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大河コラムについて思ふ事~『光る君へ』第17回~

5月上旬になりました。GWに入り行楽日和になりました。
気温も上がり気候の変化など、皆様健康には充分お気を付けください。
さて、光る君へ第17回。
今週も『武将ジャパン』大河ドラマコラムについて書かせていただきます。
太字が何かを見たさんの言質です。
御手隙の方に読んでいただければと思います。それでは。

・初めに

>むしろ藤原定子の方がずっと賢く、今後、伊周や隆家らに足を引っ張られるのが今から可哀想で。
定子さま、伊周卿、隆家卿の母は歌人であり漢籍に造詣が深い高階貴子さまです。
『枕草子』の『香炉峰の雪如何ならむ』という問いかけの様に定子さまが『白氏文集』を読み応用が利くのは言うまでもありません。
また、『枕草子』や『栄華物語』によると、伊周卿は漢学や和歌に通じ、容姿端麗で頭脳明晰な人物であり、和歌や漢学の才能を見出され一条帝に漢籍の講義を行っていたそうです。
隆家卿は天下の『さがな者(荒くれ者)』として有名でした。
道隆卿の死後、中関白家の勢いが失墜していくのは急激な昇進や伊周卿が道隆卿の基盤を継いで関白職に就けず『内覧(天皇に奉る文書や、天皇が裁可する文書など一切を先に見る事、またはその令外官の役職)』のゴリ押しにより公卿の反感を買ったのもあると思います。

>悲田院で疫病に伝染したのか、意識を失ってしまったまひろ。
感染症(感染病)は広義の意味であり、その中でも広範囲で人から人へ感染していく感染症を「伝染病」といいます。

都では天然痘が流行し、まひろさんもたねさん始め民の看病をするうちに感染したのでしょう。
まひろさんは接触または媒介によって他の人を感染(伝染)させたとはいえず、『疫病に感染し発病した』という状態が正確ではないかと思います。 
また、感染者に濃厚接触した場合でも道兼卿や道長卿の様に感染しても必ず発症するとはいえず、感染症状を発症していない状態を『不顕性感染』といいます。

『光る君へ』より
『光る君へ』より

伝染…病原となる微生物が生物の体内に侵入して繁殖し、病気を起こさせること。感染。

出典 精選版 日本国語大辞典

[感染と伝染]
厳密には,病原微生物が生体に感染して疾病を起こし,その経過中(潜伏期,回復期,病後を含む),感染生体からの分泌物や排出物とともに病原体が出て,接触または媒介によって他の生体を感染させる場合を伝染という

株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

>すっかり回復すると、門の内側では乙丸が箒がけをしながら感極まっております。
(中略)
>「殿様(為時)でも仰せにならないことを私から伝えることはよくない……」と前置きしながら、まひろに向かって「姫様を助けたのは道長様です」と真相を告白します。
>一晩寝ずの看病をして、昼前に帰った。
『昼前に帰った』とありますが、乙丸曰く『翌朝お帰りになりました』とあります。
正暦5(994)年。
まひろさんは天然痘が癒え、庭の掃き掃除をしていた乙丸は「姫さまのお声をまた聞けるなんて」とその回復を喜びます。
まひろさんは、「悲田院で気を失う前に道長様にあったような…」と思案していました。
すると乙丸は、「殿も仰せにならない事を、私が言うのはよくないかも知れないのですが…」と前置きしながらも、「姫さまがお倒れになった日、姫さまを助けてこの屋敷までお連れ下さったのは道長さまにございます。一晩寝ずに姫さまの看病をされて翌朝お帰りになりました」と打ち明けました。
まひろさんは部屋へ戻ると道長卿が助け看病してくれた事を噛み締め笑みを浮かべます。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

・困窮する民を放置してよいのだろうか??

>これまで疫病が内裏に及んだことはない、放っておけばよいとそっけない道長。
>救い小屋なぞ設けなくてよいと突っぱねます。
『放っておけばいずれ収まる』と言ったのは道長卿ではなく道隆卿です。

>火事にあった弘徽殿の再建に金がかかるといいつつ、最高級の青磁の瓶から水を注ぎ、しきりに水を飲んでいる。
内裏では道長卿は兄・道隆に、「悲田院はもう用をなしていません。空いておる土地に救い小屋を建てて病人を入れねば疫病はいずれ内裏に及びましょう」と訴える道長卿に、道隆卿は水差しの水を湯呑みに移し絶えず水を口に運びながら、「お前と道兼は何のためにそんな所に二人揃って参ったのだ?」と尋ねました。
「都の中の様子を知らねば、疫病への策は講じられぬと思ったからにございます」と道長卿は答えますが、道隆卿は「これまで幾度も疫病が流行ったが内裏に及んだことはない。放っておけばいずれ収まる」と取り合いません。
「救い小屋など設けずとも良い。そのようなゆとりは朝廷にもない。火事に遭った弘徽殿の修理だけでも莫大な費用がかかる」と言います。
その会話の間に道隆卿は水差しの水を全て飲み干して「水を持て!」と命じて立ち上がります。

『光る君へ』より
『光る君へ』より

道隆卿はすでに血糖値が高い状態が続いて糖尿病の自覚症状である喉の渇き、倦怠感、糖尿病性網膜症などの症状が現れていました。
弓競べの日には身体がだるいと訴え、内裏では立て続けに水を飲み、眩しそうに手をかざしていました。
糖尿病は喉が渇くために水を多く飲むので『飲水病』『口渇病』『消渇 (しょうかち) 』とも言われていました。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

>弟たちで、兄の道隆を追い落とそうと企んでいるのではないかと疑っているのです。
道隆卿に道長卿は、「放っておけば都の民は死に絶えますし、その害は我々にも迫ります」と訴えます。

『光る君へ』より

しかし道隆卿は「大げさな事を言うな」と取り合わず、「小屋を作りたいならお前の財でやれば良い。朝廷は関わらぬ」と言い、立ったまま水を飲み続けていました。
さらに道隆卿は、「お前と道兼は何故手を組んでおる?不可解極まりない。まさか…私を追い落とそうとするためであるまいな?」と道兼卿と道長卿が手を組むのを不審がります。
道長卿は「追い落としたければ、こんな話いたしません!」と声を荒げました。
しかし道隆卿は、「お前になくても道兼にはあるやも知れぬ。疫病の民を思うなぞあいつは考える事ではない!」と言い放ちました。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

>確かに、跡継ぎレースに勝利するため汚れ仕事を請け負ってきた道兼の過去を考えれば、民のことなどを思って行動するなど、想像もできない姿でしょう。
道兼卿はずっと跡継ぎレースに勝ちたいがために『汚れ役』を引き受けていたわけではないと思います。
嫡男・道隆卿や三男の道長卿ばかりをかわいがる父・兼家卿。
父からの愛情に飢え、その苛立ちの矛先が身分の弱い者に向き、ついにはまひろさんの母・ちやはさまを手に掛ける事になりました。

『光る君へ』より

兼家卿により揉み消しが図られましたが、後継として真っ更な道を歩む兄・道隆卿の裏で父が命じるまま謀略に手を染める事もありました。
寛和の変では五位蔵人の職務を利用し花山帝を内裏から連れ出し退位させる事に成功しました。
しかし、出家する兼家卿の後継を決める際、道隆卿が選ばれた事に激怒し「父上は正気を失っておられる。父上の今日あるは私の働きがあってこそ」と主張、父を罵ります。
そして出仕をやめ屋敷で酒色に溺れ妻子にも見放され自堕落な日々を送りました。
そんな道兼卿を愉し励ましたのが道長卿でした。
道兼卿を演じる玉置さんは『道兼は父のため、出世のためと罪を犯しながら働いてきた中で、ずっと自我を押し殺してきたと思うんです。そんな彼が、最も信奉していた父に対してあの言葉を吐けたというのは彼の人生においてすごく意味のあることだったのではないか。あの時点から、徐々に自分に嘘をつかないようになっている気がしていて。父親に暴言を吐いたこと、そして道長に救ってもらったことが、彼の中ではものすごく大きなターニングポイントになっているような気がします』と仰っています。
確かに後継に選ばれない事でうまく行かない道兼卿は道隆卿を恨むなどしたかもしれません。
『大鏡』では道隆卿が後継に選ばれた事を甚だ憎み、父の喪中にもかかわらず客を集めては遊興に耽ったとあるので、道隆卿の疑心暗鬼はこの逸話を踏まえたものかと思われます。
作中では道長卿に救われた事が道兼卿に大きな変化をもたらし、「汚れ仕事は自分の役目」と悲田院の視察に向かったのではないでしょうか。

