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大河コラムについて思ふ事~『光る君へ』第13回~

4月上旬になりました。新入学・ご進級・新入社などおめでとうございます。
急な気温の変化など皆様健康には充分お気を付けください。
さて、光る君へ第13回。
今週も『武将ジャパン』大河ドラマコラムについて書かせていただきます。
太字が何かを見たさんの言質です。
御手隙の方に読んでいただければと思います。それでは。


・初めに

>漢詩の回で道隆に憧れを抱いていた藤原公任は道兼の手先となり、彼らには理想もない。
第6回では、花山帝の外戚として宮中で勢いづく藤原義懐卿一派に対抗するため、藤原道隆卿は藤原公任卿、藤原斉信卿ら若い貴族たちを招いて『漢詩の会』を開きました。
音曲・漢詩・和歌などに秀でた公任卿は自作の漢詩で「今の帝の世の揺るがぬ様」を詠み、道隆卿は公任卿の歌を褒め称えました。
道隆卿に憧れたというよりも、才能を正当に評価しない藤原義懐卿よりも、若い貴族の子弟の才能を採用しようとする道隆卿に付けば出世の保証があると思っていたのではないでしょうか。
公任卿を演じる町田さんは『光る君へ』公式HPのインタビューで『出世していくのは当然だと思っているのかなと。だって自分は能力もあるし、家柄も保証されているから、何も疑っていなかったのではないかと思います。』と仰っています。

『光る君へ』より

公任卿は打毬の時には、『俺たちにとって大事なのは、恋とか愛とかじゃないんだ。いいところの姫の婿に入って女子を作って入内させて、家の繁栄を守り、次の代につなぐ。女こそ家柄が大事だ。そうでなければ意味がない』と結婚も出世の道具と割り切る持論を展開しています。
寛和2年(986年)『寛和の変』と呼ばれる花山帝の退位・出家事件があり、一条帝が即位します。 
一条帝の外祖父である兼家卿が摂政となり、兼家卿は我が子を次々に出世させていきました。
公任卿は道長卿が仮名文字で和歌を習い、政略結婚や政に対して本気を出した事に脅威を感じます。

『光る君へ』より

摂家の勢いは止まらず、公任卿の父・藤原頼忠卿は太政大臣の職を辞します。
「父上が居らねばますます私の立場は弱くなってしまいます。」と言う公任卿に「先の帝の退位の謀の要となったのは道兼だ」と藤原道兼卿を評価し、「摂政も道兼を頼りにしているとわしは見る。道兼は道隆よりも若くやる気がある。道兼をそらすな」と後を託しました。
公任卿は父の言い付けを守り、道兼卿に近づいているのではないでしょうか。
出世して人脈を作りお家の栄達を望まなければ、理想の世の成就は難しいと思います。

『光る君へ』より
『光る君へ』より

>寛和の変から四年後が経過した永祚2年(990年)
寛和の変から4年』という意味ならば『後』はいらないのではないでしょうか。
藤原兼家卿の一族が花山院を退位に追い込んだ寛和の変から4年が経った永祚2年(990年)正月5日。
摂政・兼家卿は蔵人たちとともに一条帝に拝謁しています。
一条帝が元服を迎え、兼家卿が加冠役を務めます。
加冠役とは、元服の儀式で成人男子(冠者)に冠を着ける役目の人の事です。(出典 精選版 日本国語大辞典)
子息たちを昇進させ政権中枢に置き、政権の頂点を極めた兼家卿の地位は揺るぎ無いものとなりました。

>そして荘厳な音楽が実に素晴らしい。
>今年は美しく迫力のある音楽で、とても耳によいドラマです。
一条帝の元服での劇伴では、荘厳なパイプオルガンの調べが流れました。
こちらは道長卿が高御座の生首を発見しそれを始末し一条帝の即位式に臨む場面で流れたものと同じでしょうか。
下記記事では『時代劇らしいクラシカルな曲だけでなく「この楽器を時代劇に?」とびっくりするような楽曲もあり、この回はとりわけ「攻めた」音楽の数々に視聴者は騒然とした。』
『「斬新」という声と「合ってないのでは?」という声の両方が上がっていて、今のところは賛否両論といった印象』とあります。

ところで何見氏は『どうする家康』で流れた和楽器の楽曲やピアノソロについて、『ニコライ・バーグマンのボックスフラワーオルゴールにとても似合いそうな曲調』も『和風でもなく、オシャレなカフェのメニューにあったら似合いそうなアニメ』も『戦国時代の日本が舞台で、スカンジナビア風味を持ち込まれても私には意味がわからない。』と酷評していました。
日本が舞台のドラマであっても合うならば『クラシック』や『エレキギターのソロ』や『スカンジナビア風味』でもいいと思います。
『平清盛』では『タルカス』を使用したり、『遊びをせんとや生まれけむ』を当初作曲家の吉松隆氏は初音ミクに歌わせることを考えていたそうです。
また、『鎌倉殿の13人』では、ドボルザーク『新世界より』ヴィヴァルディ『四季~冬~』のアレンジがありました。

大河コラムについて思ふ事~
『どうする家康』第39回~

・藤原道隆一家?

>そんな兼家の長男である藤原道隆一家には、和やかな空気が流れています。
そんな兼家』とは子息たちを昇進させ政権中枢に置き、栄華を極めたという意味でしょうか。
項目が変わっているのだから具体的に書いた方がよいのでは。
兼家卿が摂政となり、道隆卿は正三位権中納言から従二位権大納言へ昇進。さらに永延3年(989年)には内大臣になっています。
道隆卿と高階貴子さまの嫡男・伊周卿、一の姫・定子さまがそれぞれ成長しています。
定子さまが「父上!母上!」と文を持って駆けてきます。
「兄上の恋文を見つけました」と両親に知らせますが、兄の伊周卿は「いたずら書きだ」と言いたました。
貴子さまは「いつまでも子どものようだ」と微笑んでいます。
道隆卿は文を盗み見た定子さまに過ちがあり、「恋心とは秘めたるもので、人に見せるものではない」と諭します。
「もうよろしいのです」と伊周卿は言いました。
そこへ弟の阿古(後の隆家卿)が、「兄上と姉上が喧嘩している!」と伊周卿と定子さまの喧嘩を知らせに来ました。
そんな次男に「もう仲直りしたぞ」と道隆卿が笑って答えます。
文は伊周卿と定子さまが争った際伊周卿が文を奪い返そうとし、破れてしまいました。
「自分も読みたかった」と貴子さまが言います。「ちっともときめかない」と誂う定子さまに、「最高の出来であったぞ」と伊周卿は自画自賛します。
「本当に伊周は漢詩も和歌も笛も弓も誰より秀でていますものね」と貴子さまが褒めます。
定子さまは「また兄上贔屓だ」と言い、伊周卿は「まことのことゆえ仕方ない」と答えます。
「兄上は文の相手に婿入りするのですか」と定子さまが尋ね、「それはまだ早い」と貴子さまが答えます。
「兄上を手放したくないのね」と言う定子さまは入内が決定していました。
「浮かれるな」と伊周卿が釘を差します。
何見氏は隆家卿が「兄の婿入りはまだか」と訊いたと言っていますが、実際は定子さまが「兄上は文の相手に婿入りするのですか」と尋ねています。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

>道長の弓のシーンはありましたが、伊周がお稽古をする場面はなかった。
>今後、出てくるのかどうか?
『今後、出てくるのかどうか?』ではなく、そういう逸話があるか調べたらいかがでしょうか。
『大鏡』には道長卿と伊周卿の『競べ弓(弓争い)』の様子が描かれています。

伊周卿が南院で人々を集めて弓遊びをしていました。
すると、突然道長卿がやってきました。
中関白・道隆卿は「思ひかけずあやし。(思いもかけず不思議な事だ)」と驚いたものの、道長卿をたいそうもてなしました。
そして、官位が高い帥殿(伊周卿)よりも先に矢を射させました。
すると、伊周卿が射抜いた数よりも道長が2本勝ってしまったのです。
道隆卿やお仕えしている人たちが「いま二度延べさせ給へ。(もう二本、延長なさいませ)」と言うので、道長は心中穏やかではなかったものの、延長戦を受け入れました。
道長卿は一射目で「道長が家より帝、后立ち給ふべきものならば、この矢当たれ。(道長の家から天皇や、皇后がお立ちなさるはずのものならば、この矢当たれ。)」と言うと、的の中心に命中。
次に射た伊周は、気後れして手が震えたのか、見当違いの方向へ矢が飛んでしまい、道隆卿は顔色が青くなりました。
さらに2射目では「摂政、関白すべきものならば、この矢当たれ。(私が摂政、関白になるはずのものならば、この矢当たれ。)」と射ると前のと同じ様に的が破れるくらい、同じところに命中しました。
すっかり気まずい雰囲気になり道隆卿が「射るな、射るな」と伊周卿を止め、その場の空気がしらけてしまいました。

『大鏡』競べ弓(弓争い)

>これも実に残酷な話なのですが、『源氏物語』で光源氏の息子・夕霧は「中の劣り」と予言されます。
>何が劣るか?というと、光源氏との対比です。

源氏の君と葵の上との間に生まれた夕霧。
宿曜の占いで源氏の君の子供たちの運勢を占ったところ、「 御子三人。帝、后かならず並びて生まれたまふべし。中の劣りは、太政大臣にて位を極むべし(お子様は三人。帝、后がきっと揃ってお生まれになるであろう。その中の一番低い子は太政大臣となって位人臣を極めるであろう) 」と出ます。
源氏の君は明石の姫君(後の中宮)誕生に際してこの宿曜が的中している事を考えます。
夕霧は源氏譲りの美貌に恵まれた貴公子で漢学に優れた優秀な官吏であり、実直で恋愛には不器用。
「好き者」の父に対し終始「まめ人」と言われました。
『中の劣り』と呼ばれながらも太政大臣になることを約束されました。
『光源氏との対比』ではなく、『源氏の君の3人の子の中で帝(冷泉帝)、后(明石中宮)に比べ地位が低い』と言う事ではないでしょうか。
臣下ですが太政大臣を約束されています。
しかし、実際の最高官職は右大臣でしたが。

