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大河コラムについて思ふ事~『光る君へ』第4回~

1月最終週です。先週は雪も降り、寒さも厳しくなっています。
まだまだ寒さはこれからですので皆様健康には充分お気を付けください。
さて、光る君へ第4回。
今週も『武将ジャパン』大河ドラマコラムについて書かせていただきます。
太字が何かを見たさんの言質です。
御手隙の方に読んでいただければと思います。それでは。


・初めに

>世襲や身分制度への疑問を呈し、翻弄されながら迎えた第4回
世襲や身分制度への疑問』とは何なのか、ついに具体的に書くのをやめたのでしょうか。

>ついに再会を果たせた、まひろと“三郎”。
>正体を伏せたままの二人であったが、互いの素性を明かすことはできるのか?
永観2年(984年)。
土御門殿での歌比べの帰り道、「四条万里小路の辻で散楽を見たい」と言うまひろさん。
従者の乙丸に「姫君が見るものではない」と止められながらも、まひろさんは「見に行く」と倫子さまの真似をしてふふふと笑ってみせます。
四条万里小路の辻では散楽一座が帝と詮子さまの一件の風刺劇をやっており、まひろさんは『三郎』藤原道長卿に再会します。
というのが3回終盤。
4回では再会から物語が始まります。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

・偽りに偽りを重ねる女?

>永観2年(984年)、散楽でアキに扮する直秀に対し、まひろは謝るように迫ります。
散楽が終わり、アキに扮していた直秀が「今度は6日後だ」と声を掛けています。
まひろさんが「アキの人」と呼びかけ直秀に駆け寄ります。
道長卿を指し「この人は貴方と間違えられて獄に入れられた。謝って。」と謝罪を求めました。
直秀は「悪い事はしていない」と言い、まひろさんは「放免に追いかけられていた」と返します。
すると直秀が「放免に追われるのは皆悪いのか?」と反論します。
もとはと言えば直秀が取り締まり中の放免に盗みの疑いをかけられ、そのうえ侮辱するような態度を取ったため追われていた事から騒動になったのですが・・・。
「すぐ出て来られたし、もういい」とその場を取り成す道長卿。
「また見に来い」とだけ告げ直秀は去っていきました。

『光る君へ』より
『光る君へ』より

まひろさんは、なぜ直秀が『三郎』が許された事を知っているのか疑問でした。
「なぜ知らせに来たんだろう』と呟くまひろさんに道長卿は「何の事だ」と尋ねます。
まひろさんは直秀が自分と間違えられた道長卿の無事を見届けた後、まひろさんの居場所を調べ人目に付かぬ様無事を知らせてくれたが彼が「無事だ」と言った途端すぐ消えた事を話します。

『光る君へ』より

>「すぐ怒るんだな」
>”三郎“は面白そうに話しています。
>彼の周りの人々は、貴公子に対して怒りすら見せないようにしているのでしょう。
「親切な人だと思っていたのに、三郎に謝らないのは腹が立つ」とまひろさん。
道長卿は「すぐ怒るんだな」と動じません。
『彼の周りの人々は、貴公子に対して怒りすら見せないようにしている』と何見氏は言っていますが、道長卿の次兄・道兼卿は優秀な兄や気楽な弟と比べられ、汚れ役を父に背負わされた鬱屈や伴侶に恵まれないコンプレックスもあり苛立ってよく元服前の道長卿(三郎)に怒りの矛先を向けていたのですが。(第1回参照)
また、道長卿は街に出かけて放免に誤認逮捕されたことで父・兼家卿にも叱られており『すぐ怒る人』を身近で見ていると思います。

『光る君へ』より
『光る君へ』より

「三郎のために怒っている」とまひろさんは言いますが、道長卿は「その事はもうよいと言ったろう』と返します。
「絵師の所でまひろさんを尋ねたが、『そんな者はいない』と追い返された」と道長卿は言い、「代筆は偽りだったのか」と問います。
「また作り話をしてしまった」とまひろさんが謝り、「あの代筆は実は男性がやっていたのだ」とさらに言います。
道長卿は「よく怒り、よく偽りを言う女子だな」と呆れています。
そして道長卿は「あの日お前は男の声で笑い、男の声を出していたと言った』とまひろさんを見つめて言います。
そして「代筆仕事の男はまひろであろう」と声をあげて笑い「偽りに偽りを重ねておる」と言います。
まひろさんは「三郎も偽りを言った。会えるまで絵師の所に何度でも行くと言いながら一度しか行かなかった」と文句を言います。
「なぜそれを知っているのだ」と道長卿に聞かれて言葉に詰まっています。
代筆屋が男なら「絵師の所に何度でも行く」と告げた道長卿の事をまひろさんが知っているのはおかしいからですね。

『光る君へ』より

「俺はまひろのように無暗に怒らぬから慌てずともよい」と道長卿は断り、「それよりもいつもと違う身形だが、帝の落とし胤と言うは真なのか」と尋ねます。
まひろさんは「偽りに決まっているでしょ」と言い、「未だ六位で官職から遠ざかったままの藤原為時の娘である」と明かします。
「今日は和歌の会でこのような格好をしている、藤原でもず~っと格下。だから気にしないで。」と言うまひろさんに道長卿は「俺の事、今度会った時話すと約束したのを覚えているか?」と尋ねます。
「覚えている」というまひろさんに道長卿は自分の素性を話そうとしますが、藤原宣孝公が通りがかります。

『光る君へ』より

・あの娘を弄ぶな?

>野暮なおじさんになりそうなところを、軽妙で魅力的な男性を演じている。
>しかも、まひろとの年齢差もわかる。
>彼以外になかなかできないと思えるほどのはまり役です。
「随分な大胆なことをやっておるな。外出は禁じられておると聞いていたが?」と軽口を叩きながら宣孝公はまひろさんに近づきます。
そして傍らの道長卿に「お前は誰だ?」と尋ねます。
宣孝公は庶民の姿の道長卿の顔を知らないような素振りです。

『光る君へ』より
『光る君へ』より

「私が飛ばした履物を拾ってくれたので、礼を言っていたの」とまひろさんが割って入ります。
以前四条万里小路の辻で小石を蹴ろうとして草履を飛ばし道長卿が拾ってくれた事をまひろさんは覚えていてすかさず利用していますね。
草履を飛ばしてしまい拾った道長公が手ずから草履をまひろさんに履かせる場面は『蹴鞠をしている最中に中大兄皇子(天智天皇)の靴が脱げ、中臣鎌足公が蹴り飛ばした中大兄皇子の履物を拾う逸話』のオマージュの様でもありました。
この時、道長卿はまひろさんに「お前は一体誰なんだ」と尋ねていましたがまひろさんは素性を明かし、今度は道長卿が宣孝公に「お前は誰だ?」と尋ねられリフレインの様です。

『光る君へ』より

宣孝公は納得し「世話になったな」と道長卿に声をかけます。
そしてもう帰ると言うまひろさんに乙丸が渡した虫の垂れ衣が付いた市女笠をかぶせ、宣孝公は馬に乗せ送って行きます。

『光る君へ』より

まひろさんは宣孝公に散楽の話をします。「次も見に行こうと思う。次の散楽」と技と道長卿に聞こえる様な大きな声を出します。馬上でまひろさんと二人乗りした宣孝公は「そんな大きな声で言わんでも聞こえる」と呆れています。

『光る君へ』より

藤原宣孝公は永観2年(984年)の時点で蔵人所の官吏である六位蔵人と左衛門尉を兼任しています。
生年は不詳。最終官位は正五位下・右衛門佐。
彼の性格を表す逸話として清少納言の『枕草子』114段に御岳詣での話があります。
正暦元年(990年)宣孝公は吉野山の金峰山寺に御岳詣でを行いますが、「御嶽は必ず『粗末な身なりで参詣せよ』と権現様も決して仰るまい」と子息とともに派手な着物で参詣した事が書かれています。

『枕草子』114段

>屋根にホイホイ登れる。
>右大臣家の横暴に憤っている。
>道長のことを知っている。
>放免に追われている。
>義賊の類でしょう。
>社会格差を犯罪で埋めようとしていて、それに自分なりの正義感を覚えている。
>だから悪いことをしていないと開き直っているのです。
>そうでもしなけりゃ、世直しができない――そんな社会の閉塞感も浮かび上がってきますね。
道長卿は道端の花を手にし、百舌彦さんと歩いていました。
すると屋根の上から、「もう散楽には来るな」と言う声が聞こえます。
声の主は直秀でした。
「先ほどまた来いと言っただろう」と言う道長卿に「気が変わった」と答え「娘の心を弄ぶのはよせ」と言います。
「娘とは誰だ?」と問う道長卿に「とぼけるな。藤原為時の娘だ。手を引け。右大臣家の横暴は、内裏の中だけにしろ」と直秀は答えます。
「そういうことは散楽の中だけで言え」と反論する道長卿に百舌彦さんが同意し言葉を真似ます。
そして「屋根の上などに座っていたら、尻が痛かろうに」と道長卿が言います。

『光る君へ』より
『光る君へ』より

第1回でも書きましたが、『散楽』は奈良時代に日本に伝来し、中世まで行われた演芸です。
初め雅楽と並んで宮廷で保護されますが、桓武天皇の時代・延暦元年(782年)に廃止されます。
律令制での散楽戸による伝習が廃止され朝廷の保護を外れた事で、散楽は寺社での宗教的行事の余興や街頭などで以前より自由に演じられ、庶民の目に触れる様になりました。
狂言の様な滑稽な芸や物まね、曲芸、奇術・傀儡回し・短い寸劇など大衆芸能で娯楽的要素の濃い芸能だったそうです。
その後、『座』という専門的な芸能集団ができ、田楽・猿楽などに受け継がれ、派生して能・狂言・歌舞伎などに転じていきます。

『信西古楽図』
東京藝術大学大学美術館所蔵

芸能考証担当の友吉鶴心さんによると、正倉院に散楽が描かれた絵図が納められており、それをもとにオリジナルの芸能を作成したそうです。
作中では散楽師たちの演じる寸劇は貴族に対する風刺劇となっています(帝と右大臣家の対立だけでなく源高明卿が策謀により左遷された安和の変らしき寸劇も演じられていました)が、風刺的なものがあったかどうかについては、絵図からは分からないそうです。
直秀を演じる毎熊さんのコメントによると、『この時代のヒエラルキーの最下層から世の中を俯瞰でよく見ていて、明日の命も知れぬ身ながら笑って強く生きていこうとする胆力がある』とあります。
義賊は『金持ちから金品を盗み、それを貧民に分け与える、義侠心のある盗賊(小学館デジタル大辞泉)』ですが、散楽一座自身が最下層と言う事で金品を盗み貧民に施す事もありながら生活のために盗賊稼業も辞さず、忍び込んだ裕福な貴族の家で情報を仕入れ風刺劇という大衆娯楽に昇華しているのではないでしょうか。

『光る君へ』HPより

・身分とは兎角難しいもの?