>なお、民衆を救済しないのは、この時代の日本史が持つ特徴ともいえます。
>中国史の場合、困り果てた民衆を放置すると、反乱が起きます。
(中略)
>特に宗教勢力は求心力がありまして、『三国志』ファンならおなじみ「黄巾の乱」は、宗教勢力の蜂起です。
黄巾の乱は、張角の唱えた太平道という道教系の新興宗教によって後漢末期の184年に起こった農民反乱です。
日本の平安時代とは宗教観や時代背景が全く違うのですが、中国史マウントのために引用したのでしょうか。

>宗教や思想を持つ団体が、民衆の救済に手を出したらまずい……
>権力を取って代わられてしまう……。
>そんな危機感が、この頃の平安貴族にはないんですね。
平安時代時代の仏教や信仰は中学校社会で習うのですが何見氏は全く調べないのでしょうか。
平安時代の仏教の特徴は国家的に信仰された奈良仏教から、密教(真言宗・天台宗)による鎮護国家の加持祈祷や個人の私的な信仰(浄土信仰)に変化していきました。
浄土に往生するため、平安貴族たちは、法華八講などの法会や写経を積極的に行って功徳を重ねました。
平安後期(11世紀〜)では、密教の他にも『宿世(前世からの因縁により運命が決まっているという観念)』や『無常なこの世を厭いとい、(末法思想)極楽浄土に往生を目指そう』という浄土教の教えが広がりました。

では、民衆の救済は歴史的にいつ始まったのか?
>というと大河ドラマ『鎌倉殿の13人』最終盤で示されています
『悲田院』は仏教思想にもとづき貧窮者や孤児らを住まわせて養う施設で、我が国最古の福祉施設といわれています。
『悲田』とは慈悲の心で哀れむべき貧窮病者などに施せば福を生み出す田となるという意味です。
国史大辞典によれば、聖徳太子が四天王寺四院の一つとして建てたという伝説もありますが、養老7年(723年)に大和国の興福寺(山階寺)に創建されたのが確認できる初めての例となります。
天平2年(730年)には、仏教に帰依した聖武天皇の后・光明皇后により悲田院・施薬院が設置され、これは皇后直々に関与した施設でした。
平安遷都後、京の東西に悲田院が設けられました。
東の悲田院は鴨川河畔にあったとみられます。

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しかし平安時代中期には官営施設でありながら悲田院は徐々に困窮していきました。
貴族の中から藤原実資卿の施しの様に貴族の支援もあった様です。(実資卿が何度か悲田院の住民に施しをしている事が日記の「小右記」に記録されています)
悲田院を作った光明皇后は藤原不比等公の娘です。
だからこそ、藤原氏の氏長者である関白・道隆卿は、子孫として徳を積むべく悲田院による疫病対策を疎かにしてはいけなかったのかもしれません。

・男の人生は、女が子を産むかどうかにかかっている?

>源明子は赤ん坊を乳母に任せ、兄の源俊賢と話すことにします。
高松殿では明子さまが男児を産んでいました。
兄の源俊賢卿は赤子の甥をあやしながら、「次は娘を産まねばのう」と明子さまに言います。
しかし、道長卿は明子さまの許を訪れていない様で「お見えにならなければ身籠る事もできません」と明子さまは言います。
「お忙しいのであろう」と俊賢卿は言います。そして「お見えになったらせいぜい励んで娘を産み、入内させる様に」と伝えます。
「兄上は、そういうことしかお考えにならない」と明子さまに「男の人生とはそういうものだ」と俊賢卿は答えます。
俊賢卿は「もし次の関白が道兼なら、道長は左大臣か、まあ右大臣は堅い」と今後の予測を話し始めました。
「偉くなれば妬む人も出るゆえ心配です」と言う明子さまに、「すっかり心を持って行かれておるな」と俊賢卿が言い、明子さまは「兄上がお望みになった事ですわ」と返します。

『光る君へ』より
『光る君へ』より

>もしもこの時代が、才覚でのしあがれる仕組みならば、彼はこんな妹の腹を使ったギャンブラーではなかったでしょう。
>才能があるものがそれを腐らせる時代というのは虚しいもの。
>空気を読んで強い者に屈するためだけに才知を使うとはなんて悲しいものでしょうか。
源俊賢卿と明子さま兄妹の父・源高明卿は安和2年(969)に藤原氏の策謀により失脚し、大宰府へと左遷されました。
これを『安和の変』と言います。

3年後に罪を赦され帰京しますが政治的な権力はすでに無く、天元5年(983年)になくなりました。
醍醐天皇の血を引く醍醐源氏という家柄ながら後ろ楯の無い明子さまは円融帝の女御だった詮子さまの庇護を受け、藤原道長卿の妻となりました。
父方の後ろ楯の無い兄妹にとって、明子さまが道長卿との間に娘を産み、ゆくゆくは入内させ外戚になる事が高松殿の家系を保つ事に繋がり、俊賢卿は摂関家である藤原氏の許で昇進しお家の名誉を保とうとしているのだと思います。

・倫子の財力は盤石だ?


>倫子は前回、まひろの看病をした夫のことを勘付いていました。
>けれども何をしようにも、これほどの財産があるならば夫は頭を下げてくる。
土御門殿では、倫子さまがお救い小屋の建設のために「私の財もお使いくださいませ」と道長卿に勧めています。
「私は殿を信じております。思いのままに政をなさいませ」と言う倫子さまに、道長卿は「すまない」と詫びます。
倫子さまが「いやですわ。私が渋るとでも、お思いでしたの」と言うと、道長卿は「いや、されど、そこまで太っ腹とは思わなんだ」と答え、倫子さまは「おほほ」と笑います。
「平安時代の夫婦は別財産で、この夫婦の場合は、倫子の方が多くの財を持っていた」と語りが入ります。
倫子さまは道長卿が疫病対策として民のためのお救い小屋を私財を投じて建設するので道長卿がやりたい民のための政を信じ倫子さまが相続している私財を使って下さいと申し出たわけで、まひろさんへの牽制や道長卿へのマウントのために私財を使うわけではないと思います。

『光る君へ』より

>ならばネチネチと嫉妬などせず、どーんと構えていてもいい。
>後ろ盾のない『源氏物語』の紫の上とは違います。
紫の上』の父・兵部卿宮(ひょうぶきょうのみや)は先帝の皇子であり、藤壺中宮の兄君です。
高貴な出自の北の方との間に二人の娘と四人の子息がおり、妾との間に若紫(紫の上)を設けますが北の方が疎んだため、妾が亡くなった後疎遠になっていました。
幼い紫の上を源氏の君に略奪され成長後に妻となった事を知らされ音信を復活しますが、源氏の君の須磨隠棲後は権力者を憚り実父でありながら紫の上さえも見捨てて源氏の君の不興を買い、帰京後は兵部卿宮を冷遇することになります。

紫の上は源氏の君の妻のひとりであり、道長卿の嫡妻であり源家の財産を相続している倫子さまと比較するには不適当かと思います。
倫子さまと源氏物語の女性を対比させるなら源氏の君の北の方であり、左大臣の娘という高貴な身分であり、政略結婚で源氏の君と結ばれるも源氏の君は藤壺女御に憧れ、葵の上を大切にしようという気持ちになれない状態という『葵の上』ではないでしょうか。

>倫子は微笑みつつ、悲田院にお出ましになった日はどちらにいたのかと問いかけます
そして倫子さまは月を見ている道長卿の酌をしながら、「それより殿、悲田院にお出ましになった日、どちらにお泊りでしたの?高松殿ではありませんわよね?」と尋ねます。
道長卿は「うん、高松ではない。内裏に戻って朝まで仕事をしておった。ハハ」と笑いながら答えました。
倫子さまは微笑み「左様でしたか。お許しを」とその場では納得した様でした。
本題のお救い小屋の費用捻出案件の解決で道長卿の機嫌をよくしてから、やんわり疑惑追求する倫子さまはできる妻だと思います。
そして道長卿は部屋に戻る途中、熱にうなされるまひろさんの看病をした事を思い出し、「よくなったであろうか」と心の中でつぶやきます。
因みに土御門殿からまひろさんの邸宅(廬山寺)までは徒歩6分の距離であり、内裏とは逆方向になります。

出典 小学館デジタル大辞泉
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『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

>案の定、道長は心の内では、まひろの快癒を願っておりますが……
>こんなに素敵な倫子がいるのに厚かましい奴ですね。
まひろさんは本人の預かり知らぬ所で倫子さまに第三の女の疑惑を持たれていますが、悲田院では自らも疫病に倒れて居合わせた道長卿に看病されました。
道長卿は一晩看病したあと後ろ髪を引かれる様にまひろさんの邸宅を後にしており、その後まひろさんがどうなったかは知らないので「よくなったであろうか」と思いを馳せたわけです。
大切な人の病状を口に出さないまでも心配するのは悪い事でしょうか。

・姫様と大納言の関係は??

