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大河コラムについて思ふ事~『光る君へ』第3回~

1月下旬です。寒さが極まり、冬が最も厳しくなる大寒が過ぎました。
まだまだ寒さはこれからですので皆様健康には充分お気を付けください。
さて、光る君へ第3回。
今週も『武将ジャパン』大河ドラマコラムについて書かせていただきます。
太字が何かを見たさんの言質です。
御手隙の方に読んでいただければと思います。それでは。


・初めに

>女房たちに嫌われる実資が微笑ましい!
右大臣・藤原兼家卿は蔵人(令外官の一つで天皇の秘書官的な役職)である次男・道兼卿に「陪膳の女房を手なずけて、帝の食事に、少し加減を悪くする程度に薬を入れる様に」と言いつけ「それで心が弱まり、退位を望まれれば」と思い通りに政を進めようと野心を見せていました。
兼家卿の目論見通り、円融帝は自ら朝議にお出ましになっても気分が悪そうになさっていました。
安倍晴明公が帝の回復を祈祷しても回復の兆しは見えません。
5日間の邪気払いも効果が無く、蔵人頭の藤原実資卿は状況に疑惑を持ち「おかしい」を繰り返し、陪膳の女房たちを取り調べるつもりで内侍所(内裏で、典侍(ないしのすけ)・掌侍(ないしのじょう)以下の内侍司の女官が詰めた所。温明殿にあった)に向かいます。
薬を使うのを止めていた道兼卿でしたが、しつこいと言われる実資卿の追及によっていつ事が露見するかと不安な道兼卿。
しかし、実直で良識人の実資卿は陪膳の女房たちの『頭中将様いけ好かない』などの恨みの籠った蔭口や周囲の感情によって傷つき、敵を作りすぎる事を怖れ、女房衆の詮議をやめてしまいました。
もとはと言えば円融帝と藤原兼家卿の折り合いが悪く、退位を勧めるためわざと帝の体調を弱らせる目論見が右大臣家にあり、それを察知した蔵人頭・藤原実資卿が調査するも疑われた女房衆の反感を買ってしまうという実直だけではままならぬ政の辛さを描いているのですが、『微笑ましい』とは。

『光る君へ』より

>正体が露になれば釈放されるでしょうから、確かに大丈夫だろうとは思いますが、そもそも追われていた散楽の直秀とは何者なのか?
永観2年(984年)、道長卿が絵師の家へまひろさんを訪ねた帰り。
都の路傍では盗みの疑いをかけられていた散楽一座の直秀が取り締まり中の放免に侮辱するような態度を取ったため追われています。
まひろさんが放免たちに「男が逃げて来なかったか」と訊かれ、直秀が逃げた逆の方向を指したためにたまたま居合わせた水干に萎烏帽子姿の道長卿が取り押さえられてしまいます。
まひろさんは必死に「その人じゃありません、待ってください」と言います。
道長卿はまひろさんを庇う様に「俺は大丈夫だ」と言い(なぜか心の声としてまひろさんに聞こえていますが)、放免たちはそのまま道長卿に縄をかけ引っ立てて行きます。
第2回で何見氏は『検非違使に捕まってしまった』と言っていましたが、髭面に贓物(=ぞうぶつ、盗品)である摺り染めの装束から見て彼らは『放免』です。
『放免』とは検非違使庁の下級刑吏として実際に犯罪者を探索・追捕し、拷問や獄守、流人の護送や死体や穢れの清めなどを担当する釈放された囚人の事です。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『法然上人絵伝』
知恩院蔵

・道長、獄から解かれ、父に叱られる?

>高貴な相手を盗賊と見間違えるのは何事か!と、捕まえた側がかえって厳しい尋問を受けそうな予感もします。
道長公の従者・百舌彦さんが道長卿が放免に捕らえられたと東三条殿に走ったのでしょう。道長卿が釈放されます。
右大臣家の子息を冤罪で捕えたと分かり、離れたところに両膝をつき首を垂れる放免たちはもとより「高貴なお方を盗賊と見間違うなど、あってはならない」と彼らを管轄する検非違使庁の実行部隊長である『看督長(かどのおさ)』と『火長(かちょう)』が低姿勢で謝罪しています。
手前で謝罪する橙色の狩衣の人物が『火長』、その後ろで頭を下げる赤い狩衣と白い布袴の人物が『看督長』です。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『法然上人絵伝』
知恩院蔵
国宝『伴大納言絵詞』
東京国立博物館蔵

>道長は平惟仲と共にあっさりと解放されました。
『共にあっさりと解放され』とありますが、平惟仲公は天元3年(980年)頃には藤原兼家卿の家司(家政を司る役職)に就いており、兼家卿に命じられ道長卿を迎えに来たのではないでしょうか。
道長卿は平惟仲公と共に東三条殿へ向かい、その様子を最初に追いかけられていた散楽一座の直秀が窺っています。

『光る君へ』より

>家に戻ると、父の藤和兼家が放免を相手にするなと怒っています。
藤原兼家卿の事を言ったのでしょうけど『藤和兼家とは?
道長卿は館で兼家卿から「お前は右大臣の息子、放免などを相手にする身分ではない」と叱られ「相手にしておりませぬ」と反論しています。
兼家卿は「ではなぜ捕らえられた。わしが屋敷におらねば、お前は獄で嬲り殺されていたやも知れぬぞ。」と言い、道長公は「屋敷におられてようございました。」と返します。
そして今度は我が子の着物を咎める兼家卿。
「これは・・・民に紛れて下々の暮らしを・・・」と言う道長卿に兼家卿は「民の暮らしなど知らんでよい!知れば、思い切った政ができなくなる」と叱ります。
兼家卿をはじめ右大臣家一門にとって今が正念場であると言っているのに「分かっておらぬやも知れませぬな」と飄々と答える我が子に兼家卿は声を荒げ、「詮子は帝に嫌われている。そのうえお前が厄介事を起こせばどうなる。一族のみならず懐仁親王にまで傷が付くのは困る。一つの過ちも許されぬ。」と釘を刺します。
「一刻も早く(懐仁)親王を東宮に、帝にしなければならない」と言い聞かせる兼家卿。それは自身が摂政となることを意味しています。
「もう既に右大臣ではないですか、これ以上上を目指さずとも・・・」と呆れる道長卿に兼家卿は「上を目指すことは我が一族の宿命である!」と断言します。
それを肝に銘じる様に言われても道長卿は「自分は三男だ」と反論します。
しかし「わしも三男だ!」と即座に兼家卿は答えます。
「ゆえに三男のお前には望みを懸けたが間違いであったようだ」と言う兼家卿ですが道長卿は「お顔に虫が」と戯れを言って兼家卿を怒らせます。
詮子さまが現れ状況を面白がっています。
兼家卿が不機嫌そうに道長卿の従者・百舌彦さんに暇を出そうとします。
道長卿は百舌彦さんが知らせてくれたので嬲り殺しを免れたと分かっているので百舌彦さんを庇います。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

・撫民仁政への道はまだ遠い時代?

・「撫民仁政」の欠如
・理念がない兼家
・三男の野心

>兼家のような京都の貴族からは、民衆を思いやる気持ちが欠如している様子が浮かんできます。
「民に紛れて下々の暮らしを・・・」と言う道長卿に兼家卿は民の暮らしなど知らんでよい!知れば、思い切った政ができなくなる」と叱ります。
少し後の場面で藤原公任卿が孟子を暗唱し「人間は誰でも他人の不幸を黙って見過ごせない心を持っている。だからこそ人民の不幸を黙って見ていられない政治を行える。善を善とし悪を悪とする心がない者は人ではない」と引用します。
それに反するかのようになまじ民の暮らし向きを知ってしまえばその幸不幸に情が移り、思い通りの政ができなくなると兼家卿は道長卿の軽率な行動を窘めます。

『光る君へ』より

>出世して、実現したい政治ビジョンはない。
>理想の政治像があった北条泰時と比べると、出世しか眼中にないように思えます。
『撫民仁政』とは、撫でるように民を慈しむ『仁』を重んじた政治ですが、兼家卿にとってはそれよりも出世し、后がねとして育てた姫君を帝に入内させ、生まれた皇子が帝になった暁には外戚として権勢を振るう事の方が優先なのだと思います。それが『摂関政治』です。
鎌倉幕府は武家社会であり、摂関政治・院政を経た朝廷とは別の政治機構や法律の制定が必要でした。
全く政治システムの違う朝廷の政と鎌倉幕府を比較することが不自然です。
街に賊が増えたことに対し、『別当を変えて士気を高め、盗賊を捕らえた者に褒美を出す』ことを提案したのも先に提案した関白・藤原頼忠卿を出し抜くための考えもあったでしょうし、現に『検非違使庁の人員を増やす手配』を進めていた頼忠卿や同意していた源雅信卿は、「一度話し合ったことを覆すとは、政の手順をないがしろにする」「話が違う」と勝手をする兼家卿に不満げでした。

>儒教理念を徹底し、長幼の序を重視した江戸時代は異なるとわかる、三男同士の会話です。
>こうしてみてくると、当時の貴族は何なのか?と思えてきます。
>平和といえば確かにそう。
>けれども陰湿というか、これならいっそ拳で殴り合った後にわかりあえる――そんな坂東武者が相対的にマシに思えてきます。
儒教の思想は官吏養成に応用され、式部省被官の大学寮に於いて教授されました。
しかし、科挙が取り入れられなかった平安時代の日本では儒教本来の価値が定着せず紀伝道(歴史・漢文学)の中の実学的な漢文を学ぶ文章道と、道経色が強い陰陽道が主体で後に仏教も盛んになっていきました。

藤原道兼卿は右大臣・藤原師輔卿の三男です。
長兄・伊尹卿没後、仲の悪かった次兄・兼通卿と熾烈な権力争いを繰り広げました。
作中散楽一座の寸劇で『トウの一族がコウメイを倒した話』はこの藤原三兄弟が源高明卿を陥れた安和の変を模したものでした。
天禄3年(972年)兼家卿は関白であった長兄から大納言に任ぜられ官位で次兄・藤原兼通卿を上回り、これが次兄のプライドを傷つけ激しい出世争いに発展します。
天禄3年(972年)伊尹卿が関白を退任すると兼通卿と兼家卿は次の関白に名乗りを上げ円融帝は「兄弟で順番に関白になる様に」と言い渡します。
事はいったん収まり、まず兄である藤原兼通が関白に就任します。
それでも兼通卿の腹の虫は収まらず、「できれば兼家を九州にでも左遷してやりたい」と言っていたそうです。
九州とは大宰府の事です。
貞元2年(977年)兼通卿は病で倒れ危篤に陥ります。
そのような中、兼家卿の牛車が屋敷に近づいてきました。
兼通卿の家人は見舞いに訪れたと思って迎えの準備をしましたが、兼家卿の牛車は門前を素通りします。
兼通は激怒し病を押して参内し、「兄弟で順番に関白になる様に」と言う円融帝の命を破り、関白職を藤原頼忠卿に譲り兼家卿を降格させようとしました。
この様な兄弟骨肉の争いがあったため、兼家卿は出世欲に執着し、「上を目指すことは我が一族の宿命である!」と断言したのではないでしょうか。

・“三郎”は無事なのか??

