の捨て場である鳥辺野で野晒しになり、烏に啄まれる様を目撃するのですから、源氏の君が夕顔の遺骸に逢いに行く様に衝撃的な出来事だったのではないでしょうか。

・晴明、帝をそそのかす?

>なんなんだよ!
>ちょっと真顔でそう突っ込みたくなりました。いや、話がおかしいとか、考証ミスとかではなく、当時の思想というか宗教のごった煮感がすごい。
宮中では犬の死骸が発見されたり、多量に水が廊下に溢れているという事件が起こり、女房達が「忯子さまの涙だ」と噂されます。
弘徽殿では「白い影を見た」という者も現れ、忯子さまの怨霊の噂は瞬く間に広がっていきました。
花山帝は『兼家が死ななかった事』を晴明公から聞き、「しぶといやつ、虫唾が走る」と不満げになさっています。
晴明公は「そのようなのどかな話ではございません。右大臣さまが目覚めたということは、成仏できない忯子さまの霊が右大臣さまを離れて内裏に飛んで来たという事にございます。」と上奏します。
さらに「忯子さまの霊が成仏できず藻掻いています。成仏させられるのはお上しかおられない。」と告げます。
「何をなすべきか」とお尋ねになる帝に、晴明公は帝を焦らす様に思案します。
そして、目線を上げはっきりと帝を見据え、「お上が出家あそばされるしかございません」と言います。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

>怨霊云々は、シャーマニズムも強い【神道】でしょう。
>で、成仏させるというのは【仏教】。
>これを主張しているのは【陰陽道】をおさめた陰陽師。
>何が何やらわからない、本当にわけがわからない。

8回の右大臣家の祈祷の場面でもありましたが。病を悪霊のせいとし密教僧の祈祷で護法童子を召喚して憑坐(よりまし)という巫女に悪霊を移す『阿尾奢法(あびしゃほう)』と呼ばれる術があるそうです。
『憑祈祷(よりきとう)』とも呼ばれ、平安時代の貴族社会では、病気や出産に際し密教僧の祈祷が重視されていましたが、これは天台宗の験者が得意とする修法でした。『小右記』長和4年(1015年)5月2日条では三条天皇の眼病の際の憑祈祷の様子が記録されています。

『小右記』
長和4年(1015年)5月2日条

憑祈祷は江戸時代ごろまでは一般的な病気平癒の術なのだそうです。
『青天を衝け』では狐に憑かれた姉のなかを修験者と憑坐が払おうとしましたが、あまりのインチキ振りに主人公・渋沢栄一さんが彼らの嘘を暴く場面がありました。

『青天を衝け』より

『光る君へ』では安倍晴明公が不動明王真言を唱え病の原因を占い、屋内では密教僧の憑祈祷で憑坐に悪霊が移り、庭では屋敷を背に祭壇が組まれ、晴明公たち陰陽師による『泰山府君祭』が執り行われました。
『泰山府君祭』とは中国の泰山に住まい人間の生死、寿命、官位および死後の審判を司る神・泰山府君を祀る陰陽道の祭祀です。
『小右記』永祚元年(989年) 2月11日条には宮中で晴明公が泰山府君祭を執り行った事が記述されています。

『小右記』
永祚元年(989年) 二月十一日条

清少納言も『「枕草子」すさまじきもの』の中で憑祈祷の様子を記述しています。

『枕草子』すさまじきもの

この様にこの時代の貴族社会では病気や凶事に際し、密教僧の祈祷が重視され憑坐や陰陽師も密接に関わっていたのです。

・世を正すことはできるのか?

