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大河コラムについて思ふ事~『光る君へ』第10回~

3月中旬になりました。気温も暖かくなり生き物も活動を始めました。
まだまだ気温の変化が激しい日々ですので皆様健康には充分お気を付けください。
さて、光る君へ第10回。
今週も『武将ジャパン』大河ドラマコラムについて書かせていただきます。
太字が何かを見たさんの言質です。
御手隙の方に読んでいただければと思います。それでは。


・初めに

>道長の和歌に対して『あの人の心はまだそこに……』と漢詩で返すまひろ。
あの漢詩が意味するところは何だったのか?
道長の和歌に対して漢詩で返すまひろ』とありますが、ドヤ顔で漢籍解釈を載せるだけでなく、『漢詩が意味するところは何だったのか?』を解説するのが歴史ライターでは。
道長卿がまひろさんに贈った和歌は皆『古今和歌集』の恋の歌(恋一・恋ニ)の巻からの出典です。
2巻のテーマは『逢わずして慕う恋』であり、3度の歌の贈答により「そなたを恋しいと思う気持ちを隠そうとしたが、俺にはできない」と道長卿の恋心がどんどん募り、燃え上がるばかりな事をを示しています。
対してまひろさんが道長卿に贈った漢詩は中国の六朝時代を代表する詩人・陶淵明(とうえんめい)の『帰去来辞(ききょらいのじ)』の第3句~第8句です。
『帰りなんいざ(さあ帰ろう)』で始まるこの詩は宮仕えで政争に巻き込まれた陶淵明の俗世を捨てる決意の詩です。
『あの人の心は、まだそこに』とまひろさんは道長卿が直秀の死を引きずりまだ自分を恋い慕っている事を知ったうえで『権力や富と関わりのない場所で生きる志』を伝えました。
軽い気持ちで二人きりで暮らす事を持ちかける道長卿。
まひろさんは「政によってこの世を変えてほしい」ため、恋心を敢えて『間違いだった』と突き放したのでしょう。

>「氐宿」(ていしゅく)とは、東洋の占星術である二十八宿です。
>丑の刻やら寅の刻が大事で、運気隆盛の時。
>その日を逃せば事は成らないだけでなく、右大臣には禍がふりかかり、帝はずっと御位に留まるのだとか。
寛和2(986)年6月。
陰陽師・安倍晴明公が右大臣・藤原兼家卿に、花山帝の退位・出家を決行する日時は『6月23日』と告げます。「それでは支度が間に合わない」と言う兼家卿に、晴明公は「歳星(さいせい)が二十八宿の氐宿(ていしゅく)を犯す日」だと言い、これは12年に1度の事なのだそうです。
晴明公は「全ての者に取ってよき日だが、兼家さまの場合は丑の刻から寅の刻までが最も運気隆盛であり、この日を逃せば謀は成し遂げられず、兼家さまに災いが降りかかり帝は位に留まる事になる」とも言います。
「分かった。23日、丑の刻だな」と兼家卿は承諾しました。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

>「氐宿」(ていしゅく)とは、東洋の占星術である二十八宿です。
>丑の刻やら寅の刻が大事で、運気隆盛の時。
晴明公は『歳星(さいせい)が二十八宿の氐宿(ていしゅく)を犯す』と言っているのですが『歳星』の説明はしないのですか。
『歳星』は木星の漢名です。木星は12年で天を1周し、位置によって『歳』をしるすという意味で『歳星』とも呼ばれます。
『歳星紀年法』は、天球における木星の位置に基づく紀年法で、中国の戦国期に行われました。
木星は約12年で天球上を一周し、『十二次(じゅうにじ:天球を天の赤道帯に沿って西から東に 十二等分した区画)』を一年に一次進みます。

『二十八宿』とは、天球を28のエリア(星宿)に不均等分割したものでその区分の基準となった天の赤道付近の28の星座(中国では『星官』・『天官』という)の事です。
『氐宿(ていしゅく、訓読:ともぼし)』は二十八宿の一つ、東方青龍七宿の第三宿で、距星は天秤座α星です。
星官(星座)の氐宿は天秤座α星、ι星、γ星、β星の4つの星で構成されます。
暦では、婚礼、見合い、農耕全般、新改築、酒造り、移転、開店、新しい事を始めるなどは吉。
衣類の着初め、大きな事、水に近づく事は凶とされます。

氐宿図(古今図書集成)

晴明公が『歳星(木星)が二十八宿の氐宿(ていしゅく)を犯す』と言っているのは、『寛和2年6月23日(986年7月31日)、木星が天秤座α星に約0.5度接近している状態』なのだそうです。

兼家卿が最も運気隆盛と指摘された『丑の刻から寅の刻まで』とは、午前1時から3時の間となります。
いわゆる『丑の刻参り』や『草木も眠る丑三つ刻』などで有名な時刻ですね。
お寺では『丑の刻の正刻(午前2時)』に鐘を8つ打って時刻を知らせていました。

つまり、『木星が天秤座α星に約0.5度接近している状態』である寛和2年6月23日(986年7月31日)午前1時から3時の間に花山帝の退位と出家を進めなさいと言う訳です。

>陰陽師は、「陰陽寮」という中国由来の天文学や占星術の書籍がある場所で学びます。
>限られた人しか習得できませんし、読んだところで意味がわかるとも言えない。 
>仮に、晴明が口からでまかせを言っていようが、話を盛ろうが、なす術もないのです。
陰陽寮は令制で中務省に属し、天文、暦などに関する事を司った役所です。
頭、助以下の職員、陰陽博士、暦博士、天文博士、漏刻博士などの専門家がおかれました。
主な職務は『天体観測、暦の算定,気象観測など』でした。
管掌するためには特殊技術を必要としたため、平安時代中期には賀茂氏・安倍氏が要職を世襲していました。(出典 『ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典』)
『大鏡』「花山院の出家」によると、夜中粟田殿(藤原道兼卿)に内裏から連れ出され、出家するために寺へ向かう花山帝の一行が安倍晴明公の屋敷の前を通り、「帝おりさせ給ふと見ゆる天変ありつるが、すでになりにけりと見ゆるかな。(天皇がご退位なさると思われる天変があった。既に(ご退位は)決まってしまったと思われるなあ。)」と言い、式神に命じ支度をして参内する逸話があります。
この逸話を踏まえて作中では決行日時を占い、指定する右大臣家の共犯の立場としたのではないでしょうか。

>そもそも、坂東武者の場合はきちんと呪詛を書けません。
>直接、誰かを殴るなり、家を燃やす方がはるかに楽なので、そうなっても致し方ないところですね。
『呪符を書く』なら解りますが、『呪詛を書く』とは言わないと思います。『呪詛する』『呪いをかける』が妥当ではないでしょうか。
『呪詛』は神秘的、超自然的な方法によって他人に災禍を与える行為、およびそれに関連した観念、信仰の体系の事です。(出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ))
鎌倉市内からは、『鬼』や『急々如律令』といった呪文が記された木札(呪符)や祓いの儀式に使われる形代、土地の神を鎮めるための地鎮埋納物のほか、羽子板や独楽などが出土し、仏教信仰とともに呪いの世界に生きていたことを示すものです。

平安時代の陰陽師には、官人陰陽師と法師陰陽師という二種類の陰陽師がいました。
法師陰陽師は陰陽寮の官人陰陽師と違い、官位を持たず、民間や地方に在住する文覚上人や阿野全成さんのような呪詛や祈祷のできる僧侶や祈祷師などでした。
官人の陰陽師を雇うことができない中下級の貴族や武家は、法師陰陽師たちを雇って祓えをしてもらっていたようです。
『紫式部集』では「やよひの一日、河原に出でたるに、かたはらなる車に、法師の紙を冠にて博士だちをるをにくみて はらへどの 神のかざりの みてぐらに うたてもまがふ 耳はさみかな」
清少納言『枕草子「見苦しきもの」』では『法師陰陽師の、紙冠して祓したる』とその様子がでてきます。

『枕草子』見苦しきもの
紫式部集

病を悪霊のせいとし、密教僧の祈祷で護法童子を召喚して憑坐(よりまし)という巫女に悪霊を移す『阿尾奢法(あびしゃほう)』『憑祈祷(よりきとう)』と呼ばれる術は江戸時代ごろまでは一般的な病気平癒の術とされていました。
『青天を衝け』では狐に憑かれた姉のなかを修験者と憑坐が払おうとしましたが、あまりのインチキ振りに主人公・渋沢栄一さんが彼らの嘘を暴く場面がありました。

『青天を衝け』より

病気や出産に際しては、天台宗など密教僧の祈祷や、弓に矢をつがえずに弦を引き音を鳴らすことにより気を祓う魔除けの儀礼である『鳴弦』は武家社会でも行われました。
後世になると、蟇目(ひきめ)という鏑矢を使い音を響かせる射法も生じました。
『鎌倉殿の13人』では上総介広常公が源頼家公誕生に際し鳴弦の儀(蟇目の儀)を執り行っていました。

図鳴弦
北野天神神縁起

・右大臣一族の陰謀?