>東三条にいる詮子は、道長のことを面白がっています。
円融帝の寵愛を取り戻せず、懐仁親王を伴い東三条殿に下がった詮子さま。
詮子さまは道長卿の言動を面白がっていますが、父の兼家卿は不機嫌そうに道長卿の従者・百舌彦さんに暇を出そうとします。
道長卿は百舌彦さんを庇い「姉上、お助けください」と縋り、詮子さまは「後で取り成す」と弟を宥めています。
詮子さまは弟は好きな人がいると察していましたが、百舌彦さんの様子から道長卿が『下々の女子に懸想している』と推測し、「だからそのような格好で町をふらついていたのだ」と指摘します。
道長卿は否定しますが、「身分の卑しい女子なぞ所詮一時の慰み者。早めに捨てておしまいなさい」と促します。
道長卿は「それより姉上、百舌彦をお助けください」と言い、「父上は姉上の機嫌を損じたくない、姉上の言うことならお聞きくださるはず」と詮子さまを頼ります。
「分かっているじゃないの父上の立場、さっきはとぼけておいて」と詮子さまは言います。
その時、道長卿はまひろさんの事を思い出します。
兼家卿は道長卿が市井の様子を見に行く理由が下々の女子に会いに行く事とは知りませんが、詮子さまの「身分が卑しい女子は一時の慰み者だから早めに捨てよ」と言う意見は「民の暮らしなぞ知らなくてもいい」という兼家卿の考えに近い様な気がします。

『光る君へ』より
『光る君へ』より

>ここからが面倒くさいまひろの本領発揮だ。
>朝になると、似顔絵を描いて太郎に渡します。
>四条万里小路のあたりにいる、身の丈六尺以上の“三郎”を探して欲しいとのこと。
(中略)
>面倒くさい。
>恋心なのか、なんなのか、規定ができない。
>反応が本当にかわいらしくありません。
また『面倒臭い』『かわいらしくない』ですか。
何見氏はまひろさんの性格を評する際に『面倒臭い』以外の語彙はないのでしょうか。
今年は決め打ちで褒めるパターンなのでしょうか。
嫌いな作品ならば『恋愛脳!』『色恋にしか幸せを見出せない薄っぺらさ』『本作は恋バナとか好き嫌いの話ばかり』と叩きそうなのですが。

大河コラムについて思ふ事~『どうする家康』36回

>直秀が念押ししても「お待ちください!」とかなんとか動揺しつつ言いそうなもの。
夜、まひろさんは館で『三郎』が放免に捕まった事を思い出しています。
すると梟の声がします。
外に出てみると、また乙丸が見張りをしており、「月を見るだけ、逃げ出したりしない」とまひろさんは言います。
声のする方向を見上げると、屋根に直秀がいます。
直秀は小声で「見るな。声を上げるな。危害は加えぬ」と断り、「あいつは無事だ、あいつとはお前が今案じている男の事だ」と言い置いて去ります。
まひろさんはその男が昼間自分にぶつかった男だと気づきます。
直秀は自分と間違えられた道長卿の無事を見届けた後、思い人であるまひろさんの居場所を調べ『あいつ』として人目に付かぬ様無事を知らせてくれたのでしょう。
まひろさんが外出をむやみにしないよう父の為時公が申し付けたのでしょう、乙丸が見張っています。
そのため直秀は屋根の上から「見るな。声を上げるな」と念を押したのですが。
まひろさんがもし「お待ちください!」と声を上げれば曲者が入ったと騒ぎになりかねません。

『光る君へ』より

>それを「あの男はああ言ったけど、確かめないと納得できない!」として太郎を使おうとする。
>しかも、テキパキと相手の特徴を告げていて、恋愛感情じゃないという。
>頬を赤らめたり、目を潤ませながら頼みでもすれば、わかりやすくてかわいい女になると思うんですよね。
まひろさんは為時公に「家で写本を作るのはいいが、代筆仕事などにうつつを抜かさないように」と言う事で乙丸が監視役となり、自由な外出ができなくなりました。
道長公が放免に捕らえられた時は、乙丸が居眠りしているのを見て家を抜け出したようですが。
なので直秀が無事を知らせても謎の男の言う事より自分で確かめないととなったのでしょう。
しかしまひろさんは自由に出歩けないので太郎さんに頼みます。
なぜ性格も熟知している実の弟に人探しを頼むのにわざわざ頬を赤らめたり、目を潤ませながら頼まなければいけないのでしょうか。
わざわざ『分かりやすい女』を演じさせたいのはこういうタイプが好きなんでしょと冷笑したいからでしょうか。
まだ思い人であるとも公表していないしただ無事を確認してほしいだけなのですが。
頬を赤らめたり、目を潤ませないとかわいくないのでしょうか。
まひろさんは道長卿の人相書きを描き、太郎さんに見せて「この人を探してほしい」と言い、「四条万里小路の辻辺りにもしかしたらいるかも知れない。身の丈6尺以上、名前は三郎。」と特徴を伝えます。
「藤原か源氏か」と訊かれ、氏は分からないと言うまひろさん。
この場合の源氏は村上天皇の皇子を祖とする村上源氏、宇多天皇の皇子を祖とする宇多源氏などの『公家源氏』です。
「はあ…まずいよそれ。釣り合わないでしょ」と太郎さんに言われ「無事かどうか知りたいだけ」と答えるまひろさん。
思い人なのに相手の氏素性も知らない下級貴族の娘では取り持ちようがなかったのかもしれません。
そして、「高辻富小路の絵師を訪ねてみる様に」とも言います。
「三郎が私を訪ねて来ているかも知れないから」と言うまひろさんですが、太郎さんはその人相書きを見て、「歌はうまいけど絵は下手だな」と笑い、まひろさんに頬をつねられます。
真剣に描いたのに『歌はうまいけど絵は下手』と冷やかされるのだから頬の一つもつねりたくなるのが姉としての気持ちでしょうか。

『光る君へ』より

四条万里小路の辻、高辻富小路は下記地図の辺りです。
『四条通 & 柳馬場通』とあるのが四条万里小路の辻です。
東三条殿からも近いですね。
おそらく道長卿と出会った散楽一座が芸を披露している辻が四条万里小路の辻なのでしょう。

『光る君へ』より
『Googleマップ』

・貴公子たちの勤務と“品定め”?

>ここからは平安貴族の勤務時間へ。
>囲碁をさしている貴公子たちがいます。
>「今宵は盗賊はいないし、宿直はいらん」
>リラックスしながら、話題は道長が獄に繋がれたことへ。
通例では囲碁は『打つ』もので『指す』のは将棋です。
三省堂国語辞典では、将棋は『指す』の項で『将棋の駒を【動かす/動かして勝負する】』、囲碁は『打つ』の項で『碁石を碁盤に置いて勝ち負けを争う』と説明されています。

道長卿は兵衛府で藤原斉信卿と碁を打ち、その対局を藤原公任卿が眺めています。
斉信卿が「今宵は盗賊も入らぬであろう、宿直も要らぬ」と言い、公任卿に「怠けたいのだろう」と言われています。
画像を見ると、宿直のためにすでに束帯から下襲と石帯を外し、表袴(うえのはかま)を指貫に交換している様子が見えます。
現代で言えば夜勤のためにベルトやネクタイを外し、動きやすいジャージに履き替えた感じでしょうか。
そして斉信卿は道長卿に、「あっ、この前お前、盗賊と間違えられて放免に捕まったんだって?」と尋ね、「町中を出歩くとは下衆なやつだ」と公任卿が言います。
獄の様子を訊かれ、「少し臭かったが、何もやっていないので怖かった」と感想を漏らす道長卿。

https://www.weblio.jp/content/%E6%9D%9F%E5%B8%AF
装束の種類(束帯)
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

>藤原公任は関白・藤原頼忠の息子です。
>姉は中宮遵子。
>藤原斉信は大納言の息子です。
藤原公任卿は関白・藤原頼忠卿の嫡男です。
最終官位は正二位・権大納言。
姉の遵子さまが円融天皇の中宮に冊立し公任卿も天元5年(982年)には従四位上、永観元年(984年)には左近衛権中将に昇進します。(なので黒い袍を着ています)
彼は遵子さま立后の日、藤原兼家卿の東三条殿前を通り過ぎる際に得意になって女御のままの詮子さまについて「この女御は、いつか后にはたちにたまふらむ(こちらの女御(詮子)はいつ立后なさるのかな)」との失言を残しています。遵子さまはその後もついに皇子を産むことはなかったのですが・・・
『一条朝の四納言(源俊賢・藤原公任・藤原斉信・藤原行成)』の一人で和歌・漢詩・管弦にも優れた才能を見せ、いずれも一流で有識故実に通じたエリート官吏です。
また、小倉百人一首55番の歌の作者でもあります。

滝の音は たえて久しく なりぬれど 名こそ流れて なほ聞こえけれ
大納言公任

意訳:滝から流れる水音が聞こえなくなってから、もう長い年月が過ぎ去ってしまったが、その名声だけは世間に流れ伝わって、今もなおよく人々に知れ渡っていることだよ。

大納言公任
『光る君へ』より

藤原斉信卿は道長卿の従弟で『一条朝の四納言』の一人です。
最終官位は正二位・大納言。
永観元年(984年)時点で従五位下・侍従です。
藤原道長卿と仲が良く、後に道長卿の腹心の一人として一条朝を支えます。
和歌や漢詩をはじめ朗詠や管弦にも通じ、漢詩を好んだ道長卿が開催した詩会の常連で、その忠勤ぶりを藤原実資卿からは『恪勤上達部(道長に追従する公卿)』と痛烈に批判されています。(『右衛門督以下恪勤上達部伺候云々、以七八人上達部、世號恪勤上達部、朝夕致左府之勤歟』(『小右記』寛弘二年5月14日条))
※『恪勤=かくごん』とは職務に精励するとともに、高官に仕える身分の低い従者の意味。
また清少納言との交流でも知られ、『枕草子』にもたびたび登場しています。