>身分秩序が壊れた結果、争いが起き、血が流れる様は『鎌倉殿の13人』で描かれてましたね。
>これぞ日本史の宿命かもしれない。
まひろさんは宣孝公とともに自邸へ戻りました。
乳母のいとさんは「お帰りが遅いので、殿(為時公)が先にお戻りになられたら大変」と案じていました。
「そこで出逢うたので少し話をしておった。引き止めたのはわしじゃ」と宣孝公が言い、まひろさんには「今日の事は父上には言わぬ故、あの男には近づくな」と忠告します。
宣孝公は『三郎』がどんな身分素性であろうとまひろさんとは身分違いであり近づきすぎる事がよくないと思ったのでしょう。
まひろさんは「身分とはとかく難しいものでございますね、貴族と民という身分があり、貴族の中にも格の差がある」と言います。
宣孝公は「その身分があるから、諍いも争いも起こらずに済むのだ。もしもそれがなくなれば万民は競い合い、世は乱れるばかりとなる」と言います。

『光る君へ』より
『光る君へ』より

平安時代、『家人』は貴族や身分の高い者に仕える家臣でした。
武家社会になり鎌倉幕府が成立すると武家の棟梁である鎌倉殿(将軍)と主従関係を結び従者となった者を、鎌倉殿への敬意を表す『御』をつけて御家人と呼ぶようになりました。
御家人は新恩給与と本領安堵を『御恩』として受け見返りとして軍役と公事を『奉公』として請け負いました。
御家人同士は地方で土地を私有する武士団や派遣された下級貴族(官人)であり、利害関係の間柄のため合議制を敷いてもしばしば領地の配分などで諍いを起こしました。(『鎌倉殿の13人』の英字タイトルが『THE 13 LORDS OF THE SHOGUN』と『lord=封建領主』だったのは御家人それぞれが領地を持った領主だったから)
頼朝公の嫡流が絶えた後は北条義時公の嫡流である『得宗』が鎌倉幕府の実質的な支配者となっていきました。
鎌倉殿と御家人は『御恩と奉公』と言う利害関係で成り立っており、地位を安堵することで御家人を組織し『御成敗式目』などの法で秩序を保っていました。

>隣の中国では、魏晋南北朝は貴族の時代。
>魏以来の「九品官人法」により、こんな状態が訪れます。

上品に寒門無く、下品に勢族なし。
九品中正で上の品等にされた人々には寒門=貧しい家の出身者は無く、下の品等とされた人々には勢族=有力者がいない
要するに上流階級は一部の有力者で固められていた。

九品中正・・・三国時代の魏に始まり、魏晋南北朝に晋、南朝で行われた官吏登用制度。
豪族の貴族化がもたらされ、隋では科挙が行われるようになる。

>そのせいかルッキズム全盛期になり、アホなボンボンはコスメとファッションに夢中で、ろくに仕事もしない。
>それではいかんと採用されたのが【科挙】です。
と、何見氏の中国上げが延々続きますが。
すごく分かりづらい説明です。
九品とは、一品から以下、九品までの九つに分けたランクの事です。
中正とは、各郡の出身者一名が政府によって任命され、その地の人に品等をつけた役職です。
個人の力量や才能よりも、血統がよく財力のある豪族の子弟が選ばれるようになり地方の豪族が中央に進出して、上級官僚の地位を独占し『門閥』になりました。
人材を実力本位で選出しようとしたのが高級官僚資格試験であり『科挙』でした。

日本でも導入されながら定着はせず、試験ではなく血統で地位が決まるやり方は幕末まで連綿と続き、福沢諭吉をして「門閥制度は親の敵(かたき)」とまで言わせることとなります。
日本では唐制度を参考にしながら朝廷が官僚制により諸国に国司を置き直接統治し、古代日本の伝統である血縁による氏族制度を併用していました。
また郡司は古来の地方豪族が任ぜられ、地方行政が行われていました。
中国の様な集権国家のための『科挙』制度や側近政治のための宦官も日本では採用されていません。
平安時代中期では律令制が崩壊しかけており、康保4年(967年)に最後の格式である『延喜式』が施行されほとんど完全な形で今日に伝えられています。
福沢諭吉の生まれた幕末では『武士の子は武士に、農民の子は農民に、商人の子は商人にという様に、生まれた家で生涯の身分や地位が決まる時代』ですが現代では日本国憲法第22条第1項に於いて『何人も、公共の福祉に反しない限り、居住、移転及び職業選択 の自由を有する。』と規定されています。

>で、現代の日本はどうか?
>世襲がこうもアピールされる国って、日本以外はそうそうありません。
イギリス、日本、スペイン、スウェーデン、ベルギーなどの立憲君主制の国々では世襲の君主がおり、『国王は君臨すれども統治せず』と言う表現もあり、憲法に於いて君主の権力が制限を受ける政治体制なのですが。
日本国憲法第一条には、「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」とあります。

・宣孝は悩みを聞くモテ男?

>まひろは思想をきっちり学んでいます。
>荀子は前回出てきた孟子の「性善説」と比較される「性悪説」で有名です。
>『墨子』は相当上級者、なかなかマニアックですね!
漢籍でマウントを取りたがるのにそのマニアックな荀子の『性悪説』や墨子の解説は一切ないのでしょうか。
「帝が退位され東宮様が即位されれば、為時殿にもいよいよ日が差してこよう、大事な時だから父上に迷惑がかからないようにせねばな」と諫める宣孝公。
「私は迷惑な娘でしょうか」とまひろさんに問われ、「そのように聞かれると困る」と宣孝公は困惑します。
まひろさんは「母上を殺した咎人を突き止めることなく、間者になれと言う父上の方がおかしいと思う」と言います。
間者の意味を測りかねる宣孝公。
「自分を左大臣家の姫たちの集いに遣り、一の姫の倫子さまが、東宮様に入内されるお気持ちがあるのかどうかを探らせている」とまひろさんが言い、宣孝公は驚きます。
「学問とは何のためにあるのでしょうか。『論語』も『荀子』も『墨子』も人の道を説いておりますのに、父上はその逆ばかりなさっています。父上は父上はその逆ばかりなさっています。誰よりも博学な父上なのに」とまひろさんが嘆きます。

兼ねて相愛し、こもごも相利す。
墨子

意訳:みなが相愛し、互いに相利する。自分の事の様に相手を考えよ。

墨子

人の性は悪なり
荀子

意訳:人の本性は悪である

荀子
荀子『人之性悪』白文
荀子『人之性悪』意訳

『荀子』の性悪説は『人の本性は悪である』が教師や規範による教育、礼儀の指導によって筋の通った『善』に導く事ができるとあります。
3回で藤原公任卿が諳んじた『孟子』の『性善説」は『人は皆、人の不幸を見過ごすことができない心をもっている』とありました。

『光る君へ』より

>そうなんです。
>まひろはおかしい。
>これだけ父に怒りつつも、間者として従っているのです。
>父には震えるほどに腹が立つのに、左大臣家には興味があるのだとか。
>まひろは善悪混淆型の珍しいヒロインですね。

まひろさんの父への嘆きに対し、宣孝公は「それは父上も人だからじゃ」と諭し、「間者になることを断ったのじゃな?」と問います。
「いいえ」とまひろさんは答えます。
まひろさんが「父には震えるほど腹が立ちながら、倫子さまには興味があった」と言うと「それもまひろが人だからじゃな」と宣孝公。
「父と自分の関係が今後どうなるかと思うと、胸が苦しくなるが、分かることも許すこともできない」と言うまひろさんに「思いが屈したらわしに吐き出してみるといい、よい策が見つからずとも、心の荷を軽くするくらいはできよう」と宣孝公は言います。

『光る君へ』より

まひろさんは父に「左大臣家の姫君を探れ」という間者の様な使命を言いつけられ利用されたと憤りながら、倫子さま初め姫君との交流や知見を深める事、何より自由に外出できる事の楽しさが勝ち承諾してしまったのでしょう。
人は自分の欲を満たせるものがあると平時では思いもよらぬ行動やありえない思考に陥ってしまうものだという事でしょうか。
宣孝公は「それもまた人間だ」と言います。
人間の美しい部分だけではなく人間の欲望に忠実なところも炙り出されていく作品だと思います。

>そうそう、ここでマウンティングしながら「俺はさァ、こうだと思うよ!」と言っちゃうタイプの男はモテませんよね。
>マンスプレイニング(Mansplaining)、略して「マンスプ男」としてむしろ嫌われる。

◆ 男たちはなぜ「上から目線の説教癖」を指摘されるとうろたえるのか(→link

現代新書

『マウンティングしながら「俺はさァ、こうだと思うよ!」と言っちゃうタイプ』
ドラマ本編と関係ない、中身のない独りよがりの暴言を『諫言』と称して他人に一方的に押し付けてくる、何かを見た氏の事でしょうか。
盛大なブーメランです。

>思えば2023年の大河は「イケメンが言えばええ」とばかりに、かっこつけた演出で中身のないセリフを戦国武将が喋り散らすドラマでした。
>マンスプ男の妄想ストーリーなど早く忘れたいものです。
戦国時代~江戸初期の『どうする家康』と平安時代である『光る君へ』を時代背景比較ができないのにわざわざ比べているのですか。
『早く忘れたい』のなら一切話題の俎上に上げず忘れてください。
こちらの『どうする家康』レビューでは、男性が上から目線で説明や説教をすることを指すマンスプレイニングの例として「『どうする家康』って史実を全然なぞってなくない?」「そういうことを言いますけどね。たとえば近年の説では……(と、延々と知識蘊蓄を流してくる)」とありますが、過去に時代考証の先生に史料を調べていない点を指摘された事を根に持っているためにわざわざ『マンスプ男は嫌われる』としているのではないかと思います。

武将ジャパン『どうする家康』
25回レビューより

・円融天皇、譲位す?

