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大河コラムについて思ふ事~『光る君へ』第16回~

4月中旬になりました。桜も葉桜に変わり新年度に慣れてきた頃でしょうか。
環境や気候の変化など、皆様健康には充分お気を付けください。
さて、光る君へ第16回。
今週も『武将ジャパン』大河ドラマコラムについて書かせていただきます。
太字が何かを見たさんの言質です。
御手隙の方に読んでいただければと思います。それでは。


・初めに

>都で疫病が流行り、道長や一条天皇がその対策を望んでも、宮中に放火された事件のこと、一族の繁栄しか頭にない藤原道隆。
>一方、悲田院で看病をするまひろは自身が咳き込んで倒れてしまい。
大宰府から発して徐々に都へ広がる疫病。
藤原道長卿は蔓延する疫病に対し対策をすべきだと長兄・道隆卿に訴えます。
そして、病に倒れる民に心を傷められた一条帝が帝王学である『貞観政要』を引き合いに民のための仁政をお説きになりますが、道隆卿は「下々の者しか罹らぬもの」と楽観視し取り合いません。
内裏は相次ぐ放火に悩まされており、道隆卿は疫病よりもそちらの方が一大事と責任を道長卿に問いただします。
道隆卿を頼りにできぬ道長卿は「自分で悲田院を見て参ります」と言います。
そこに次兄・道兼卿が「汚れ仕事は俺の役目」と自ら視察を買って出ました。
悲田院ではかつてまひろさんが文字を教えたたねさんとその両親が疫病により最期を迎えます。
それでも民を看病していたまひろさんも病に倒れてしまいます。
そんなまひろさんを道長卿は自ら看病します。
そんな道長卿に対し、倫子さまは…

>正暦4年(993年)、まひろは友人のさわと石山寺に参詣しました。
正暦4年(993年)秋、さわさんと共に石山寺を参詣したまひろさん。
石山寺では『蜻蛉日記』の作者・寧子さまと出会います。  
日記に妾としての悲しみを書く事で自分を救ったという寧子さまの言葉は、まひろさんに大きな影響を与えます。
その日の夜、寧子さまに同行していた藤原道綱卿が寝所のさわさんの元に夜這いをかけましたが、道綱卿が求めていた相手はまひろさんでした。
さわさんと間違え、言い訳する道綱卿。
さわさんはすっかり悲しくなっていました。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

石山寺からの帰路、さわさんの不満が爆発します。
まひろさんは「私には才気もなく殿御を引き付けるほどの魅力もなく家とて居場所がなく、もう死んでしまいたい!」と走り出したさわさんを追いかけ、「何があったのか」と尋ねますが、さわさんの不満の矛先はまひろさんへ向きます。
さわさんは、まひろさんが寧子さまと話していた事について「『蜻蛉日記』のお話しの時、私を除け者にしたでしょ!」と言い出します。
そして「道綱さまも本当はまひろさまを求めていた」と話し、「まひろさまは私の味方だと思って信じていましたけど、それも違いました。私のことなんかどうでもいいのです。私は家ではどうでもいい子で、石山寺でもどうでもいい女だった。私なんて生きている甲斐もない!」と嘆きます。
さわさんは「これ以上、私を惨めにさせないでください。放っておいて!」と涙を流してまひろさんを突き放しその場を去ろうとしました。
まひろさんは思いがけずさわさんを傷つけた事に落ち込みました。
まひろさんは自邸に戻ります。
父・為時公は夕食を摂り、いとさんはまひろさんの食事も準備しようとします。
まひろさんはそれを断り、為時公といとさんの分のお守りを渡します。
そして素っ気ない態度で室内に上がり、笠を脱ぎながら寧子さまが言った「私は日記を書くことで、己の悲しみを救いました」という言葉を思い出していました。
その後まひろさんは文机に向かい、墨を擦り始めます。

『光る君へ』より
『光る君へ』より

>まひろはどこか変わり者ではあります。
>その変なところに気づいていても、相手がそこを気にしないようにすればよいのだとは思います。
>ただ、一旦、違和感を覚えたら一気に絶交されるタイプかもしれません。
道綱卿が夜這いをかけ、その本命の相手がさわさんではなくまひろさんだったため、さわさんは「私には才気もなく殿御を引き付けるほどの魅力もなく家とて居場所がない」「まひろさまは私の味方だと思って信じていましたけど、それも違いました。私のことなんかどうでもいいのです」と疎外感を感じています。
子どもの時から読者だった『蜻蛉日記』の作者・寧子さまにあった事で話が盛り上がり、さわさんを置いてきぼりにし、夜這いに来た道綱卿の好みがたまたままひろさんだった事はまひろさんが変わり者だからいけないのでしょうか。
さわさんはまひろさんを親友と思っているからこそ、才気の面で置いていかれたような寂しさが募り、当たり散らしてしまったのではないでしょうか。
さわさんを演じている野村麻純さんは『さわは、父からも育ての母からも興味を持ってもらえていないという状況の中、お母さんと会わせてくれたまひろに恩もあるし、まひろのことが大好きで慕っていて、味方であるという気持ちと、ずっと抱えてきた疎外感や孤立感など、どちらも常にあるということを意識して演じました』『さわは嘘がつけないし、まひろと過ごしてきた時間の中でまひろに懐いているので、甘えも出てくるし、その時間経過を考えるとそうなるのかなと思えて、すんなり演じることができました』と語っています。

>ききょうこと清少納言は露骨にチクチクするし、明らかに攻撃的ですが、まひろは表面的には穏やかで、どこか変わっていますので難しい。
さわさんはまひろさんがその文才によって自分の知らない交流ができており、そこに自分が入れない疎外感を感じ家族からも孤立しているのを気にしているのであってまひろさんの性格を論って不満を爆発させたわけではないと思います。
それにさわさんはききょうさんとは面識が無いので引き合いに出す必要性がないと思います。

・香炉峰の雪は?

>正暦5年(994年)の正月が来ました。
>平安京は雪景色―
正暦5年(994年)正月。
定子さまの局・登華殿は華やかさを増し、若い貴族たちが積極的に招かれる様になっていました。
定さまと伊周卿の弟・隆家卿も加わり、中関白家は一条帝との親密さを殊更に見せつける様になりました。

『光る君へ』より
『光る君へ』より

>まずは藤原伊周が、行成が献上したいものがあると帝に伝える。
>藤原行成筆の『古今和歌集』でした。
行成卿が献上したのは『古今和歌集』ではなく『古今和歌集』の写しです。
白い直衣姿の藤原伊周卿が、「行成が献上したいものがございます」と帝に伝えました。
行成卿は緊張した面持ちで『古今和歌集』の写しを献上します。
帝と定子さまは行成卿の文字の美しさに目を見張り、定子さまは「まあ、麗しき文字!」と感嘆の声を挙げます。
「大切にしよう」との帝のお言葉に行成卿は誇らしげに礼を述べます。

『光る君へ』より

さて、行成卿が献上した『古今和歌集』の写し。
その内容は『古今和歌集』仮名序から巻第五までの写しでした。
帝がご覧になっていたのは巻第一春歌上です。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『古今和歌集』仮名序 
紀貫之
『古今和歌集』巻第一 春歌上

「立春」は春の始まりで新年の始まりでもありました。
太陽暦では立春は2月4日頃ですが、太陰暦では12月後半から1月前半になります。
だいたい1月1日頃に立春が巡ってくるのですが、12月中に立春になる場合があり、新年を迎えても去年なのか今年なのか分からないという歌です。
正月に合った書ですね。
三蹟の一人である当代の能書家・藤原行成卿の筆と伝えられる『古今和歌集断簡(荒木切)』は東京国立博物館に所蔵されています。

古今和歌集断簡(荒木切)
伝藤原行成筆
東京国立博物館

>書道担当の根本知先生はどれほど気合を入れて書いた文字でしょうか。
>伝説的な美しい文字の再現に眼福。
>これぞ伝説です。
『ラジオ深夜便』放送内での『もっと、光る君へ』によると、藤原行成卿を演じる渡辺大知さんは書道指導の根本知先生にご指導頂いて練習を重ねているそうです。
また書道シーンを吹き替えにするという案もあった中、渡辺さんが吹き替えなしで書いていらっしゃるとの事です。
『古今和歌集』の写しに関しては、根本先生のインスタグラムによると今回の古今和歌集の写本は「関戸本」に寄せて根本先生が書かれたものだそうです。