>今日から本気出すと返す惟規。
>典型的なダメな言い訳ですね。
為時公の屋敷では、弟・惟規さまが大学寮に行くため家族に別れの挨拶をしていました。
乳母のいとさんは傍らで涙を流しています。
惟規さまは「父上の顔を潰さないよう努めてまいる」と言います。
涙を流し続けるいとさんに、為時公は「涙を流す事ではない」と言います。
まひろさんも「今生の別れではないし、休みには帰って来れる」と言いますが、いとさんは「赤子の時よりお育てし、片時も離れたことがない若様ですので」と辛い別れに涙で袖を濡らします。
為時公は故事を引用し、「一念通天、率先垂範、温故知新、独学固陋。肝に銘じよ」と餞の言葉を掛けます。
「今の分かった?」と弟に確認するまひろさん。
惟規さまは「1つわかった」と答えます。
「情けない」と為時は言い、まひろさんが「今日から本気出すから」と惟規さまを庇います。
「今日から本気出すから」と言ったのは惟規さまではなくまひろさんです。
まひろさんは惟規さまが拙くとも大学寮で学ぶため書物を読んでいたのを知っているので、為時公の餞の言葉が1つしか分からずとも『今日から本気出す』とフォローしたのでしょう。

一念通天
出典
『周易参同契』

どんなことでも、ひたすら信じて念じ続ければ、必ず天に通じて、成し遂げられるということ。

『周易参同契』

率先垂範
出典
「率先」は『『史記』絳侯世家』
「垂範」は『『宋書』謝霊運伝論賛』

人の先頭に立って物事を行い、模範を示すこと。
『率先』は先んじる、人の先頭に立つ意。
『垂範』は模範を示すこと。

『『史記』絳侯世家』
『『宋書』謝霊運伝論賛』

温故知新
出典
『論語』為政

以前学んだことや、昔の事柄を今また調べなおしたり考えなおしたりして、新たに新しい道理や知識を探り当てること。
『故きを温ねて(温めて)新しきを知る』

『論語』為政

独学固陋
出典
『礼記』学記

師も友も持たずに独りで学問すると、見識が独りよがりになって頑なになるからよくないという事。
『孤陋』は、見識が偏り独りよがりな事。
『固陋』とほぼ同意。

『礼記』学記

>独学孤陋(どくがくころう)
>人と接することなく学んでいると、意見が偏ってしまう。
>現代ならばエコーチェンバーか。
エコーチェンバー現象
《echo chamberは反響室の意》
SNSにおいて、価値観の似た者同士で交流し、共感し合うことにより、特定の意見や思想が増幅されて影響力をもつ現象。
『独学孤陋』は人と接せず独学して見識が偏る事。『エコーチェンバー』は価値観の似た者同士での交流で特定の意見や思想が増幅される事。
独りと価値観の似た者の交流かまある状態では違うと思います。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

>「おまえが男であったらと今も思うた」
>まひろも同意します。
>この頃そう思うようになったと。
>男であったら勉学に励み、大学で学び、内裏に上がり、世を正す。
>そう決意を語るのです。
為時は『今日から本気出す』らしい惟規さまに、「しっかり学んで見違えるように成長せよ」と最後の餞の言葉を贈ります。
惟規さまが出て行く姿を見ながら、為時公はまひろさんに「お前が男であったら」と言います。
まひろさんは「自分もそう思います。男なら自分も勉学に励んで内裏に上がり世を正します。」と言います。
為時公は「ほう・・・」と感心しています。
まひろさんはすぐに「言い過ぎました」と訂正します。

・MVP:まひろと道長?

>【正史】に対する【稗史】は重要です。
>日本ではフィクションでも【正史】が強くなり、【稗史】が弱いということは指摘されています。
何見氏は『【正史】に対する【稗史】は重要』と言っていますが、『どうする家康』27回レビューでは、脚本家・古沢良太氏の『レジェバタ』関連インタビューを挙げ、『脚本家からして「史実なんてフィクションだ」と堂々と語ってしまう。史実とされている物語よりも、自分の妄想の方がいけてるし面白いw その妄想の邪魔になる要素は全部消していくwといった創作スタイルなんでしょうね。ただ、一年間を通して描く大河ドラマで、それをやるのはあまりに危険』と論っていました。
しかし、古沢氏のインタビュー内容では、『日々いろんなことが起きるなか、大きな事件や出来事は歴史として残っていくけれど、小さな出来事は誰も知らずに、歴史に残っていかない。それは仕方のないことかもしれませんが、小さな出来事の積み重ねで、大きな出来事も起こっているはず』と仰っており、『「どうせ史料なんて嘘でしょw」という態度、史実軽視というか、そもそも読んでいるかどうかも不明、自分の構想に邪魔だったら把握しない、歴史に興味がない』と曲解し、事実とは大きく乖離しているのに独りよがりで叩いていたのですが。
それすら忘れて『【正史】に対する【稗史】は重要』とは。