>二時間で出家させ、剣と玉璽を入手させる――そんな途方もない陰謀なのだ、と。
>なんとも嫌な団結力を見せる一家であり、『柳生一族の陰謀』の柳生家並だと思います。
安倍晴明公によって花山帝の退位及び出家を促す陰謀の日取りが決められたその夜、兼家卿は息子たちを集め企みを明かしました。
企みとは、『花山帝を内裏から連れ出し出家させたうえで剣璽を運び出し、東宮・懐仁親王を践祚させる』事でした。

平安京内裏図
平安京内裏諸門図

まず道兼卿が丑の刻までに帝を内裏から連れ出すため、兼家卿が「万が一人目についた時のために、帝に女の袿を羽織っていただけ。そなたが手なづけた女官に準備させよ」と言い『清涼殿から玄輝門を抜け、朔平門に向かう』事を指示します。道隆卿には、『朔平門の外に女車(女性が乗る牛車)を用意させ、丑の刻までに門を出る様に』と命じます。

『光る君へ』より

『時申(ときもうし)』の時を告げる声を合図に内裏の全ての門を閉じ道兼卿が帝と土御門大路を東に向かい、同時刻に剣璽(天叢雲剣と八尺瓊勾玉)を典侍が夜御殿(よるのおとど)から運び出し道隆卿と道綱卿で梅壺の東宮の許に運びます。道綱卿に対して兼家卿は「命がけで務めを果たせ」と言い、道綱卿も同意します。
しかし、「万が一剣璽を移し参らせるのを見た者があれば、お前が後で始末しろ」と言う父の言葉に「え?あ?え?」と戸惑い、顔を強張らせています。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

道長卿は、『梅壺に剣璽が運ばれるのを見たら、関白・頼忠卿の屋敷に走り、帝ご譲位の旨を伝えよとの事でした。
「我らに許された時は丑の刻から寅の刻まで」と兼家卿が言います。
『僅か2時間で帝を出家させ神器である剣璽を手に入れる。途方もない陰謀であった』とナレーションが入りました。
「頼んだぞ」と兼家卿が言うと「必ず成し遂げます」道兼卿が答えます。
「この事が頓挫すれば我が一族は滅びる。兄弟力合わせて必ず成し遂げよ」と兼家卿が言いました。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

何見氏は右大臣家を『嫌な団結力を見せる一家』と称し『柳生一族の陰謀』の柳生家に凖えていますが、大抵の人は『柳生一族の陰謀』を視聴していないのではないでしょうか。
何見氏の中で自己完結されても、周りの人には伝わらないと思います。
せめてどんなあらすじか具体的に書いてください。

また、花山帝の退位及び出家計画はたった2時間で事を運ばなければいけないので一族が団結しなければならず、『嫌』なのはあくまで何見氏の感想であり、現場は嫌も何も無いと思います。

しかし、京都の貴族からすれば『鎌倉殿の13人』の世界観の方がはるかにひどいですよね。
>大事な剣璽をそのまま海に沈めてしまう。
>そもそも天皇自身を海に沈めましたからね。
>源義経は桁外れでありえない!
『鎌倉殿の13人』第18回『壇ノ浦で舞った男』では、苛烈さを増す源平合戦の最終局面である元暦2年(1185年)の壇ノ浦の戦いが行われました。
必死に抵抗する平宗盛公率いる平家に対し、源頼朝公は弟・範頼公を九州、義経公を四国に送ります。
範頼軍は周防で足止めを食らい、義経公もまた摂津から動けずにいましたが、嵐の中義経軍は船で漕ぎ出します。
3月24日朝。壇ノ浦で源平の大海戦が始まります。
義経公は敵に囲まれますが、禁じ手の「漕ぎ手撃ち」を敢行し、形勢が逆転しました。
身軽さを利用した『八艘飛び』で軍船を飛び移り、平家の本船に肉薄しますが、平家一門は三種の神器を持ち出し、「もはや、これまで」と観念しました。
次々に一門が入水し、二位尼は天叢雲剣を抱き、幼い安徳帝は女官に抱かれ海に飛び込みました。
手の届かない船上で義経公は「嘘だろ。やめろー!」と絶叫し、門司の岸壁から戦況を見届けた義時公たち範頼軍の御家人たちはやり切れぬ表情を浮かべ海に向かい手を合わせたりするしかありませんでした。
『大事な剣璽をそのまま海に沈めてしまう』のは「もはや、これまで」と観念した平家一門(二位尼)です。
源氏方は戦の終結後に後白河院の『安徳帝と三種の神器の確保』の命を遂行し、壇ノ浦で安徳帝と神器を探しますが、帝と天叢雲剣は見つからなかったのでした。
『そもそも天皇自身を海に沈めましたから』
義経公は「平家の船の漕ぎ手撃ち」と言う軍律違反は犯していますが、当然安徳帝ご自身をを海に沈めていません。
義経公の飛び移った軍船から安徳帝や二位尼がおわす御座船まで距離があり、入水を目撃して届かないため「やめろー!」と叫ぶしか無かったのですが。
何見氏の考える義経公は離れた所で守られていらっしゃる安徳帝だけを海に叩き込める超能力者でしょうか。
安徳帝はじめ平家一門が入水する平家滅亡の場面は『平家物語』や『吾妻鏡』にも描写がある有名な場面なのですが。

平家物語巻十一「先帝身投」
『鎌倉殿の13人』より
『鎌倉殿の13人』より
『鎌倉殿の13人』より
『鎌倉殿の13人』より

・花山天皇は愛ゆえに迷う?

>道兼はなんて残念な策略家なのでしょう。
>いや、策が向いていない。
>絶対にうまくいくとなれば、何の感動もなく淡々とこなすものだというのに、こんなに素直に喜ぶとは初々しさすら感じさせます。
花山帝は藤原義懐卿ら側近に、「忯子の霊を鎮めるために出家しようと思う」とお伝えになりました。
義懐卿は「即位から僅か2年。全てはこれからでごさいます。」と帝を思い止まらせようとします。
帝は、「まず何より忯子を救ってやらねばならぬ。それも朕の務めじゃ」とお考えを改める様子はありません。
「女御様も大勢いらっしゃいます。新しい女子もいくらでもご用意します。皇子を儲けられたら気持ちも明るくなり、政へ向かう気力も湧き出ましょう」となおも義懐卿が必死に引き止めていますが、蔵人である道兼卿は1人我関せずの様です。
帝は、「その様な事を言うとまた忯子の霊が嘆く。お前は女子女子とそればかり、朕は義懐とは違うのじゃ」と仰り、義懐卿や藤原惟成卿を下がらせてしまいました。
「あいつらにも嫌われてしまった」と仰る帝に、「お上が御出家なさるなら私も一緒に」と道兼卿か切り出します。
「お前だけだな、朕の気持ちがわかるのは」と帝が仰り、道兼卿をすっかりお信じになられている様です。

『光る君へ』より

「どこまでもご一緒します」と道兼卿は答えます。
「忯子は喜んでくれるかのう?」と帝がお尋ねぬり、「お上が御出家なされば、安心して浄土へ旅立たれましょう」と道兼卿か答えます。
道兼卿は「23日がよい」と出家の日取りを持ち掛けます。
さらに道兼卿は「歳星が二十八宿の氐宿を犯す日で、お上にも亡き忯子さまにも最良の日である」と帝をすっかり本気にさせます。
帝の同意を取り付け、「お供いたしまする」と道兼卿は言います。
亡き忯子さまの供養のために出家したいという花山帝に対して道兼卿が見せる笑顔は『素直に喜ぶ』というより口角を上げただけの造り笑顔にみえます。
詐欺師には共通する特徴の1つが『社交的で愛想が良く、親しみやすい印象を与える事』なのだそうです。
道兼卿は共感や同情を引き出した身体の傷といい、兼家卿の命を受けて帝を信用させるために自身に説得力を持たせ警戒心を解いたのではないでしょうか。

『光る君へ』より
『光る君へ』より

>ちなみに、ここに藤原為時がいれば、一言でこの策を突破できるかもしれません。

子、怪力乱神を語らず。
『論語―述而』

意訳:
怪しげなこと、不確かなことは口にしない、ということ。

『論語』述而
『光る君へ』より

藤原為時公は現在蔵人ですが、四位の道兼卿よりも身分の低い五位です。
彼が詰めている書庫で道兼卿の腕の傷を見て同情し、『父の虐待によって付けられた痣』だと信じたままだと思うので花山帝の漢籍指南役とはいえ道兼卿を警戒する様、諌める事はできないのではないでしょうか。
『道兼を信用し過ぎるな』と帝に換言するならば為時公ではなく藤原義懐卿や藤原惟成卿なのではないでしょうか。