>まひろが『荘子』を書写しています。
『荘子』を書写しています。』と言うだけで具体的にその内容を解説する気はないのでしょうか。
またここでは書物を読むだけで書写はしていません。
まひろさんは再び机に向かい、書物を広げています。
まひろさんが読んでいた『荘子』。
荘子(荘周)は、中国戦国時代の思想家で『荘子(そうじ)』の著者とされ、また道教の始祖の一人とされる人物です。 
まひろさんが読んでいたのは『胡蝶之夢』です。
夢の中で胡蝶としてひらひらと飛んでいた所、目が覚めたが、はたして自分は蝶になった夢を見ていたのか、それとも実は夢で見た蝶こそが本来の自分であって今の自分は蝶が見ている夢なのか、という説話です。
胡蝶も荘周自身も真実であり、己であることに変わりはなく、『夢が現実か、現実が夢なのか?しかし、そんなことはどちらでもよい』と荘子は言っているのだそうです。

『荘子』内篇 斉物論第二『胡蝶之夢』
『光る君へ』より

>漢籍の書き方と、かな文字の違いに注目したいところです。
>漢字書道とかな書道は別物。
>現在の学校教育で習う書道は漢字書道となります。
現行学習指導要領における芸術科(書道)について』という資料を見る限り、学習指導要領では小中学校ともに書写では漢字の楷書と行書、仮名を調和させて書くという項目があります。
また高校書道では、『漢字の各書体』『漢字仮名交じり文』『平仮名・片仮名・変体仮名』の項目があります。

現行学習指導要領における芸術科(書道)について

>すると父の藤原為時が入ってきて、大納言様こと道長との関係を尋ねてきます。
まひろさんが書写をしていると為時公が入ってきました。
まひろさんに為時公は、「大納言さま(道長卿)とお前の間はどうなっておるのだ」と問い、「どうもなっておりませぬ」とまひろさんは答えます。
しかし為時公は、「お前の看病をする道長様の眼差しは只事ではなく、これを機にお前のお世話をしていただく事はできぬであろうか」と言います。
為時公曰く、どうでもよい女子の看病をあの様にするとは思えない」との事ですが、まひろさんは「それはない。もしお気に召していたら、今頃文の一つくらい届いておりましょう」と言います。
「これから来るやも知れぬ」と言う為時公でしたが、まひろさんは「お望みどおりにならず申し訳ございません」と言います。
しかし、立ち聞きをしていたいとさんが部屋に戻る為時公を捕まえ、「あれは絶対に何かある。あれは嘘でございます。姫さまと大納言さまは間違いなく深い仲。お二人想い合っております。私には分かる!私の目に狂いはない」と伝えます。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

>一方、道長は、まひろの様子を見てくれと百舌彦に頼んでいます。
道長卿は百舌彦さんに、まひろさんの様子を見に行かせる事にしました。
釣燈籠に火を入れながら「えー…」と露骨に嫌がる百舌彦さん。
「あまりお知りにならない方がいい」と百舌彦さんは渋りますが、道長卿は譲らず、まひろさんの家まで行かされます。
「ワンワン」と犬の鳴きまねをして乙丸を呼び出す百舌彦さん。
乙丸が百舌彦さんに「如何されたのですか」と訊くと、百舌彦さんは「んー…」と話し辛そうにしています。
「道長さまの命とか…」と乙丸が訊くと「そうなのよ」と百舌彦さん。
「そちらの殿様に、もうおやめになるよう申してください」と乙丸は百舌彦さんに頼みます。
気配を察知しまひろさんが「誰?」と外に出てきます。
乙丸は「野良犬です」とごまかしましたが、まひろさんは「百舌彦ではないか?」と気付きました。
百舌彦さんは「お久しゅうございます」と門扉から顔を覗かせています。
まひろさんは再会を懐かしみ、悲田院で助けてくれた事を持ち出します。
「ありがとう」と礼を言うまひろさんに百舌彦さんは、あくまでも「ほっつき歩いていたら乙丸に会っただけ」と装います。

『光る君へ』より
『光る君へ』より

>資金が高くついても構わないと命令を下すわけですが、その資金源は倫子でしょう?
>そりゃ百舌彦も、まひろの様子を見たくないわけだわ。
道長卿はお救い小屋を作るが、働き手が不足していました。
道長卿は「近国から召し出せばよい」と言いますが、疫病が蔓延している都に誰も来たがらない様です。
道長卿は「多少費用が高くついても構わない」と命を下し、急いで人手を確保する事にしました。
道長卿はまひろさんの病が治ったか百舌彦さんに確認しに行かせましたが、百舌彦さんは倫子さまに憚って渋っていました。
しかし、それとこれは別で小屋の建築費用と働き手への人件費は予算として倫子さまの私財から捻出できる様に計上してあるのではないでしょうか。
疫病が蔓延している都に誰も来たがらないから働き手が集まらないのなら人件費が多少上がっても待遇を良くして人を集めようとするのではないでしょうか。
夜、まひろさんは「なぜあの人が悲田院に?」と道長卿が悲田院に来た理由を模索しています。
そして、7年前の廃邸での「地位を得てまひろの望む世をつくると胸に誓っておる」という道長卿の言葉を思い出します。

『光る君へ』より

>ギターの情熱的な調べが響いています。
>今年は劇伴がドラマチックで美しい。
これが嫌いな作品ならば、和楽器の楽曲やピアノソロについても『ニコライ・バーグマンのボックスフラワーオルゴールにとても似合いそうな曲調』も『和風でもなく、オシャレなカフェのメニューにあったら似合いそうなアニメ』も『戦国時代の日本が舞台で、スカンジナビア風味を持ち込まれても私には意味がわからない。』と酷評するのではないでしょうか。

大河コラムについて思ふ事~
『どうする家康』第39回~

・貴公子たちは今日も女子と戯れる?

>中関白家では、藤原道隆が貴子の膝枕で休んでいました。
道隆卿は酒に酔い、貴子さまに膝枕をさせています。
「子供たちの前だ」と嗜める貴子さまに、「父と母が仲が良い事は、子供の頃から知っておる。のう」と道隆卿は言います。
伊周卿も「そつなくご遠慮なく」と言います。
道隆卿は「貴子を見染めたのは内裏の内侍所であった」と話し始めます。

『光る君へ』より

>伊周は太政大臣の三の君・光子のところへ通うのだとか。
>かりそめの女子にしては身分が高いようです。
両親の前から下がった伊周卿は、隆家卿に「兄上!どちらに?」と呼び止められ、「前太政大臣の三の君だ。」と答えます。
隆家卿は「あっ西洞院」と付け加えます。

『光る君へ』より
『光る君へ』より

>伊周は家に帰ると子が泣いていてうるさいと言っていますが……
>彼もまた子ができるとよりつかなくなるダメ夫でした。

「かりそめの女子にしては大物だ」とツッコミを入れる隆家卿に、「家に帰ると子が泣いてうるさいからだ」と伊周卿は言います。 
隆家卿も「あんな父上見てらんないもんな」と出かける事にしました。
伊周卿の言う『泣いてうるさい子供』は松君(後の藤原道雅卿)でしょうか。
松君は伊周卿の嫡男で3歳です。
『枕草子』では泣き罵る松君の様子が描かれています。

