見出し画像

大河コラムについて思ふ事~『光る君へ』第6回~

2月中旬になりました。暦の上では春となり気温も暖かくなってきています。
まだまだ寒暖の差が激しい日々ですので皆様健康には充分お気を付けください。
さて、光る君へ第6回。
今週も『武将ジャパン』大河ドラマコラムについて書かせていただきます。
太字が何かを見たさんの言質です。
御手隙の方に読んでいただければと思います。それでは。


・初めに

>もう会わないと決めたのに、出席者の名前を確認して漢詩の会に参加したのに。
>またもや道長と一緒の空間に同席してしまうまひろ
『またもや』とは五節の舞で偶然道長卿を見つけてしまったことを言っているのでしょう。
しかし、五節の舞は『新嘗祭』という11月に行われる宮中祭祀です。
文官・武官が居並び、帝がお出ましになる催事です。
五節の舞姫はその行事のために選定されたものであり、道長卿と同席する目的ではありません。
漢籍の会も道隆卿主催の催しであり、学者である父に同行したわけですから道長卿に逢いに行ったわけではありません。
花山帝の御代、外戚として宮中で権勢を誇り始めた藤原義懐卿らに対抗するため、右大臣家の藤原道隆卿は若手貴族たちを招いて漢詩の会を催します。
漢籍に造詣のある講師として出席する父・為時公の付き添いとしてまひろさんが同行します。
最初は嫡男である惟規さまをと為時公は考えていましたが漢籍の会への参加を拒否し『無理無理無理』と逃げ出してしまい、まひろさんが参加を申し出ています。
その時、為時公は右大臣家の主催であると念を押しています。
その集まりの出席者の中には道長卿の名はありませんでした。
まひろさんは『ミチカネ』の名が無い事を確認はしていますが、道長卿がいるかいないかは気にしてはいないと思います。
道兼卿がいないのはともかく右大臣家主催且つ若手貴族中心の招待なので道長卿の出席は不自然ではないと思います。

>永観2年(984年)――藤原道兼が母の仇であると弟の藤原道長に告げたまひろ。
>二人の道は別れてしまいます。
永観2年(984年)、六条の廃院でまひろさんは道長卿に「6年前母はあなたの兄に殺されました。」と6年前道長卿の兄・道兼卿に母・ちやはさまが殺された事を告げました。
「謝って済むことではない」と言いつつも「許してくれ」と言う道長卿に「兄はその様な事をする人ではないと言わないの?」と尋ねるまひろさん。
道長卿は「俺はまひろの言うことを信じる」と言います。
「ではどうすればよかったのか」と道長卿に訊かれ、まひろさんは「分からない。三郎のことは恨まない、でも道兼の事は生涯呪う」と言います。「恨めばよい、呪えばよい」と道長卿。
「あの時自分が会いたいと思わなければ、走り出さなければ。道兼が馬から落ちなければ、母は殺されなかったの。だから母が死んだのは自分のせいなの・・・」と6年間自分を持責め続けてきた事を告げまひろさんは手で顔を覆い嗚咽し、道長卿はそんなまひろさんの肩に優しく手を触れました。
その後、道長卿は東三条殿に戻り6年前の殺人を問いただし、認めた道兼卿を殴っています。
まひろさんは『道兼の事は生涯呪う』といいましたが道長卿を拒絶したわけではないと思います。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

・水に映る顔?

>水に映る顔というシーンで、『鎌倉殿の13人』を連想した方がいたかもしれません。
>源頼朝は水面に映り込む後白河法皇に怯えていました。
>ただし、状況は異なります。

まひろ→道長の顔を知っている
頼朝→後白河法皇の顔は知らない

>前者が未練ならば、後者は生き霊ということでしょう。
六条の廃院から屋敷に戻ってきたまひろさんは為時公、惟規、いとさんに出迎えられます。
「どこに行っておった」と言う為時公に対し、まひろさんは何も言わず、父に縋って泣き続けました。
まひろさんは縁側に座り、角盥に入った水で顔を濯ごうとしています。
水面には満月が映り、まひろさんはそれを眺めています。
すると水面に道長卿の姿が写り、『まひろの言うことを信じる』と言います。
角盥の水でまひろさんは顔を洗い、顔を拭います。
『禅語』に『掬水月在手』という言葉があります。
『春山夜月』という唐代の詩人・于良史(うりょうし)の漢詩の一部なのだそうです。

『春山夜月』于良史

『水掬(きく)すれば月手に在り』とは両手で水を掬い取る事ですが、水を手で掬うとそこに月が映っている。
はるか遠くにあると思う事も、実はいつもこの手の中にあるという意味なのだそうです。
ここで言う月とは単に空に浮かぶ月だけではなく、目には見えない真実の事を指すのだそうです。
まひろさんにとって道長卿は憎き仇である道兼卿の弟ですが水面に月とともに映る彼は兄よりも『まひろの事を信じる』と言います。
離れた所にいる様な二人も実は心で繋がっているとも解釈できると思います。

『光る君へ』より

『鎌倉殿の13人』では源頼朝公が平家打倒の旗揚げをしますが、石橋山の戦いに敗れ、安房へ逃亡します。
その舟上で桶の中の水に映った後白河院の姿に怯え、桶を大慌てでひっくり返していました。
作中では治承4年(1180年)頼朝公は北条氏など坂東武者の助けを借り平家打倒の兵を挙げましたが、以前にも後白河院は頼朝公の夢枕に再三出てきており、平家打倒を催促して頼朝公を悩ませました。
『朝廷をないがしろにし政を思うままに操っている平家一門を滅ぼしてほしい』という後白河院の念が強く、頼朝公の平家を打倒しなければという強迫観念とリンクしてしまったのではないでしょうか。
南北朝時代成立の『保暦間記』では相模川の橋供養の帰りに、源義広公・源義経公らの亡霊を目撃、稲村崎では海上にいた安徳帝の亡霊を見て病にかかり亡くなったとあります。
それも踏まえてなのか作中では、晩年夢に振り回される頼朝公の姿が描かれました。

『鎌倉殿の13人』より
『鎌倉殿の13人』より
『鎌倉殿の13人』より

・父のため、己のために、左大臣家潜入を続ける?

>彼女は大人になったのでしょう。
>自分の好き嫌いを二の次に置けるようになった。
顔を洗ったまひろさんが部屋に戻ろうとしたところで為時公に声をかけられます。
「先ほど言うのを忘れた」としたうえで為時公は「今宵何があったかは聞かぬ、だがもう左大臣家の集いには行かなくてよい、わしが浅薄であった」と言い、ゆっくり休むよう言いつけ去ろうとします。
「お気持ちは嬉しいが、これからも左大臣家には行きたい」と訴えます。
為時公が「外に出たいからか」と尋ねますが、まひろさんは「それだけではありませぬ」と言います。
まひろさんは「父上の拠り所が、我が家にとっての敵である右大臣家しかないのは私も嫌でございます」と言い、左大臣家である源との繋がりも持っていた方がよいと考えました。
まひろさんの言葉に為時公は驚きます。
まひろさんは「左大臣・源雅信さまは倫子さまを殊の外可愛がっておられると伺います。これからは今よりも覚悟を持って左大臣家の倫子さまと仲良くなり、源との繋がりを深めますゆえ、どうか左大臣家の集いに行くことをお許しくださいませ」と言います。
為時も娘のこの考えに感心したのか「そこまで考えておったとは・・・お前が男であったらのう」と言います。
まひろさんは「女子であってもお役に立てる」と答え、為時公も「自分を支えてくれ」と言い、左大臣家行きを許可しました。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

>しかし、これもなかなか腹黒い話で、まひろを信じていると告げていた源倫子側の立場になれば「私を利用するなんて、腹黒い女だ」となりかねません。
>まひろもまひろで、倫子に友愛があればこうも吹っ切れるとも思えない。
>つまり彼女は「目的に義があれば、手段が多少汚くともよい」ところまで吹っ切れるように進歩したのです。

父為時公がなかなか官職を得られず、苦労を共にした母ちやはさま。
やっと右大臣・兼家卿の推挙で非公式ながら東宮さま(花山帝)の漢文指南役を得ます。
そのお礼参りの途中ちやはさまは右大臣家の二の君・道兼卿に殺されてしまいました。
母の死に右大臣家の者が関わっているという事で恨みや嫌悪、そして自分の勝手な思いから母を死に追いやったという自責もありました。
道長卿に打ち明け自分に向き合った事で、今後は父のためにも右大臣家だけでなく対抗勢力である左大臣家にも繋がりを持った方がいいのではと考えたのではないでしょうか。
まひろさんの視野が徐々に開け、後の創作に影響していくという事なのかもしれません。
倫子さまはこれまで御家の勢力争いの一端から入内の話や道長卿との縁談による右大臣家との接近など周りの政治的な動きもあり、自分が必要なら家の結び付きを強める道具になる事も知っているでしょう。
倫子さまは五節の舞姫の打診を断っていましたが殿方や好色と噂される帝の目に留まるのを嫌っています。
舞姫の政治的意味も知っており、代役を頼んだのは左大臣家としての総意の上での推挙と釘を刺したうえで倒れたまひろさんを庇っています。
まひろさんが左大臣家を探る間者だとしても『利用された』『腹黒い女だ』とは思わないのではないでしょうか。

>ここでのまひろも、あくまで一族のためならば手を汚すと言い切っている。
>進歩したヒロインなのです。
>つまらないドラマは、登場人物たちの好感度を上げることだけを意識し、泥を被らないよう無茶苦茶な設定にしてしまうことがあります。
まひろさんは『これからは今よりも覚悟を持って左大臣家の倫子さまと仲良くなり、源との繋がりを深めます』と言っているのであって、『一族のためならば手を汚す』とは言っていません。
まひろさんの様に父の出世や御家の安堵のために有力貴族の周囲に目を配り繋がりを持っておく事、倫子さまの様に御家の政治的な意向を汲み入内や結婚などを視野に入れた立ち回りをする事のどこが手を汚す事でしょうか。
どちらの御家も父親が政治的な道具以上に娘の気持ちを気遣い、深い愛情を持って接していると思います。

・兼家とその道具である息子たち?