>成仏だのなんだの、そんなのそもそもおかしいでしょ、と花山天皇に冷静さを促し、晴明や兼家の策を退けられるのですが。
平安時代の宗教観は物の怪の調伏や方違えは陰陽道、出家や供養などは仏教、宮中祭祀は神道由来など宗教が混在しています。
仏教信仰は平安時代、神道とともに日本の主流な宗教観でした。
奈良時代の仏教思想は、鎮護国家のためでした。南都の僧侶たちは、一族の繁栄のため鎮護国家のために加持祈祷を行い、政と密接に関わりました。
平安時代、奈良で大きな力を持つ寺院勢力から離れ自分のために祈り功徳を積むという宗教観が出てきます。
奈良仏教に代わって受容された新しい宗派が、最澄による『天台宗』と、空海による『真言宗』が受容されました。
真言宗の加持祈祷もですが、浄土に往生するために平安貴族たちは法華八講などの法会や写経を積極的に行って功徳を重ねました。
『忯子の霊を鎮めるために出家したい』という花山帝のお考えも彷徨っているであろう忯子さまの霊を慰め浄土に往生できる様供養してあげたいという帝のお気持ちからではないでしょうか。
平安時代の宗教観を考えずライターとしての勝手なお気持ちで『まっとうな人間はオカルト話をしません。』『成仏だのなんだの、そんなのそもそもおかしい』と決めつけるのではなく、帝がなぜその様なお考えになられたのか考えないと平安時代仏教の理解にならないのではないでしょうか。

・同じ月の下で?

>結局のところ、自分は手駒にされている。
>それでも道兼や、異母兄の藤原道綱よりはマシでしょう。
道長は東三条殿で月を見ています。
そこへ兼家卿が「よい月じゃのう」と現れました。
兼家卿は道長卿に「関白に知らせに走るだけでは物足りぬか」と尋ねます。
「事をしくじった折には、お前は何も知らなかった事にして家を守れ」と言います。
「父に呼ばれたが一切存ぜぬ。我が身とは関わりなきことと言い張れ。しくじった折は父の謀を関白に知らせろ。そうすればお前は生き残れる。」と兼家卿は道長卿に身の振り方を教えました。
「そのお役目は、道隆兄上なのでは・・・」と道長卿が問います。
兼家卿は「この謀がなれば手柄は道隆のものとなる。道隆はそちら側だ」と答え、去って行きました。
道長卿を花山帝の出家策から外したのは、道兼卿や道綱卿の様な汚れ役の手駒というよりももし嫡男である道隆卿に何かあった時に御家を残すための手段だからだと思います。
兼家卿は敢えて自分と同じ三男で周りを俯瞰で見られる道長卿を保険にしたのではないでしょうか。
道長卿はまひろさんと向かった鳥辺野で直秀の無惨な遺体を見た時を思い出し、再び夜空を見上げました。
その頃、まひろさんは月光の中琵琶を奏でています。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

>いとは縫い物をしています。
>主人の服を繕うことも、妻や妾の役割であり、為時は別の女のもとへ行き、縫い物だけをやらせている。
まひろさんが琵琶を奏でていたその夜も父為時公は邸宅に戻らず、『もう、高倉の女のもとから帰らぬおつもりかも』といとさんが言います。
いとさんが「今宵のまひろさまの琵琶がひときわ悲しく聞こえ、つい・・・」と嗚咽を洩らすので、まひろさんは「何か悲しいことがあったのか」といとさんに尋ねます。
「生きてることは悲しいことばかりよ」とまひろさん。
いとさんは「もし殿様が戻らず、若君(惟規さま)もどこぞに婿入りすれば、自分は用無しとなって生きる場所も失ってしまう。その様な事になったら、この家に私をずっと置いてくれ」と懇願します。
「もちろん」とまひろさんが快諾し、「惟規が婿入りする時に一緒に行けばいいのでは?」といとさんに提案しました。
「まことでございますか!」と喜ぶいとさん。
「生涯若様といられるなら殿様は諦めます。高倉にくれてやる」とまで言います。
まひろさんは「くれてやらなくても・・・父上はいとのことも大切に思っている」と言い、父の心をそこまで捉える高倉の女とはどういった相手なのか思いを巡らせています。
惟規さまの乳母であるいとさんは、長年の奉公で為時公に惚れ、彼が通う『高倉の女』に嫉妬しているのかもしれません。
また若君・惟規さまを溺愛し、彼の婿入り後殿も戻らなかったら居場所が無い・生きる術が無いと嘆くのでした。
9回の『今宵は高倉の女の許にお出かけでごさいます』と満面の笑みで言ういとさんは若君や姫君を見守る微笑みとは違い作り笑顔の様にも見え、他の女の所へ通う殿や相手に対する哀しみや嫉妬が混ざった笑みだったのかもしれません。

『光る君へ』より
『光る君へ』より

余談ですが。
『源氏物語』での嫉妬する女性といえば、六条御息所です。
能の『葵上』は、『源氏物語9帖「葵」』に取材した能楽作品です。
源氏の君の正妻・葵上と寵愛を失った六条御息所の物語です。
シテは葵上に激しい嫉妬の心をぶつける鬼女(般若)と化した六条御息所の生霊です。
葵上は舞台に登場せず、一枚の小袖が生霊に祟られ寝込んでいる病床の葵上に見立てられます。
御息所の生霊は、ワキツレである廷臣の祈祷により次第に激高して葵上(小袖)の枕元に立って『恨めしい』と呪いの言葉を吐き、小袖に向かって打ち据えます。
その後、ワキの横川の小聖と角が生えた般若の面を付け鬼と化した御息所の生霊との『祈り』と呼ばれる格闘の末、御息所の生霊は成仏します。
いとさんが縫い物をしていた衣は、殿方が他の女性に懸想したため寵愛されぬ女性が嫉妬で打ち据える小袖に準えたのではないかと思います。

能『葵上』の御息所の生霊

また、「惟規が婿入りする時に一緒に行けばいいのでは?」と提案するまひろさんに対して、「生涯若様といられるなら殿様は諦めます。高倉にくれてやる」とまで言ういとさんは『源氏物語10帖「賢木」』での一旦は心が離れた源氏の君が六条御息所を不憫に思い、お忍びで野宮神社に六条御息所を訪ねた所、娘の斎宮(後の秋好中宮)と共に伊勢へと旅立つ六条御息所が源氏の君に会おうとせず、御簾の下から賢木を差し入れて変わらぬ愛を詠いながら別れの挨拶となる『野宮の別れ』のオマージュにも見えます。
いとさんの方は歌の交換も無く、為時公の知らぬところで話が展開されますが。

野宮の六条御息所を訪ねる光源氏 
源氏物語図 『賢木(巻10 )』
大分市歴史資料館

>兼家は、寧子(藤原道綱母)に同じことをして、彼女が決定的に絶望する契機を作り出しています。
>縫い物だけで利用してんじゃないよ!
>そういう怒りがフツフツといとには湧いてくるし、実質的に妻ではなくとも「妾」といえる立場なのでしょう。
『蜻蛉日記』には確かに兼家卿が右大将道綱母に縫い物をさせる場面がありますが、『彼女が決定的に絶望する契機を作り出している』と問題提起したいならその場面の粗筋だけでも具体的に書かないとどんな場面か分からないと思います。
平安時代、衣裳を仕立てる様な裁縫は女房をはじめ女性全般にとって必要不可欠なスキルの1つでした。
身分の高い女性はみだりに人前で顔を見せないため、素材の選定や襲色の組み合わせ、小物や香りなどセンスが試されました。
もっともこれらは女性自らのためですが、男性も禁色や装束の決まりが多く、儀式や出仕のための装束や日常使いの直衣や狩衣など何かと物入りでした。
女性は好きな殿方のために衣を仕立ててあげることもあったのでしょう。
『蜻蛉日記』の中では、新婚早々浮気を繰り返す藤原兼家卿が新たな妻を娶り、その女性から仕立ての依頼がシレッと寄せられたため、母親や侍女たちと相談したうえで拒否する話があります。
複数の女性の屋敷に通うのは平安時代貴族男性のステータスでもあり、右大将道綱母自身も自らの裁縫の腕の見せ所なのかもしれませんが、気持ちとして他の女性に懸想し続ける夫や都合よく押し付けられた他の女性の衣を縫う事に納得がいかなかったのかもしれません。

『蜻蛉日記』右大将道綱母

・父上こそ、得難き宝だった?

