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大河コラムについて思ふ事~『光る君へ』第8回~

2月下旬になりました。気温も暖かくなってきました。もうすぐ3月です。
まだまだ気温の変化が激しい日々ですので皆様健康には充分お気を付けください。
さて、光る君へ第8回。
今週も『武将ジャパン』大河ドラマコラムについて書かせていただきます。
太字が何かを見たさんの言質です。
御手隙の方に読んでいただければと思います。それでは。


・初めに

>母を刺殺した道兼の前で琵琶を弾くまひろ
>――あまりにも辛いシーンに目をそらしたくなった
フェミを騙りながら女性はエロしか興味が無いとでも言う様なおじさん視点の開陳と漢籍マウントしかしないのなら、ずっと目を逸らしていてもよいのですが。

>寛和元年(985年)、藤原道長は打毱を見ていたまひろのことを思い出しています。
>まひろも、颯爽と馬を操り杖を振るっていた道長の姿を頭に浮かべながら決意を固めます。
寛和元(986)年。
夜、道長卿とまひろさんがそれぞれの邸宅でお互いを思いながら上弦の月を眺めています。
まひろさんは、心の中で「もう、あの人への思いは断ち切れたのだから」と言い決意を新たにしています。
脚本担当・大石静先生のブログによると、まひろさんと道長卿が同じ月を見上げたり、運命が大きく動く時に月が印象的に表現されているのだそうです。
曰く『毎回、このドラマの内容や状況に合わせて、月を特別のカメラで撮影している』との事です。

何見氏、7回と同じく『颯爽と馬を操り杖を振るっていた』とありますが、『打毬』の毬を掬う道具の事を毬杖(きゅうじょう)といいます。

毬杖
https://kotobank.jp/word/%E6%AF%AC%E6%9D%96-51090
打毬図
中尾松榮 万延元年(1860年)
和歌山市立博物館

余談ですが風俗考証・佐多芳彦氏によると、打毬の競技中に道長卿たちが揃いで着ていた装束は狩衣ではなく『水干』なのだそうです。
水干は糊を使わず板の上で水張りにして干し、乾燥させ張りを持たせた布で仕立てた衣です。
庶民の装束の他、平安時代以降下級官人や武家が平服として着用する様になりました。
色を合わせた水干は観客の姫君たちへの敬意を表しているそうです。
左近衛(さこのえ)が『青』、右近衛(うこのえ)が『緑』という色分けで、馬が跳ね上げる泥を除けるための行縢(むかばき)を太腿部分に付けています。
球技でチームごとにユニフォームを揃え、その選手たちの活躍を女性たちが客席で観戦して楽しんでいるという感じだったのでしょう。

『光る君へ』より

・心の中は己だけのもの?

>姫君たちは公任推しか、道長推しか、斉信推しか、それぞれ盛り上がっています。
>なんでも公任はおとなしかったとか。
これが彼らしいところで、当人たちは公任の策によって勝ったと振り返っています。
>派手さのない知将タイプのようです。
何見氏は下級貴族の女性二人を上位貴族の男性があれこれ品定めをし、本人が聞いてしまうという場面には「トランプ前大統領のロッカールームの男子の様な女性軽視の性的発言は許されない」と引き合いに出し、下劣トーク・ロッカールームトークと言っていました。
『これぞ女性向け大河だと言わんばかりの反応があるが脱ぐ公任を見て、まだときめいていられるかどうか』と中途半端に褒めてるのか叩きたいのか分からない言及をしていましたが、女性たちの『品定め』には『盛り上がっている』だけで済ますのですか。
嫌いな大河なら女性さえ『うるさい』『陽キャの祭り』『辛い』と叩き、『ジェンダーが~!ルッキズムが~!』『中国ではこう!海外では許されない!アップデートができていない』とポリコレ論争を繰り広げるのではないですか。

大河コラムについて思ふ事~
『光る君へ』7回より
大河コラムについて思ふ事~
『光る君へ』7回より

まひろさんは左大臣家へ足を運びました。
小麻呂は無事に保護され倫子さまの元に戻ったようです。
鼻を啜っているまひろさんに「風邪ですか?」と赤染衛門が声を掛けます。
「打毬の時雨に打たれたからだ」と赤染衛門が言いますが、茅子さまが「打毬が素晴らしくて心が熱くなっていたので、濡れても平気でした」と答えます。

『光る君へ』より

ここで赤染衛門と姫君たちが好みの殿方を語る『品定め』が始まります。
茅子さまが「公任さまが素晴らしい」と褒め、しをりさまは「道長さまが良い」と言います。
倫子さまが「あの日の公任さまはおとなしかった」と言います。
「やはり倫子さまも道長さまね」と言うしをりさまに倫子さまは笑顔を見せます。
倫子さまは道長卿に惚れた様です。
赤染衛門は「道長さまと息ぴったりの公達がいらしたけれど、あの方はどなた?」と尋ねます。
どうやら直秀が好みの様です。
「はあ・・・猛々しくもお美しい公達でしたわ。」と語る赤染衛門に、倫子さまが「人妻なのにそんな事を言って」とツッコみます。
しかし、赤染衛門は「人妻であろうとも心の中は己だけのものにございますもの。そういう自在さがあればこそ人は生き生きと生きられるのです。」と言います。
姫君たちは笑い声をあげますが、まひろさんは『心の中は己だけのもので自在さがあれば生き生きとしていられる』と言う赤染衛門の言葉に驚いた様子ですが、思う所があった様です。

>そんな中、赤染衛門はちょっと違う。
>道長の弟が、猛々しく美しいとコメントしている。
>姫君たちが「人妻なのにいいのか」とざわついています。
「はあ・・・猛々しくもお美しい公達でしたわ。」とうっとり語る赤染衛門に「衛門ったら、人妻なのにそんな事を言って」とツッコミを入れたのは倫子さまで、他の姫君は「人妻であろうとも心の中は己だけのもの」と言う赤染衛門の言葉に笑い声あげただけですね。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

>彼女たちにも処世術はあります。
>直秀のような身分の低い男と結ばれても先はないし、そんな男とどこか遠くへ逃げるような度胸もないから、あえて見落とすようにしたのかもしれませんよ。
そもそも直秀は表向きは人の扱いを受けぬ様な散楽一座の一員として暮らしており、打毬の欠員を補うべく道長卿に頼まれて欠員補充に入っただけで、『最下層の平民であり盗賊である』という事情を知らない赤染衛門と姫君たちは『道長卿の弟(かもしれない)』という情報しか知らないでしょう。
仮に直秀が下級貴族だとしても、左大臣家に出入りするような身分の姫君ならば、身分の釣り合わぬ殿方と駆け落ちの様な真似をしたらどうなるか分かっていると思います。
だからこそ赤染衛門の様に『心の中は己だけのもの』と線引きができているのではないでしょうか。
余談ですが、『伊勢物語』では在原業平卿と藤原高子(ふじわらのたかいこ)さまの恋が題材にされています。
在原業平卿の祖父は平城天皇、父は阿保親王という血筋でした。
業平卿は美男の誉れが高く女性遍歴も派手な方でした。
しかし、父が政争に敗れ左遷。業平卿も出世コースから外れてしまいます。
一方、藤原高子さまは清和天皇の后がね(お后候補)として東五条院で暮らし蝶よ花よと育てられていました。
そんな高子さまの許に業平卿は忍び込み、足繁く通いました。
ある時駆け落ちを決意し屋敷を抜け出しますが、失敗してしまいます。
藤原家にとっては后がねを誑かされるのだからたまったものではありません。
二人の事は宮中を揺るがすスキャンダルだったようです。
その後、高子さまは別邸に移され清和天皇のもとに入内し、在原業平卿は東国へと旅に出ます。
『伊勢物語』では高子さまの兄に取り戻されてしまった事が悔しくて『女は鬼に喰われてしまった』と言っています。

『伊勢物語』芥川

>人妻であろうとも、心の中は己だけのもの、そういう自在さがあればこそ、生き生きとしていられる。
>そう言い切りました!
>いいですね。
>まるで推し活を語る令和にもビシビシと響く言葉です。
>しかし、まひろは聞いてしまった……
>男どものゲスなロッカールームトークを。
女性に対しては『品定め』も推し活、男性に対してはゲスなロッカールームトーク。
ジェンダーやポリコレ価値観をすぐ出してくる割に男女で扱いが違うのはなぜでしょうか。
因みに、赤染衛門は文章博士・大江匡衡公と結婚しており、おしどり夫婦として知られています。
『紫式部日記』では仲睦まじさから『匡衡衛門』と呼ばれたそうです。