>源雅信は宇多天皇の血筋であるし、立派な屋敷もある。
>富も血統も心配はない――一挙両得だと、自分の都合でばかり勧めてきます。
その頃東三条殿では道長卿が父・兼家卿から婿入りを勧められていました。
兼家卿から「左大臣の一の姫はどうじゃ」と打診され道長卿が「は?」と聞き返すと「お前の婿入り先じゃ」と兼家卿が言います。
一の姫は左大臣家の姫・倫子さまの事で先日の会合で猫の小麻呂を追いかけているところを垣間見た兼家卿は「悪くはない、一風変わっておるがな」と言います。
兼家卿は「左大臣源雅信は宇多天皇の血筋。土御門殿も立派な屋敷で血筋と富は申し分ない。左大臣と手を結ぶことができればやりやすくなる。一挙両得だ」と言いますが道長卿は浮かない顔をしています。
道兼卿は「他に好いた女子でもおるのか、おらぬな、おらぬと顔に書いてある」と揶揄う様に言います。
源雅信卿は花山帝が即位した際、倫子さまを入内させようとしていましたが、雅信卿の妻・穆子さまは雅信卿が『倫子を自分の出世の道具にはしない、入内はさせない』と言った事を覚えており夫を止めていました。
『栄花物語』によれば、雅信卿は当初倫子さまを入内させる意向を持っていた事、兄が二人いる道長卿の出世は望み薄だった事、倫子さまよりも2歳年下であった事でこの縁談に難色を示していた様です。
しかし、彼の正妻で倫子さまの生母・藤原穆子さまの意向により入内よりも道長卿に懸け婚姻を勧めたそうです。
兼家卿が勝手な都合で左大臣家との婚儀を進めているというよりも左大臣家でも入内か右大臣家とのつながりを優先するかの選択肢が出てきており、双方の駆け引きがあっての縁談なのだと思います。
兼家卿は「左大臣源雅信は宇多天皇の血筋」なので申し分ないと認めていましたが、雅信卿も「我が家は宇多の帝の血を引く家系」と誇っていたので、宇多帝の後裔という血筋は何よりも誇れる付加価値があったのだと思います。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

余談ですが、源雅信卿の宇多源氏は第59代宇多天皇の流れを汲み、臣籍降下し『源』姓を賜った一族です。
『宇多源氏』には『鎌倉殿の13人』にも出てきた佐々木秀義公とその子息である四兄弟、源仲章卿、『太平記』に出てきた佐々木道誉公などがいます。

『鎌倉殿の13人』より
『鎌倉殿の13人』
『鎌倉殿の13人』
『太平記』より
宇多源氏略系図
http://www.harimaya.com/o_kamon1/buke_keizu/html/uda_g.html

>そして「兄・道兼の所業はもう今宵限りで忘れろ」と告げられました。
>道兼には道兼の使命があると言い始めました。
他に好いた女子でもおるのか」と訊く道兼卿に道長卿は「今はそのような気にならない」と答えます。
道兼卿は「道兼の所業は今宵限りで忘れよ。道隆とお前が表の道を行くには泥をかぶるやつがおらねばならぬ。道兼はそのための道具だと考えよ。」と言います。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

>この「長男と三男」と「次男」という構図は、なんとも残酷な話だったりします。
>というのも、他ならぬ父の藤原兼家が三男であり、長男と結託して、二男を除け者にした過去があるのです。
>兄弟同士で対立し合う、骨肉の争いを息子の世代にも引き継がせるのでした。
3回コラムでも書きましたが。
『長男と結託して二男を除け者にした』わけではなく、兼通卿の子息の藤原正光卿が藤原北家による他氏排斥である『安和の変』で失脚した源高明卿の娘「中姫君」を娶っていたために高明派とみなされて冷遇された説もあり(『栄花物語』)兼通卿は世間体を苦にして出仕を怠り円融帝からも疎遠になってしまっていたそうです。
安和の変は作中でも散楽一座が風刺劇として上演していました。

『光る君へ』より

天禄3年(972年)藤原兼家卿は関白であった長兄・藤原伊尹卿から大納言に任ぜられます。
これが次兄のプライドを傷つけ激しい出世争いに発展します。
伊尹卿は政権基盤確立のために貢献していた兼家卿を推挙し、除目により兼家卿が大納言に任ぜられたところ、次兄の官位を上回り出世争いに発展したわけですね。
天禄3年(972年)伊尹卿が関白を退任すると兼通卿と兼家卿は次の関白に名乗りを上げ、円融帝は「兄弟で順番に関白になる様に」と言い渡します。
事はいったん収まり、まず兄である藤原兼通が関白に就任します。
それでも兼通卿の腹の虫は収まらず、「できれば兼家を九州にでも左遷してやりたい」と言っていたそうです。
九州とは大宰府の事です。
貞元2年(977年)兼通卿は病で倒れ危篤に陥ります。
そのような中、兼家卿の牛車が屋敷に近づいてきました。
兼通卿の家人は見舞いに訪れたと思って迎えの準備をしましたが、兼家卿の牛車は門前を素通りします。
兼通卿は激怒し病を押して参内し、「兄弟で順番に関白になる様に」と言う円融帝の命を破り、関白職を藤原頼忠卿に譲り兼家卿を降格させようとしました。
作中の兼家卿は長男道隆卿と三男・道長卿が手を取り日の当たる場所に出るための汚れ役として道兼卿を位置付けており、『次男への呪い』の様にも見えますね。

>まひろは自ら父の役に立ちたいと訴えました。
>道長は、兼家から家の道具になることを突きつけられます。
>二人の道はまた離れていくのでしょうか。
廊下で道長卿は殴られた事で顔を腫らした道兼卿と鉢合わせになりました。
すれ違いざま道兼卿が「俺が殺めた女、お前知っていたのか」と言い、「だったら悪かったな」と謝ります。
道長卿は、「泥をかぶっていただかなければならないのであの事は忘れる」と答えます。
「言うではないか」と言う道兼卿に父の意向である事を道長卿が伝えます。
道兼卿は右大臣家内での自分の立場を承知している様で、「父上のためならいくらでも泥をかぶる」と兼家卿の望みなら進んで汚れ役になる事を告げます。
そして、道長卿にも「俺たちの影は皆同じ方向を向いている。一族の闇だ」と背後の足元を見ながら口元を歪めて笑います。
道長卿が街に出ているのを叱った折、道兼卿が「上を目指すことは我が一族の宿命である!」と言っています。
また、詮子さまが円融帝に毒を盛った父を詰問した際にはその件を知らなかった道隆卿が状況把握し「父上と我ら三兄弟の結束は増しました。何があろうと父上をお支えします。」と父を中心に一族が結束することを誓っています。
后がねとして育てた姫君を帝に入内させ皇子が生まれ、帝になった暁には外戚として権勢を振るい、それを役目をわきまえた子息たちが継承し一族の結束を図り要職を独占したいというのが右大臣家の目的なのだと思います。
所謂『摂関政治』です。

その頃、まひろさんは道長から距離を置くことを決めていました。
そのためには何かをしなければと考えています。
道長卿は、林で一人馬を走らせます。

『光る君へ』より
『光る君へ』より

・文学解釈をするとシラける場?