こっそり中に入った彼女は、父が女を看病する姿>当時は腹を刺されたり、頭の骨を砕かれたような人が、穢れになるからとふらふら歩いて去って行くようなことまで記録に残っているほど。
>そこまで【穢れ】は重要なのに、為時の愛はそれを超えました。
その腹を刺されたり、頭の骨を砕かれたような人が、穢れになるからとふらふら歩いて去って行くようなこと』の例を史料リンクを出すか具体的に書かないとどんな場面か分からないと思います。
父の心を捉える『高倉の女』がどの様な女性なのか思いを馳せるまひろさんは乙丸を供に女性の屋敷を探しに行きます。
こっそり邸内に入った彼まひろさんは父が女性を看病し、食事を与える姿を目撃しました。

『光る君へ』より

そしてまひろさんと為時公の目が合ってしまい、為時公は「長く家を空けてすまない」と詫びます。
為時公は「身寄りもなく、1人で食事も摂れぬゆえ見捨てられぬ。」とまひろさんに言います。
しかも「余命もいくばくもなく、一人で死なせるのは忍びない」のだそうです。
為時公は女性を見送るつもりでいました。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

まひろさんは安堵し「言ってくださればよかったのに」と言います。
まひろさんは看病する為時公の姿に敬意を抱き、父が参内する間は自分が看病しようと思ったのです。
しかし為時公は、「わしの娘に世話になるのは気詰まりであろう」と躊躇います。
まひろさんは「ならば乙丸に時々着替えを届けさせます。私にできることがあれば仰ってください」と言い、父と別れ屋敷に戻ります。
為時公と高倉の女性の関係は通い婚というよりもはや訪問看護に近いですが、それでも困った人を見捨てられぬ為時公の優しさが垣間見えます。

今回のシーンにも『源氏物語』に通じる価値観があります。
>光源氏は、一見、最低の女好きのようでいて、大きな長所があります。
>末摘花のようにハズレな相手であろうと、一度関係を持てば見捨てず、生活の面倒は見る。
>最低限のハードルは超えているのですね。 
末摘花は『源氏物語』6帖『末摘花』から34帖『若菜 上』まで登場する女性です。
『末摘花』とは、源氏の君が付けたあだ名で、彼女の鼻先が紅い事と紅花の紅い事を掛けたものです。
末摘花は、皇族・常陸宮の姫君でありながら、父の死により後ろ盾を失い、あばら家の屋敷で年老いた女房たちと質素に暮らしており、極端に古風な教育を受け、頑固で一途、純真そのものの深窓の令嬢である末摘花にとっては琴だけが話し相手でした。
18歳の源氏の君は乳母兄妹の大輔命婦(たゆうのみょうぶ)から末摘花の話を聞いて興味を持ちます。
優美な琴の音に誘われ姿を見たいと思うもその日は帰る事になり、次第に興味も無くします。
頭中将とも競い合って逢瀬を果たしたものの、彼女の対応の覚束なさに源氏の君は戸惑います。
ある雪の朝、末摘花の顔を覗き見た源氏の君はその『髪は素晴らしいが、座高が高く、やせ細っていて顔は青白く、鼻が大きく垂れ下がって象の様でその先は赤くなっているのが酷い有様』という容姿に仰天します。
加えて『表着(うわぎ)には黒貂(ふるき)の皮衣(かわぎぬ)、いときよらにかうばしきを着たまへり』と奇抜なファッションセンスの持ち主でした。
その後も世間知らずな言動の数々に辟易しつつも、源氏は彼女の困窮ぶりに同情し、素直な心根に見捨てられなくなります。
一途に彼を信じて待ち続けた事に感動した源氏の君により、その後二条東院に引き取られ、妻の一人として晩年を平穏に過しました。

『源氏物語絵色紙帖 末摘花 詞西洞院時直』
重要文化財
京都国立博物館

・和歌に漢詩で返す?

>よほど嬉しかったのでしょう。
>全力でいとの前を駆け抜け、手紙を開きます。
>そして直秀のことを思い出しました。
>あの人の心はまだそこに……。
>まひろは漢詩で返事を書きます。
>それでも道長は、またも和歌で返す。
>まひろは漢詩で返す。
まひろさんが屋敷に戻ると、百舌彦さんが道長卿からの文を携え待ち構えていました。
まひろさんはそれを受け取り、出迎えのいとさんにも構わず邸内へ入りその文を読みます。

『光る君へ』より

>そんな道長の和歌から注目してみましょう。
道長が送った和歌は、いずれも最古の勅撰和歌集『古今和歌集』からの引用です。
五つの巻からなる恋歌でいずれも恋の始まりを現す歌になります。
編者の紀貫之卿は『土佐日記』の作者でもあります。
土佐国国司の任期を終えて土佐から京へ帰る際の旅路での日記で『男もすなる日記といふものを、女もしてみむとてするなり。』と書き手を女性に仮託し、ほとんどを仮名で日記風に綴った作品です。
本来なら漢文で書をしたためる男性の道長卿が仮名文字で熱い恋心を表現し、本来なら漢文が憚られる女性のまひろさんが漢籍を引用して現実を語る倒錯の妙があると思います。

思ふには 忍ぶることぞ 負けにける 色には出でじと 思ひしものを
読人しらず

『古今和歌集』巻第十一 恋歌一 503

意訳:
あの人を思う心の強さには、堪え忍ぼうとする心のほうが負けてしまった。けっして素振りに出すまいと思っていたのに。

『古今和歌集』巻第十一 恋歌一 503

『そなたを恋しいと思う気持ちを隠そうとしたが、俺にはできない』

『光る君へ』より

死ぬる命 生きもやすると こころみに 玉の緒ばかり 逢はむと言はなむ
藤原興風

『古今和歌集』巻第十二 恋歌二 568

意訳:
貴方に恋して今にも死に絶えようとする私の命が生き延びることもあるかどうか、試しにでもいいから、玉の緒ほどのちょっとの間逢おうと言ってもらいたい。

『古今和歌集』巻第十二 恋歌二 568

『そなたが恋しくて死にそうな俺の命。そなたが少しでも会おうと言ってくれたら、生き返るかも知れない』

『光る君へ』より

命やは なにぞは露の あだものを 逢ふにしかへば 惜しからなくに
紀友則

『古今和歌集』巻第十二 恋歌二  615

意訳:
命なんか、何ということもあるものか。
こんなものは、露のようにはかなく頼りないものだ。
恋しい人との逢瀬に取り換えられるものならば、なんで命が惜しかろう。

『古今和歌集』巻第十二 恋歌二 615

『命とは儚い露のようなものだ。そなたに会うことができるのなら、命なんて少しも惜しくはない』

『光る君へ』より

>筆跡は少し上達していますが、まだまだいまひとつ。
>うますぎるとかえっておかしいので、そこはうまく書いています。
また道長卿の筆跡叩きですか。
ここでは道長卿とまひろさんの和歌と漢詩のやり取りを講じているのであって筆跡ばかりを論うのは無粋ではないでしょうか。
『道長フォント』については公式HPで語られているので指導の意図も汲んではいかがでしょうか。
題字・書道指導の根本知さんによると』、『藤原道長は直筆の史料が残されているのですが、そのひとつである『御堂関白記』という日記を見ると、筆はかなり寝ているし、あまり造形を気にしないで書いている感じがあるので、朴とつとした人物だったのではないかと私は想像します。』との事です。

藤原道長『御堂関白記』一部

また、『現代でいう美文字ではなくて、気骨にあふれ、気にせず自由闊達(かったつ)に書いた字が当時評価されたのではないか』とも根本さんは仰っています。
道長卿の文字は『道長フォント』『佑フォント』という様です。
柄本さん本人が書かれており、『どんどんうまくなっていたので、演出の方から「うますぎです」と言われてしまった』との事です。

『光る君へ』より

>一方、まひろの漢詩は?
まひろさんが返したのは陶淵明の『帰去来辞』です。
「帰りなんいざ」で始まる冒頭が有名な詩です。
道長卿から一首目の歌を貰い、『あの人の心は、まだそこに』とまひろさんは思い、返書をしたためました。

既自以心爲形役
奚惆悵而獨悲

意訳:これまで心を体のしもべとしていたのだから、どうして一人くよくよ嘆き悲しむことがあろうか

『帰去来辞』
『光る君へ』より

悟已往之不諌
知来者之可追

意訳:
過ぎ去ったことは悔やんでも仕方ないけれど、これから先はいかようにもなる

『帰去来辞』
『光る君へ』より

実迷途其未遠
覚今是而昨非

意訳:
道に迷っていたとしても、そこまで遠くまで来てはいない。
今が正しくて、昨日までの自分が間違っていたと気づいたのだから

『帰去来辞』
『光る君へ』より
『帰去来辞』陶淵明

>アホでオシャレばかりしているボンボンのために宮仕えするハメになる。 
>そんなことやってられるか!
個人的なSNSではなく、商業アフィリエイトブログなのだから、もう少し言葉を選べないでしょうか。
陶淵明(365‐427)は東晋の詩人です。
没落士族階級の出身で、若いころは官職をめざしましたが、現実に失望した陶淵明は田園に帰隠して自然のままに生きる道を選びます。
『帰去来辞』はそんな彼の決意の詩といわれています。