>道長もモテる男らしさがありますね。
>こんなに口の悪い姉だろうが会話をきっちりこなす。
>めんどくさそうなあしらいをしたら魅力が出ません。
東三条殿に戻った道長卿。
直秀の言った『弄ぶ』の意味を考えていた道長卿に「浮かない顔ね」と詮子さまが声を掛けます。
「少し考え事をしていた」と言う道長卿に「下々の女子と縁を切った」と思い込んでいる様で道長卿は「そういう者はいない」と答えます。
詮子さまは道長卿が『下々の女子に懸想している』と推測しており、「身分の卑しい女子なぞ所詮一時の慰み者。早めに捨てておしまいなさい」と忠告していました。
自身も円融帝の女御として入内した身であり、右大臣家の三の君が身分の卑しい女性と懇ろになってはいけないと思っているのでしょう。
直秀の言う『娘の心を弄ぶのはよせ』も身分の差がありすぎるため道長卿がまひろさんを純粋な恋ではなく慰み者として見ていると思っているのでしょう。
詮子さまが口が悪いわけではなく御家のために手を引いたのかと確認したかったのだと思います。

『光る君へ』より
『光る君へ』より

>詮子はふくれて「意地悪! もうよい!」と返してしまいます。
>こういう甘えを引き出せるのだから道長はすごい。
詮子さまは、「帝のご譲位の日取りはいつ決まるのか、決まったら内裏に挨拶に行こうと思う」と言います。
「どう思う?」と何度か道長卿に問うと困惑気味に道長卿は、「そうお聞きになるのはおやめください、既にお心はお決まりでしょう」と返します。
詮子さまは「もうよい!」と不満げにその場を去っていきます。
詮子さまと道長卿は仲が良く、なんでも気兼ねなく話ができる姉弟です。
「甘えを引き出せる」のではなく純粋に姉の問いかけに答えているだけで詮子さまの思うような答えではないため拗ねているにすぎないと思います。

>そもそも君主が、まだ若いのに譲位するというのがおかしい。
>占いで決めるのは中世ですし、まだ“あり”としましょう。
>でも、この安倍晴明は買収される人物でもある。
夜を徹して陰陽師・安倍晴明公により占いが行われ、円融天皇の退位・そして東宮・師貞親王の天皇即位の日が決まりました。
さらに次の東宮は懐仁親王となります。
「大嫌いな詮子様の子なのに」と女房達が噂します。
「誰が産んだって我が子は我が子」と別の女房が言い、「忙しくなる」と慌てています。
さて、律令国家では『陰陽寮』という役所が設置され、そこに所属する呪術師・占い師として『陰陽師』が置かれます。
陰陽寮での官人陰陽師(宮廷から正式に任命された陰陽師)の職務は暦の作成、祈祷などの儀式を執り行い『穢れ』を清める事、方位や時間の吉凶に関する占い、天体観測や気象観測、天変地異の報告などです。
藤原実資卿が記した日記小右記永観2年(984)7月27日条には『安倍晴明が文道光とともに円融帝から師貞親王(花山帝)への譲位と懐仁親王の立太子の吉日吉時を占い、日程が8月16日、癸巳の巳の刻・申の刻と決まった事を勘申した』とあります。
その後、翌日その日時勘申の日が重日に当たり(古暦で陽が重なる巳の日と陰が重なる亥の日)問題とされ、永観2年(984)7月29日条には『改めて譲位と立太子の吉日吉時を安倍晴明が文道光とともに占い、日程が8月27日巳の刻に譲位・未申の刻に立太子となった』とあります。(二十九日、丁丑。(『園太暦』文和元年八月二日条による)今朝、道光・晴明朝臣等、譲位・立太子等の勘文等を持参す。来月二十七日、巳時・未申時等なり)
因みに晴明公が占いに使っていたのは『算木』ですね。

『小右記』
永観二年(984年) 七月二十八日条
『光る君へ』より

・実資、断固断る?

>実資としては、御世が変われば蔵人頭も変わることが内裏のならわしだと主張します。
>しかし、師貞はそれを破りたい。
>煩わしいのがいやで、一新したいのです。
次の帝として即位することになった東宮・師貞親王は蔵人頭・藤原実資卿にそのまま蔵人頭でいてくれと要請します。
しかし実資卿は、「畏れながら、それはお許しください」「御代が代われば蔵人頭も交代するは内裏の習わし」と東宮さまの留任要請を固辞しています。
東宮さまは「煩わしい習わしなど無用、自分は関白も左大臣も右大臣も当てにしておらぬ」と言い、代わりに外戚の叔父・藤原義懐卿(権中納言)と乳母子の藤原惟成卿(権左中弁)、指南役を長年務めた藤原為時公、そして蔵人頭として実資卿を側近にしたかったのです。
実資卿は「右大臣に媚びない」と言う理由で東宮さまに評価され、留任を請われましたが、実資卿は辞退を申し出ます。
義懐卿が「共に蔵人頭を」と申し出てもこれを固辞し続けました。

花山天皇と、藤原九条流・小野宮流の略系図
https://sengoku-his.com/2201
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

実資卿は有識故実に明るい故実家・資産家としても知られましたが、物事の要点を押さえ、個人の利得や名声のために真実を覆さないという良識人で円融帝の信頼も厚かったのでしょう。
しかし筋を通す性格のため「煩わしい習わしなど無用」という東宮さまの考えには賛同しかねたのかもしれません。
藤原実資卿を演じる秋山さんは花山帝について「花山天皇、めちゃくちゃなんでね。やっぱり嫌なんでしょうね、うん。相当嫌でしょ。だって、あんな被り物とか、取っちゃいけない時代らしいですからね。パンツを脱がすのと一緒でしょ、たぶん。でも、自分にはやってこないので、やっぱりちょっと線引はしているんでしょうね、あの人なりに。色々な嫌いがありますけど、変な意味ではなくて、あの感じは嫌ですね。離れたいでしょ、あんな言うことを聞かない、荒々しい、わがままなね。そんなのパワハラとかで、すぐ言いますもん、オレ、現代だったら。『大人になりなさい。調子に乗るんじゃないよ』」と評しています。

『光る君へ』より

『蔵人頭』は四位または五位の者が選ばれ、定員2名の令外官(律令制にない新規の役職)が天皇の秘書官的な役割を担う蔵人を指揮し、勅旨や上奏の伝達・文書の作成や保管、物資の調達・天皇身辺の世話などを取り仕切りました。
蔵人は天皇の践祚(せんそ)に際しては職を解かれましたが、次第に新天皇の蔵人・蔵人頭として再任される例が出てきました。
『六位蔵人』といわれ、位階は六位と低くても、上級貴族も一目置く出世コースだったそうです。
蔵人頭は、ほとんどの場合三位や参議に任じられると離任しました。
参議に欠員が出た場合に離職して昇任することも多かったため、公卿への登竜門的な役職でもありました。
蔵人頭は禁色(一定の地位や官位を持つ者以外に禁じられた装束の色)である『青色(麹塵・青白橡)』の袍を許されました。
この袍には、桐竹鳳凰麒麟という帝がハレの儀式でお召しになる黄櫨染にも入った文様が織り込まれています。
『源氏物語』の登場人物・頭中将は第4帖『夕顔』では蔵人頭と近衛中将を兼ねている設定です。

>すると、すかさずご丁寧にナレーションがはいる。
>「当時の被り物をとられることは下着を脱がされる感覚」
>【露頂】(ろちょう)と言いますね。
>パンツを脱がせてくる上司なんて、そりゃ実資は嫌でしょう。
頑なに辞退を繰り返す実資卿に「天罰が当たっても知らぬぞ」と義懐卿が言います。(義懐卿は東宮さまの外叔父に当たり、自身の地位の保持のため迎合している様ですね。また惟成卿は乳母子でありこちらも同様の様です。)
「う~!なぜじゃ、なぜじゃ、なぜじゃ!」と東宮さまは激高し、義懐卿と惟成卿に近づき冠を奪い取ってしまう暴挙に出ました。
傍で見ていた藤原為時公はあまりの事に口をあんぐりと開け驚いています。
ナレーションが『当時被り物を取られるという事は、今でいうなら下着を脱がされたと同じ感覚の恥辱であった』と平安時代の烏帽子・冠を取られる事が如何に恥辱を説明しています。

『光る君へ』より
『光る君へ』より

『鎌倉殿の13人』でも、【亀の前騒動】で牧宗親が被り物を脱がされ、悲痛な声をあげておりました。
源頼朝公が妊娠中の妻・北条政子さんの目を盗み、伏見広綱と言う武士の屋敷に『亀の前』と言う女性を囲い、寵愛しました。
それを聞いた政子さんは継母・牧の方(作中ではりくさん)と図り、牧の方の兄・牧宗親公に屋敷を破壊する『後妻打ち』を頼みました。
これが頼朝公の逆鱗に触れ、宗親公は人前で怒鳴り付けられた挙句、その髻を切り落とされました。
この時政子さんの父で頼朝公の舅である北条時政公は屈辱に怒り領国の伊豆に帰っています。

また、北条義時公が妻の八重さんを亡くした後彼女の残したみなしごたちを烏帽子を落としても拾う暇もないほどの忙しさで育てている場面や源頼家公とともに井戸へ転落しかけた平知康公が救出された際烏帽子を井戸の中に落としてしまい必死に手で髻を隠す場面がありました。

『鎌倉殿の13人』より
『鎌倉殿の13人』より

>右大臣・藤原兼家が参内します。
>藤原文範はじめ、群臣が丁寧に挨拶していて、源雅信が「賑わっておるのう……」といささか羨ましそうでもある。
>東宮の孫となる兼家は、また頂点に近づいたのでした。
右大臣・藤原兼家卿は藤原文範卿から、懐仁親王が東宮となった事で祝辞を受け、他の公達からも挨拶をされています。
藤原文範卿は為時公の除目の際に申し文を読んでいた方ですね。

『光る君へ』より

左大臣・源雅信卿は「賑わっておるのう」と近臣に呟いています。
『東宮の孫となる兼家』とありますが、これでは東宮さま(懐仁親王)の孫が兼家卿と取れる文脈になってしまいます。
正しくは『東宮の外祖父となる兼家』かと思います。

・花山天皇に入内したくない倫子?