『光る君へ』より

>月岡芳年『月百姿』「しらしらとしらけたる夜の月かけに雪かきわけて梅の花折る」に命が吹き込まれ、動き出したような、町田啓太さんの姿です。
月岡芳年は幕末(天保年間)から明治中期にかけて活動した浮世絵師です。
好きなのはわかりますが、人物によっては誇張され江戸・明治期の風俗に寄せられ時系列に合わないなどがあるので資料提示としてはどうかと思いますが。

藤原公任(大納言公任)
菱川師宣画
国立国会図書館所蔵

>「俺は漢字が下手で、歌も下手だ……」
>はい、そうですね。だから練習をしなさいってば……と、
公任卿が「これの話でもしよう」と女性から自分宛てに贈られた歌を見せ、品定めをしようとします。
公任卿は「姉(遵子さま)についている女房の作だ、歌はうまいが顔がまずい」と露骨な物言いです。
女性は姿形、容貌が大事ですが、普段御簾の後ろにいる女房衆の顔を一目でも見られる仲なのでしょうか。
『ただしイケメンに限る』が似合う物言いですが。

『光る君へ』より

公任卿は多忙で女性からの文を「たまに厠に落としたりする」と言い、「それは落とされた文に運がない、運がない女には近づかないことだ」と斉信卿が同調します。
この辺、女性を選別にかけている様で高貴な殿方とのやり取りはかなり不条理で難易度が高いようです。(まるで『未読無視のメール』の扱い)
男が先に贈る恋文と言うのは基本の様ですが、「女からも来るんだ」と道長卿が言います。
「俺のように字も歌も下手だと困る」と道長卿が呟きますが、公任卿は「文や歌を贈らずとも訪ねてしまえばいい」と言い、斉信卿は、「道長も隠し持っているんじゃないか」と袍の中を探ると1つだけ、道長卿宛ての結んだ文が見つかります。

『光る君へ』より

「ボーッとした顔で、存外女子の気を引いてるんだ」と斉信卿は言いますが道長卿には心当たりがないようです。
「女子に興味がないのか」と訊かれ、「ある」と答えますが「どんな女子に興味があるんだ?」と聞かれると戸惑っています。
「道長ははっきりしないが、そこが長所でもある」と2人は褒めます。
公任卿は「道長がそばにいると安心する」と言い、斉信卿は「褒めていないだろう」とツッコミます。
斉信卿は土御門殿の源倫子さまに歌を送っている様です。
左大臣・源雅信卿の娘で斉信卿より年上。そしてまだ婿を取っていませんでした。
斉信卿は『俺を待っているかも」と言います。

『光る君へ』より

『だから練習をしなさいってば…』と何見氏は言いますが。
道長卿は俺は漢字が下手で、歌も下手だ』ではなく「俺のように字も歌も下手だと困る」と呟いています。
道長卿はユネスコ世界記憶遺産に登録された『御堂関白記』を記しています。

御堂関白記
国宝 陽明文庫所蔵

2回コラムでも言いましたが。
道長卿は自筆の文字が残っており、文体や筆跡には道長公の性格のおおらかさが看てとれ、当て字、脱字、誤字、また重ねて字を書く、塗抹(塗り潰し)、傍書、省略、転倒などが散見する特異な文体となっているそうです。
今作は俳優陣が書いた筆がそのまま使われるそうで、書道指導の根本先生が藤原道長卿の性格のおおらかさを読み取り指導されたそうです。
そして柄本佑さんが独特の『道長フォント』を編み出したのだそうです。
『道長は字があまり得意ではない。後半では道長も文字が上達していく描写が出てくると思うのでその成長過程を見てほしい』との事です。

50ボイス『光る君へ』より

>『源氏物語』の「雨夜の品定め」オマージュと言える場面でした。
なぜ作品で『雨夜の品定め』のオマージュ的な場面になっているのに何の解説もないのでしょうか。
藤原道長卿と藤原公任卿と藤原斉信卿の宿直のやり取りは『源氏物語 2帖・帚木』で光源氏、頭中将、左馬頭、藤式部丞の4人が女性観を語り合う場面を彷彿とさせます。
品定めというのは一般に対象の品を上品・中品・下品に分け、さらにそれぞれを上の上、上の中、上の下というように九品にランク付けする品評です。
女性を家柄や性格、教養などで値踏みする友人4人のいささか品に欠けるやり取りですが、仲良し男子会といったところでしょうか。
長雨の中、物忌みの夜に宮中の宿直所に詰める源氏の君の許へ友人・頭中将が訪ねてきます。
そして頭中将は書物の御厨子に色々な色の紙に書かれた文を見つけ中を見たがり、その文から女性の品定めを始めます。
この辺りは、道長卿・公任卿・斉信卿の恋文をめぐる女性談議のモデルでしょうか。
頭中将の恋の話は後に『第4帖 夕顔』に出てくる悲恋の女性・夕顔に掛かってきます。

『源氏物語手鏡 2帖・帚木』
土佐光吉・筆

源氏の君17歳。
中将になりその美貌と才能は宮中の評判を呼んでいました。
左大臣の子息である頭中将とは良き好敵手・友人です。
五月雨の続く物忌みの夜、御所の宿直所に詰めていた源氏の君のもとに頭中将が訪れます。
そして、お厨子の中の源氏の君宛の文を読みながら、女性の話に花を咲かせます。
「欠点も何もかも隠されてしまっている上流階級の箱入り娘よりも、気質がありのままに見える中流階級の娘のほうが良い」と頭中将が持論展開し、源氏の君も興味を示します。 
やがて左馬頭・藤式部丞が訪ねてきます。
左馬頭の恋愛論のあと、頭中将が「愚か者の話をしましょう」と過去の恋愛を話します。
身寄りのない女性と逢瀬を楽しむも毎夜通うわけでもなかった頭中将。
しかし女は扱いに不平を洩らすわけでもなく甲斐甲斐しく振る舞い、それを良いことに足が遠退いたところいつしか女は姿を消してしまいました。
二人の間には娘が生まれていましたが、行方知れずでは探せなかったのでした。
他にさまざま話をするうち、空は白んでいきます。

『源氏物語 2帖・帚木』あらすじ

>そしてまひろは、またもかわいげのないことを言い出します。
何見氏はまひろさんへの評価を『面倒臭い』『可愛げが無い』の一点張りですが、他にないのでしょうか。
「この人を探してほしい」とまひろさんに頼まれた太郎さんは道長公の似顔絵を絵師に見せ、「どこに住んでいるか聞いてくれ」と言いますが為時公に口止めの物品を渡されている絵師は「約束はできない」と素っ気ないものでした。
「姉上の代筆で儲かったくせに」と言う太郎さんに「代筆などやった事もない」と絵師が反論します。(代筆は本来男性の仕事なのでそう言い張るのでしょうね)
太郎さんは道行く人々に人相書きを見せ訊いて回ります。
たまたま通りがかった馬の口取りの男にも尋ねますが、その馬には狩衣姿の道長卿が乗っています。
まひろさんの人相書きが主の道長卿と気付かない口取りは百舌彦さんですね。
馬上の貴族が道長卿とは知らない太郎さんは「三郎』と思った男たちを連れてきますが、当然『三郎』ではありません。まひろさんは「違う」と言います。

『光る君へ』より

「本気で捜してくれたのね」とまひろさん。
彼女は頼んだものの太郎さんが本気で捜索してくれると思っていなかったのでしょう。
「たった2人の姉弟なのに」と太郎さん。
「それに俺は賢くないけどやる時はやるんだよ」と得意げです。
そして太郎さんはまひろさんに近づくと「三郎は幻じゃないのか?鬼とか悪霊とか怨霊とか」と尋ねます。
「それを確かめたい」とまひろさんが言います。
まひろさんの絵はお世辞にもうまいと言えなかったため、『三郎』が生きている人間であっても一向に検討の付かない道長卿は太郎さんにとって実体のない幻の様だったのでしょう。
まひろさんは『三郎』の事が気になり正体を見ようと躍起になっているのでしょう。
因みに「たった2人の姉弟なのに」と太郎さんは言っていますが実は同母姉がいます。
彼女は夭逝している様です。

『光る君へ』より

・円融天皇、回復せず?

>安倍晴明が祈祷しております。
>かなり迫力がありますね。
>当時の陰陽師は公務員であり、公務として真面目に勤務しているからこそかもしれません。
陰陽師・安倍晴明は帝の回復を祈り帝の邪気祓の儀式をしていますが、回復の兆しが見えず藤原道兼卿は蔵人頭・藤原実資卿に帝の容態を尋ねます。
「重くはなっていないが、回復するようにも見えない」との返事です。
邪気祓の儀式、栃木県フィルムコミッションさんのポストを見る限り、『河臨祓(かりんのはらえ)』でしょうか。
河原で陰陽師が依頼主の衣を撫物として用い、人形や船形・車形・馬形などに災禍を写して流し祓ったそうです。
これを鴨川の二条・大炊御門・中御門・近衛御門・土御門・一条の末・河合の順に行うのが『七瀬祓(しちらいのはらえ=宮中で毎月または臨時に吉日を卜して行われた祓 (はらい) の一つ。七瀬の禊ともいう。7ヵ所の河海で行われる。天皇が息を吹きかけ、身体をなでて、その災禍を負わせた人形 (ひとがた) を流す行事)』なのだそうです。

宮廷で活躍した陰陽師。
律令国家では『陰陽寮』という役所が設置され、そこに所属する呪術師・占い師として『陰陽師』が置かれます。
陰陽寮での官人陰陽師(宮廷から正式に任命された陰陽師)の職務は暦の作成、祈祷などの儀式を執り行い『穢れ』を清める事、方位や時間の吉凶に関する占い、天体観測や気象観測、天変地異の報告などです。