>漢詩でもロマンチックなものはあります。
>「閨怨」というジャンルは、夫と離れて寂しい女性の気持ちを歌い上げる定番です。
>それが、よりにもよって『帰去来辞』では、パンチが強すぎて言葉になりません。
何見氏の言う『閨怨』という漢詩は下記の様な詩です。

『閨怨』王昌齢

道長卿が送った歌は『そなたを恋しいと思う気持ちを隠そうとしたが、俺にはできない』『そなたが恋しくて死にそうな俺の命。そなたが少しでも会おうと言ってくれたら、生き返るかも知れない』『命とは儚い露のようなものだ。そなたに会うことができるのなら、命なんて少しも惜しくはない』という熱烈な愛の告白の歌で、まひろさんはそこから『あの人の心は、まだそこに』と道長卿が直秀の死のショックから抜け出しきれていない事を察しています。
それを踏まえ、『ひとりくよくよと嘆き悲しんだところで、どうなるものでもない。過ぎ去ったことは、今さら悔んでもしかたない。道に迷っていたとしても、そこまで遠くまで来てはいない。今が正しくて、昨日までの自分が間違っていたと気づいたのだから』と返したのです。
直秀を失った自責や悲しみから共に弔いをしたまひろさんへの恋に生きようとする道長卿にまひろさんは『過去は過去であり、悲しむだけでなく自分の進むべき道を歩みなさい』と諭しているのではないでしょうか。

・書道と恋愛相談は藤原行成におまかせ?

>藤原道長は、穏健な友人である藤原行成に相談します。
>「おなごに歌を送ったら漢詩が返ってくる。その意味は何だろう?」
>そう聞かれた行成はドキッとしています。
>道長も相談相手を選んでいますね。
道長卿は四条宮で藤原行成卿に、「女子に歌を送ったら漢詩が返って来た。その意味は何だろう?」と打ち明けました。
「随分と珍しきことだ」と行成卿が言います。
さらに行成卿は「どういう歌を送り、どういう詩が返って来たのか」と尋ねますが、「言えぬ」と道長卿は答えます。
「それがわからないとどうしようもない」と行成卿は困った様に言います。
行成卿は「でも、道長さまには好きな女子がおいでなのですね。」と言い、「それも言えぬ」と道長卿は言います。

『光る君へ』より

>斉信と公任の二人なら、藤原為時の娘が漢籍に詳しいとたどりつき、遠慮もせず、引っ掻き回した上でダメ出しをしそうですが、その点、行成ならば安心です。
道長卿は『歌を送ったら漢詩が返って来た意図』を知りたいために後に『三蹟』の一人と言われるほどの能筆で外祖父が学者である行成卿に聞いてみたのだと思うのですが。
なぜここで姿を見せていない公任卿と斉信卿ならこうに違いないと下品な品定め(何見氏曰くロッカールームトーク)妄想になるのでしょうか。
本当は何見氏がそういう下衆の勘繰りを見たいのではないですか。

>行成はそっと、漢詩と和歌のTPOを説明します。
藤原行成卿は即座に自分の見識として、「そもそも和歌は人の心を見るもの、聞くものに託して言葉に表しているもの。翻って漢詩は志を言葉に表すもの。漢詩を送るということは、何らかの志を詩に託しているのでは?」と答えました。
道長卿は「ふーん」と答えます。
「何か的外れなことを言いましたか?」と行成卿が尋ねると、道長卿は行成卿の肩に手をやって「流石行成だ、少し分かった」と答えました。
「お役に立てて嬉しい」と行成卿は嬉しそうです。

『光る君へ』より

何見氏、行成卿は『和歌は人の心を見るもの、聞くものに託して言葉に表しているもの。翻って漢詩は志を言葉に表すもの。』と言っただけですが、『女性的で柔らかい』とか『男性的で固い』とかはどこから出てきたのでしょうか。

余談ですが、行成卿の言う和歌の本質を解説した『和歌は人の心を見るもの、聞くものに託して言葉に表しているもの。』という台詞は、紀貫之卿が編纂した『古今和歌集「仮名序」』からの引用ではないかとの事です。
喜怒哀楽や苦しい事があったときに、その心の揺らぎなどをもとにして、外界のあれこれに託すようにして言葉に表したものが歌という意味なのではないでしょうか。

『古今和歌集「仮名序」』
紀貫之

>ちょっと妙かもしれませんが、道長と行成の二人を今風に例えるならこんな会話でしょうか。
直秀の弔いを引きずり、まひろさんへの恋に生きようとする道長卿と『過去は過去であり、悲しむだけでなく自分の進むべき道を歩みなさい』と諭しているまひろさんの考えのすれ違いを詳細を知らないながらも『和歌は人の心を見るもの、聞くものに託して言葉に表しているもの。翻って漢詩は志を言葉に表すもの。』と評す行成卿という描写なのですが、この妄想は必要でしょうか。
はっきり言って蛇足です。

>場面変わって、道長が姉の藤原詮子を訪れます。
道長卿が姉・詮子さまを訪ねます。
そして、詮子さまの局から去って行く姫君を見かけました。

『光る君へ』より

詮子さまが彼女の素性を明かします。
姫君は『安和の変』で大宰府に左遷され今は亡き源高明卿の姪の明子女王でした。
因みに『安和の変』は道長卿とまひろさんが幼少期に散楽一座が一番最初に風刺していた他氏排斥事件です。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

もし父が花山帝の退位に失敗し失脚しても、東宮・懐仁親王が困らない様に詮子さまは別に後ろ盾を作るべく、源氏と接点を作っておこうと独自に動いていました。
左大臣源雅信卿は宇多天皇の孫。源高明卿は醍醐天皇の皇子です。

宇多源氏・源雅信卿の系図
https://nakuyo-neuneu.com/keizu/100072012/
醍醐源氏・源高明卿の系図
https://nakuyo-neuneu.com/keizu/103462004/#103462004

「この両方の源氏と接しておけば安心」と詮子さまは言い、「道長が倫子、そして明子の2人と結婚しておけば言うことはない」と自信ありげです。
「なんという事を!」と憤る道長卿に「考えておくように」と詮子さまは言います。
そして道長卿が自分の許に来た理由を尋ねます。
「結婚のことについては・・・」と尋ねる道長卿に、「それは急がない」と詮子さまは答えます。そして道長卿の用件が分かっていた様に人払いをします。

>確かに、そんなブリーダーみたいな発想を姉から聞かされされてもなぁ。
9回でも書きましたが。
平安時代に限らず、古代から中世は皇族が氏を賜り臣下に下る事が多く『〇〇帝の血を引く〇〇家』というお家の血筋は大変重要でした。
武家でも家格は重要で戦での名乗りも先祖が誰であるかからでした。
『鎌倉殿の13人』でも石橋山の戦いで北条時政公が源頼朝公の血筋の正統性を踏まえて清和源氏の先祖の名を挙げ名乗っていました。
『光る君へ』作中でも宇多天皇の血を引く宇多源氏である源雅信卿は家の誇りにしていました。

『鎌倉殿の13人』より
『光る君へ』より

>詳細を隠すため、苛立つ詮子。
>家族や幼い子の前で眠ったふりなんて気持ち悪いし、それを褒める兄の藤原道隆も、言うことを聞いている藤原道兼も気持ち悪い。
道長卿の用件とは、「23日は内裏からお出にならぬ様に」との父・兼家卿の伝言を届ける事でした。
「何があるの?」と尋ねる詮子さまに、道長卿は「その日になれば解ります」と答えます。
「父上のやり方は嫌いだ」と言う詮子さま。
「姉上と東宮様に取って悪い事ではございませぬ」と道長卿は言います。
「お前がそう言うなら信じてもいい」と詮子さまはその気になります。
しかし、「寝ずに心配している子供たちさえ偽って、気を失ったふりをし続けるって恐ろしすぎない?」「父上のやり方を疑わない道隆も、父上の手先になって嬉しそうな道兼も最悪」と道長卿に同意を求めました。
花山帝を排し奉って懐仁親王を践祚させる策は、右大臣家が外戚として後ろ楯になるため、道長卿の言う通り、『姉上と東宮様に取って悪い事ではない』なのでしょう。
しかし詮子さまは兼家卿によって円融院に毒が盛られた際何も知らされず巻き込まれ円融院の不興を買った経験があり、強引な父のやり方やそれを疑わない兄・道隆卿も、父の手先になって嬉しそうな道兼卿も信じる事ができず、さりとて女子の身では異を唱える事もままならず、東宮さまの母として信頼できる者を集めておく事にしたのではないでしょうか。
詮子さまは「懐仁を託せるのはお前だけ、わかっているわね」と念を押してきます。
道長卿は「おやめください」と姉を諭します。詮子さまは「いずれ己の宿命がわかるであろう」と言った後、「父上のような言い方をしてしまったわ。フフフ・・・いけない、いけない」と笑います。
『自分は父上のやり方は嫌いだ』と言う詮子さまですが、自らと東宮・懐仁親王のために婚姻関係で根回しをするなど有利に事を運ぼうと動く辺りは兼家卿によく似ていると言えるのではないでしょうか。
道長卿は「己の宿命」と言われ、まひろさんの文を見返しています。

『光る君へ』より
『光る君へ』より

・同床異夢?

