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大河コラムについて思ふ事~『光る君へ』第12回~

3月下旬になりました。新入学や進級など新生活準備される方もいるでしょう。
まだまだ気温の変化が激しく寒い日々もありますので皆様健康には充分お気を付けください。
さて、光る君へ第12回。
今週も『武将ジャパン』大河ドラマコラムについて書かせていただきます。
太字が何かを見たさんの言質です。
御手隙の方に読んでいただければと思います。それでは。


・初めに

>妾(しょう)でもいい。
>妾(しょう)になると言ってくれ――。
道長卿からの文を受け取り、六条の廃院に走るまひろさん。
「妾でもいい。道長様と一緒になれるなら」
道長さま以外の男性の妻にはなれない、それ故『妾でもいい』心に決めましたが、思いを伝える前に道長卿は「左大臣家の一の姫のところに婿入りすることになった」と打ち明けます。
「倫子様は大らかな素晴らしい姫様です。どうぞお幸せに」と思っても無い事を伝えるまひろさん。
道長卿は「妾でもよいと言ってくれ」と言いますが、まひろさんは「道長様と私はやはり辿る道が違うのだと私は申し上げるつもりでした。私は私らしく自分の生まれてきた意味を探して参ります。道長さまもどうか健やかに」と別れを告げました。

>合戦がないだのなんだの言われがちな本作ですが、こういう何気ない日常の場面に私は感動しています。
>当時らしい、末期の得度です。
>もはやこれ以上生きられぬと悟った時点で出家していた。
寛和2(986)年。
まひろさんが乙丸を伴い、高倉の女・なつめさんの屋敷を訪ねました。
そこではなつめさんが最期の時を迎え、浄土への往生を願い臨終出家が行われていました。
僧侶がなつめさんの髪を一房切り取り、「これで得度相成りました」と告げ、為時公が礼を述べます。
為時公は「これで案ずることはない、良かったな」と言いなつめさんの額を撫でました。

『光る君へ』より

往生を願って出家する風習は9世紀半ばから一般化し、平安時代中期、念仏を唱える事によって、阿弥陀如来の極楽浄土に往生できるという浄土信仰が盛んになると世俗の人々も出家するようになりました。
仏教に帰依する貴族は自らの財力で寺院を建立して後生を願ったり、遁世のために出家を望む事もありました。
『源氏物語』では藤壺、秋好中宮、紫の上、浮舟などの女性が、落飾したり出家を望んだりしています。

臨終に際し、剃髪や得度をし出家する事で極楽浄土への往生を願う事を『臨終出家』といいます。
貴族女性の出家の場合は尼削ぎといい、肩辺りで切り揃えた髪型になりました。
『鎌倉殿の13人』では、源頼朝公が倒れ、北条政子さんと北条義時公は『死が近づいた折に必ずや極楽往生できる』として臨終出家を大江広元公と三善康信公から勧められ、頼朝公の髻を落とすと比企尼から貰った観音像が出てきました。
また、源頼家公の場合は病に倒れ、意識不明のまま臨終出家しますが意識を取り戻し、比企一族や妻子の滅亡を聞かされて激怒。その後修善寺に移ります。

『鎌倉殿の13人』より
『鎌倉殿の13人』より

>突然死だと、それはできない。
>ちやはの死が改めて酷いものだとも思わされます。
中世では例が少ないそうですが、頓死などの突然の死により、死亡確認後に僧侶により剃髪し出家させた場合があるそうです。

大阪大学学術情報庫OUKA
『日本中世における在俗出家について』
https://ir.library.osaka-u.ac.jp/repo/ouka/all/55449/mgsl055_A001.pdf

大阪大学学術情報庫OUKA
『日本中世における在俗出家について』

ちやはさまの死は直接の原因は藤原道兼卿による刃傷ですが、表向き『病死』として扱われています。
1回を見る限り遺体も戻って来ており、弔いがなされているのではないでしょうか。
釈迦が入滅してから2000年経つと『末法の世』に入ると信じられていました。これを『末法思想』といいます。
938年頃には空也上人が都の市中で念仏信仰を広めました。985年には源信(恵心僧都)が『往生要集』を著しました。
この様にして、浄土信仰と末法思想が民の間に広まっていくことになります。
11回ではまひろさんが小さな厨子に入った仏像に手を合わせる場面がありました。

『光る君へ』より
『光る君へ』より

>被衣を被り、なかなかのお姫様に見える彼女が母の手を取ると、二人は涙を流し合っている。
画像で見ると分かりますが、さわさんは被衣(さかづき)ではなく、虫の垂れ衣が付いた市女笠を被っています。

>為時の愛に包まれて死にゆくなつめは幸せだったことでしょう。
臨終出家直後、なつめさんが苦しみ始め、「娘のさわに逢いたい」と言います。
命が尽きかけているなつめさんを1人にはできない為時公は、まひろさんになつめさんの前夫の許にいるさわさんの居場所を教え、連れて来る様頼みます。
まひろさんは急ぎさわさんを連れて来ました。
市女笠を取り、さわさんがなつめさふんの枕許に座り手を取りました。
娘との再会を果たし、なつめさんは穏やかにこの世を去りました。
庭にはりんどうが咲いていました。

『光る君へ』より
『光る君へ』より

『源氏物語』40帖 御法では、余命幾ばくも無い紫の上を源氏の君と明石中宮が看取り、明石中宮が紫の上の手を取り、紫の上が息を引き取る場面があります。

『源氏物語』40帖 御法

・さわはまひろに憧れる?

>まひろが畑仕事をしていると、さわがやってきました。
自邸で「大きくなったねえ」「ありがとう」と野菜に話しかけながら畑仕事をするまひろさん。
そんな彼女をさわさんが訪ねて来ました。

『光る君へ』より

まひろさんはさわさんを家の中に通します。
まひろさんは袿を羽織り、「父上(為時公は)は喪が明けて漢学指南に出ている。家の事は自分と弟の乳母(いとさん)でやっているので一日中走り回っている」と説明します。
そして「無作法な姿をお見せしました」と謝ります。
しかしさわさんはまひろさんを「素晴らしい」と褒めます。
さわさんは「女子は何もするなと言われていますので何もできません。そのくせ父は今の母の子ばかり可愛がり私には目もくれません。」と愚痴をこぼします。
そしてニッコリと微笑み「でもまあそれも宿命です。まひろさまのお蔭で母にも会えた事もあるし、庭仕事をお手伝いさせてください」とまひろさんに頼みます。
「父上に叱られないか」と尋ねるまひろさんにさわさんは「まひろさまに色々教わりとうございます。黙っておれば分かりません」と答えました。二人は共に床拭きをし畑仕事をします。
また、まひろさんはさわさんに琵琶を教えました。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

>『鎌倉殿の13人』では、時政の妻であるりく(牧の方)は家事や畑仕事に対してぼやいていましたね。
>頼朝挙兵のため寺に潜んだとき、かったるそうに掃除していたものです。
>京の姫らしいぼやきでした。
頼朝公挙兵に伴い、伊豆山権現に身を隠した政子さん、実衣さん、りくさん。
りくさんは京生まれ京育ちで上昇志向。
夫・時政公は愛しているが、京に戻りたいという気持ちも持っていました。
本来女人禁制の伊豆山権現では男性僧侶の目を避け寺女として掃除などを義務付けられますが、さっぱり掃除に身が入らず、遠くを見ながら『京へ帰りたい』とつぶやく始末でした。

>これはシスターフッドを推すものとしてもよい描写ですし、紫式部自身も同僚女房へのほとばしる友愛を記しています。
>素敵な姿です。
『紫式部自身も同僚女房へのほとばしる友愛を記している』とは。
具体的にどんな史料のどの様な記述なのか提示してください。

シスターフッド(sisterhood)
1 姉妹。また、姉妹のような間柄。
2 共通の目的をもった女性同士の連帯。

 小学館デジタル大辞泉
『光る君へ』より

為時公の妾なつめさんの娘・さわさんにはモデルになった女性がいるそうです。
平安時代中期の武士・平維将公の娘で紫式部の親友といわれた方です。
平維将公は桓武平氏で、平将門公を討った平貞盛公の子息です。
その血筋は伊豆の豪族・北条氏に連なるのだそうです。(自称であり、最近の研究では北条氏が桓武平氏の子孫とする説は疑問視されている)
歴史学者・角田文衞氏の説によれば、維将公の娘は紫式部の親友・『筑紫へ行く人のむすめ』であるそうです。
紫式部の父方の従姉妹(生母が為時公の姉妹)で、『紫式部集』によると二人は同時期に姉妹を亡くしており、紫式部は筑紫の君を「姉君」と呼び、筑紫の君は紫式部を「中の君」と呼んでいたのだそうです。