『光る君へ』より

>藤原斉信からも献上品がありました。
>越前からの銅鏡です。 
>越前からということは、北宋からの渡来品でしょうか?
斉信卿は「越前からの鏡にございます」と鏡を定子さまに献上し、「嬉しい事!」と定子さまを喜ばせました。
「女子への贈り物に慣れておられるのやも」という伊周卿の言葉を斉信卿が慌てて否定します。
そこには清少納言ことききょうさんが控えています。
定子さまは「皆、お上のよき友として長らくお付き合いくださいませね」と言います。

『光る君へ』より

斉信卿が定子さまに献上した『唐鏡 (からかがみ)』は『中国渡来の鏡。舶来の上等の鏡。からのかがみ。』の事です。(出典 精選版 日本国語大辞典)
宋・元時代に造られた銅鏡を宋元鏡といいます。
銅不足のため薄手で細かい唐草紋などのある円鏡、四花、八花、八稜鏡や、おもに浙江地方で作られた無文で鏡背に銘のあるものなどがあります。
越前国は延喜式による等級で北陸道唯一の大国であり、日本海を利用した海上交通が盛んでした。また、同国への行程は《延喜式》によれば〈上七日、下四日、海路六日〉と規定されていました。
平安時代前期、越前・敦賀には渤海の使節団(渤海使)を迎えるため建てられた松原客館という迎賓・宿泊施設がありました。
斉信卿が献上したのは、敦賀から買い付けた宋元鏡で、形状からして先が尖った8枚の花弁をかたどった八稜鏡でしょうか。

八稜鏡
出典 精選版 日本国語大辞典

>越前はこのあと出てくる場所ですので、予習の意味もあるのかもしれませんし、【刀威の入寇】で対応する藤原隆家も出てきました。
『刀威の入寇』ではなく、『刀伊の入寇』です。
刀伊とは、高麗語で高麗以東の夷狄(いてき)である東夷(とうい)を指す『toi』に、日本の文字を当てたものといわれています。
リンク記事には『刀伊の入寇』とあるのできちんと確認して下さい。

>斉信から鏡を貰って喜ぶ定子が、今日は何をして遊ぼうか?と声をかけると、帝は任せるとのこと。
今日の遊びは?」と問う定子さまに帝は「任せる」と仰います。
定子さまはききょうさんに「香炉峰の雪は如何であろうか」と声をかけました。
ききょうさんはさっそうと「御簾を」と女房達に御簾を上げさせると「どうぞお近くで」と声をかけて外の雪を一同に見せます。
伊周卿が「流石中宮さま。見事な問いかけにございます」と定子さまの問いかけを褒めますが、隆家卿は意味が分かっていない様です。
公任卿が「『香炉峰の雪は、簾を撥げて見る』白楽天の詩でございますか」と解説を入れます。
定子さまはききょうさんに「少納言、見事であった」と労います。
ききょうさんは「中宮さまのお問いかけにお答えできてほっとしました。いつもこのように参るかどうかはわかりませぬが」と答え、帝と定子さまの笑いを誘います。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

『香炉峰の雪は、簾を撥げて見る』の原典になったのは白居易の『香炉峰下新卜山居』です。
白居易(白楽天)は30代後半で中央の政に関わるようになりますが、私利私欲に塗れる官僚たちを批判する詩を書き、怨みを買い左遷されてしまいます。
この詩はその頃書かれたものでした。

『香炉峰下新卜山居』白居易

『『枕草子』雪のいと高う降りたるを』は、『枕草子』でも指折りの有名エピソードです。
定子さまと伊周卿の母は歌人であり漢籍に造詣が深い高階貴子さまでした。
『枕草子』や『栄華物語』によると、伊周卿は漢学や和歌に通じ容姿端麗で頭脳明晰な人物であり、和歌や漢学の才能を見出され一条帝に漢籍の講義を行っていたそうです。
定子さまも女房も居合わせた公卿も全員が白居易の『白氏文集』を読んでいて知っているので雪景色の楽しみ方を心得ているという場面ですね。
『香炉峰の雪は、簾を撥げて見る』は当時の宮廷でとても親しまれ、藤原公任卿が編纂した『和漢朗詠集』にも『香炉峰の雪は、簾を撥げて見る』が採用されています。

>大きな雪山を作るぞ!と浮かれる貴族たち。
定子さまの提案により雪遊びで雪山を作る事になりました。
帝も定子さまも、履物をお履きにならぬまま庭に降り、伊周卿も混ざり雪遊びに興じます。
斉信卿が公任卿に雪をくっつけられ、悲鳴を上げ、さらに行成卿に後ろ襟から雪を入れられさらに悲鳴を上げています。
するとどこか浮かぬ表情で藤原道長卿が登華殿にやって来ましたが、雪遊びの様子を目の当たりにして、「今日はやめておこう」と引き返していきました。
隆家卿は1人屋内に残っており、ききょうさんから「隆家さまはお庭にお降りになりませんの?」と尋ねられて、「何が面白いのか分からぬ」と答えます。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

>「子供かよw」と笑われるかもしれませんが、平安貴族の雪山は、侮らない方がよいですよ。
>しっかりした防寒具もないような時代なのに、記録を見るとなかなか巨大なものを作り上げております。

『記録を見るとなかなか巨大なものを作り上げております。』その雪山を作っている記録を出典を挙げて具体的に紹介して下さい。
『『枕草子』職の御曹司におはします頃、西の廂にて』では、長徳4年(998年)12月中旬、京都に大雪が降りました。
あちらこちらの御殿の庭で雪山が作られ、中宮(定子さま)の命令で集まってきた貴族たちが雪の山を作り出す場面が描かれています。

『枕草子』
職の御曹司におはします頃、西の廂にて

また『源氏物語』二十帖朝顔に女童たちが庭に降りて雪まろばしする場面があります。

『源氏物語』二十帖朝顔
源氏物語絵巻 二十帖 朝顔
土佐光起

>「悪左府」こと藤原頼長です。
>彼の日記『台記』によると、独力で巨大な雪山づくりをぶっ通しでしていたとか。 
>一体なんなのでしょう……。
悪左府さまこと藤原頼長卿の『台記』では食事抜きで雪山を作った話や雪山の大きさが一丈あまりもあった(『台記』保延2年(1136年)十二月四日条、久安2年(1146年)十二月二十一日条)などの記述があるそうで、貴族たちが雪山作りに熱中する様子や大きな雪山を作った場合のあった事が分かります。
貴族たちが雪を楽しみの一つとして見ており、雪山作りに精を出す姿を日記に残しただけで『一体なんなのでしょう……。』と目くじらを立てられる謂れはないと思います。

『雪と暮らす古代の人々』
相澤央
吉川弘文館

・中関白家に靡く貴族たち?