>寛和元年(985年)、まひろが左大臣の姫君サロンに参加しています。
>今日の和歌は藤原寧子(道綱母・寧子はドラマ上の設定/演じるのは財前直見さん)の作品です。

寛和元(985)年春。まひろさんは左大臣家を訪れています。
土御門殿の牛車には山吹の花が飾られ、藤の花が咲いています。
『蜻蛉日記』の作者、右大将道綱母・藤原寧子さまの歌を赤染衛門が詠んでいます。
これは後に百人一首53番に選定される歌です。
右大将道綱母は『本朝三美人』に数えられるかなりの美女だったそうです。
『藤原寧子』はドラマ設定上の名ですが彼女は本名が不祥です。
父の名は藤原倫寧(ふじわらのともやす)と言い、『倫寧女(ともやすのむすめ)』という事から『寧子』となったのではないかと思います。

『光る君へ』より
『光る君へ』より

嘆きつつ 一人寝る世の明くる間は 如何に久しきものとかは知る
右大将道綱母

意訳:貴方が来てくださらないことを嘆き哀しみながら夜が明けるまで一人で孤独に過ごす時間が、私にとってどれほど長く感じられるか、貴方はご存知でしょうか。ご存知ないでしょうね。

右大将道綱母

藤原兼家卿が他の女性に心移りしたのを知ったため、兼家卿が訪ねてきても戸を開けないでいたらその女性のもとへと行ってしまい一人寝をする事になり翌日詠んだ歌と言われています。

寧子さまの歌はしをりさまや茅子さまには不評な様で、しをりさまが「『蜻蛉日記』の作者の様にはなりたくないわ」と言います。
「そんな事を仰ると、そういう風になってしまいますよ』と倫子さまが言います。

『光る君へ』より
『光る君へ』より

>するとまひろが、めんどくさい文学オタクぶりを発揮します。
>『蜻蛉日記』は嘆きを綴ったものではない、前書きにも身分の高い女に愛されたと書いている――。
>そう説明すると、教師役の赤染衛門も賛同します。
またまひろさんの性格を『面倒臭い』で終わらせますか。
面倒臭い以外の語彙力はありませんか。
なぜしをりさまや茅子さまが「『蜻蛉日記』の作者の様にはなりたくない」と思い至ったか、まひろさんが独自の文学的見地からどう解釈したかなどの解説はないのでしょうか。
『蜻蛉日記』は、夫である兼家卿との結婚生活や正妻である時姫さまとの競争、夫に次々とできる妻妾のため嘆きつつ一人寝する夜の寂しさ、他の女性が子を産んだと聞き嫉妬する姿、我が子・道綱の成長、兼家卿の旧妻の娘を養女にした話などが39歳の大晦日まで描かれています。
つまり5回作中で兼家卿が寧子さまの屋敷を訪れた際にはすでに『蜻蛉日記』は完結しており、それ以後も二人の仲が続いているという事になります。
『蜻蛉日記』には子息の道綱卿が誕生した後、兼家卿は女性のもとに通い、彼の文箱から他の女性に宛てた文が出てきたことを記すなど心穏やかではない様子も綴られています。

『蜻蛉日記』

しをりさまや茅子さまの『作者の様にはなりたくない』は妻妾の多い夫の通いが少なくなり寂しい一人寝をし、夫の文箱から出てきた他の女性宛の文を見て嫉妬する姿にそういう状況にはなりたくないと思ったのでしょう。
まひろさんは「『蜻蛉日記』は殿御に顧みられなかった女子の嘆きを綴ったもの」「前書きにも「身分の高い男に愛された女の思い出の記」とある」と言います。
何見氏は『身分の高い女に愛された』と書いていますが、正しくは『身分の高い男に愛された』です。
赤染衛門は、「お相手は今をときめく藤原兼家様」と寧子さまの夫が誰なのか解説します。
まひろさんは、「身分の高い男性に愛されて煩悩の限り激しく生きたという自慢話かも」と続けます。
赤染衛門もその言葉を肯定しつつ、「一人寝の寂しさを詠ったこの歌が素晴らしい。印象的である」と言います。
倫子さまはじめ姫君たちは『蜻蛉日記』を読んでおらず、そういった解釈を知りませんでした。
まひろさんは「家に写本がございますので今度お持ちします。」と話に乗ったつもりでしたが、倫子さまに「要らないわ」と断られてしまいます。
倫子さまは「私、書物を読むのが一番苦手なの」と言い、しをりさまや茅子さまも「私も」と同調し笑いが起こります。
平安時代、印刷技術もまだない時代であり物語を読むには貴族の間で出回っている写本を貸してもらう事で読書の機会に触れるしかありませんでした。
まひろさんは父・為時公が学者であり蔵書や写本が家にあるため「お持ちします」と言いましたが、そもそも周りは読書に興味が無く所謂『空気の読めない文学オタク』になってしまったのではないでしょうか。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

>わかります……あるある現象ですね。
>私は普段は極力、大河ドラマの話をすることを避けます。
>しかし、どうしてもそういう流れになったときに、言わないでもいい蘊蓄を語ると、相手がサーッと引いていく。
>もっと知りたい、興味を持たないかな?と思って話をふると、「私は別にそういうオタク語りまでは求めてないんで」とドアを閉められる瞬間があるのです。
>そのときフフフと笑いつつ話を逸さなければならなくて……。
>大多数に受け入れられる話題って、美男美女に萌えるとか推しとか、あるいは恋バナとか、戦国武将のちょっといい話とか悪い話とか。
>スナック感覚でつまめる軽い話題であって、ヘビーな話はむしろ鬱陶しがられるんですよね。
何見氏の場合はどや顔で漢籍マウントを取り、他人を見下すような発言をする。勝手な思い込みと私怨に基づいた他責意識と被害妄想を拗らせ、所構わず自身の不快をまき散らし価値観を押し付ける。文春を論拠とし一切論拠を示さず無関係の企業や制作スタッフ、俳優及びそのファンに対する誹謗中傷を繰り返す。気に入らない別の作品の事を蒸し返し、『わたしのかんがえたさいきょうのれきし、わたしのかんがえたさいきょうのたいがドラマ』を忠実にする事が正義の様に誘導するなど他人への配慮の無さが目に余るから人が離れていくのだと思います。

武将ジャパン『どうする家康』
48回レビュー
武将ジャパン『光る君へ』
5回レビュー
武将ジャパン『光る君へ』
かな書道が光る『光る君へ』「三跡」藤原行成が生きた時代
武将ジャパン『光る君へ』
かな書道が光る『光る君へ』「三跡」藤原行成が生きた時代

・生きるということは、疲れる?

>本当は、あそこで引き攣った笑顔などを見せず「はーーーーー! せっかく貴重な写本があるのに読まないとかつまらない! 絶ッ対人生損しているし!」ぐらいの本音を言いたいのかもしれない。
まひろさんは倫子さまと廊下を歩いています。
「いつも張りつめていて疲れませんか」と尋ねる倫子さまにまひろさんは「疲れているかもしれません」と答えます。
倫子さまが「お楽になさい」と言うと、まひろさんは「幼い頃に母を亡くし、いつも肩に力を入れて生きて来た様です」と返します。
そして「楽に生きるのが苦手なのです。倫子様が書物をお読みになるのがお苦手な様に」と言います。
これを受けて倫子さまは「苦手な事を克服するのも大変ですから苦手は苦手という事で参りましょうか」と提案しました。
まひろさんは『幼い頃に母を亡くし、いつも肩に力を入れて生きて来た』ため、『楽に生きるのが苦手』だと倫子さまに本音を漏らしています。
倫子さまは可愛がられて育てられた裕福な御家の姫君であるがゆえに柔らかく、読書や教養の苦手な周りの姫君との調和も図りつつ、好きな事に対してつい饒舌に語ってしまい周りを引かせ後悔するなど周りに合わせようとするのが苦手でいつも肩に力を入れてしまうまひろさんの負担にならぬ様できるだけ取り計らってくれているのかもしれません。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

>でも漢字の知識も、文学トークもぬるい。どう考えても誤読している意見が通るし、レベルが低いんだな。
>いちいちそういうのに対して手加減するのも嫌になる。
>弟相手なら「こんなこともわからないの?」「書くらい読みなさいよ」と容赦なく言えるけど、姫君にはそれもできない。
>だいたい、歌がうまくなりたいなら恋をするよりも、学んでこそでしょうよ!
>なのになぜなの、なぜ……というドツボに陥っているのでしょう。
>先天性のズレを抱えているまひろは、この先ずっと「生きることが苦手だな」と嘆きながら人生が続いていく。
>ハァー……めんどくさい主人公ですね。そこが好きです。
ここでもまた『面倒臭い』主人公ですか。
『文学トークもぬるい。どう考えても誤読している意見が通るし、レベルが低い。』『いちいちそういうのに対して手加減するのも嫌になる』は明らかに周りの姫君や倫子さまを見下して侮辱する何見氏の言葉になっており、まひろさんはその様な事を一切口にしていません。
弟・惟規さまは勉学の意欲があまりなく、「『犬の様に盗むのがうまい男と、鶏の鳴きまねがうまい男を家来にした名君』は誰か」問いに対して正解を導き出せなかった事に対して成人したまひろさんは漢籍を大っぴらに学べないため離れた場所から『孟嘗君』だと教えたていました。
また、答えを尋ねられて『鶏鳴狗盗』の蘊蓄を語り始め惟規さまに『学問を好きすぎる姉上が気持ち悪い』と引かれる事はありました。
まひろさんは「漢詩や和歌や物語が好きなだけだ、賢い部分を全部取って行ったわけではない」とは言っていましたが、「こんなこともわからないの?」「書くらい読みなさいよ」と悪し様に見下すような言葉を投げつけるような事はしていません。

『光る君へ』2回より
『光る君へ』2回より
『光る君へ』2回より

・まひろは散楽新作プロットを練る?