>どこかズレているまひろは、本気で理解できていない可能性はあります。
>まひろは他の人と感覚がずれているところがある。
>すごく鋭いか、鈍感か、そのどちらか。
>カバーする領域がずれているのでしょう。
さわさんは巻物の整理をしています。
「まひろさまは沢山書物を読んでいて文も歌も上手。沢山の殿御が文を送るのでしょう」と言います。
しかしまひろさんは、「文をくれたのは一人だけ・・・」と答えます。
「ごめんなさい!」
つい謝るさわさんに、なぜ彼女が謝るのか尋ねるまひろさん。
「よく分からないけどつい謝ってしまった」とさわさんは言い、そんな彼女をまひろさんは「面白いのね、さわさんって」と言います。
さわさんはまひろさんの文才を知ってきっと殿方からたくさん文が来るに違いないと思ったのでしょう。
しかし、まひろさんは「文をくれたのは一人だけ・・・」と言い、聞いてはいけない事を聞いたのではと反射的に謝ってしまい、まひろさんに謝る理由を聞かれ「自分でもよく分からないまま謝った」と答えたのではないでしょうか。
まひろさんは文をくれた殿方の数に拘りがないため、さわさんの行動が面白く感じたのではないでしょうか。

>関西らしい「シュッとした」という形容が出ましたね。
>要するに具体性のない言い回しです。
さわさんは「まひろさまに文をくれた方は、どんな方ですか」と尋ねます。
まひろさんは六条の廃院での道長卿との逢瀬を思い出していました。
さわさんが駆け寄り、「今思い出しておられましたね?」と言います。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

さらに「私は物知らずのうつけですがそういう勘は働くのです。」と謙遜しつつ言います。
「そんな力があるの?」と尋ねるまひろさん。
さわさんは「その方は背が高くてシュ〜ッとした感じ・・・」と手振りを交えその姿を形容し、「隠してもお顔に出てますよ」と笑います。
『シュッとしている』は関西方面の女性がスタイルが良い男性を「すらっとしている」「背が高い」「スマート」「清潔感がある」「スタイリッシュ」「男前」などの意味で形容した言葉だそうです。

さわさんは『その方は背が高くてシュ〜ッとした感じ・・・』と言葉で言うと同時に身振り手振りで長身で細身である表現をしており、言葉で上手く形容できず擬態語になるのをカバーしていると思います。

『光る君へ』より

・婿候補は藤原実資?

>学識あり。人望あり。
>何より財産がある!
>――そう猛烈に推す宣孝は、本人に許可を得たのでしょうか……。
ある日、藤原宣孝公が、「まひろの婿のことじゃが閃いたぞ」と言いながら訪ねて来ました。
「お願いしておりません」とまひろさんが言いますが、「何度申せばわかる、この家の窮地はまひろが婿取りすれば万事落着だ」と宣孝公は本気で婿取りを考えています。
「正四位下の左中将、藤原実資さまはどうじゃ」と口にする宜孝公。

『光る君へ』より

「恐れ多い」と為時公が恐縮し、まひろさんは五節の舞の時に見た実資卿の姿を思い出します。
「身分が違う・・・」と困惑している為時公。
宣孝公は「蹴鞠の集いで実資さまと付き合いがあり、昨年北の方を亡くしている。実資さまは知恵者であり、まひろの賢さに惹かれるやも知れぬ」と推してきます。(ここで「日記に書きなさいよと言っていた実資卿の北の方・桐子さまが亡くなっていた事がサラリと語られます」)
納得する為時公に、「あの方は父上より学識がおありなのですか」とまひろさんが尋ねます。
為時公は「学識ももちろんだが権勢に媚びないのが素晴らしい、筋の通った人柄なのだ」と答えます。
「学識、人望そして何より財がある、まひろの婿に願ってもない」と宣孝公も太鼓判を押すのですが・・・
『宣孝は、本人に許可を得たのでしょうか……。』とありますが、宜孝公は『蹴鞠の集いで実資さまと付き合いがある』とまずまひろさんに話を通し、改めて父親である為時公を伴い挨拶に伺ったところ実資卿の赤痢罹患で家司への言付け依頼のみになったのではないでしょうか。
11回でも書きましたが、正妻に限らず、妾を多く持つには財力が必要で、身分の高い殿方はふくよかな方が魅力的であると『枕草子』には記述されています。
こちらは『若い人や子供など』とあり、清少納言による一般論と思われますが、実資卿は小野宮流の家領の多くを相続し、相当な財力を有していた良識のある故実家・資産家だったようです。

>さて、その実資は赤痢に罹っておりました。
実資卿は3日前から赤痢を患っていました。
宣孝公は為時公と共に見舞いに行きました。
宜孝公は巻物を手渡し、「先日お目にかかった時はお健やかだった、お大事にとお伝えくださいませ。今から文をしたためるので、その巻物と共に実資さまにお渡しいただきたい」と実資卿の家司に言付けを頼みます。
「お会いになれますが」と言う家司に、「いやいや今日はご遠慮いたす」と文を書き始めます。
そこへ足音が聞こえ、夜着姿の実資卿が腹に手を当て別の家司に支えられてヨロヨロと現れました。
それを見た宣孝公は為時公の屋敷で「あれは駄目だ。もう、半分死んでおる。次を探そう」と言い、為時公も「なんと・・・」と嘆息を漏らします。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

>なんでも三日前、にわかに罹ったとかで、赤痢が怖いのか、宣孝は面会は断ります。
実資卿は、永延元(987)年5月下旬から赤痢を患ったと『小右記』に記しています。

『小右記』永延元年(987年) 五月二十九日条
『小右記』永延元年(987年) 五月三十日条

>当時は赤痢が都で流行していて、さすがに諦めたのでしょう。
『細菌性赤痢』は患者や健康保菌者の糞便および汚染された手指、食品、器物、水、ハエが主な感染源となる感染症です。
発熱、腹痛、下痢、嘔吐などを伴って急激に発症し、重症ではしぶり腹という頻回の便意をともなう膿粘血便を排泄する状態になります。
現代でも汚染地域では『生もの、生水、氷などは飲食しない事、小児や高齢者などの易感染者への感染を防ぐ事』が重要な疫病です。
『赤痢が怖いのか』とありますが衛生状態の悪い平安時代では赤痢に代表される『痢病』は高熱と繰り返す下痢で強い脱水症状となり衰弱し、死に至る「疫病」として恐れられていたため、家司に支えられて厠に向かう姿を見て、宜孝公は『穢れ』の忌避もあり屋敷に上がるのを遠慮したのだと思います。
『当時は赤痢が都で流行していた』と分かっているのに『赤痢が怖いのか』とは。
感染症なのだから対処が分からない時代には恐ろしいものでしょう。
実資卿は正暦元年(990年) 7月に赤痢とみられる病で幼い娘を亡くしています。

小右記 正暦元年(990年) 七月十一日条

>薄衣から肌が透けて見える唐代美女の絵でした。
>江戸時代の春画ほど際どくはないものの、エロチックなことは確か。
次を探そう」と言う宣孝公に「もうおやめくださいませ」とまひろさんが言います。
宜孝公は「そなた1人のことではない。霞を食ろうて生きて行けるとでも思っているのか。甘えるな」と一喝します。
位の高い裕福な婿を取る事は良い後ろ楯を得る事でもあったのでしょう。
赤痢から回復した実資卿は、日記に「鼻糞のような女との縁談あり」と記しました。

『光る君へ』より

そして、宜孝公が贈った巻物を解いたところ唐の美女があられもない姿で舞う『枕絵』が出てきました。
「ん? お? おぉ・・・見えておる」と実資卿は食いつき気味に眺めています。
その頃まひろさんは、大根を洗いながら考えていました。
「見知らぬ人の北の方になる・・・」
まひろさんは道長卿から「妾になってくれ」と言われ、「耐えられない」と答えた時の、彼の「ならばどうすれすればいいのだ」という言葉も思い出していました。

『光る君へ』より
『光る君へ』より

因みに実資卿が眺めていた『枕絵』の美女が着けている様な薄く透き通る絹織物は唐末から宋代にかけて大流行し、平安時代頃夏の衣料として用いられた『紗(しゃ)』、または4世紀前半に中国から渡来し飛鳥時代には国産品も作られるようになった『羅(ら、うすもの)』ではないかと思います。

本邦では『単袴(ひとえはかま)』という、袴を付け単を着ただけの腕や胸の形も露わになった姿があります。

国宝『源氏物語絵巻 夕霧』で描かれている雲居雁は胸や腕が透けて見える単を羽織っています。
雲居雁が嫉妬から夕霧宛の文を取り上げる場面、源氏物語本文には雲居雁の姿については記されていませんが、『源氏物語 常夏』で登場した『羅(うすもの)』の単を着て昼寝をし、父の内大臣に「うたた寝はいけない」と叱られる雲居雁のイメージが投影されているようです。
内大臣は羅の単姿でうたた寝するのは『いとものはかなきさま(不用意な恰好)』と言い、貴族の姫君としては宜しくないと戒めたのでしょう。
あられもない姿で舞う美女を描いた絵は『枕絵』ですので、男女の営みを描いた『春画』よりもテイストが緩めのグラビアの様なものだったのかもしれません。