『泣不動縁起絵巻(不動利益縁起)』
重要文化財 清浄華院所蔵(京都国立博物館寄託)

武士の世の中になると、貴族だけでなく幕府を開いた武士たちも政を行うなかで陰陽道を取り入れるようになっていきます。
また、天台宗の比叡山延暦寺、真言宗の高野山金剛峰寺は平安仏教の中心寺院でした。
密教による加持祈祷は平安貴族の支持を集め、祭祀を行う際、京の陰陽師と密教の僧侶の祈祷を同時にやらせる場合もありました。
民間で民に入り混じって暮らし陰陽の術を心得た『法師陰陽師』と呼ばれる僧侶が出てきました。
蘆屋道満は平安時代の非官人の法師陰陽師といわれています。
鎌倉時代の『宇治拾遺物語』では、蘆屋道満は道摩法師として登場し、時の権力者、藤原道長卿に呪いをかけようとしますが、安倍晴明公に気付かれてしまうという逸話があります。

>逆に、公務員以外で祈祷や呪詛をするような連中は、危険人物です。
>『鎌倉殿の13人』の文覚がそういう副業をしていましたね。
さて、『鎌倉殿の13人』で出てきた文覚上人。
摂津国の武士団「渡辺党」の出身で俗名を遠藤盛遠と言います。
北面の武士として朝廷に仕えていましたが、19歳のときに出家。文覚と名乗ります。
高雄山神護寺の再興を後白河院に強請し、暴言を吐いたことで伊豆国に配流され、そこで同じく伊豆に配流中の源頼朝公と出会います。
『鎌倉殿』の初登場時はこの時期に当たります。
この時、文覚上人が懐から取り出した頭蓋骨を源頼朝公の父・源義朝公の物と騙り、平家打倒の挙兵を促したと『平家物語』には記されています。
源頼朝公が鎌倉幕府を開くと頼朝公や後白河院の庇護を受け神護寺、東寺、西寺、四天王寺などの修復に努め、のちに神護寺の中興の祖と呼ばれるようになります。
後白河院と源頼朝公が亡くなると文覚上人は後ろ盾をなくし佐渡へ配流され後に許されます。
翌年後鳥羽院の怒りを買い、対馬へ配流される途中で亡くなります。
『吾妻鏡』では江ノ島の洞窟にこもってまじないを行っていたと記されており、当時の僧侶には、祈祷や呪法を行う『法師陰陽師』の面もあったと思われます。(副業ではなく本業です)
文覚上人は『愚管抄』や『玉葉』などの史料にも怪しげで不思議な人物であると記されています。

『鎌倉殿の13人』より
文覚上人荒行之図
刀剣ワールド財団所蔵

>先週の放送から藤原道兼が毒を盛らせていましたね。
>張本人である道兼は気になって仕方ないのでしょう。
>藤原実資に対し、天皇の様子を尋ねます。
藤原兼家卿の指示で次男・藤原道兼卿は陪膳の女房を使い、帝の食事に毒を仕込みました。
円融帝は急にお体が悪くなっていきました。
道兼卿は藤原実資卿に帝の容態を尋ねますが、「重くはなっていないが、回復するようにも見えない」との事でした。
さらに実資卿は、「薬師はお疲れが出たのでは言っていたが、ただのお疲れではない、邪気払いも5日目なのに、何の効果もないのはおかしいと思わぬか。」と道兼卿に問いかけます。
実資卿は何かを疑っているかの様に「おかしい」を繰り返し、内侍所に向かいました。
実資卿は陪膳の女房たちを取り調べる様です。

『光る君へ』より

陪膳・・・宮中で天皇に御膳を奉る時、また武家で儀式の時など、食膳に侍して給仕する事。また、その人。

デジタル大辞泉(小学館)

道兼卿は自分も行こうとしますが、実資に止められます。
道兼卿は兼家卿にこの事を報告し、『この先口を割る者が出る事』を懸念しています。
しかし、兼家卿は、「陪膳の女房が吐かねば証拠はない」と言いました。
道兼卿が「お命にかかわってはならないと思い、今はもう薬をやめている」と言うと、「ならばうろたえることはないではないか」という兼家卿。
「ただ頭中将(実資)は思い込んだらしつこい、どのような追及をするか」と道兼卿は心配そうです。
実資卿は帝の信頼も厚く、そのためにも味方にしておかなければいけませんでした。
兼家は、「ところでその女を抱いたのか」と尋ね、道兼卿は思い至らなかったようで「えっ?」と戸惑っています。
兼家卿は『当分大切にしておくことだ。お前に守られておると思えば口は割らぬ。」と女房衆の懐柔策を伝えます。
さらに「一族の運命はお前にかかっておる」と道兼卿に伝えます。
「ははっ」と頭を下げながらも顔が綻んでしまう道兼卿。
例え帝の御食事に毒を盛る不敬の様な悪事でも褒められる事で失った父の信頼を取り戻そうとし、自身の心を満たす道兼卿、なんとも悲しい人です。
優秀な兄道隆卿とある程度の自由が認められ庇われる弟の道長卿、祖ソテ間に挟まれ汚れ仕事を一心に引き受ける道兼卿。
兼家卿の思惑通り兄弟の位置づけがなされています。

『光る君へ』より
くち『光る君へ』より
『光る君へ』

東三条殿では、円融帝と詮子さまとの間に生まれた皇子・懐仁親王と藤原道隆卿・貴子さま夫妻の子・定子さまが遊んでいます。
そして夫妻がその様子を見守っています。
定子さまが転んでしまい、一緒に遊んでいた道長卿が手を貸そうとしますが、貴子さまは「定子、自分でお起きなさい」言います。
懐仁親王が即位した暁にはこの定子さまを入内させる予定であり、「転んで泣いているようでは入内しても務まらない、強い心を持たなければならない」と厳しく言います。
『后がね』とは将来、后になるはずの人、后の候補者です。
上流貴族にとっては娘を入内させ、皇子誕生を実現し外戚として力を振るう事がステータスです。
后がねとしての娘姫君としての最高の教養を持たせ、入内させた上で帝の寵を競い、皇子誕生をひたすら請い願う政治闘争が宮中では繰り広げられます。
高階貴子さまは後宮の女官となることを選択してキャリアを積み、詩宴に漢詩を奉るほどの漢籍の才で掌侍(ないしのじょう)の地位を得た女性でもありました。
貴子さまは定子さまを誰かに縋るのではなく強い心をもって自力で立つような姫君に育てようとしているようです。
通い婚制度のもとでは、生まれた子供は妻の実家で養育されます。
詮子さまが帝の寵愛を失った後、懐仁親王を伴い東三条殿に下がったまま使いが来ても応じないという状態であり、帝と右大臣家の不仲は続いているようです。

『光る君へ』より

>さて、ここで立派な鶏が映りました。
>兼家自慢のペットですね。
東三条殿では鶏が飼われ、しばしば出てきます。
1回では兼家卿が安倍晴明公に呪詛を頼むために招いた際、餌をやっていました。
この鶏、毛並みの艶などからして観賞用もしくは闘鶏用ではないかと思います。
平安時代には合わせ物のひとつとして『鳥合わせ』という名前で闘鶏が行われていました。
毎年3月3日に禁裏で遊ばれ2つの組から一羽づつ出して戦わせ、負けた方が舞うという遊びでした。

某家所蔵『年中行事絵巻』鶏合巻(部分)
某家所蔵『年中行事絵巻』鶏合巻(部分)
『光る君へ』より

>安倍晴明が兼家に、邪気を払った報告。
>そのうえで、荷物が重いからおそ回復できない、一番重い荷物を下ろした方が良いのでは?と円融天皇に奏上するつもりだとか。
安倍晴明公は藤原兼家卿に、「邪気は払ったが背負われたお荷物が大きすぎる故、一番重いお荷物を下ろされたらよろしいのではと帝に上奏した」と伝えに来ました。
『奏上するつもり』ではなくもうすでに上奏した後で事後報告に伺っていますね。
追って褒美をつかわすと兼家卿が言います。
晴明公と須麻流さんの主従は示し合わせたように微笑み合います。
兼家卿は円融帝が毒によって病が癒えず退位の方向で動きそうな事、晴明公は祓の儀式により褒美が手に入る事で双方利を得ているようです。
陰陽師は官人であり、自分の利になる政治的立場に阿るのは抵抗が無いようですね。

『光る君へ』より

・頭中将・実資は疑う?

>懐仁が東宮になることこそ、この国の意見だなんてことまで言い出します。
>自分の孫を天皇にして権力を手にしたいだけなのに、サラッとこんな言葉が出てくるのです。
円融帝は晴明公の上奏の後「晴明まで譲位を迫るのか」とお嘆きになっています。
蔵人頭・藤原実資卿は「お上はまだお若く、ご回復されればますますお力を発揮してくださる、皆そう信じております」と譲位を引き留めようとします。
しかし帝は「此度の邪気は払えても、すぐに朕を呪う者の新たな邪気に苛まれる」と仰ります。
「その時はまた邪気払いを」と言う実資卿に帝は「右大臣のしてやったりの顔が見えるようじゃが」と仰ります。
帝は「懐仁はたった一人の我が皇子で他の皇子に東宮を取られては朕の血筋が絶えてしまう、懐仁を次の東宮にしたい」と仰り、この時点で懐仁親王を次期東宮に据えたい意向は一致しているのですが・・・
実資卿は、「師貞親王が今すぐ即位しては世は乱れる」と忠告します。
その時俊古さまが、兼家卿が見舞いに来たことを伝え、実資卿はやめさせようとしますが帝はお会いになります。
束帯姿の兼家卿が病状の回復を喜び、帝は「祈祷が効いて来たのやも知れぬな」と仰いますが、「好転したり悪化したり、おかしなものだ」とも。
「お働きが過ぎてご無理がたたったのやも」と述べる兼家卿。
帝は懐仁親王の事をお尋ねになり、詮子さまが世話をしていると聞き、「あまり甘やかさないように伝えてくれ」と仰います。
兼家卿は「東宮になられましたら、もう少しお強くなられましょう」と言い、「懐仁が東宮になるのか」と帝はお尋ねになりますが、「それがお上の願い、この国の願いであると思っております」と兼家卿は言います。
円融帝が譲位された場合、現東宮の師貞親王が即位するのですが「世が乱れる」と実資卿が危惧するように素行の悪さから懐仁親王に期待がかかっており、ご自身の血統を残したい円融帝と外戚として権勢を振るいたい兼家卿双方の駆け引きが繰り広げられています。