>まひろが無邪気に「まるで人ではないような動きだ」と言うと、直秀が皮肉っぽく返す。
>虐げられている者はもとより人扱いされない――。
>思わず、たじろいでしまう彼女に、直秀は冷たく追撃します。
まひろさんは従者の乙丸と共に帰路についています。
途中、神社の前で散楽の一座が稽古をしているのを目にし、乙丸が止めようとしますが構わず駆け寄ります。
まひろさんは彼らの身の軽さを「すごいわね、みんな人じゃないみたい」と評します。
すると直秀は不機嫌そうに、「虐げられている者は人扱いされていない」と言います。
たじろぐまひろさんに直秀は「まことのことを言ったまでだ」と言います。
平安期以後、中世では天災や戦乱などで荘園を追われたり離れたりした流亡民が河原の原則非課税の土地に居住する様になります。
彼らは『河原人』といわれ、零細な農耕を営む一方で皮革生産・鳥獣屠殺・死体埋葬・清掃・細工・染色など貴族・社寺からは賤業と見なされた雑業や芸能などを業としていました。
また特殊技能者の集団として多様な活動をし、江戸時代には『河原者』と呼ばれますが一般に蔑称として用いられました。(放送禁止用語に該当するそうなのでTVでは聞かれない言葉ですが。)
作中の散楽一座も芸能を生業とする『河原者』の様な賤しい身分のため、『虐げられている者はもとより人扱いされていない』と直秀が不機嫌になったのでしょう。
まひろさんは別紙の意味はなく『人間離れした身軽さ』を評しているのかもしれません。
直秀から見れば無自覚な身分の壁ができていたのでしょう。

『光る君へ』より

そこへ座員である輔保がやって来て「五節の舞で倒れた姫を笑いの種にするつもりだ」と言います。(目の前のまひろさんは当の本人なのですが)
直秀はあまり乗り気ではない様です。
そこでまひろさんは自ら物語の構想を語ります。

・五節の舞姫が舞台に出るとそこには高貴な男たちがいて、舞姫はその大勢と契っている
・神に捧げる舞を舞いながら舞姫は男たちとの逢瀬をあれこれ考える

「男たちの都合のいいように見えて、実は女子こそしたたかという話だ」と得意げに笑うまひろさんでしたが一座の面々には受けが悪く、「大体その話のどこがおもしろいんだ」と笑われてしまいます。
「また違うのを考える」と言うまひろさんに「誰も頼んでねえよ、どこが面白いんだ」と直秀が返します。
「散楽を見る民は貧しいから、辛さを忘れたくて見に来るのだ。下々の世界ではおかしきことこそめでたけれ。お前の話は全く笑えない。所詮貴族の戯言だ。」と言われてしまいます。
輔保が「お客に無礼だ」と直秀に注意します。
「笑える話・・・今度考えてみるわ! 稽古がんばって!」と思い直しまひろさんは再び帰路に就きました。
座員の久々利が直秀を「いきなり絡んできたけど惚れているのか?」と冷やかします。
直秀は「明日の命も知れぬ身、俺は誰にも惚れねえよ」と言います。
まひろさんは歩きながら、『おかしきことこそめでたけれ』と言う直秀の言葉を思い返し口にします。
まひろさんが絵師のもとで代筆業をしていた際も絵師は『おかしき者にこそ魂は宿る』と言っていました。
庶民や普段虐げられる者は日々の辛さや鬱積を忘れるため笑い飛ばしたいもの。
散楽は風刺劇であり所詮貴族の戯言では笑う事も出来ないのでしょう。
これは現代でも面白い言葉の表現や体や顔の表情の面白い動きなどで視聴者や観客を笑わせる役割の喜劇役者や芸人などにも通じるのではないでしょうか。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

>本作に対するアンチな意見として、「テーマがない」とか「何を言いたいのかわからない」という趣旨のものを見かけます。
>そうした意見を出す人はどういうタイプの人なのか?
>まひろみたいなモヤモヤを抱えていない、かつ偏見のある人には通じないことはありえるでしょう。
『まひろみたいなモヤモヤを抱えていない、かつ偏見のある人には通じないことはありえるでしょう。女性の苦労を全くわかっていない人には、そのことを訴えても通らない。』とさも女性の味方のような意見を言うのは構いませんが、嫌いな作品に出てくる女性について『フェチシズム、ムフフ要素、サービス狙い』などと女性を性的な目で見たり、女性ファンが興味を持ち始めたところで『害悪ファンダム』と罵倒したり、『女はこういう女が嫌いだから』と論拠もなしに原因を女性のせいにするなどのセクハラ発言や偏見をやめたらいかがでしょうか。

大河コラムについて思ふ事~『光る君へ』2回~より
大河コラムについて思ふ事~『どうする家康』48回~より
大河コラムについて思ふ事~『どうする家康』総論~より

>女性の苦労を全くわかっていない人には、そのことを訴えても通らない。
>そういうことが社会においてどれだけ弊害であるか。
>たとえば被災地の避難所を仕切る人が男性ばかりだと、女性用品の配給が滞る、性犯罪予防が疎かになるといった弊害があります。
そういう事は大河ドラマレビューの項目で書かず、直接意見として関係各所に投書するか別記事を立てて問題提起してください。

・忯子の憔悴、斉信の焦燥?

>斉信としては奮発したのでしょう。
>お高い漢方の薬剤です。
>いい医者に頼んだんだぞ。
>わざわざ手に入れたんだ!
>そうしたモノで愛を示そうというのだろうけれども、忯子からすれば、もう飲めないのだからありがたいのかどうか。
>それでも斉信は、元気な皇子を産んでいかねばならないと残酷なことを言う。
宮中では弘徽殿女御・藤原忯子さまが床に臥せていました。
兄である藤原斉信卿が忯子さまのために、滋養強壮作用のあるすっぽんの甲羅を持って見舞いに訪れます。
斉信卿は煎じて飲む様言いますが、忯子さまは何も喉を通らず返してしまいます。
忯子さまは懐妊中であり斉信卿は「元気な皇子をお産みいただかねば」と言いますが忯子さまは苦しそうです。
娘や姉妹を天皇に入内させ、その皇子をゆくゆくは天皇にし外戚として力を振るえる様画策し熾烈な出世争いを繰り広げるのは貴族社会の常です。
ゆくゆくは国母となるかもしれないのですから元気になって皇子を産んでほしいと思うのは平安時代ならある事ではないでしょうか。

もはや息も絶え絶えの忯子。
>そんな妹に対して、どうして斉信はこうも酷い対応なのか。
>高い薬があればいいわけじゃないんだってば!
>まずは彼女のことを第一に気遣いなさいよ。
斉信卿はなおも忯子さまに「実はお願いがありまする」と言います。
出産のために里下がりする前に、「兄・斉信は使える男、帝の尊き政には兄のような若い力がなくてはならないのだ」と帝に囁いてくれと頼みます。「我が一族の頼みとするのは女御殿しかいない」と必死です。

『光る君へ』より
『光る君へ』より

斉信卿は太政大臣・藤原為光卿の次男で寛和元年(985年)には従五位上・右兵衛佐に任ぜられ、昇殿を許されます。
公任卿に、『位が上がらない、もっと高い位を得ねば帝とも話せぬぞ」と煽られ、斉信卿は「我らこそ若き帝と共にあるべき、世の形を語らねばと申しておるのだ。」と言っていました。
やっと昇殿を許されたばかりでは政に参加できないと思い、一族の栄達のために花山帝の御寵愛を一心に受ける妹の忯子さまに口添えしてもらおうと考えたのでしょう。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

>帝王が寵姫の親族を引き立てることは、それこそ唐玄宗と楊貴妃のように、ごく当然のことだというのに、どうにもそうなっていないようです。
そこへ花山帝がお出ましになり、忯子さまに近寄り「そなたのことが気になって政に気が入らぬ」と手を握りしめます。
「もったないお言葉・・・」と忯子さまはようやく声を出します。
「朕がついておる、案ずるな」と帝は忯子さまを安心させるように仰り、斉信卿は忯子さまが自分の事を伝えてくれるかと期待しています。
後ろにいる斉信卿にようやく気付いた帝は「お前は誰じゃ」とお聞きになり、斉信卿は目を丸くして驚いています。
花山帝は「朕の政に異を唱えようとかまう事はない」と関白・藤原頼忠卿、左大臣・源雅信卿、右大臣・藤原兼家卿ら公卿を無視し親政(君主(天皇・皇帝・国王など)自身が政治を行う政治形態)を推し進めていました。
外戚である藤原義懐卿や乳母子の藤原惟成卿を重用して『禁破銭令』や『荘園整理令』などの法を発布しますが、公卿の反発を招きました。
斉信卿は「自分たちこそが若い帝と共に、あるべき世の形を語らねば」と張り切ったのでしょうが、公任卿が「弘徽殿女御をご寵愛のようだが、その兄君には興味がないのであろうか」と皮肉った通り、帝は忯子さまへのご寵愛以外に興味が無かったのではないでしょうか。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

・「漢詩の会」という策?