国宝「源氏物語絵巻」夕霧
五島美術館蔵

>なんなんでしょう。
>この藤原実資で遊ぼうコーナーは。
>『小右記』に記載のある赤痢で遊び、堅物のようで好色であったネタを仕込む。
>さらには、当時としては驚異的な90まで長生きした実資を「半分、死んでる」と言い捨てた宣孝が、後に流行病であっさりと亡くなる――そんなブラックジョークでもかましているのでしょうか。
>ニヤニヤせずには見ていられません。
(中略)
>今回なんて赤痢で苦しみ、エロ絵にニヤつき、ヒロインを鼻くそ呼ばわりして、ことごとく最悪なんですよ。
>でも、なんだかイイ。
『赤痢で遊び、堅物のようで好色であったネタを仕込む。』『後に流行病であっさりと亡くなる――そんなブラックジョーク』『赤痢で苦しみ、エロ絵にニヤつき、ヒロインを鼻くそ呼ばわりして、ことごとく最悪』
貶したいのか褒めたいのかどちらなのでしょうか。
赤痢は遊び道具ではなく、衛生状態の悪い平安時代では高熱と繰り返す下痢で強い脱水症状となり衰弱し、死に至る「疫病」として恐れられ、縁談を持ち込んだものの病状によっては命が危なく、『穢れ』として扱い忌避する宜孝公の姿を描いているのではないでしょうか。
そういう触穢禁忌を気にする貴族でも疫病にあっさり罹り儚くなる場合もあるのに『ブラックジョーク』とは。
また実資卿も若い男性であり、奥方を亡くしたばかりという事で、『後添いはいかがでしょうか』という意味での枕絵だったのではないでしょうか。
今回は実資卿の赤痢罹患でタイミングが悪く、まひろさんを鼻くそと貶していましたが。
『小右記』長和2(1013)年5月25日条では『今朝帰り来たりて云わく、去んぬる夜、女房に相逢う』と記載しこの女房のことを「越後守為時の娘」と説明しており、越後守藤原為時の娘・紫式部との縁があった事も貴重な記録として残されています。

『小右記』長和2(1013)年5月25日条

昨年の大河はポリコレやジェンダーで叩いたので、今年は是が非でも褒めなければならないと雁字搦めになり、思っていない事を言ったり支離滅裂な文章になっていませんか。

・道綱が語る妾(しょう)とのこと?

>藤原実資から「一文不通」(アホ)とコケにされていた、道長の異母兄・藤原道綱が出てきました。
11回でも書きましたが。
藤原実資卿が藤原道綱卿の事を小右記で『一文不通の人(何も知らない奴)』と評したのは寛仁3年(1019年) の事です。(作中は永延元(987)年)
長徳2年(996年)に権中納言だった実資卿を超えて道綱卿が中納言に昇進しており、大納言昇進を見送られた実資卿が除目以前に大将兼官の中納言が在任期間の長い中納言を越えて昇進した先例がない事、さらに道綱卿の大納言任官の先例が140から50年前と古過ぎ、また道綱卿の才覚が乏しい事に憤慨したという背景もあるからです。
またこの事で道長卿と東三条院(詮子さま)の専横を非難しています。

『小右記 』長徳3年(997年) 7月5日条
『小右記』  寛仁3年(1019年)6月15は日条

>道綱は道長よりも11も歳上なのにうつけだと言います。
>ずいぶんと素直に言うものですよね。
>これは道綱と道長の頭の出来というより、蔵書量の違いも大きいでしょう。
>トップエリートともなれば、最新版の宋版印刷の書籍すら手に入るほど。
>家には日記もあり、インプット量を増やして、賢くなっていくのです。

道長卿が東三条殿で酒を飲んでいます。
すると、酔った道綱卿が話しかけて来ました。
「従四位下にして貰ったのはいいが、どこに行っても相手にしてくれない。どうすればいいか」との事で、訊かれた道長卿は返事に困っています。
道綱卿は「俺は道長より11も年上だが、うつけだからな」と言います。
「自分をそのように卑下するとは」と道長卿が言います。
道綱卿は今度は、「東三条殿に行ったと言ったら母は怒るかな」と言い出します。
兼家卿は、今も寧子さまの許に通っている様です。
「知ってた」と道長卿は答えます。
「嫌な事を言ってすまぬな」と道綱卿が言い、「そのようなことで嫌にはなりませぬ」と道長卿は答えます。

『光る君へ』より
『光る君へ』より

『光る君へ』より
俺は道長より11も年上だが、うつけだからな』を額面通りにしか取れませんか。
道綱卿は庶子ながら花山院の退位の策に参加し、兼家卿が摂政になった事や母・寧子さまの後押しもあり、従四位下の官位を頂きました。
急な出世に「どこに行っても相手にしてくれない。」と気後れし、庶子で兼家卿から高い位を望むなと言われた事も引っかかっているのでしょうか。
『道長より11歳も年上なのにうつけ』と言う道綱卿は道長卿から見れば自分を必要以上に卑下している様に見えたのかもしれません。
母の過剰にも見える愛情にも感謝の気持ちがあるからこそ軽んじられるであろう嫡妻の子たちのいる『東三条殿に行ったと知ったら怒られるのでは』と思ったのでしょう。
不相応の出世に戸惑った様子で、頭の出来を競っているわけでもないのに蔵書量マウントを取ってどうするのですか。
藤原道綱卿は『知性豊かな母(寧子さま)を持つが、本人は一向に才に恵まれず、父の兼家からは、嫡妻の息子たちより格段に軽く扱われている。性格は明るくお人よしで、憎めないところもある。』というキャラなのだそうです。
道綱卿を演じる上地さんは、『妾(しょう)の息子で嫡妻の子らと比べて軽い扱いを受けてきたが、上地さんの見解は? 』という質問に『天然素材といいますか、こうやって生まれ育ったらこうなるよなっていうような人物像を描きながらやっています』と役作りの裏側を語っています。

>ちなみに藤原寧子の夫である兼家は、わざわざ寧子の家の近くまで牛車で来て、別の場所に行くような卑劣なゆさぶりを寧子に仕掛けていますから、最悪ですね。
道綱卿は「俺にも妾はいるし、それなりに大事にしているけれど、妾の側から見るとまるで足りぬのだ」と言います。
「お母上のお考えですか」と問う道長卿に、何も言わないけど見ていたら分かる。嫡妻はいつも一緒だが、妾はいつ来るか分からない男を待ち続けている。妾はつらいのだ」と道綱卿はしみじみと妾という女性の待つ身の辛さを語ります。
道長は、まひろさんに北の方になる事を要求された夜のことを思い出し「ならばどうすればいいのだ」と思案します。
道綱卿は思案する道長卿に「聞いてるか?」と尋ねました。
「聞いております」と言う道長卿の顔を、「何だよぉ。いつもしれっとしおってさあ」と袖を通して抓ります。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

『ちなみに』とわざわざ『兼家卿の寧子さまに対する卑劣なゆさぶり』とやらを書くのなら、きちんと出典を提示してはいかがでしょうか。おそらく何見氏の言う『蜻蛉日記』の該当部分です。右大将道綱母と同じく妾である『町の小路の女』が出産近くになり、縁起の良い方角を選んで、兼家卿と同じ車に一緒に乗って事もあろうに、我が家の門の前を通って行ったので、驚き呆れたという話ですね。

蜻蛉日記  上巻 (23)

・倫子の婿取りと友情?

>抜かりのない藤原兼家は、源雅信を呼び出し、道長の縁談話を進めます。
内裏の兼家卿の直盧(じきろ=内裏にあって摂関・大臣・大納言などが宿直・休息する場所)を左大臣・源雅信卿が訪れています。
兼家卿は、「道長が左大臣家の姫君をお慕いしていると申しておる」と言います。
六条の廃院でまひろさんと別れた後、道長卿は「お願いがございます」と兼家卿に言い、「左大臣家に婿入りする話を進めてほしい」と切り出していました。
「息子の願いを叶え、雅信の胸の内を知りたい」と思っている兼家卿。
「光栄だが・・・」と言い淀む雅信卿に、「これから道長にも左大臣家の婿にふさわしい地位を与えて行きますのでどうか道長にご厚情を賜りたくお願いいたします。」と言います。
俯き「その様な過分なお言葉・・・」と言う雅信卿。
兼家卿は畳みかける様に「道長にご承諾いただいたと伝えてよろしいですかな?」と尋ねます。
「ちょっとお待ちくださいませ。娘の気持ちも聞いてみませんと」と言う雅信卿に、「お力添えを賜りたい」と兼家卿は念を押すように言い、終始兼家卿ペースで縁談が進むのでした。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

>畑仕事は気持ちがいい。
>瓜も菜葉も大きくなれ!と毎日語りかけると、本当に大きくおいしく育つのだとか。
土御門邸ではしをりさまがまひろさんに、「なぜ下女に暇を出したのか」と尋ねています。
「父が官職を失ったため何もかも自分がやっている」とまひろさんが答えます。
「あ・・・でも、畑仕事もやってみると楽しゅうございますよ。野菜に大きくなれと声をかけると大きくおいしく育ちます」と言います。 
さらに「床を拭くのも板目が龍に見えたり、川の流れにように見えたりで、飽きません」と言うまひろさんに茅子さまとしをりさまは驚き呆れたような顔をしています。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

倫子さまが「板目、私も見てみましょ」と言って立ち上がったため、茅子さまとしをりさまも慌てて立ち上がります。
そして「烏帽子だ、龍だ、川の流れだ」と互いに言い合います。
赤染衛門が「おやめなさい」とやんわり諫めるも、倫子さまは「今度は瓜のようだ」と、様々なものを発見したかのように嬉しそうです。