『枕草子』 第260段 積善寺供養
『光る君へ』より

>なお、太政大臣とは藤原為光のことです。
>故人であり、太政大臣の娘だろうと、父が亡くなれば困窮してしまう。
>こういう姫君は、貴公子がちょっと手出しするには、ガードが緩くて身分が高くてお買い得。
>そんな半額シールが貼られた惣菜のような扱いにまで落ちてしまいます。
伊周卿は前太政大臣の三の君・光子さまの許に行こうとしていました。
この前太政大臣は藤原斉信卿の父・藤原為光卿の事です。
三の君・光子さまは花山院の最愛の女御・忯子さまの妹でした。
藤原為光卿は故人ですが、その子息・藤原誠信卿は正四位下参議、弟の斉信卿は正暦5年(994年)には従四位上蔵人頭(頭中将)に任官され、斉信卿は中宮定子さまのサロンによく出入りしているのですが。(『枕草子』156段157段)
兄二人が参議や帝のお側に仕える蔵人頭であるのに父の死後『困窮してしまう』『半額シールが貼られた惣菜のような扱い』とは馬鹿にし過ぎではないでしょうか。

斉信は「とぼけるな、俺をコケにするとはけしからん」と言いつつ、清少納言の胸元に花を差し入れます。
定子さまのサロンに出入りする藤原斉信卿。
定子さまの女房として働くききょうさん(清少納言)。
花を生けた花瓶を運んでいるききょうさんを見つけた斉信卿は「なぜ返歌をくれぬのだ」と迫ります。
はぐらかそうとするききょうさん。
「とぼけるな。俺をコケにするとはけしからん」と彼女の胸元に紅葉を差し入れます。
花ではなく紅葉でした。
「深い仲になったからといって、自分の女みたいに言わないで」と突っぱねるききょうさん。
花を部屋に設えている間も「男ができたか?前の夫とよりを戻したのか?」としつこく尋ねる斉信卿に、ききょうさんは呆れ顔で「だったらどうなの?」と返します。
「…そうなんだ」とたじろぐ斉信卿にききょうさんは「そんな事をネチネチ訊く貴方は本当に嫌」ときっぱり言います。
尚も迫ろうとする斉信卿に、「もうすぐお越しになるわ」とききょうさんは立ち去って行きます。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

>これぞ恋愛の達人といったところでしょうか。
そういう男女の仲になっていた斉信卿とききょうさんですが。
ところで、紅葉を差し入れる斉信卿の手がしっかりききょうさんの懐に入っているのですが、これについて『セクハラ』だの『フェチシズム』だの『お色気要因・ムフフ要素』だの全く言及がないのですが、如何でしょうか。

『光る君へ』より

昨年『どうする家康』では、人質交換で川をわたるためおんぶ紐で幼い我が子を背負った母親をみてフェチシズムを感じ、くノ一(歩き巫女?)を見てお色気要因・ムフフ要素と言い、今川氏真公による見せしめのための妾扱いという尊厳の破壊行為を『夜伽役』と言うサービス狙いと言っていました。
また、政略結婚で嫁いだ正室・継室や正室主導で選ばれ公的に認められた側室とそうでないお万さんの様な愛妾の違いを描いているのに「発想が性犯罪者、フェチを感じさせる」と女性を性的対象物としか思っていない発言をしていたのですが。
嫌いな作品の人物には平気で変なあだ名をつけ馬鹿にし、己の性癖を披露しているのは何方でしょうか。

『どうする家康』より
『どうする家康』より

>『枕草子』には斉信がストーキングしていることが書かれている。
>清少納言はさんざん相手を焦らしている。
>その様がこうして描かれています。
斉信がストーキングしていることが書かれている。』枕草子の記述を具体的に紹介して下さい。
男女が恋愛の駆け引きを楽しんでいるだけでストーカー扱いですか。
藤原斉信卿は、魅力的な貴公子として、女性達にもてはやされる存在でした。
『枕草子』には、清少納言との交流もたびたび描かれています。

『枕草子』 第154段『故殿の御服のころ』では斉信卿が4月に七夕の詩を朗詠してしまい、「気の早い七夕だ」と清少納言にツッコまれてしまい、後に斉信卿が七夕祭に参加した際に、今度は「4月の詩を朗詠しよう」と前回の失敗にちなんだ発言をするなど当意即妙なやりとりもあります。

また、藤原斉信卿だけでなく藤原宣方卿とも親密な話を囲碁の術語を隠語として用いて 『碁打たむ (男女として交際しましょう)』『手ゆるしてけり(男に先手をゆるしたらしい)』『手はいかが (私をどう評価しますか』『詰めも終り』『手を受ける』と言ったり、距離が近くなった事を『石を崩す頃』とも言っており、恋は囲碁を打つ感覚だったのでしょう。

下記引用は斉信卿が清少納言から「世の多くの男達は、過去のことをすぐに忘れてしまうのに、過去のことを忘れないとは素晴らしい」と称賛されているエピソードです。

『枕草子』 第154段『故殿の御服のころ』

>彼女は藤原行成とも優雅な恋の戯れをしておりました。
こちらも『藤原行成とも優雅な恋の戯れをしていた』という枕草子の記述を具体的に紹介して下さい。
清少納言は行卿よりも6つ年上です。
行成卿は定子さまに取次ぎをお願いする時、いつも清少納言に頼っていました。
清少納言が別の用で部屋にいない時は宮中を探し回り、長期休暇で実家に帰っていても実家までおしかける始末でした。
清少納言が「他の人に頼んで!」と訴えても効かないのでついには口論になってしまい、とうとう絶交状態になってしまったというエピソードがあります。

『枕草子』第46段
『職の御曹司の西面の立蔀のもとにて』

・道隆の寿命は尽きた、改元しても天命には響かない?

>藤原道隆は笛を演奏している最中、皆の前で倒れてしまいました。
>『枕草子』で描かれた幸福感あふれる世界は、かくして終わってゆくのです。
帝と定子さま、そして道隆卿など定子さまのサロンに出入りする公卿が登華殿に集いました。
公任卿や行成卿もその場に呼ばれますが、道隆卿の指が震えており、笛の音がおかしいと気付きます。
道隆卿はひどく咳込み、立ち上がろうとしてその場に崩れ落ちました。
「関白様!薬師を!」と場は騒然となります。

『光る君へ』より

>その道隆に安倍晴明が呼び出されました。
病に伏せた道隆卿により安倍晴明公が呼ばれました。
提子(ひさげ)から水を煽るように飲み、道隆卿は咳き込みながら「目がかすむ、手が痺れる、喉が渇く。」と病状を訴えます。
「誰ぞの呪詛に違いない。どうじゃ?」と尋ねる道隆卿に、晴明公は「お心当たりでもございますか」と問います。
「心当たりはあり過ぎる。道兼も詮子も、道長とて腹の内はわからぬ、皆わしの死を望んでおる」と家族までも疑う様に道隆卿は言います。
晴明公はそれは呪詛ではありませぬ。恐れながらご寿命が尽きようとされています」と余命宣告をします。
それを聞いた道隆卿は晴明公に近づき、「お前の祈祷で儂の寿命をのばせ!」と命じました。
「難しゅうございますがやってみましょう」と、晴明公は言います。

『光る君へ』より
『光る君へ』より

晴明公は道隆卿の命を受けましたが、やる気は無く自邸に戻ると須麻流さんに「関白の病の件、祈っておけ」と言いつけます。須麻流さんが「私が…でございますか!?」と戸惑っていると晴明公は「おまえでよい。もう関白は何をしても助からぬ」と匙を投げる様に言います。主から道隆卿の病平癒の祈祷を命じられた須麻流さんは「せめて苦しみが無くなるように祈ります」と言います。晴明公は「あ〜疲れた。病の者の穢れをもらった。いけない、いけない」と言い、指を弾き「ヒュイッ」とまじないを唱えました。

『光る君へ』より
『光る君へ』より

>道隆が「長徳」に改元すると強引に言い出しました。
>自らの不安を覆したいのでしょうか。表向きは疫病からの復興かもしれませんが、晴明とのやりとりの後にこんなことを言い出すと、手遅れ感に満ち溢れますね。
年が明け正暦6(995)年正月。
道隆卿は疫病で傾く世の流れを止めようとしており、帝に「新しい元号、長徳がよろしいと存じます」と進言しました。
天皇1代と1つの元号をリンクさせる『一世一元』が明治時代に制定される前までは、譲位以外の理由で頻繁に改元が行われていました。
中でも多かったのは、疫病、兵乱、天変地異といった災異を理由にした改元で、永延3年(989年)にはハレー彗星の出現があり、(「永祚元年六月一日庚戌,其日彗星見東西天。七月中旬,通夜彗星見東西天」『日本紀略後編九』)永延三年は八月に永祚元年と改元されました。
陰陽思想や御霊信仰もあり、凶事による改元はリセットの意味もあったのではないでしょうか。