>藤原行成が帝の美しさをしみじみ思い返していると、斉信が「道長寄りではなかったか?」と揶揄するように言います。
その夜。
行成卿は酒を飲みながら、「帝のお美しさが今も目に浮かぶ」と言います。
「道長じゃなかったのか」と斉信卿に突っ込まれますが、「道長殿は道長殿。今日は帝に魅せられました」と言い、斉信卿は「何だよそれ」と呆れています。
最推しを崇め続けたききょうさんに対して、行成卿は推しが増えていく人なのですね。

『光る君へ』より

>一方、藤原公任は、帝の御前でも直衣姿だった藤原伊周に不満があるようです。
一方、公任卿は伊周卿が帝の御前で白い直衣を付けていた事について、「しかし、帝の御前で伊周殿のあの直衣は許し難い」と言います。
「帝がお許しになっているからどうにもならぬ」と斉信卿。
しかし公任卿は、「中関白家は皆自信満々で鼻につく」と不満そうにしています。
斉信卿は「俺にも娘がいたら」と言い、すでに娘のいる道長卿を羨んでいます。
「今からでも遅くない」と公任卿に言われ、斉信卿はその気になっています。
藤原伊周卿は正暦5年(994年)に若干21歳で内大臣に昇進し、長徳元年(995年) 3月には父・道隆卿が病の間のみという条件で、『内覧』という天皇に奉る文書や天皇が裁可する文書など一切を先に見る事ができる地位に就きます。(『小右記』長徳元年(995年) 三月十日条)
内裏に出仕する束帯姿の貴族と違い、伊周卿だけが帝や中宮の御前でも冠直衣姿であり、これは帝に特に信頼される者だけが許された平服でした。
兼家卿や道隆卿は白い直衣を摂政・関白に就任後に初めて着用しており、中関白家の権勢に不満を感じる貴族もいたのではないでしょうか。

『光る君へ』より
『光る君へ』より

>一方、すっかりF4から抜けたような藤原道長は、自宅で源倫子と共に愛娘の藤原彰子を見ています。
一方、土御門殿では道長卿に倫子さまが「彰子を入内させようと考えないでくれ」と訴えています。
彰子さまを見ながら「この子に帝の后は務まらない」と道長卿が言い、倫子さまは、「今はぼんやりだがそのうち化けるかも知れない」と言います。
道長卿は、「ぼんやりは俺に似たのだな」と自嘲しながらも「このままで良い。このまま苦労なく育ってほしい」とも言います。
「殿のように心の優しい人に育つ様に」と倫子さまがほ微笑みます。
彰子さまの入内について難色を示している道長卿と倫子さまですが、二人の間には嫡男(後の藤原頼通卿)が生まれています。

『光る君へ』より

>再び舞台は、綺羅びやかな中関白家へ。
登華殿では一条帝が龍笛をお吹きになり、定子さまが琴を奏でる中、伊周卿が舞っていました。
座って杯を傾けその様子を眺めていた隆家卿に、伊周卿が「お前も舞え」と命じます。
隆家卿は一旦断りながらも、ききょうさんの扇を借りて『タアハア トヲリョロ タアハア トヲリョロ タアハ』と歌いながら舞い始めました。

『光る君へ』より
『光る君へ』より

>夫婦で楽器を演奏する様は「琴瑟(きんしつ)相和す」という漢籍由来の言葉もあり、夫婦和合の象徴。
漢籍を引き合いに出すならきちんと出典を提示して言葉の解説をした方が分かりやすいと思います。

琴瑟(きんしつ)相和す
『詩経』「小雅・常棣」篇
意味:
琴と瑟との音がよく合う事から夫婦仲が非常によい例え。
 
妻子好合し、琴瑟を鼓するが如し
兄弟既に翕(あ)ひ、和楽して且つ湛(たの)しむ。

意訳:
妻子睦まじく、琴と瑟とが調和するようであり、兄弟も既に集まり、和らぎくつろいで、楽しみが尽きない。


・琴…中国古代の弦楽器。長さ約120センチで、弦は7本。
琴柱(ことじ)は用いず、左手で弦を押さえ、右手で弾く。
・瑟…中国古代の弦楽器の一つ。箏に似て、普通は25弦。
柱で調弦し、弦を弾いて奏する。
(出典 小学館デジタル大辞泉)

『詩経』「小雅・常棣」篇

>こうした時代ごとの芸能再現はこれからの時代重要です。
>中国では時代ごとの舞姿の動画があり、見応えがあります。
>アジアの時代劇は近世以降に集中する傾向もありましたが、韓流にせよ、華流にせよ、それより古い時代のものが増えている。
>時代劇や大河ドラマというと、戦国時代や幕末といった定番の時代だけを思い浮かべるのはもう古くなっているのです。
こうした時代ごとの芸能再現はこれからの時代重要です。』とありますが、大河ドラマでは登場人物が雅楽の舞を舞ったり、白拍子や散楽や能・狂言などの芸能が出てきたのですが、お得意の10年ルール縛りでは確認もできないでしょうか。

『義経』より
『太平記』より
『平清盛』より
『真田丸』より
『麒麟がくる』より
『青天を衝け』より
『青天を衝け』より
『鎌倉殿の13人』より
『どうする家康』より

・日本初の女院・東三条院?

>音楽と舞を楽しむ帝と中関白家たち――
>と、そこへ誰かがやってきます。
>帝の母である藤原詮子です。
伊周卿と隆家卿が舞を舞っていると、登華殿に近づく人の気配がし、隆家卿が気配に気付きました。
そこへ詮子さまが姿を現します。
「邪魔をしたようだ」と戻ろうとする詮子に、「お待ちください」と道隆卿が声を掛けます。
伊周卿も「女院さまどうぞこちらへ」と座を勧めました。
詮子さまは円融院崩御後、史上初の『女院』の称号を与えられて『東三条院』と号されていました。
一条帝と定子さまが詮子さまに挨拶をします。
詮子さまは帝に「お上、先ほどの騒々しい舞は何事でございますの?」と尋ねました。
伊周卿は「お上の笑みが消えてしまわれた」と笑いながら言います。道隆卿は伊周卿に何かを指示するかのように言います。
伊周卿は立ち上がり、「お上と中宮さまの後宮はこれまでとは違います。誰もが楽器を奏で歌い舞う。さらにお上との間の垣根を取り払い、誰もが語らうことができる。これこそがお上がお望みになる後宮です」と自信満々に語ります。
そして伊周卿は「女院さまにもその事をお分かり頂きたく、お願い申し上げまする」と詮子さまに言いました。

『光る君へ』より
『光る君へ』より

>円融院の死後、日本初の女院となった詮子。
>日本がお手本とした唐代は、楊貴妃一族の政治介入で痛い目に遭っているにもかかわらず、そこをあまり考えていない。
>女性の政治権力をセーブするどころかその逆です。
円融院の死後』とありますが、円融院は元ではありますが帝であり、せめて『崩御された後』『お隠れの後』など敬語を使えませんか。(語りも『死後』とはなっていますが。)
正暦2年(991年)、円融院が崩御された事で出家し皇太后からは降ります。
その際、詮子さまに贈られたのが史上初の『東三条院』という女院号でした。
『院』はすなわち太上天皇であり、『女院』とはそれに準ずる待遇を受けた女性の事です。
詮子さまは楊貴妃などの傾城と呼ばれる女性たちとは違い、后としてではなく上皇と同等の権力を持った女性という事です。
上皇の様に『院』と呼ばれ、女院の所務・雑務を処理した機関である『院庁(いんのちょう)』が置かれました。
『女院』号は詮子さまを初として、幕末に至るまでに100人超の方に与えられているそうです。
有名どころでは、後白河院の女御・建春門院平滋子さま、高倉天皇の女御・建礼門院平徳子さまがいます。

『光る君へ』より
『平清盛』より
『平清盛』より

詮子さまに女院号が贈られた事について
『小右記』正暦二年(991年) 九月十六日条には下記の様に書かれています。

『小右記』正暦二年(991年) 九月十六日条

詮子さまは一条朝に於いて国母として強い発言権を持ちしばしば政治に介入したため、『小右記』では『国母専朝事』と非難されています。

『小右記』 長徳三年(997年) 七月五日条
長徳三年七月五日、丁卯。今日大臣召云々。有所思不参入。
(中略)
用賢之世、貴賤研精。而近日臣頻執国柄、母后又専朝事、無縁之身処何為乎。

<書き下し文>
長徳三年七月五日、丁卯。「今日、大臣召」と云々。思ふ所有りて参入せず。「右衛門督、同じく参入せず」と云々。
(中略)
用賢の世、貴賤、研精す。而るに近臣、頻りに国柄を執り、母后、又、朝事を専らにす。無縁の身、処するに何と為んや。

『小右記』 長徳三年(997年) 七月五日条

>慈円が「女人入眼の日本国」と書くに至る源流がこのあたりから見えてきます。
入眼』とは、絵を描いた時に最後の仕上げとして眼を入れる事であり、『女人入眼』とは女人が政をしこの国を仕上げるという意味です。
天台宗の僧・慈円僧上は『愚管抄』の中で「女人入眼の日本国、いよいよまことなりけりと云ふべきにや。(日本を女人が仕上げるということは、いよいよ本当の事になったと言うべきではあるまいか)」と書いています。
これは鎌倉幕府の北条政子さんと朝廷の藤原兼子さまを評したものなのだそうです。

・石山寺参詣のあと?