>雅信はうっかり、花山天皇が即位式で女官を引き摺り込んでコトに至っていたことまで話しかけていたのでした……。
源雅信卿は倫子さまに、「次の帝(師貞親王・後の花山帝)に入内する気はないか」と尋ねます。
「兼家が東宮の外戚となれば、その力は増すであろう。自分が隅に追いやられないためにも、倫子が入内するのが一番である」との考えからでした。
しかし雅信卿の妻・穆子さまは、雅信卿が『倫子を自分の出世の道具にはしない、入内はさせない』と言った事を覚えており、夫を止めています。
倫子さまも、次の帝の女好きを知っており、「入内して幸せになれるのかしら。帝のお心を失って東三条殿に下がった詮子様のようにはなりたくない」と言います。
「即位すればお人柄も変わるやも」と言いかけた雅信卿、妻子の顔を見て「無いかな・・・無いな・・・」と前言を撤回します。
「今のは父の独り言だ」と断りつつ、「即位の日も高御座の中に女官を引き入れて事におよ・・・」と帝の醜聞までうっかり話してしまいました。

『光る君へ』より

『江談抄』では永観2年(984年)8月の花山帝が即位の折、大極殿の高御座で「馬内侍(うまのないし、源時明卿の娘)」と言う女官を引き入れ事に及んだという逸話が記述されています。

花山院御即位之日。於大極殿高座上。(中略)先令犯馬内侍給之間。

意訳:花山院は、即位の日に大極殿の高座の上で、まだ式典の進行の合図が鳴る前に、馬の内侍を犯していた。

『江談抄』

やらかしてしまった花山帝ですが、『江談抄』や『古事談(鎌倉初期の説話集)』には記述があるものの藤原実資卿の日記『小右記』では事に及ぶような記述が無く、『玉冠甚重、已可気上、仍可脱御冠(天皇の被る冠は甚だ思い。もう上せてしまいそうだからこの冠を脱いでしまおう!)』と冠を嫌がり儀式も終わらぬうちに脱ごうとする様子が書かれています。
ドラマ作中では右大臣家の嫡男・藤原道隆卿の流した噂となっていましたが、即位式という公的な場での重要な儀式で権威づけのための荘重な高御座に女官を引き込み事に及ぶというスキャンダルであり、後世に奇行として誇張されて伝わった面もあるのではないでしょうか。
花山帝は当世から『内劣りの外めでた』などと評され、乱心の振る舞いを記した説話が『大鏡』などに残されています。
2回では「よく似た親子で手応えも似ておる。どちらと寝ておるか分からなくなる事もしばしばじゃ。」と母娘の双方を妾としてお手付きにした話が語られました。

何見氏はどうする家康47回で作中そのような描写が無いにも関わらず、『時代を超えても気持ち悪い、母と娘の二代にわたり恋心を抱くという設定』と言っていましたが、今作ではそういう醜聞を激しく叩く事はしないのでしょうか。

『大河コラムについて思ふ事~『どうする家康』第47回~』より

>なんと娘に甘い父でしょう。
>かわいらしくて仕方ないんですね。
>目の中に入れても痛くないとはこのこと。
>実際、倫子はかわいいから、それもそうなります。
雅信卿が娘の倫子さまをかわいがっているのは自明の通りですが、以前に『倫子を自分の出世の道具にはしない、入内はさせない』と言っていたのを妻の穆子さまが覚えており、右大臣家の権勢への対抗と自己顕示のために娘の入内を画策する事を良しとしなかったのでしょう。
加えて花山帝の女子好きを倫子さまは心配しており、円融帝の寵愛を失い東三条殿に下がった詮子さまを引き合いに出し難色を示しました。
それを聞いて雅信卿も引き下がります。
後に倫子さまを一条帝に入内させる話が持ち上がりますが、年齢差などもあり穆子さまはこれに反対しています。
左大臣家は女性の意見が反映されやすい家柄なのではないでしょうか。

>そんな倫子が抱いているのが、これまたかわいらしい猫。
>日本最古の猫というと、諸説あって特定は難しいものですが、この時代「唐猫」(からねこ)というペットが愛好されていたことは確実です。
現在発見されている中での日本最古の猫の形跡は紀元前1世紀頃、長崎県にあるカラカミ遺跡より出土された弥生時代の遺跡だそうです。
猫の名前の由来はについては諸説あり、ネズミにまつわる名前の由来が最も有力なのだそうです。
さて、倫子さまの抱く赤い紐が結ばれた首輪をつけた猫。
『信貴山縁起絵巻』や『石山寺縁起絵巻』に描かれた猫も赤い紐をつけています。

『信貴山縁起絵巻』
『石山寺縁起絵巻』

『唐猫』とは中国から輸入した猫の事です。
愛玩動物として猫が人に飼われ始めたのは平安時代からです。
唐猫は平安貴族たちからは高貴な猫としてとても人気だったそうです。
宇多天皇は父から譲り受けた黒猫を殊の外かわいがっており、帝の日記『寛平御記』にはその溺愛ぶりが伺える記述があります。

「愛其毛色之不類。餘猫猫皆淺黑色也。此獨深黑如墨。爲其形容惡似韓盧」

意訳:私の猫は類まれな毛色をしている。他所の猫はみんな浅黒い色なのに、うちの猫は墨のような漆黒の毛色をしておりとても美しい。まるで韓盧(韓の国の名犬)のようだ。

『寛平御記』

宇多帝から派生した宇多源氏である左大臣家は猫好きの血筋を受け継いでいるのかもしれません。
双六盤を覗き込む猫は駒を狙っているのでしょうか。

『光る君へ』より
『光る君へ』より

奇行や好色で有名だったとされる花山帝ですが、和歌や絵画などの芸術的な才能を持っていたことでも知られています。
花山帝は唐猫を詠んだ歌があります。
父・冷泉帝の后、昌子内親王のために唐猫を探し出したときに詠んだ歌だそうです。

敷島の 大和にはあらぬ 唐猫の 君がためにぞ もとめ出たる
花山天皇

意訳:大和(日本産)の猫ではなく舶来の唐猫を貴女の為に特別に探し出しました

花山天皇

一条帝(懐仁親王)はご自身が飼っていた猫が子猫を生むと、人の赤子が生まれた際に行う祝い事の『産養い』を執り行い、宮中で盛大に子猫の誕生を生まれた初夜から9日目までお祝いし続けました。
さらに『内裏には高貴な身分の者しか自由に出入りができない』という理由から従五位下の位を持つ女性につける『命婦』を猫に贈り、『命婦の御許(みょうぶのおもと)』と名付け、殿上人として乳母を付け大切に育てたそうです。

>さて、その晩、散楽一座は盗賊となって左大臣家に忍び込み、家財道具を盗んでゆく。
>鮮やかな手並みでした。
夜、土御門殿に盗賊が入りました。
散楽一座の直秀たちは黒装束に身を包み、盗みを働いているようです。
彼は盗みの疑いをかけられていた者を助け放免に追われていましたが、本当に盗みを働いていたようです。
盗品を売り捌き貧しい民草に分ける『盗賊』とは直秀たちだったのかもしれません。
脚本の大石静氏は『スタッフとも会議して、そして散楽やってるだけじゃつまんないんで、実は盗賊だとか義賊で、朝廷のぜいたくな藤原氏に対する反逆の心を持ってるものも出さないとバランス悪いなっていうんで設定した』との事です。

・姫君サロンで盗賊トーク?

>倫子サロンでは、自然、盗賊についての話題で盛り上がります。
土御門殿に盗賊が入った事を倫子さまが他の姫君たちに話し、「えー怖いわ!」と盛り上がります。
赤染衛門が「みだりに盗賊の事など口にするものではない」と注意します。
まひろさんは「盗んだものを売り捌いて、貧しき民に与える盗賊もいると聞いた事がある」と口を挟みます。
「辻で人々の話を聞いた」と答えるまひろさん。
散楽一座の事も思い出しているのでしょう。
まひろさんは「辻も歩けば馬にも乗ります」と言い、倫子さまは「馬に乗るとは盗賊みたいだ」と興味深げです。
帝にも繋がる御家であり、左大臣家の姫君の倫子さまには初めて聞く知らない世界だったのでしょう。
そして赤染衛門は、盗賊の話をやめさせます。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

>実は平安時代末期から、「女騎」という言葉もありました。
>文字通り馬に乗る女であり、平安京から外にでて、山に入っていくとその手の女盗賊もいたのです。
>そういう存在があってこそ、巴御前もいる。
>彼女は、女騎の中でも最上位ということです。
『女騎』で検索したところ検索に掛からず、『騎女』で検索すると葵祭の斎王代の列に『騎女(むまのりおんな)』という女官が出てきます。
斎王とは伊勢神宮または賀茂神社に巫女として奉仕した未婚の内親王または女王(内親王宣下を受けていない天皇の皇女・親王の王女)です。
葵祭の『斎王』は賀茂神社に奉仕した斎王で『斎院』とも呼ばれました。
昭和31年(1956年)に斎王に因み、『斎王代』と女人列が創設され京都ゆかりの一般女性から選ばれ、斎王の代理ということで『斎王代』となりました。
斎王代を中心としてその周囲に蔵人所陪従(くろうどどころばいじゅう
)、命婦(みょうぶ)、女嬬(にょじゅ)、童女(わらわめ)、騎女(むまのりおんな)、内侍(ないし)、女別当(おんなべっとう)、采女(うねめ)ら女官の列が続きます。
馬に乗る女性ではありますが盗賊ではなく女官です。

騎女(むまのりおんな)・・・神事を司る女官で、騎馬で参向する女性。
斎王付きの清浄な巫女。騎馬で参向するのでその名がある。(京都観光Navi)

京都観光Navi

巴御前は『平家物語』「木曾最期」の章段に登場する木曽義仲公に仕える大力と強弓の女武者です。

「木曾殿は信濃より、巴・山吹とて、二人の便女を具せられたり。
山吹はいたはりあって、都にとどまりぬ。
中にも巴は色白く髪長く、容顔まことに優れたり。
強弓精兵、一人当千の兵者なり」

※便女(びんじょ)とは「便利な女」の意味で、戦場では男と同等に戦い、本陣では武将の側で身の回りの世話(閨含む)をする女性の事。

平家物語 - 巻第九・木曽最期

>かぐや姫はなぜ、五人の公達に無理難題を突きつけたのか?
>「好きではなかったから」といった答えが主流の中で、まひろだけが、ぶっ飛んだことを言い出します。
>やんごとない人々に対し、怒りや蔑みがあった。
>身分が高いだけで威張るものが嫌だから、帝でさえ翻弄するのだろう。
>すると倫子は「おそれ多い」と呟きます。
>「空気読め」という意味かもしれない。
盗賊の話題を制した赤染衛門が「今日は『竹取物語』についてお話ししましょう」と言います。
赤染衛門は姫君たちに「かぐや姫はなぜ五人の公達に無理難題を突きつけたのでしょう?」と尋ねます。
姫君の一人しをりさまが「ウーン・・・。誰のことも好きでは無かったから、かしら?」と答えます。

『光る君へ』より

まひろさんは「かぐや姫には、やんごとない人々への怒りや蔑みがあったのではないかと思います。帝さえも翻弄していますから」と答えます。
「畏れ多い事」と倫子さまは言います。
『空気読め』というよりも『やんごとない人々への怒りや蔑みから帝さえも翻弄する』というかぐや姫考察に『畏れ多い』と言ったのではないでしょうか。
「身分が高い低いなど何程の事というかぐや姫の考えは、まことに颯爽としていると私は思いました」とまひろさんが早口気味に話します。
それに対し倫子さまは「まひろさんは、私の父が左大臣で、身分が高い、ということをお忘れかしら」と釘を刺し、場が凍ります。
少しの間が開いた後、倫子さまはウフフと笑い、「ほんの戯言。皆さまそんなふうに黙らないでくださいませ」と言い、まひろさんも「申し訳ございませんでした」と謝る事で場の雰囲気が和んでいきました。
まひろさん幅の空気を読むことがあまりうまくないというか一度自分の知識を語り出すと止まらないオタク気質の面も持っているかもしれません。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