『光る君へ』より

>「長徳」どころか「長毒」だと、文字が苦手な藤原道綱が言い出しました。
2月になり陣定が行われました。
藤原実資卿は「チョートク、チョートク」とつぶやき、平惟仲卿は「どなたがお決めになったのか」と言い、源重信卿が「関白に決まっておろう」と答えます。
さらに藤原顕光卿は「チョートクの何が悪いのか?」と実資卿に尋ねます。
実資卿はなおも「チョートク、チョートク…」とつぶやいた後、「チョードク」と口にしました。
実資のそばにいた道綱卿は、顕光卿に「チョードク、長い毒ですよ」と説明し、惟仲卿は、「疫病は長引くでありましょう」と付け足します。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

>まあ、道綱が愚かだと言いたいようで、実際そういう意見は当時あったとか。
『長徳』を『チョードク』と言い始めたのは実資卿で、それを受けて藤原顕光卿が「何が悪いのか?」と尋ねたので道綱卿が「チョードク、長い毒ですよ」と説明したのであり、ここでは道綱卿を『一文不通の人』『ただ自分の名前を書くことできるだけ』と馬鹿にする人はいないと思います。
『小右記』で実資卿が道綱卿を『一文不通の人』と言ったのは 寛仁三年(1019年) 6月15日条の事です。
『長毒』は『小右記』長徳元年(995)2月23日条には『長徳は俗忌(ぞくき)があるようなものである。長毒と称すべきか。また日本の年号は『徳』の字はただ天徳だけである。「あの年には疫癘(えきれい)があった」ということだ。』とあります。
作中の道綱卿の言葉は創作ではありません。

『小右記』長徳元年(995)2月23日条

>実資は帝の若さを嘆いています。
実資卿は、帝が道隆卿の進言を受け入れられるのが不服の様です。
「まだお若いのに心配だ」と言います。
また顕光卿は、「関白は最早物事の是非の見分けもつかないのか」と言い、重信卿は「御病もこの改元で悪化してしまうやも」と言います。
その会話を帝はお聞きになっていました。
帝がお聞きになっているとも知らず、実資卿は帝は「帝は未熟、甚だ未熟である。心配である」と言うので、蔵人頭・俊賢卿は「我々でお支えしましょう」と実資卿に告げました。
しかし実資卿は尚も「いくらお支えしても、断をくだすのは帝である、心配である」と繰り返します。「長徳という世になれば災いも多くなろう」という言葉を耳にされ、帝はその場を下がられました。

>「門閥制度は親の仇」と書き記した福沢諭吉と、実資は気が合いそうですね。

門閥制度
生まれや家柄によって身分が決まる制度
『門閥制度は親の敵』とはどんなに努力してもそこから抜け出すことができない門閥制度を嫌っていた福沢諭吉の言葉

藤原実資卿は貴族であり、藤原北家小野宮流の長です。
平安時代、貴族こそ出自や家格や財力が重要で実資卿は家格・財力申し分ない方ですが。

 >定子は父を見舞いたいと嘆いています。
定子さまは、「父が病に倒れてから1人でいると心細い」と帝に訴えます。
帝は「会いたければ二条邸に行ってもよいぞ」と定子さまに仰います。
「朕が良いと言えば良い」と言われた定子さまは、「お上のそばを離れるのは嫌です。父を見舞う間でも離れるのは嫌にございます」と言います。
兄を呼んで父の様子を訊いてみると言う定子さま。
帝は「定子は朕が守るゆえ好きにいたせ」と仰って桜の蕾が付いた枝をお渡しになりました。

・女院と中宮の戦い?

>道隆と定子に追いやられたような詮子は、道兼と道長から「道隆の様子」を聞いて深刻な病状に驚いています。 
>「飲水病」――
>現代で言うところの糖尿病ですね。
女院・詮子さまは、道長卿から道隆卿が「『飲水病であろう』と薬師が申しておりました」と知らされます。

『光る君へ』より

詮子さまは「浮かれ過ぎたから、罰が当たったのね。お若い頃は優しかったのに」と苦々しく言います。
平安時代、糖尿病は『飲水病』とも呼ばれました。
貴族には飲水病が多かったと伝えられています。 道長卿の伯父伊尹(これただ)卿、長兄道隆、甥伊周卿らも飲水病で亡くなったそうです。
 道長卿の家系は糖尿病の素因があったのかもしれません。

>詮子は、とにかく嫌いな藤原伊周を関白にするぐらいなら……と考えていて、道兼にお鉢が回ってきたのでしょう。
詮子さまは「次の関白は道兼の兄上であるべき」と道兼卿に向かって言います。
「なんと…」と驚く道兼卿に、「それがまっとうな順番でしょう」と詮子さまが答えます。 
詮子さまは、道兼卿を次期関白に推挙するため道長卿に道兼卿を連れて来るように頼んでいたのでした。

『光る君へ』より

詮子さまは「昔から道兼の兄上は好きではないけど、あの出過ぎ者の伊周に関白になられるのはもっと嫌」と言い道兼卿を推すつもりだった様です。
「女院様にお助けいただく身になるとは、不思議な気がする」と道兼卿。
道兼卿は「道長にまた借りを作ったな」と微笑みます。
道長卿は、詮子さまに「帝にお話しいただけますね」と依頼します。
詮子さまは「内裏に行くのは嫌。定子に首根っこを掴まれている帝を見るのは嫌」と言います。
「ならばどのようにして道兼兄上が…」と尋ねる道長卿。
詮子さまは「他の公卿を取り込んでおくわ。そもそも大納言も中納言も参議も、公卿は皆伊周が嫌いだから、そこへひと押しすればうまく行く」と策を打ち明けました。
道兼卿と道長卿は揃って感嘆の声を上げました。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

>詮子こそ「キングメーカー」です。
>この場合「関白メーカー」ですが、そこはさておき、歴史ものにおいては権力者本人よりも、権力を駒にする者の動きが時に面白くなります。
16回レビューでは『女院』と『后』の区別がついておらず、白居易の『長恨歌』で述べられている楊貴妃を引き合いに出して『女性の政治権限については抑えるどころか、むしろ女院という強化をしてしまう中関白家。』と批判していた何見氏ですが。

武将ジャパン『光る君へ』16回レビュー

>こういうことを朝ドラのタイトルにもなった『韓非子』の「虎に翼」といいます。
>帝王の母は雌虎のように獰猛になることもしばしばあるのに、よりにもよって権力という翼まで与えてしまうとは――
>そんな虎と対峙する定子があまりに気の毒です。
『女院』は朝廷から『院』または『門院』の称号を与えられた女性であり、『女院』号を受けられるのは天皇の生母・准母(天皇の生母に準じる立場にあることを公的に認められた女性、内親王が多い)・三后(太皇太后、皇太后、皇后)・女御・内親王などで待遇は上皇に準じていました。(出典 精選版 日本国語大辞典)
東三条院・詮子さまはたびたび政に介入し、藤原実資卿から『小右記』の中で『国母専朝事(国政をほしいままに専横する)』と批判されていますが、公卿から信任の無い藤原伊周卿の次期関白就任を避けたかったものと思われます。

>ただし、定子も無策ではありません。
>道隆の生きているうちに、伊周に内覧を許すよう、帝にとりはからうと提案します。
片や定子さまは、「内々に先例を調べさせた」と言い、「父上のお命のあるうちに兄上は帝から内覧のお許しを得られませ」と言います。
内覧とは太政官から天皇に奏上する文書を事前に閲覧し処置する権限が与えられた令外官の一つで、諸事情により摂政・関白が置かれない場合、実質的な代行者として大臣の中から任命されました。
直近の内覧の例は20年前の事でしたがそれに関して「20年ぶりでも何でもやってしまえば良いのです。」と定子さまは言います。
20年前の前例は天禄三年(972年)、藤原兼家卿が長兄の藤原伊尹卿に重用され正三位大納言に引き立てられ、安和の変で冷遇されていた次兄・兼通と確執を生じた時の例ですね。
『大鏡』によると、同年10月に重病の伊尹卿が辞表を提出し、翌日参内した兼通卿と兼家卿は後任関白を望んで円融天皇の御前で口論します。
兼通卿が円融帝の母后・藤原安子さまの「関白は兄弟順番に継いでいくべし」との遺言を献じ、円融帝はこれに従って兼通卿を関白としたため、兼家卿は不遇の時代を過ごす事になりました。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