>このドラマはクズ男にせよ、モテ男にせよ、解像度が実に高い。
>こんな夫婦を見せつけられたら、そりゃあ道兼も歪んでしまうのかもしれない。
ある晩の事、道隆卿は杯を傾け、「ああ・・・うん、しみわたるのう・・・」といい気分になり、妻・貴子さまにも酒を勧めています。
『大鏡』によると道隆卿は『御かたちぞいと清らかにおはしましし。』と容姿端麗だったそうです。
道隆卿はお気に入りの 『カラスがとまっている形にした徳利』 にお酒を入れて持ち歩き、何かというと直ぐにお酒を飲みだす程の無類の酒好きでした。
摂関家の定例行事・賀茂詣で酒を飲み上賀茂神社へ参拝の道中、仰向けになり牛車に揺られて眠ってしまい、神社に着いてもなかなか起きず同行していた道長卿に袴の裾を引っ張られてようやく起きる姿も描かれています。
その時の様子を『大鏡』では『この殿の御上戸は、よくおはしましける。(道隆卿の飲みっぷりは立派でいらっしゃいました。)」と評されています。

禰宜・神主も心得て、大土器をぞまゐらせしに、三度はさらなることにて、七八度など召して
意訳:禰宜も神主も分かっていて、大土器をさしあげたところ、3杯は言うまでもなく、7、8杯召し上がりました。


上社にまゐりたまふ道にては、やがてのけざまに、後の方を御枕にて、不覚にも御殿籠りぬ。
意訳:上賀茂神社へ参拝される道中では、仰向けになられ、車の後ろの方を御枕にして、不覚にも寝てしまった。


この殿の御上戸は、よくおはしましける。
意訳:道隆卿の飲みっぷりは立派でいらっしゃいました。

『大鏡』

『道兼も歪んでしまう』とありますが、自ら人を殺めた道兼卿を黙認し汚れ役として使役しそういう役割だとしたのは父・兼家卿ではないでしょうか。

『光る君へ』より

また添付されている記事リンクに『なぜ藤原道隆は弟の道長に権力の座を奪われたのか?』とありますが中関白家(道隆卿の一族系譜)が道長卿との権力抗争に負けるのは道隆卿の没後です。

夫婦が杯を傾けているところへ道長卿がやって来て人払いをします。
道長卿は「四条宮で行成に聞いた」と前置きした後、「義懐の屋敷で義懐、公任、斉信が会う予定である」と知らせます。
義懐はまず子息である若手貴族を懐柔し、父親もろとも帝の一派に組み込もうという作戦の様だと道隆卿は分析します。
道長卿は呼ばれておらず、道隆卿は「右大臣家の排除ということか」と右うます。
さらに「斉信はわかるが公任まで誘いに乗ったのか」と関白・頼忠卿の子息・公任卿までが誘いを受けた事を重要視します。
その頃義懐卿の屋敷では若手貴族を招待し、女性を侍らせた酒宴が開かれていました。
「新しい政をなそうぞ」と義懐卿ら出席者が浮かれ、惟茂卿は「頼むぞ」と積極的に懐柔に取り組んでいますが公任卿は醒めた表情です。

『光る君へ』より

道隆卿は「弘徽殿女御の皇子出産も、帝の長期の在位も恐らくないだろう。しかし若者たちの心が帝と義懐一派に向かいすぎるのはよくない。引き戻さねば」と危惧します。
『弘徽殿女御さまに皇子が生まれる事は無かろう』と言う兄の言葉を道長卿は訝しがります。

『光る君へ』より

道隆卿は・父兼家が安倍晴明に弘徽殿女御のお腹の子の呪詛を命じた事を話す。
「その場には関白・藤原頼忠卿と左大臣・源雅信卿もいて、皇子を望まぬことはこの国の意志である」と断言します。
道隆卿は「内裏での力争いには全く興味がないかと思っていたが、どうしたのか、心を入れ替えたのか」と道長卿に面白そうに尋ねます。
道長卿は今でも内裏での力争いにさほど興味はない様ですが、帝を支えるのが義懐卿であるのを懸念している様です。
「帝がどのような方はともかく、その帝を支える人物に知恵がないと国は乱れる。ならば父上の方がずっといい」と道長卿は考えているようです。
道隆卿は、「このように能弁な道長は初めてだ」と驚いています。
道隆卿は「義懐のことをよく知らせてくれた」と労った後、「父上と道兼には黙っている様」に道長卿に言づけます。
「父・兼家なら力で抑えつけようとするだろうが、それでは若者の憤懣を煽るだけ、自分がうまく懐柔する策を考える」と言います。
貴子さまは、漢詩の会を開く事を勧めます。
「漢詩には、それを選んだ者の思いが出ると言いますでしょう?若者は学問の成果を披露する場に飢えています」と言い、道隆卿は賛同します。
道長卿は貴子さまの提案を認めますが、「自分は漢詩が苦手だから出たくない」と言い出し、夫妻の和やかな笑いが起こります。
高階貴子さまは『儀同三司母』とも呼ばれる才女で詩や漢文に通じ、円融帝の女官として働いた後道隆卿に見初められ妻になりました。
また小倉百人一首54番の歌の作者でもあります。

忘れじの ゆく末まではかたければ 今日を限りの命ともがな
儀同三司母

意訳:いつまでも忘れまいとすることは、遠い将来まではとても難しいものですから、いっそのこと、今日を最後に私の命が終わって欲しいものです。

儀同三司母
『光る君へ』より
『光る君へ』より

>ここで左大臣の姫君サロンも様子が映し出されます。
左大臣家では、倫子さまが「父の顔にホクロができたと思ったら、蝿であった」という話をし、姫君たちの笑いを誘っています。
雅信卿は顔に蠅が止まった事に気付いていませんでした。
「内裏でのお仕事は鈍いくらいでないとね」と倫子さまが言い、笑って赤染衛門に注意されています。
まひろさんも皆に付き合って笑おうとして、アハハと声を上げて笑っています。
まひろさん、ついに周りを見ながら追従する事を覚えましたね。

・詮子の“裏の手”?

>為時とまひろにせよ、同族嫌悪に陥る父と娘の関係があるようです。
土御門殿で倫子さまが乳の噂をしている頃、左大臣源雅信卿は東宮懐仁親王に拝謁していました。
雅信卿が挨拶を述べた後、詮子さまは東宮さまを下がらせ「わざわざ局まで来ていただいてすみませぬ」と謝辞を述べ、「とんでもない」と雅信卿が答えます。
雅信卿は詮子さまに呼びつけられていました。
「何の御用か」と雅信卿が尋ねると、「父・兼家が先の帝に毒を盛り、退位を促していたのをご存知か」と詮子さまは返します。
雅信卿が狼狽えると詮子さまが「帝が退位の前にそう仰せになった。私はもう父を信じられない。都合が悪ければ私や懐仁とて手に掛けるやも知れぬ。」と打ち明けます。
戸惑う雅信卿。
詮子さまは「危険ゆえ表立って父に逆らうことはない。されど自分は父とは違う力が欲しいのです」と言います。
父・兼家卿の手段を択ばぬ危険さを知った詮子さまは対抗しうる『裏の手』として左大臣家の後ろ盾を得ようとしたのでしょう。
「私の言葉を聞いてしまった以上後には退けない、覚悟を決めなさい。末永く東宮と私の力となる事をここでお誓いなさい」と迫ります。
決めかねている雅信卿を見て詮子さまは「さもなくば、左大臣様から源と手を組まぬかとお誘いがあったと父に話ます」と脅しに掛かります。
詮子さまは「私は父が嫌いです。されど父の娘ですゆえ父に似ております」と言います。
嫌いな父に似た性質すらも父とは違う道を切り開くための力に詮子さまは使い始めた様ですね。
雅信卿はやむを得ず「自分なりに東宮様をお支えいたしたいと存じまする」と返事をします。
すると詮子さまは雅信卿の手を取って「ありがたきお言葉、生涯忘れませぬ」と感謝します。
さらに詮子さまは「一の姫はおいくつか」と尋ね、、雅信卿は22であると答えます。
「殿御からの文が絶えぬそうではないか」と言う詮子さま。
雅信卿は「全くそれに関心を示さず、殿御を好きではないのではないかと妻と話しております」と答えます。
詮子さまは「私の様に入内して辛酸をなめるよりはいいかも知れませぬ」と言います。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

雅信卿の退出後、道長卿がやって来ました。
「やっと会えたわね」という詮子さま。
「年は少し上だがそれも味がある」と乗り気で左大臣家の一の姫・倫子さまとの縁組を勧めます。
「何ですかそれは?」と戸惑いながら問う道長卿に「私の言う事に間違いはないから、いいわね?」自信たっぷりに言います。
詮子さまは4歳年下の弟・道長卿を可愛がり『栄花物語』には詮子さまが道長卿を「我御子と聞え給ひて」と、あたかも自分の子として扱ったような記述もあり、後年一条帝の『国母』として強い発言権を持ち、上皇に準じる『東三条院』という立場となっていきます。

・清原元輔の娘、ききょう登場?

