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ジリ 路上のレンブラント


 乾いた敷布は厚紙に似ている。木枠に貼れば絵が描けるかもしれない。

 昨日、アンリエッタが敷布を洗ってくれた。朝にはすっかり乾燥してごわごわになっていた。気温は低く、空気は乾ききっている。早朝、ジリは窓から身を乗り出して敷布を取り込み、四苦八苦してそれをたたんだ。敷布と絵の具、筆と水入れを道具袋に押し込み、スケッチブックと小さな椅子を抱え、これで準備は完了。巡礼者と観光客が集まるノイエの市場へ行って、路上で似顔絵描きをするのがジリの仕事だ。
 アンリエッタは隣のベッドでまだ眠っている。彼女の腕は秋ごろからこっち、また細くなったとジリは思う。アンリエッタは歌が上手なので、街のレストランで週に三回、歌を歌っている。この半年、しばしば戒厳令が出て市民は夜間外出ができなくなり、アンリエッタの稼ぎは半分以下になった。爆撃機はひっきりなしに頭上を通るけれど、落とすのは爆弾だけで、食べ物は降ってこない。食べるものはどうしようもなく足りなかった。アンリエッタは家族思いの姉だ。幼い妹や弟に食べさせると、残りはほんのわずかで、アンリエッタもジリもいつも腹ぺこだった。
 母と父が生きていたころは、ジリの家族は裕福なほうだったと思う。アンリエッタは歌を習い、ジリは絵を習っていた。一番小さいカトリン以外は、全員、学校へ通っていた。今、家族は五人、幼い妹弟らはひとりも学校へは行っていない。
 部屋を出て通りにさしかかると軍の大きな車がものすごいスピードで走り抜けていくのが見えた。走り去ったあとには向こうが見えないほどの土煙だ。
ジリの脳裏に無惨な映像がよみがえる。むせかえるような煙と異臭の中、遺体で発見された母。瓦礫の下で母が何を思い、何を叫んだだろうかと思うと、ジリは今でも涙が出そうになる。父のほうは軍に引っ張っていかれたきり、音信不通だ。大学教授だった父は反戦主義者だった。アンリエッタは決して口に出さないけれど、父が無事に戻ってこられる可能性はきわめて低い、そうしたことがジリにも理解できるようになっていた。
 だけど、とジリは思う。遠い国、自分たちとはなんの関係もない国が、どうして自分たちの街まで戦闘機を飛ばしてきて、爆弾をたくさん落としていくのだろう。パンを焼くのが上手な母を、何故彼らは殺したのだろう。ジリにはそれがわからない。どんなに考えてもわからなかった。
 考えることの他にもやらねばならないことは山ほどあったから、ジリは路上で似顔絵描きをし、わずかな収入を持って帰って食べ物を買うお金の足しにする。絵を描くのは好きだし、描いてるあいだは幸せだ。似ていないと苦情を言われることもあるけれど、ほめられることもある。するとジリの胸の中に不思議な暖かさが沸いてくる。お腹は空っぽでも、元気になれるのだ。
 今日もジリは二時間の道のりを歩き、やがてノイエの市場にたどり着いた。『あがないの壁』の前には大勢の人が座って祈りを捧げていた。壁の一部は去年の爆撃で崩れていたが、人々は崩れた壁にも手を触れて一心に祈っていた。壁に近づいてジリも祈りを捧げる。祈りはいつもひとつだけだ。