「父上からも帝に頼み込ませ、自分からも帝に強くお願いしておく」と言う定子さまに伊周卿は、「男であったら俺なぞ敵わぬやも」と言います。
「あの女院さまから我が身を守り、帝をお守りしてるうちに強くなりました」と定子さまは言い、「内覧となれば関白も同然だから、共に力を尽くしましょう」と兄を励まします。

『光る君へ』より
『光る君へ』より

>道隆は道兼を呼び出し、近づかせると、衣を掴んで頼みます。
道隆卿が道兼卿を火急の用と屋敷に呼び、道兼卿が近づく前に道隆卿自身が上座を降り道兼卿の手を握り懇願していますが。

『光る君へ』より
『光る君へ』より

道兼卿が道隆卿に『火急の用』との事で呼ばれました。
道隆卿の体調はあまり良く無く、道兼卿を呼び寄せるよりも先に自分から道兼卿に近寄り、目が見えないため、手探りで道兼卿の手を握りました。
突然の事に驚く道兼卿。
「もし儂が倒れても、未だ懐妊せぬ中宮さまも、貴子も、伊周も、隆家も、支えてやってくれ。酷な事をしないでくれ。どうか…どうか…どうか…伊周を…我が家を頼む」と道隆卿は道兼卿に懇願します。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

>兄として弟の情けにすがるしかない道隆は、政治的な根回しが不得意な様子。
>父・兼家ゆずりの策略は、妹である詮子の方が上でしょう。
>詮子といい、定子といい、男性よりも女性が政治力に長けている描写が続きます。
16回でも書きましたが。
道隆卿の政策について、時代考証・倉本一宏氏は『一条天皇』で下記の様に述べられています。

「兼家の強引な「引き」によって何の苦労もなく政権の座に就いた道隆にとっては、自分の子息を昇進させて政権後継者の資格を付与することくらいしか、国難に対処する方策はなかったのであろう。…中関白家をますます孤立させる結果となった。」

倉本一宏『一条天皇』46頁

詮子さまはたびたび政に介入し、藤原実資卿から『小右記』の中で『国母専朝事(国政をほしいままに専横する)』と批判される程の方でしたが、
定子さまも、一条帝に『心ばへのおとなおとなしうあはれなる方は誰かまさらむ(思慮分別があってしみじみと情け深い点では、彼女に勝る人はいるのだろうか)』(『栄花物語』)と評される方でした。

>2010年代世界的大ヒットドラマ『ゲーム・オブ・スローンズ』には対照的な戦いがあります。
>五人の王が戦う「五王の戦い」と、二人の女王が最終決戦に挑む「女王の戦い」です。
平安時代が舞台のドラマを語るのに『ゲーム・オブ・スローンズ』は必要ありますか。
好きなドラマを語りたいのなら別記事で語ってはいかがでしょうか。

・さわはまひろ推し第一号?

>桜が咲く頃、まひろは文字を書いています。
桜が咲く頃、書写をしているまひろさんをさわさんが乙丸に案内され、久々に訪れました。
「まひろさま! ご無沙汰いたしました。その節の事はお許しくださいませ」と石山寺参詣の際の非礼を詫びるさわさんをまひろさんは喜んで室内に通します。

『光る君へ』より

「ご息災でした?」と尋ねるまひろさんに、さわさんは「私は何があっても病にならない頑丈な身体ですが、兄弟を疫病で亡くしました」と言います。
お悔やみを述べるまひろさんに、「あまりに儚く、人に許された年月は実に短いものだと知りました」とさわさんは言います。
まひろさんはたねさんとその両親がやはり疫病で亡くなった事や自分も罹ってしまった事を話しました。
「今生きていることも不思議な気がします」と言うまひろさんの手をさわさんが取り、「生きていてくださって本当に嬉しい」と言います。
まひろさんも「再びお目にかかれて本当に嬉しい」と喜びます。

『光る君へ』より
『光る君へ』より

さわさんは改めて石山寺からの帰り道の事や文を突き返した事を詫びます。
そして「いただいた文は全て書き写して持っております」と、さわさんは文箱から文を取り出しました。
「まひろさまの文をうつすことでまひろ様に追いつきたいと思っておりました」とさわさんは言います。
「そんなことできっこないのに」と言うさわさん。
「私の友はまひろさまだけです。色んなことがあってそれがよく分かりました。」と打ち明け、「末永く、末永く、私の友でいてくださいませ」と懇願しました。
そして2人は笑顔を見せ和解しました。
その夜まひろさんは「私の書いた文がさわさんの心を…書くことで何を…」と自問し、「何を書きたいのかは分からない。けれど筆を取らずにはいられない」と書く事の意味を考えていました。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

>まひろって、やはりズレているというかどこか変人ですね。
>自分のことを言いたいなら、真っ先に語ってもおかしくない話だと思います。
>説明するのが面倒なのかもしれない。
>それにさわだったら、絶対に、大納言様に一晩中看病されて救われた話にうっとりしますよ。
>まあ、これはモテ自慢になりそうで禁句ですかね。
>まひろは口が硬く、ロマンスすら漏らしません。
まひろさんは自分からさわさんが息災だったか訊いており、さわさんが「兄弟を疫病で亡くした」と答えたのでお悔やみの言葉を述べました。
さわさんと疎遠になってしまった原因は、さわさんが知識などの面で到底及ばず夜這いも間違いであったため疎外感を感じたからです。
久々に逢い、息災かどうかを人に訊いておいて相手の事情を顧みず労りもせず、まひろさんから貰った文を書写する事で前向きになっているさわさんにマウントを取る様に自分の事ばかり語ろうとするのは身勝手ではありませんか。

>印刷が普及して、わざわざ『源氏物語』を筆写する人は減ったとは思います。
>けれども、SNSでこのドラマの感想をつぶやき、ファンアートを投稿することも、伝統的と言えるのかもしれません。
>何かを見て、自分の頭でそのことを考え、書き出す
>世の中がどれだけ変わろうが、人の気持ちには変わらないものもあるでしょう。
第15回コラムでも書きましたが。
嫌いな作品では視聴者によるファンアートやSNSでの盛り上がりを敵視し、『一部のファンが投稿を執拗に繰り返し、ときには複数のアカウントを使い、偏った“民意”が形成されることがあり、それが制作サイドに伝播することを危惧していました。』とさも視聴者が盛り上がる事を気に入らない悪い事のように吹聴していましたが。
作品を見て自分の頭でそのことを考え書き出したり語り合う事もエコーチェンバーとばかりに叩いていたのは何見氏では。

武将ジャパン『どうする家康』第38回
武将ジャパン『どうする家康』総論前編

・関白道隆、最期の願い?

>道隆はやはり、政治力は鈍いようです。
>力押ししかできません。
道隆卿は参内し、「病の私に代わり全ての業務を伊周に任せることをお願いします。内大臣に内覧を」と一条帝に奏上しています。
病の自分に代わり『内覧』の職務を伊周卿に移譲する許可(宣旨)を賜りたいという事です。
帝はしばらくお考えになり、「後ほど宣旨を下す」とお答えになりました。
しかし道隆卿は、「今お約束いただかねば安んじで養生もできませぬ」と帝の早いご判断を促し、「今ここで宣旨をお下しください。」とまで言います。しかし帝は道隆卿に下がるようにお命じになります。

『光る君へ』より
『光る君へ』より

これについて、帝は「蔵人頭はどう思うか」とお尋ねになられました。
蔵人頭・源俊賢卿は、「すぐに関白のお申し出をお受けにならない帝は、まことにご相違名である」と答えます。
「無下に断るわけにも行かないが、言いなりになるのもどうかと思う」と帝はお考えを述べられ、「伊周の事、朕は嫌っておらぬ。しかしなにぶん若すぎる」と仰います。

>道隆の欠点を見ていると、伊周と隆家兄弟の今後が早くも心配になってきます。
道隆卿が兼家卿から引き継いだ政治基盤を活かしきれず公卿の根回しなどがうまくいかない事や独断専行な事もありますが、伊周卿に内覧を移譲する件については帝が伊周卿の若さを理由に即断なさらず、中関白家に政治を集中させない帝の政治力が見えたエピソードかと思います。