>さて、捜査を行なった実資は、女房から全力で嫌われました。
内侍司で陪膳の女房たちを調べる蔵人頭・藤原実資卿でしたが、部屋から出てきたところを廊下で女房衆の容赦ない蔭口に見舞われます。
「頭中将さまいけすかない」「私たちを疑うなんて無礼極まりないわ」「無礼、無礼、無礼・・・」「己の立場を誇示したかっただけよ」「嫌な奴~」と檜扇で顔を隠した女房衆から口々に罵声を浴びせられます。
すっかり集団圧力に意気消沈した実資卿は蔵人である道兼卿に、「内侍所の検分は勘違いであったやも知れぬ」と言います。
「もう帝も次第に回復されている、毒を盛られているのならもっと悪化するはず、早とちりであった」と言う実資卿に道兼卿は、「回復の兆しがあるのはよろしゅうございました」と告げます。
この状況、目の前に犯人がいるのに別の壁にぶち当たって進めないパターンでしょうか。
問題は女房たちが調べに不満を持っていることだった。
「やりにくくなる」とこぼす実資卿に、道兼卿は「頭中将様は筋が通っており、自分はどこまでもついて参ります」と伝えます。
その道兼卿に実資卿は「あ、そ。」と素っ気ない一言を掛けます。
当代一流の学識人で摂関家が権勢を振るう中、筋を通した態度を貫き後に『賢人右府』と呼ばれる藤原実資卿。
物事の要点を押さえ、個人の利得や名声のために真実を覆さず、儀礼に厳しいという良識人であった彼もままならぬ周りからの圧力で筋を通せない不条理を感じる事もあったのでしょうか。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

>毒盛りは東洋史ドラマ定番の展開ですが、こんななし崩し的に終わっていいのか?という気持ちは湧いてきます。
>これが日本中世史らしさかもしれません。
日本においては、古代・中世・近世・現代、また平安時代などの時代区分に分けられます。
7世紀頃から、西暦1100年頃までは古代と区分され、飛鳥時代から奈良・平安時代へと至ります。
関東から九州北部までを掌握し朝廷は、中央集権国家の体制造りをし、中国に倣っ た律令制を導入し、全国の土地と人民を束ねますが平安時代には形骸化ししていきます。
中世は荘園を管理していた武士たちが 武力を背景に政権を握るようになる鎌倉時代から戦国時代までです。

>ちょうどこのころ、中国は北宋の時代にあたります。
>当時の人気のある人物として、清廉潔白な官僚である包拯(ほうじょう)がおります。
>彼は賄賂を受け取らない。
>悪徳宦官に屈しない。
>死後、ますます名前が高まり、正義感の強い包拯の名裁判は、フィクションの題材とされます。
>清廉潔白で賢いお役人様が、悪党を裁いて欲しいなぁ!
>そんな民衆の需要と、作家の供給が、南宋から元、日本ならば鎌倉時代あたりには一致し作品として結実していたわけです。
日本の平安時代中期頃、中国大陸の王朝は『北宋』ですが、日本の平安時代の物語になぜ北宋の役人の話ばかりを取り入れなければいけないのでしょうか。
それこそ『蛇足』というものです。

>このドラマは、中国や韓国ドラマを意識していると言います。
>それを踏まえて比較してみると、毒を盛ってもゆるゆるしたオチとするところに、日本らしさを感じないわけでもない。
>厳密な推理と法の裁きは、このドラマに期待するところではない。
>そこも個性として楽しむことが正しいのでしょう。
『毒を盛ってもゆるゆるしたオチとするところに、日本らしさを感じないわけでもない』
毒を盛って体調を悪くさせあわよくば譲位を狙うも府警に当たる様な帝の御命を狙う事まではしないという兼家公の矜持や実資卿の様に実地調査や捜査はしても平安時代は表向きの死刑制度が停止されていた時代です。 
また女房衆などの圧力によって筋を通せないもどかしさも時代ならではの描き方です。
何見氏は帝が毒殺され中国などの様にひどい拷問や処刑が見たいのでしょうか。
平安時代大河ではなく華流や韓流時代劇でもご覧になればよろしいかと。

>中国や韓国を意識していると、内田CPが明言したのは素晴らしいことです。
>日本の伝統回帰ともいえます。
内田CPが明言したという『中国や韓国を意識している』という言質をはっきりと提示してください。
こちらの苦労の舞台裏を明かしたというインタビューでは内田CPは文献も少なく、分からない事だらけで『私たちが平安貴族社会のことを知らないところからのスタート。時代考証の先生に学んで、何が平安時代の人の心を支配していたのかを感じないと』『血の穢れだとか、良くない方角とか、そういうことも本気で信じて生きている。私たちの日常感との違いも台本に取り入れた。大きなハードルでもあって、やりがいでもある」。時代考証の先生との打ち合わせは『1回の放送43分あたり、2時間くらいですかね』とあります。
何見氏の言う明言とは『例えば中国や韓国の時代劇で、人物関係を知らずに見ても、その人の真心や喜び、悲しみが伝われば楽しめる。朝廷を舞台にした権謀術数や愛の泥沼も、細かな感情を描けば必ずや楽しんでいただけるものになる』の部分でしょうか。
人物関係が分からず見ても伝えたいことを伝える事で楽しめるものとして中国や韓国の時代劇を例えに出したと解釈しますが。

>日本は伝統的に、唐(から・中国)や高麗(こま・朝鮮半島)と比較することで、自分たちの定義をしてきました。
それまでは唐文化を取り入れ文化が発展し、京の都の区画整理や律令を整えてきました。
唐の衰退もあり、大陸や半島からの船も来航するようになって民間貿易が発達してきた危険な航海をしてまで行く必要はないと判断された事もあり寛平6年(894年)に遣唐使が停止された事で、10世紀に入ると、日本ならではの独創性を加味した国風文化が生まれました。
国風文化とは大陸文化を踏まえ、これに日本人の人情・嗜好を加味し、日本の風土に合うように工夫した優雅で洗練された文化の事です。
紫式部の活躍する時代は紀貫之卿らが編集した『古今和歌集』などの和歌集やかな文字(ひらがなとカタカナ)の発達から、宮中の女房など女性の書く物語・日記・随筆作品が数多く生まれました。
また、世界最古の漫画と言われる絵巻物『鳥獣人物戯画』などの『大和絵』や『蒔絵』などの美術工芸品、文学と絵画を融合させた『絵巻物』など日本独自の発展を遂げています。
衣服は奈良時代までの唐風の装束をもとに、日本風に改変した男性の束帯
や女性の女房装束(十二単)が用いられ、食事は仏教の影響で牛馬などの獣の肉は避けられました。
建築では中国の影響より脱し、日本の風土に合わせた『寝殿造』という形式の邸宅に住むようになります。

寝殿造(東三条殿復元模型)
国立歴史民俗博物館

話は脱線しますが、何見氏は『どうする家康』作中でCG作成の清州城が出た時、『まるで中国宮殿、紫禁城の様だ』というSNS上の声に過剰に反応し怒りを露わにしていましたが、復元図を見る限り中国様式の城壁に囲まれた宮殿と言うより信長公が清州城に入ったころはまだ城郭も中世の建築様式の影響が残り、土塁の上に寝殿造に近い建物が配置された状態に見えます。
天守が作られるようになっても本丸御殿は書院造などの平屋建て建築だと思います。

信長公時代の清須城
『大河コラムについて思ふ事~『どうする家康』総論~』より
『武将ジャパン 清須城が紫禁城のようだ?大河『どうする家康』の描写は過剰か否か』
『どうする家康』

>明治以降、それを無視して無理してきたと思えます。
>それを取り戻す流れがきていて、本作はそこにスッと入り込んだと感じるのです。

『明治以降、それを無視して無理してきた』とは?
『それを取り戻す流れ』とは?
それまでの大河ドラマよりも時代が遡っているのですが。
中国文化を取り入れず(私の気に入らない)南蛮文化や西欧の文化の真似をしたとでも言いたいのでしょうか。
平安時代は国風文化最盛期でその影響のもと室町時代ごろまで文化が発展し、戦国時代にはポルトガル・スペイン戦の来航から南蛮文化が生まれ、安土桃山時代には近世城郭などの建築が生まれました。
鎖国した江戸時代には江戸の町民文化が生まれ、開国後は法律や政治形態など欧米諸国に学び西洋の文化も流れ込みました。
西洋文化が嫌いというお気持ちで文化や歴史を見て『明治以降の欧米列強の真似など気に入らん』では歴史は学べないと思います。

・優雅な姫君が、土御門にいる?

>第1回で視聴者の憎しみを買ったはずの道兼なのに、なんだかとても寂しそうで、哀れで、愛着すら感じるようになってきました。
>道長のおかげでしょうか。
>道長に近づくと、花が開くように人の心もそうなるのか。
>不思議ですね。
藤原実資卿の許を退いた藤原道兼卿は外に出て弟・道長卿とその部下に声を掛けます。
「今宵も東三条殿においでですか」と道長卿が尋ねます。
道長卿は兄とのすれ違いを気にしている様ですが、「だから何だ、いつか父上も交えて一献傾けたい」と道兼卿が言います。
身から出た錆で穢れを背負ったまま家名を汚さぬ様にと父・兼家公に言われた道兼卿。
汚れ役を一心に引き受け父に褒められるのを喜ぶ姿は愛情に飢え縋っている様に見えました。
道長卿を見てそうなったのではなく、道兼卿自身がただの乱暴者ではなく親の愛情に飢えた搾取子の様な、愛情を図るため何でもする人の様な描写が出てきたからではないでしょうか。