『源氏物語』17帖『絵合』に『中宮の御前の物語絵合せ』の場面が出てきます。
天徳4年(960年)3月30日、村上天皇によって行われた『天徳内裏歌合』に準拠しているといわれます。

村上帝の御前で催された『天徳内裏歌合』

娘・前斎宮(のちの秋好中宮)の後見を内大臣に昇進した源氏の君に言い置いて亡くなった六条御息所。
忘れ形見の前斎宮を養女とした源氏の君は実子である11歳の冷泉帝の許へ入内させます。
冷泉帝は最初年上の梅壺(斎宮)女御に慣れませんでしたが、絵画という共通の趣味があり、寵愛を増していきます。
先に娘を弘徽殿女御として入内させていた権中納言(頭中将)は負けじと豪華な絵を集めて帝の気を引こうとします。
藤壺中宮の御前で物語絵合せが行われ、それをきっかけとしての御前でも梅壺対弘徽殿の絵合せが催されます。
源氏方はいにしえの、権中納言は当世の絵師と書家で対抗します。
最後の勝負に源氏が出した須磨の絵の見事さと感動的な内容で人々の心を打ち、梅壺方が勝利を収めます。
絵合せ後、源氏は藤壺中宮に絵を献上し、藤壺中宮は絵合せの参加者全員に帝に代わり、御衣(おんぞ)を賜ります。

源氏物語17帖『絵合』あらすじ

その中に『竹取物語』に言及する場面があります。
絵合とは双方が出した物語(絵巻)の評価をディベート方式で言い合う趣向の様です。
作中の赤染衛門の『竹取物語』の講義も質問(お題)に沿って各々が考えを言い合う方式でした。

源氏物語17帖『絵合』より部分
『源氏物語図屏風(絵合・胡蝶)』
狩野養信筆 東京国立博物館所蔵

・右大臣兼家の野望と結束?

>いかがでしょう。
>まひろや義賊散楽一味がみたら「やっぱりこいつら悪どい、盗んじまえよ!」と言いたくなりそうです。
右大臣家では藤原道隆卿が「我が家の運も開けてまいりました」と父の兼家卿に祝意を伝えています。
道兼卿も「めでたい」と言い、道長卿は頭を下げます。
兼家の関心は、次の帝(花山帝)の早い内の退位に向いており、息子たちに知恵を絞る様に言います。
まず道隆卿に意見を求めます。
道隆卿は「帝は無類の女好き。このままでは国が滅びるという噂を流すします。手筈は整っているので即位後すぐにでも」と答えますが、「それだけか」と兼家卿。
左大臣家で話題に上った帝の高御座での醜聞は流された噂の可能性がありますね。
次に道兼卿は「次の御代でも蔵人となり、帝のお心をとらえます。お力不足は見えているので、それとなく譲位を囁きます」と述べます。
兼家卿は「蔵人に再任されるよう諮ってみよう」と言います。
この時点で道長卿は聞かれていないのですが・・・
兼家卿は息子3人がそろったのを機に、宴を開く事にしました。
『盗んじまえ』とは右大臣家から具体的に何を盗むのでしょうか。
兼家卿が望んでいるのは『次の帝の早い内の退位』と御家の結束と東宮の外戚として権勢を振るう事です。

>重なるようで離れていく――そんな運命が見えてくるこの回。
>互いが思い合おうと、身分が引き裂いてしまいます。
まひろさんは、散楽が行われている辻へ急ぎますが、道長卿の姿はありませんでした。
「なぜ来ないの?あの時伝わらなかったの?身分などいいのに」とまひろさんは心で叫んでいます。
道長卿は散楽に行くべきか思案し厠に行くふりをしますが、道隆卿から「我が家の結束のために今宵は残れ」と言い渡されます。
身分違いの身分違いの個人の恋よりも御家の結束と『帝の退位への画策』という政治的な事柄の方が大事だからでしょう。
道長卿はついに辻に現れず、直秀が「あいつ来なかったな」と言いながら片づけをしています。
直秀は「これから散楽の仲間と飲む」と言ってまひろさんを誘います。
まひろさんは「おもしろそう・・・」と興味を示しますが、乙丸が「いけません」と頭を横に振ります。
「お姫様じゃ仕方ないか」と直秀も諦めた様です。

『光る君へ』より

・詮子が鬼になるとき?

>般若というのはこのことかと思うほど、凄絶な美しさを吉田羊さんが体現。
>初登場時は無理があるという声すらあった彼女ですが、こうなればもうこれ以上の適役はないと思えてきます。
詮子さまは円融帝に挨拶するために参内します。
詮子さまは挨拶の言葉を述べますが、帝は「朕に毒を盛ったのはお前と右大臣の謀か」とお尋ねになります。
詮子さまは帝の御食事に毒が混ぜられた事など知らないため、驚いた顔をしていますが「何もかもお前の思う通りになったな」と帝は冷たく仰います。
そして「懐仁が東宮となるために朕は引くがお前は許さぬ。二度と顔を見せるな」と仰います。
「何の事を仰せなのか分かりませぬ」と言う詮子さまに帝は笏をお投げになり、詮子さまは顔に傷を負います。
しかし帝は「人の如く血など流すでない。鬼めが」と仰るのでした。
詮子さまは退出し憤りながら東三条殿に戻ります。
円融帝がご自分に毒を盛ったと疑った詮子さまを鬼だと仰いましたが、右大臣家と折り合いが悪く寵愛を失った詮子さまが恨みつらみから自らを廃そうとしているとお思いになったのでしょう。
一般的に描かれる鬼は頭に2本、もしくは1本の角を生やし口には牙が生え長い爪があり虎皮の褌や腰布をつけ金棒を持った姿かもしれません。
また、地獄に於いては閻魔大王の獄卒のイメージもあります。
『鬼=おに』の由来は『おぬ(隠)』が転じたもので、元来は姿の見えないもの、この世ならざるものの意味があります。
大江山の『酒呑童子』の様に人に化けて、人を襲う鬼の話が伝わる一方で、憎しみや嫉妬の念が満ちて人が鬼に変化する場合があります。
『丑の刻参り』や嫉妬心から鬼と化した女性の話も伝わっており、能の『鉄輪』では『般若』の面を用います。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

>兼家は、詮子が去ると、ゲスなゴシップ誌かネットニュース、掲示板じみたことを言い出します。
(中略)
>なんてクズ男の解像度が高いドラマなんだ……
>家族や女性部下が怒っていたら「高めのプリンでもコンビニで買って冷蔵庫に入れて置こうか♪」と言い出す、そんなムカつくおっさんみたいな兼家だな!
東三条殿では帝に絶縁され戻った詮子さまが父兼家卿に怒りの形相で「毒を盛ったのは真でございますか!」と尋ねています。
兄弟が居並ぶのも構わず父の前に進み出て、「帝と私の思いなぞ、踏みにじって前に進むのが政。分かってはおりましたが、お命までも危うきにさらすとは・・・!」と詰め寄ります。
兼家卿は「何を仰せなのか、お命とは誰のお命か」と女御である娘に丁寧な口調でありながらその言葉はしらばっくれていると言ったものでした。
生まれた皇子が帝になった暁には外戚として権勢を振るう政治形態が『摂関政治』です。
3回作中では道長卿が街に出ているのを叱った折、「一刻も早く(懐仁)親王を東宮に、帝にしなければならない」「上を目指すことは我が一族の宿命である!」と言っています。
兼家卿は自身の兄と仲が悪く兄弟骨肉の争いを経て右大臣となったため、出世欲に執着し、后がねとして育てた姫君を帝に入内させ皇子も生まれたため、その皇子を帝にすべく手段を択ばず円融帝や花山帝を追い落とそうとしているのでしょう。
またそれを子息たちが継承し一族の結束を図り要職を独占したいと思うのも権力欲が強いからではないでしょうか。
『摂関政治』がどういうものか説明せず、『ゲスなゴシップ誌かネットニュース、掲示板じみた事』『家族や女性部下が怒っていたら「高めのプリンでもコンビニで買って冷蔵庫に入れて置こうか♪」と言い出す、そんなムカつくおっさん』とは?

貴族社会と摂関政治 - NHK
https://www.nhk.or.jp/kokokoza/nihonshi/assets/memo/memo_0000000565.pdf

NHK高校講座

道隆卿は詮子さまを落ち着かせようとしますが激怒している詮子さまは、「懐仁のことは兼家に任せず、自分が守ります。そうでなければいつ命を狙われるか」と兼家卿を信用していません。
妹を宥め続ける道隆卿でしたが、詮子さまは「兄上は嫡男なのに何もご存知ないのか」と詰り、道長卿に声をかけます。
道兼卿が「薬師を呼びます」と言いますが、詮子さまは「薬など要らぬ!生涯飲まぬ」と言い残して去って行きました。
一人の女性ではなく結婚すらも『入内』という政の一つで『政治の道具』にならなければいけない理不尽を詮子さまはずっと感じていたのでしょう。
詮子さまは後年出家し、一条帝の『国母』として強い発言権を持ち、上皇に準じる『東三条院』という立場となります。
また、4歳年下の弟・道長卿を可愛がり『栄花物語』には詮子さまが道長卿を「我御子と聞え給ひて」と、あたかも自分の子として扱ったような記述もあります。

『光る君へ』より
『光る君へ』より

>悪事で結束する右大臣家って……どこのヤクザですか?
(中略)
>娘がどれほど怒り、絶望しようが、父は権力のために強引な手段を押し通す――後半、きっと私たちはまた絶望するのでしょう。
兼家卿は詮子さまが去った後、「長い間の独り身で痛ましいことだ、これからは楽しい催しなどで気晴らしをさせてやろう」と言い息子たちに「飲み直そう」と声を掛けます。
道隆卿は兼家卿に向き合い、「存じ上げませんでしたが事情は今飲み込めました。詮子さまにはお礼をしなければなりません。これで父上と我ら三兄弟の結束は増しました。何があろうと父上をお支えします。」と言います。
道兼卿も兼家卿に一礼し、道長卿も戸惑いつつ礼をします。
道兼卿は毒混入事件の首謀者なので気が気ではなさそうですが。
何見氏は右大臣家、特に兼家卿の所業を『クズ男』『ヤクザ』『絶望』と殊の外嫌っているようですが、まだ摂関政治に於ける一族内の骨肉の争いは序章で、今後道長卿による摂関政治全盛期へと移っていくのですが。
まひろさんは自邸に戻って、細い三日月を眺めています。

『光る君へ』より
『光る君へ』より

・花山天皇の即位と、為時の任官?