>まひろの父であり漢籍教養の男である藤原為時にも声がかかり、名物文人貴族・清原元輔も呼ばれているとか。
藤原道隆卿の使者によって藤原為時公の屋敷に知らせがもたらされます。
4月27日に道隆卿主催の漢詩の会が開かれ、漢籍に明るい為時公は、清原元輔公と共に講師(こうじ)として招かれたのでした。

『光る君へ』より

出席者は公任卿、斉信卿、行成卿。
出席者の中に道長卿がいない事をまひろさんは確認しています。
為時公は「勉強になるぞ」「いずれはこういう場に出なければならぬ」と諭し嫡男・惟規さまを誘いますが、古典嫌いな中学生並みの「無理無理無理無理! 今度だけは無理!」断固拒否を主張し続け、ついに逃げ出してしまいました。
「私がお供いたします」とまひろさんが立候補します。
為時公が「右大臣家の主催であるがいいのか?」と心配し念を押しますが、母の仇・道兼の名はそこにはなく、「父上の晴れ姿を拝見しとうございます」とまひろさんに言われ、為時公もまんざらでもない何とも言えない表情です。

>まひろは、なんというか、かわいくなくていいですね。
>いや、とてもかわいらしいところはたくさんあります。
>しかし、媚びがない。
>わざとらしくキュンキュンして、「父上の晴れ姿が見たいんですぅ」と甘ったるく言うとか、笑顔を見せてもいい。
>それをしないところが彼女の個性ですね。
『面倒臭い』とか『かわいくなくていい』とか人を評価するのに『私が好きな女としての振る舞いをしているか否か』でしか評価できないのですか。
他の女性に対してはその様な見方していない様ですが実はまひろさんの様なタイプが嫌いで『わざとらしくキュンキュンして、甘ったるくセリフを言って媚を売るような女なら叩けるのに』と思ってませんか。
「晴れ姿を拝見しとうございます」と言っている相手は父です。
わざとらしく媚びを売る必要があるでしょうか。

>ききょうという名前も、賛否両論ではあります。
>しかし、孫くらいの娘が生まれた元輔が、庭に咲いていた桔梗でも見ながら命名したのかと想像すると微笑ましいものがある。
漢籍の会当日。
為時公親子が並んで座っていると、「為時殿、お久しゅうございますな」と清原元輔公が現れて挨拶をします。
為時はまひろさんを紹介し、元輔公は「このような年頃の姫がいるとは、時の経つのも早い」と言い、今度は自分の娘を紹介します。
元輔公の娘は「ききょうと申します。どうかよしなにお導きください」と挨拶をします。
元輔公は「公任、斉信、行成と錚々たる方々がお揃いで身が引き締まる」と言い、ききょうさんも「大いに楽しみましょうね、まひろ様」と胸を高鳴らせ嬉しそうでした。
紫式部と清少納言が出会ったという記録は無いのかもしれません。
また紫式部が『まひろ』、清少納言が『ききょう』を名乗った記録もないかもしれません。
しかし、記録がない事は「無かったこと」にはならないでしょうし、創作ならではの演出なのではないでしょうか。
『千年の時を超えて今も読み継がれる文学を残した紫式部と清少納言の若き日の出会い』とナレーションで解説されます。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

清原元輔公は清少納言の父です。
寛和元年(985年)当時は従五位上で78歳の高齢でした。
御髪が薄かった様で、『今昔物語集』には賀茂祭の奉幣使を務めた折に落馬し、冠が滑り落ちて夕日を浴びた禿頭が爛々と輝く様を周囲の者が見苦しいと笑います。
元輔公は脱げ落ちた冠をかぶろうともせずに、落馬して冠を落とした人々の例を挙げて物見車の一台一台に長々と弁解し、理屈を述べて歩いたという逸話があります。

『光る君へ』より

元輔公は小倉百人一首36番に選ばれた歌人・清原深養父(きよはらのふかやぶ)公の孫で、三十六歌仙にも選ばれています。
また小倉百人一首42番の歌の作者でもあります。

夏の夜は まだ宵ながら 明けぬるを 雲のいづくに 月宿るらむ
清原深養父

意訳:夏の夜は、まだ宵のうちだと思っていたらもう明けてしまった。月は、雲のどのあたりに宿をとっているのだろうか。

清原深養父

ちぎりきな かたみに袖を しぼりつつ 末の松山 浪こさじとは
清原元輔

意訳:固く約束しましたのに。お互いに涙で濡れた袖をしぼりながら、波が末の松山を越すことがないように、二人の愛が永遠であることを。

清原元輔

清 少納言は清原元輔公の娘で、本名については江戸時代の国学者・多田義俊が『枕草紙抄』で清原諾子(なぎこ)としていますが、根拠は示されていないそうです。
『清少納言』は宮中での女房名で『清』は清原姓由来、「少納言」は官職少納言に由来すると思われます。
官職名を用いる場合は父親や近親者がその官職にあることが通例ですが清原氏で少納言職を務めたものはおらず由来は不明との事です。
また小倉百人一首62番の歌の作者でもあります。
これは『光る君へ」でも為朝公が講じていた『鶏鳴狗盗』の故事を踏まえたもので藤原行成卿との間に交わされたとされる歌です。

夜をこめて 鳥のそら音は はかるとも よに逢坂の 関はゆるさじ
清少納言

意訳:夜がまだ明けないうちに、鶏の鳴き声を真似して夜が明けたと人をだまそうとしても、そんな嘘は通用しませんよ。
函谷関ならいざ知らず、あなたとわたしの間にあるこの逢坂の関は、決して許すことはありません。

清少納言
『光る君へ』より

>藤原公任が筆を吹く場面は、アジア時代劇美男子・日本代表の姿そのもの。
>筆を吹く美男子は絵画定番の題材です。
>中国時代劇『陳情令』をはじめ、笛を吹く日本代表時代劇美男は待たれるところでした。
>それがついに叶いました!
>おめでとうございます!
琴と笛の演奏が行われ、公任卿が美しい趣で笛を吹いています。
そこへ出席者に挙がっていなかった道長卿が急いでやってきてそしてまひろさんと目が合います。

『光る君へ』より

『筆を吹く』となっていますが、筆は書道や絵画の道具です。
これは『笛を吹く』または『筝』の誤字でしょうか?
『箏(そう)』だとしても柱がある琴の一種を「箏」と言い、弦楽器です。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AE%8F#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Koto_(sou)-overview.jpeg

もしくは『篳篥(ひちりき)』と書こうとしたのでしょうか。
篳篥は『蘆舌(ろぜつ)』という葦のダブルリードを差し込んでそこから息を吹き込み、音を出す縦笛です。

公任卿が吹いていたのは『竜笛』であり、平安貴族の男性にとっては音楽の教養の基本とされた楽器で、平安文学では『筝』などの弦楽器と合奏したり貴族が懐から出して吹くなど盛んに登場します。
『源氏物語』でも源氏の君が琴(きん)の琴に次ぐ得意な楽器としています。
『源氏物語絵巻38帖「鈴虫」二』では下襲の裾を高欄に掛け夕霧(とみられる)が笛を吹いています。

国宝 源氏物語絵巻38帖「鈴虫」二
五島美術館 所蔵

因みに、何見氏が貼付している『月岡芳年作「藤原保昌月下弄笛図」』は『今昔物語集』や『宇治拾遺物語』に出典がある『10月朧月の夜に一人で笛を吹いて道を行く藤原保昌公を見つけた盗賊の袴垂が襲い掛かろうとするが保昌公の人を寄せ付けない気配により動けず、保昌公は袴垂を自宅に連れて行き諭して衣を与えたところ、袴垂は慌てて逃げ帰った』と言う説話を基に描いたものです。

月岡芳年作「藤原保昌月下弄笛図」(1883年)
東京国立博物館 所蔵

・お題は「酒」?