>詮子と中関白家との一件を藤原道綱がヘラヘラと藤原道長に話しています。
(中略)
>調子に乗った道綱は、忍んで行ったらその友と間違って参った参った、と相変わらずヘラヘラと続けます
何見氏は明るく明朗快活な人に対して『ヘラヘラ』という表現を使うのが好きなんですかね。
道綱卿は世間話の様な弟との他愛無い会話をしているだけなのですが。
登華殿での宴に詮子さまが口を挟んだ場に居合わせて事の次第を見ていた道綱卿が道長卿に、「伊周が女院に説教して皆凍り付いた」と話しています。
そして道綱卿は「この前、母の供をして石山寺に行ったら、ついぞ見かけぬようないい女がいたんだよ」と言います。
「ま・ひ・ろって名なんだけど」
女性の名を聞いて道長卿の表情が固まります。
さらに道綱卿は、「忍びに行ったらその友と間違ってしまって参った」と嬉しそうに話し、道長卿
はため息をつきます。
弟の恋心など知る由もない道綱卿、危うく超特大の道長卿の地雷を踏みぬくところでした。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

>彼女は、さわに思うように口頭で反論できていませんでした。               >思ったことを口にするよりも、書く方がまとまるタイプかもしれません。          >口も回る当意即妙型の清少納言とは違う。                まひろさんは、文机に向かってさわさんへの手紙を書き、乙丸に届けさせました。
既に何通も届けていますが、さわさんは受け取ろうとしない様です。
乙丸が「文を返してくるような方は、もうお忘れになった方がいい」と言いますが、まひろさんは諦めきれずなおもさわさんに文を届けさせます。
さわさんは石山寺での寧子さまとの会話に付いて行けないことに対し学才が無いと言い道綱卿の間違いの夜這にも魅力が無いと劣等感を抱きました。何処にも居場所が無いと疎外感を感じ、以来まひろさんとも会っていないのでしょう。
まひろさんは思いがけずさわさんを傷つけた事に落ち込みましたが、文を書き続ける事でさわさんに向き合おうとしているのかもしれません。
和歌・漢籍に秀でたまひろさんですが、女であるがゆえに『お前が男ならばよかったのに』という言葉に何となくコンプレックスを感じているまひろさんですが、お互いに気安く話す事ができる親友なのがさわさんだったのではないでしょうか。
『口も回る当意即妙型の清少納言とは違う。』とありますが、『私には才気もなく殿御を引き付けるほどの魅力も無い』と悲しんでいる人に対して当意即妙な才気走った言葉は逆効果だと思います。

>今後この二人はどうなるのか。
>気になってきました。
(中略)
>旧友に束の間の再会を果たしたとき、紫式部が詠んだ歌です。
>さわ相手に詠むのかもしれませんね。

めぐりあいて みしやそれとも わかぬ間に 雲隠れにし 夜半の月かな
紫式部

意訳:
久しぶりにめぐり逢い、見定めのつかないうちに雲間に隠れてしまった夜半の月の様に、貴方は慌ただしく姿を隠してしまい残念です。

新古今和歌集

新古今集の詞書には「はやくより童友達に侍りける人の、年ごろ経てゆきあひたる、ほのかにて、七月十日のころ、月にきほひて帰り侍りければ」とあり、幼なじみの友人との束の間の再会の名残惜しさを詠んだ歌です。
また百人一首の第57番目の歌でもあります。
歌の最後の部分の『夜半の月影』を『夜半の月かな』としているものもあります。
新古今和歌集では『夜半の月影』とされています。

・光あるところに影がある?

>定子と帝が向き合い、仲睦まじくしています。
>まさに唇を重ねようとしたその時、源俊賢があわただしくやってきました。
一条帝は寝所で定子さまと共寝をなさっています。
帝が定子さまの頬に手を添えられ、定子さまは恥じらう様に帝を見ます。
二人はお互いに額を付け口付けを交わそうとしました。
その時足音が聞こえ、蔵人頭・源俊賢卿がやって来ました。
俊賢卿は「弘徽殿より火の手が上がったので、ここよりお移りになられます様に」と伝えます。
「また放火なのか」と帝が仰り、定子さまと共にその場から避難なさいました。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

>中関白家ではこのときのことを話し合っています。
「先日は後涼殿、昨夜は弘徽殿、次は清涼殿でございましょうか」と貴子さまは不安そうですが、道隆卿は「宮中の警固をより厳しくする様に命じたゆえ案ずるな」と言います。 
「内裏の中に火付け人がおるのでありましょうか。よもや帝や中宮様を狙い奉るような者はおりますまい」と伊周卿が言います。
貴子さまは、「我が家への恨みが帝や中宮さまに向かっているのだとしたら」と、不安を拭い切れない様子でした。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

先日の後涼殿は帝が日常をお過ごしになる清涼殿の隣、昨夜の弘徽殿は定子さまの局である登華殿の側なので、「次は(帝のおわす)清涼殿か」と貴子さまは心配しているのですね。

平安京内裏図

すると隆家卿がこう切り出します。
「女院かもな」
続けて「火付けを仕組んだ張本人ですよ。だって女院ひどくお怒りだったでしょう。昨日」と隆家卿は意見を述べました。
「中宮さまが、女院さまに妬まれるとは」と愕然とする貴子さま。
伊周卿はそんな母を落ち着かせようとしましたが、隆家卿はなおも続けます。
「妬まれて結構ではありませんか!父上も姉上も兄上も、ようやく妬まれる立場になられたのですから」
道隆卿は、「帝に危害を加えることを女院がなさるとは思えない」と言いました。
しかし隆家卿は、「女院でなければ。父上を恨んでいる人ですよ。大勢いるでしょう」と言い、「口を慎め」と伊周卿から叱られます。
「兄上だって分かるだろ、それくらい」と隆家卿は引き下がりません。
道隆卿が哄笑し、隆家卿も父に合わせ笑い声を上げ、伊周卿と貴子さまは唖然としています。
「光が強ければ影は濃くなるというもの。恨みの数だけ私たちが輝いているという事だな。私達が暗い顔をすれば相手の思うツボだ、動じないのが肝心だ」と道隆卿は言います。

『光る君へ』より
『光る君へ』より

>しかし道隆は光に目を細め、まぶしそうにしています。
>そして水を大量に飲むようになった。
>糖尿病が発症しているのでしょう。
道隆卿は廊下に出ましたが、日が射しており、眩しそうに目の前に手をかざしています。
何見氏の言う水を立て続けに飲んでいるのは内裏で道長卿から疫病について奏上されている場面ですね。
道隆卿は『大鏡』に酒に酔い潰れるまで飲み牛車の中で寝てしまう記述がある程の無類の酒好きでもあります。
糖度の高い酒の飲み過ぎなどからきた飲水病(糖尿病)の悪化が命を縮めたともいわれています。
作中では以前から糖尿病を発症しており、弓競べの日には『朝から身体がだるい』と道長卿に語っていました。

『光る君へ』より

彼の場合、『糖尿病が発症している』だけでなく、すでに血糖値が高い状態が続き、糖尿病の自覚症状である喉の渇き、倦怠感、糖尿病性網膜症などの症状が現れているのでしょう。
道隆卿が眩しそうに手をかざしていますが、糖尿病網膜症は合併症の一つで、血糖が高い状態が続き、網膜の毛細血管にも悪影響が生じ、網膜の毛細血管がもろくなって水漏れや出血が起きたり、網膜の血管が詰まって網膜が酸欠の状態になったりし、その状態を放置すると失明に至るのだそうです。