>見つめ合い、長い黒髪のようにも見える布で互いの手を縛る二人。
>深い愛がそこにはありました。
>バイオリンの音色が、激しい愛を伝えてきますが、このドラマは日曜夜8時台ですから、ドラマ10『大奥』級の過激描写はありません。
>ただし、ギリギリのエロスは読み解き方で出てきます。
永観2年(984年) 8月27日、師貞親王は即位し花山天皇となりました。
そして10月29日、大納言藤原為光卿の子女・忯子(よしこ)さまが徒歩で入内なさいました。
忯子さまは藤原斉信卿の妹君に当たります。

『光る君へ』より

小右記
永観二年(984年) 十月二十九日
二十九日、乙巳。終日、雨。内に参る。
申時ばかり、公卿、召しに依りて参上す。
戌時、退下す。
明日、巳時に参入すべき由を公卿に仰せらる
亥時、退出す。
「大納言の女、去ぬる夜、徒歩にて参入す」と云々。

小右記 永観2年(984年) 10月29日条
『光る君へ』より

初夜の寝所では灯明の明かりが怪しく照らし、花山帝が忯子さまの両手首を几帳から取ったであろう『野筋』という濃紅と黒の紐でぐるぐると縛っています。
忯子さまはただされるがままに花山帝のお顔を見つめています。
『几帳』は寝殿造での調度で、目隠しや風よけまたは間仕切りに使われました。
土居という台の上に2本の柱を立てて手という横木を渡し、それに夏は生絹(すずし=生糸で織った練られていない絹織物)冬は練絹(ねりぎぬ=生糸のまま練り上げあとから精練した絹織物)の帷子をかけたものです。野筋という濃紅か黒の平絹の紐が付いており、花山帝は野筋を外して忯子さまの手首を縛りつけたのだと思います。
また画像では互いの手を縛るわけではなく、忯子さまのみであり帝は無類の女子好きで通っており、愛情の度合いもこの時点で手探りかと思います。
初夜に女性の手を縛るのが『日本の伝統』なのでしょうか。

小学館 デジタル大辞泉
『源氏物語』36帖
柏木(二)
『光る君へ』より

>花山天皇の即位により、藤原為時は12年ぶりに官職を得て、祝いの宴をしております。
藤原為時公の館では、12年ぶりに官職を得て『式部丞六位蔵人』になった為時公の祝いの宴が行われています。
東宮(師貞親王=花山帝)の指南役は兼家卿の伝手で賜った職務だったので公にはしていない様です。(だからまひろさんが左大臣家で父の職を聞かれ『無職』と言っていた)
式部丞は『式部省』の官吏です。
式部省は文官の人事、礼式、叙位及び任官、行賞を司り、官僚養成機関である大学寮も統括していました。
六位蔵人で式部大丞または式部少丞を兼職した者は昇殿を許されたため『殿上の丞』と言われました。
藤原宣孝公もこの時六位蔵人で同僚となりました。
宴の席で「長かった」と言い「世話になった」と礼を述べる為時公に、「陰陽師のように予言しただけじゃ」と宣孝公は言います。
そして「焦らずとも師貞親王様が即位されれば、お前の道にも日が当たる」と言っただけだと説明します。
「そうであったと言う為時公に宣孝公は、「漢文指南役に推挙してくれた右大臣(兼家卿)にも礼をいっておけ」と伝えます。
厠に行こうとして、酒に酔いふらついた為時公をいとさんが支え「お前にも世話になった」と為時公が言います。
月を見ているまひろさんに「まだ三郎のこと思ってるの?」と元服して藤原惟規を名乗る太郎さんが聞きます。
まひろさんは父の事を考えていました。
父上は何年振りかで上機嫌だったと惟規さまも同意します。
「あんな嬉しそうな顔は久々に見た」とまひろさんは父が大好きで漢籍を教えて貰っていた子供の頃を思い出しています。
いつもと違う姉の様子を怪しむ惟規さまでしたが、「人だからそういうこともある」とまひろは言い返し「明日になったらまた父に腹が立つだろう」と独り言を言います。

『光る君へ』より

・花山天皇の政治改革?

>政治分裂の構図です。
>この短い場面はおもしろい。
どの様に政治分裂構造があるのか説明くらいはあってもよいのではないでしょうか。
花山帝は民が銅銭を使いたがらない事に対し、「銅銭の価値変動が激しいのは、関白のせいではないか?」と仰り、関白・藤原頼忠卿ではなく側近の藤原惟成卿にお尋ねになります。(惟成卿は花山帝の乳母子に当たります)
律令制度のもとで朝廷が公的に発行した12種類の銅銭の総称を『皇朝十二銭』と言います。
製錬技術が未熟な日本では銅銭作りに必要な純度の高い銅鉱石の国内生産量が少なく貴重なものでした。
また『私鋳銭』と呼ばれる民間で作られた贋金が横行し貨幣価値の下落を招きました。
新貨の発行ごとに行われるデノミネーション(通貨単位を切り下げて新しい貨幣単位に改める事)で市場が混乱し、朝廷の貨幣と発行への信用が失墜し、米・絹・家畜などの物品の交換を用いて経済が回っていました。

惟成卿によると「長雨と日照りで米が不作となり、物価の上昇が激しい」との事です。
帝は物価を自ら決め『布一反を100文、銅一斤を60文と定める』様命じられました。
「さすれば民も喜び、朕を尊ぼう」と帝は満足げにされています。
右大臣・藤原兼家卿は、「値段は自ずと決まる様にするのが何より、無暗に人の手が加われば世の乱れのもととなります」とこれに反発します。
兼家卿は頼忠卿に「なぜこの事を申し上げないのか?」と詰め寄りますが、そもそも帝は関白である頼忠卿の言葉をお聴きになっていませんでした。
すると帝の外戚である藤原義懐卿が「帝の仰せであり、よしなにお取り計らいなさるが関白、左大臣、右大臣の役目である」と言います。
さらに「帝は凶作のため装束やお食事を減らし、天下に模範を示される。その旨を万民に宣べ伝えよとの叡慮である」と言います。
兼家卿は頼忠卿に、「関白がしっかりしないから義懐如きが大きな顔をする」と苦言を呈しますが「帝は誰の言葉もお聞きにならぬ」と頼忠卿。
花山帝は外祖父・藤原伊尹卿は既に亡く、政権を主導するのは叔父に当たる藤原義懐卿や乳母子の藤原惟成卿などでした。
義懐卿は権中納言。惟成卿は蔵人・権左中弁。
低い身分ながら『五位摂政』と呼ばれ、実務を司りました。
蔵人頭はひきつづき藤原実資卿が留任していました。
つまり近臣を身内で固め、内内で政をしようとしていました。
東宮は円融帝と詮子さまの間に生まれた懐仁親王。
外戚は右大臣・藤原兼家卿です。
兼家卿は花山帝の退位と東宮の早期即位を画策しており、即位当初から花山帝は有力貴族の支持を得にくかったのです。

戦国ヒストリー
https://sengoku-his.com/2201
『光る君へ』より
『光る君へ』より

>本作の時代考証の倉本一宏先生は、ドラマによって花山天皇の奔放さばかりが広まることを懸念しています。
『時代考証の倉本先生が花山天皇の奔放さばかりが広まることを懸念している』だけでは具体性がありません。
どの様な状況で後世の著作などで好色の逸話が付加されていったか、どの様な醜聞が広まるのを懸念しているのか、実態はどうだったのかなど少なくとも著作の感想やインタビューなどを挙げるのではないでしょうか。
倉本先生の著作『敗者たちの平安王朝 皇位継承の闇(角川ソフィア文庫)』の紹介文では『皇位をめぐって嵯峨天皇と争乱を繰り広げた平城天皇。宮中で殺人事件を起こし廃位となった陽成天皇。神器を見ようとするなど、異常な振る舞いが多かった冷泉天皇。色好みで奇矯な行動が目立つ花山天皇――。こうした天皇たちの奇行と暴虐に彩られた説話、そして「狂気」に秘められた知られざる真実とは。平安王朝の皇統の謎と錯綜する政治状況を丁寧にひもとき、正史では語られてこなかった皇位継承の光と影を明らかにする。』とあります。

>為時が読み聞かせてきた漢籍、『墨子』ではないのか? とも思えてきます。
>そんな革新的な考え方だからこそ、守旧派には疎まれることも伝わってきて、右大臣兼家は焦っているとも示されました。
平安時代、『墨子』については平安末期の保延6年(1140年)以降成立の漢詩文集『本朝続文粋』所収の藤原敦光卿(康平6年(1063年)~天養元年(1144年))の文に『墨子』の引用があるものの目立った受容はなく、『墨子』の唐本が輸入されたのは江戸時代の享保16年享保(1731年)です。
作中ではまひろさんも「『論語』も『荀子』も『墨子』も人の道を説いておりますのに、」と『墨子』を出してきていたので、為時公の漢籍の影響はあるかもしれませんが。
因みに為時公が作中で太郎さん(惟規さま)に講釈していたのは、1回では『蒙求 王戍簡要』、『史記・秦始皇本紀「指鹿為馬」』、2回では『史記 孟嘗君伝「鶏鳴狗盗」』でした。
3回でF4が『孟子』を学び藤原公任卿が『孟子』公孫丑上篇「人皆有不忍人之心」』を諳んじていましたが。