>会場に、道長が遅れてやってきました。
>兄の道隆も頷いています。
>漢詩を通して弟の器量を図りたいのかもしれません。
花山院のお傍で権勢を振るう藤原義懐卿に対抗する人材として若手貴族を取り込み出席者の考えを知ろうと道隆卿は父・兼家卿の様な強引なやり方を絶対視せず『漢詩の会』を開催します。
因みに義懐卿の宴は酒色が中心で出席した公任卿は引き気味でした。
この漢詩の会には当初出席予定が無かった藤原道長卿が駆け付けます。
義懐卿の宴を報告したのは道長卿で、道隆卿は政に少なからず関わり始めた弟を懐柔しておこうと考えたのかもしれません。

『光る君へ』より

>東洋文学における酒は、ウェーイと楽しく気晴らしのために飲むだけのものでもありません。
>当時はまだ貴重でもあるし、憂いを解くためのものでもある。
>酒に託して精神の高揚を詠い上げてこそ。
漢詩の会が始まり、清原元輔公から「酒」という題が出されます。
漢詩では酒を取り上げたものがたくさんあり、中国唐代の李白、杜甫、白楽天も大酒飲みだったと言われています。(当方詳しくはないため検索で出てきたものを例に挙げています。)

漢詩の会の主催者藤原道隆卿は無類の酒好きで知られており、記念すべき1回目と言う事で主催者の趣向も織り込んだお題だったのではないでしょうか。

『光る君へ』より

>それと漢詩について。漢詩は嫌だとジタバタする人が複数名いましたね。
>日本では【和様】と【唐様】という分類があります。
>和歌と漢詩。
>漢字とかな文字。
>輸入したかそうでないか。
>【和様】は身近で柔らかいものであるのに対し、【唐様】はより大きなスケールのものごとを扱う。
>そんな大雑把な分け方です。
大雑把な分け方はともかく、当時の貴族社会などの流行を踏まえ具体例を挙げていただけないでしょうか。
平安時代、貴族社会では漢詩や和歌の会が流行し、貴族にとっては教養としての漢詩・和歌とともに書は必須のものでした。
藤原公任卿は漢詩・漢文・和歌を集めた朗詠のための詩文集『和漢朗詠集』を編纂しています。
因みに『君が代』で知られる日本の国歌ですが、元になった和歌が『古今和歌集』よみびとしらずとしてに収録され、『和漢朗詠集』にも収録されています。

我が君は 千代に八千代に さざれ石の 巌となりて 苔のむすまで
よみびとしらず

意訳:貴方は、数え切れないほど長く、小石が巌となって苔がむすまで、長生きしていただきたいと思います。

よみびとしらず

漢詩や和歌の会はその場で執筆する懐紙の書を提出し読み上げ、その優劣を競う事も大きな関心事の一つでした。
4回コラムでも書きましたが『源氏物語』17帖『絵合』に『中宮の御前の物語絵合せ』の場面が出てきます。
『絵合』は双方が出した物語(絵巻)の評価をディベート方式で言い合う趣向ですが、この場面は天徳4年(960年)3月30日、村上天皇によって行われた『天徳内裏歌合』に準拠しているといわれます。

村上帝の御前で催された『天徳内裏歌合』
源氏物語17帖『絵合』あらすじ
『源氏物語図屏風(絵合・胡蝶)』
狩野養信筆 東京国立博物館所蔵

>和歌とは異なり、漢詩の会となれば、「きみたちの政治ビジョンを聞こう!」というニュアンスもありとみてよいでしょう。
>さて、皆の選ぶ詩は?
藤原行成卿の選んだ漢詩は李白の『月華独酌』ではなく、白居易の『獨酌憶微之』です。
せめて訂正しましょう。

『光る君へ』より

清原元輔公から『酒』というお題が出されました。
各々が独自スタイルで紙に漢詩を認め、提出します。

『光る君へ』より

まず行成卿の詩が為時公により吟じられました。
丁寧に意訳を読んでくれるところが視聴者にはありがたいところです。
行成卿が選んだのは白居易の『獨酌憶微之』です。
白居易が元微之(ききょうさんが作中で言っていた白居易の友人)に送ったものだそうです。
『三蹟』に選ばれる行成卿は筆の端を持ち流麗な文字を書きます。

『独酌憶微之』白居易

次いで斉信卿。
こちらは白居易の『花下自勸酒』です。
斉信卿は、漢詩や和歌に通じた人物として清少納言とも交流があった人物です。
『早くしないと花が散ってしまう』とは自らの出世の事も頭にあって焦っているのでしょうか。
『散る花』が出世できないまま燻る斉信卿自身と病床の妹忯子さまを連想させます。

『花下自勸酒』白居易

そして道長卿の詩が披露されます。
こちらは白居易の『禁中九日対菊花酒憶元九』です。
『元九』というのは前述の元微之の事で、菊の花の詩を受け作られたもので最後に「一日中君の『菊の詩』を吟じている」とあります。
漢詩が詠まれる最中、道長卿とまひろさんが交互に映る演出は冒頭のまひろさんが角盥に張った水に映る道長卿と月を掬う『掬水』と重陽の日の『菊水』の酒がリンクしているのではないでしょうか。
そして何見氏の一言『素晴らしいチョイスですが、字はうまくありません。』
余計なお世話ですし、情緒のかけらもありません。

『禁中九日対菊花酒憶元九』白居易
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

公任卿の漢詩は自作の漢詩だそうです。
公任卿は「和漢朗詠集」の撰者で和歌、漢詩の第一人者でもあります。(何見氏、中国のもの以外は専門外なのか出典がありません)
『本朝麗藻』掲載の『夏日同賦未飽風月思』七句、八句と『冬日陪菸飛香舍、聽第一皇子始讀御注孝經、應教詩』の三句と四句を合体させたものだそうです。

藤原公任卿 作中漢詩
『光る君へ』より

唐の太宗・李世民は自らに対しての諫言を行わせ、常に自らを律するように努め、その治世は『貞観の治』と呼ばれました。
後世、太宗と臣下たちの問答が『貞観政要』として編纂されています。
天皇の治世の例えとしての誉め言葉の様ですが、花山帝の治世と言えば政に異を唱える公卿を遠ざけ、自身の外戚や乳母子を重用し親政をはじめましたが、藤原実資卿からは諫言せよと苦言を呈され、『禁破銭令』や『永観の荘園整理令』などの政策は利権を優先する有力貴族の反発を招いている始末です。
図らずも公任卿の『貞観の治』を詠みこんだ詩が皮肉に聞こえてしまいます。
そして公任卿は花山帝の政に異を唱える一人である関白頼忠卿の子息です。
道隆卿は、「流石才覚は当代無双」と公任卿を褒めます。

『光る君へ』より
『光る君へ』より

・ききょうとまひろ、そして道長?

>すると、ききょうが突然カットインして「そうは思わない、白楽天の親友である元微之(げんびし・元稹)のような闊達の歌いぶりだ」と発言します。
道隆卿は、廊下にいるまひろさんにこの詩についての感想を尋ねます。
まひろさんは「公任さまの御作は唐の白楽天の様な歌いぶりでございました。」と答えます。
すかさずききょうさんが「私はそうは思いません」と口を挟みます。
「むしろ白楽天の無二の親友だった元微之のような、闊達な歌いぶりでした。」と言い、まひろさんに同意を求める娘を元輔公は咳払いをして制します。
元輔公は娘をなるべく自由に教養に触れられるよう育てたのでしょうが、さすがに衆目の前でききょうさんが持論を挟み出過ぎた事で、まひろさんの意見を遮ったため一旦止めたのでしょう。

>そして友情と愛情のハードルが低いと言いますか、区別がつきにくい。
>海外の研究者からみると「これはもう恋愛関係でしょう」と言いたくなるほど切ないものが多い。

道長卿が選んだ詩は、白居易が親友・元微之の詩を賛美して詠んだ詩だそうです。
友の詩を称賛する詩に見せかけた『まひろさんにだけに伝わるまひろさんへの逢いたいのに逢えない思い』を詠んだ歌で、まひろさんが『白楽天』を出した事で伝わるという筋書きだと思います。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

会もお開きになり道隆卿は「この国を背負って立つべき若者が何を思い、何を憂いているのかを心に刻んだ」と出席者に礼を述べます。
道隆卿が席を立ち、一同を見渡し「その思いかなえるべく、わしも力を尽くしたい。そなたらと共に帝を支え奉り、この国をよりよき道に導いてまいろうぞ」と宣言します。
この道隆卿の言う『帝』とは花山帝ではなく東宮・懐仁親王なのではないでしょうか。

『光る君へ』より

廊下にはまひろさんとききょうさんが並んで座っています。
「まひろ様はお疲れなのかしら、私は斉信様がお選びになった歌が好きだったわ」と話しかけるききょうさんを元輔公が「出過ぎたことを申すな」と叱ります。

『光る君へ』より

>いや、これは強がりというか、本音はむしろああいう強気で生意気な女性に、頬を引っ叩かれてうっとりしたいタイプなんじゃないですか。
>後に斉信は、ちょっとしたストーカー状態というか、頻繁に清少納言へちょっかいを出し、彼女の元夫に「お前さぁ、彼女の居場所わかってるだろ?」としつこく迫ったりしていますからね。

参加者が退室しそれぞれ帰路に就いています。
公任卿が斉信卿に「どう思ったか」を尋ねています。
斉信卿は「やはり道隆で義懐ではない」と答え、道隆卿側に付くつもりの様です。
さらに「それよりは元輔の息女、ああいうのも悪くないな」と言います。
公任卿は「あの様にしゃしゃり出る女子は好かぬ」と持論を述べます。
斉信卿は「あの小賢し気な感じ鼻をへし折ってやりたくならぬか?」と訊きますが、公任卿は「ならぬ」と答えます。
ここでききょうさんこと清少納言と藤原斉信卿にフラグが立っています。
清少納言は斉信卿の家司・橘則光公と結婚しており、斉信卿はしばしば『枕草子』にたびたび名が挙がるなど二人の交流が見られます。
『枕草子』の「故殿の御ために、月ごとの十日」では「なぜ私と本気で親しく付き合ってくれないのか。これほど長年のなじみなのに、このままよそよしくしていることもないでしょう。」と言う斉信卿に清少納言は「親しくなることは決して難しくはないけれど、仮にそうなったとしたら今後貴方を主人の前でお褒めすることができないじゃないですか。」と精神的な繋がりを仄めかしています。