どこかずれたことを言ってしまったとやっと気づいたのか。
帰り際、まひろさんは倫子さまに、「助けてくださってありがとうございました」と礼を述べました。
倫子さまは、「まひろさんこそ堂々としていてお見事だだった」と言います。
「これからもこの学びの会にはいらしてほしい、まひろさんがいらしてくださる様になってから、この会が大層楽しみです」と倫子さまは思っています。
まひろさんは「最初は居心地が悪いと思いましたが」と言いましたが、「ここに寄ることが癖のようになった」と言って袖を口に当てて2人は笑い合います。
『どこかずれたことを言ってしまった』というよりも父の散位により、下女に暇を出し家事を自らする自分が姫君とともに学ぶ事に居心地を悪くしていたが、倫子さまの機転や心遣いに安心したという感じではないかと思います。

『光る君へ』より

さて、野菜に大きくなれと声をかけると大きくおいしく育ちます』というまひろさんの言葉ですが、実際にさわさんが訪ねて来る直前に畑で野菜に話しかけています。以前何見氏は朝ドラ『カムカムエヴリバディ』レビューで主人公が餡子を煮る際に唱える家伝の『小豆のおまじない』を『「おいしゅうなぁれぇ〜」という薄気味悪いオカルト呪文ひとつでおいしくなるそうです。間抜けなドラマですよね。』と言って馬鹿にしていましたが、『野菜に大きくなれと声をかけるまひろさん』に関してはスルーでしょうか。

『note『カムカムエヴリバディ』第60回
 オカルト小豆煮込みで勝利』より

・雅信が娘の涙に押し負ける?

>姫君の学びの会だが、遊んでもいるらしい。そう答える雅信に対し、今日も開催中かと詰める道長、父譲りの強引さを見せてきます。
藤原道長卿が土御門邸の左大臣・源雅信卿を訪ねてきています。
雅信卿の傍らには小麻呂も座っています。
雅信卿は「左大臣さまにお届けせよと預かって参りました」と道長卿が持参した兼家卿の文を受け取り「素早いのう、摂政さまは」と言います。
道長卿は屋敷の広さと見事さを褒め、「姫たちの集まりがあると聞きました」と言います。
「娘のための学びの会だが、遊んでおるようなものらしい」と雅信卿。
「今日もやっておられるのですか?」と尋ねる道長卿に、「何故そのようなことを聞く?」と雅信は不審がっています。
そして小麻呂の鳴き声が聞こえます。
道長卿は強引に雅信卿を問い詰めるというより姫たちの集まりの様子を気にしているという感じだと思います。

『光る君へ』より

離れた御簾越しに、その様子を穆子さまと倫子さまが見ています。
「涼やかだ事」と言う穆子さま。倫子も満更ではない様子です。
兼家卿の文には『此者道長也 摂政』とあり、眼の前には道長卿がいたため、雅信卿は文の内容が「舐めておる」と溜息をつき怒っています。

『光る君へ』より
『光る君へ』より

>道長が帰ると、倫子は父に訴えます。
雅信卿が兼家卿の文に立腹していると、倫子さまが現れます。
倫子さまは「道長さまをお慕いしている、打毬の会で見て以来、夫は道長さまと決めておりました」と父に訴えます。
「そなたは猫しか興味がなかったのではないのか?」と雅信卿は驚いています。
「道長さまを慕っていました。それゆえ他の殿御の文は開きませんでした」と言う倫子さまは「道長さまをどうか自分の婿に」と父に頼み込みます。
「摂政家でなければよいのだがのう・・・」と難色を示す雅信卿。
倫子さまは「道長様を私の婿に! 一生の願いです。かなわねば自分は生涯猫しかめでませぬ」と倫子さまは父の前に座って頭を下げました。
困惑しつつ雅信卿が「道長から文が来たことがあるのか」と問うと、「いえ、自分が道長さまの目に留まっているかどうかもわからりませぬ」と答えます。
「留まったようであるがのう、摂政さまが仰せであった」と雅信卿が言うと、倫子さまは晴れやかな表情になり、「まことでございますか」と喜んでいます。
そして倫子さまは涙を流しつつ父に懇願し、雅信は「泣かんでも良いではないか」と娘を宥めながら「不承知とは言っておらぬ」と言いました。
すると穆子さまが現れ、「不承知ではないと父上が仰せになった。この話、進めていただきましょう」と倫子さまに声を掛け「夫によろしくお願いいたしますね」と念を押すように言います。
穆子さまは「良かったわねえ、倫子」と言い、雅信卿は勝手に進む話に驚いています。
倫子さまはまた涙を流し、「泣くほど好きでは仕方ないのう」と雅信卿がついに折れました。
倫子さまは泣きながら、穆子さまが抱く小麻呂の足に手を触れました。

>雅信は留まっているようだと摂政様が言っていたとか。
「留まったようであるがのう、摂政さまが仰せであった」なので、目に留まった様だと言ったのは摂政さま(兼家卿)です。
何見氏の文章の場合、『雅信は「留まっているようだと摂政様が言っていた」と言います』くらいでは。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

>倫子がかわいい雅信は、赤染衛門までつけ、入内しても恥ずかしくない姫君に育てあげてきました。
(中略)
>それなのに今までこうも粘っていたのは、愛情なのでしょう。
>倫子はとてもかわいらしい! 
>源雅信の気持ちも納得できますね。
倫子さまは、康保元年(964)に生まれ、道長卿よりも2歳年上です。
『栄花物語』巻第三「さまざまのよろこび」によれば、倫子さまは最初はは后がねとしてとして育てられていたそうです。
『栄花物語』によると、倫子と道長の結婚の経緯は道長卿が求婚したところ、源雅信卿からは、「誰があんな青二才を、婿に迎え入れるものか」と猛反対されてしまったのだそうです。
道長卿の父兼家卿は一条帝の摂政でしたが、五男(嫡妻の子としては三男)である道長卿は家の跡も継げない立場でした。
しかし、倫子さまの母・穆子さまが道長卿を「この君ただならず見ゆる君なり」と評価しました。
年齢的に一条帝に釣り合わない入内を辞めさせ、雅信卿の反対を押し切る形で二人の結婚を進めていったのだそうです。
こうして左大臣家に婿入りする事になった道長卿は宇多源氏の血統と財産、後ろ楯を得たのです。

・怨念を抱く明子女王?

>明子の父である源高明は藤原氏により失脚し、太宰府に流された。
>そんな高明に祟られてはまずいから、忘れがたみの明子を妻にして怨念を抑え込み、高貴な血を入れる。最高じゃないか!と詮子は言い出します。
>つくづく父の兼家に最も似ている姉ですね。
東三条殿に戻った道長卿は、詮子さまから「倫子さまの顔は見られたのか?左大臣の娘と言うのは悪くないけど、道長の好みなのか?」と矢継ぎ早に訊かれます。
「好みは特にない」と言う道長卿。
詮子さまは「取って置きの美女がいるが見ないか」と持ちかけます。
「えっ、今日ですか!?」と驚く道長卿。
「嫌なら無理は言わないから見てみてよ」と言い、詮子さまは安和の変で大宰府に左遷された源高明卿の一の姫である明子女王さまと対面させようとしていました。
安和の変とは、安和2年(969年)藤原氏が謀略によって醍醐天皇の子で左大臣源高明卿を失脚させ、大宰権帥(だざいのごんのそち)に左遷した他氏排斥事件です。

「この前拝見しました」と言う道長卿に、「醍醐天皇の孫である彼女を妻にする気分で見てみる様に、妻を持つなら1人も2人も同じ」と詮子さまは言います。
道長卿は明子さまに会う事にしました。
「源高明公を大宰府に追いやったのは藤原の仕業でしょ。高明公の怨念で帝や我が家に災いが起こると思うの」と話す詮子さま。
「明子女王さまと結婚する。高明公の怨念を鎮め、高貴な血を我が家に入れる。最高だ」と詮子は自分の策を自画自賛しています。
「お任せします」と言う道長卿。 
詮子さまには投げやりな言い方に聞こえた様です。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

明子さまは東三条殿の詮子さまの許を訪れていました。
詮子さまは明子さまに恭しく接しました。「なぜ優しくしてくれるのか」と訝る明子さま。「お身の上を思うにつけ、何かできないかと思っていた」と答える詮子さま。道長卿は部屋の外で待機している様でした。
そして詮子さまは道長卿について話し始めました。
「優しくて気立てがよく、兄弟の中で一番好きなのです。お世話させていただいてもよろしいですか」と言う詮子さまに、「行く当てもない身であり、お願いします」と明子さまは快諾しました。
詮子さまが御簾を上げさせるとそこに道長卿はいませんでした。

『光る君へ』より

>衣装の色もあり、スズランを思い出しました。>可憐で無力なようでいて、毒のある花です。
『ものの例え』とはいえ、日本原産のスズラン(君影草、C. keiskei)は本州中部以北(北海道の山地や高原の草地)、朝鮮半島、中国に自生する植物で、平安時代時代ではほとんど見られない植物なのではないかと思います。