>光源氏のモデルは複数名おりますが、恵まれた天才貴公子ぶりが伊周由来だとすれば、彼が努力する場面はなくても不思議はないかもしれません。
光源氏は架空の人物ですが、さまざまな実在の人物をモデルとした説が唱えられています。
源氏の君のモデルの有力候補は最も有力候補で生い立ちや境遇から源融卿とされています。
他には源融の父・嵯峨天皇。さらには、醍醐源氏、敦慶親王、藤原道長卿、藤原伊周卿、源光卿、藤原実方卿などが挙げられます。
最有力候補の源融卿はまひろさんと道長卿が逢瀬を楽しんだ六条河原院を造営した人です。(作中では廃院になっていますが。)

>ただし、それが顕著になってくるのは平安時代後期のことであり、武士の台頭がキッカケとなります。
>このころの貴族は、まだ殺傷を目的とせず、命中率重視でしょう。
>道長は、直秀に重傷を与えていないか悩んでいましたが、『鎌倉殿の13人』の坂東武者なら「一矢で殺せねえなんて恥ずかしいぜ!」と悩んだかもしれません。
平安時代中期の武士はまだ黎明期であり、源満仲公の一族郎党の様に貴族の家に仕え彼らの指示で荒事をやったり、地方に領地を貰いその地名を苗字として一族で武士団を作っている時代です。
貴族と行っても彼らの役職には『兵衛府』という宮門の警護や行幸・行啓の供奉(ぐぶ)などを担当する役所があり、道長卿は『右兵衛権佐』として右兵衛府に配属されていました。
貴族は死穢を忌避する事もあり殺傷を行わず、武士が汚れ仕事を担ったのでしょう。
鎌倉時代の御家人と京の貴族社会では『死穢』や戦に対する考え方が違うと思います。
また、武士にとっての弓矢は戦だけでなく、『流鏑馬』や『犬追物』『笠懸』という武芸の鍛錬にも使われました。
流鏑馬、笠懸、犬追物の3つを、『騎射三物(きしゃみつもの)』といいます。

・定子の入内?

>一条天皇の元服20日後、藤原定子が入内しました。
一条帝の元服から20日後、定子さまが入内しました。
道隆卿を当主とした『中関白家』の、絶頂期の始まりでした。
一条帝はまだ幼く男女の睦み合いはまだ早いとの事です。
定子さまは扇から面白い表情の顔を覗かせると帝も微笑まれました。

『光る君へ』より
『光る君へ』より

さらに定子さまは「お上の好きな物をお教えください。私も好きになります」と話題を振るなどしました。
帝は「母上、つばき餅、松虫」とお答えになりました。
定子さまは「虫だけは苦手なの」と打ち明けました。

『光る君へ』より

>ちなみに平安時代の鈴虫と松虫は、今とは逆
「母上、つばき餅、松虫」と仰る帝に対して「虫だけは苦手なの」と言う定子さま。
マツムシは昆虫綱直翅目マツムシ科に属する昆虫です。
成虫は8~11月に見られ、チンチロリンという雄の鳴き声が愛らしいので、リーンリーンと鳴くスズムシとともに親しまれてきました。
松虫が文学作品に登場するのは平安時代からですが、松虫と鈴虫の呼称は古今で逆転しているといわれています。
『花月草紙』には『今ここにては黒きを鈴虫といひ、柿(かき)の核(さね)のごとなるを松虫といへど、もとはりんりんと鳴くは松にて、ちんちろりんと鳴くは鈴なるを、誤りにけりともいふ』とあります。
(出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ))

秋の野に 人松虫の こゑすなり 我かとゆきて いざとぶらはむ
古今和歌集・詠み人知らず
意訳:
秋の野に人を待っている様な松虫の声が聞こえる。 
私を待っているのかもしれないから、いざ尋ねてみよう。

古今和歌集

>椿餅は最古の和菓子ともいえるほどのものです。
>当時は餡子はなく、甘味はせいぜい甘葛程度だとか。
>蜂蜜は実に珍しい強烈な甘味であったため、藤原実資が日記にわざわざ書くほど貴重なものでした。
藤原実資が日記にわざわざ書くほど貴重なもの』と言うなら具体的にその記述を書いてください。
椿餅は道明寺粉から作られる生地で小豆餡を包み、椿の葉で上下を挟んだ和菓子です。
平安時代、『源氏物語 若菜上』にも登場する最古の和菓子と言われています。
平安時代の椿餅には餡が入っておらず、道明寺粉の生地に甘葛煎で甘みを付け、丁子で香りが付けられたものだったそうです。

『源氏物語 若菜上』

平安時代、砂糖はまだ貴重でほとんどお菓子には使われておらず、甘味料は水飴とツル性植物の樹液を煮詰めて作られる甘葛煎(あまずらせん)でした。
『枕草子』にもかき氷に甘葛煎をかけて食べる場面があります。

あてなるもの。(中略)削り氷にあまづら入れて、新しき金椀に入れたる。
意訳:
上品なもの。削った氷にあまづら(甘味料)かけて、新しい金属製のお椀に入れたもの。

『枕草子』

小右記 長和五年(1016年) 五月十一日条には、藤原道長卿が大病を患い、牛乳を煮詰めてつくられた『蘇』と蜜を合わせたと思われる『蘇蜜煎』 を服したとあります。
『延喜式』の『蜜』の記録には『蘇』と並んで記述がある様です。
蜂蜜は薬としても利用されていた様です。
また、寛仁元年(1017年) 九月十二日条には『蜂が邸に巣をつくったので、蜂蜜を茶碗に2合採ることができた』とあります。
味は『なめてみたら極めて甘かった』と記されています。
忠明宿禰という典薬頭・権鍼博士が同行しており、薬としても利用されていた様子が伺えます。

小右記 長和五年(1016年) 五月十一日条
小右記 寛仁元年(1017年) 九月十二日条

>定子は日本史における最大の美女だと個人的に思います。
>そしてそれは清少納言プロデュースのおかげでもある。
(中略)
>戦国時代の美女となると、お市の方などは男性の願望や目線を通しての像となり、江戸時代の遊女もそうです。
平安時代、漢字は男手とも言われ、女性がそれを使って漢詩を作るのが憚られる時代でした。
定子さまの母の高階貴子さまは漢詩が得意で、並みの男性貴族の水準を超えるものだったそうです。
教養のある母を持つ中関白家の姫君・定子さまの局は女性が漢字を使う事に引け目を感じず、教養を身につけていける場所でした。
定子さまに仕え、漢籍や和歌の才を発揮した清少納言は教養の面からも相性がよかったのではないでしょうか。
『枕草子』では他人と顔を合わせる事に慣れておらず緊張し、夜にしか参上できない有様の清少納言に自分から近づき直に声をかけ、彼女の気を引こうとして絵を差し出し見せる好奇心旺盛な定子さまの姿が描かれています。

『栄花物語』では、一条帝の言葉として『心ばへのおとなおとなしうあはれなる方は誰かまさらむ(思慮分別があってしみじみと情け深い点では、彼女に勝る人はいるのだろうか)』という記述があります。
何見氏は『清少納言の目を通しての定子さま美女説。お市の方美女説は男性の願望や目線を通しての像』と主張していますが、『栄花物語』で一条帝の定子さま評は男性目線ではないですか。
お市の方美女説の出典は江戸時代の書物です。
『祖父物語』によれば「天下一の美人の聞へ」と美人の誉が高く、『賤嶽合戦記』では「天下第一番の御生(みあれ)付」とあって貴人として尊敬されたという描写があるそうです。

そのころ、道兼はまだ7歳の藤原尊子(たかこ)に、いずれ入内するようにと告げています。
その夜、道兼卿は酒を飲みながら、娘の尊子(たかこに、「大きくなったら入内するのだぞ」と言い聞かせていました。
妻の繁子さまは「まだ7歳だ」と苦言を呈しますが、道兼卿は「入内させるために学ばせるのなら、早いに越したことはない」と持論展開します。
繁子さまは「自身の栄達も大事だが、尊子の幸せも考えてほしい」と言います。
道兼卿は「入内ほどの誉れはない。まだ幼い帝と定子の間に数年は子はできまい。しかも皇子かどうかはわからない。その時こそ尊子の出番だ」と主張します。
尊子さまは父を恐れ、母の陰に隠れてしまいます。
道兼卿は父・兼家卿から家の道具としての在り方しか教えられていないのか、娘すらも后がねという道具にしか扱えないのではないでしょうか。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

ところで、道兼卿の妻の一人・藤原繁子さまは、道兼卿の叔母(兼家卿の妹)なので叔母甥の関係の結婚です。
何見氏は、『鎌倉殿の13人』レビューで藤原秀衡公が生涯を終えようとする際、自身の正妻を庶長子・国衡公に嫁がせました。(秀衡公の妻は嫡男・泰衡公の生母であるため国衡公は泰衡公の庶兄であり、継父になります。)
この庶長子ゆえ立場の弱い国衡公を『父』とすることで泰衡公に尊重させようとした秀衡公の策を『儒教規範は近親婚を嫌います。義母だろうが子と結婚するなんて、おぞましいこと。』と批判していました。
『光る君へ』では叔母甥の関係の結婚で子が産まれていますが、何も言わないのですね。
因みに北条義時公と八重さんも叔母・甥の関係で結婚しています。

『武将ジャパン「鎌倉殿の13人」レビュー』

・まひろは困った人を見逃せない?