『枕草子』故殿の御ために、月ごとの十日
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

因みに公任卿・斉信卿・行成卿が肩から掛けている布は『被け物(かずけもの)』といい、目下の者の功績や労苦に対して与えられる贈り物で衣服類を相手の肩にうちかけて与えた事からそう呼ばれるそうです。
源氏物語17帖『絵合』では藤壺中宮が絵合せの参加者全員に帝に代わり、御衣(おんぞ)を賜ります。

>一方でまひろと道長は、また交錯した互いのことをうっとりと思っているのでした。
月を見ていた道長卿。
気持ちも落ち着かぬ様子で机の前に座り、墨を磨ります。
その頃まひろさんも家で考え事をしています。

>ある夜、道長は盗賊の窃盗現場に駆けつけました。
『右兵衛権佐』として内裏の警護についていた道長卿は「盗賊だ」との声を耳にします。
同僚とともに賊を追い、その内の1人の腕を弓矢で射抜きます。
矢が当たった男は白い布を道長卿の弓に絡ませ、外そうとしている隙をついて逃亡します。
盗賊の男は直秀でした。
その頃、乙丸が「散楽で会った三郎の使者がこれを持って来た」とまひろさんに文を届けます。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

>花山天皇が最愛の忯子が命を落としたことに狼狽える一方、まひろは道長の書状を抱き締めています。
宮中では「忯子さまがお隠れになった」と女房たちの様子が慌ただしくなっています。
花山帝の最愛の女御・忯子さまがお腹の子を流産し彼女自身も17歳の生涯を閉じたのです。
花山帝は冠も付けず、寝間着のままで弘徽殿に駆け付けます。
呪詛が効いたのかどうかはともかく(花山帝が愛ですぎた事で衰弱したとも)、平安時代の出産は文字通り命懸けで、流産や死産、出産後の肥立ちの悪さが原因で衰弱し亡くなるケースが多かったのだそうです。

『源氏物語』9帖「葵」
源氏の君の正妻・葵の上が懐妊。
周囲は喜びに沸き、心細そうな妻に源氏の君は愛しさを感じます。
賀茂祭の折、周囲に勧められるままに見物に行った葵上。
図らずも家来が源氏の愛人の六条御息所の家来と車争いし、御息所の牛車を破損させ恥をかかせてしまいます。
この頃から葵の上は物の怪に悩まされて臥せるようになります。
見舞いに来た源氏の君の前で彼女に取り憑いた御息所の生霊が現れる事件も起きます。
8月、難産の末夕霧を産み、秋の司召の夜容体が急変し葵上は他界します。

『源氏物語』9帖「葵」あらすじ

まひろさんは受け取った道長卿の文を見ています。
文には歌が認められています。

ちはやぶる 神の斉垣も 越えぬべし 恋しき人の みまくほしさに
藤原道長

意訳:私は、越えてはならない神社の垣根も踏み越えてしまいそうです。
恋しい貴方にお会いしたくて。

藤原道長

『ちはやぶる』は『神』に掛かる枕詞です。
この歌の本歌になった歌が『伊勢物語』に掲載されています。
『斎垣(いかき)』とは神社など神聖な場所に巡らした垣根の事です。
『大宮人(都人)』をダイレクトに『恋しき人』に変え、『みだりに人が越える事を許さない斎垣さえ超えてしまいたい』とまひろさんへの告白の歌に変えたのでしょう。
まひろさんは、道長卿からの文を胸に押し当てています。

ちはやぶる 神の斎垣も 越えぬべし 大宮人の 見まくほしさに

意訳:神を祭る神聖な垣根も越えてしまいそうです。
都人を一目見たさに。

『伊勢物語』
『光る君へ』より
『光る君へ』より

・MVP:ききょう(清少納言)とまひろ(紫式部)?

>案の定、圧倒的な陽キャオーラの持ち主であるききょう。
>貴公子たちもすでに惹かれていて、彼女にちょっかいをかけたいことが見えてきます。
>一方でまひろは、道長にしか理解できない陰キャ。
>月光が似合うと言えば聞こえはいいかもしれないけれど、その前に「陰キャ」という表現がしっくりくるからたまらない。
紫式部(まひろさん)が生真面目で好きなものを話し出すと止まらないユーモアやその場の空気を読んだ機転が苦手なオタク気質、清少納言(ききょうさん)は尊敬する上司の事や付き合いのある殿方、日常のエモいものに敏感な少々毒舌のインスタグラマーの様な陽キャと言う感じでしょうか。
今のところききょうさんに気があり、「あの小賢し気な感じ鼻をへし折ってやりたくならぬか?」とその後の2人の関係を想起させるような雰囲気を出しているのは藤原斉信卿のみです。
またききょうさんも「私は斉信様がお選びになった歌が好きだったわ」と言っています。

・空気を読むことだけでいいのか??

>まひろが空気を読むスキルを身につけようと努力し、それに疲れ果て、胸に迫るものがあった今回。
>姫君サロンで浮くけれども、あの感受性があればこそ見えてくるものもあるでしょう。
>人と感受性の範囲が違うばかりに苦労して……
>そして大河ドラマそのもの、いやひいてはドラマ鑑賞のことも思い出してしまいました。
まひろさんがオタク気質のため自分の好きな事に関して蘊蓄を語り、周りに引かれて気まずい思いをする事、不器用さから肩に力が入り左大臣家の姫君サロンで場の空気をむ事に疲れてしまい倫子さまに「苦手は苦手という事で参りましょうか」と励まされる事と『大河ドラマ含めたドラマ鑑賞』の仕方と何の関係があるでしょうか。
それこそ倫子さまや姫君たちの様にビギナーな方もいればいわゆる歴オタや文学が好きなまひろさんの様な方もいるわけで、「苦手は苦手という事で参りましょうか」でいいのではないでしょうか。

>こんな記事を見かけました。

◆『セクシー田中さん』原作者と宮藤官九郎の“苦悩”に共通点。クドカンも被害「TV局の改悪と作品私物化」を芸能記者が解説(→link

MAG2 NEWS

>私が聞いたわけではないけれど、そうなんだろうな、と思います。
>序盤から作風がどんどん変わっていきました。
>彼ならこんな雑な伏線放置をしないという箇所がでてくる。
>当時の語彙を面白おかしく混ぜてきたのも序盤だけ。
>語彙力そのものが落ちていきます。
>コメディタッチのシーンもセンスが悪い。
>差別やおちょくりのものが増えていて、これが彼の作風なのかとずっと疑問でした。
『私が聞いたわけではないけれど、』
つまり自分がきちんと検証したわけではない論拠もない、一方的な考えで『セクシー田中さん』事件に便乗し、『いだてん』を叩くための叩き棒にしているという事ですね。
何見氏は『どうする家康』レビュー内で文春記事を論拠に松本潤さんを中傷していたため今更ですが。

武将ジャパン『光る君へ』
5回レビュー
武将ジャパン『光る君へ』
5回レビュー

記事内の記者の言葉も『クドカンは関係者にこんな言葉を漏らしていたといいます。』と名前も経歴も分からない関係者とやらの言葉を論拠としており、又聞きの又聞きになっており信憑性に欠けます。
せめてその様なクドカン氏の言葉が他にあるなら論拠を示してください。
『いだてん』はクドカン氏監修のシナリオ集が出ていたので、実際のドラマ完成品と突き合わせして論拠を立証してください。

>私はなるべくフラットな状態でいきたいから、特定の脚本家や役者のファンだと思わないようにしています。
>魅力があると思ったとしても、その気持ちをドラマが終われば全部捨てて、やり直すくらいでないといけないと思っています。
>そうはいっても、そんなものは私の勝手なルールであり、他者に強要できるものでもないし、空気を読んで共感を稼げることがメディアの勝ちセオリーですもんね。
>ながら無駄な努力をしているもんです。
>みんなで楽しくはしゃいでいれば、それでいいんでしょうけど。
>自分に嘘をついてまで忖度することと、空気を読まずに見えたものをはっきり言うことと、どちらか疲れずに済むのでしょうか。
ファンや作品を大切に思っている人に対して『その気持ちをドラマが終わったら全部捨てろ」と強制する、無駄な努力』と言うよりもただの余計なお世話、迷惑行為です。
『私の勝手なルール』と分かっているなら自分と他人を分けて考えましょう。


※何かを見た氏は貼っておりませんでしたが、今年もNHKにお礼のメールサイトのリンクを貼っておきます。
ファンの皆様で応援の言葉や温かい感想を送ってみてはいかがでしょうか?

NHKや番組についてのご意見・お問い合わせ | NHK みなさまの声にお応えします
◆NHK みなさまの声(→link

NHKや番組についてのご意見・お問い合わせ | NHK みなさまの声にお応えします


















































































































































































































この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?