いま残っている歴史はフィクションだと思っているところがあります。
いま残っている歴史は、勝者が都合のいいように語り継いだものですから、どう解釈しても自由だと思っているんです。

古沢良太氏インタビューより

>大河ドラマにせよ、かつて架空主人公の作品もありましたが、いつしか消え、稗史目線のために出した人物は「オリキャラ」「邪魔だ」と罵倒されてしまうこともある。
>『麒麟がくる』の駒、東庵、伊呂波太夫が罵倒されているファンダムを見て、私はそういう稗史軽視に危惧を覚えていました。
>あの作品はなんとなく気に触る要素があるけれども、そこを指摘できないモヤモヤ感が、稗史目線人物にぶつけられていたとは推察できるのですが。
事あるごとに『駒があんなにしつこく叩かれたのはおかしい!ミソジニーだ!』と蒸し返し、今度は『稗史軽視に危惧』ですか。

大河コラムについて思ふ事~
『光る君へ』第2回~

時代背景に合わない女性の描き方に批判が出た事などには目を向けないのでしょうか。
『麒麟がくる』のお駒ちゃんは親を乱捕りで亡くし、医師の望月東庵先生のもとで働き、後に薬師となり丸薬の方仁丸が売れ将軍・足利義昭公の御所にも上がるほどになりましたが、SNSでは『不要』と言われてしまう事もあったようです。
下記サイトではこう挙げています。

・光秀や足利義昭など、歴史上の人物を動かし始めた。出番も増えて、ヒロインどころか「裏の主役」みたいになり、そこに違和感を覚える視聴者が続出した 
・駒は医師に仕える薬作りの町娘にすぎない。まして序盤では、門脇いわく「(光秀に)絶賛片思い中」という乙女だった。それが終盤では将軍の愛人のような立場になったりして、そのぶん、主人公との距離も遠ざかることに。おかげで、そのヒロイン性にブレが生じた

AERA

「駒は現代人みたいだから嫌いなんだってばw 将軍の愛人でもないくせに、意見をズバズバ言うとかお姫様気取りでしょw」と言う意見も『医師に仕える薬作りの町娘』という設定が『将軍の愛人のような立場』になった事で戦国時代の商売の仕組みや女性の置かれた立場としてみると乖離があったという事ではないでしょうか。

>稗史の人物は、正史側の鏡を果たすこともある。
稗史の人物は正史側の鏡』というなら、女性でありながら男性と同じ様に走る事を夢見て、戦国時代に恩人であるお市さまのために浅井氏の裏切りを知らせに小谷から金ケ崎まで命懸けで走った阿月さんや、女性の運動がまだ憚られた大正時代にランナーを志し後輩育成に力を注いだシマさんは一切評価しないのですね。

『どうする家康』より
『いだてん』より

・直秀ロスは理解できるが……それどころじゃないかもしれない?