『紫式部日記』

>光源氏はなかなかサイテーな男ではありますが、彼もいったん情をかけた相手は捨てませんからね。
>そういうタイプかもしれませんよ。
>公任みたいなタイプって、情を軽視しすぎていますからね。
>ものごとをスムーズに進めるうえで、歯車に引っかかる砂粒程度にしか思っていない。
公任卿曰く、『大事なのは恋愛ではなく良家の姫に婿として入り女子(子供)を作って入内させ家の繁栄を守り次代に繋ぐ事』であり、嫡妻になる女性は家柄が求められます。
斉信卿も『(身分の低い)ききょうも遊び相手』とはっきり言っています。
公任卿は関白・藤原頼忠卿の嫡男、斉信卿は大納言・藤原為光卿の嫡男です。
個人の感情よりも跡継ぎとしての立ち振る舞いや御家の利になる縁談を優先されるのは平安時代には常ではないでしょうか。
『源氏物語』では源氏の君の嫡妻は政略結婚で結ばれた左大臣家の姫君である『葵の上』です。
後の女性は優遇されていると言っても『妾・愛人』です。
愛人の六条御息所は気位の高い方で物事を思い詰めすぎるため、持て余した源氏の君は足が遠退いてしまいました。
『源氏物語』「葵」の車争いの場面では、源氏の君が参加している賀茂祭の行列見物に出かけた懐妊中の葵の上と六条御息所の車争い(牛車の場所取り)が起こり、六条御息所の車は葵の上の従者たちに乱暴を働かれて強引に立ち退かされます。
そうしているうちに源氏の君の行列が通りますが、正妻の車に心遣いをして通るため、六条御息所は惨めな気持ちになり、以来彼女は『生霊』となって葵の上を祟る事になります。
葵の上の死後、源氏の君は六条院という四季を模した屋敷を造営し、妻や妾たちを住まわせますが、情をかけても相性が合わなかったり甲斐性が無ければそれまでになるのではないでしょうか。

源氏物語絵色紙帖 葵
京都国立博物館所蔵
重要文化財

・直秀は“兄上”の屋敷が知りたい?

>行成は体を使うのが苦手だから、いなかったことがよかったのかも、と謙遜しています。
>いつも控えめですね。
その頃東三条殿では、F4と直秀が酒宴を開いていました。
直秀は烏帽子に狩衣の貴公子姿です。
「行成の腹痛のおかげで道長の弟に会えた、如何にもやり手であったぞ」と藤原斉信卿が直秀の肩に手をやって言います。
そして腹痛で打毬に不参加だった行成卿が直秀に「その折はありがとうございました」とお礼を言います。
「行成が来ていたら負けていたやも知れぬ」と斉信卿が言い、行成卿も体を使うのは苦手と認めています。
謙遜と言うよりも行成卿は父を早くに亡くし、漢学に造詣が深く紀伝道(大学寮で教えられる歴史学)の学者である外祖父・源保光卿に養育され教育を受けたため運動は苦手と言う設定なのではないでしょうか。

『光る君へ』より

>疑いつつ探る道長もなかなかのものですが、敢えて敵の中に飛び込む直秀も大したものです。
>緊張感が高まります。
直秀は道長卿を「兄上」と呼びます。
「自分は母の身分が低いので、このようなお屋敷は生まれて初めてです。是非お屋敷の中を案内してください」と直秀が言います。
斉信卿は「東三条殿は広い。東宮の母君の詮子様も時々お下がりになる。酒の後案内して貰え。」と打毬の毬を直秀に投げます。
公任卿は直秀が笑顔を見せた事を喜んでいます。
道長卿は直秀が盗みに入った夜、彼の腕を矢で射抜いた事を気にしていました。
皆が下がり、道長卿と直秀は2人きりになります。
邸内を案内しながら「ここは誰もおらぬ。兄上はやめておけ」と道長卿が言いますが、直秀は「西門の他にも通用門はあるのか?」と尋ねます。
訝しがって理由を訊く道長卿に直秀は「ただ広いなと思っただけだ」と答えます。
「今日は別人のようだ」と言う道長卿に、直秀は「俺は芸人だぞ。何にだって化けるんだ」と笑いながら言います。
さらに道長卿は矢傷について訊きますが、直秀は「散楽の稽古でしくじった」と答えます。
「矢傷に見える」と道長卿に言われると、「小枝が刺さった。我ながら情けない」と直秀は言います。
今度は直秀が「東宮の母君のご在所はどこか?」と訊きます。
何見氏は『東宮様の御座所はどこかと言い出す直秀』と書いていますが、『東宮の母君のご在所』です。
おそらく斉信卿の『東宮の母君の詮子様も時々お下がりになる』を聞いての事でしょう。
「藤原を嘲笑いながらなぜ興味を持つのか」と疑問を投げかける道長卿に対し、直秀は「よく知れば、より嘲笑えるからな」と答え道長卿に毬を投げます。
直秀にとっては嘲笑の対象の貴族たちや右大臣家も人間観察の対象だったのでしょう。
道長卿は口角を上げ、毬を直秀に投げ返します。
このキャッチボールの様な場面、直秀役の毎熊さんによると『台本にはなかったのですが僕が柄本さんに毬を投げたんです。そうしたら柄本さんが投げ返してくれて、直秀と道長には不思議な友情があるなあと。立場や身分の差はあれど、毬を返してくれたのがすごく意外で嬉しかった。』との事です。

『光る君へ』より
『光る君へ』より

・都の中にいるなんて、籠の中の鳥だ?

>散楽の稽古を見ながら、まひろは直秀がなぜ打毱に出たのか尋ねています。
>頼まれたからだとそっけなく返しながら、まひろを気遣う直秀。
>彼は、まひろがロッカールームから走り去る後ろ姿を見ていました。
平安時代なのだから『ロッカールーム』ではなく『控え』など時代に即した表現できませんか。
散楽一座では一座の者たちが稽古をしており、まひろさんが直秀を訪ねてききており、「なぜ打毬に出たのか」と尋ねています。
直秀は「やつらを知るためだ」と答えます。
直秀は散楽に活かすつもりなのでしょう。
直秀は、「あいつらのくだらない話を聞いただろう」と『品定め』の事をまひろさんに尋ねます。
「あの時お前が走って行くのを見た」と直秀は走り去るまひろさんを目撃していた事を告げると、まひろさんは「どうでもいい」と答えます。
「俺もどうでもいい」と直秀も言います。
散楽一座は都を去るつもりでいるそうです。
驚くまひろさんに「人はいずれ別れる定めだ。嘆く事はない。都の外は面白いぞ」と直秀は言います。
「直秀は都の外を知っているの?」とまひろさんが尋ねます。
直秀は丹後や播磨や筑紫で暮らした事があるそうです。
「都の外はどんなところ?」とまひろさんがさらに尋ね、「海がある」と直秀が答えるとまひろさんは「海? 見たことないわ」と言います。
「海の向こうには彼の国がある。晴れた日は海の向こうに彼の国の陸地が見える。海には漁師がおり、山にはきこりがおり、彼の国と商いをする商人もいる。」と海の向こうの様子を語ります。
「都のお偉方はここが一番とふんぞり返っているが、所詮都は山に囲まれた鳥籠だ」と直秀は言います。
直秀は「その鳥籠を出て、山を越えて行く」のだそうです。
そして「一緒に行くか」とまひろさんを誘います。
「行っちゃおうかな」と言うまひろさんに「ふふっ、行かねえよな」と直秀は笑います。
まひろさんは目を輝かせながらも迷っているようです。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

>晴れた日には彼の国の陸地が見えると続ける直秀。
>彼の国とは「唐」(から・中国大陸)と「高麗」(こま・朝鮮半島)のこと。
>おそらく対馬でも見たのでしょう。
『彼』を検索すると『遠称。話し手、相手の両者から離れた物や人をさし示す(代名詞)』とあります。(精選版 日本国語大辞典)
『彼』は、単に距離の隔たりを示すだけでなく『敬称』のニュアンスもあるそうです。
御仏の住まう西方極楽浄土の事を別名『彼岸』と言います。
『阿弥陀経』には『彼の仏』『彼の国』と言う言葉が出てくるそうです。

直秀の言う『海の向こうの彼の国』とは日本から見て西方にある陸地、すなわち中国大陸や高麗を指していると思います。(平安時代中期での中国の王朝は『北宋』)
余談ですが。
古代より外国使節の宿泊・接待などのための施設である『鴻臚館(こうろかん)』が外交上の要衝である大宰府、難波、そして都に置かれていました。
京の鴻臚館は渤海国使の接待用でしたが10世紀半ば同国の滅亡により廃絶されます。難波の鴻臚館では西海道(筑前・筑後・豊前・豊後・肥前・肥後・日向・薩摩・大隅・壱岐・対馬の9国2島)から入京する外国使節用で9世紀以降来日が少なくなると摂津国府に代用されました。
大宰府の鴻臚館では蕃客(来朝している外国人)や遣唐使らの宿舎でしたが、遣唐使の廃止後は大陸からの商人の接待をする迎賓館の役割をし、外国人の検問や外国との貿易などを担いました。
11世紀末まで存続し、1987年福岡市の平和台球場付近から遺構が検出されました。
何見氏は『晴れた日には彼の国の陸地が見える』直秀のセリフについて『おそらく対馬でも見たのでしょう。』と言っていますが、対馬海峡や玄界灘を隔てた『高麗』でも比較的近い巨済島(コジェ)でも直秀が住んでいたという筑紫から陸地をから見るのは無理があるので、貿易商人などから対馬から見た半島の様子を聞いたのを伝聞しているのではないでしょうか。