この対面の頃は夏(実資卿が赤痢に罹っていたのが5月)でしょうから、『重ね色目』での卯の花襲などではないでしょうか。

>策士の兄と、復讐を誓う妹。
>おもしろいですね。
明子さまは高松殿に兄・源俊賢卿を訪ねています。
「良い話である、皇太后の後見のもと道長の妻になれば、醍醐天皇に繋がる我らにも光が当たるやも」と俊賢卿は考えています。
安和2年(969年)の安和の変では、源高明卿が藤原氏の策略によって大宰府へ流されたため俊賢卿も同行し、円融帝即位後は侍従に任官されるなどしていました。
「藤原の施しが欲しいのですか」と尋ねる明子さまに、「そなたこそ既に施しを受けている」と俊賢卿。
明子さまは、「道長と結婚すれば兼家に近づます。兼家の髪一本でも手に入れば憎き兼家を呪詛できます」と話すが、俊賢卿は「要らぬ事をするな。藤原に取り入らずして生きる道はない。お前も道長の妻になって幸せと栄達を手に入れろ」と言います。
しかし明子さまは、「自分の体や心はどうなっても良いのです。必ずや兼家の命を奪い、父上の無念を晴らします」と復讐に生きるつもりでした。
俊賢卿は策士というよりも、いくら父の仇といえど、一条帝の摂政となった兼家卿に逆らうよりも藤原家に取り入り、明子さまが道長卿の妻となる事で生き残りを図ったという感じではないでしょうか。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

因みに第1回では散楽一座が安和の変を題材に『コウメイの呪いがトウの一族を呪い苦しめる』という風刺劇をしていました。
庶民の笑いなどの場である散楽では滑稽な風刺となっていましたが、明子さまの復讐心はどうなるのでしょうか。

『光る君へ』より

・道長の覚醒と、公任の焦燥?

>道長も、彼なりに自身の進むべき道を考えていました。
まひろさんは火吹き竹を懸命に吹いて慣れない竈の火起こしをしていました。
いとさんは姫さまの慣れない火起こしの様子にはらはらし、「もうその辺で」と言います。
まひろさんはいとさんの言葉も聞こえない様で、「北の方になるなら誰でもいいの?このままあの人を失ってもいいの?」と自問自答していました。
何見氏まひろさんの自問自答はスルーでしょうか。

>そう語る道長ですが、だいぶ上達してきました。
>これ以上、上手になってしまうと道長らしくない、そんなギリギリのところを攻めてきています。
また道長卿の文字叩きでしょうか。
題字・書道指導の根本知さんによると『『御堂関白記』という日記を見ると、筆はかなり寝ているし、あまり造形を気にしないで書いている感じがあるので、朴とつとした人物だったのではないかと私は想像します。現代でいう美文字ではなくて、気骨にあふれ、気にせず自由闊達(かったつ)に書いた字が当時評価されたのではないかと、私は思っています』との事です。
作中、道長卿役の柄本さんが書く文字は独特のタッチで『道長フォント』として確立したものです。
また、藤原道長卿の日記『御堂関白記』は世界遺産であり、奈良・吉野町の金峯山寺と金峯神社が所有する藤原道長卿が奈良の吉野山に納めた自筆の経典『金峯山経塚出土紺紙金字経』は新たに国宝に指定され文化史研究上、非常に貴重だとされました。

>それにしても、藤原行成が書を指導をする場面があるなんて素晴らしいですね。
>全国の書道家が悶絶しそうな話です。
道長卿は「甘えていたのは俺だ。(まひろへの)心残りなど断ち切らなければならぬ」と心の内で呟いていました。
道長卿は四条宮で行成卿の指導のもと、仮名の手習いをしていました。
道長卿の肩越しから覗き込むように手元を見る行成卿。
「仮名は難しい」と言う道長卿。
公文書や殿方が常に使う漢文ではなく、女性が使う仮名文字で和歌を習っていたのは、今後女性の許に通う際の懸想文や教養のためでしょうか。 
そこへ斉信卿と公任卿が入って来ました。
「何してるの?」と尋ねる斉信卿に「お静かに」と言う行成卿が注意します。
公任卿は、「道長がやる気になっているのを初めて見た」と皮肉を言います。

『光る君へ』より

たしかに、気合を入れて書道場面を見ている人は多くはないと思いますし、芸能ネタにもならないし、視聴率にも繋がらないでしょう。
>しかし、作り手の誠意とプライド、そして愛情の問題です。

何見氏、眼の色を変えて政務や学問に取り組み始めた道長卿が行成卿に教えを乞い手習いをしている和歌についての解説は全く無いのですか。
視聴率や芸能ネタにばかり力を入れず行成卿の手習い指南が『作り手の誠意とプライド、愛情』だと思うならそれについて解説してはいかがでしょうか。
美術展ナビのコラムによると、画像上段の和歌は平安中期に作られた歌物語『大和物語』から、下段の和歌は『万葉集』からの出典なのだそうです。
紀貫之卿の『古今和歌集 仮名序』にはこうあります。

難波津の歌、帝の御初めなり。
安積香山のことばは、采女のたはぶれよりよみて、この二歌は、歌の父母のようにてぞ、手習う人のはじめにもしける。

意訳:
難波津の歌は仁徳天皇の御代の初めに際しての歌である。安積山の歌は采女が座興で詠んだ歌で、この2首は歌の父母のようなもので、字を習う人が初めに書く歌である

『古今和歌集 仮名序』

『難波津の歌』とは『難波津に咲くやこの花冬ごもり今は春べと咲くやこの花』という歌です。
この歌は百人一首のかるた大会などで競技の開始前に読みあげられます。
『この2首は歌の父母のようなもので、字を習う人が初めに書く歌である』とあります。
『源氏物語』5帖「若紫」にも、この歌を基にした若紫の手習いの話が出てきます。
北山で垣間見た少女を忘れられない源氏の君に対して、「難波津をだにはかばかしう続け侍らざめれば」と若紫(紫の上)は幼くて、まだ「難波津」の歌さえ満足に書けないと祖母の尼君が言います。すると源氏の君は『安積山』を踏まえて『あさか山 浅くも人を思はぬに など山の井の かけ離るらむ』と歌を送ります。
三蹟の一人・藤原行成卿視点では道長卿は手習いをする初心者なのでしょう。

『光る君へ』より

『大和物語』は身分違いの愛を描いた物語です。とある大納言の娘を垣間見た男は夜となく昼となく娘のことで心がいっぱいになり、娘を抱きあげて馬に乗せ陸奥の国の安積山(現在の福島県)まで連れていき共に暮らしはじめます。年月が過ぎ、女は水面に写る自分の様子を見たところかつての自分の姿に似ても似つかぬみすぼらしい姿になっていました。変わり果てた姿を見て女はたいそう恥ずかしく思い、『安積山 影さへ見ゆる 山の井の 浅くは人を 思ふものかは』と詠み、自ら死を選んでしまいました。そしてたいそう悲しんだ男は後を追って亡くなってしまったそうです。

安積山 影さへ見ゆる 山の井の 浅くは人を 思ふものかは

意訳:
安積山の、姿を写してみえる山の湧き水のように、わたしも夫も相手のことを浅く思ったりしているのだろうか

『大和物語』

『万葉集』の歌は『陸奥の国に派遣された葛城王が、現地の役人たちの接待が粗略で怒っていたところ、都風に洗練された娘がこの歌を歌い、機嫌が直った』という話です。

安積山 影さへ見ゆる 山の井の 浅き心を 我が思はなくに

詠み人知らず

意訳:
安積山の姿までも映し出す清らかな山の井。浅いその井のような浅はかな心で、私がお慕いしているわけはありませんのに。

『万葉集』3807

>これまでの公任は、自分より賢いものはいないという自信に満ちていました。
>傲慢でした。
>その自信に微かなヒビが入り、焦りが滲んだ顔はさらに磨きをかけたように美しい。
黄昏の中、公任卿は父・頼忠卿に、「あの道長までやる気を出しているのは、摂政家が全てを意のままにせんとしている証」と打ち明けました。
公任卿自身は「自分が一番賢く、内裏でも先頭を切って上がって行くつもりでいた」と言います。
頼忠卿は、「飾り物の太政大臣でいる事は恥をさらしているようなもの」と、引退する決意を明らかにしました。
頼忠卿は「頼んだぞ」と後を託します。
道長卿が従三位になり自身の官位を抜き、公任卿は焦っていた様です。
さらに、一条帝の即位とその外祖父である兼家卿の摂政任官に伴い頼忠卿は関白太政大臣を辞し、藤原氏の氏長者も兼家卿に移りました。
それは、公任卿の立場をますます弱める事でもありました。
「父上が居らねばますます私の立場は弱くなってしまいます。」と公任卿。
頼忠卿は「それと摂政家では道兼の懐に入っておくのがわしは良いと思うのだが」とも言いました。
「道隆殿ではないのですか?」と公任卿は怪訝そうに尋ねますが、頼忠卿は「先の帝の退位の謀の要となったのは道兼だ」と評価した様です。
「摂政も道兼を頼りにしているとわしは見る。道兼は道隆よりも若くやる気がある。道兼をそらすな」との父の言葉に「仰せのようにいたします」と答える公任卿。
その道兼卿は藤原顕光卿に対し、「例の件をよしなに、さすれば摂政様もお喜びに」と何やら頼んでいます。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

>町田啓太さんは、大河枠として山本耕史さんと比較されます。
>二人とも土方歳三を演じ、上半身を脱ぎました。
>しかし、それだけではないと私は思います。
『土方歳三』という人物を演じた共通点があるからと『脱ぎ要因』として山本さんと町田さんを比較するのはいささか乱雑でお互いの俳優さんに失礼ではないでしょうか。
山本さんが大河ドラマで脱ぐのは三谷脚本のなかでそういう立ち位置を求められるからで町田さんまで必ずしもそうではないし、打毬後の品定めは汗をかき雨に打たれて濡れた身体を拭く意味もあったかと思います。

・庚申待の夜のこと?