『光る君へ』より

>内裏では都の疫病対策が議論されるものの、道隆が無視するという状況が続いています。
内裏では中関白家の栄華が極まる一方、公卿たちは都に広まる疫病への対策を道隆卿に提言していましたが、道隆はそれを無視し続けていました。
安倍晴明公の自邸では晴明公が須麻流さんに、「今から誰も外に出てはならぬし、入れてもならぬ」と命じ門を閉めさせました。
理由を尋ねる須麻流さんに、晴明公は「須麻流、門を閉めろ。今宵、疫神が通るぞ。疫病の神、疫神だ」と答え、吹き荒れる風を受けながらこれから都は大変なことになると予言します。
そして都は疫病による死人が放棄される様になりました。
牛車に乗った関白・道隆卿は苦しむ病人の横を通りがかり、様子を目にしていました。

『光る君へ』より

この時の疫病は疱瘡、(天然痘)でした。
『栄華物語』には『いかなるにか今年世の中騒がしう、春よりわづらふ人々多く、道大路にもゆゆしき物ども多かり(どうしたことか、この年は世の中が騒然とし、春から病にかかる人が多く、都の大路にも忌まわしいもの(遺体)がたくさんある)』と記述され、『日本紀略』正暦5年(995年)七月条には、『正月より十二月に至るまで、天下の疫癘、最も盛んなり、鎮西より起こり、遍く七道に満つ』『京師の死者半ばに過ぐる。五位以上六十七人なり』と記述があります。
九州より広がった疫病は民だけでなく五位以上の公卿67名もの命を奪ったのでした。

『光る君へ』より

>道長は、道隆に疫病対策を訴えました。
>しかし道隆は、穢らわしい、お上が知ることではないと素っ気ない。
>どうせ疫病など、下々の者だけで、我々は罹らない。そう言ってのけるのです。
>病に苦しむ民を放っておいていいわけがない!と道長が食い下がるも、道隆は「放っておいてはいない」と開き直ります。
>なんでも比叡山に祈祷を命じたようです。
しかし道隆は、穢らわしい、お上が知ることではないと素っ気ない。どうせ疫病など、下々の者だけで、我々は罹らない。そう言ってのけるのです。』の部分と『道隆は「放っておいてはいない」と開き直ります。なんでも比叡山に祈祷を命じたようです。』の部分は帝が疫病対策についてお尋ねになられた時に道隆卿が申し上げた事です。
この書き方では道長卿の疫病対策についての訴えに応じた答えに見え、事実誤認が起きると思います。

・徳のある統治をせねば国は滅びる?

>都で疫病が流行り、多くの患者や被害者が出ている――
>その噂を耳にした帝は胸を痛めていました。
一条帝は「都で疫病が蔓延しているのはまことか?」と道隆卿にお尋ねになります。 
「左様な汚らわしきこと、お上がお知りになるまでもございませぬ」と道隆卿が答えますが、帝は事実であると悟られます。
「疫病は流行っておりますが、下々の者しか罹らぬゆえ、我々には関わりございませぬ」と道隆卿が言います。
しかし、帝は「病に苦しむ民を放っておいてよいはずがない」と仰います。
道隆卿は「放ってはおりませぬ。比叡山に読経を命じております」と対策について申し上げます。
この時の疫病流行に対する道隆卿の政策は、臨時の仁王会・奉幣・読経・大赦などを行う事と、正暦4年(994年)8月28日に道兼卿を右大臣、伊周卿を内大臣にするなどの人事でした。
この時の道隆卿の政策について、時代考証・倉本一宏氏は『一条天皇』で下記の様に述べられています。

「兼家の強引な「引き」によって何の苦労もなく政権の座に就いた道隆にとっては、自分の子息を昇進させて政権後継者の資格を付与することくらいしか、国難に対処する方策はなかったのであろう。…中関白家をますます孤立させる結果となった。」

倉本一宏『一条天皇』46頁

>そして道隆に唐の『貞観政要』のことを言い出します。
帝は『貞観政要』を引用なさり、「この様に書いてある」と仰います。
「唐の貞観政要によれば、煬帝の隋が滅んだのは兵の備えを怠ったからではない。民をおそろかにし徳による政をしなかったからである」
「朕はそのようになりとうはない。忠臣としてのそなたの働きを信じておる」との帝のお言葉に、「お任せくださいませ」と道隆卿は頭を下げます。
さらに道隆卿は「あれこれご案じになる事なく、中宮さまと仲睦まじくお過ごしくださり、一日も早く皇子をお儲けくださいませ。それが国家安寧の源にございます」と帝に申し上げます。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

>『貞観政要』が出ましたね。
>『鎌倉殿の13人』では北条泰時が読んでいたこの漢籍。
『貞観政要』は8世紀前半に成立し、唐代の歴史家・呉兢が編纂したとされる太宗の政治に関する言行を記録した言行録です。
太宗とそれを補佐した臣下たちの政治問答を通して、臣下の直言を積極的に取り入れ常に最善の君主たらんとした『貞観の治』と呼ばれた治世を学ぶため、古来から帝王学の教科書とされました。

一条帝の御代では、平安時代中期の貴族・学者である惟宗允亮(これむね の まさすけ)公が『政事要略』の中で取り上げ、大江匡衡公は藤原行成卿から借り受け書写し、寛弘3年(1006年)に一条帝に御進講しています。
『鎌倉殿の13人』ではまだ元服前の金剛(北条泰時公)が「暗くなる前に『貞観政要』を読んでおきたい」と愛読している事を伝える場面があります。
実際に彼は『御成敗式目』を制定する名執権になりますが、史実でも北条政子さんがが菅原為長公に命じて和訳させ、政治に活用されていた様です。

『鎌倉殿の13人』より

徳川家康公は儒学者・藤原惺窩を招いて講義させ、足利学校の閑室元佶に命じて活字版を発刊させてその普及に努めました。
『禁中並公家諸法度』の第一条には『天子が行うべきことは、第一に学問である』とし、『貞観政要』を上げています。

不學則不明古道、而能政致太平者末之有也。
貞觀政要明文也

意訳:
学ばなければ昔からの古来の道義・学問・文化にくらくなり、それで政治を手落ちなく行い太平をもたらした事は、いまだかつてない。このことは『貞観政要』に明確に書かれている

『禁中並公家諸法度』第一条

余談ですが、『どうする家康』で家康公を演じた松本潤さんはNHK『YouTube歴史探偵』の番組内で、『家康はどのような本を読んでいたのか』という話題になり、家康公の愛読書として松本さんの口から『貞観政要』が出て、番組スタッフさんからも『家康に対して真摯に、真面目に向き合われている方だと思います』と感心されていたとのエピソードもありました。

>帝が政治の指針として持ち出すことで、先ほどの「香炉峰の雪」の場面に別の意味合いが浮かぶようにも思えてきます。
>白居易があの詩を詠んだとき、「左遷されて地方にいた」という背景があります。

前述『香炉峰の雪』のエピソードの時に書きましたが。
『香炉峰の雪は、簾を撥げて見る』の原典になったのは白居易の『香炉峰下新卜山居』です。
白居易(白楽天)は30代後半で中央の政に関わるようになりますが、私利私欲に塗れる官僚たちを批判する詩を書き、怨みを買い江州(江西省)に左遷されてしまいます。
『司馬』という左遷者のための官職に任ぜられるもする仕事もないまま江西省の名山・廬山の峰の一つ香炉峰の麓に隠棲していました。
遺愛寺は香炉峰の北にある寺です。
『香炉峰下新卜山居』はその頃書かれたものでした。

>そんな作者の意図を無視して、ただのアクセサリのように用いる、ファッション的漢籍教養はいかがなものか?
>上っ面だけ理解して、教養をひけらかし、一体何なのか?
>そんな苦いものがジワジワと浮かんでくるようにも思えます。

歴史ライター且つアフィリエイトブログでお金を頂いているのに、和歌や漢籍の解説もなくただあらすじや解釈違いの訳を付け、『上っ面だけ理解して、教養をひけらかし、一体何なのか?』の様にマウント取りだ、アリバイ作りだ、マンスプレイニングだと言う何見氏の方が何なのでしょうか。