高麗後期の五道両界
小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
Googleマップ

鴻臚館
(財)京都市埋蔵文化財研究所・京都市考古資料館
https://www.kyoto-arc.or.jp/news/leaflet/067.pdf

(財)京都市埋蔵文化財研究所・京都市考古資料館

>当時、都の人にとって、そこから離れることは絶望的とされました。
>確かに出世レースから脱落してしまう。
>それでも、案外、気分転換になったのかもしれません。
>日本中世史を考える上でも重要に思えます。
何見氏は『日本中世史』と言っていますが、時代区分としては平安時代は中世ではなく『古代』です。

1 各々の時代像 - 九州歴史資料館
https://kyureki.jp/wp-content/uploads/2021/03/publish_commentary_kaisetu15.pdf

九州歴史資料館

まひろさんは幼少期に小鳥の世話をしていて母のちやはさまから「一度飼われた鳥は外の世界では生きられない」と言われていましたが、海を見た事がある直秀に言わせれば貴族が権勢を振るう都はそこでしか生きられない人たちが住む山で隔絶された『鳥籠』の様なのでしょう。
上級貴族が権勢を振るう都では確かに出世レースに明け暮れていますが、四位・五位止まり下級貴族である諸大夫(四位でも参議に任ぜられている者は公卿であるため除く)は『受領(ずりょう)』として現地に赴任して租税収取や軍事など行政を請け負う様になります。
国司とは、守(長官)、介(次官)、掾(判官)、目(主典)の四等官と、史生からなりました。
史生は、各官司におかれた公文書作成に携わる職員です。
任国に行かず、 都にいたまま代理人だけを派遣する事を『遙任』といいます。
国司は中央へ確実に租税を上納する代わりに、自由かつ強力に国内を支配する権利を得ました。
受領国司の中には任国で権力を笠に着て勝手な徴税をして訴えられる者もいました。
永延2年(988)、年尾張国の郡司・百姓らが『尾張国郡司百姓等解文』という31か条の訴状を朝廷に提出し、国司・藤原元命(ふじわらのもとなが)卿を訴えた例もあります。

>こういう役割の人物を「オリキャラ」だのなんだの貶す意見もありますが、正史に対する庶民目線の稗史(はいし)も重要なはず。
何見氏は『どうする家康』レビューでは、作中オリキャラである阿月さんが主人のお市様に代わり浅井長政公の裏切りを伝えるために小谷城から金ヶ崎まで走るというエピソードについて、「脇役を目立たせたことで松本潤さんが怒った」と週間文春しか上げない信憑性のない記事を鵜吞みにし、勝手に妄想して中傷していましたが。
『鳥居強右衛門のインパクトが低下する』『脚本家は自慢げに阿月マラソンについて語っている』『「史実を尊重しないから叩かれている」と言い募っているがつまらない。くだらない。幼稚で陳腐。』と叩いていました。
直秀が正史に対する庶民目線ならば、阿月さんの様な一人の侍女の目線で見る戦国大名も大事なのではないですか。

大河コラムについて思ふ事
『どうする家康』総論より

>先日、驚いたことがあります。
>昆布とはアイヌ語ルーツだと読んだ人が、激怒して日本伝統だと主張していたのです。
>昆布は蝦夷との交易品であり、そのことをむしろ昔の人は自慢していました。
『昆布』がアイヌ語由来とされる事は語源の一つですが、具体的に提起した方が説得力があると思います。
平安時代、海藻類は布のように薄く幅広い事から「め(布)」と表記されました。
『本草和名』に「昆布、一名綸布。和名比呂女、一名衣比須女」とある様に特に昆布はその幅が広い事から「ひろめ(広布)」と呼ばれ、蝦夷(北海道)で獲れるので「えびすめ(夷布)」とも呼ばれていました。
『昆布』の語源には諸説あり、『漢名「昆布」の音読みであるとする説』と『アイヌ語で昆布を指す kompu (コンプ)の音訳とする説』があるそうです。
アイヌ人がコンプと呼び、これが中国に入って、再び『昆布』という外来語として日本に逆輸入されたと言われています。
日本では『正倉院文書』や『続日本紀(797年)』に「霊亀元(715)年十月、蝦夷の酋長である須賀君古麻比留は朝廷に対して先祖以来、昆布を献上し続けていると報告した」と確認でき、中国の本草書『呉普本草(3世紀前半)』まで遡る事ができるそうです。
奈良時代には昆布が主要交易品目で珍重されていたそうです。(因みに中国で『昆布』はワカメの事なのだとか。)
鎌倉時代以降、精進料理が普及し蝦夷と越前(敦賀)・若狭(小浜)を結ぶ日本海航路により蝦夷地の昆布は京に運ばれるようになりました。

・猫にしか興味がなかった倫子が!?

>ちなみにこれは「佐殿」であり、唐名(とうみょう)は「武衛」ですから、2022年の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の源頼朝でお馴染みですね。
>平安京の中ではまだまだパッとしないけれど、都の外ではすごい人という扱いになります。
関白・藤原頼忠卿が左大臣・源雅信卿、右大臣・藤原兼家卿と内々の酒宴を開いています。
帝が藤原義懐卿を従二位・権中納言にする意向であるそうで「年末には宣旨が下るであろう」と頼忠卿が言います。
「帝は頼忠殿を追いやり、義懐を関白になさるおつもりですぞ」と兼家卿が言うので頼忠卿は「もう終わりだ」と弱気になっています。
兼家卿が頼忠卿を励まし、義懐卿に好き勝手をさせない事で一致し「三人で手を組めばよい」と結束を固めます。
そこで兼家卿は、道長卿の倫子への婿入りを提案しました。
道長はまだ身分が低いため「藤原道長はまだ従五位下・右兵衛権佐だぞ」と雅信卿は話に乗りたがりません。
因みに源頼朝公は13歳で従五位下・右兵衛権佐(唐名・武衛)に任ぜられており、任を解かれ流された伊豆でも『佐殿(すけどの)』の通称で呼ばれ、『吾妻鑑』では元暦2年に従二位に昇るまでの間『武衛』の記述があります。
道長卿就いている官職『右兵衛権佐』は内裏の警護や行幸・行啓の供奉(ぐぶ)などを担当する兵衛府のうち『右兵衛』の武官です。(右よりも左の方が上位)
『佐』は兵衛府の次官に当たり、『権』は仮または副という意味です。
『右兵衛所属の武官で次官心得』という事でしょうか。
道長卿の官位は従五位下でこれは清涼殿の殿上間への昇殿を許された殿上人の最低ラインであり、道長卿はまだ昇殿を許されていなかったようです。
宇多天皇の血を引き、自身も従一位・左大臣である雅信卿は娘と釣り合いが取れていないと思っているのでしょう。
『栄花物語』によれば、初め雅信卿は摂関家の子息と言えど、上に正室出生の同母兄が2人いるため道長卿の出世は望みが薄く、倫子さまよりも2歳年下のため相手にならないとしていたそうです。
穆子さまは年下すぎる帝に入内させ皇子を産むよりも右大臣家の子息である道長卿の出世の方がまだ可能性があると主張したのだそうです。

山武の世界史
https://yamatake19.exblog.jp/20286699/
『光る君へ』より

>確かに兼家はなぁ。
>道綱母の藤原寧子が、兼家のつれなさを詠んだ歌がバッチリ出回っていますからね。
>娘があんな歌を詠むかもしれないと思うと、そりゃ嫌ですよ。

妻の穆子さまは「右大臣家の三男なら偉くおなりになる」と言いますが、義懐卿たちが力を持てばそれもどうなるか分からず、雅信卿は右大臣家を好きではありません。
「公任なら考えなくもない」という雅信卿。
穆子さまは「見目麗しく目から鼻に抜ける賢さで、女子にも大層まめである」という点では同意しますが、「そういう遊びが過ぎる殿御は倫子が寂しい思いをしそうで、私は嫌です」と言います。
文脈から『遊びが過ぎる殿御』は公任卿の事を指していると思います。
何見氏は夫のつれなさを嘆く藤原寧子さまを引き合いに出し、さも兼家卿と結ばれる様な言い方をしていますが、倫子さまには道長卿との縁談が持ち上がっているのです。
左大臣家に婿入りする予定があるのは道長卿です。
また、雅信卿が懸念しているのは道長卿の低い官位官職のみです。