>道長は漢文で会いたいとまひろに返事を書きました。
何見氏は本邦で作られた漢詩や漢文に対して全く解説を入れなくなりますが、本作オリジナルである道長卿のストレートなまひろさんへの思いはともかく公任卿や為時公の漢詩についてはきちんとした解説を入れてもよかったのではないでしょうか。
道長卿からまひろさんに文が送られて来ました。
今度はこの様にしたためられています。

我亦欲相見君

<書き下し文>
我もまた君と相見えぬ(ん)と欲す

<意訳>
俺はまたそなたと一緒に逢瀬を楽しみたい

『光る君へ』より
『光る君へ』より

満月の夜。
まひろさんは被衣姿で六条の廃院に向かいます。
誰もいない様にも見えた廃院。
 「会いたかった!」と道長卿が駆け寄り、まひろさんを後ろから抱きしめます。
月光が照らし、激しく抱擁し合う二人は唇を重ねます。

『光る君へ』より
『光る君へ』より

道長卿は「一緒に京を出よう。海の見える遠くの国へ行く。俺たちが寄り添って生きるにはそれしかない。」とまひろさんを誘い、「もっと早く決心すべきだった。藤原を捨てる。お前の母の仇である男の弟である事をやめる」と言います。
まひろさんは当惑しました。
道長卿はさらに「右大臣の息子である事も東宮様の叔父である事もやめる。だから一緒に来てくれ」とまで言い出します。
「嬉しゅうございます」とまひろさんが言い、道長卿は喜ぶものの、まひろさん自身はどうして良いか心の整理が付かぬままの様です。
道長卿は「父や弟に別れを告げたいのか?そのために戻ればあれこれ考えすぎてきっと俺とは一緒に来ない。だからこのまま行こう。お前も同じ思いであろう。」と言います。
「父と弟を捨ててくれ」とまひろさんに覚悟を決める様頼み、駆け落ちを持ちかけます。
まひろさんは逆に道長卿に「大臣や関白や摂政になる道を、本当に捨てるのか?」と問います。
道長卿は「まひろと生きて行くこと以外に望みはない」と、全てを捨てるつもりでした。

『光る君へ』より

余談ですが、『伊勢物語』では在原業平卿と藤原高子(ふじわらのたかいこ)さまの恋が題材にされています。
8回コラムでも書きましたが、美男の誉れが高く女性遍歴も派手な在原業平卿が清和天皇の后がね(お后候補)として育てられた藤原高子さまと駆け落ちを決意し失敗してしまうという事件は、当時の宮中を揺るがすスキャンダルだったようです。

『伊勢物語』芥川
『光る君へ』より

まひろさんは思いを打ち明けました。
「貴方のような人が偉くならなければ、直秀のように無残な死に方をする人はなくならない。鳥辺野で泥まみれで泣いているのを見て、以前にも増して道長さまが好きになっていた。実はあの鳥辺野からの帰途、『このまま遠くへ行こう』と言いそうになっていたが言えなかった。その理由は後で気づいた。2人で都を出ても世の中は変わらない。」と。
「道長さまは偉くなり直秀のように理不尽に殺される者が出ない様な、そういうよりよき政をする使命があるのよ。それは道長さまも気づいているはず」と道長卿を諭します。

『光る君へ』より

道長卿は「俺はまひろに会うために生まれて来た。それが分かったから今ここにいる」と譲りません。
「この国を変えるために、道長さまは高貴な家に生まれて来た。私とひっそり幸せになるためじゃない」とまひろさんが言い、「俺の願いを断るのか」と道長卿が反論します。

『光る君へより』

まひろさんは「道長さまは好きだ。貴方の使命は違うところにある」と言います。
道長卿は「偽りを申すな。まひろは子供の頃から作り話が得意であった。今のも偽りであろう」と不満を漏らします。
なお食い下がる道長卿にまひろさんは、「幼い頃から思い続けた貴方と、遠くの国でひっそり生きるのは幸せかも知れない。ひもじい思いもした事もない高貴な育ちの貴方が生きてくために魚を取ったり木を切ったり畑を耕している姿全然思い浮かばない。」と貴族は庶民になれるはずもないと諭します。
「まひろと一緒ならやって行ける」と道長卿は言いますが、「己の使命を果たすように、直秀もそれを望んでいる」とまひろさんは返します。

『光る君へ』より
『光る君へ』より

「偽りを申すな」と言う道長卿。
しかしまひろさんは「一緒に遠くの国には行かない。政によってこの国を変えていく様を死ぬまで見つめ続けます。」と伝えます。
諦めきれない道長卿はなおも「一緒に行こう」まひろさんを抱きすくめました。

『光る君へ』より
『光る君へ』より

・巫山雲雨?

>まひろが横たわります。
>そっと身を重ねている道長。
月が廃院を照らし出す中、道長卿とまひろさんは閨を共にしました。
破れた屋根からは大きな月が見え光がキラキラと差し込みます。
寝巻き姿の道長卿が乱れたまひろさんの単の上から袿を掛けます。
涙を流すまひろさんに、「振ったのはお前だぞ」と道長卿が言います。
「人は幸せでも泣くし、悲しくても泣くのよ」と言うまひろさん。
まひろさんの涙を拭いながら、「これはどっちなんだ?」と尋ねる道長に、「どっちも、幸せで悲しい」とまひろさんは答えます。
『愛しさ』でも『哀しさ』でも涙は溢れるものなのでしょう。
契りを結びながら熱い思いと現実がすれ違いを見せる二人。
道長卿はまひろさんに「また会おう、これで会えなくなるのは嫌だ」と思いを告げます。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

>ここで、今まで使う機会がなかったエロチックな漢籍知識でも。
>公任だったら「なんだお前ら、巫山雲雨だな」とまとめたくなるところでしょうか。

巫山雲雨
『宋玉‐高唐賦』
楚その懐王が昼寝の夢の中で巫山の神女と契ったという故事から。
男女が夢の中で結ばれること。また、男女が情を交わすこと。
出典 小学館デジタル大辞泉

『宋玉‐高唐賦』

>耳を噛むとか。
>これみよがしにサウナに色っぽいお姉さんが入ってくるとか。
>そういう現代的な感性を時代劇で見せられても面白くありません。
>久々に再会した妻に「子作りするべえ!」と語りかける渋沢栄一なんて、もう見ちゃいられなかった。
作中で男女二人の睦言が出てきて文学作品の様な艶めかしい閨の描写があり、視聴者はその余韻に浸りたいのではないでしょうか。
嫌いな作品の睦言らしい描写を引き合いに出し、本作と比較して『そういう現代的な感性を時代劇で見せられても面白くありません。』『もう見ちゃいられなかった。(なら見なければ済むのでは)』と叩いたりしていますが。
実家の再興のためにお手つきになるのが最短と正室・瀬名さまの許しを得ず関係を持ってしまった家康さまとお万さん、庶民ゆえ貴族の雅な睦言など知る由もない渋沢夫妻は比較になるでしょうか。
あと、『これみよがしにサウナに色っぽいお姉さんが入ってくる』。
戦国時代当時は、風呂といっても現在のように湯船はなく、外にある釜で湯を沸かし湯気を内部に引き込むサウナ式蒸風呂です。

>艶やかな古典文学なんていくらでも見つかるのだから、気合を入れて探し、読んで楽しめばよいのです。
>古典ならば中身がどんなに過激だろうが、教養で偽装できます。
待ってましたとばかりに『今まで使う機会がなかったエロチックな漢籍知識』とやらをドヤ顔で開陳するだけの場にする。
余韻も情緒もあったものではありません。

・陰謀決行の夜?