『光る君へ』1回より
『光る君へ』1回より
『光る君へ』2回より
『光る君へ』3回より

>平安のF4たちは今日も勤務中に話しています。
(中略)
>にしても、そこまで言っていいんですか?
>これは寵愛が別の女に移るまでの好機と冷静に見ているようにも思えます。
>今のうちに偉くなっておかねばならないと語る貴公子からは、なんだかゲスな臭いもしますね。
さて平安F4。
何見氏は『勤務中に話しています』とありますが、4人とも狩衣姿ですので平服。勤務外の勉強風景でしょうね。
関白・藤原頼忠卿の子息である公任卿は藤原斉信卿に、「忯子さまの入内で好機が回って来たな」と言います。
さらに公任卿は「仲が睦まじすぎてお付きの女官らも顔を赤くするほどとか」といいます。
斉信卿は「今のところ帝は忯子に夢中だが、そもそも帝の女子好きは病と言ってもいい、いつどうなるか分からん」と懐疑的です。
「早いところ偉くなっておけ、忯子さまに皇子を産んでいただかないと」と斉信卿が仲間たちに揶揄われる中、道長卿は冷めた表情です。
「ご寵愛は深いんだからそのうちできる」と乗り気にならない道長卿。
公任卿は「そんな呑気でいいのか?忯子さまに皇子ができればお前の甥の東宮はどうなるか分からないぞ」と言います。
道長卿が「毒を盛られるとか」と言い、場の空気が冷え謝っています。
道長卿も父・兼家卿による円融帝への毒混入事件を気にしている様で必要とあれば帝であろうと政敵側から命を狙われる事を懸念しています。
幼少の天皇あるいは病弱で政治を行うことができない天皇の場合、天皇を補佐しながら政治の重要事を判断する役職を『摂政』、成人した天皇を補佐して政務を行う役職を『関白』と言います。
61代朱雀帝の御代頃から摂政・関白は常設の官位となり摂政・関白を輩出する家系を『摂関家』と呼ばれました。
藤原氏のなかでも摂政・関白など最高位は、『氏長者』と呼ばれ、帝に娘を入内させ生まれた皇子の外戚となりゆくゆくは帝位につけ権勢を振るおうとしました。これを『摂関政治」と言います。

花山帝の外戚である藤原義懐卿の正室は忯子さまの実姉で忯子さまを女御にする事を望み義懐卿の援護を得て入内にこぎつけたのだとか。
忯子さまは帝から深い寵愛を受けたそうです。
こうして花山帝の周りでは藤原義懐卿と関白・藤原頼忠卿、右大臣・藤原兼家卿の対立は深まっていきます。

『光る君へ』より
戦国ヒストリー
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>道長は、筆を雑に扱っていて、そういうことだからあんな筆跡になるのだと苦言を呈したくなってくる。
>そういう扱いをすると筆がすぐ駄目になってしまいます、藤原行成を見習いましょう、と思わず言いたくなります。
道長卿の悪筆的な筆跡を論うのはこれで3度目です。
何見氏は書道指導の根本先生が藤原道長卿の性格のおおらかさから再現し、俳優陣が書きそのまま採用されている独特の筆跡も気に入らないようです。
道長卿は独特の筆致でありながらはユネスコ世界記憶遺産にもなっている『御堂関白記』を残しています。
道長卿を演じる柄本祐さんは根本先生の文字をもとに独特の『道長フォント』を編み出しているそうです。(『50ボイス』によるとなぜか先生も書けないらしいです。)
藤原行成卿は当代の能書家として知られ、小野道風・藤原佐理と並んで三蹟の一人に数えられた人物です。
能筆家の所と比較するのも不自然ですし、人を馬鹿にしてマウントを取りたいだけの様に思えます。

御堂関白記
国宝 陽明文庫所蔵
『光る君へ』
国宝 白氏詩巻 
藤原行成筆 東京国立博物館

・五節の舞姫身代わり計画?

>いるんですよね、こういうモテにさして価値を見出さない剛の女が。
>認めたくない人は、認めないんでしょうけど。
>かわいげのない女と思われても、まひろは動じない。
永観2年(984年)秋のある日、左大臣・源雅信卿が渋い顔で邸に戻り穆子さまと倫子さまが父を出迎えます。
雅信卿の浮かない顔の理由は11月の『五節の舞』に左大臣家から舞姫を出す事になったからです。
『五節の舞』は天皇の皇位継承に際し行われる『大嘗祭』、11月の二の卯の日に行われた『新嘗祭』という宮中祭祀で行われる『豊明節会(とよあかりのせちえ)』で4 ~5人の舞姫が舞いを奉じる催しです。
『大嘗祭』『新嘗祭』は天皇がその年に収穫された新穀などを天津神・国津神に供え、五穀豊穣を感謝する儀式です。
大嘗祭では5人の舞姫が舞うそうですが、作中では永観2年(984年)に行なわれた『新嘗祭』なので4人でしょうか。
最終日に行われる『五節の舞』は、大海人皇子(天武天皇)が吉野山に行幸なさった際、美しい天女のごとき女性たちが舞う姿をご覧になりその後国が大変豊かになったという伝説に基づくものです。

『光る君へ』より

五節の舞姫には権大納言の姫君・茅子さまと藤宰相の姫君・肇子さまが決まっています。

『光る君へ』より
『光る君へ』より

彼女たちは倫子さまの友人ですが、倫子さまは舞姫に選定されるのを「嫌です」と拒否します。
雅信卿によると、花山帝は弘徽殿女御・忯子さまに今は夢中なのだそうです。
しかし即位当日に女官を高御座に引き入れており、そのような帝のお目に留まるのは具合が悪いと考えているようです。
穆子さまが「身代わりがおりますわよ」と言い出し、まひろさんに白羽の
矢が立ちます。
五節の舞姫は大嘗祭では公卿2人と国司3人の5人の娘が、新嘗祭では公卿2人と国司2人の4人の娘が献ぜられます。
要は宴であり、帝が神に献上した穀物を召し上がり、五節の舞姫などの舞は群臣に賜るためのものでした。
帝のお眼鏡に叶った場合はそのまま寵愛を受ける可能性があり、天皇と舞姫の親である公卿の関係強化と権勢を示す場でもあったのです。

しかしもたらされた花山帝のよくない噂により左大臣家では難色を示しているという事でしょう。
まひろさんは「自分は倫子さまのように殿方から文が来るような女ではなく、高貴な方の目に留まることはない」と自信を持って言い切ります。
倫子さまは「変な自信があるのね」と言いつつ「ありがとう、まひろさん、一生恩に着るわ」と感謝し、まひろさんは「そんな、大袈裟です」といいます。
安請け合いしてしまったまひろさん。
舞姫は大変重い役目であり、稽古でも同じところを間違える始末で指南する赤染衛門に叱られています。
『モテにさして価値を見出さない剛の女』というよりも五節の舞姫は帝への寵愛を得て御家の繁栄に繋げるという政治的な動きがあり、不評な花山帝に献じられるかもしれないという左大臣家の懸念に対し、普段高貴な殿方の目にも留まらぬであろう下級貴族の子女であるまひろさんに身代わりとして白羽の矢が立つという話で、『モテたい』とか『可愛げが無いから認めたくない人は、認めない』とかいう次元ではないと思います。

『光る君へ」より

・息を呑む、乙女の舞姿?

>笏拍子に雅楽の荘厳な響き。
>これが天女の舞かと思えます。
>東洋代表として、舞姿は映像として出しておくべきでもあります。
>華流にせよ、韓流にせよ、舞姫が歌い踊る場面は定番。
五節の舞姫は『大嘗祭』『新嘗祭』に於いて献じられる貴族の子女による舞です。
なぜここで華流や韓流を引き合いに出して比較しなければいけないのでしょうか。
良いものは良いではいけないのでしょうか。
五節の舞姫は3日前に宮中に入り、付き従う介添えの女房や女童に世話をされながら身を清めて本番に臨みます。
藤原実資卿の『小右記』によると『五節の舞』は永観2年(984年)11月22日なのだそうです。

『小右記』
永観2年(984年) 11月22日条
二十二日、戊辰。今・明、内の御物忌。御諷誦を十五箇寺に修せらる。
秉燭、南殿に出御す。其の儀、例のごとし。是より先、左大臣、外任奏を奏せらる。武蔵権守祐忠を載す。是れ重服の者なり。大臣に仰せらる。
奏せしめて云はく、「案内を知らざる外記、載せ申す所」てへり。仰せて云はく、「早く除かしむべし」てへり。大相府、御後に候ぜらる。五節、参上せざる以前に退出せられ、式曹に候ぜらる。所労有る由を奏せらる。時々、降雪。内弁左大臣、出づるに晴。謝座す。其の後、降雪、間無し。仍りて雨儀を行なはる。内弁、大舎人を召す。良久しく称唯せず。仍りて内弁、座を起ち、催さしむ。其の後、称唯す。甚だ緩怠なり。小忌の参議公季、南方に御出せる後、参入す。惟成朝臣を以て、所労有りて遅参せる由を奏せしむ。勅許有り。仍りて腋より参上す。「惟成、更に又、内弁に□」と云々。
前例を知らざるか。五節、参上す。
亥四刻。
余、闌入を禁ず。五節、未だ出でざる間、還御す。此の間、舞姫、退下す。心神、宜しからず。仍りて退出す。伝へ聞く、「見参・禄の目録、内弁、御所に進み、奏せしむ」と云々

『小右記』永観2年(984年) 11月22日条

花山帝が玉座にお出ましになり、文官・武官が居並びます。
上空からのアングルに切り替わり、文官・武官の袍は身分で色が分かれ、四位以上は黒、五位は緋(あけ)、六位以下は縹(はなだ)となっているのが分かります。
まひろさんたち舞姫は釵子をつけて裳唐衣と言う女房装束で笏拍子の音に合わせて舞い始めます。

『光る君へ』より
『光る君へ』より

五節の舞姫に関しては、小倉百人一首12番の歌の作者・僧正遍照の歌にもなっています。
僧正遍昭は俗名を良岑宗貞(よしみねのむねさだ)と言い、『六歌仙』『三十六歌仙』の一人です。
五節の舞姫たちが舞う姿があまりにも美しく、天女の姿をもっと見ていたいと名残を惜しむ気持ちを詠んだ歌です。

天つ風 雲の通ひ路 吹きとぢよ をとめの姿 しばしとどめむ
僧正遍照

意訳:天を吹く風よ、(天地の間にある)雲の中の通路を吹き閉ざしておくれ。美しく舞う乙女たちの姿をもうしばらく地上に留めておきたいのだ。

僧正遍照

左大臣家がそうだった様に、我が娘が男たちの目に晒される事で面倒になるのを嫌い、別の娘に代わりを頼む事もあったようです。
『源氏物語』第21帖「少女」で源氏の君は腹心の藤原惟光の娘を五節の舞姫に出させます。(『源氏物語』では惟光も嫌がっていますが)
なお、この五節の舞姫になった惟光の娘は源氏の君の子・夕霧に見初められます。

『源氏物語』第21帖「少女」

まひろさんは舞ううちに、『三郎』に面立ちの似た男を見つけます。
その男はまごう事無き藤原道長卿なのですが、舞姫を前に居眠りをして道兼卿に「起きろ」と小突かれています。
しかも隣にいるのは、あの『ミチカネ』と思しき男です。
まひろさんは「ミチカネと言う人殺しの隣に三郎がいる。なぜなのか?」と気になりながらも何とか舞い終えました。
舞いの後、茅子さまと肇子さまが右大臣家三兄弟の話をしているのをまひろさんが耳にします。
「道隆さまの美しさがいい、道兼さまも思いのほか、三郎君(きみ)の道長さまはずっと居眠りしていた」と話しており、まひろさんは驚き彼女たちに尋ねます。
『三郎』が右大臣家の三の君・道長卿であり、その隣にいた道兼卿が母・ちやはさまの命を奪った『ミチカネ』で道長卿の兄君だと知り、気が動転したまひろさんは倒れてしまいます。

『光る君へ』より
『光る君へ』より

まひろさんは右大臣家の兄弟の素性を知って卒倒しましたが、五節の舞姫の中には重い装束での舞いと緊張でしばしば気分が悪くなり、途中で倒れたりする事例もあったようです。
長保元年(999年) 11月23日の五節の舞では『生昌朝臣(平生昌卿
)』の舞姫が急に体調を崩し不参加となった事を藤原実資卿が『小右記』、藤原行成卿が『権記』にそれぞれ記述しています。

『小右記』長保元年(999年) 十一月二十三日条
『権記』長保元年(999年) 十一月二十三日条

・MVP:花山天皇?