>柄本佑さんの使い方が見事なこの作品。
>道長って、パッとみたら冴えない。
>いわば淡い色の翡翠ですね。
>水晶のように澄み切った公任とはどこか違う。
登場人物の中で公任卿を引き合いに出しているのは左大臣夫妻ですが、穆子さまによって『遊びが過ぎる殿御は娘が寂しがりそうだ』と一蹴されています。
何見氏が公任卿推しなのはいいですが、彼を上げるために『パッとみたら冴えない』などと道長卿を下げる様な言い方はどうかと思います。
そもそも公任卿は縁談に関係ないのですが。

>穆子はかわいい嫉妬ができる女性ですね。
>『鎌倉殿の13人』の政子は、金剛力士像顔になって頼朝に怒っておりました。
>ああいうのは怖い。
雅信卿は、「道長が打毬で大層騒がれていた」と、赤染衛門が言っていたと話します。
穆子さまが「赤染衛門と2人で話していたのですか?」と尋ね、雅信卿は狼狽えながら「廊下で会えば話くらいする」と答えます。
穆子さまのやきもちで本題を外れたものの、『道長卿の婿入り』については「右大臣のがつがつした風が嫌いだ。父親を見れば息子たちもおのずと分かる。詮子さまとてそっくりだ」と雅信卿がまた愚痴っています。
さて、穆子さまの嫉妬は夫と赤染衛門が打毬の事で会話を交わした事について話したかどうか確認した程度です。
『鎌倉殿の13人』での政子さんの頼朝公に対しての怒りは懐妊中に亀の前さんと浮気をして御家人の邸宅で囲っており、後妻打ちを慣行します。
これは妾を持つ許可も無かったため、正妻としてないがしろにされた事からの怒りです。
また、これには父・北条時政公も頼朝公の態度に怒り伊豆に下がっています。
会話した疑惑よりも実際に正妻の許しを得ず浮気をしていた事の方が怒りが強いのは当たり前では。

『鎌倉殿の13人』より

>こんな顔をさせた時点で道長は有罪なので、さっさと婿になりましょう。
>まひろと結ばれて欲しい気持ちもないわけではありませんが、この倫子を見てしまうと難しい。
>まひろは書く楽しみもあるし、ここはもう、倫子でよいのではありません?
>ついでにいうと、雅信も穆子もかわいいですね。
>小麻呂も言うまでもない。
>ドロドロした右大臣家が嫌だというのは理解できますとも。
>あちらは全員可愛げがありませんから。
「右大臣のひな型などこの家に入れたくない」と言う雅信卿。
そこへ小麻呂を捜している倫子さまが現れます。
小麻呂を追いかける娘に穆子さまは「猫にしか興味がないのか。」と呆れています。
そして「今、道長殿を貴女の婿にどうかと、父上と話していたところです。」と言います。
嬉しそうな表情を浮かべる倫子さまに、雅信卿は「その満更でもない顔は何だ?!」と突っ込みます。
「そのような顔などしておりませぬ」と自室に下がった倫子さま。
彼女の脳裏を道長卿が過り「道長さま・・・」と呟きます。
ここまでの本作は道長卿を巡るまひろさんと倫子さま、身分差や官位の釣り合い、左大臣・右大臣両家の政略による婿入り画策、初恋の人との純愛の行方を楽しむ物語だと思います。
それを『さっさと婿になれ、まひろは書く楽しみがあるから倫子に渡せ、右大臣家は可愛げが無い』と持論を押し付けてくる。
結論をさっさと出してほしいのでしょうけど少々乱暴すぎると思います。
人の恋路を見届ける風情もありません。

『光る君へ』より

・右大臣兼家 倒れる?

>世を治める為政者とは、天から選ばれている。
>それに背けば帝に禍が及ぶかもしれない。
>そんな東洋の考え方です。
寛和2年(986年)。
藤原義懐卿は「帝よりのお達しである」として「陣定(じんのさだめ)を当分開かないことになった」と告げます。
『陣定』とは平安時代摂関期の朝議の形式のひとつで、現代の「閣議」のようなものです。
左右近衛府の陣に公卿の座を設定し、大臣以下の公卿と四位の参議以上の議政官が出席して外交・財政・叙位・受領任命・改元などの重要な政務が審議されました。
どよめく公卿たちを余所に義懐卿は「帝の政についての決定に異論がある者は、書面で申し上げる様に」と言い「よい意見と判断すれば上奏する」と加えます。
「誰の判断だ」と言う関白・頼忠卿に対し、「お声が聞こえませぬ」ととぼける義懐卿。
兼家卿が「権中納言義懐、勘違いが過ぎるぞ!」と言い、雅信卿が「帝がそのようなことをお考えなさるはずがない」と同調します。
義懐卿が「帝の叡慮に背くは不忠の極み!」と言うと、兼家卿が立ち上がり、「どちらが不忠だ!帝のご発議も陣定にて議論するは古来の習わし。時に帝も誤りを犯される、それをお諫めせぬのでは天の意に背く政で世が乱れかねない!」と持論を述べます。
「帝がお分かりにならぬとあれば、なぜそなたがお諫めせぬのだ!」と兼家卿が言います。

>彗星や白虹貫日(日暈)がその証とされ、こうした考えを【天譴論】と呼びますが、日本では関東大震災時の渋沢栄一による誤用が広まってしまいました。
>大河ドラマの主役に選ばれた人物であろうと、過ちは犯すのでそうそう信じてはならないという悪例です。
>ご注意ください。

『彗星』は日本では『日本書紀』の天武13年秋7月に「壬申に彗星西北に出づ。長さ丈余」という記術があり、平安時代には彗星の記録が増え陰陽師たちが業務として観測し天変の記録を書き記しました。
作中よりも後年ですが、永延3年(989年)のハレー彗星出現永延から永祚へ改元が行われます。
彗星は正体が分からなかった事から「疫病などの厄災の前触れ」と言われました。(なお『天狗』はもともと中国では凶事を知らせる流星の意味でした)
『白虹貫日』とは白い虹が太陽を貫く現象の事で太陽を君主、白い蛇(虹)は兵の事で、『白虹貫日』は、「心が天に伝わる事。君主に危害が加えられる前兆、革命の起きる前兆。」を意味します。
太陽の周りに光の輪が発生する日暈・ハロ現象や幻日環の事なのだそうです。

『『天譴論(てんけいろん)』は本来、『天の咎め。 天帝が、不届きな者に下す咎め』の事です。
近現代日本の大災害では、短絡的に、腐敗・堕落した世間・世相に対する天罰といった意味で用いられます。
民俗学者の畑中章宏氏によると、『天譴論の中身は人によって違いがあるが、総じて「関東大震災は国民が一丸となって世界の1等国になることを目指してきた維新以来の精神を忘れ、自分さえよければいい、と金や情欲におぼれてしまったことに対する天罰だ」と主張し、立ち直るには維新以来の精神を再び取り戻すことが重要だ』と言っています。
渋沢栄一氏は社会正義のための道徳と利潤を追求する経済活動は両立できるという『道徳経済合一説』を説き、関東大震災後には『大震災善後会』を作り義援金を集め、臨時の病院を設けるなど被災者に寄り添い復興にも携わっているのですが、それでも『過ち』と言えるでしょうか。

今までの慣習では帝のお考えを臣下まで降ろし、『陣定』で公卿が重要な政務を審議する仕組みだったものを、帝の裁定のみで決定しようとしているため義懐卿がお諫めしないのなら天意に背くので頼忠卿、雅信卿と共に「帝をお諫めに参る」と兼家卿が言ったのですが、『近現代日本の大災害に対する天譴論』は平安時代の価値観に関係があるでしょうか。

>「これより帝をお諌めに参る!」と、関白、左大臣に宣言すると、義懐が止めようとします。
>するとことで、兼家が派手に倒れてしまいました。
『するとことで』は『するとここで』でしょうか。
頼忠卿、雅信卿と共に「帝をお諫めに参る」と「御不例にて」と止めに入る義懐卿を突き飛ばした兼家卿はその場に崩れ落ち倒れてしまいます。
雅信卿が「いかがなされた!」と声を掛けています。
急な病でその場に倒れ意識が無い状態の人を見て『派手に倒れる』とは?
明らかに平時と違う状況で倒れている人に向かって『派手』とは言わないでしょう。