>運命の6月23日がやってきました。
寛和2年(986年)6月23日。
藤原道兼卿を花山帝がお呼びになりました。
「今宵の事を義懐らに言っておいた方がよいか」とお尋ねになる帝に、「おやめになった方がよいでしょう」と道兼卿。
「もしお告げになれば帝のご決心が妨げられます。それはすなわち忯子さまの浄土への道が阻まれます」と道兼卿が言うので、帝は納得されます。
そして夜半、宮中に緊張が走ります。
その頃梅壺では東宮・懐仁親王が母・詮子さまの膝でお眠りになっていました。
単・長袴に袿を掛けた衣被というお姿の帝。
案内役の道兼卿は、「自分は夜目が利くので」と自らの体に掴まらせます。
帝は「忯子の文を持ってくるのを忘れた」と仰っるので、道兼卿は「お文はすべて元慶寺にお移しした」と言います。
「お前が文箱を開けたのか?」とお尋ねになる帝に道兼卿は「いや・・・急ぎませぬと・・・」と急かし、帝は訝しげなお顔をなさいます。

『光る君へ』より
『光る君へ』より

>途中、見つかりそうになると、道兼は花山天皇を抱き寄せ、情事を装います。
>道長がまひろを抱き寄せた構図を思い出すと、なんというパロディでしょうか。
御所の外は月夜で明るく、帝が誰かに見られる事を懸念されています。
その時女房の1人が出てきたため、道兼卿はとっさに帝と向き合い、女子と逢瀬を楽しんでいるように見せかけました。
袿を被り六条の廃院に向かうまひろさんと女子に見せかけお顔を隠すための袿をお被りになった帝。
身体を引き寄せ向き合い唇を重ねる男女(片方は偽装)
という構図は対比の演出でしょうね。

『光る君へ』より
『光る君へ』より

道兼卿の咄嗟の判断により難を逃れ、帝を女車(女房が外出の際乗る牛車)にお乗せし右大臣家の手配した警護の武士に守らせ元慶寺へ向かいます。 
時申しの『丑の一刻でございます』の声が聞こえ、道隆卿と道綱卿は外に出ます。
兼家卿は「これより、全ての門を閉める」と言います。
車の揺れを気にされる帝に、「夜明けまでに剃髪なさらないと、忯子さまは救われませぬ」と道兼卿が言います。
女房達により剣璽(天叢雲剣と八尺瓊勾玉)が運び出されました。
剣璽を道隆卿と道綱卿が受け取り、恭しく掲げて運びます。
道綱卿が危うく取り落としそうになり、声を出すも、道隆卿に叱られます。
剣璽は梅壺の懐仁親王の御前へ運ばれました。
道長卿は立ち上がり、関白・藤原頼忠卿にこれを知らせに向かいました。
頼忠卿に花山帝のご退位と剣璽が梅壺に移った事、そして東宮・懐仁親王の践祚が伝えられます。
道長卿はさらに頼忠卿へ内裏へ向かうように勧め、頼忠卿は急ぎ内裏へ向かいます。

『光る君へ』より
『光る君へ』より

>全ては策の通りだと確認するかのような安倍晴明。
その頃、安倍晴明公の屋敷では晴明公が星の巡りを見ていました。
従者の須麻流さんが、「ただいま牛車が屋敷の前を通り過ぎて行きました。」と知らせにきます。
屋敷の傍を通って行く牛車の音でまひろさんも目を覚ましました。
『大鏡「花山院の出家」』では、粟田殿(道兼卿)に伴われた花山帝の牛車が安倍晴明公の屋敷の前を通り、花山帝の退位を察して式神を使役し奏上しようとした所、式神が「ただ今、ここをお通りになっているようです。」と答えたという逸話が描かれています。
因みに、安倍晴明公の屋敷は『大鏡』によると、土御門大路と町口小路の交わる辺りなので現在の京都ブライトンホテルの辺りのようです。
まひろさんの屋敷は土御門邸から徒歩6分(現在の廬山寺)なので土御門大路をとおる牛車の音が聞こえた訳です。

『大鏡』「花山院の出家」
『光る君へ』より
『光る君へ』より

>舌なめずりしそうなほど嬉しい顔の道兼は、自分の意思で笑った、義務を為したと思っているでしょう。
>実はそうではありません。
>兼家の育て上げた手駒として完成しただけなのに、それに気づかないものでしょうか。
元慶寺に於いて帝は剃髪なさりました。
帝が道兼卿に「道兼、次はお前の番だ」とおっしゃいます。
しかし道兼卿は「私はこれにて失礼いたします」と退出しようとしています。
帝は「お前も出家するのであろう?」とお尋ねにりますが、道兼卿は「御坊、あとはお頼み申す」と後を僧侶に託します。
帝は「おい待て、道兼!」とお止めになりますが、「おそばにお仕えできて、楽しゅうございました」と道兼卿は冷たく言い放ちます。
帝は「お前は朕を謀ったのか、待て道兼、おい、裏切り者!」と叫ばれましたが、護衛の武士たちに抑えられてしまいます。
道兼卿は自分を信用した帝に無表情で「おそばにお仕えできて、楽しゅうございました」と言っていますが、『舌なめずりしそうなほど嬉しい顔』に見えるでしょうか。
道兼卿は父に打たれたと身体の傷を自作自演して帝の警戒心を説き、内裏から連れ出したうえ出家させる事が兼家卿からの指示であり、過去ちやはさまを自ら殺め、穢れの禁忌を犯した時から一族の汚れ役の自覚があると思います。
因みに『大鏡「花山院の出家」』では『まかり出でて、大臣にも、変はらぬ姿、いま一度見え、かくと案内申して、必ず参り侍らむ。(ちょっと退出して父の大臣にも、(出家する前の)変わらない姿をもう一度見せ、これこれと事情をお話し申し上げて、必ず参上いたします。)』と逃げてしまったそうです。
少なくとも作中では帝の信用を裏切り罵倒を受ける事に向き合う気持ちがあったのではないでしょうか。

『光る君へ』より
『光る君へ』より

そして自邸の女房たちと飲んでいた藤原義懐卿と藤原惟成卿の許に、帝の退位と出家の知らせがもたらされ彼らは失脚しました。

『光る君へ』より
『光る君へ』より 

やがて寅の刻が訪れ、践祚した新帝の外戚となり、兼家卿は愉快そうに哄笑し、都の風景と兼家卿の笑顔が重なります。
子息たちもそれぞれ安堵しています。

『光る君へ』より

>そこへ藤原兼家がやってきて、突然の花山天皇譲位と、一条天皇の即位を告げます。
譲位は『天皇が皇太子(東宮)に位を譲る事』、退位は『天皇が位を退く事』です。
花山帝の場合、帝自らお譲りになった訳ではなく、出家させられた形になったので『退位』でした。
『践祚(せんそ)』とは天皇の位の象徴たる剣、璽(じ)、神鏡を先帝から受け継ぐ事です。
桓武天皇以来、践祚の後に改めて即位の礼が行われるようになりました。(出典 株式会社平凡社・百科事典マイペディア)
花山帝が出家し、剣璽を受け継いだ時点では『践祚』です。
翌日、蔵人頭・藤原実資卿はじめ官吏が出仕します。
彼らの許にも花山帝の退位と東宮の践祚が兼家卿から知らされました。
兼家卿は高らかに「新しき帝の摂政はこの兼家である」と宣言します。
そして『先の帝の蔵人はすべて慣例により任を解かれる』事になり、実資卿や為時公はその任を解かれてしまいました。
道兼卿は新帝の許での蔵人頭に就任し、「蔵人頭・藤原道兼である」と名乗ります。
そして、新任の蔵人を発表しようとしますが、実資卿が異議を申し立てます。
「道兼殿、昨夜何があったかお聞かせいただかねば筋が通らぬ!この様な事はおかしい!」と詰め寄りましたが、道兼卿は「静まりませい」と一喝します。
蔵人だった為時公がその任を解かれた頃、まひろさんは屋敷で1人外を見つめていました。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

・MVP:まひろ?