>歴史上の人物にはハズレ値を出す人がいるので誤解されがちですが、いくら若いうちに結婚しようが、子が簡単にできるわけでもありません。『歴史上の人物にはハズレ値を出す人がいる』これは何に対するハズレ値なのでしょうか。具体例や説明が圧倒的に無い文章になっています。
道隆卿は定子と女房達のいる登華殿へ出向きました。
そして、「早く皇子を産め!」と定子さまに言います。
ききょうさん他、女房達は目配せをして即座に御簾を下ろしました。

『光る君へ』より

突然の父の理不尽に驚く定子さまに、道隆卿は「お前は帝の唯一無二の后。他の姫の入内も拒んでいるのに何をやっている」と言います。
「帝はまだお若い」と言う定子さまに、道隆卿は険しい顔で「とっくに元服されておる、わしが関白になったのも帝を一人前と認めたからだ」と不満をぶつけます。
定子さまは「それなりに努めている。帝の毎夜のお召しにお応えしております」と訴えます。
道隆卿は「足りない…足りない…足りない…足りない…足りない…足りない…まだまだまだまだ足りない」と繰り返します。
そして、「皇子ができれば帝は我が一族の真の味方となる。皇子がないゆえ帝のお心が揺れるのだ」と定子さまを責め続けます。
道隆卿は取り憑かれたかの様に、「皇子…皇子を産め。皇子…皇子を産め。皇子…皇子を産め」と繰り返します。
傍らではききょうさんが呪いのような道隆卿の言葉を苦い表情で聞いています。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

桜が葉桜となった3月。帝は『道隆の病の間に限る』という条件付きで、伊周卿に内覧をお許しになりました。
この事は『小右記』長徳元年(995年)3月8日条に記述があります。賜った勅には『関白(藤原道隆)が病を煩っている間、様々な文書や宣旨は先ず関白に覧せ、続いて内大臣に覧せて、奏聞を経るように』とあり、あくまでも『病を煩っている間』という臨時のものだった事が伺えます。

小右記 長徳元年(995年) 三月八日

>「迂直の計」という概念がありまして、まっすぐに力押しするよりも、根回しした方が目的を達成できることがあります。
>同じきょうだいでも詮子はそれができるのに、道隆はできない。
子供が簡単に成せないと分かっていても入内させた娘である后に皇子が産まれ、外戚になれば中関白家の権威が安泰となり、帝もお味方になるというのが摂関政治です。さらに道隆卿は病で余命幾ばくもなく、公卿に根回しをし陣定で裁定を待つ様な余裕も無くまた汚れ役を担う道兼卿は道長卿と共に詮子さまに協力しており、焦りが出ているのだと思います。

さて、公卿が集まっていると、藤原道綱が藤原道長に対して、大納言朝光が3月20日に亡くなったと囁いてきます。
3月20日、大納言・藤原朝光卿(顕光卿の弟)が疫病で亡くなりました。
「ねえ、3月20日に大納言・朝光殿が亡くなったんだって。」と道綱卿が話しています。
「もう皆さんご存知です」と道長卿が答えると、「疫病らしいね。恐ろしいなあ…恐ろしくない?」と道綱は語り続けます。
「この間の陣定の時はまだ罹っておらなんだと思いたい。罹ればあっという間らしい」と公卿たちは噂し合い、「我らはもう屋敷から出ない方がいいのでは?」という声も出る始末です。
実資卿が「それでは政はできない」と言います。
実資卿は「疫病が内裏に入り込んだのは関白様の横暴のせい」と言います。
さらに「長徳などという元号にし、息子を内覧に据えた積悪の所業許し難し」と言います。
「そんな事…聞こえたら大変だよ」と嗜める道綱卿に、「私は間違ったことは申しておりませぬ」と実資卿は言い、「内大臣、伊周殿に明日はない」と断言しました。
その後、伊周卿が陣定に姿を現しますが、公卿たちの反応は冷ややかなものでした。
実資卿は『小右記』でも帝が『道隆の病の間に限る』という条件付きで、伊周卿に内覧をお許しになった事について、『此の事、大いに奇異の極まりなり。必ず事の敗るること有るか。往古、未だ此くのごとき事を聞かず。』と記述しています。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

>この公卿たちは道長が悲田院に向かい、まひろを看病したと知ったらどう思うことでしょう?
>実資だけは目を見開いて、見直すかもしれませんね。
藤原朝光卿が疫病で亡くなった事について情報が回り、身近な恐怖として迫ってきた事に対していつ罹患したのかと恐怖を感じたり、恐怖から出仕を渋り物忌したがったり、疫病対策の不備を為政者のせいにしたりする公卿の様子は未知の疫病に対する反応です。
現代でもコロナ禍で情報が錯綜し、次は誰それが罹ったと噂する。蔓延を防ぐためロックダウンや制限をかけリモートワークをし、対策の不備をなじりデマが回るなどあったと思うのですが何見氏は喉元過ぎてお忘れでしょうか。
穢れに触れる事を憚る貴族たちは積極的に悲田院の視察に向かい汚れ仕事をする道兼卿や道長卿をあまり良く思わないのではないでしょうか。
だから道長卿も表立っていわず、お救い小屋の資金繰りを気にしているのだと思います。


ちなみに実資は、アホのくせに出世が早い道綱が嫌いです。
(中略)
>とはいえアホボンの道綱は大臣になぞなれるわけがない。
道綱卿は官途における競争相手であったため、実資卿は『小右記』で道綱卿の事を『一文不通の人(何も知らない奴)』『ただ自分の名前を書くことできるだけで、一二も知らない者だ』と記しています。
道綱卿の最終官位は正二位・大納言ですが、実資卿にとっては昇進で抜かれたくない相手であり、摂関家の権威もあり、『大臣になぞなれるわけがない』とたかをくくる事は無いと思います。(あくまでも現代から見た結果論かと)
何見氏は『小右記』を盾に気に入らない人物をアホだと見下し、蔑みたいだけに見えます。

>道隆はなおも伊周を関白にするようにと願っており、源俊賢にも頼んでいます。
>さらには這いずるようにして、帝にも伊周を関白にするようにと頼みに行こうとして止められています。
足取りもおぼつかなくなった道隆卿が源俊賢卿の制止を振り切り帝の御座所の御簾を上げ、伊周卿への関白職譲渡の許しを迫る重要場面なのですが、あまりに状況説明を省きすぎではないでしょうか。

足取りもおぼつかなくなった道隆卿は、帝の御前まで進むと勝手に御簾を上げてしまいました。
驚きとっさにお顔を扇でお隠しになる帝。
道隆卿は鬼の形相で「お上、伊周を関白とお定めください!お上、伊周を関白に!」と手を伸ばし帝に迫ります。
蔵人頭の俊賢卿は必死に制止しようとしています。
道隆卿は「伊周を関白に」と言うばかりで、ついにその場から連れ出されました。
『小右記』 長徳元年(995年) 正月五日条には『きょう関白(藤原道隆)は御簾(みす)の中に伺候(しこう)していた。病悩しているところが堪え難いからであろうか。ときどきこのような事があった。奇怪に思った。』とあり、時々この様な道隆卿の乱行が見られた様です。

『小右記』 長徳元年(995年) 正月五日条
『光る君へ』より

・貴子から、 光る君へ?

>道隆は伏せっています。
山吹の咲く4月。
道隆卿は貴子さまに看病され床に伏しています。
道隆卿は「まだ死ねない」と言い、貴子さまは「まだ大丈夫だ」と声を掛けます。
また道隆卿は「伊周はどうした」と言い、貴子さまは夫の言葉にひとつひとつ答えていきました。
道隆卿はふと夫婦が出会った時の話を始めました。
道隆卿が「そなたに会ったのは内裏の内侍所であった。スンと澄ました女子であった」と言います。
貴子さまは円融院の御代に後宮の役所である内侍司に内侍として出仕していました。
貴子さまは「道隆様は、お背が高く、キラッキラ輝いた殿御でございました」と夫の掌を握りしめ笑って言います。

『光る君へ』より
『光る君へ』より

道隆卿は貴子さまが詠んだ歌を詠みます。

忘れじの 行く末までは 難ければ 今日を限りの 命ともがな
儀同三司母

意訳:
「いつまでも忘れない」という言葉が、遠い将来まで変わらないというのは難しいでしょう。だから、その言葉を聞いた今日を限りに命が尽きてしまえばいいのに。

『新古今和歌集』 第十三 恋歌三

「あの歌で貴子と決めた」
道隆卿はそう貴子さまに伝えました。
『中関白通ひそめ侍りけるころ』の詞書が添えられ、道隆卿と貴子さまの恋が始まり間もない頃の歌なのだそうです。
『藤原道隆は43歳で世を去った』と語りが入ります。
長徳元年4月10日、藤原道隆卿はこの世を去りました。享年43歳。

『光る君へ』より

道隆卿の臨終の際、庭では蝶が舞います。
さわさん訪問の際にまひろさんが荘子の『胡蝶の夢』を書写する様子がありましたが、道隆卿臨終間際の庭に舞う蝶も『胡蝶の夢』に準えたものかと思います。
故事成語としては、「人生は夢のようである」というところから、主に人生の儚さの例えとして使われます。

胡蝶の夢
夢と現実の違いは、実ははっきりしないということ。また、人生のはかないことのたとえ。

出典 故事成語を知る辞典
『光る君へ』より

・MVP:藤原道隆?