『光る君へ』より

>藤原道隆が手立てはないか?と聞けば「魂が去らぬよう呼びかけるのがよい」とのことです。
>中国の『礼記』にも記載がある風習ですね。
兼家卿が倒れた一報を聞き、花山帝は「右大臣めいい気味じゃ、目の上のたん瘤が無くなった」とお喜びで、「これは天の助けにございます」と義懐卿も嬉しそうです。
為時公だけが複雑な表情をしています。
「天の助けじゃ」とはしゃぐ帝に、藤原惟成卿は「そのような心をお見せになりませぬ様に」と進言します。
帝は「わかっておる。きっと忯子が助けてくれたのじゃ」と仰います。
兼家卿は東三条殿に運ばれ、薬師が呼ばれます。
「毒を盛られた様子は無いが、このままではお命が危うい。皆様で魂が去らぬよう呼び返されるのがよろしい。」と薬師が言います。
兼家卿は道兼卿を使って円融帝に毒を盛った経緯がある様に、恨みから誰かに毒を盛られる可能性もあったという事でしょうか。
道隆卿、道兼卿、道長卿の三兄弟は「父上、父上、父上」と呼びかけます。
何見氏は『中国の『礼記』にも記載がある風習』と言いますが、具体的にどの様な風習なのか書かなければ伝わらないと思います。
三兄弟が行っていたのは『魂(たま)呼び』といい、死の前後に行う招魂呪術です。
霊魂信仰では霊肉そろって初めて人は生きており、霊魂が肉体から遊離してふたたび戻ってこない状態を死と考えられていました。
したがって息を引き取った直後に霊魂を呼び戻せば、蘇える可能性があるとされ、中国古代の『礼記』の記述や室町時代の公家の日記などにも『魂よばひ』が多く出ています。(小学館 日本大百科全書(ニッポニカ))

『礼記』(礼運篇)

日本でも枕元で呼ぶ、屋根に登って呼ぶ、井戸の底に向かって呼ぶなどの方法がありました。
本作に近い時期での『魂呼び』の例では『小右記』などに記述がある藤原道長卿の娘で後冷泉帝の母・嬉子さまの臨終時の例です。

『小右記』
万寿二年(1025年) 八月七日 条
『光る君へ』より

三兄弟が『魂呼び』をしているところへ詮子さまも姿を見せました。
嫡男である道隆卿は、「父の代理を務める事になる」と言います。
道兼卿と道長卿は承諾しますが、詮子さまが「兄上は義懐に追い越されて参議にもなっていないから、父上に死なれたら困りますね」と嫌味の様に言います。
「それは詮子だって同じだ」と道隆卿。
父・兼家卿が身罷れば東宮・懐仁親王の後ろ盾を失う事になり、詮子さまとて穏やかではないと道隆卿は言いたいのでしょう。
道隆卿が「帝や義懐一派が増長すれば、ご即位とて危うくなる。」と詮子さまを諭し、道兼卿も「我ら4人力を合わせる時」と言います。
道長卿は黙っています。
詮子さまは「自分にも東宮にも源の人々がついておる故、父上に万が一があっても大事は無い。源雅信は東宮と私に忠誠を誓っておる。道長の左大臣家への婿入りも進めようと思っていた。」と言います。
道長卿は驚いていますが構わず、詮子さまは兄弟たちに源と手を組む様言います。
「さすればこの場は凌げる。左大臣の動きを今少し見てから文を書きます。」と詮子さまが言います。
そして、「文は貴方が土御門殿に届ける様に」と道長卿に命じました。
道隆卿は「まずは父を回復させなければならない」と安倍晴明公を呼ぶ様、弟たちに命じました。

『光る君へ』より

・晴明が呼び出したものは…?

>ここからは平安中期らしい祈祷の場面です。
遅参に文句を言われながらも東三条殿の兼家卿の寝所に出向いた晴明公は、入室するなり「うわあ・・・障気が・・・障気が強すぎる。何も見えない」と穏やかではない事を言います。

『光る君へ』より

本作陰陽道指導の高橋圭也氏のXのポストによると病気の原因を悪霊のせいとし、護法童子を召喚して憑坐(よりまし)という巫女に悪霊を移す『阿尾奢法(あびしゃほう)』と呼ばれる術があるそうです。
『憑祈祷(よりきとう)』とも呼ばれ、江戸時代ごろまでは一般的な病気平癒の術なのだそうです。
清少納言も『「枕草子」すさまじきもの』の中で憑祈祷の様子を記述しています。

『枕草子』すさまじきもの

晴明公は道隆卿たち兄弟を退出させて病の原因を占い始めます。
屋内では密教僧の加持祈祷が始まり真言が唱えられる中、兄弟が共に手を合わせています。

『光る君へ』より

屋敷の庭では屋敷を背に祭壇が組まれ、晴明公たち陰陽師による『泰山府君祭』が執り行われています。
『泰山府君祭』とは中国の泰山に住まい人間の生死、寿命、官位および死後の審判を司る神・泰山府君を祀る陰陽道の祭祀です。
『小右記』永祚元年(989年) 2月11日条には宮中で晴明公が泰山府君祭を執り行った事が記述されています。

『光る君へ』より
『小右記』
永祚元年(989年) 二月十一日条

『今昔物語』には晴明公が師と病の身代わりを申し出た弟子の命を交換する『泰山府君祭』祈祷を行い、師弟共に助かる話があるそうです。
これが鎌倉時代頃に師と病の身代わりを申し出た僧・証空の代わりとなって不動明王が冥府へと赴く『泣不動縁起絵巻』となったのだそうです。

重要文化財『泣不動縁起絵巻』
京都国立博物館寄託

僧侶の祈祷中に憑坐が倒れます。
憑依された憑坐は「命を返せ・・・子を・・・子を返せ!子を・・・」と口にします。
そして「お前の名は」と尋ねると『よしこ』と名乗ります。
僧が「弘徽殿の女御様か!」と気付き、一同が驚愕します。
さらに『忯子さま』の憑いた憑坐は病床の兼家卿に「返せ!」と詰め寄り、道長卿を組み伏せようとします。
その時、庭で晴明公が指を鳴らすと憑坐は鎮まりました。
道長卿が「忯子さまの霊が父に取りついたのはなぜか、何かご存知ではないのか」と尋ねます。
「父上はそんなつもりではなかった。お腹のお子さえ流れればよかった。その事を晴明に命じたら、忯子さままでお亡くなりになった。恐ろしい事だ」と道隆卿の顔は蒼白になり、すっかり恐れ慄いて道兼卿に励まされています。
何見氏は『すっかり恐れ慄く兼家の息子たち。』と言っていますが、道長卿は霊が憑りついた理由を兄に聞き、恐れ慄く道隆卿や励ます道兼卿とは別の方向を向いて何か考えています。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

余談ですが。
晴明公が指を弾く仕草は、『弾指(だんし・たんじ)』と言います。
仏教の言葉で許諾、歓喜、警告、入室の合図などを表し、曲げた人差し指を親指の腹で弾き、親指を中指の横腹に当てるそうです。
排斥や災厄の除去の方法で転じて仲間外れにされる意味の『爪弾き』の語源になりました。

>亡き忯子を思い、涙するほかありません。
>精神状態がますます悪化しているようです。
内裏では帝が東三条殿の祈祷について晴明公にお尋ねになり、晴明公は「亡き忯子さまの霊が兼家卿に憑りついておりました」と答えます。
帝は「それはまさか忯子が成仏できていないという事か?」と驚かれます。
理由をお尋ねになる帝に晴明公は「恐らくは右大臣さまを恨むあまり・・・」と答えます。
義懐卿が晴明公に「右大臣が忯子さまを呪詛し、お命を奪ったという事か」と尋ね、晴明公は「それはわかりませぬ」と答えます。
帝は忯子さまを憐れみ涙を流し「死ね、死ね、死ね、右大臣!」と叫ばれます。
「そのようなお言葉は、忯子さまをますますこの世にお引き止めすることになります」と晴明公が諫めます。
『精神状態がますます悪化』とありますが、愛する忯子さまが兼家卿の呪詛によって儚くなり気を落とされていたところになおも恨みに縛られて成仏できないとお聞きになり、怒りと悲しみで相手を罵ってしまうのは仕方のない事では。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

・右大臣家と為時?