>被衣姿のまひろが街を歩いています。
>針を買おうとするものの、お代に出された野菜に相手は困惑。
>同じく被衣姿のさわはまひろをフォローするように、鮎が美味しそうだとはしゃいでいます
ある日、まひろさんとさわさんはそれぞれ従者を伴い市を訪れました。
まひろは針を買おうとしますが、物々交換でカブを一つ渡しましたが商人には嫌そうな顔をされてしまいました。
まだ花山院の治世だった頃の永観2年(984年)、貨幣の物流を円滑にするため『破銭を嫌うことの停止』さらに寛和2年(986年)には額面と金属の価値が乖離した状態を改善する『估価法(物価統制令)』という政策を進めましたが上手くいかず市井では物々交換が主流の様です。
さわさんは鮎の干魚を売る店を覗き、「美味しそう」と言いますが、まひろさんは「買えないものは見ない様にしているの」と言います。
そんなまひろさんにさわさんは、「今度家の干魚を持ってくる」と言いますが、「そんな事はしないで。またお父上とお母上に叱られる」とさわさんを止めました。
まひろさんとさわさんの装束は虫の垂れ衣を付けた市女笠を被り、所謂壺装束になっています。
平安時代から鎌倉時代あたりまで、公家や武家婦人のような中流以上の身分の女性が旅に出る際の定番だったそうです。
何見氏の言う『被衣姿』は下段イラスト『春日権現霊験記』の女性の様な姿です。

『光る君へ』
虫の垂衣
『一遍上人聖絵』
被衣
『春日権現霊験記』 写
国立国会図書館所蔵

>二人がそんな話をしていると、周囲から怒声が聞こえてきました。
>いったい何のトラブル?
>まひろとさわが駆けつけると、悪徳人買い商人が、貧しい女から子どもを買い取っていました。
まひろさんとさわさんが市で買い物をしていると、裏辻の方で騒ぐような声がしました。
民の家が並ぶ辻では、気の荒そうな人買いたちが3人の子供たちに縄を付け連れて行こうとしていました。
子供たちの母親は、「この子たちを売った覚えはない。返してください。染物師に預ける証文ではないのですか」と抗議しますが、人買いは「子ども一人につき、布一反で売ると書いてある」と証文を見せました。
そしてもう一人の男が母親の静止を振り切り強引に連れて行こうとします。
そこへまひろさんとさわさんが駆けつけます。
母親はまひろさんに「子供を連れ戻してくれ」と懇願します。
しかし人買いたちは「ゴロゴロ生まれてくる子供なんか要らねえ親もいる」と嘲り笑いました。
「子を売らなければ食えない親もいる、俺はそんな親を助けてやったんだ」と得意げにまひろさんに証文を見せる男。
「預けると書かれているのではないか」と母親が言います。
まひろさんは連れて行かれそうな子供たちの後を追いますが、男は容赦なくまひろさんを地面に叩き付け、まひろさんを庇った乙丸をも返り討ちにしてしまいます。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

>子どもは売られてゆきました。
>あの母と子は果たして再会できたのか?
何見氏は『山椒大夫』の安寿と厨子王の運命を踏まえ、『母と子は再会できるのか』と言っているのでしょうか。
山椒大夫の厨子王の様に売られた先から逃げ出し無事に成人し、かつ後ろ楯を見つけ地方役人になり、親と再会できるケースはごく稀かと思います。

家に戻ったまひろは、さわから手当を受けつつ、あの子は売られたのかとつぶやきます。
>忘れるように促すさわ。

家に帰ったまひろさんは、さわさんに傷の手当てをして貰いながら、子供が売られてしまった事を残念がって「文字さえ読めればああはならなかった」と言っています。
残念ながら取り返せなかった様です。
まひろさんは、「文字を教えたい」と言い出しました。
さわさんは「一人二人に教えても、今日のような不幸は救えませんよ」と話しますが、まひろさんは『一人二人でも教えたい』と考えています。
さわさんは『忘れるように促す』というより、民に文字を教えたいというまひろさんに『一人二人に教えても、今日のような不幸は救えない』と今回の様に人買いに売られる場合はよくある現実問題と語ったのではないでしょうか。

『光る君へ』より
『光る君へ』より

夜、まひろさんは月を見ながら道長卿に「自分の生まれて来た意味を探してまいります」と言ったのを思い出しています。
心の中では道長卿に『上から政を改めてくれ、自分は民を一人でも二人でも救う』と誓っていました。

>日本中世の説話は人が簡単に死にます。
>身分の低い売られた子の命なんて、それこそ塵芥のようなものではないか
こちらも『日本中世の説話は人が簡単に死ぬ』と言うだけで、具体例がありません。
平安時代を舞台にし、人買いに騙され子供が売られ一家離散する説話といえば森鴎外の『山椒大夫』があります。

『山椒大夫』あらすじ

>かくしてまひろは文字を教えることにして、往来に出て、乙丸が自分の名前の書き方を教えてもらうというクサい芝居をするのでした。
文字が読めないせいで我が子を奪われる母子の悲劇を目の当たりにしたまひろさんは、『民を一人でも二人でも救いたい、まずは街の子供に文字を教えよう』と辻に立ち、客寄せに乙丸と一芝居打つことにしました。
まずまひろさんが乙丸に名前を尋ねます。
乙丸は「乙丸だ」と答えます。
まひろさんが「それでは名前を書いてみましょう」と誘い、乙丸が「おお!文字で名前を書くぞ!」と返します。
まひろさんが棒で地面に平仮名で『をとまる』と名前を書きました。
「おお、これが『を』か!をとまるだ!俺の名だ!」と乙丸がよろこびます。
周囲の大人はたいそう驚いたような顔をして二人を見ます。
まひろさんはまず子供が手習いに興味を示す様辻で乙丸と『文字が書けると自分の名前が書けるようになる』と寸劇をしました。
何見氏は『クサい芝居』と言っていますが、交流のあった直秀と散楽一座の風刺劇を真似たものだったのでしょう。
もちろん一座とは違い、台詞回しも慣れていない芝居ですが。
因みに主従の立つ辻は御社があるため、かつて散楽一座が興行をしていた場所と同じかと思います。

『光る君へ』より
『光る君へ』より

>すかさずまひろが枝で地面に文字を書き、少女に教え始めました
一人、寸劇の様子を珍し気に見ている子供がいました。
たねというその少女はまひろさんに文字を教わりにきました。
まひろさんは枝で地面に文字を書き、たねさんに文字を教えます。
まずは平仮名で『あ』から。
そして、まひろさんはたねさんを屋敷に連れて来ました。
『やま かわ みね・・・』まひろさんが裏紙に書いた文字を2人で読むのでした。
その様子を乙丸が優しく見守っています。

『光る君へ』より
『光る君へ』より

余談ですが。
平安時代、紙は大変な貴重品でまひろさんは両面を使用していました。
まひろさんがたねさんの手習いのために平仮名を書きつけた紙の裏には漢詩が書かれていました。
白居易(白楽天)の『和河南鄭尹新歳對雪』でしょうか。
三蹟の一人・藤原行成卿が、白楽天の作品から八編を選んだ『白氏詩巻』(国宝)の中にもこの歌が入っています。

『光る君へ』より
『白氏詩巻』(国宝)
藤原行成 筆
『和河南鄭尹新歳對雪』 白居易

>いささか、かな文字がハッキリしすぎている感はありますが、地面に枝で書くからには仕方ないのでしょう。
何見氏は『どうする家康』47回で『先週(46回)の「お千」という文字と、あまりにレベルが違う家康の筆跡。なぜこうも場面ごとに筆跡が変わるのか…』と言っていましたが、硬筆(鉛筆)と毛筆で全く同じフォントとタッチで文字が書けるのですね。
家康さまが三浦按針から貰った鉛筆(ぺんすう)は鉛筆は黒鉛を木材で挟んで筆記具にしたものであり、墨を筆に含ませて書く毛筆とは文字のタッチが変わって当たり前だと思います。
『光る君へ』ではまひろさんは木の枝を使って地面に書いています。
こちらも硬筆と同様、毛筆とは文字のタッチが変わると思います。
まひろさんの文字について『かな文字がハッキリしすぎている感』とは。
どの様な文字を書けば気に入るのでしょうか。

『どうする家康』より
『どうする家康』より
武将ジャパン『どうする家康』47回

>例えば「あ」と習っても、当時は変体かなもあるしややこしい。
『どうする家康』46回でも書きましたが。
家康さまは布陣図の隅に鉛筆で『お千』と書いています。
漢字の『於』を草書体で書くと『お』になるそうです。
なので千姫の名前を書きつけた『お』も『変体仮名』の可能性があります。
まひろさんがたねさんのために書いた平仮名も『お』になっています。

『どうする家康』より
『光る君へ』より
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>四年間ほぼほぼ無収入なのに呑気なものですが……
>文人が自分の技芸で収入を得られるようになるには、社会の発展が必要です。
為時公は花山院退位での散位以来、失職して4年が過ぎていました。
いとさんは「家が窮しているのに、姫様がまた何の足しにもならない事をおやりだ」と為時公に陳情しています。
ナレーションでは為時公の収入はほとんどなかったとありました。
為時公がかつて任官されていた式部丞は年に一度の除目(じもく:天皇臨席の任官行事)での審議と採択を経て補任される職です。
「実入り」第一の中小貴族には除目を経る必要のない収入を得るルートがありました。
大貴族や大きな寺社など荘園の所有者(本所)の代官として現地へ赴き、荘園の運営を統括する役人になる事です。
荘園領主の家人がなったり、寄進地系荘園では寄進した開発領主がなりました。
これを預所(あずかりどころ)と言います。
役人の納税先や任命権は荘園の所有者で受領には及ばないとしても実入りの良い次の除目までの繋ぎだったそうです。

また、『散位寮』という式部省所属の令制官司がありました。
職掌は在京の散位(官職がなく位階のみを有する者)を登録した名帳と,国府に勤める散位の出勤日数の点検を担当していました。(出典 株式会社平凡社百科事典マイペディア)
在京している散位の文官武官は散位寮に登録され、六位以下の官人は分番で散位寮に出仕した上で諸使や雑事の業務に携わっていました。
散位制度が形骸化したため、寛平8年(896年)式部省に併合され、以後散位の事務も式部省で行われていました。
為時公はこの散位寮を合併した式部省に登録され出仕して裕福ではないものの収入を得て職の無い時期を過ごしていたのではないでしょうか。

『光る君へ』より

・兼家、正気を失う?