『神様。父を無事に返してください』

 心をこめて一生懸命祈ると、壁がわずかに暖かくなった気がした。壁から離れて、いつもと同じ場所に歩いていった。荒物の露店の横がジリの場所だ。陽気な荒物売りはジリの顔を見ると嬉しそうな笑顔になる。敷布を広げて画材を並べ、お客さん用の椅子を置いて、支度は終わり。敷布の端に座ってスケッチブックを膝に乗せ、ジリはお客を待った。
 人々の足を眺めて一時間。野良犬がのぞきに来て、胡散臭げに画材の匂いを嗅ぎまわり、そのうち離れていった。犬の絵を描きたいなとふと思う。けれど、余分な紙はないから我慢するしかない。犬がいなくなってしばらくすると騒々しい足音が近づいてきた。このあたりをなわばりにしている子供の集団が群になって走り去り、それを大人が追いけかけていく。隣の荒物商はげらげら笑っていた。
 またしばらくすると厳しい目つきの兵士が銃を腰に通り過ぎた。兵士のあとでカラフルな色合いの服の一団が目の前を歩いていった。外国から来たらしい中年の女性がジリの前で立ち止まり、年を聞く。十二、とジリは答えた。女性は似顔絵を頼まなかったが、お金を少し置いていった。正直なところ、ジリは少し複雑な気分だ。お金をくれるなら絵を描くと言ってみたが、言葉がうまく通じなかったらしく、女性は離れていった。その後ろ姿を見つめ、アンリエッタの三倍くらいの身幅だと、ジリは彼女を観察した。
 似顔絵を頼みたいという客はなかなか現れない。でも一日で一人、ということもかつてはあったから、ジリは気にしない。気長に待つしかないのだ。どこかから、肉を焼く匂いが漂ってくる。いくつか向こうのテントでは、固焼きパンに羊肉をはさんで売っている。一日のうちで、この時間帯が一番つらい。昼食を買うお金はないのだ。しかたがないので絵の具用に持ってきた水を少し飲む。水は錆びた金属の味がして、おいしくない。でもアンリエッタが毎日苦労して汲んでくる水だから、ジリは我慢する。
 絵の具の蓋をあけ、匂いを嗅ぐ。犬みたいだなとおかしくなってちょっと笑ったとき、右の方でパシャ、と音がした。見たことのない雰囲気の男が一人、四角い機械を持って立っている。あれはカメラだろうか、とジリはその機械を見つめた。父もカメラを持っていた。とっくに売り払ってしまったから、記憶は曖昧だが、もっとずっと小さかったように思う。
 カメラを持った男は、ジリに向かって思いがけなく親しげな笑みをみせた。「こんにちは」
 と、彼は言った。たどたどしいけれど、ジリの国の言葉だ。ジリも挨拶を返した。
「絵を、描いて、いる?」
 彼は近づいてきて敷布の前にしゃがみこんだ。
「そう。一枚どう? ハンサムに描くよ」
 ジリはお決まりの商売用の台詞を言った。ハンサムに描くよと言うまでもなく、彼はいい骨格の顔をしていた。東洋のほうの人種かな、とジリは考えた。珍しい顔立ちだから描いてみたい、とも思った。
「一枚、二千ケナフ。安いよ」
 客はたいていの場合、値切ってくるので、言い値は相場の倍から始める。高めにふっかけるのはここでは常識だ。だが、その東洋人は値切らなかった。ポケットを探り、千ケナフ二枚を差し出して、
「これで、頼む」
 お客用の椅子に座ってにこりした。
 なんで値切らないんだろう、ジリは少し驚いた。このカメラを持った男は世間知らずなのかしら。お金持ちなのかな? それとも今、お金をいっぱいはずんで、あとでホテルに連れ込んでひどいことを要求するたぐいの大人なんだろうか。ジリがじっと見つめると、その東洋人はまたにっこり笑った。日に灼けた健康そうな顔。少し色のついたサングラスをかけ、真っ黒な髪を首の後ろで結んでいる。笑顔は親しげで、悪い人には見えなかった。
「じゃ、描くよ」
 ジリは彼の顔を見つめ、絵筆をとった。目から描くのがジリの方法だ。サングラスをはずしてくれと言うと、客は素直に従った。
「絵、好き?」
 客はジリに聞いてきた。そうだよ、とジリは答えてから笑った。普通は絵描きが客にさまざまな質問をして表情の特徴を掴むのだ。客の方からジリのことを聞いてくるのは珍しい。年はしょっちゅう聞かれるけど、この街では働く子供なんて珍しくもなんともないから、十二と答えても「フーン」と返事があるだけだ。
「どんな画家が好き?」
 客はまた聞いてきた。
「好きな画家はいっぱいいる。でもレンブラントが一番好き」
「サスキアの肖像?」
「そうだよ」
 この客は絵に詳しいんだ、とジリはまた驚いた。
「サスキアの絵。どこがいいと、思う?」
 客はにこにこして質問を続け、
「ママに似てる」
 ジリは答えた。
「君のママ、美人だね?」
「美人、だった」
 今はもういないけど、と言うつもりで答える。
「そう。私の母も、美人、だった」
 客は少しうつむき加減に、静かに言った。
「上向いていてください」
 ジリが言うと客は急いで顔をあげる。
「写真の仕事?」
 今度はジリが質問した。そうだよ、と返事があり、
「いつまでこの街にいるの?」
 二日間、と返事があった。
「さっき、僕の写真、撮ったね?」
 黙って撮って悪かった、と彼はすまなそうに言って頭を掻いた。
「君、絵の具持って、笑った、すごくよかった。写真に撮りたかった」
 何がいいのか、ジリには理解できなかった。写真を撮られたのはべつにいやじゃない。ジリは絵を描くのが好きだし、モデルは人間だ。写真家が写真を撮るのが好きだというのは共感できる。
「撮った写真、明日、持ってくる。明日、また来る?」
「来るよ」
 撮った写真を見せてくれるということなのかな、とジリは察し、
「でも僕は写真を買わないよ」
 念のために言い足した。写真家は思いがけなく大きな声で笑い、
「わかった。見せにくる。私は写真を君に売らない。いいか?」
 まだくすくすと肩を揺らして笑い続けた。何がそんなにおかしいんだろう。東洋の人間は不思議だなあとジリは思う。
 でも、この東洋人は嫌いじゃない。笑顔は明るくて、笑ったときになんともいえない頼もしさが顔に出る。ジリを対等に扱ってくれるし、変な同情もしない。ジリはこの東洋人が好きになった。
 やがて絵が描きあがった。これで二千ケナフは高いと言われたらどうしようと、ジリは少し不安になってその絵を客に見せた。客は絵をしげしげと見つめ、満足そうに頷き、それから目を細くして微笑んだ。
「いい、絵だ」
「モデルがいいから」
「いや、腕がいい。素晴らしい、レンブラント」
「僕の名前はジリだよ」
 ジリはほめられて嬉しくなり、名前を教えた。あとで苦情をつけられるのがいやさに、ジリはまず自分の本名を明かさない。でもこの親しげな東洋人は信頼できる気がした。
「ジリ・レンブラント?」
「違う。ジリ・ビット」
「ジリ・ビット。私の名前、リツ」
 ファースト・ネームは聞き取れたが、ファミリー・ネームはジリには発音できなかった。
「リツ、どこの国の人?」
 彼は国名を答えたが、ジリは知らなかった。小さな国だから、地図に載っていない、というようなことを、冗談めかしてリツは言い、
「じゃ、明日。写真、持ってくる、ありがとう、絵を」
 微笑んで立ち上がった。ジリも急いで立ち上がった。ポケットから千ケナフを出して差しだした。
「多すぎるんだ。返すよ」
 リツは手を振って辞退し、
「二千ケナフでも、安い。すごくいい絵。価値がある」
 真面目な顔で言う。
「違うよ。似顔絵の相場は千ケナフなんだ。ここじゃ大人も子供も同じお金もらって絵を描いてる。あなたが値切らなかったから、僕は二千ケナフ受け取っちゃったけど、多すぎるよ」
「ジリ、こうしよう。その千ケナフ、預かってほしい。二十年後、ジリ、レンブラントになる、わかる?」
「どういう意味?」
「ジリ、大人になる。ジリの絵、たくさん、売れる。そしたらジリは二千ケナフ、持って行く、市場に」
「うん」
「男の子が、絵を描いてる。値段、訊く。彼は言う、一枚二千ケナフ、安いよ」
「ずいぶんふっかけてきたね」
 ジリもリツも一緒に笑った。
「君は二千ケナフ、払う。その子が二十年後、ピカソになる。また市場に行く。二千ケナフ持って」
「わかった。千ケナフずつ、次の子に渡していけばいいんだね」
 そうだ、とリツは嬉しそうな顔になり、ジリに握手を求めてきた。二人は画材の上でしっかり握手を交わし、やがて写真家は離れていった。
 手の中の千ケナフ札は春先のリウココリーネよりも美しく見える。ジリは画材を片づけ、敷布を袋に詰め込んだ。
「店じまいかい? 早いな」
 隣の荒物商が声をかけてくる。もらったお金で帰りにパンを買うのだと言うと、そりゃよかった、と喜んでくれた。
 ジリは市場をあとにした。石だらけの坂道をくだって振り返ると、あがないの壁は太陽の光をいっぱい吸って、柔らかく膨らんで見える。
 ジリは帰り道、パンを買った。姉と自分と弟、妹、下の妹。全員の頭数と同じ数だけパンを買えたのは二週間ぶりだった。