>「知らない方がいいでしょ、苦労なんて」
>どこまでも愚かなことを口走る惟規
為時公の屋敷では惟規さまが「右大臣と手を切っておいてよかったですね。父上。」と喜んでいますが為時公がそれを諫めます。
「あの時東宮の漢学指南の役を頂かなければ、お前たちだって飢え死にしていたかも知れないのだ」と為時公が言いますが、惟規さまは「飢え死になんて・・・そんな大げさでしょう」と言います。
まひろさんはいとさんと共に「幼過ぎて父と母の苦労を知らなかったのだ」と呆れながら言いますが、惟規さまは「知らない方がいいでしょう。苦労なんて」とあっけらかんとしたものです。
惟規さまは愚かと言うよりも、父が毎年の除目で官職を得られず、母が着物を売り下男下女に暇乞いされた事も幼かったために知らず、為時公が御役目を頂いた時点で元服したため『苦労なんてしない方がいい』という楽観的な考えに至ったのではないでしょうか。
為時公は、「右大臣は恐ろしいところもあったが、何より政の名手であった。関白頼忠さまや左大臣雅信さまではそうは行かない。」と評します。
また、義懐卿については「義懐さまも同じでこちらは帝のご寵愛をいい事に横暴が過ぎる。右大臣を追い詰めたのは義懐さまである」と言います。
惟規さまは「同情しても右大臣は倒れたんだし、権中納言の義懐さまと仲良くした方がいいですよ」といい、まひろさんに同意を求めますが、まひろさんは「父はこんな争いに巻き込まれるのを好まず、学問で身を立てたいだけ」と言います。
惟規さまは父や姉に似ず学問嫌いな事を分かっている様で「本当に父上の子なのかな」と言いながらその場を去ります。
為時公は、「宮中の書庫(ふみぐら)の整理を主な仕事にしよう」と言い、まひろさんは「内裏のことはわからないが、政での争いは似合わない」と答えます。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

>しかし、藤原道兼が一人残り、いざ兼家の枕元に近寄ると、カッと目を見開く。
>倒れ続けていたのは芝居だったということでしょう。
>そこには何かしら思惑なり、策がありそうで……。
東三条殿では道長卿が父・兼家の枕元で「父上は我々をどこに導こうとしておられるのか。我らの行く先はどこなのであるか。生き延びてその答えを教えてほしい」と呟いています。
詮子さまと東宮さまも寄り添っています。
ある晩、道兼卿が床に就いたままの兼家卿の手を取ったところ、兼家卿が目をはっきりと開けている事に気付き驚きます。
『藤原道兼が一人残り』とありますが、道兼卿は一人残ったわけではなく、道長卿や詮子さまが見舞った時とは別の時間軸だと思います。
兼家卿は道兼卿をあくまで道具として使おうとしているのでしょう。
策を授けるために2人になる時を待っていたのかもしれません。
安倍晴明公を使って祈祷を執り行い「忯子さまが取り憑いた」と帝に奏上させ自分に憎しみを向けたのち、道兼卿を使おうという目論見なのでしょう。

『光る君へ』より
『光る君へ』より

>驚く為時が、右大臣兼家の様子を尋ねると、ほとんど寝ていると返答する道兼。
ある日の事。
為時公が書庫(ふみぐら)で仕事中、道兼卿が入ってきて「ご苦労である」と声を掛けます。
為時公が兼家卿の病状を尋ねると、「時折正気付くが殆ど眠っている。見通しは暗い」と答えます。
『ほとんど寝ている』だけでなく『見通しは暗い』と言う見立てまで言ってほしいのですが。
道兼卿は「為時には父が世話になった」と礼を言い、為時公も「私の方こそ」と返します。
さらに道兼卿は「蔵人所の仕事が終わったので手伝う」と言います。
為時公は「ご看病に帰られませ」と気遣いますが、道兼卿は「父は私の顔を見ると嫌がるからいいいのだ」と言います。
為時公は手伝おうと手を伸ばした道兼卿の袖の下の腕が痣だらけな事に気付きます。
理由を訊くと「父にやられた。昨夜も一時正気付いて、その時に。」と道兼卿は答えます。
「小さい時から可愛がられたことはなく、殴られたり蹴られたりしておった。兄も弟もかわいがられておったのに・・・」と悲しげな表情をする道兼卿。
その鬱憤を弱き者を虐げる方向で晴らそうとし、道長卿を虐めたりちやはさまへの殺意に向いたのでしょうけども。
「病に倒れ、生死の境をさまよいつつ私を嫌っておる」と病床の父に嫌われ折檻された事を告白する道兼卿に為時公は「お辛い事ですね」と共感します。
さらに「私はどこでも嫌われる、蔵人の務めとして帝のお側に上がっても、右大臣の子というだけで遠ざけられる」と道兼卿は続けます。
そして「邪魔をした」と書庫を去る道兼卿を為時公は不憫そうに見送ります。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

・道兼の来訪?

>琵琶を弾くまひろ。
>弦を弾くたびに、母の姿が思い浮かびます。
>ここはかなり貴重な場面です。
為時公が屋敷に戻るといとさんが青ざめた顔で出迎えます。
「誰か来ておるのか?」と為時公が訊くと、いとさんは人目を憚る様に酒を持参した道兼さまが来て為時公と飲みたいと言っている旨を伝えます。
その時まひろさんと乙丸が戻ってきました。
鉢合わせを避けるため「今少し外にいる様に」と為時公は言います。
「為時殿!」と声を掛ける道兼卿を為時公は恭しく出迎えます。
しかし、道真似今日は目敏くまひろさんを見付け「ご息女か?」と訊きます。
まひろさんは道兼卿の顔を見て、『信じられない』と言わんばかりの表情になり屋敷の中へ走り去ると母の形見の琵琶を見つめます。
道兼卿は酒を飲み、「ああ・・・そうか。息子はもうすぐ大学か。大変じゃな。為時殿の息子なら聡明であろうから、心配は要らぬか」と大学寮へ入る惟規さまを気遣います。
「それがさっぱり」と為時公が答え、道兼卿が酒を注ぐのを断ります。
道兼卿は「つまらぬな、せっかく尋ねて参ったのに」と言います。
そこへまひろさんが琵琶を持って現れます。
「このようなことしかできませぬが、お耳汚しに」と琵琶を奏で始めます。
まひろさんは琵琶を奏でながら母・ちやはさまの姿を思い出しています。
弦を下から上に弾くと風のざわめきが起こり、まひろさんは真っすぐ前を見据えなおも琵琶を弾きます。
最期の時と同じ山道を歩く壺装束に市女笠のちやはさまの後ろ姿がまひろさんの脳裏に浮かび、風の音がヒュウヒュウと起こり、道兼卿とまひろさん、そして為時公のいる空間の空気が張り詰めていきます。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

>雅楽の琵琶は他の楽器との合奏が多いため、進化した後世のものとはかなり違います。
>中国琵琶や薩摩琵琶は縦に持ち、弦も増え、単独で弾き語りをし、かなりスピード感もあります。
>けれども雅楽の琵琶は四弦でかなりゆったりしている
日本の琵琶には大きく2種類あります。
1つは雅楽の合奏に用いられる『楽琵琶』、もう1つは盲目の僧・琵琶法師によって九州地方を中心に宗教音楽の伴奏として用いられたやや小ぶりの『盲僧琵琶(もうそうびわ)』です。
盲僧琵琶は後に平家一族の栄枯盛衰を語る『平曲』に用いられ、『平家琵琶』『薩摩琵琶』『筑前琵琶』となっていきます。

【楽琵琶】

【盲僧琵琶】

まひろさんの母・ちやはさまの形見である琵琶は『楽琵琶』と呼ばれるものの様です。
『楽琵琶』は雅楽の管絃と謡物に用いられ、四弦で楽座(胡坐の一種)で座り、楽器を水平に構え、撥(ばち)で弦を掻くという奏法です。
ササン朝ペルシャ(今のイラン)から、シルクロードを通って中国に伝えられ後漢の時代に雅楽に取り入れられた絃楽器です。
5回でも書きましたが、平安時代の琵琶の名器と言えば『玄象』でしょうか。
この『玄象』はまるで生き物の様で弾きこなせなければ、腹を立てて鳴らず、塵が付いてそれを拭い去らない時にも、腹を立てて鳴らないなど機嫌の良し悪しが分かったそうです。
そして内裏が焼失した時にも、人が取り出さずとも、玄象はひとりでに庭に出ていたのだそうです。

>「見事ではないか。身体中に響き渡った。琵琶は誰に習った?」
>感心してそう語る道兼は、素直というか、気障ったらしいことを言わない性質なのでしょう。
道兼卿は父兼家の権謀術数により為時公の動向を探るため訪問したのでしょう。
道兼卿は自分のために供された音楽が素晴らしく、心を動かされたのでしょうか目を潤ませています。
道兼卿は「見事ではないか、体中に響き渡った」と褒めます。
さらに道兼卿はまひろさんに「琵琶は誰に習った?」と尋ねます。
「母に習いました」とまひろさん。
道兼卿が「母御は如何された?」と尋ね、為時公の顔に緊張が走ります。
「母は・・・7年前に身罷りました。」とまひろさん。
道兼卿はなおも「それは気の毒であったな。ご病気か?」と踏み込んできます。
まひろさんは「はい」と答えます。
為時公といとさんは、安堵の表情を浮かべています。
「失礼いたしました」とまひろさんが部屋を下がります。
「麗しいが不愛想じゃな」と言う道兼卿に詫びる為時公。

>まひろの母が七年も前に身罷ったならば、いとは為時の実質的な妾だと道兼は思ったのかもしれません。
道兼卿がいとさんにも声を掛けますが、「お捨て置きくださいませ」と為時公が言います。
道兼卿は事情を知らないのでいとさんを新しい伴侶と思ったのかもしれませんが、彼女は惟規さまの乳母なので為時公は「お捨て置きくださいませ」と言ったのではないでしょうか。
道兼卿は手酌しながら「楽しく飲もうと思うたが・・・ハハ、真面目な家じゃ」と笑い、為時公は辛そうにその様子を見ています。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