>国司の横暴に耐えかねた民が訴状を送ってきたそうです。
>悪どいことをして私腹を肥やす者がいるのだとか。
その頃、朝廷では国司の横暴を訴える上訴が増え、陣定で参議たちが訴状を読むのも大変になっていました。
「その様に国司は、勝手に民に重税を課して私腹を肥やすのか」と左大臣・雅信卿は驚いています。
内大臣・道隆卿は「昨年、尾張国の民の上訴により、国司を変更したばかり」と引き合いに出し、「強く申せば通ると思えば、民はいちいち文句を言うようになりましょう」と上訴に対し取り合わない事を提案しました。
「他の国でも同様のことが起こるのは阻まねばならない」と、訴えを棄却しようとします。
道長卿はそれに異を唱え、「民が遠方より都に来て上訴するのは切実な思いがあるからであり、詳しく審議するべきと考えまするが・・・。民なくば我々の暮らしもありません。」と考えを述べます。
そして道理を重んじる実資卿はそれに頷いています。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

さて、道隆卿が上訴に対し取り合わない事を提案するために提示した尾張国の民の上訴。
『尾張国郡司百姓等解文』といいます。
永延2年(988年)、尾張国の郡司・百姓らが国守藤原元命卿の横暴を全31か条に渡って朝廷に訴え、その解任を要求しました。
これを受けて元命卿は翌年の除目で解任されました。
『尾張国郡司百姓等解文』は非法な徴税や郎等らによる乱暴、運送の強制など当時の地方政治の乱れが伺える文書になっています。
原本は伝存していませんが、早稲田大学図書館本などの古写本が伝わっています。 

>ボケてしまったかのような兼家の発言に、周囲は困惑するばかり。
道隆卿と道長卿の意見を踏まえ、雅信が「お考えを」と兼家卿に意見を求めます。
兼家卿は我に返ったような顔で、「おお、道兼か」と言います。
兼家卿が「橋の修繕は急ぎ行え」と場違いな意見を言ったため、居合わせた一は同唖然としています。
さらに、「わしは今何か申したか?」と呆けた様な表情をしています。

『光る君へ』より
『光る君へ』より

>孫の一条天皇が即位したとか、元服して孫・定子が入内したとか、満貫成就となったばかりなのに死ぬなんて虚しいとか。
>その程度のことすら思いつかないのか。
兼家卿の言動を見て不安になったのか、道兼卿は「父が正気を失う前に、後継を指名して貰わねばならない」と道隆卿に持ちかけます。
「そのようなことは申すでない、父上にはまだまだ働いていただかねばならぬ」と道隆卿が弟を窘めます。
「本心とは思えぬ綺麗事をと道兼卿が言い、道隆卿は「わしはお前とは違う」と道兼卿を戒めました。
それを陰で聞いていた道長卿に実資卿が近づき、「精進、精進」と囁きます。

『光る君へ』より

藤原兄弟の立ち位置は、嫡男の道隆卿を綺麗な存在でいさせるための一族の汚れ仕事を背負う役目が道兼卿です。
道隆卿役の井浦さんは『道兼は、道長に対してはマウントを取り、道隆に対しては従順。そして、父上に対しては絶対的な愛を求めています。』と仰っています。

愛情に餓え父からの信頼を勝ち得ようと道具に徹し、兄に対して従順だった道兼卿は4年の間に家族ができました。
道隆卿が定子さまを入内させ伊周卿までもが出世する事に道兼卿は焦り、まだ幼い娘を后がねにしようとします。
そのうえ父が正気を失っては自分の立場が危うくなるので道隆卿に後継の指名を頼む事を持ちかけたのでしょう。
道兼卿からすれば『外戚になった』とか『満貫成就なのに虚しい』などの考えこそ綺麗事でしょう。

>帰宅した道隆は、妻の貴子には本音を明かします。
道隆卿は屋敷に戻ると、妻・貴子さまに、兼家卿「父上はもう今年の夏は越えられまい。今日は内裏で正気を失った」と言い、「もしもの時は自分が摂政になる」と打ち明けます。
「忙しくなるから心づもりをしておけ」と道隆卿が言うと「心づもりはとうにできている」と貴子さまが答えます。
「明日そうなっても心配ございませんよ」と貴子さまは言い、「流石殿が見込んだ妻でございましょう?」と笑うのでした。

『光る君へ』より

藤原伊周卿曰く、父・道隆卿を評して『笑裏蔵刀』です。
『笑裏蔵刀』とは兵法三十六計の第十計で、笑顔の内側にを隠し持っている事、見た目は優しそうに見えるが、内心はひどく陰険な様を言います。
後の中関白家の当主として公の場では父の異変に乗じる発言を慎み、妻の前では身内として父の終末が近いを事を感じ取り万が一の場合を話しておく。
家と一族を守るためには『親の死を前提として子が前途を語る』のも大事な事だと思います。

>当時はまだまだ儒教思想が根付いていないことがわかります。
>親の死を前提として子が前途を語るってどういうことなのか。
>道徳心の形成はまだまだ先のようです。

日本に儒教が伝来したのは、6世紀の五経博士によってですが、朱子学を僧侶が学び始めたのは鎌倉時代から室町時代です。
また儒教が本格的に学ばれる様になったのは江戸時代初期、藤原惺窩と林羅山が徳川幕府に仕えてからです。
『光る君へ』3回では、若手貴族の勉強会で、藤原公任卿が孟子の一説を諳んじていました。

『光る君へ』より

孟子曰、「人皆有不忍人之心(孟子曰わく、人皆、人に忍びざるの心あり)」

意訳:
孟子が仰る事には、「人には皆、他人の悲しみを見過ごせない心がある。それは自然な人の気持ちである」

孟子

・兼家の息子たちは?

>そう言われて賛同する公任……
>ここまで堕ちてしまいました。
>後ろ盾をなくすだけでこうなってしまう。
>父を早くに亡くし、幼少期から後ろ盾がない藤原行成よりも酷いものです。
>あの自信に溢れていた頃の表情はもう戻ってこないのでしょうか。
道兼卿は自邸に公任卿を呼びました。
道兼卿は「自分がいなければ今日の父はない」と言い、公任卿は「それは亡き父(頼忠)からも聞いている」と言います。
公任卿は父・頼忠卿が『摂政も道兼を頼りにしているとわしは見る。道兼は道隆よりも若くやる気がある。道兼をそらすな』と言った事を道兼卿に伝えました。道兼卿も「そうでなければならぬ」と頷きます。
盃を傾けながら「心配はいらないのではございませんか?」と言う公任卿に道兼卿は「俺が摂政か関白になれば必ずそなたを取り立てる、そなたはもう後ろ盾がないゆえ俺を頼りなさい」と言い公任卿は礼を述べます。
道兼卿は「そなたは蔵人頭、帝にも父にも近い。父の様子を逐一俺に伝えてくれ」と公任卿に言い、杯を傾けます。
承知する公任卿に、「尽くせよ、俺に」と道兼卿が言い、公任卿は「はっ」と承諾しました。

本来、花鳥風月に心を動かし、歌や詩を読む方が向いているのに、なぜ合わないことをする運命に陥ってしまうのか。
『道兼をそらすな』というのが亡き父・頼忠卿の遺命でした。
また、公任卿自身後ろ楯を失くし昇進が停滞しており、青年時代から共に行動することが多かった道長卿に大きく出世で遅れ、藤原道隆卿の子息・伊周卿らが参議として公卿に昇っていく中で、公任卿は3年半の間蔵人頭に留め置かれ焦っていたのでしょう。
出世目覚ましい道隆卿サイドではなく、摂家の道具の立場である道兼卿を頼ったのはあまりにも見る目が無かったかもしれませんが。
道隆卿に対して不満を持つ一方で同じく道隆卿に反発していた道兼卿とは親密でした。
公任卿は元関白の嫡男であり、父が亡くなった今自分の家を守らなければならず、風流だけでは出世できなかったのだと思います。

『光る君へ』より
『光る君へ』より

>浮かぬ顔で父の異常を訴える道長。
道長卿と倫子さまの間には、一の姫・彰子さまが生まれています。
倫子さまと母・穆子さまは彰子さまの顔を覗き込みながら話しています。
「倫子がこの年齢の時にはよく喋ったが、この彰子は言葉が遅い」と穆子さまが言います。
「殿に似たのだろうか」と倫子さま。
「道長もそうだったのか」と訊く穆子さまに、「ぼんやりして父や兄に叱られていた」と倫子さまが答えます。
「倫子を笑わそうとしているのでは?あんな凛々しいお方がぼんやりしていたわけはない」と穆子さまは笑います。