>本作の花山天皇の描写は、白居易『長恨歌』が根底にあるようで、圧倒的な純愛があるのです。>ロマンチックだからよいかというとそうではなく、政治的混乱をもたらしているから悪いと。
花山帝の退位と出家の顛末は、『長恨歌』を引き合いに出さなくても、『栄花物語』や『大鏡』に記述があり、特に『大鏡「花山院の出家」』の安倍晴明公が退位を察知し式神を使役し帝の牛車が屋敷の前を通り過ぎる報告を受ける下りは高校生向けの古典の題材になっている様です。

漢籍マウントがしたいのならきちんとした白居易『長恨歌』の解説をお願いします。

白居易『長恨歌』は漢の武帝が李夫人を寵愛した故事を踏まえ、唐王朝に憚って時代を過去にずらし暗に唐の玄宗が楊貴妃を寵愛した事も指した詩です。
色を好まれ漢の武帝は絶世の美女を求め、ついに寵妃となる絶世の美人を見出すというものですが、結果は皇帝の努めである朝早く堂に上がり大臣たちの奏上を聴き決断を下す事も顧みなくなり、寵妃に溺れ寵愛により、一族がどんどん取り立てられ、ついには乱が起こり悲劇がおこります。
さて、花山帝は好色ではありましたが忯子さまを見初め、彼女の身内が渋っても入内させます。
帝は貨幣価値の改革や荘園整理令など信用ある身内と共に新政を行います。
しかし保守的な公卿たちの反発を招き、忯子さまも亡くなってしまいます。
帝は忯子さまを亡くした事で意欲を亡くし、外戚の藤原義懐卿などが権勢を振るいますます孤立。
出家願望はありましたがついには右大臣・藤原兼家卿により退位となりました。
本邦では帝の退位となりましたが、臣下が帝の座を簒奪する事はなく新帝が践祚します。

 

>為政者としての志を問いかけて突き放しつつ、一生忘れられない相手になるという高度な戦略をまひろは駆使しました。
>こんな面倒くさいヒロインがいていいのでしょうか?
>すごくロマンチックで好きだけど、これをよくNHKは許したものだと思います。
またまひろさんの性格を『面倒臭い』ですか。
面倒臭い意外の語彙力ありませんか。
身分の低い共通の友である直秀やその仲間の散楽一座を弔い、為政者一族でありながらまひろさんとの刹那の恋に燃え上り全てを捨て駆け落ちを持ちかける道長卿に対して、『未だ直秀の死を引きずっているようで、恋に生きようとするようだが、自分は下級(中流)貴族の娘であり釣り合わない。』と考えたのでしょう。
そこで『民の暮らしは貴方に無理だ』と現実を突きつけ一夜の睦言含め諭し、駆け落ちを思い止まらせようとした訳ですが。
やってる事は『伊勢物語』芥川の在原業平卿と藤原高子さまの駆け落ちベースの駆け落ちを止めた場合(身分差男女逆転)ですが、NHKは許してもポリコレでは許されないとでも言いたいのでしょうか。

>比較対象として『青天を衝け』の千代を考えてみたい。
(中略)
>それをドラマでは「ともかくラブコメにすれば数字が取れる」とでも言わんばかりに甘ったるくしてしまい、侮辱ではないかとすら思えました。
(中略)
>そして『どうする家康』の瀬名にも注目です。>カルトじみたお粗末な慈愛の国構想のせいで、彼女自身だけでなく嫡男が死に、家康も大変な目に遭い、悪女を払拭するはずが、愚かさまで加えられたかのような設定でした。
>それでもやたらと甘ったるくロマンチックな描写をして、これで悪名を晴らしたと製作者が語っていたのだからどうしようもない。
屁理屈を捏ねていないで素直に渡しの意を汲んで私の気に入る行動を取らないラブコメ女は演じる俳優含めセクハラやひどい侮辱してサンドバッグにしたいとでも言えばよいのではないですか。

大河コラムについて思ふ事~ 
『どうする家康』第34回~

お千代さんにしろ瀬名さまにしろ、人にはどんな理不尽でも一旦気持ちを飲み込んで正妻の器の大きさを見せなければいけない場合もある訳で、ため息をついたり怒って抗議に行ったり内心は穏やかではないという描写もあったんですが。
人の上に立つ人や一族のまとめ役が立場考えず感情爆発させて破壊行動ばかりする訳にはいきません。
ましてや江戸時代以降ならうわなり打ちや仇討ちは認められないでしょう。

『青天を衝け』より
『青天を衝け』より

おまけにキーアイテムはニコライ・バーグマン風の花です。
いい加減『どうする家康』作中に出てきた訳でもない箱に押し花を詰めた小物というだけで全く無関係のニコライ・バーグマン氏の商品を間接的にでも執拗に中傷するのはやめましょう。
中傷するのは何見氏だけなのでドラマのせいにはできないと思います。
それにあの築山の押し花は箱の底に一向宗門徒がつかう『正信念仏偈』が入っており、阿弥陀如来と共に信仰の拠り所であり、石川数正公の瀬名さまや松平信康さまへの供養の証です。
人の思いや信仰を『カルトじみた』『オカルト』と馬鹿にする人には分からないと思いますが。

『どうする家康』より
『どうする家康』より

>それほど慈愛溢れる女性なのに、自分の策に溺れてあまりに酷いことをしていた弟を許せず、結果的に相手の命を縮めるという結末を見せます。
結果的に源氏滅亡にいたり、北条家の政敵になった御家人たちを自分の手を汚し粛清しつづけた義時公。
頼朝公と政子さんが御家人をまとめ上げて作った鎌倉幕府を守るために、泰時公に引き継ぐために自分が汚れ役引き受けて手を汚してきたのをずっと描写されてきたのですが。
政子さんだって余命いくばくもない弟がもう手を汚さなくて済むように愛あっての薬を捨てる行為だと思います。
『自分の策に溺れてあまりに酷いことをしていた』とは。

『鎌倉殿の13人』より
『鎌倉殿の13人』より

>戦災孤児である駒は、自分のような境遇の人を減らす政治を求めていました。
お駒ちゃんに関しては何度も書いていますが、時代背景に合わない女性の描き方に批判が出た事などには目を向けないのでしょうか。

大河コラムについて思ふ事~ 
『光る君へ』第9回~
大河コラムについて思ふ事~ 
『光る君へ』第9回~

・月は見ている?

>今回は月が大変印象的でした。
>月岡芳年『月百姿』を彷彿とさせます。
>花山天皇と藤原道兼を描いた珍しい絵であるため、よく引用されるこの作品は連作。
『月百姿』(つきのひゃくし、つきひゃくし)は、月岡芳年が1885年(明治18年)から1892年(明治25年)に発表した浮世絵の連作。月をテーマとした全100点揃物の大判錦絵です。
何見氏曰く太田記念美術館で2024年4月3日(水)~5月26日(日)の会期で展示があるのだそうです。
こういう有意義な情報ならたくさん伝えてほしいのですが。

月岡芳年画『月百姿 花山寺の月』

因みに月岡芳年は『石山月』(月岡芳年『月百姿』)では石山寺で『源氏物語』を執筆する紫式部を描いています。

月岡芳年画『月百姿 石山月』
『源氏物語』を執筆する紫式部

・アジアドラマと比較すると答えが見えてくる?

>『麒麟がくる』の東庵と駒が「ありえない」と叩かれましたが、彼らの職業特性をふまえればそうおかしくもない。
>周明はそんな便利な医者枠ですので、期待しましょう!
上記でも書きましたが、歴史上の人物を押しのけて身分差や慣例を超えて将軍の愛人や帝の御典医の様な度が過ぎるなろう系キャラになった事が視聴者の中には好ましくないと不興を買っていたのですが。
『光る君へ』の周明は越前にやってきた宋の見習い医師で、まひろさんに宋の言葉を教え、二人は親しくなるそうです。
為時公は後に越前国国司になり、任国に渡ります。
敦賀は貿易拠点であり、まひろさんも共に越前に行くならば宋人と交流があってもおかしくないのでは。

・光秀や足利義昭など、歴史上の人物を動かし始めた。出番も増えて、ヒロインどころか「裏の主役」みたいになり、そこに違和感を覚える視聴者が続出した。
・駒は医師に仕える薬作りの町娘にすぎない。まして序盤では、門脇いわく「(光秀に)絶賛片思い中」という乙女だった。それが終盤では将軍の愛人のような立場になったりして、そのぶん、主人公との距離も遠ざかることに。おかげで、そのヒロイン性にブレが生じた 

AERA

>あまりに現実が辛い!もういっそ隠棲して楽器演奏してゆったり暮らそう!
>こういう隠遁を究極の勝利とする思想は、中国史ではおなじみです。
『さて、まひろと道長の二人が、道長の思い通りになったらどうなっていたか?』というIFストーリーの話かと思えば、この後延々と中国ドラマやアニメの話をしています。
全てを捨てて一緒に来てくれと言う道長卿に対して、まひろさんは『ひもじい思いもした事もない高貴な育ちの貴方が生きてくために魚を取ったり木を切ったり畑を耕している姿全然思い浮かばない。』と貴族の貴方には到底無理だと指摘し思い止まらせようとしています。

文化とは水のようなもので、国で区切ろうとしても流れ出しでゆく。
>そういう水の如き魅力が、このドラマにはあると思います。

延々と中国ドラマやアニメの話、はっきりと言って蛇足ですのでご自身のnoteか別記事を立てて語ってください。


※何かを見た氏は貼っておりませんでしたが、今年もNHKにお礼のメールサイトのリンクを貼っておきます。
ファンの皆様で応援の言葉や温かい感想を送ってみてはいかがでしょうか?
































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