>藤原為時は、東宮様の勉学について兼家に報告中です。
>なんでもやる気を出しているとか。

一方為時公は兼家卿に面会し、東宮・師貞親王が心を入れ替えたように勉学に励んでいると伝えます。「ご即位が近いとご覚悟されたもやの知れぬ」とも。
「そうなれば左大臣(源雅信卿)は娘を入内させるであろうか」と兼家卿は言います。
ここで言う左大臣の娘とは源倫子さまでしょう。
「左大臣の北の方である穆子(むつこ)はそなたの親戚ではないか」と兼家卿は尋ねます。
「遠い親戚です」と為時公が答えると、「何故帝にも東宮にも娘を差し出さないか、左大臣の気持ちが知りたい」と兼家卿が言います。
何も知らない様子の為時公を兼家卿が下がらせますが、為時公は何かを思い出し、取って返し「お役に立てるやも知れませぬ」と告げました。
さて、心を入れ替えたように勉学に励んでいると為時公に報告された東宮さま、実際は足に扇を挟んで開く足芸がレベルアップし足から足へ渡す器用な姿を見せています。
東宮さまも自分が誰からも望まれておらず『痴れ者』『世が乱れる』と噂され孤独なのではないでしょうか。
為時公は気持ちを分かったうえであえて試し行為の様な素行を咎めず報告しなかったのではないでしょうか。

『光る君へ』より

>左大臣の住まいである土御門殿では、一の姫である源倫子が、雅信と穆子(ぼくし/あつこ)の前で琴を奏でています。
穆子(ぼくし/あつこ)』とありますが藤原穆子さまは作中では『むつこ』となっています。
左大臣・源雅信卿の屋敷土御門邸では左大臣の一の姫・倫子さまが立膝姿で琴を弾いています。
雅信卿は娘の琴の腕が上達したのを「よき姫に育ったものじゃ」と褒めており、新しい装束の事を穆子さまが口にするも倫子さまの琴の音を優先してしまいます。
来年は22歳になる倫子さま。
雅信卿は「我が家は宇多の帝の血を引く家系、いくつでも慌てる事はない」と言いますが、「そんなに甘くはない、自分は20歳で婿を取った」と穆子さま。
親バカの雅信卿に対し、行き遅れて通う殿方すらいなくなる事を穆子さまは懸念していますね。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

因みに宇多天皇の血を引く『宇多源氏』には『鎌倉殿の13人』にも出てきた佐々木秀義公とその子息である四兄弟、『太平記』に出てきた佐々木道誉公などがいます。

『鎌倉殿の13人』より
『鎌倉殿の13人』より
『太平記』より

>これは確かに可愛らしい。衣装も、所作も、何もかもが愛くるしく、「お姫様」という概念を体現していると思えました。
さて、倫子さまが立膝姿で琴を弾いています。
また2回ではまひろさんも立膝で所を読んだり和歌を書き綴ったりしていました。
女性の座り方に違和感という方もいらっしゃるようですが、この件はすでに『麒麟がくる』の時に論争になっており、『真田丸』の時代考証・丸島和洋先生によると、(丸島先生のFacebook記事を引用させていただきます)「実はこれ、中世までの貴人女性の座り方です。こっちのほうが正しい」との事で、『以前、「清盛」のときにやろうとしたけれど、案外姿勢がつらく、断念した』演出だったのだそうです。

『病草紙』
『粉河寺縁起』

大河ドラマ「麒麟がくる」。基本コメントを出さない予定でしたが、一部の方から、誤解に基づく批判が来ているようなので、ひとつだけ。ツイッターなどへの拡散希望です。 貴人女性が片膝を立てて座っていることへの違和感が出ているようです。実はこれ、中...

Posted by 丸島和洋 on Sunday, March 1, 2020
『光る君へ』より
『光る君へ』より

小袖の身幅は今の着物より広く着ると花下遊楽図屏風の女性の様にロングスカートを履いたようになりました。
平安時代では『張り袴』を履いており、立膝や胡坐で座っても前が見えるなどの影響は少ないと思います。

『軍師官兵衛』より
『麒麟がくる』より
白茶地桐竹模様綾小袖
東京国立博物館蔵
国宝 紙本著色花下遊楽図(部分)
狩野長信筆 東京国立博物館蔵

何見氏は『どうする家康』レビュー40回・41回で阿茶局が立膝で囲碁を打つ姿に対してこのように言っていましたが、(もはや41回に関してはツッコまれた事への言い訳になっていますが)今回のまひろさんや倫子さまの立膝について言う事はないのでしょうか。

『武将ジャパン40回レビュー』
『大河コラムについて思ふ事~『どうする家康』41回~』より
『どうする家康』より

・姫君サロンへようこそ?

>藤原兼家に雇われ、点数を稼ぎたい藤原為時は、左大臣家の姫君に集いに行かないか?とまひろに言い出しました。
>なんでも赤染衛門という歌人に、姫君たちが集って学ぶサロンになっているのだとか。
為時公は館に戻るとまひろさんに、左大臣家の姫君たちの集まりに行く事を勧めます。
「何故帝にも東宮にも娘を差し出さないか、左大臣の気持ちが知りたい」と兼家卿が左大臣家を探る様為時公に命じており、兼家卿の伝手で東宮さまの指南役を得ている為時公は命に応じるのでしょう。
「代筆はダメだがその日は外出を許す」と許可する為時公。
左大臣・源雅信卿の北の方・穆子さまの女房に赤染衛門という和歌の名人がおり、やんごとなき姫君たちが集まって学ぶ会があるそうで、「お前は和歌は得意であろう」と持ち掛けますが、まひろさんは「自分のような身分が低い者が行く場所ではない」と言います。
しかし為時公は、「お前は身分など乗り越える才がある」「穆子は親戚なので、安心して楽しんでくるように」と言い送り出してしまいます。

『光る君へ』より

源雅信卿の北の方・藤原穆子さまですが、中納言・藤原朝忠卿の娘です。
この藤原朝忠卿、小倉百人一首44番の歌の作者でもあります。

逢ふことの 絶えてしなくは なかなかに 人をも身をも 恨みざらまし
中納言朝忠

意訳:逢うことがまったくないのだとしたら、かえってあの人の冷たさや我が身のつらさも恨んだりはしないのに。

中納言朝忠
『光る君へ』より

為時公に『和歌の名人』と称された赤染衛門は大隅守・赤染時用公の娘です。
文章博士・大江匡衡卿の妻で仲睦まじさから『紫式部日記』では『匡衡衛門』とも呼ばれています。
夫・大江匡衡卿の子孫は『鎌倉殿の13人』にも出てきた鎌倉幕府公文所(政所)別当・大江広元公です。また、戦国武将・毛利元就公にも連なります。

『鎌倉殿の13人』より
『毛利元就』より

赤染衛門は源雅信卿の屋敷に出仕し、源倫子さまとその娘・彰子さまに仕えます。
そして小倉百人一首59番の歌の作者でもあります。

『光る君へ』より

やすらはで 寝なましものを さ夜ふけて かたぶくまでの 月を見しかな
赤染衛門

意訳:貴方が来ないと知っていたなら、ためらわずにさっさと寝ていただろうに。貴方をお待ちするうちに夜が更けてしまい、とうとう明け方に西に傾こうとする月を眺めてしまいました。

赤染衛門

>それにしても、まひろはどこまでめんどくさいのか。
>外出と気分転換のよい機会だろうに、何か疑っているようにすら思えます。
まひろさんの性格について『面倒臭い』以外の語彙が無いのですか。
親戚という穆子さま主催の集まりであっても縁戚でまひろさんは『身分の低い者が行くべき所ではない』と身分差を自覚しており戸惑っている様にも見えますが。
まひろさんは土御門殿を訪問します。
居並んだ女房装束の女性たちの前で穆子さまは親戚の娘だと紹介します。
山吹色の小袿に藤色の襲、紅色の小袖姿のまひろさんは「前播磨権少掾(さきのはりまのごんのしょうじょう)・藤原朝臣為時の娘・まひろにございます」と名乗ります。
姫君の一人・茅子さまに「父上の今の内裏でのお仕事は?」と尋ねられ、まひろは「今は官職は無い」と答えます。
東宮さまの指南役は除目による役職ではなく、藤原兼家卿直属の非公式な仕事だからです。
そしてまひろさんは「私のような者でも、ご研鑽の場に加えていただきたくお願いいたします」と頭を下げます。
倫子さまは「ご研鑽などと大層な」と笑います。
そして「あ・そ・び、楽しんで行ってください」と声をかけます。
この時点で『父に公表できる様な官職の無い身分の低いまひろ』というアウェーな立場が出来上がっており、倫子さまが場を冷やさぬ様気遣いをしています。

『光る君へ』より
『光る君へ』より

>空気を読めないまひろは、次から次へと当てて圧勝してしまいます。
>「すごーい! まひろさんは漢字がお得意なのね」
>「一枚も取れなかった」
仕切り役の赤染衛門は、手始めに『偏つぎ』を始めます。
姫君たちは一様に「偏つぎは苦手だ」と言いますが、赤染衛門は意に介せず漢字の偏だけの札を並べさせ、初めての方と言う事でまひろさんにも教えます。
赤染衛門が例を示し、『月の札』を出します。
まひろさんは素早く『日の札』を手に取り、「これで『明』となります」と合わせます。
『偏つぎ』とは女性や幼少の者たちが、漢字の知識を競い合った遊戯です。
『漢字の旁(つくり)に偏(へん)を付けて文字を完成させる』『ある旁に偏を付けて訓みを答えさせる』『詩文の中にある一字の旁だけ見せて偏を当てさせる』なの遊び方があるそうです。
作中の遊び方は赤染衛門が旁(つくり)を提示し、偏(へん)の札を取って文字を完成させる遊び方と思われます。

『光る君へ』

>そう上品に笑う姫君たちを前にして、やりすぎた己に気づくまひろ。
>どこまで面倒くさいのか。
何見氏、またまひろさんの性格を『面倒臭い』と評しています。
まひろさんは「日」+「月」=「明」、「糸」+「者」=「緒」、「言」+「寺」=「詩」など次々と偏の札を取っていき、倫子さまは興味深そうにそれを眺めています。
「すごーい! まひろさんは漢字がお得意なのね」と倫子さまが扇で口元を隠し笑うと周りの姫君も「一枚も取れなかった」と口にします。
赤染衛門は「倫子さまももう少し漢字をお覚えになりませんと。これからは女子でも漢字が読めて漢詩が書けませんと我が子の指南はできませんよ」と言い、姫君たちは「はーい」とおどけて返事をします。
倫子さまはまひろさんが「父は無職」と答えた時、場を冷やさぬ様気を遣っていました。
初めての参加であるのに偏つぎで漢字の知識を発揮して札を次々に取り、微妙な空気になるところをまたやんわりと他の姫君の顔を立てやりすぎである事を示唆しながらもまひろさんの才を褒めたのだと思います。
そして赤染衛門はそれを受け、女性の教養が将来の后がねや宮仕えに繋がる事を姫君たちに伝えたのだと思います。
取り札の山を見つめ苦笑いするまひろさんを何見氏は『何かと重いまひろ』と評しますが、毎年の除目で任ぜられる官職ではなく左大臣家と敵対する右大臣家の伝手で東宮さまの指南をしている父の職を大っぴらに言えるわけもなく、初めての集まり・初めての遊びで独り勝ちしてしまい、意図せず知識をひけらかした様になったので居心地の悪い場になったのでしょう。
大人になれば何でも言っていい・やっていいわけではなく、相手の出方を見たり気遣いのある発言をするなど配慮もなければたちまち爪弾きになる世界ならば身の処し方も反省するのではないでしょうか。
『紫式部日記』の中で紫式部は赤染衛門の事を引用の様に評しています。
本格的な作風の歌を詠み、文才もあるのにその才をひけらかさない先輩に紫式部は敬意を持っていたのではないでしょうか。

まことにゆゑゆゑしく、歌詠みとてよろづのことにつけて詠み散らさねど、聞こえたるかぎりは、はかなき折節のことも、それこそ恥づかしき口つきにはべれ。

意訳:彼女の和歌は本格派で、下手に読み散らしたりもしません。ちょっとした時に詠んだ和歌でも頭の下がる詠み振りです。

『紫式部日記』
『光る君へ』より
『光る君へ』より

・四端ーー人に忍びざるの心?