『光る君へ』より

そこへ道長卿が帰宅し、穆子さまは席を外します。
道長卿は浮かぬ顔をしています。
「どうしたのですか?」と尋ねる倫子さまに、「父がおかしい」と道長卿が答えます。
「物の怪にでも憑かれたのであろうか、話の最中にわけの分からぬことを言い出された」と困惑しています。
「摂政様も人の子だと言うことではありませんか。我が父は摂政様よりも年長、このごろすっかり老いました。」と言う倫子さま。
「あれは老いなのか」と道長卿が尋ね、倫子さまは「おそらく」と答えます。
「でも私は老いた父が愛おしゅうございます。ここまで一生懸命働いてきたんですもの」と言います。
道長卿も「我が父も長い闘いを生き抜いてこられた。帝が即位され定子さまが入内して気が抜けてしまわれたのやもしれぬ」と納得しています。
倫子さまに「お優しくしてあげてください」と言われ道長卿も同意し、眠っている彰子さまの頬を愛おしげに撫でています。

『光る君へ』より
『光る君へ』より

>この時代は隠居という概念がないようなもの。元気ならばどんな老体でも働き続けます。
>年老いたから引退しろと言えないとは、大変なものです。
前関白太政大臣・藤原頼忠卿は帝との外戚関係が無く、一条帝が即位し藤原兼家卿が摂政となった事で生前に名目ばかりの関白を辞しています。
隠居や出家は世俗の生活を捨てる事です。
平安時代の貴族層では亡くなる直前に出家して極楽浄土に行くための準備をする臨終出家が主流であり、現役公卿が職を投げ出し世を捨てるのはよほどの事かと。
また、病などで若くして亡くなる事も多い時代で、『老体』と言っても兼家卿や頼忠卿は60代です。源雅信卿は70代まで現役でした。

>『源氏物語』では光源氏の死が描かれません。亡くなる巻は「雲隠」という名前だけ伝わっています。
>兼家も複数いる光源氏のモデルとされることがありますが、この姿を見ていると、光源氏の死が描かれない意味がわかった気がしますね。
『源氏物語』41帖『雲隠』は巻名だけで本文は書かれなかったとする説と、本文はあったが紛失したとする説があります。
『雲隠』の前巻『幻』から次巻『匂宮』まで8年間の時間が経過しており、 『源氏の君が出家して嵯峨に隠棲し、2・3年後に死去した』と49帖『宿木』に薫が源氏の君の死を語り、亡き大君を追憶する形で記されています。

『源氏物語』49帖『宿木』

・宣孝、独特のファッションセンスを見せる?

>藤原為時の家に、藤原宣孝が来ていました。
>随分と変な服装で一体何事か?と思えば、なんでもこの格好で御嶽詣をしてきたのだとか。
随分と変な服装』とは。
その姿で御嶽詣に行ったと宜孝公が着ている装束は僧尼が着ける衣服である法衣(ほうえ)です。
法衣には上半身を覆う偏衫(へんざん)、腰より下をまとう裙子(くんず)、上下を一つにした直裰(じきとつ)などがあります。
宜孝公が着ている法衣は見た所、上下が繋がっているので直裰でしょうか。
色目は山吹色で派手ですが。

法衣
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)

為時公の屋敷を宣孝公が訪れています。
宣孝公は山吹色の法衣を着て得意げに袖を拡げ満面の笑みを浮かべています。
御嶽詣(金峰山寺への参詣)にこの姿で行ったそうで、為時公に「御嶽詣にその姿で行かれたのか?」と驚かれています。
まひろさんには「腹の病によく効く」と言って土産を渡し、為時公には「御嶽詣には大勢の人が来るゆえ、派手な姿でないと神様の目に留まらぬと思うてな」と派手な法衣を見せつけ言います。
「ようお似合いでこざいます」と褒めるまひろさんに、「皆そう言う」と宣孝公。
「本当の神様のご加護があれば、お祝いいたしましょう」と言うまひろさんに宣孝公も「是非祝ってくれ」と答えます。

『光る君へ』より
『光る君へ』より

>それにしても、まひろはなんと真面目で堅苦しいことでしょう。
宜孝公がまたまひろさんの婿取りの話を始めます。
まひろさんは「誰とも夫婦にならない。今子供に読み書きを教えていてやりがいもある」と言います。
宣孝公は「それで稼ぎになるのか?」と尋ねます。
「稼ぎにはならない。ただ読み書きできないことで不幸になる人、騙される人を少なくしたい」とまひろさんが答えました。
「実入りもないのに楽しいのか。おかしな女子じゃのう」と宣孝公は笑います。
為時公は「宣孝殿の息子に婿入りして貰えぬか」と頼み込みましたが、宣孝公は即座に「駄目、駄目・・・駄目、駄目、駄目・・・」と否定し、「まひろのような賢い娘には太刀打ちできぬ」と言います。
そして「よい知らせがある」と、藤原兼家卿の体調が悪い事を知らせました。
「摂政さまの目が黒い内は為時の官職は叶わぬと思っていたが、身罷られるような事にでもなれば風向きは変わろう」と話します。
「父上は人の死を願うような人物ではない」とまひろさんに言われ、「すまぬ、婿取りの話はここまで」と言い宣孝公は帰って行きました。

『光る君へ』より

>実子の道隆ですら兼家の死を待ち望んでいる。
>道兼との違いは、表に出すか出さないか程度。
>それなのに、まひろは政敵の死すら望まないと言いきりました。

『道隆ですら兼家の死を待ち望んでいる』ですかが、兼家卿の認知症の様な兆候(当時の考えからして道長卿の様に年齢的な問題か物の怪に憑かれたと考えたか)を見て自身のお家の栄達を考えたのだと思います。
まひろさんはかつて母・ちやはさまが道兼卿に殺された事で『生涯呪う』と言う程恨んでいましたが、恨み続ける事も苦しいものだったのでしょう。
道兼卿と直接対面した後もう振り回されたくないと思いを明かしていました。
誰かの死を望んでも世の中が変わらないなら、『不幸になる人、騙される人を少無くしたい』と思う様になったのではないでしょうか。

>御嶽詣でTPOを無視して無茶苦茶派手な服装で参拝した宣孝父子は、清少納言が『枕草子』で酷評したため記録に残りました。
>紫式部が清少納言を嫌っているのは、夫のファッションセンスをダメ出ししたためともされます。
ド派手な格好で『御嶽詣』に行ってきた宜孝公父子。
大和国吉野の金峯山に参詣する事を『御嶽詣』といい、当時の山岳信仰の代表です。
厳格なしきたりがあり、参詣には予め数十日間身を浄める必要がありました。
また、どんなに高貴な身分でも、質素な浄衣(白装束)で参詣するのが習わしでした。

ところが宣孝公は、多くの参詣者たちに埋れては願い事も叶わぬと考えました。
『枕草子』によると、下記引用の様な姿でした。
山吹色の法衣に濃い紫の指貫。白い襖(あを=狩衣)。
清少納言でなくとも驚くかもしれません。
この御嶽詣、それなりにご利益があったのか。
宜孝公は正暦元年(990年)筑前国の国司が疫病流行で身内を亡くしたため突然辞任し、宣孝公はその後任に抜擢されました。
『「宣孝の言った通りになった。ご利益があったのだ」。そう人々が噂した』と、『枕草子』は記しています。
清少納言からすれば、あくまで『身分が高い若い男が御嶽精進をしている』事を『あはれなるもの』と言い、宜孝公の参詣はついでの様ですが。これが彰子さまの女房という立場上定子さまの局を意識していた紫式部の目に留まり、『紫式部日記』では清少納言を酷評しています。

紫のいと濃き指貫、白き襖(あを)、山吹のいみじうおどろおどろしき

意欲:
濃い紫色の指貫(袴)に白い狩衣、たいそう鮮やかな山吹色の衣

『枕草子』115段 あはれなるもの
『枕草子』115段 あはれなるもの

>為時はそんなまひろに、夫を持たぬ気持ちの真意を聞いてきます。
為時公は、宣孝公の子息との縁談に未練があるよ様です。
まひろさんに、「夫を持たぬと言う強い気持ちは分かったが、その真意はどこにあるのか?」と尋ねますが、まひろさんは黙ってしまいました。
「言いたくなければそれでも良いが、あまり己の行き先を決めつけぬ方がよいぞ」と諭します。
まひろさんは、「誰か良い人が現れるかもしれないという事ですか?」と尋ねます。
そして為時公に「どこかのお屋敷に働きに出たい」と打ち明けます。
「然るべき家の女房を務めるのなら五位の受領の娘くらいでないと、無官の自分の娘では」と心配する為時公。
「やるだけやってみます」とまひろさんは言います。

・笑わぬ美女が微笑むとき?

