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歴史を学ぶ

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歴史に関する記事をこちらにまとめています。
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記事一覧

論文紹介 1970年代に米国で生み出された軍備競争の戦略思想

戦略研究者アンドリュー・マーシャルは、ランド研究所で勤務していた1972年にアメリカがソ連に…

なぜ戦間期の英国はドイツとの対立を避け、宥和に動いたのか? The Ultimate Enemy(19…

1933年にアドルフ・ヒトラーが新政権を発足させてから、ドイツは将来の戦争を見据え、軍備を積…

論文紹介 なぜソ連は1979年にアフガニスタンに侵攻したのか?

1979年12月、ソ連は国境に集結させた部隊をアフガニスタンの領域に侵攻させ、アメリカを含めた…

日中戦争で中国が仕掛けた交通基盤の破壊工作にどのような効果があったか?

日中戦争(1937~1945)で中国共産党を率いた毛沢東は、日本軍の脅威に対して遊撃戦として知ら…

論文紹介 イラクが核開発を進めようとした狙いは何だったのか?

1979年3月27日、イラクの副大統領でありながら、すでに事実上の最高指導者として権力を掌握し…

宇宙領域の冷戦史『世界史を動かすスパイ衛星』(1990)の紹介

1992年9月、アメリカ国防総省は初めて国家偵察局(National Reconnaissance Office)の存在を…

メモ 訓練と経験が部隊の戦闘力に及ぼす影響:ラ・エ・デュ・ピュイの戦闘(1944)

1944年7月3日、北フランスのノルマンディー地方に上陸し、内陸方面に向かって前進を開始したアメリカ軍の第8軍団は、ラ・エ・デュ・ピュイ(La Haye-du-Puits)を占領するドイツ軍の防御陣地に対する攻撃を開始しました。トロイ・ミドルトン軍団長は、作戦区域の西翼に第79歩兵師団を、中央に第82空挺師団を、東翼に第90歩兵師団を割り当て、V字型の陣形をとって、ラ・エ・デュ・ピュイの北側に位置する高地をドイツ軍から奪取するという戦術構想を採用していました(Blumenso

軍事と外交を統合する戦略を探求したジョージの強制外交理論 The Limits of Coercive …

強制外交(coercive diplomacy)は、すでに何らかの望ましくない行動を開始している相手に対し…

宇宙開発の政治史を記述した先駆的研究The Heavens and the Earth(1985)の紹介

1957年にソ連が打ち上げた人工衛星スプートニク1号はその後の国際政治の展開に大きな影響を及…

大英帝国の覇権を可能にした電信の歴史を語る『ヴィクトリア朝時代のインターネット』…

科学技術ジャーナリストのトム・スタンデージ(Tom Standage)は、19世紀にモールス符合を用い…

メモ 2021年のクーデターで一変したミャンマーの政治情勢

東南アジアのミャンマーでは2021年2月1日に軍部がクーデターによって権力を掌握しました。しか…

メモ なぜ中国はベトナム戦争に介入したのか?

1965年、中国は北ベトナムに戦闘支援部隊を派遣することを決定しました。当時、北ベトナムはソ…

第一次世界大戦におけるフランス軍の戦略と作戦を分析したPyrrhic Victory(2008)の紹…

第一次世界大戦(1914~1918)でフランスは西部戦線の作戦で中心的な役割を果たしました。フラ…

メモ 戦後の日本における災害派遣の歴史

警察や消防で対応が困難なほどの広域的に被害が発生した場合、外部のインフラに依存することなく組織的な活動が可能な軍隊は重要な役割を果たしてきました。日本で関東大震災(1923年9月1日)が発災した際にも戒厳令が発せられ、日本軍の部隊が派遣された事例があります。 第二次世界大戦の結果、日本は米軍の占領統治に置かれ、陸海軍は解体されました。そのため、戦後間もない時期に災害が発生すると、米軍の部隊が出動するようになります。例えば、1947年のカスリーン台風災害、1948年の福井地震