大河コラムについて思ふ事~
『光る君へ』第9回~

>紫式部は『紫式部日記』で清少納言の教養なぞ上っ面だけだと批判しました。
>なぜ彼女はそこまで手厳しいことを記したのか?諸説あります。
『なぜ彼女はそこまで手厳しいことを記したのか?諸説あります。』
その諸説を具体的に述べないと手厳しい事を言う紫式部を語れないと思います。
紫式部は『紫式部日記』の中で才気ゆえに得意げに学識をひけらかす清少納言の様子を批判しています。
紫式部は人前では『一』という漢字も書かず、彰子さまに頼まれた『新楽府』の御進講も隠れてこっそりと講義したそうです。
ライバルの様にいわれる二人ですが、実際には紫式部と清少納言の出仕時期がずれており、紫式部が出仕した際には清少納言はすでに宮中を去っていました。
紫式部は彼女の出仕時期にはすでに亡くなっていた定子さまのサロンや中関白家の華やかさを惜しむ声を払拭したい政治的な問題もあり、定子さまにかつて仕えた清少納言を辛辣に批判する役目を請け負ったのではと『新編 人生はあはれなり… 紫式部日記』監修の赤間恵都子氏は語っています。

紫式部日記『和泉式部と清少納言』

>女性の政治権限については抑えるどころか、むしろ女院という強化をしてしまう中関白家。
詮子さまの登華殿訪問の項で前述しましたが。
白居易の『長恨歌』で述べられている楊貴妃は唐の皇帝・玄宗の寵妃(数多いる后の一人)です。
『女院』は朝廷から『院』または『門院』の称号を与えられた女性の事です。
『女院』号を受けられるのは天皇の生母・准母(天皇の生母に準じる立場にあることを公的に認められた女性、内親王が多い)・三后(太皇太后、皇太后、皇后)・女御・内親王などで待遇は上皇に準じていました。(出典 精選版 日本国語大辞典)
正暦2年(991年)一条帝の生母で皇太后藤原詮子さまは円融院の崩御後、疾病のため内裏を退出し出家していました。
そこで、皇太后を止め改めて東三条院の院号を宣下し、太上天皇に准ずる待遇を与えたのが初例です。
詮子さまはたびたび政に介入し、藤原実資卿から批判されています。

さらに後世では、武官の危険性をふまえていないからこそ、武士の台頭につながってゆく。
日本での『武官』は律令制で、武器を携帯すると定められた官職で、衛府、馬寮、兵庫寮、諸国軍団などに属する職の事です。(出典 精選版 日本国語大辞典)
武官束帯を付け、天皇の住まう内裏(だいり)や大内裏(だいだいり)を警固する兵部省管轄の官人(貴族)達です。

武官は「官人として武装しており、律令官制の中で訓練を受けた常勤の公務員的存在」であるのに対して、武士は武芸を家芸とし、武装を朝廷や国衙から公認された『下級貴族』『下級官人』『有力者の家人』からなる人々」です。
『下級貴族』『下級官人』『有力者の家人』の中には後に武家として活躍する清和源氏や桓武平氏などの軍事貴族達がいます。
『さらに後世では、武官の危険性をふまえていないから武士の台頭に繋がる』と何見氏は述べていますが、摂関政治全盛の頃より以前に桓武平氏出身の平将門公が関東で乱を起こし、藤原氏北家出身の藤原純友公が瀬戸内海の海賊を従え乱を起こしています。この乱を鎮圧したのも武士で、地元の豪族や有力農民が、賜姓皇族や国司の任期を終えてもそのまま地方に残った貴族の子孫などを棟梁として武士団を形成しました。

そしてこの疫病の最中、道隆は伊周を内大臣に据えたのでした。
(中略)
>そんな伊周に苦言を呈するのは藤原道兼。
『そんな』の部分が『疫病の最中に道隆卿が伊周卿を内大臣に据えた事』なのでしょうが、(中略)の部分に『貞観政要』の話や『香炉峰の雪』からの白居易の置かれた立場やファッション的漢籍教養批判、『長恨歌』からの女院や武士の台頭批判が延々と語られており、話題が飛び何の話が主題なのか非常に分かりづらくなっています。
正暦4年(994年)8月28日、道隆卿は特に疫病対策をすることなく人事として、道兼卿を右大臣、伊周卿を内大臣に任官しました。
伊周卿は上席の左大臣源重信卿と、右大臣藤原道兼卿に挨拶をします。 
伊周卿は叔父・道兼卿とこの様な形で話をするのは久々でした。
道兼卿から「お前は疫病のことをどう思っておる?」と訊かれ、伊周卿は「父が策を講じており、また貧しい者に移る病ですゆえ、我々は心配ないかと存じます」と答えます。
道兼卿は「その様な考えで、内大臣が務まるとは思えぬな」と言います。
「叔父上は何かよき事をなさったのでしょうか」と伊周卿が反論し、「このまま何もなさらぬのも悪くはないと存じますが」と言い、道兼卿は伏せた目を見開き伊周卿を睨みました。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

>以前の道兼ならば「花山院出家の謀略は俺あってのことだ!」とでも言いそうですが、
道兼卿は伊周卿に「お前は疫病のことをどう思っておる?」と訊いています。
伊周卿の言う「叔父上は何かよき事をなさったのでしょうか」の言葉はその後に「このまま何もなさらぬのも悪くはないと存じますが」と続くため、『よき事』とは疫病流行に対しての対策を言っていると思います。
道隆卿は比叡山に読経を命じ道兼卿と伊周卿を昇進させており、それを踏まえならば叔父上(道兼卿)は「なにかしたのか?」と反論したのでしょう。
今更父・兼家卿も取り合わなかった『花山院出家の謀略』を引き合いに出す意味がないし、全くのお門違いです。

・悲田院は地獄と化した?

>沈んでいると、文字を教えていたあの少女・たねが入ってきました。
たねさんが入ってきただけでなく、乙丸がまひろさんを訪ねてきたたねさんを連れてきたんですね。
まひろさんは使いに出ていた乙丸が戻って来たのを見て、「さわさんは文を受け取ったか?」と尋ねます。
しかし手紙は受け取って貰えませんでした。
乙丸はかつてまひろさんが文字を教えたたねさんを連れて来ていました。
たねさんは「とととかかが戻って来ない」と言います。
たねさん曰く「昨日悲田院に行くって…」との事でした。
まひろさんは「悲田院…」とたねさんの言葉を繰り返します。
両親は2人共熱があったので、悲田院に薬草を貰いに行ったのでした。

『光る君へ』より

乙丸は、「悲田院の前には疫病患者が列をなしている」と止めようとします。
しかしまひろさんはたねさんと共に救護施設の悲田院に向かい、乙丸も後を追います。
悲田院では多くの患者たちが身動きもできず、言葉を失う惨状でした。
まひろさんも乙丸も、袖で鼻と口を覆いながら悲田院へ入って行きます。

『光る君へ』より

>そして薬師が入ってきて、冷たく言い放ちます。
>「生きている者は手をあげよ、死んだ者は運び出す」
邸内にも病人が横たわり、子供がまひろさんに水をねだります。
すると、たねさんの泣き叫ぶ声が上がりました。
たねさんの両親・たつじさんといわさんが亡くなったのでした。
そこへ遺体の清め役の役人(検非違使の下層役人である火長もしくは放免)たちが、「生きている者は手を上げよ。死んでいる者は運び出す」と入ってきました。

たねさんも疫病に罹患しており、まひろさんはたねさんの看病をします。
たねさんは熱にうなされ、うわ言でまひろさんから習った「あめ…つち」を口にしています。
まひろさんもたねさんを抱きかかえ「あめ、つち、ほし、そら、やま、かは、みね」と声をかけました。
しかし様子を見ていた乙丸は、「もう死んどります」と言います。
たねさんの遺体も運び出されて行きました。
傍には激しく咳込む子供がおり、まひろさんは引き続き悲田院に留まりその子の看病を始めました。

>乙彦がそろそろ戻ろうと告げるものの、まひろは動きません。
乙彦とは誰でしょうか。まひろさんの従者は『乙丸』です。道長卿の従者・百舌彦さんの名前と混同しているのでしょうか。

『光る君へ』より
『光る君へ』より

悲田院は、仏教の慈悲の思想に基づき、貧しい人や孤児を救うために作られた施設です。
聖徳太子が隋に倣い大阪の四天王寺に四箇院(悲田院・敬田院・施薬院・療病院を合せたもの)として建てられたのが日本での最初とする伝承がありますが、養老7年(723年)、光明皇后が興福寺に施薬院と悲田院を設置したのが最古の記録です。(『扶桑略記』)
天平2年(730年)には、聖武天皇とともに仏教に深く帰依した光明皇后により悲田院が皇后宮職に設置され、平安時代には、平安京の東西二カ所に増設され、光明皇后によって設立された施薬院の別院となってその管理下に置かれました。
東の悲田院は鴨川河畔にあったそうです。
藤原道隆卿の様に無関心な貴族ばかりではなく、藤原実資卿がたびたび悲田院の民に施しをしている事が日記の『小右記』に記録されているなど、貴族の支援もあったのだそうです。

・疫病に対してあまりに無策?