 夜明け前にジリは目を覚ました。音をたてないように気をつけて出かける支度をしたのだが、アンリエッタが起きてしまい、
「もう行くの?」
 囁くような声で話しかけてきた。
「うん。行ってくるよ」
 ジリが答えてドアの前で手を振ると、アンリエッタはショールを肩にかけ、ジリと一緒にドアの外に出てきた。
「どうしたの? アンリ?」
「ジリには話しておこうと思って」
 アンリエッタは口の前に指をたて、誰にも内緒、と目で言う。
「昨日、私が店で歌っていたら、イギリス人と日本人が来たの」
「イギリスはわかるけど、日本ってどこ?」
「ファー・イーストにある小さな国。ジリ・ビットの家族かと聞かれたから、そうだと言ったの」
「あっ……」
 ジリは昨日の東洋人を思いだして、小さな声をたてた。
「彼ら、私たちのパパのこと、聞くのよ。で、軍に連れていかれたきりだと私、答えたの。そしたら」
「そしたら?」
「希望を持ちなさい、ってそういう意味のこと、言ったわ。ジリ、彼らは報道関係の人間よ。あなた、どこかでコンタクトした?」
「昨日、カメラを持った東洋人の絵を描いたけど……」
「同じ人かしら?」
「髪が黒くて、長くて、後ろで縛ってて、大きなカメラ持って」
「それならきっと同じ人よ。カメラは持っていなかったけれど」
 二人は同時に互いの顔を見つめ、口を閉ざした。
「敵か味方か、わからないわ。ジリ、よそで名乗ってはだめよ。パパが政府と軍にどう思われているのか、知ってるでしょう?」
「知ってる。ごめんなさい、アンリ」
「いいえ、謝らなくていいの。ただ、あなたは昼間、たった一人で市場に行くし、市場には軍隊がいるし、心配なのよ。彼らは子供でも容赦しないわ。ジリ、安全と他の何かを秤にかけないで。大切なのは安全だけ。お願い」
「わかった、アンリ」
 姉は弟を抱きしめ、額の髪をかきあげてキスした。
「行ってくるね」
 ジリは画材を抱え直し、何度も振り返って姉に手を振り、階段を降りた。アンリエッタが心配するのも無理はない。反政府組織では十歳の子供が連射銃を手にゲリラ活動をする。彼らの情熱はすさまじく、無関係の人間を巻き添えにしてもいっこうにひるまず、自分たちの正義を信じて疑わない。そういう過激派の分子と同じだと見なされることを、アンリエッタは何より警戒したのだ。
 亡くなった母もそうだった。母はしばしばこう言った。一晩でいいから爆撃も戦争もなく、軍もテロリストもいない場所で眠りたいわね。母の望みは終生かなうことはなかった。停戦と爆撃再開は祭より頻繁になっていたし、兵士と軍用車は街にも市場にも、普通にある。
 世界には戦争も紛争もない国があると、父から聞いたことがある。
 夢のような国。ジリはその景色を思い浮かべようとした。花は咲いているだろうか。子供は表通りを走り回っているのだろうか。かっぱらいや拾い食いをしなくても、生きていける、そして好きなだけ好きな絵が描ける、そういう国を。だが想像するのは難しかった。そこでジリは昔、父の書斎で見た写真を思い出した。
 山と花、緑に覆われた丘、そしてジリはじっさいには一度も見たことがない、真っ青な水と白い波がきれいだった海。