>道教では、人の体の中には三尸虫(さんしちゅう)がいると考えていました。
>この虫が庚申の日になると、天帝に悪事を告げに行ってしまう。
>それを防ぐために、寝ずに起きていることが庚申待ちの夜です

何見氏、ほとんどナレーションや紀行で説明された事と同じですね。

藤原為時の家には、まひろと藤原惟規、そしてさわが集まっていました。
庚申待の夜となりました。
道長卿は自邸で文をしたためています。
まひろさんの邸ではまひろさん、さわさん、惟規さまが会話をしています。
さわさんを「妹のように思う」と言うまひろさん。
「ならば俺がいなくても寂しくないな」と惟規さま。
惟規さまはさわさんに「俺に惚れても駄目だよ。姉は賢くて強くて立派だけど、俺はろくな男じゃないから」と言います。
「何を気取ってるの」とまひろさんがツッコみます。
惟規さまが厠に立っている間にさわさんは「天帝に告げられて困る罪はあるのですか」とまひろさんに尋ねます。
まひろさんは、「あるわ」と返します。
まひろさんは「母が死んだのは自分のせいであり、それで父を散々傷つけた。嘘もつき、好きな人も傷つけた」と打ち明けました。
さわさんは「たった一人文を送ってくれた、シューッとした」と言います。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

庚申待は中国の道教の伝説に基づくものです。
人間の頭と腹と足には三尸(さんし)の虫(彭侯子・彭常子・命児子)がいて、いつもその人の悪事を監視しているのだそうです。
庚申(かのえさる)の日、三尸の虫は夜の寝ている間に天に登り天帝(閻魔大王とも)に日頃の行いを報告し罪状によっては寿命が縮められたり、その人の死後に地獄・餓鬼・畜生の三悪道に堕とされると言われていました。
三尸の虫が天に登れないようにするため、この夜は村人や縁者が集まって神仏(仏教では青面金剛、神道では猿田彦神)を祀り、その後寝ずに酒盛りなどをして夜を明かしました。

青面金剛図
琵琶湖文化館蔵
猿田毘古大神
(19世紀後期画)

また、庚申待を3年18回続けた記念に建立されたのが庚申塔で、今も各地に残っているそうです。
また、いくつかの守るべき禁忌がありました。
・同衾を忌むこと(性交を行ってはいけないため)
・金属を身につける事(陰陽五行説でいうと「金(ごん)」の属性があることから)

宮中では参集の王卿や侍臣たちに酒饌を賜り、碁、詩歌管絃その他の遊びをしながらの徹夜になりました。(出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」庚申信仰より)

三尸の虫
『玉函秘典』より

余談ですが、『『栄花物語』巻第二、花山たづぬる中納言』には居貞親王(三条天皇)の母・藤原超子さまの庚申待に纏わる話があります。

超子さまは藤原兼家卿の長女で冷泉帝に入内していました。
超子さまは居貞親王他、三男一女に恵まれ従四位上の位を与えられましたが、天元5年(982年)正月の『庚申の日』に悲劇は起きました。
兼家卿の邸宅・東三条殿でも庚申待が行われていました。若い女房たちが「年の始めの庚申でございます。庚申待をなさいませ」と触れ、兼家の嫡妻の子たち(道隆卿・道兼卿・道長卿)も「面白い事だ」と参加し、夜を徹して歌を詠んだり、碁・双六の勝負をしています。
しかし、夜が明け鶏の鳴く頃、異変が起こります。
超子さまが脇息に寄りかかったまま冷たくなっていたのです。
兼家卿は娘の一大事を聞き、冷たくなった娘を抱きしめ泣きました。
僧侶たちの祈祷が行われましたが、その甲斐もなく超子さまは儚くなりました。
超子さまの死後、兼家卿の一門は庚申待を行う事はなかったと言います。

『栄花物語』巻第二、花山たづぬる中納言

>外にでた惟規が、百舌彦の存在に気付きました。
惟規さまが百舌彦さんに先に気付いたというより、屋敷の部屋の前で宿直中の乙丸が寝かかっていて百舌彦さんが木の枝を投げて乙丸を起こそうとしていた(百舌彦さん役の本多さんX参照『寝ている乙丸に投げてるのは木の枝で、はじめ「乙丸〜!」って小声で呼んでたんですが・・・』)ので用件を聞いて惟規さまは「自分が渡しておく」と文を預かったのだと思います。
屋敷の外では、百舌彦さんが居眠りしている乙丸に木の枝を投げ、起こしていました。
それを見た惟規さまが用件を聞きました。
百舌彦さんは「乙丸を呼んで欲しい」と言います。
惟規さまは百舌彦さんが文を持っているのを見て、「乙丸はしっかりやっている」と答えます。
惟規さまは百舌彦さんから乙丸への文と思い込んでいましたが、文はまひろさん宛てでした。
「あぁご苦労、渡しておこう」と言って文を受け取ります。 
しかし百舌彦さんは、惟規さまが盗み読みしないか気になっていました。
やはり惟規さまは文を見てしまいました。
文を拡げたまま、「あ~ね〜う〜え〜!道長とは誰?」と騒々しく入ってきました。
さわさんが「シューッとした人です」と言います。
「まさか道長とは三郎のことなの?まだ三郎とつきあってたの?」と惟規さまは言い、まひろさんは「返して」と取り上げようとします。
さわさんはその文を見て、「優しい文字ですね」と言い、まひろさんに渡します。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

『『源氏物語』第39帖「夕霧」』では夕霧が読む文を懸想文と思い込み嫉妬のあまり雲居雁が文を取り上げ隠してしまう場面がありますが、身内など近しい関係では文を読んでしまう、代筆をするなどあったのかもしれません。

国宝 源氏物語絵巻第39帖「夕霧」
五島美術館蔵

>道長から文をもらい、居ても立っても居られなくなったまひろ
道長卿からの文を見たまひろさんは、心の中で『妾でもいい。あの人以外の妻にはなれない』と決意を固め、一目散に走り出し六条の廃院に向かいました。

『光る君へ』より

「すまぬ。呼び立てて」と謝る道長卿に「いえ、私もお話ししたいことがございました」とまひろさんが答えます。道長卿は「左大臣家の一の姫に婿入りする事となった」と告げました。
「その事を伝えねば」と思ったため、したためた文だったのです。
まひろさんは絶句しました。
「倫子様は大らかで素晴らしい姫様です、お幸せに」と言いますが、道長卿は幸せとは思いませんでした。
「ただ地位を得て、まひろの望む世を作るべく精一杯努める」と道長卿が言うと、まひろさんは「楽しみにしている」と答えました。
道長卿は本心で『妾(しょう)でもよいと言ってくれ』と言って欲しかったのでした。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

道長卿が「お前の話とは」と訊くと、まひろさんは「道長様と私とでは辿る道がやはり違うと私は申し上げるつもりでした」と答えます。そして、「自分の生まれて来た意味を探してまいります。道長様もお健やかに」と述べて廃院を去りました。
まひろさんは『妾でもいい!あの人以外の妻にはなれない』
道長卿は『妾でもよいと言ってくれ!』とまひろさんを思いながら『左大臣家の一の姫(倫子さま)に婿入りする』
凄まじい恋のすれ違いから二人は破局を迎えました。

・道長と倫子の結婚?

>道長は、その後、左大臣家へ向かいました。
道長卿はまひろさんと別れたその足で土御門殿を訪れました。
道長卿が懸想文も寄越さず夜這いに来たと報告を受け「えっ。文も寄越さずなんて事」と言います。
結局穆子さまは「いいわ。入れておしまい。」と道長卿を邸内に入れます。

『光る君へ』より

道長卿は「無礼を承知で参りました」と御簾越しに倫子さまに挨拶しました。
道長卿が「そばに寄ってよろしいか」と尋ね、御簾をそっと手で持ち上げ部屋に入り、倫子さまの手を取りました。
すると倫子はいきなり、「道長さま、お会いしとうございました」と抱き着きました。
道長卿は崩れ落ちるかのような表情を浮かべ、それに応え一夜を過ごしました。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

これは将来、禍根を残しかねない結婚になりそうです。
>というのも、文を送っていません。
>今の倫子は恋に燃えて夢中で、そんな苦さには気づかないでしょう。
 
『文を送っていないから禍根を残しかねない結婚になる』
平安時代の結婚がどの様な手続きを経て成立するのか具体的に説明しないと道長卿の行動がどうおかしいのか分かりません。
平安時代の婚姻は男性が女性の邸宅に通う通い婚でした。
婚姻が成立するまでは、女性は人目を避けるのがたしなみで、同世代の男性が適齢期の女性と直接知り合うのは稀でした。
平安時代の貴族社会では、所謂『婿とり婚』であり、婚姻成立までに様々な作法がありました。