>道長は道隆に疫病対策を進言します
道長卿は、道隆卿に疫病対策を訴えます。
道隆卿は「疫病は自然に収まる、これまでもそうであった」と言います。
道長卿は「これまでとは違います。貴族の屋敷の者も倒れておりますゆえ、もし内裏に入り込めば帝とて…」と言いかけ、道隆に「黙れ」と一喝されてしまいます。
「そのような事は起きぬ」と言う道隆卿。
「帝に奏上して、陣定で疫病対策を諮ってほしい」と道長卿がなおも食い下がります。 
道隆卿は「疫病より相次ぐ放火の方が一大事である」と内裏の治安を優先します。
さらに道隆卿は「帝と中宮さまを狙ったものであれば中宮大夫のお前こそどうするつもりだ」と尋ねます。
道隆卿は道長卿の顎に扇を添え、「役目不行き届きであるが今回は見逃そう」と言い、下がるように命じます。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

道隆卿は道長卿の意見を聞く間も水を立て続けに飲む様子が見られ、糖尿病の症状である喉の渇きが出ていますね。
糖尿病は喉が渇くために水を多く飲むので『飲水病』『口渇病』『消渇 (しょうかち) 』とも言われていました。
後に藤原道長卿も悩まされる糖尿病。
『鎌倉殿の13人』では後鳥羽院が道長卿の飲水病の記録を引き合いに水をしきりに飲んだ源頼朝公の病を言い当てていました。

『光る君へ』より
『鎌倉殿の13人』

>道隆は視野が狭窄しています。
>放火犯は自分たちに悪意を持つ貴族の仕業だと思っている。
>疫病対策をしないことに怒った庶民が犯人である可能性については、想像すらできていない様子。
放火のあった後涼殿は帝が日常をお過ごしになる清涼殿の隣、弘徽殿は定子さまの局である登華殿の側なので、「次は(帝のおわす)清涼殿か」と貴子さまは心配していました。
内裏は村上帝の御代、天徳4年(960年)に初めて焼失し、以降再建と焼失を繰り返しました。
国政は平安京の北側中央に位置し、高い築地塀と14の門に囲まれた『大内裏』では宮城である内裏と二官八省の官衙(行政施設)が集まった場所で官人貴族はここで働いています。
大内裏の中心から東寄りに位置した天皇の私的な在所や後宮がある場所が『内裏』です。
外郭と内郭の二重構造で周囲を築地塀に囲まれています。
さらに清涼殿の殿上の間に昇ることを許されたのは三位以上と四位・五位のうち特に許された人、および六位の蔵人という限られた貴族(殿上人)でした。
民はというと、大内裏の塀の外側の平安京に住んでおり、固い警護で守られた内裏の最深部に入って何度も放火に及ぶとは考えにくいと思います。
なので隆家卿が「女院の仕業か」と言ったのでしょう。

平安京大内裏の位置
平安京大内裏
平安京内裏図

>先日、日本の漢方は中国の技術を盗んだものだという意見が現地にはあると、中国の方から聞きました。
>酷い言い分だ!……と反論したいようで、一理あるとも思えました。
具体的に意見が挙げられないため、マックの女子高生構文に近く、『日本の漢方は中国の技術を盗んだものだという意見が現地にはあると言った中国の方』が本当に存在するのか信憑性に欠けますが。
中国起源の伝統医学は、日本や韓国に渡り、漢方医学と韓医学としてそれぞれ独自に発達していきました。
漢方の歴史は、5世紀のはじめ、朝鮮半島を経由して中国医学が日本に伝わったことが始まりと言われ、7世紀はじめには聖徳太子の遣隋使、遣唐使により中国から医学が直接導入されました。

>朝鮮と交易する対馬藩が、こっそり朝鮮人参の種を盗んだという説もありまして。
『朝鮮人参の種を盗んだという説』の出典を具体的に提示して下さい。
対馬島主・宗家は、室町時代から朝鮮王朝との通交(外交・貿易)において中心的な役割をはたし、江戸時代の徳川政権下においてはその窓口を独占した大名家でした。
江戸時代、対馬藩は朝鮮人参を独占的に輸入していました。
九州国立博物館所蔵の『重文・対馬宗家関係資料』では、宗家が両国の国書を偽造(ぎぞう)したことを裏付ける偽造印もあります。  

>平安時代の疫病対策に話を戻しますと、打つ手があまりに乏しいことは確かです。
平安時代の医療機関には律令制の中の医疾令により制定された『典薬寮』があり、宮内省に属する宮廷官人への医療、医療関係者の養成および薬園等の管理を行っていました。
また祈祷など呪術も医療の一つと位置付けられていました。
典薬頭を長官とし、医師、針師、按摩師、呪禁師で構成されていました。
また、医博士、針博士、按摩博士、呪禁博士、薬園師がおり、その下には学生である医得業生が学びました。
内薬司併合時には侍医・薬生・女医博士も移管されました。
典薬頭は和気清麻呂を開祖とする和気氏、そして現存する日本最古の医学書『医心方』を編纂した丹波康頼に始まる渡来系の氏族である丹波氏らが世襲していきました。
典薬寮はあくまで宮廷官人への医療が中心なので民への救済は悲田院の様な場所であり、藤原実資卿の様に裕福な篤志家の貴族が手を差し伸べることもあったのだと思います。

・まひろよ、逝くな、戻ってこい?

>人生の苦さや転落も知ったからこその悟りがある。
>まさか道兼に心を打たれる日が来るとは。

思いつめた表情の道長卿は廊下で道兼卿とすれ違いました。
道兼卿に「そんな顔をしてどうした」と訊かれたため、道長卿は「関白と話しても無駄なので、自分で悲田院を見て参ろうかと思います」と答えます。
しかし道兼卿は「やめておけ。都の様子なら俺が見てくる。汚れ仕事は俺の仕役目だ。」と言い、様子を見に行こうとします。

『光る君へ』より
『光る君へ』より

都の往来は人通りも少なく閑散としていました。
悲田院ではまひろさんが疫病に罹った子供の具合を見ています。
悲田院では大勢の民が息を引き取っており、道兼卿も従者も鼻と口を覆わなければいけませんでした。 
そこへ「兄上」と声がして、道長卿がやって来ました。
「お前が来ては元も子もないではないか」と言う道兼卿に、道長卿は「私は死ぬ気がいたしませぬゆえ」と答えます。
道兼卿は「相変わらず間抜けなやつだ」と呆れています。
道長卿は百舌彦さんと鼻と口を覆って中に入り、兄弟は様子を見て回りました。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

>かくして道兼は悲田院にきますが、道長もついてきていました。
道長卿は道兼卿についてきたのではなくて個々で訪ねていると思います。
道兼卿が先に着き、遅れて道長卿が入ってきて「兄上」と声を掛けています。