>本作で道隆役を務める井浦新さんは『平清盛』で崇徳天皇を熱演していました。 
>今度は、あの悲劇の帝から穏やかな貴公子になったと安堵する方もいたようです。
何見氏は自分で決めた10年ルールとやらを無視して『平清盛』を叩いていますが、『私は平清盛が嫌いです』でいいのになぜ俳優さんの思い入れの強い役までお気持ちで叩くのでしょうか。
井浦さんは崇徳院を尊敬し、崇徳上皇ゆかりの地を訪れイメージをふくらませたり自らの演技で心を休めて頂きたいと演技していたほどで、大事な役だそうですが、それすらも土足で踏み荒らす様な事を言っていましたね。

>男性の政治力が低いと、女性が補うというひとつのモデルを示したということです。
作中では穏やかで温室育ちの様な道隆卿ですが、時代考証の倉本一宏先生によると、藤原実資卿の日記『小右記』から伺える『藤原道隆』という人物は、『あまり先例にとらわれず、非常に家族を大事にし一家のことを中心に考えた人』だったそうです。
『枕草子』では道隆卿は女房たちにいつも冗談を話しかけるような人だったというふうに描かれているそうです。
学者である貴子さまの父・成忠(なりただ)卿の位を二位まで上げ、これは常識的ではなかったようです。
また亡くなる寸前、嫡男・伊周卿をなんとしても後継者にしたかったため、さまざまな策謀を弄し、その都度、実資卿が怒っています。
権力を子供に継がせるため、急激な昇進をさせたため誰も支持する人がいなくなるばかりか、天皇の信任も受けられなくなったのではないでしょうか。

>二人が月の下で書物を向き合う場面がありますが、まひろの方が賢いことが伝わってきます。
>道長はお勉強が苦手であることは、日記『御堂関白記』から推察できます。
>解説者がつっこみたくなるのがこの日記でして。
>「この日は事件があったでしょう、天気だけでなく、もっとちゃんと書くことがあるでしょう!」
>「文法が無茶苦茶です。ちゃんと勉強しましたか?」
>「馬をもらったことはしっかり書いているね。馬が好きなのはわかったけどさ」
『御堂関白記』は現存する世界最古の直筆日記とされ、『小右記』(藤原実資)『権記』(藤原行成)などと共に、当時の貴族社会を知る重要な史料となっているとして平成25年(2013年)にはユネスコ記憶遺産に認定されている文化財なのですが。
『日記』は具注暦(吉凶判断のための様々な暦注が記載されていたことから、注が具(つぶさ)に記入されているということで、具注暦と呼ばれる)に書かれており、文体や筆跡には道長の性格のおおらかさが看てとれる。内容は簡潔ながら、当て字、脱字、誤字、また重ねて字を書いていたり、塗抹(塗り潰し)、傍書、省略、転倒などが散見する特異な文体となっており、文の意味が不明だったり、文法的な誤りが多いそうですが。

『御堂関白記』

道綱卿にも言える事ですが、何見氏は気に入らない歴史上の人物を蔑み見下して嘲笑うために古典を読んでいるのでしょうか。

・権力は人を変える?

>大河ドラマは「主人公を持ち上げるために周囲を貶める作劇手法がある」と指摘されます。
>典型例が昨年ですが、こちらの記事でもご参照ください。

>反対に主人公側は無理矢理ロンダリングする手法もあります。
>幕府崩壊過程において、慶喜をいい人扱いする『青天を衝け』は一体なんだったのか。
最初から自分が嫌いで叩く事を大前提にそれらしい週刊誌記事を引用し、嫌いな作品は主人公側をロンダリングしているに違いないと恣意的に論じているに過ぎません。
私怨もあり、『どうする家康』を『穢れ』と言っていたのだからわざわざ嫌いなものを叩きにこなくてもいいのではないですか。
嫌いな作品を叩く叩き棒に『光る君へ』を使っているだけでこの項目自体蛇足です。

・ボーイズクラブが作品の価値を決めていた?

>中国のベストセラー作家である馬伯庸原作の朝鮮出兵(中国では万暦朝鮮之役)ドラマが放映されるそうです。
>よいことだと思います。
>この戦いを扱った韓国映画やドラマは多いものの、明目線は少ない。
>明の精強な装備や戦術が描かれると思うとワクワクします。
大河ドラマレビューを書いているのに論じているのは中国明代を舞台にした歴史ドラマ。
『光る君へは平安時代が舞台であり、合戦もないにもかかわらず視聴率は2桁を割らない。』とありここまでは分かりますが、中国明代が舞台のドラマは平安時代となんの関連があるでしょうか。
中国ドラマについて語りたいならば別記事かnoteで書いたらいかがでしょうか。
大河ドラマと全く関係ない話に飛びすぎです。

>国際的に中世を描くならば理不尽さや暴力性は欠かせない要素とされます。
日本史時代区分では平安時代は中世ではなく『古代』です。
大和朝廷が成立し律令などの法を基盤とした天皇中心の国家が成立した時期といえるでしょうか。

>ニーズを理解していないのでしょう。
>国際的に中世を描くならば理不尽さや暴力性は欠かせない要素とされます。
>それに加えて、海外から見たい日本の姿って、理不尽さが罷り通るものではないのでしょうか。
>そういう海外のニーズや世の移り変わりを見ないことに、どこまで危険性を認識できているのでしょうか。
海外の友人と語っていて』『海外の日本史ファンからも期待されていない状況に陥っています。』『『SHOGUN』を見た日本史ファン「当時の日本人はもっと高潔で道徳心があった」とぼやく意見がありました』とやたら『マックの女子高生』構文が多いですが、具体性がなくただ延々『海外ドラマは素晴らしい、それに引き換え大河ドラマは…』をやりたいだけではないですか。

>ヒロインには、数年前ならば叩かれた女性登場人物と重なる言動もあります。
>まひろは漢籍や儒教倫理に詳しく民衆救済考えています。『麒麟がくる』の駒と共通する特徴です。
>朝ドラ『虎に翼』の寅子は、気が強く、反論し、空気をさして読みません。
何見氏が勝手に『女性脚本家』『ジェンダーを前面に出した作品』『教養があり気が強く、空気を読まないヒロイン』は嫌われると思い込もうとしているだけなのではないですか。
まひろさんも寅ちゃんもそれほど視聴者から受け入れられないとは思いません。

>NHK東京制作朝ドラは、2010年代後半から気が強く、空気を読まないヒロインを送り出してきました。          

ここから延々と朝ドラについて論じていますが、このレビューは『光る君へ』レビューではなかったですか。
朝ドラについて語りたいならば別記事かnoteで書いたらいかがでしょうか。

>あらかじめ「ボーイズクラブ」に適応するかどうかで、褒めるか貶すか決めておく。そうやって風を吹かせることでドラマ評価も決するようにする。
>そんなことをしても本質には何の影響もないどころか、むしろ悪化するばかりかと思います。
「ボーイズクラブ」ではなく、『ポリコレやジェンダー』に変えるとそのまま何見氏にブーメランで返ってくると思います。
『褒めるか貶すか決めておく。そうやって風を吹かせることでドラマ評価も決する。』様にしているのは何見氏の論評の特徴ですね。


※何かを見た氏は貼っておりませんでしたが、今年もNHKにお礼のメールサイトのリンクを貼っておきます。
ファンの皆様で応援の言葉や温かい感想を送ってみてはいかがでしょうか?

 







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