>藤原道長と横になっていた源明子が、懐妊を告げてきました。
>それを聞きながら、こんな時でも笑わない妻に不信感を抱く道長。
横になっていたではただ横になっている様にも捉えられます。
ここでは道長卿と明子さまが『閨を共にした』『一夜を共にした』など夫婦の営みを表情した言葉が妥当かと思います。
明子さまが懐妊を伝えますが笑顔はありません。
道長卿もあまり表情は動かず、「無理をすることは無いが」と言う道長卿。
明子さまは「微笑む事すらなく生きて参りましたのでこういう顔になってしまいました」と話します。
明子さまは道長卿の肩に頬を寄せ、「道長さまのお子を宿した事は嬉しゅうございます」と言います。
「そなたを微笑ませる術もない俺も不甲斐ないが、立派な子を産んでくれ」と道長卿は立ち上がりました。
明子さまは居ずまいを正し、道長卿に「お父上の見舞いに行かせてほしい」と頼みます。

『光る君へ』より

>そして二人で兼家の前へ。
道長卿と明子さまは東三条殿に行き、兼家卿に挨拶をします。
しかし兼家卿は明子さまが分からず、「お前はだれだ」と言い、道長卿が「父上、明子女王でございます」と説明しました。

『光る君へ』より

そして兼家卿は、「ああ、そうかそうか。お父上はご息災か?」と明子さまに尋ねます。
明子さまは貼り付いた様な笑みを浮かべ、「父は大宰府から帰った後身罷りました」と告げます。
「気の毒であったのう」と兼家卿は言いますが源高明公がなぜ大宰府に行かされたかも分かっていない様子です。

『光る君へ』より
『光る君へ』より

居た堪れない道長卿が席を外し、明子さまは「扇を頂戴したい」と兼家卿の扇を所望します。
兼家卿は「持って行け」と明子さまに扇を投げつけました。
明子さまは「フフフフフ・・・ありがとうございます。」と心から笑います。

『光る君へ』より

>この場面は、兼家の背景が唐物(からもの)尽くしで、どれほど金持ちかよくわかります。
9回コラムでも書きましたが。
平安時代には北宋や高麗などの外国商人らの検問・接待・交易などの海外交易の施設として、筑紫、難波、平安京に鴻臚館(こうろかん)が置かれました。
筑紫の鴻臚館跡は福岡城の敷地内に遺構が見つかっている唯一の鴻臚館です。
1997年の平和台球場閉鎖に伴い、1999年から始まった本格的な発掘調査によって木簡や瓦類が出土。他にも越州窯青磁・長沙窯磁器・荊窯白磁・新羅高麗産の陶器・イスラム圏の青釉陶器・ペルシアガラスが出土しています。
商船の到着が大宰府に通達されると大宰府から朝廷へ急使が向かいます。そして朝廷から唐物使(からものつかい)という役人が派遣され、経巻や仏像仏具、薬品や香料など宮中や貴族から依頼された商品を優先的に買い上げ、残った商品を地方豪族や有力寺社が購入しました。
東三条殿の唐物調度は鴻臚館で北宋や高麗などの外国商人から買い付けた品なのでしょう。

大宰府は朝廷の鎮西総司令部であり九州地域の兵権を掌握し、交易の利権も担う大宰府の役人である大宰権帥だったのが明子さまの父・源高明公でした。
大宰権帥は中央で失脚した大臣経験者の左遷ポストとなることも多く、源高明公は安和の変で藤原氏によって失脚し一族は没落しました。
天禄2年(971年)高明公は罪を赦されて帰京しますが、政界に復帰する事なく天元5年(982年)に亡くなりました。

>明子が呪う気まんまんであることがわかりますが、それだけでもありません。
>為時やまひろなら「褒姒(ほうじ)だ!」と驚いたことでしょう。
何見氏は笑わない明子さまを西周の幽王の寵妃・褒姒に例え、美貌によって王(夫である為政者)を惑わせ破滅に導いたファム・ファタールの様に見たいのでしょう。
しかし、明子さまが恨み呪詛したいのは「高明らが為平親王を擁立して皇太子守平親王(円融天皇)の廃立をたくらんでいる」と密告を受け、父とその一門を中央政界から追放した兼家卿であり、夫の道長卿ではないと思います。
明子さまはこの後、道長卿の子を産み明子さまの血筋が繋がっています。
身内の命を奪った仇を恨み呪いの言葉を吐くのはかつて道兼卿に母の命を奪われ「生涯呪う」と言うものの、振り回されたくないと前を向いたまひろさんとの対比ではないでしょうか。

幽王がなかなか笑わない褒姒を笑わせるために平時にたびたび危急を告げる烽火を上げて諸侯を集めた。その後犬戎に攻められた時、烽火を上げたが諸侯が集まらず、幽王は殺され、褒姒は捕えられて西周は滅んだ。

出典 精選版 日本国語大辞典

>兼家の扇を手にした明子が邸に戻り、今度こそ息の根を止めてやると兄・源俊賢に誓っています。
明子さまは高松殿の邸に戻り、「兼家の扇を手に入れた」と兄・俊賢卿に話します。
「今度こそ息の根を止めてやります」と息巻く明子。
俊賢卿は「子を身籠っているのだから呪詛など止めておけ。摂政様は何もせずとも間もなくだ」と妹を窘めます。明子さまは「父が無念の内に死んだ時、兄上が震えるほど怒っていた」と言い、兄を腰抜け呼ばわりします。

『光る君へ』より

しかし俊賢卿は「月日は流れた。自ら命を絶てぬなら生きて行くしかない。生きて行くなら力のある者には逆らわぬ方が良い。それが自分が学んだ事だ」と言いました。
明子は「分かりました」と立ち上がり、「兄上の生き方をとやかくは言わないが、私はやり遂げます。必ずや兼家の命を奪い、父上の無念を晴らします」と言います。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

>結局、この人の人生は何だったのかと思えてくる。
>政治闘争で勝ち抜いた果てがこれではあまりに虚しい。
(中略)
>それにしても、結局のところ兼家は人格でも道徳心でもなく、権力だけを愛されてきた。
>我が子からすら突き放されている。
>実に虚しい人生ではありませんか。
東三条殿では兼家卿が死の恐怖に怯えてうなされ屋敷の中を「ここはあの世か」とうろうろと徘徊します。
家司に声を掛けられても分からず、「晴明を呼べ」と命じました。
明け方に呼び出された晴明公と従者の須麻流さん。
「わしの寿命はどれほどじゃ」と尋ねる兼家卿に、「陰陽寮の務めは夜を徹するので朝は力が衰えて何も見えない」と晴明公は答えます。
兼家卿は今度は「わしの後継は誰じゃ」と尋ねます。
晴明公は「摂政さまのお心の内に既にある、そのお考えこそが正しいと存じます」と答えました。兼家卿は晴明公と須麻流さんを下がらせます。
死の不安で後継者を迷い、頼った晴明公に突き放され兼家卿は一人涙を流します。
兼家卿は自身の兄弟との勢力争いを勝ち抜き、藤原氏氏長者として民の暮らしを切り捨てましたが、お家の繁栄だけを考え娘を入内させ、帝の外戚として摂政まで上り詰め摂関政治の礎を築きました。
命の期限が近づき認知機能が落ちるなどすっかり弱り、これまで虐げた者からの恨みや死の恐怖に怯え後継を気にする様になった兼家卿ですが、それまでの人生が虚しいとは思いません。
子息たちにしても時が経ち、自分たちの家族やお家を守る責任があり家の将来や後継者を気にするのは仕方ないかと思います。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

>晴明も、素晴らしい心理操作を発揮していました。
個人の寿命もひとつの家の先行きをも見通せるはずであるのに、官人としての政治的リスクを回避する晴明公。
そんな晴明公に見放された形になる兼家卿はすすり泣くほど絶望感が大きいのでしょう。

・一条天皇は定子にあこがれる?

>このころの貴人は衣装に香を焚きしめています。
>その香と体温を暗い中で味わい、帝は定子にたまらないほどの魅力を覚えたことでしょう。

永祚2年(990年)一条帝はまだ11歳です。
何見氏は人物の年齢や時代背景も考えず、『男女が場を同じくすればエロ要素』に繋げたいのでしょうか。
『光る君へ』時代考証の倉本一宏先生は著書『一条天皇 (人物叢書)』にはこうあります。

一条天皇はまだ11歳。
当時天皇の第一子誕生の平均年齢は21.4歳
定子を懐妊させる可能性はなかった。
定子は当面「雛遊びの后」で過ごさざるを得なかったがそれは宮中において周知の事実だったことだろう

『一条天皇 (人物叢書)』
倉本一宏 著

『源氏物語』1帖「桐壷」では、まだ元服前の源氏の君が亡き母・桐壺に面影の似た藤壺女御を慕う場面が描かれます。

藤壺女御は源氏の君の父・桐壺帝に入内します。桐壺の更衣を忘れられずにいた桐壺帝は、面影の似た藤壺を非常に寵愛する様になります。
帝は藤壺の部屋を訪れる際、たびたび10歳程の源氏の君を一緒に連れていきました。
源氏の君は、亡き母に似ているらしいと聞き藤壺を慕っていき、折々に桜や紅葉の枝を贈りました。
やがて源氏の君は元服し、5歳しか変わらない藤壺への想いはいつしか恋慕に変わっていきました。

『光る君へ』より

内裏では、定子さまと共に一条帝の乳母・橘徳子さまが帝の隠れんぼの相手をしていました。帝は定子さまの衣の中に隠れてしまい徳子さまは帝を探してその場を離れました。その時、皇太后詮子さまが局を訪れました。帝は姿を現し詮子さまに挨拶をなさいました。詮子さまに「何をしていたのか?」と問われ、帝は「定子と隠れんぼをしていた。母上も一緒に」と無邪気に母君をお誘いになります。「今度またね」と言う詮子さまに、帝は納得なさらず「今度はいつか?」と仰います。そして徳子さまが「手習いの時間でございます」と告げます。帝はそれを嫌がられ、定子さまが何とか宥めます。部屋には詮子さまと定子さまが残されます。詮子さまは「何をしに来たか忘れました。思い出したら出直して参ります」と言います。 そして定子さまに、「帝は大人の中で育ったゆえ遊び仲間がおらなんだ。そなたが来てくれてお顔つきも明るくなられた。これからもせいぜい遊んでさしあげておくれ。」と言って去っていきました。

『光る君へ』より
『光る君へ』より

>兼家が道長を呼び出しています。
>寒くないかと尋ねる道長に対し、兼家はしっかりしています。
夜の東三条殿では月光が射す縁に兼家卿が立っています。
認知力の落ちた兼家卿は屋敷の中を徘徊する事があり、道長卿が濡れ縁に立つ彼を見つけたのではないかと思います。
「お体の調子がよろしいのですね」と道長卿が話しかけます。
すると兼家卿は、「民に阿る事はするな」と急に言い出しました。
「阿ってはおりませぬ。民を虫けらのように斬り捨てる道隆兄上の様な政はおかしいと申したのです」と道長卿が訴えます。
「お前が守るべきは民ではない!」と兼家卿が厳しく言います。
「では父上が目指す真の政とは何か?」と道長卿か尋ねます。
兼家卿は「それは家だ。 家の存続だ。」と答えます。
「人は皆、いずれは死に腐れて土に還る。されど家だけは残る。栄光も誉れも死ぬが家は生き続けるのだ。家のためになす事、それがわしの政であり、その考えを引き継げる者こそわしの後継だと思え」と兼家卿は夜明けの中庭を見ながら明言します。
道長卿は従わざるを得ませんでした。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

・道長の文箱に残された文?