まひろさんは自室で「一族の罪を詫びる、許してくれ」と言った六条の廃院での道長卿を思い出しています。
あの時の道長卿はまひろさんが「兄はそのようなことをする人ではないと言わないの?」と訊くと「まひろの言うことを信じる」と答えました。
為時公がまひろさんに道兼卿が帰った事を告げ「すまなかった」と頭を下げます。
詫びる父にまひろさんは「なぜお詫びなされるのですか?」と尋ね、「よく辛抱してくれた」と為時公が答えます。
まひろさんは「私は道兼を許す事はありません。されどあの男に自分の気持ちを振り回されるのはもう嫌なのです。それだけにございます。」と言います。
まひろさんは赤染衛門の『心の中は己だけのもの。そういう自在さがあればこそ人は生き生きと生きられる。』という生き方に影響を受けたのかもしれません。

『光る君へ』より
『光る君へ』より

余談ですが。『源氏物語』第13帖「明石」では、明石に流れ着いた源氏の君に対して受領・明石入道が娘・明石の上と娶せる場面があります。播磨国の受領・明石入道は『明石一族の誰かが天皇の母になる』という住吉明神のお告げを深く信仰し、娘の明石の上に貴族の子女にも劣らないあらゆる教養を身に付けさせ、品格と奥ゆかしさを持つ女性に育てました。
京の貴族男性に娘を嫁がせる良い機会を伺っていた明石入道の許に、朝廷を追われ須磨に流れてきた源氏の君が、高潮と落雷に見舞われた後、彼の父・桐壺帝の『船で須磨船でを去りなさい』というお告げに従い明石に移ってきました。
初夏のある夜、明石入道は光源氏に、娘・明石上を嫁入りさせたいと申し出ます。
源氏の君は明石の上と文を通わせ、明石の上は源氏の君と結ばれ懐妊します。
その後、朱雀帝からの宣旨が下り、源氏の君は京へ戻ります。
出発の日、源氏の君は明石の上に得意の琴を弾いてもらう事にし、素晴らしい音色に感動し、明石の上に自分の琴(きん)の琴を預けます。
まひろさんにとって道兼卿は母の仇・不倶戴天の敵ですが、源氏の君に目通りする明石の上のオマージュではないでしょうか。

まひろが淡々と答えると、鳥籠から小鳥が出ているのが映ります。
>まひろは恩讐という籠から飛び立つ気持ちがあるのかもしれません。
>籠は右大臣家で、小鳥はまひろの運命でしょうか。

7年前、誤って小鳥を放して以来空になった鳥籠に、鳥が止まっています。
何見氏は『まひろが淡々と答えると、鳥籠から小鳥が出ているのが映ります。』と言っていますが、幼い時分に誤って飼っていた小鳥を放して以来、鳥籠は空になっていたので、止まっている鳥は鳥籠から出たものではなく外から飛んできた野鳥ですね。

・地獄に堕ちるのは誰だ??

>「病に倒れてもお前を殴るのか! 地獄に堕ちるな右大臣は、はははは!」
>高笑いする花山天皇ですが、そのころ右大臣兼家は地獄に堕ちるどころか、目を覚ましていました。
兼家卿はただ御前に上がっただけではなく、蔵人の仕事として文を持ってきていますので具体的に書いた方が分かりやすいかと思います。
内裏では蔵人として近侍する道兼卿が文を盆に載せて現れます。
「右大臣の子ではないか、近づくな」と花山帝が仰り、義懐卿も「早く去れ」と言います。
為時公が盆を受け取り、道兼卿は御前から下がります。
為時公は帝に「恐れながら・・・道兼はさま右大臣さまの子ながら右大臣さまには疎まれておいでです。」と伝えます。
「父とうまく行っていないのか?」とお尋ねになる帝に「打ち据えられた傷さえございます」と為時公が答えます。
帝は笑みを浮かべられ、「面白いのう。義懐、呼び戻せ」と再度道兼卿をお召しになります。
帝は道兼卿の両腕の痣をご覧になり、病に倒れてもお前を殴るのか?地獄に堕ちるな、右大臣は」と道兼卿に同情しつつ、兼家卿の地獄堕ちをお笑いになります。
しかしその頃東三条殿では兼家卿がはっきりと目を覚ましていました。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

まひろさんは夜空にかかる上弦の月を見ていました。
その頃東三条殿でも道長卿が同じ月を見ていましたが、黒雲が月に掛かってしまいます。
屋敷がにわかに騒がしくなり、盗賊が入ったとの事でした。
右大臣家に仕える武士たちによって盗賊は取り押さえられ、「盗賊を取り押さえましてございます。」と道長卿の前に引き出されてきました。
首領の覆面の布を剥いだところ、その男は直秀だったのです。
直秀は一度逃げたものの仲間を見捨てられず捕まったのでした。
道長卿は弟分の様な直秀がが賊として捕まった事で徐々に悔しさと驚愕と悲しみが混じり、表情が歪んでいきます。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

・MVP:安倍晴明?

>中国の人とこんなことを話していまして。
正直言って『マックの女子高生』『ハイキング中のドイツ人』『ボストンの12歳の少年』論法に近く、信憑性に欠けるのですが。

>日本の軍師といえば黒田官兵衛あたりでしょうか。
>しかし諸葛孔明とは違う。
>呪術的なモノを駆使するといえば誰か?
>というと安倍晴明が割と近いのではないかと思いました。
日本に於ける諸葛亮の様な呪術を駆使する軍師のような存在という事で安倍晴明公を引用したのでしょうけど、黄巾の乱やら三国志やら果ては華流ドラマの話しかしていないのですが、陰陽道がどういうものか安倍晴明公がどのような人物かなどは掘り下げないのですね。

>一方で「伝説盛り過ぎでしょ」というツッコミもあります。
>それを割り引いても凄い人物だったとなればどうなるのか――
>昨今のドラマはそういうアプローチから取り組まれています。
「伝説盛り過ぎでしょ」とありますが、安倍晴明公にどんな伝説があるか具体的に史料リンクを貼ったり説明するなどした方がよいと思いますが。
『伝説盛り過ぎ』ではどんな伝説があるのか分かりません。
古代の中国から伝わった陰陽五行説や易、道教などの知識をもとに、日本の律令体制のなかで陰陽道が体系化されていきました。
陰陽師は官人として陰陽寮に出仕し、天の星々の動きを読み吉凶を占ったり暦を作成するなどの業務の他、朝廷の宮中祭祀や貴族の私的な祭儀に係わる事もあり、生活に於いて頼られる存在でもありました。
安倍晴明公は平安時代に実在した陰陽師ですが、母親は『信太の狐・葛の葉狐』であったとか、烏の声を聞きその意味を知ることができたといった伝承も生まれ、『今昔物語』や『泣不動縁起絵巻』などの中で泰山府君を祀り、人の寿命を左右するなどの力を発揮する事もありました。
作中のユースケ・サンタマリアさん演じる晴明公はファンタジー作品の様に式神を使役するわけではありませんし朝廷に仕える官人陰陽師の職務を遂行する夜勤の多い公務員の様な属性もあります。
しかし、卜占や呪術の儀式を行い巧みな話術などで人の心を手玉に取る事で伝説に見られる様な陰陽道の術を操りそうな神秘性も持ち合わせた俗人ではないかなと思います。

>晴明が意図して忯子を殺したとは思いません。
>けれども発想を切り替えればよい。
>忯子が死ねば花山天皇の精神状態は悪化する。
>そうなれば陰陽師の出番も必然的に増える。
>そこで策を用いることができるのであれば、掌中で玉を転がすように何でもできるのではないか?

また『光る君へ』作中の様に依頼を受けて呪詛をすることもあったでしょう。
お腹の子に加え、母である忯子さままでもが亡くなってしまった(平安時代の妊娠・出産は命がけであり、必ずしも呪詛が効いたからとはいえませんが)事に対し、「やり過ぎだ。」と兼家卿から責められますが、晴明公は「腹の子が死すれば皇子の誕生はなくなり、女御様もろとも死すれば帝は政を投げ出されるか、再び女にうつつを抜かされるかで、どちらにしても右大臣様には吉と出ます。この国にも吉兆です。」と反論しています。
加えて、晴明公は「政をなすは人、安倍晴明の仕事は政をなす人の命運をも操ります。」と断言しています。
「女御のお腹の子を呪詛しろ」と依頼を受け、公卿の総意だと脅しをかけられながらも晴明公は「畏れ多くも帝のお子を呪詛し奉るとなれば我が命も削らねばなりません。我が命が終わればこの国の未来も閉ざされましょう」と言い、呪詛返しを仄めかしています。
晴明公は『人を呪わば穴二つ』を強調し、『呪詛の相手が亡くなっても呪詛を頼んだ側にも罪がある。廃そうとした側から恨まれいつか報いがくる』と依頼者に認識してもらうための人心掌握術を持ち合わせているのだと思います。

・頭を挙げ空しく羨ましむ榜中の名?