『源氏物語絵色紙帖 若紫 詞西洞院時直』
重要文化財
京都国立博物館蔵
『源氏物語絵色紙帖 末摘花 詞西洞院時直』
重要文化財
京都国立博物館

意中の女性を見つけるため、噂を耳にすると覗き見(垣間見)をしたりしました。『源氏物語』でも源氏の君が若紫や末摘花の姿を垣間見している場面があります。
好みの女性を見つけた男性は、その女性に懸想文といわれる恋文を贈ります。
この文は、本人の手に渡る前に乳母や女房たちによって『文章や和歌が巧みか、字は上手いか、身分や女性関係はどうか、出世の見込みはあるか、どんな性格か』などが『審査』されました。
審査を経て文は女性へ渡されます。
親の同意が得られたら女房が手引きをして、吉日の夜に男性が女性の部屋へ赴く事ができる様になり、一夜を共にした後に男性は後朝の歌(きぬぎぬのうた)を贈ります。
さらに3日間続けて女性のところに通います。
3日通うと「これからはあなたを棄てません」という誓いとなります。
3日目に行われる『露顕(ところあらわし)の儀』と『三日夜餅の儀』を経て正式に婚姻が成立します。
道長卿は懸想文の段階を飛ばし、男女の交流が憚られる庚申待の日に直接土御門邸を訪れたため、穆子さまが戸惑っていました。(摂家では庚申待は行っていない様ですが)
摂家と左大臣家の政略婚が進んでおり、兼家卿から「道長を婿に」と打診されました。
すでに道長卿の身上は左大臣家に知られており倫子さまが道長卿を是非婿にと申し出て許されある程度縁談が進んでいたのではないでしょうか。
『源氏物語』1帖「桐壺」では源氏の君と葵の上の政略結婚が行われます。
元服の儀を終えたばかりの源氏の君が葵の上の父・左大臣の邸宅に行き、『作法世にめづらしきまでもてかしづきこたえたまへり。(婿取りの儀式は世に例がないほど立派にお持て成しになった)』と三日夜の餅を経ず『露顕(=披露宴)』を行っています。

>しかし、光源氏が初めて紫の上と同衾した翌朝、彼女は泣いてなかなか起きてこられませんでした。
>初めて肌を重ねた時、彼女は心を深く傷つけられていたのです。
>塞がっていたように見えたその傷は、光源氏が女三宮という妻を迎えたことを契機に開いてしまいます。
源氏の君の嫡妻は葵の上であり、女三の宮です。いくら寵愛されていても紫の上は妾の一人でしかありません。
道長卿にとっての倫子さまは政略結婚で結ばれた嫡妻の立場です。
『源氏物語』ならば葵の上の立場です。

>こうもぐいぐいと女性が酒を飲む場面は珍しいし、吉高由里子さんは酒を飲み干す姿が似合います。
>まさしく酔芙蓉の美です。
まひろさんは気が抜けたように邸宅に戻りました。
そこでは濡れ縁に惟規さまとさわさんが座ってまひろさんの帰りを待っていました。
「飲みなよ」と勧められ、「酔ってしまうかも」と言いながらまひろさんは酒を受け取りました。
まひろさんの様子を見て「堪えずともようございますよ」と気遣い声を掛けるさわさん。
「何を偉そうに」と惟規さまが笑いますが、まひろさんは器の酒を一気に飲み干し、涙を浮かべつつ夜空を見上げました。
何見氏が例えた『酔芙蓉』は朝花が咲き、時間ごとにピンク色に花の色が変わり、夕方には萎んでしまう一日花です。
徐々にピンク色に変わる様がお酒に酔っているように見える事から名付けられたそうです。
何見氏はこの様な表現ができるのに、嫌いな作品の時は『スイカバーの妖精』なのですね。

『光る君へ』より

因みに吉高さんといえば、『花子とアン』ではヒロイン・花子さんが「ぶどうで作った薬」と言って葉山蓮子さまが勧めたワインを酒とは知らずに飲んで酔っ払う場面がありました。
花子さん自身はプロテスタントではありませんが、誘われ飲んでみたら酔って結局寝てしまうまでに至ってしまいますね。
「先輩、与謝野晶子なんて読んで気取ってんじゃないですよ!」の場面などは酔っぱらいぶりが「かわいい」と大変好評だったそうです。
『酒を飲み干す姿が似合う』はこちらもかもしれません。

『花子とアン』より
『花子とアン』より

・MVP:惟規とさわ?

>惟規はさわの家に婿入りすることもあり得るかもしれませんよね。
紫式部(まひろさん)の弟・藤原惟規さまは史実では藤原貞仲卿の娘を妻にしています。
正室に迎えた藤原貞仲女との間には嫡男の藤原貞職(さだもと)を、生母不明の藤原経任(つねとう)を授かりました。

上記でも書きましたが、為時公の妾なつめさんの娘・さわさんにはモデルになった女性がいます。
平安時代中期の武士・平維将公の娘で紫式部の親友といわれた方です。
『紫式部集』によるとさわさんのモデルになった女性は『筑紫へ行く人のむすめ』として登場しています。
二人は同時期に姉妹を亡くしており、紫式部は筑紫の君を『姉君』筑紫の君は紫式部を『中の君』と呼び合う仲でした。
やがて、筑紫の君は、父の任官に伴い筑紫の肥前国へ旅立って行きます。
『光る君へ』作中では為時公が看取った妾で高倉の女といわれたなつめさんの前夫との娘として登場しました。

>二人の母は、それぞれ妾と嫡妻としてライバルにあったけど、子同士は仲が良い。
>そういうプラスの関係の中で、マイナスの関係も見えてきているところが面白い。

為時公は世渡りがあまり上手ではなく、官職に就けず嫡妻でまひろさんの母・ちやはさまに家の事を任せ、妾のところにも足を運んでいました。
1回ではまひろさんに「なぜ父上は、家を空けて平気なの?」という問われ、「もう少し大人になればわかるわ」と答える場面がありました。
ちやはさまを演じた国仲涼子さんはこう語っています。

監督さんなどに相談したら、「暗い表情だと深刻な問題があるの?と思わせてしまうので、『何でもないよ』というくらいの明るい感じで言ってください」と言われたのですが、やはりお芝居としては難しかったですね。そこまで深く考えていなかったのかもしれない。かといって寂しくなかったかというと違う。ふとした表情などでうまく表現できればと思って、あのシーンは何テイクか撮り直しました。

2024.01.07 ステラnet 編集部

さわさんはまひろさんに導かれ為時公が慈しみ看取ったなつめさんの死に目に逢えた事で縁ができた事を喜んでいました。
父方にいて動き回る事も制限されていた事も運命と位置づけ、『まひろさまのお蔭で母にも会えた事もあるし、庭仕事をお手伝いさせてください』とまひろさん・惟規さまとも積極的に交流しています。
さわさんは『為時公の妾の娘』というより『なつめさんの娘』として関係性ができているのではないでしょうか。

・シスターフッドを描く意義?

>ゲンダイさんがこのドラマに対してチクリと嫌味を書いています。
>この記事は平安時代の曖昧な先入観で書かれています。
(中略)
>女性が歴史に参加しなかったわけではなく、後世のバイアスによって活躍が「無かったこと」にされてこなかったか?
>これが今注目されているジェンダー史です。

・下級貴族の娘のまひろ(紫式部・吉高由里子)も末席に交ぜてもらっている。天皇のひ孫の母子や女房(教育係)らと和歌を学び、イケメン殿御の噂話で盛り上がり、貝合わせや囲碁などゲームではしゃぐ。たわいないおしゃべりと口を隠した「オホホ……」が繰り返されるだけで、とくにストーリー展開に意味があるとも思えない
・女性が主人公とはいえ、天皇や公卿のやりとりは男ばかり。藤原道長(柄本佑)ら男子会の『雨夜の品定め』もあり、こうした場面とバランスをとるためにも女子会シーンは不可欠
・藤原詮子がなにかと絡んでくるのも同じ理由

日刊ゲンダイ

『出てくるのが藤原ばっかで、誰が誰だかわからなくて付いていけない』の時点で、公式HPを見れば回ごとの相関図が出てくるので記事を書くなら手間を惜しむなと言いたくなる、『チクリと嫌味』どころではない記事を提示していますが。
上記引用を見る限り『平安時代の曖昧な先入観』というよりも大河ドラマで記事を書くならきちんと平安時代の時代背景や風俗について調べ、『雨夜の品定め』についても『源氏物語』の出典元でも読んで理解を深めたらいかがでしょうかと言いたくなります。
土御門邸での姫君サロンの遊びは貝合わせや囲碁ではなく『偏つぎ』でした。(囲碁は道長卿、公任卿、斉信卿の宿直での品定め場面で打っています。)

藤原詮子さまは円融帝の女御で、一条帝の母です。皇太后に冊立され女院号の嚆矢である東三条院を称し、一条朝にあって国母として強い発言権をもち、しばしば政治に介入した女性です。

何見氏も『後世のバイアスによって活躍が「無かったこと」にされてこなかったか?』『これが今注目されているジェンダー史』と女性蔑視に繋げるだけではなく、作中で描かれた『平安時代の教養や遊び』『源氏物語での雨夜の品定めなどに描かれる女性観(+摂関政治)』『詮子さまの国母としてのあり方と史料での描かれ方』など解説してはいかがでしょうか。
今作の叩き記事は分からない故の理解の無さもあると思います。

>ゲンダイさんは打毱も、お色気サービスとして見なしていました。
畑仕事をするまひろさんを見て道長卿が『白い脛』に欲情していて情欲の虜であると述べ、『昔の日本人は大きな胸はむしろマイナス』『どこがエロチックなのか?』『昔の人は脛に煩悩が炸裂する』とまで言っている何見氏に言われたくないと思います。

大河コラムについて思ふ事~
『光る君へ』第11回~

>『西郷どん』では篤姫と本寿院の対立という、心の底からどうでもいい要素で盛り上げようとしていました。
『女同士はドロドロしているもの、あるいは女の友情は薄っぺらい。』という考えに迎合した大河ドラマとして『西郷どん』を叩き幕閣の男性同士だって十分ドロドロしていたと言いたいなら別記事を立てて論じてください。
蛇足です。

・呪詛の話をしよう?