>今日は『孟子』「公孫丑上」。
>公任がスラスラと読んでいます。
>性善説です。
>このように知識を仕入れることと、実践の間には距離があり、平安時代の政治は民を重んじているかというと、なかなか厳しいものは感じますね。
関白の屋敷では休日であっても上級貴族の子息たちは国家を率いる者としての研鑽を積んでいました。』とナレーションが入ります。
講師を迎え、藤原公任卿・藤原道長卿・藤原斉信卿・藤原行成が『孟子』の講義を受けています。
藤原公任卿が『孟子』公孫丑上篇『人皆有不忍人之心』を諳んじます。
「民の暮らしなど知らんでよい!知れば、思い切った政ができなくなる」と持論を展開し野心的な右大臣・藤原兼家卿と敵対している関白・藤原頼忠卿の嫡男の公任卿が『人は皆、人の不幸を見過ごすことができない心をもっている』と性善説を諳んじるのはなかなかに皮肉が利いていると思います。

『孟子』公孫丑上篇『人皆有不忍人之心』白文
『孟子』公孫丑上篇『人皆有不忍人之心』意訳
『光る君へ』より
『光る君へ』より

>そして書道の場面です。
>皆美しい中、道長だけが個性的な字を書いている。
>藤原行成の手元を覗き込む道長。
孟子』の講義の後は、漢詩の書写が行われます。
道長卿の隣の藤原行成卿は達筆で詩を美しい文字で写していきます。
道長卿が行成卿の文机に体を寄せて、その文字を覗き込んでいます。
藤原行成卿は当代の能書家としてしられ、小野道風・藤原佐理と並んで三蹟の一人に数えられた人物です。
最終官位は正二位・権大納言。
道長卿よりも6歳下で、政権下で蔵人頭に抜擢されると細やかな気遣いで実務に能力を発揮、欠かせない存在として支え続けます。
行成卿の日記『権記』は一条帝の御代、蔵人頭在任中の記録が詳細に記されており、当時の政務運営の様相や権力中枢・宮廷の深奥を把握するための第一級の史料になっています。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
国宝 白氏詩巻 
藤原行成筆 東京国立博物館

>いいから真面目に練習しろ!
>そう兼家のように道長に言いたくなるのは、あまりに個性的な悪筆だから。
>字が下手だと台詞にもありましたが、史実の道長もあまりに癖が強い字を書きます。
>一方で藤原行成は日本書道史のレジェンドです。
>そんなレジェンド行成から癖が強すぎる道長まで、字を再現する根本知先生は大変だと思います。
ずっと道長卿の悪筆を叩いていますが、道長卿は独特の筆致でありながら世界遺産にもなっている『御堂関白記』を残しています。
今作は俳優陣が書いた筆がそのまま使われており、書道指導の根本先生が藤原道長卿の性格のおおらかさを読み取り指導されているそうです。
道長卿を演じる柄本祐さんは根本先生の文字をもとに独特の『道長フォント』を編み出しているそうです。(『50ボイス』によるとなぜか先生も書けないらしいです。)
わざわざ筆致をもとに特徴のある文字を再現しているのに誰に『真面目に練習しろ!』と言うのでしょうか。
道長卿はすでに故人で『御堂関白記』は世界遺産として保存されています。
書道指導あっての独特の文字なのに柄本さんの努力は無駄と言わんばかりです。

『光る君へ』より

>行成役の渡辺大知さんも、大変なプレッシャーですね。
>なにせあの行成です。
>全国の書道家が、目を凝らして筆の持ち方まで見ていますからね。
高名な書道家の先生方は『全ては本人のやる気次第』と上から目線で、正しい持ち方をしているのにしつこく何度も「筆を立てて持っていない!鉛筆と同じ持ち方をするな!硬筆(鉛筆)と毛筆で筆跡が変わる(鉛筆で書いた変体仮名の『於』なのに)のは放送事故!」とは言わないと思います。

『どうする家康』より
『どうする家康』より
『武将ジャパン47回レビュー』
参照:https://web-japan.org/kidsweb/ja/virtual/shodo/shodo02.html
『大河コラムについて思ふ事~『どうする家康』47回~』より

・父の間者となるメリット?

>しかし為時が知りたいのはそういうことではない。
>年頃ゆえに、東宮の妃となってもおかしくない。
>一体どういうお考えなのか?
まひろさんは館に戻ります。
「どのようであったか」を為時公に問われ、「楽しい時を過ごした」とまひろさんは答えます。
「倫子さまとはどのような方か」と問われ、「あのようなお方とは会ったことがない、よくお笑いになる方で姫君たちにも慕われていた」とまひろさんは答えます。
為時公は集まりの感想ではなく倫子さまの婚姻や左大臣・雅信卿の考えについて知りたかったのか、「婿を取る話などは出なかったか」と問います。
まひろさんは「いいえ」と答えます。
「お年頃と聞いている、東宮の后となさってもおかしくない」と為時公が言いますがまひろさんは父の意図が分かりません。
後の話ですが、宇多天皇の血筋であったため源雅信卿は倫子さまを16歳年下の一条帝の后にしたかったと言われ、年齢が不釣合いであったため藤原穆子さまの助言で実現はしなかったそうです。

>すると、まひろの猜疑心が発動します。
>嗚呼、めんどくさい。
>兼家様に頼まれたのか、間者にしろと言われたのか?と父を問いただします。
>為時は、お前が外に出たがったから、高貴な方とお近づきになって損はないと言うしかありません。
>その上で、いやなら行かなくていいとまで言ってきました。
>まひろはここで割り切ります。
>そういうところがちょっと気持ち悪いんだぞ!
「兼家様に私を間者にしろと頼まれたのですか」とまひろさんが問うと、為時公は「お前が外に出たがっていたのではないか。それに高貴なお方とお近づきになっておいて損はない。嫌なら行かなくていい」と言います。
「余計なことを申しました。倫子さまのお気に入りになれるよう努めます」とまひろさんは為時公に言います。
それでも納得できないものはあるようです。
為時公はまひろさんが自由な外出を望んでいることをダシに左大臣家と倫子さまの様子を探ってもらいたい様です。
また、和歌や漢学の修養など高度な学問を学べる機会もあり社会性も身に付くという事で損はないと考えた様です。
これは後々の布石でしょうか。
まひろさんは父に利用されたと知っても「行かなくていい」と言われれば『否』となるので。
母の遺品である琵琶の前に立ち釈然としないようです。
またここでも『面倒臭い』ですか。
そのうえ父の『娘の行動制限の緩和をダシに間者をさせる意図』を汲んで利害関係を見出し、納得しないながらもそれ以上の詮索をやめれば『気持ち悪い』。
本当はまひろさんの様な才があるのに周りの意図を察してわきまえ行動を抑圧してしまう女性は大嫌いなのではないですか。

>そんな土御門姫君サロンでは、こんな歌が詠まれました。
土御門殿では歌比べが行われました。

見てもまた またも見まくの 欲しければ 馴るるを人は いとふべらなり
古今和歌集 巻第十五 恋歌五 詠み人知らず

意訳:逢えばまた逢いたくなるので馴れ親しむのをあの人は嫌がっているのだろう

詠み人知らず

古今和歌集の詠み人知らずの歌を詠んだ姫君が「人の歌をそのまま盗んではなりません」と赤染衛門にそっくりそのまま盗用した事を注意されています。
赤染衛門に歌は自力で作るという基本を説かれ、『はーい』と姫君たちは返事します。
なんだか女子高の古典の先生と生徒の様ですね。
古今集をすべて覚えていた赤染衛門に、まひろさんは「合ってます!」と言ってしまい、倫子さまから「衛門のよいお相手になりそう」と言われます。
この場合、赤染衛門の方が先生なのでどや顔で『合ってます!』と言うのも立場をわきまえていないとなるのでしょう。
倫子さまがすかさずフォローに入りました。

『光る君へ』より

秋の夜も 名のみなりけり 逢ふといへば ことぞともなく 明けぬるものを
古今和歌集  巻十三 恋歌三 小野小町

意訳:秋の夜というのも言葉だけのこと、恋人に逢えたと思ったら、あっけなく夜が明けてしまったところを見ると

小野小町

「小町は恋の歌の名人だが恋を沢山したからだろうか」、「良い歌を詠むにはいい恋をしないと」と姫君たちは言いまひろさんも笑顔になります。
能筆家・藤原行成卿の流れるような書道の文字、琴を奏で父を聞き惚れさせる倫子さま、古今集をすべて覚えていた赤染衛門。
上級貴族の教養が垣間見える今回の物語、清少納言の『枕草子』第23段『清涼殿の丑寅のすみの』の宣耀殿女御(藤原芳子さま)が父から教わった教養のオマージュでしょうか。

枕草紙 第23段『清涼殿の丑寅のすみの』

>フフフとあざとく笑うまひろ。
>乙丸が困惑していると、源倫子様の真似だと言います。
>まひろよ、倫子と違ってあなたがやると策略の臭いがしますぞ。
帰り道、「四条万里小路の辻で散楽を見たい」とまひろさんは言います。
乙丸に「姫君が見るものではない」と止められるも、まひろさんは「見に行く」と倫子さまの真似をしてふふふと笑ってみせます。
散楽一座は帝と詮子さまの一件の風刺劇をやっていましたが、まひろは見慣れた姿を見かけます。
それは水干姿の『三郎』でした。
その時一座の男が他の人にぶつかり、面が取れます。
その男の顔をまひろさんと道長卿が見つめます。
男は直秀でした。

『光る君へ』より
『光る君へ』より

ただ倫子さまの笑い方を真似ただけで『あざとい』『策略の臭い』とは?
まひろさんに取って自分とは明らかに家格が違う姫君の集まる場は新鮮で、才を無自覚にひけらかし空気を悪くする事があっても学ぶ事は多く、
何見氏はまひろさんの様なヒロインのタイプが嫌いなのではないですか。

・MVP:源倫子?