>まひろはどの家からも働き口を断られてしまいます。
まひろさんが自分を雇ってくれる家を探していますが、父・為時公の散位を理由に断られていました。
為時公が除目で任用されるまでは収入を得なければならないので、まひろさんは各所を当たっていましたが「女房でなく下女ならば」と言われるなど思わしくありません。
土御門殿では倫子さまがしをりさまから『まひろさんの父・為時さまは未だ官職がない様だ』と聞かされていました。
出入りの家司の屋敷にまひろさんが『雇ってほしい』と訪ねて来たのだそうです。
茅子さまも、「自分の友人の家に来たそうだ」と話しました。
道長卿と倫子さまが暮らす土御門殿はまひろさんの屋敷から近いのですが、まひろさんは土御門殿を避けていたのではないでしょうか。
窮状を知った倫子さまはまひろさんに文を送りました。
土御門殿を訪れたまひろさんはその礼を述べます。
倫子さまは「結婚以来学びの会も少なくなって、まひろさんに会えず寂しく思っていました」と言い、再会を喜んでいます。 
倫子さまはまひろさんを雇い入れようとしていました。
まひろさんはありがたいと思いながらも「他で決まってしまった」と答えました。
倫子さまはまひろさんに「たまにはここへ来て欲しい」と言います。
内裏から戻った殿(道長卿)にも会って欲しいのだそうです。
道長卿は権中納言になっており、まひろさんは昇進の祝いを述べます。

『光る君へ』より

倫子さまは、「これ、殿の部屋でみつけたのだけど大切そうに文箱の中に隠してあったの」と言って漢詩を見せました。
まひろさんは「私が書いた漢詩だ」と気付きました。

『光る君へ』より
『光る君へ』より

>伊周と定子の喧嘩が伏線だったわけですね。
伏線が伊周卿と定子さまの懸想文(下書き)の取り合いならば、なぜ庚申待の夜に道長卿からまひろさんへの文を盗み見る惟規さまに言及しないのでしょうか。
似た様なシチュエーションですよね。

>『蜻蛉日記』でも、藤原寧子(藤原道綱母)が兼家の文箱から別の女の文を見つけた怒りの記述が出てきます
『蜻蛉日記』での右大将道綱母が兼家卿の文を文箱から見つける逸話、もう少し具体的に提示してはいかがでしょうか。

右大将道綱母(寧子さま)は藤原兼家卿の妾であり、嫡妻・時姫さまの他にもたくさんの妾のもとに通っていました。 
道綱母が息子・道綱卿を身籠った頃、兼家卿が出かけたあと、文箱の中に自分以外の女宛の文を見つけます。
恨み言の歌を詠み贈るも兼家卿にははぐらかされ、町の小路の何処其処に車が止まったと報告を受けました。

嘆きつつ ひとり寝(ぬ)る夜の あくる間は いかに久しき ものとかは知る
右大将道綱母

げにやげに 冬の夜ならぬ 真木(まき)の戸も おそくあくるは わびしかりけり
藤原兼家

右大将道綱母は嫉妬から、門を叩いて「入れてほしい」と頼む兼家卿を無視してしまいます。

『蜻蛉日記 なげきつつひとり寝る夜』あらすじ

>光源氏は、紫の上の死後、彼女の残した文を焼いてしまいます。
>現代人ならばむしろ思い出として大切にしそうなところを焼き捨ててしまうのです。
>証拠隠滅でもあるし、亡くなった人のもとに文を送る意味合いもあるのでしょう。
源氏の君の許には女たちの恋文がたくさん残っていました。
別れた女性、死別した女性。いずれもその文を捨てる事ができずに持っていました。
『源氏物語』41帖「幻」。
源氏の君は紫の上の死後、非常に悲しみ年が明けたら出家を果たそうと身辺整理をはじめます。
その中でも紫の上からの文に関しては「これを持っていても出家してしまえば見ることもないだろう」と源氏は気心の知れた女房たちに命じてその手紙を破らせ『かきつめて 見るもかひなし 藻塩草 おなじ雲居の 煙とをなれ(亡き人の文を集めて見ても甲斐がない。同じく煙になって空に届け)』と書きつけ皆焼かせてしまいました。
『証拠隠滅』ではなく、悲しみのあまり俗世を捨て出家するためにもう見る事のない紫の上からの文を焼かせたのでしょう。

>しかし倫子が出してきたのはまひろが送った文です。
「これ女の文字ですよね」と倫子さまに訊かれ、「さあ?」と知らないフリをするまひろさんでしたが、倫子さまは「漢詩だから殿御かと思ったのだけど、やはり女の文字だと思うのよ。」と言い、さらに「『あの方』が送って来たのかしら」と不審がります。
『あの方』とは高松殿の明子さまで、「あの方は盛明親王の許でお育ちだから、漢詩も書けるのよ」と倫子さまは言います。
倫子さまに「これ、どういう意味か分かる?」と尋ねられ、まひろは「この詩は陶淵明の詩である」と言います。
続けてまひろさんは陶淵明の説明、『帰去来辞』の説明をしようとします。
「もういい」と倫子さまは言います。
道長卿が文箱に大事に入れていたまひろさんが送った文は下記の2枚です。

既自以心爲形役
奚惆悵而獨悲

意訳:
これまで心を体のしもべとしていたのだから、どうして一人くよくよ嘆き悲しむことがあろうか

『帰去来辞』

悟已往之不諌
知来者之可追

意訳:
過ぎ去ったことは悔やんでも仕方ないけれど、これから先はいかようにもなる

『帰去来辞』
『光る君へ』より

>それは明子とは文のやり取りがあったということ。
>倫子は道長から文をもらったことがないのだとか。
「殿は私には一通も文を下さらず、いきなり庚申待の日に訪ねて見えたの。突然。あちらとは文のやり取りがあったのね」と悲しそうな顔をする倫子さま。
それはまひろさんが最後に道長卿と六条の廃院で会い、道長卿が「左大臣家の姫に婿入りする」と告白した夜でした。
「でも殿御ということにしておく」と倫子さまは言いました。
「あの人はこの文を捨てすに土御門殿まで持って来ていたの・・・」と複雑な気持ちになっています。
道長卿は女性からの文を捨てられず取っておく源氏の君の様な方の様です。
しかし、その行為は思う以上に妻たちを悩ませるものでした。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

>この時点で彰子の大変な一生が見えてきます。>いくら彰子が帝に愛されようとしても、明るく軽やかな定子の面影を上書きすることはできず、苦労するのでしょう。
その時、道長卿と倫子さまの娘・彰子さまがやって来ます。
彰子さまはまひろさんを見て母の陰に隠れてしまいます。
まひろさんは彰子さまに挨拶をしますが、「この子、うちの殿に似て人見知りするのよ」と言う倫子さま。
まひろさんは暇乞いをして帰り支度をします。
しかし、渡殿で屋敷に戻って来た道長卿と鉢合わせになってしまいます。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

・MVP:明子と兼家?

>源明子は美しい。
>彼女は、子を宿したことを腹の子の父に告げる時ですら、微笑みません。
>そんな人生の喜びを味わっても笑わない美女は、一体、どうすれば笑うのか。
明子さまが微笑まない理由は安和の変で父・源高明公が失脚し太宰府に流された後、帰京してからも失意のまま亡くなり、権力に流されて生きる兄に諭されても募る恨みが昇華される事無く積もったからだと思います。
そして、呪詛したいのは「高明らが為平親王を擁立して皇太子守平親王(円融天皇)の廃立をたくらんでいる」という密告を受け、父とその一門を中央政界から追放した兼家卿であり、老いて認知機能が落ちた彼を見たところで変わるものではないのでしょう。
そんな明子さまは、嘘でも笑っている事はできず、兼家卿の扇を手に入れやっと恨みを晴らせると心からの笑みを漏らしています。

>人のために尽くそうとか、満たそうとか、そんなことに目を向けずに己の願望ばかりを見ているせいで、結局幸せになれないのです。
兼家卿は道長卿に政とは?と訊かれ、「人は皆、いずれは死に腐れて土に還る。されど家だけは残る。栄光も誉れも死ぬが家は生き続けるのだ。家のためになす事、それがわしの政であり、その考えを引き継げる者こそわしの後継だと思え」と答えています。
利己主義ではなく、婚姻関係で貴族としての血筋と家名を残し一族を栄えさせる事が第一。
そのうえで帝に娘を入内させ、外戚となり摂政や関白として政治を取り仕切る仕組みが摂関政治です。
道長卿にしても、「道長さまは偉くなり直秀のように理不尽に殺される者が出ない様な、そういうよりよき政をする使命がある」と理想を実現するために高い地位に上がることをまひろさんも望んでいました。

・文が焼かれるとき?