>二人の視界に入らないところでは、まひろが看病を続けながらも咳き込んでしまい、乙丸が帰宅を促します。 
まひろさんが面倒を見ていた子供も亡くなってしまいます。
乙丸が帰宅を促しても、まひろさんは苦しむ病人たちを見捨てることができず、他の患者の看病を続けていました。
入って来た道兼卿や道長卿たちに、口と鼻を布で覆った薬師が「手伝ってくれ」と声をかけます。
他の薬師たちも倒れてしまい、手が回らないとの事でした。
患者が溢れ、医療関係者までもが倒れ人手が足りない。
現代で言うところの医療崩壊ですね。
「内裏に申し出るゆえ少し待て」と道兼卿が言いますが、薬師は「これまで何度も申し出たが何もしてはくれなかった」と言い、道兼卿は「なんと!」と驚いています。

抱き寄せ、馬に乗せて悲田院を出る道長。
>そして「お姫様抱っこ」をして、家の中に運び入れるのでした。

そして道長卿は、水を汲みに行こうとしてよろめいたまひろさんとぶつかります。
「すまない」と道長卿は謝りましたが、ぶつかった女性がまひろさんであることに驚きます。
まひろさんは疫病に罹って倒れてしまいました。
「まひろ! まひろ! しっかりいたせ、まひろ!」と名を呼びますがぐったりとしています。
道長卿はまひろさんを馬に乗せ、為時公の屋敷へ連れて戻り、乙丸と百舌彦さんが傍らに寄り添います。
そして「藤原道長である」と名乗り、邸内をまひろさんを抱きかかえ運びます。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

出迎えたいとさんは、「藤原ミチナガ…誰?」と戸惑いながら為時公に伝えに行きました。
道長卿はまひろさんを抱え奥の部屋へ運びました。
部屋を訪ねてきた為時公といとさんに、「自分が看病するから部屋に入らない様に」と道長卿は言いながら狩衣の袖を括り腕まくりをします。
尚も「大納言さまにさせるわけにはいかない」と道長卿に遠慮する為時公に、「私のことはよい」と強く戒めます。
「姫様のご回復をお祈りしましょう」といとさんは言いますが、二人の関係を気にしている様に「姫さまと大納言さまはどういうあれなんでしょうか。こうやって抱いてみえたんですよ。こうやって」と手振りを交え、戸惑う為時公に話しています。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

「久しいのう。なぜあそこにいた…」と言い道長卿は看病を続けます。
「なぜあそこにいた、生まれて来た意味は見つかったのか?逝くな戻って来い!」と道長卿が声を掛け続けます。
夜が明けてもまひろさんは回復に至らず、道長卿はため息をついています。
部屋の外では寝ずの番をする乙丸と眠そうな百舌彦さんが見守っています。
そこへ為時公が来て、看病の礼を述べ「娘も喜んでおりますでしょう」と言います。
そして為時公は、「朝廷での重いお役目がおありでしょう、この先娘は我が家でみます。」と言い、帰宅を促します。
道長卿は名残り惜しげに、しかしまひろさんの手に触れられず、心の中で「大事にいたせ」と言って土御門殿に帰りました。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

>不敵にも見える表情で笑う倫子。
>彼女は小麻呂を抱いています。
土御門殿へ戻った道長卿は、倫子さまから出迎えを受けますが、気のない返事をして部屋へ向かいます。
赤染衛門が「ゆうべは高松殿(明子さまの屋敷)でしたか?」と尋ねます。
赤染衛門が「ご無礼致しました」と詫びると倫子さまが「衛門」と声を掛けます。
倫子さまは小麻呂を抱き、「夕べは殿は高松殿ではないと思う。殿のお心には私ではない明子さまでもないもう1人の誰かが、殿のお心の中にいるわ」と言い、不敵な笑みを洩らします。
赤染衛門はその笑い声に不安そうな表情になっています。
そしてまひろさんは、「まひろ、まひろ」という呼びかけにより目を覚ましました。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

>『源氏物語』の紫の上は、光源氏が別の愛する女性がいることに気づいていたことでしょう。
>通う相手ではなく、心の奥にいる永遠の女性、藤壺です。
紫の上は藤壺中宮と生き写しの姪です。
『源氏物語』9帖「葵」では源氏の君の最初の正妻である葵の上の没後に、源氏の君と新枕(初夜)を交わし正妻の扱いを受けます。
紫の上は源氏の最愛の妻である一方、源氏の子を産んだ明石の御方にはたびたび嫉妬していますが、藤壺中宮は桐壺帝の崩御後出家していますのであまり執着はないのではないでしょうか。(10帖「賢木」)
正妻・葵の上と政略結婚した頃の源氏の君は藤壺女御(中宮)に憧れていたため、葵の上を大切にしようという気持ちになりませんでした。(1帖「桐壺」)
藤壺の影に悩まされていたのは紫の上ではなく葵の上ではないでしょうか。 

・MVP:たね?

>『麒麟がくる』では、駒の薬を売っていた少年が殺害される場面がありました。
>あのシーンに対しては「こんなものは見たくない」という批判があったものです。
「こんなものは見たくない」という批判があるならば記事なり参照意見なりを提示しないと論評できないと思います。
『麒麟がくる』25回ではお駒ちゃんの手掛ける丸薬を転売していた平吉という少年が妹を廓から助けようと登った比叡山で織田軍の焼き討ちに遭い亡くなるというエピソードがありました。
平吉は最初お駒ちゃんが提供する丸薬を転売し儲けを生活に当てていました。
現代の安価で仕入れて高値を付けて売る現代の所謂転売ヤーと重なり「こんなものは見たくない」となったのかもしれませんが。(あくまで推測です。)
民の生活のギリギリの厳しさやお駒ちゃんの薬師の善意を取るか商売の利益を取るかの葛藤や命の軽さを描いたエピソードだと思います。

『麒麟がくる』より

>乱世の厳しさを表す秀逸な場面だと私は思ったものですが、それだけでなく東庵や駒の民を救う思想も理解されず、「バカw」だの「ファンタジーw」だの罵倒されていました。
また何見氏は『駒が思想も理解されない』『視聴者は罵倒していた』と主張しています。
何度も書いていますが。
『麒麟がくる』のお駒ちゃんは親を乱捕りで亡くし、医師の望月東庵先生のもとで働き、後に薬師となり丸薬の方仁丸が売れ将軍・足利義昭公の御所にも上がるほどになりましたが、SNSでは『不要』と言われてしまう事もあったようです。
その理由として、下記サイトではこう挙げています。

・光秀や足利義昭など、歴史上の人物を動かし始めた。出番も増えて、ヒロインどころか「裏の主役」みたいになり、そこに違和感を覚える視聴者が続出した 
・駒は医師に仕える薬作りの町娘にすぎない。まして序盤では、門脇いわく「(光秀に)絶賛片思い中」という乙女だった。それが終盤では将軍の愛人のような立場になったりして、そのぶん、主人公との距離も遠ざかることに。おかげで、そのヒロイン性にブレが生じた

AERA

『駒は現代人みたいだから嫌い』という視聴者の意見も何見氏の『駒叩きは理解できません』もあくまで個人の感想であり、全員が全員何見氏の意見に賛同できるというものではないと思います。

>もしもNHK大河チームがそんな声を真剣に受け止めていたら、たねや、たねを救おうとするまひろはなかったことでしょう。
>そうならなくてよかったと思います。
>歴史は史書に名を残す人物だけが紡いできたものではありません。
何見氏は『歴史は史書に名を残す人物だけが紡いできたものではありません。』と主張していますが、嫌いな作品ならば、『ヒーロー奮起のためヒロインを酷い殺し方にするパターンは「冷蔵庫の女」というアメコミ由来の言葉があり、大河ドラマで、そんなことやられても困る』と叩いていたのではないでしょうか。

冷蔵庫の女
冷蔵庫の女とは、冷蔵庫に入った(入れられた)女性のこと。
転じて「都合よく殺される女性キャラ」の揶揄として用いられる

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実際に『どうする家康』の瀬名さまやお田鶴さんやお市さまの侍女阿月さんの死に対する批判は罵倒にちかいものでしたが。

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※何かを見た氏は貼っておりませんでしたが、今年もNHKにお礼のメールサイトのリンクを貼っておきます。
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