>燦々と差し込む光のような姫君により、まひろのめんどくさい個性もあらわになったと思えます。
かわいらしい。出てくるだけで周りの空気が甘く、柔らかく、明るくなる。圧倒的な華やかさがあり、癒されます。何もかもが素敵です。』と倫子さまをべた褒めするのはいいですが、まひろさんの性格を評してただ一言『面倒臭い』『個性もあらわになった』と思うならどのようなところが面倒臭いと思うのか掘り下げたらいかがでしょうか。

・人皆人に忍びざるの心有り、では恋心は??

>『光る君へ』に戻しまて……。
>やはり、まひろは何かおかしい。
>三郎がいなくなって大丈夫かと気にしている。
>けれども直秀から無事を聞かされても、喜ぶどころか猜疑心全開にして太郎を使って調べようとする。
>その太郎に、妖怪かどうか確認したいと言う。
>これが恋をする若い女性の言動なんだろうか……。
>なんなんだ、本当になんなんだよ!
>だいたい「謎の男」というタイトルも妙です。
>逢いたい相手を謎呼ばわりってどこか変ですよ。
散楽一座の直秀は自分と間違えられた道長卿の無事を見届けた後、思い人であるまひろさんの居場所を調べ『あいつ』として人目に付かぬ様無事を知らせてくれました。
まひろさんは道長卿の人相書きを描き、太郎さんに見せて「この人を探してほしい」と言います。
人相書きにはお世辞にも上手とは言えない『三郎』の顔を描き、「藤原か源氏か」と訊かれても氏素性が分からない。
けれども『放免に捕まったその後が無事か、彼がどんな人なのか知りたい』となり、自分は父に外出を止められてしまったなら自由に動ける弟を動かすしかないとなったのではないでしょうか。
これは『源氏物語2帖・帚木』で空蝉を忘れられない源氏の君が空蝉の弟・小君の協力で文を送り続けるも空蝉は逃げ続けるという筋書きに似ていると思います。
手がかりがつかめず連れてきた人も別人で皆目見当がつかない太郎さんは「三郎は幻じゃないのか?鬼とか悪霊とか怨霊とか」と尋ね、「それを確かめたい」とまひろさんが言います。
本当に鬼や悪霊や怨霊と契っては困りますが、それくらい『三郎』がどこの者かも、氏すらわからない掴み所のない人だったのではないでしょうか。
会いたい相手がどこの誰かも分からないから『謎』なのでは。
なので確かめたいと思い、土御門邸に出入りするようになってからは四条万里小路の辻に散楽を見に行けば会えるのではと思うようになったのではないでしょうか。
願いは叶い、『三郎』に逢えたのですが。

・「よかれ」と思ってしているのかもしれないけれど?

>さて、以下は余計なことながら。
>視聴率が低いこともあり、早速叩き記事が出ています。

◆『光る君へ』第2話で視聴率ダウン! まひろ(吉高由里子)の恋愛描写メインで高齢視聴者が大量離脱(→link

まいじつ

◆NHK負のスパイラル…『紅白歌合戦』『光る君へ』“低視聴率”続きで予算削減へ(→link

週刊実話Web

『余計なこと』だと思うならわざわざ視聴率が低いので叩き記事が出ている事を論う必要が無いと思います。
わざわざゴシップ記事を挙げて『私は諫言してやっているのよ』をやりたいだけに思えます。
余計なお世話です。
『光る君へ』初回の平均世帯視聴率は関東地区で12.7%(ビデオリサーチ調べ)、2回の関東地方の番組平均世帯視聴率は12.0%でした。
第1回ではNHKプラス視聴数が全ドラマの中で最多となる視聴数の49.8万UB(ユニーク・ブラウザ)を記録し、過去最多です。
現在は視聴時間や形態が分散しており、総合的な数字で見ないと分からないと思います。

>「事情通」とは、誰でも自称できるし、資格もなにもないところがポイント。
>ライター本人が書いているという可能性もあります。
『歴史ライター』は誰でも自称できるし貴方も資格もなにもないただのライターですよね。
自称歴史ライターなのに歴史事項や時代背景を説明もせず、文春他週刊誌記事を貼って信憑性に欠ける記事を書き悦に入っているだけでは?

『武将ジャパン47回レビュー』
『武将ジャパン47回レビュー』
『武将ジャパン47回レビュー』

>そして私は愕然としたことがあります。
>この記事の書き手も、読み手も、シニア層を意識していることです。
>シニア層は教養があると思いたい。
>それなのに『源氏物語』をこう説明してしまうのはいかがなものか。

「PRを見れば見るほど、見る気が起きないのが『光る君へ』です。まず多くの視聴者は登場人物を理解するのに時間が掛かる。なんたって8割以上が同じ姓を持つ『藤原』と『源』なんです。60歳以上のシニア層が混乱することは必定。しかも、物語の大半は権力闘争でこれといった盛り上がりがありません」(事情通)「よくぞまあ、これだけ魅力のない役者を揃えたといったところでしょうか。ヒロインの吉高由里子は旬をすぎ一巡した感が強い。また、イケメン枠で出演する恋人役の柄本佑も正直、微妙です。ましてや下地となる『源氏物語』が男と女のまぐわいが中心の恋物語。大河が放送される時間帯で、その世界観を描くのは到底無理があります」(同)

週刊実話Web

第1回の『大河という時点で、はなから若い女性は避けている!』に続いて『シニア層は国民的古典を学ぼうという好奇心や知識欲がない!藤原の多さに困惑しているという指摘も甘え!』
またしても責任転嫁ですか。
ファンが興味を持ち始めたところで罵声を浴びせ文春記事をさも事実のように吹聴しタレントの醜聞に粘着しファン同士がいがみ合うよう扇動しているのだから、忌避されるもとです。
シニア層が『源氏物語』が恋愛が多くてどうにも興味が出ないのなら作中の元ネタのエピソードを紹介してもいいですし。
『藤原・源の多さに困惑している』なら登場人物の経歴や逸話を紹介すればいいではないですか。
百人一首に採用された歌人もいますし、百人一首とともに紹介してもいいですし。

同じことを女性が言おうものなら「このバカ女」となりそうなのに、なぜ中高年男性は当然の如く、こんな威張った調子で言うのか。世間はそれを許すのでしょうか?
世間はそれを許すのか?責任転嫁しているだけでなく、読んで補足として楽しめるレビューを書けばいいのではないですか。
自分が興味の無い話をされたり興味の無い趣味に付き合ったりして嫌な思いをしたのに同じことどころかそれ以上の嫌がらせや罵倒を描くから嫌がられるのです。
ここでも同じことを女性が言おうものなら「このバカ女」となると他人を見下している。
『何か偏見がある可能性を感じます。』
偏見があるのはどちらでしょうか。

>そして感じたのは、以下の記事にある「カスハラ」です。

◆「よかれ」と思って無自覚カスハラ 気をつけたい「中高年男性」(→link

朝日新聞デジタル

>「よかれ」と思い、いい事してやったと語っている記事なのだろうなと。
>藤原ばかりいるのはおかしい。
>恋愛をやるな!
>そう自分のアドバイスを聞けという意識で記事を作ると、ある程度読まれるんだろうな、と。
>でも、それでいいのでしょうか。
何見氏は全文読んだのでしょうけど、新聞社の有料記事をリンクにつけていますが、読者は皆わざわざお金を出すわけでもなく困ると思いますが。
『自身がカスハラをしていることに気づいていない人は少なくない』『違法性がなくても同じ要求の繰り返しや、従業員の長時間拘束、個人攻撃となれば、カスハラに該当しうる。』
何見氏の事でしょうか。

『武将ジャパン47回レビュー』

・視聴習慣が変化する時代

>海外では視聴者数または視聴回数で評価します。
>そういう過渡期の作品なのでしょう。
>今年は「視聴率は低迷する」と覚悟の上で作っていると思います。
>しかし現場の士気は高いようです。
すぐ上の項で『視聴率が低いこともあり、早速叩き記事が出ています。』
と週刊誌記事を挙げ、『シニア層は国民的古典を学ぼうという好奇心や知識欲がない!藤原の多さに困惑しているという指摘も甘え!』と視聴者に責任転嫁して言いますが『海外では視聴者数または視聴回数で評価する』と言うならなぜ第1回のNHKプラス視聴数が全ドラマの中で最多となる視聴数の49.8万UB(ユニーク・ブラウザ)を記録し、過去最多だった事を評価しないのでしょうか。
また1回レビューでは『大河という枠そのもの、ひいては日本史周辺までもが、若い女性を蹴散らすようなことをここ10年ほど続けています。』と言い、『当然の帰結』としていますが、『推しが出ているから毎週応援しています』『相互さんからお褒めの言葉頂きました』と感想を言い合うファンや毎週『~絵』を挙げている人たちを『害悪ファンダム』と罵倒するようなレビュアーがいれば忌避されてもおかしくないし、作品ファンや制作者からすれば迷惑だと思います。

※何かを見た氏は貼っておりませんでしたが、今年もNHKにお礼のメールサイトのリンクを貼っておきます。
ファンの皆様で応援の言葉や温かい感想を送ってみてはいかがでしょうか?

NHKや番組についてのご意見・お問い合わせ | NHK みなさまの声にお応えします
◆NHK みなさまの声(→link

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