>漢籍を読みこなした結果、道徳心が極めて高いところにあるのでしょう。
>彼女の正義感の強さは今後も変わらず出てくることでしょう。
>そんなまひろを忘れないからこそ、道長は無神経ながらも文を保管している。 
>道長にとってまひろとは、善政へと導く女神像でもあるはず。
>しかし、道長は父の言葉に逆らえない。
>いずれ民よりも家のことを考えるようになる。実資は、そんな道長の姿を淡々と『小右記』に記す。娘の藤原彰子ですら父には従わなくなる。
>そんな彰子の横にはまひろがいる。
11回の逢瀬でまひろさんは、「右大臣の息子である事も東宮様の叔父である事もやめる。」と駆け落ちを持ちかける道長卿に「貴方のような人が偉くならなければ、直秀のように無残な死に方をする人はなくならない」「道長さまは偉くなり直秀のように理不尽に殺される者が出ない様な、そういうよりよき政をする使命があるのよ。」といっています。
あくまで漢籍は政の指針・志(これは藤原行成卿が漢詩の解説で『漢詩を送るということは、何らかの志を詩に託している』と言っています)であり、出世競争に勝ち残り偉くならなければ民のためのよりよき政はできないとまひろさんも分かっていると思います。
兼家卿や道隆卿は激しい権力闘争に勝ち残り家を守るのが精一杯で、まだ自身の政治基盤を作る段階で地方役人や民の暮らしになかなか目を向けられないのだと思います。
賢人と呼ばれ有識者の藤原実資卿さえもまずは自身の家の小野宮流を栄えさせ、自身が出世しなければ政で意見を通す事もできないと分かっているから政敵に出世競争で抜かれたと『小右記』に記したのではないでしょうか。
陣の定で意見する道長卿を見守る実資卿は微笑みを浮かべ、「精進、精進」と励ましています。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

・日本のテレビ局は大丈夫なのだろうか??

>こんなニュースがありました。
>今は記事タイトルが修正されていますが、実は当初「漢の武帝」とされていました。
>これが『光る君へ』と何の関係が?
>そう思われるかもしれませんが、実はあります。
(中略)
>もしそういう知識があれば、こんなミスはしなかっただろうに。
>私はかなり不安になってしまったのでした。

『6世紀の中国・北周の皇帝『武帝』のリアルな顔が再現され、武帝のDNAを分析した研究チームが、顔の再現図を公開し、民族的なルーツの詳細を発表した』という話題ですね。
『武帝の先祖のルーツは、現在のモンゴルや中国東北部のに住んでいた遊牧民族の「鮮卑」が大半であるとみられ、漢民族との婚姻などで遺伝子的な繋がりも見られる』との事です。
テレ朝newsによると、当初記事タイトルには『漢の武帝』とあったそうです。
前漢(紀元前206年- 8年)と後漢(25年 - 220年)の二つの王朝を総称して『漢王朝』といいます。
北周は6世紀、中国の南北朝時代に鮮卑系の宇文氏によって建てられた国です。(隋の前)
何見氏の言うように漢字や漢籍など、漢王朝とは文化的な繋がりもあります。
今回復顔されたのは北周の皇帝『武帝』です。
違う時代の違う人物を混同しタイトルを付けた事は確認は大事とは思いますが、すでに訂正された記事です。
憤慨し、『日本のテレビ局クルーはこんな事も分からないのか!知識がないからミスするんだ!(私の好きなものを間違えられた、許さん)』というなら記事を読んだ人が誤解しない程度に記事を書いて解説すれば良いのではないですか。

・歴史を学ぶ意義?

>駒叩きは理解できません。
>誰の愛人にもならないくせに希望を通したがるなんてえらそうだとかなんとか言われました。
>別に駒は贅沢な暮らしをしたいわけでなく、民の救済を望んでいただけなのですが、そのささやかな願いすら「わがままw」と叩かれる。
>一体何事かと考えていたのですが、腑に落ちてきた気がします。
>逆張り冷笑ですね。
(中略)
>サブカル。冷笑。逆張り。イジり。
>若い頃そういう文化に使った手癖を振り回しているだけで、アップデートできていない。
何度も書いていますが。
『麒麟がくる』のお駒ちゃんは親を乱捕りで亡くし、医師の望月東庵先生のもとで働き、後に薬師となり丸薬の方仁丸が売れ将軍・足利義昭公の御所にも上がるほどになりましたが、SNSでは『不要』と言われてしまう事もあったようです。
その理由として、下記サイトではこう挙げています。

・光秀や足利義昭など、歴史上の人物を動かし始めた。出番も増えて、ヒロインどころか「裏の主役」みたいになり、そこに違和感を覚える視聴者が続出した 
・駒は医師に仕える薬作りの町娘にすぎない。まして序盤では、門脇いわく「(光秀に)絶賛片思い中」という乙女だった。それが終盤では将軍の愛人のような立場になったりして、そのぶん、主人公との距離も遠ざかることに。おかげで、そのヒロイン性にブレが生じた

AERA

『医師に仕える薬作りの町娘』という設定が『将軍の愛人のような立場』になった事で戦国時代の商売の仕組みや女性の置かれた立場としてみると乖離があったという事ではないでしょうか。
『駒は現代人みたいだから嫌い』という視聴者の意見も何見氏の『駒叩きは理解できません』もあくまで個人の感想であり、全員が全員何見氏の意見に賛同できるというものではないと思います。
他人の意見が違うと理解せず、反論されたら『冷笑された!』『私の認めない話をするな!』
『(価値観が)アップデートできていない!』という意見の押し付けではお話にもなりません。  

>議論もできない。
>するつもりもない。
>やることはマウンティングだけ。
>漫画のコマをSNSで貼り付けて勝利した気になる。
>歴史的な先例とはいえ現代にそぐわない事例を持ち出すなどなど。
>そういうことをあげて自分の知識でマウントを取り、優越感に浸る。
>そんな傾向も感じられます

そっくりそのまま何見氏にお返しします。
『議論もできない。するつもりもない。やることはマウンティングだけ』
さすが漢籍マウントで赤の他人に対して『もしそういう知識があれば、こんなミスはしなかっただろうに』と上から目線なだけあります。
『議論もできない。するつもりもない。』なら放っておけばいいのに嫌いなものを『穢れ』と称して人が楽しんでいる場を荒らすのに反論されたりブロックされると気に入らない、あまりにも身勝手です。
『歴史的な先例とはいえ現代にそぐわない事例を持ち出す』
時代背景に即した考察をしているところにポリコレだのジェンダーだのミソジニーだだの持ち出されてもその時代に存在しない思想です。
他人が『自分の知識でマウントを取る』のが嫌なら歴史ライターとしてきちんと史料を引用したり論拠を提示して反論すれば良いのではないでしょうか。

先日は相手に「豎子ともに謀るに足らず」と送って揉めに揉めたから、自省すべきだとは思います。

豎子ともに謀るに足らず
意訳:
あんな小僧と一緒に大事をはかることなどできない。「竪子」は、人をののしっていう言葉。

『史記』

話の前後が不明ですが、人を罵る意味で使ったのなら相手をおこらせてもおかしくないと思いますが。

>そのくせ年長者であることで若い人にマウントを取る、つまらない人間になってしまいます。
下記の様な意訳の間違いをしない様、独善的な解釈ばかりでなく場合によっては年長者相手でも教えを乞う事も大事だと思います。
『エコーチェンバー』は『価値観の似た者同士での交流で特定の意見や思想が増幅される事』です。

武将ジャパン『光る君へ』9回

独学固陋
出典
『礼記』学記
師も友も持たずに独りで学問すると、見識が独りよがりになって頑なになるからよくないという事。
『孤陋』は、見識が偏り独りよがりな事。
『固陋』とほぼ同意。

『礼記』学記

・義を見てせざるは勇無きなり?

義を見てせざるは勇無きなり
「論語」為政
意訳:
人としてなすべきことと知りながら、それを実行しないのは勇気がないからである。

「論語」為政

>その点、昨年は、逆張り冷笑大好き層に媚びた作風でした。
(中略)
>つくづくNHKが、あの大河、および被害者を無視して芸能界礼賛をした朝ドラ『ブギウギ』を打ち切りにしなかったことは痛恨の失態だと思います。
では、何見氏はなぜ『どうする家康』や『ブギウギ』は『被害者を無視して芸能界礼賛をした駄作だからすぐに打ち切れ!』と直接NHKに要望せず、レビューでグチグチとゴシップ記事を論拠に誹謗中傷を上げているのでしょうか。
『義を見てせざるは勇無きなり』なんですよね?
無茶苦茶を言って『人としてなすべきことと知りながら、それを実行しないのは勇気がないから』と他人を嗤いたいだけですね。

この問題無反省の証として『どうする家康』は響き続けるのではないでしょうか。
>NHKはジャニーズ事務所が所有していた一等地のビルを賃貸契約していたことも明るみに出つつあります。
>もしも昨年、断固たる対応をしていたら結果は違っただろうに……てなことを、あと何度思わされるのか。

何見氏、どんなに御高説を垂れても所詮は『私怨でしかない』に尽きますね。
まずは自分の言動を総括してから人のことを論じましょうか。

※何かを見た氏は貼っておりませんでしたが、今年もNHKにお礼のメールサイトのリンクを貼っておきます。
ファンの皆様で応援の言葉や温かい感想を送ってみてはいかがでしょうか?


 













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