>まひろはなかなか過激で、身分なんかなくていいと言い出す。
まひろさんは父の官位が低くとも貴族であり、素性の知れない『三郎』には近づくな』と藤原宣孝公に忠告され、「身分とはとかく難しいものでございますね、貴族と民という身分があり、貴族の中にも格の差がある」と言っています。
『身分なんかなくていい』とは言っていません。
宣孝公は「その身分があるから、諍いも争いも起こらずに済むのだ。もしもそれがなくなれば万民は競い合い、世は乱れるばかりとなる」と言います。
身分秩序の中で平安時代なら『延喜式』という決まりがあり、身分の低い者は高い者に仕え、高い者は低い者の生活を安堵してこそ『諍いも争いも怒らずに済む』と宣孝公は言っているのではないでしょうか。
まひろさんは博学で漢籍を指南するほどの父が右大臣家に阿り、娘を間者に仕立てる事に苛立っていますが、それも身分秩序や政治制度があるからこそあえて信念を曲げなければ生きられない現実があるからではないでしょうか。

>花山天皇も、君主自ら質素な生活をして規範を示すと言い出す。
花山帝は民が銅銭を使いたがらない事に対し、「銅銭の価値変動が激しいのは、関白のせいではないか?」と仰り、「長雨と日照りで米が不作となり、物価の上昇が激しい」との報告があるにも関わらず物価を自ら決め『布一反を100文、銅一斤を60文と定める』様命じられました。
これに対して右大臣・藤原兼家卿は、「値段は自ずと決まる様にすべし、無暗に人の手が加われば世の乱れのもととなります」と反発します。
新貨の発行ごとのデノミネーション(通貨単位を切り下げて新しい貨幣単位に改める事)で市場が混乱し、朝廷の貨幣と発行への信用が失墜し、贋金の横行や物々交換での流通が現状にあるからです。
さらに「帝は凶作のため装束やお食事を減らし、天下に模範を示される。その旨を万民に宣べ伝えよとの叡慮である」と言います。
しかし、高位の貴族たちを警戒し、身内に近い人物をお傍に置くくような政策をして即位当初から花山帝は有力貴族の支持を得にくくなっています。
『凶作のため装束やお食事を減らし、天下に模範を示される』事も『長雨と日照りで米が不作』と聞いたうえでの『ならば節制すればいい』といううわべだけの政策に見えたのかもしれません。
例え理想があるとしても『社会のルールからはみ出す者』『実態にそぐわない者』は警戒され命の危険に晒されることもあるのが平安時代かと思います。

・五節の舞姫はありなのか??

>なぜ身代わりにするのか?
>花山天皇から倫子を逃すためならば、設定としてありではないでしょうか。
>このドラマは、かなりギリギリの設定を攻めてきて、それがよい。
>舞姫に目をつける花山天皇と、それに恐れ慄く設定も説得力は感じられます。
>そうそう、東洋の国家だって当然のことながら、過度な好色は軽蔑されます。
そもそも何見氏、五節の舞姫が舞う『五節の舞』が好色な帝や殿方の衆目に晒され品定めされるだけの機会だと思っているのでしょうか。
『五節の舞』がどういう場面でどのような催事なのかを分かっていないように思います。
『五節の舞』は天皇の皇位継承に際し行われる『大嘗祭』、通例11月の二の卯の日に行われた『新嘗祭』で行われる『豊明節会(とよあかりのせちえ)』で4 ~5人の舞姫が舞いを奉じる催しです。
『大嘗祭』『新嘗祭』は天皇がその年に収穫された新穀などを天津神・国津神に供え、五穀豊穣を感謝する儀式です。

『源氏物語』第21帖「少女」
室町時代・京都国立博物館所蔵

室町時代に衰微していた五節の舞は、宝暦3年(1753年)に再興され、現行のものは1915年大正天皇即位の大礼に際し新たに復活されたもので現代まで伝わってきた宮中祭祀です。
五節の舞姫は大嘗祭では公卿2人と国司3人の5人の娘が、新嘗祭では公卿2人と国司2人の4人の娘が献ぜられます。
帝のお眼鏡に叶った場合はそのまま寵愛を受ける可能性があり、天皇と舞姫の親である公卿の関係強化と権勢を示す場でもあります。
舞姫を出す有力者が装束を誂え、舞姫を出す家(まひろさんの場合は左大臣家)が手配します。
3・4日前から朝廷に入って準備を整え天皇の御前で予行演習を行うなどいろいろと段取りがあり、源雅信卿や倫子さま、『源氏物語』の藤原惟光の様に、衆目特に殿方に顔を晒して舞う事を嫌がる御家や姫君もいたかもしれません。
花山帝の場合は根っからの好色の噂があるという事もあり、面倒を起こしたくなく別の娘(まひろさん)に代わりを頼むことにしたのでしょう。
『青天を衝け』叩きがしたいのでしょうけど、幕末の水戸藩主・徳川斉昭公が好色から『梅見の席で好みの女中がいると即座に手を出し、手出しされた女にとっては名誉だろうとうそぶいていた。』事と宮中祭祀の『五節の舞姫』、何の関連があるでしょうか。

・人の性は悪なり??

>たとえば『孟子』を「漢詩」とする感想が出てきたりしますが、これを例えるなら、「『源氏物語』という俳句を読みました」という類のものとなります。
>もしもアメリカのドラマでそんな風に語られていたら、「気持ちはわかるが、そうじゃないんだ」となりませんか?
>そう言う類のミスなのです。
>漢詩はあくまで「漢詩」であり、『孟子』は思想を説く「四書」に分類されます。
>些細なことではあるのですが、重要なことでしょう。
下記引用は上記にも挙げた『源氏物語』第21帖「少女」ですが、これを見てパッと見て随筆や日記なのかなと思う事はあっても『5・7・5で書かれているから俳句ですね』と定義できるでしょうか。
『源氏物語』第4帖「夕顔」の様に和歌のやり取りが出てくる場合がありますが。

『源氏物語』第21帖「少女」
『源氏物語』 第4帖「夕顔」

この下記引用は『孟子』四端の白文ですが、漢文に疎い方が見た場合白文が読めずに思想を説いた『四書』と分からずに「漢詩」とする感想が出てきてしまったのではないですか。
『漢籍読解や東洋思想知識が減衰傾向にある』と嘆くならなぜ分かるように詳しく解説したりしないのでしょうか。
漢籍に詳しいんですよね?

『孟子』四端
白文

>このドラマに関する各メディアの記事で、紫式部が世界的に唯一突出した女性文人という趣旨の記述を時折見かけます。

「やめてください、優れた女性文人は私の前にだっています。本朝もおりますし、何より唐。卓文君、班昭、蔡琰、謝道韞、魚玄機、薛濤……漢籍を読めば出てくるでしょう。なんで知らないんですか?」

>ことさら紫式部を「日本スゴイ!」とか、「アジアでスゴイのは日本だけ!」といった言説に結びつけるのは、彼女が望むことでもないでしょう。>キャッチーだからって大仰なコピーを使うことは非常に危うい。
ことさら紫式部を「日本スゴイ!」とか、「アジアでスゴイのは日本だけ!」といった言説に結びつけるのは危うい』と言いながら『アジアでスゴイのは中国だけ!漢籍を読めば出てくるでしょう。なんで知らないんですか?』と漢籍マウントを取って才をひけらかして悦に入っているのはどうした事でしょうか。
蔡文姫や班昭で1世紀。
『世界初の女流作家』と定義するなら、それ以前の紀元前7世紀末に古代ギリシャの女流詩人・サッポー(サッフォー)がいますが、なぜ中国限定でしか見られないのでしょうか。

小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)

>『ちむどんどん』という朝ドラがありました。
>このドラマは「医食同源」が根底にあり、琉球の伝統食文化や、沖縄ならではの事情がプロットに盛り込まれていた。
>それが理解できなかったのでしょう、琉球差別としか言いようのないアンチコメントが多く見られたものです。
>しかも、それを集めてニュースにすることでPVを稼ぐメディアもあり、ドラマの感想で琉球差別の助長をするなんて何たることか、と頭を抱えたくなりました。
ここは大河ドラマレビューです。
朝ドラ批判がしたいのなら他に記事を書くか朝ドラレビューに移りましょう。
はっきり言って蛇足です。
『琉球の伝統食文化や、沖縄ならではの事情がプロットに盛り込まれていた。それが理解できなかったのでしょう』とありますが、『ちむどんどん』作中では時代背景的に沖縄からの農産物が害虫ウリミバエの拡散防止のため、1993年まで域外への持ち出しが禁止されていた事を無視して県外へ出そうとしている描写があった事を指摘する意見も見られました。(現在ウリミバエは根絶)
現在でも沖縄ではアリモドキゾウムシ、イモゾウムシといた害虫のため、サツマイモや紅イモは、消毒なしの沖縄県外への持ち出しが法律で禁止されているそうですがこれは琉球差別でしょうか。


人の性は悪なり――このことはネットが可視化している側面もあります。
>PVを稼ぎ、バズるためなら悪口やデマ、差別でも語るようになるのかもしれない。
>自戒もこめて、それよりも大事なことはある、ルールは守ろうと思う次第です。
つまり、私怨から自分の好きな作品を批判するアンチは『差別者だ』『差別の助長をするなんて何たることか』と勝手に怒り、『バズるためなら悪口やデマ、差別でも語る』行為を大河ドラマレビューで展開し、他人の好きな作品や登場人物、製作スタッフや俳優さんを中傷していたわけですね。

武将ジャパン 『どうする家康』48回より
故事・ことわざ・慣用句辞典オンライン

※何かを見た氏は貼っておりませんでしたが、今年もNHKにお礼のメールサイトのリンクを貼っておきます。
ファンの皆様で応援の言葉や温かい感想を送ってみてはいかがでしょうか?

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