>ただし、いつまで直秀ロスでいられるかどうか――それが本作の恐ろしいところです。
下記リンク記事によると、直秀の死に視聴者からは「直秀も道長もつらすぎ」「直秀ぇぇぇぇぇぇ」「まだ序盤なのに退場は早すぎる」「直秀…もう会えないの…もうちょっと3人の関係を見ていたかった」「直秀…こんなに早く退場とは…とほ」「直秀と別れの言葉もないなんて…」などの声が寄せられたそうです。
視聴者は貴族社会に生きる道長卿やまひろさんと明日をもしれぬ散楽一座の直秀の立ち場の違いや身分差ゆえの価値観から来る悲劇に一喜一憂し、道長卿やまひろさんとともに弔いの気持ちを持った方もいるのではないでしょうか。
物語の余韻を楽しみたい人もいるでしょうに、視聴者の代弁の様に『いつまで直秀ロスでいられるかどうか』とは余計な事では。
それに為時公が従五位下・越前守に叙任され越前国へ下向するのは長徳2年(996年)の事でまだ先の事です。

>藤原為時がたどたどしい中国語を話す一方、越前には中国語の発音がバッチリできる朱仁聡と周明が漂着。
藤原為時公が花山帝の御前で披露した、一見拙い中国語の漢詩朗読『仲尼昔夢周公久  聖智莫言時代過仲尼』は為時公自ら作った漢詩の一部なのですが、最愛の妻・忯子さまを失い悲嘆に暮れる花山帝を慰めるために為時公が作ったのでしょう。
彼の漢詩は『本朝麗藻』という平安中期の漢詩集に収められています。

お経の理解や漢詩で韻を踏む必要があり中国語読みも行っていた事もあるからでしょうか、あえて中国語読みをしたのでは無いでしょうか。

仲尼昔夢周公久  聖智莫言時代過仲尼

昔、周公を夢みること久しく、言ふ莫かれ、時代、過ぎたりと。

意訳:仲尼(孔子)は昔、周公の素晴らしさに憧れ、長い間、夢にみてきた。聖智(知恵者)よ、「良き時代は去った」と言うなよ。

『本朝麗藻』

『本朝麗藻』

>朱仁聡を演じる浩歌さんは中国語がペラペラです。
>そして周明は、松下洸平さんです。
朱仁聡を演じる浩歌(矢野浩司)さんは大阪出身の日本人俳優さんですが、中国ドラマに出演後単身中国に渡り中国語を勉強しながら活動を続けられている俳優さんだそうです。
日本では、NHK連続テレビ小説『ブギウギ』 で黎錦光 役を努められました。

『光る君へ』より

また、周明を演じる松下洸平さんは日本の俳優、シンガーソングライターとして活躍され、NHK連続テレビ小説『スカーレット』 で十代田(川原)八郎 役を努められました。

『光る君へ』より

ところで何見氏は『どうする家康』作中で瀬名さまの内通を誘うため穴山梅雪(信君)公が唐人(明国人)医師・滅敬と偽った時には、その衣装がおかしいと叩いていたのですが。
あれは明国人医師に見えるっぽい変装という設定で中国人ではありませんでした。
ネイティブの俳優さんを採用しなければいけないと、嫌いな作品ならば叩きかねない何見氏なのですが、ここではダブルスタンダードでしょうか。

>私も漢籍関係で間違ったことを書き、ご指摘を受け修正しました。
>全くもって情けないと思うとともに、独学孤陋とはこのことかと痛感しています。
>マウントを取ったり勝ち誇るのではなく、様々な意見を聞いて学ばねばならない。
商業アフィリエイトブログなのだから原稿を間違ったまま校閲せずそのまま記事として出してしまうのは如何なものかと思います。
白居易の詩の引用であるのに李白と間違える。
漢籍マウントをドヤ顔でやって書き散らしてよく見たら間違いがあるという典型例でした。
『学びがない大河ドラマはやはり間違っている』
自分のやらかしを棚に上げ大河批判でしょうか。
『マウントを取ったり勝ち誇るのではなく、』というのは自分を棚にあげた嫌味の様に見えます。『私に意見や説教した!マウント取り!マンスプレイニング!』ではなく、今回の平安時代の宗教観の様に当時の貴族の日記などもある訳ですから史料も読み込んでレビューを書いていただきたいです。

※何かを見た氏は貼っておりませんでしたが、今年もNHKにお礼のメールサイトのリンクを貼っておきます。
ファンの皆様で応援の言葉や温かい感想を送ってみてはいかがでしょうか?






























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