>今週、ききょう(清少納言)は出てきませんでした。
>彼女が得意げな顔をして持ち出してきそうな漢詩に注目してみたい。
(中略)
>ききょうがこう説明したあと、まひろならば暗い顔で続けるであろう詩があります。
漢籍マウントは良いですが一行ごとに『白文』と『書き下し分』と『意訳』を色を変えて並べられるのは、詩の持つ趣を壊している様に思いますが。
あと見づらいです。

『打毬作』魚玄機

 >不辞宛転長随手(宛転(えんてん)して 長く手に随(したが)うを辞せず)
何見氏は『リフティングするみたいに』と訳していますが、『宛轉(てん 』は『ゆるやかに弧を描いて転がる様』を言います。
打毬もポロも、毬杖(マレット)で毬を掬い取る様に打ち毬門(ゴール)に入れるというルールです。

『遊崇眞觀南樓覩新及第題名處』
魚玄機

>森鴎外の短編小説においてその生涯が描かれました。
唐代の女流詩人・魚玄機の数奇な生涯と運命をつらつらと解説するのはいいですが、『森鴎外の短編小説に於いてその生涯が描かれた』というのなら森鴎外の小説から漢詩を引用してきているのですよね。
小説の抜粋も併せてリンクを貼るなり紹介しないのはなぜでしょうか。

>例えば、こんな記事があります。

◆“朝ドラ成分”多めの大河ドラマ「光る君へ」 視聴率は苦戦も「女子わかるわかる成分」で応援したくなる理由(→link

AERA

>朝ドラと一括りにされていますが、あれだけ作品数が多く、作風も個々に大きく異なるのに、一体どういうことなのかと疑問を感じてしまいます。
引用記事は『朝ドラ好きの贔屓目(?)かもしれないが、そういう「従来型大河成分」よりも「朝ドラ成分」、すなわち「女子心わかるわかる成分」が目立つ。』と書いています。
朝ドラ『カーネーション』に於いてヒロイン糸子が少女時代に気の弱い父に代わって機転を利かせ呉服屋の掛け金を回収していった事について「おまえが男の子やったら、どんだけおもろかったやろうのう」と父が言う事を挙げています。
まひろさんは漢籍や文学が大好きで弟よりも先に覚えてしまう事が多く、父・為時公から「お前が男子(おのこ)であったらな」と言われる事がありました。

大河コラムについて思ふ事~
『光る君へ』第1回~

それを踏まえて記事を書いたコラムニストの矢部氏曰く『「女であることの悲しみ」を通奏低音に、切ないけれど胸がすく、そんな朝ドラ』であった事と『漢文は男性が学ぶもの』という考え方が一般的だった時代に文人の父の影響を受けて漢文を身につけた紫式部が才をひけらかしていると陰口を叩かれ生きにくい時期を過ごした事に『同じ匂いを感じた』のではないでしょうか。

>「女子わかるわかる成分」という語句も理解しがたい。
>現在、映像作品の好みを振り分けるアルゴリズムでは、性差を外すことも増えているとされます。
>「女の子ならかっこいい男にキュンキュンする!」こういう決めつけは、有害なこともあるでしょう。
第7回で藤原公任卿の『藤原公任の脱ぐ姿が映った時、これぞ女性向け大河だと言わんばかりの反応』『脱ぐ公任を見て、まだときめいていられるかどうか。』と他人が共感して推し俳優さんを応援し評価することを『ジェンダーが~!ルッキズムを許すな!』『役者を脱がすな!』『教育への悪影響が!』『中国ではこう!海外では許されない!アップデートができていない!』と叩き続けるのに、自分については楽しげに俳優評を語るのですね。
『町田さんは中国語圏のファンからロックオンされた!』『日本からえらい時代劇美男が出てきた注目を集めている』と中国圏のファンの反応にかこつけて実は自分が『かっこいい男にキュンキュンしたい』のではないですか。

大河コラムについて思ふ事~
『光る君へ』第7回~
大河コラムについて思ふ事~
『光る君へ』第7回~
大河コラムについて思ふ事~
『光る君へ』第7回~

>安倍晴明じゃありませんが、私はゲンダイの「おじさん向け」大河記事を読むことが楽しくてならないのです……
>書き手の問題というよりも、読者層に特化したからこその目配りがすごいんですよね。
嫌いな作品ならば『おっさん接待ドラマ』『このドラマは、おっさん接待フルコースだと思えばいい。無論全てのおっさんでなく、ダメを煮詰めたような連中である。』『ここまで気持ち悪い妄想をよくも煮詰めて流せる』と詰るのに文春の様な下種なゴシップ記事を好み『「おじさん向け」大河記事を読むことが楽しくてならない』とは?
他人は『ポリコレだジェンダーだ』と趣向を許さず持論を押し付けるのに自分には甘いダブスタとは?
「政をなすは人、安倍晴明の仕事は政をなす人の命運をも操ります。」と言い、『人を呪う事は危険で自分にもいつか返る』と釘を刺す安倍晴明公の会話の楽しみとこの件全く関係ありませんね。

◆吉高由里子「光る君へ」は行き詰まる?家康がコケて「女性による女性のための大河」に賛否(→link

日刊ゲンダイ
『光る君へ』より
『光る君へ』より

>以下の部分など、実に興味深いものです。

>こんな見方があるものか。
>さすが読者層特化型メディアは違うなぁ……と思いましたが、要はこれ、単なる私見ですよね。
この後、『ゲンダイが毎回大河にエロを期待している』『「エロは俺たちのもんだ! 女向けエロはゆるさん、けしからん!」とでも言いたげ』『なぜゲンダイさんは、エロを独占したいと主張するのか?』・・・等々延々と『エロ』について話しているのですが。(さすがに全部書くのが憚られてやめました)
商用ブログで個人の性癖について延々と語り収益を得る何見氏の頭の中はエロシーンしかないのでしょうか?
某SNS上でも『Xで書くとスクショされた挙句さらされ放火されるので、こっちでポチポチと』と言いながら、『既視感のあるエロはあまり面白みがない、バカだといっそすがすがしい』などエロ妄想を垂れ流す様な物言いを見かけましたが、誰でも見られるように公開にしてるのに性癖を世界中にご開陳して楽しいのでしょうか。
見たくなければミュートされる方もいるでしょうけども。

>試しに、こういうことをいう人に往年の大河の良さを聞いてみればよろしい。
>「『独眼竜政宗』で、おなごは黙っていろとビシッと義姫に言うところがいいんだよな!」(※実際の義姫には、政宗も最上義光も押されていたものです)
>「そうそう『独眼竜政宗』といえば、側室と風呂に入ってムフフ……」
>歴史としての描き方、プロットの巧みさ。
>そして俳優の熱演よりも、女を踏みつけにして楽しめた俺たちの青春を回顧するようなことを言い出す。
>そんなことのダシにされる往年の大河ドラマが気の毒でなりません。
「おなごは黙っていろとビシッと義姫に言うところがいいんだよな!」と言った『こういうことをいう人』はどこにいるのでしょうか。
『独眼竜政宗』での岩下志麻さん演じる政宗公の母・お東の方は最上義光公の妹で、輿入れの際には弓矢で猪を射抜き、火縄銃の鍛錬にも自ら出向き柿の実に的中させる腕の持ち主です。
父の最上義守公をして「男に生まれておれば」と言わしめた『最上の鬼姫』の名にふさわしい文武両道の方でした。
最初はすぐにも輝宗の首を挙げて帰ると言っていますが伊達・最上両家の繁栄を強く望み、両家が対立した際には鎧を着込み両軍が撤退するまで国境に居座り、和睦のために引くことなく『和睦したければ政宗を此処に連れて来い』と言う兄・義光公に対して『伊達の身上を守るためにはまず最上と手を結ぶ事が肝要である』と言っています。

『独眼竜政宗』より
『独眼竜政宗』より

>「そうそう『独眼竜政宗』といえば、側室と風呂に入ってムフフ……」
『独眼竜政宗』での政宗公の側室では猫御前が出てきます。
(側室「新造の方」と「飯坂の局」をモチーフとして合わせた女性とも)

作中猫御前は狂言妊娠騒ぎで試し行為をした事はありますが、ここでも『側室=エロ行為』のイメージしかないのでしょうか。


※何かを見た氏は貼っておりませんでしたが、今年もNHKにお礼のメールサイトのリンクを貼っておきます。
ファンの皆様で応援の言葉や温かい感想を送ってみてはいかがでしょうか?

NHKや番組についてのご意見・お問い合わせ | NHK みなさまの声にお応えします
◆NHK みなさまの声(→link

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