>最近見かけない安倍晴明。
>兼家が死にそうになったら、あるいは源明子の呪詛が発動してきたら、再登場するのでしょうか。
寛和2年(986年)、作中では11回で道隆卿が、安倍晴明公に嫡男の伊周卿を引き合わせ、定子さまを紹介するに至っては「いずれ帝に入内させ、皇子を産み、我が家を盛り立ててくれる様にするので宜しく頼む」と道隆卿が晴明公に頼んでいるのですが。
12回では寛和2年(986年)から永延元年(987年)なので作中1年経っていません。

『光る君へ』より
『光る君へ』より

また、『「光る君へ」紀行 第11回』では、陰陽師・安倍晴明公縁の一条戻橋が紹介されていました。
また、『御堂関白記』にも、晴明公の名がたびたび記されており、朝廷や貴族たちの相談役として人々の信望を得ていた事が紹介されています。

>私は陰陽道の知識はありません。
>しかし、呪詛はできるような気がしてきます。
>結局のところ、人間の心理により形成される。>穢れがあると大勢が認識すれば、結果はあとでついてくるとみた。
何見氏が何が言いたいのかよく分かりませんが、『光る君へ』作中でも晴明公が『(帝の子を)呪詛すれば己の命も削ることになる』と言っていたように誰でも簡単にできるわけではないし、『人を呪わば穴二つ(人に害を加えようとして墓穴を掘る者はその報いが自分にも及び、自分の墓穴も掘らなければならなくなる事)』という言葉があるように不相応の呪詛は不幸が返るだけだと思います。

>というわけで、穢れを探ってみたところ、こんな記事が。
>昨年は、大河記事への信憑性が落ちたターニングポイントだと思っております。

>派手な戦闘シーンとやらも、火縄銃を連射したり、レーザー砲じみたSF砲撃が大坂城を吹き飛ばしていたことなんですかね。
>そういう雑なプレステ3程度のVFXは失笑されておりました。
何見氏は『どうする家康』を叩きたいあまり、新説など史料や最新研究を馬鹿にして全く読んでいないのではないでしょうか。
火縄銃に関して、『どうする家康』第2回で松平元康(家康)さまと激しい同族争いをした松平昌久公が騙し討ちを謀り『誠意を見せるため、土下座した背後からの火縄銃乱射』をしました。
「先込め式の火縄銃で連射などありえない」「たとえ別々に撃ったにせよ、地方の小豪族に過ぎない昌久に、あれだけ大量の火縄銃が調達できたとは思えない」という意見もありましたが、「宣教師ルイス・フロイスが火縄銃の普及速度に驚嘆するなどの記録も残されており、昌久が揃えていても不思議ではない」という考察もありました。
火縄銃の国産化は早くから始まっており、国友や堺などと取引もあり、その買付けの様子は『麒麟がくる』でも描かれ輸入に頼る硝石とともに高価なものと分かります。

長篠・設楽ヶ原の戦いでは、織田・徳川連合軍3000丁・武田軍1000丁といわれる鉄砲が使用されたそうです。
信長公は父以来の領地である津島や熱田を掌握し、多大な税収を得ており、堺に目を付けた事で火縄銃の火縄銃生産の拠点と資金源にしていました。
鉛玉は、長篠城近くの睦平鉛山から採掘された鉛と一致する玉の存在が明らかとなっており、元亀2年(1571年)に徳川家康公が発給した判物が現存しています。
硝石は日本ではほとんど産出せず、海外からの輸入に頼っていました。
戦国時代末期にはすでに白川郷・五箇山地方で土壌の有機物と動物の糞尿などから焔硝が作られ、一向一揆や石山合戦ではそこから作られた火薬が使われていました。

所謂種子島銃は一度発射してから次の弾を撃つまでに20~30秒ほど掛かり、当時の火縄銃の有効射程は約50~100mであったので、30秒もあれば、敵軍が鉄砲隊の眼前に迫ることは可能でした。
織田信長公が考案したとされる火縄銃の戦術「三段撃ち」で織田・徳川連合軍の圧勝に終わったとされてきましたが、『甫庵信長記』以前の史料には三段撃ちと解釈できる記述がないそうです。
雑賀衆や根来衆では、鉄砲を射手ひとりにつき数挺あてがい、数人の助手を付け射手が撃っている最中に、助手が新たな銃に火薬と弾丸を装填する方法を用いていました。

連合軍3万8000人は設楽ヶ原に陣を構え、土塁と馬防柵を作り迎撃しました。
別動隊により、鳶ヶ巣山砦など長篠城を囲む5つの砦すべてを攻略し挟撃態勢を作ります。
弾薬が装填でき次第、空いたところに各自が入っていく『先着順自由連射』だと平均3秒で射つことができ、突破されないようです。
連射ではなく、『先着順自由連射』です。
山県昌景公、馬場信春公ら武田の宿老たちは勝頼公の退却を助けるため、次々と銃弾に倒れました。

『長篠合戦図屏風』
犬山城白帝文庫所蔵

大坂冬の陣では、徳川方が英国人の三浦按針(ウィリアム・アダムス)経由で英国から買い付けた『カルバリン砲』2門他、多くの大筒が使われました。 
カルバリン砲は英国がスペイン無敵艦隊を破るアルマダ海戦でも使われ、大坂冬の陣では14kgの砲弾を6.3kmも飛ばしたと考えられています。
命中精度はそれほど高くなく、砲弾は金属の塊で、爆発することはなかったものの、カルバリン砲をはじめとする大筒は大坂城めがけて昼夜を問わず撃ち込まれ、絶え間ない砲撃に豊臣方の疲労は募りました。
ついには砲弾が本丸を直撃。
淀殿の侍女8名が亡くなる悲劇が起き、和睦へと動きました。

>この手の「昨年大河はすごかった!」と言い張る層に、私なりにまとめた「すごいリスト」を作りました。
この後延々と一項目『どうする家康』を誹謗中傷交えて叩きのめしに躍起になっていますが。
私怨もあるでしょうが、他人の大河ドラマ批判(どちらかといえばネガティブ方面)さえ気に入らず叩き続ける。
はっきり言ってその執着が狂気です。
「ニコライ・バーグマン」は相当な穢れだそうです。
これは関係者でもない実在企業に対する誹謗中傷になっていると思います。

>この記事の問題点は、穢れである昨年を持ち上げようとした結果、祟りに当たった。
>そうオカルトとして片付けても良いのですが、奥底にある心理を探ると、ある結論に達します。
何見氏、オカルト好きなんでしょうか。
日本史上の信仰心や風習、宗教観や死生観などに理解を示さず、『オカルト』『カルト宗教』と見做し、叩き続けますし。
『どうする家康』を『穢れ』と称するなら平安貴族の様に穢れから離れてはいかがでしょうか。
思い出したくない嫌いなものは積極的に関わるのではなく、離れるものだと思います。

>ゲンダイさんと同じく、読者のおじさんのミソジニーに迎合したいのですね。
>ドラマの内容について見ていないとわかる出鱈目が並んでいても、大河ドラマをダシにして女を叩いてスッキリする。
>女が好きそうなドラマは難易度も低くてくだらないから、本を読みながらでも鑑賞できると見下したい。
(中略)
>ともかく女脚本家、女主演だから貶したいという欲求が先に出ているのでしょう。
(中略)
>女の考えること。
>女の歴史。
>女の作った物語。
>女が喜ぶもの。
>そんなものには何の価値もないと小馬鹿にしたい。
>タピオカをやたらと叩くおじさんと同じ心理ですね。
『光る君へ』をきちんと評価した記事は全く引用せず、『女が好きそうなドラマは難易度も低くてくだらない』『女脚本家、女主演は貶されるもの、』『女の考えること。女の歴史。女の作った物語。女が喜ぶもの。そんなものには何の価値もないと小馬鹿にしたい。』
結局女性をダシにした被害妄想と責任転嫁ですね。
女性を馬鹿にして貶めているのはどちらでしょうか。


※何かを見た氏は貼っておりませんでしたが、今年もNHKにお礼のメールサイトのリンクを貼っておきます。
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