――海――。

 口に出してみた。海を見たい。いつか大人になって、戦争の心配がなくなったら、必ず海を見に行こう。昨日会った東洋人は、海を知っているだろうか。彼の国には海があるだろうか。今日、写真を見せてくれると言っていた。会いにきてくれたら聞いてみよう。
「リツ、海は本当に青いの?」
 どういう答えが返ってくるだろう。想像するのは楽しかった。
 だが、その楽しみは長くは続かなかった。市場の白いテントが遠くに見えるところまで来たとき、ごつごつした軍の車が十台以上、立て続けにジリを追い越していった。
 理由のはっきりしない不安にジリは身震いした。自分を励ましてあがないの壁に続く坂道をあがっていった。不安は当たっていた。軍のトラックが道をふさぎ、人々を追い返している。上からは巡礼者も観光客も、露店の商人たちも追い立てられるようにして降りてくる。人々の怒声から、どうやらあがないの壁の周辺に爆撃予告があったらしいと察せられた。
 二時間かかって歩いてきたのに、一ケナフも稼げずに帰らなければならない。それ以上に、昨日出逢った東洋人と、今日は会えないかもしれないという失望が、ジリには痛かった。滞在は二日、と彼は言ったのだ。今日会えなければ、写真を見せてもらうことも、海について訊くことも、諦めなければならない。
 人々の群は逆らいようのない圧力となり、ジリは押されるようにして巡礼地の下の街まで下っていった。街外れの崩れた建物の脇に座って少し休む。このまま引き返すのは惜しい。でも市場へは入れない。この街で昨日の東洋人を探すのはきっと無理だ。迷いに迷ったあとで、アンリエッタの言葉を思い出し、安全が大事なんだ、家に帰ろうと自分に言い聞かせた。
 だが、心残りだった。リツの写真を見てみたかった。リツに会いたかった。
 大切なものを失った時のような気持ちになって、ジリは歩き始めた。



 市場から締め出しをくらった、子供ばかりの集団にあとを尾けられていることに気づいたのは、街を離れて五分ほど歩いたあとだ。
 ジリは少しずつ歩調を早め、だが振り返らなかった。自分が市場で絵描きをしていることは彼らも知ってる。今日は市場がなかったのだから、金を持っていないことも、わかっているはずだ。
 ふいうちのように暴力がジリを襲った。背の高い、半分大人になりかかった少年がジリの背後からおおいかぶさってきたのだ。あっというまに取り押さえられ、画材、椅子、スケッチブック、敷布、道具袋ごと、すべてを持ち去られ、最後に脇腹をいやというほど蹴られた。舞い上がる埃のなか、痛みと恐怖と悔しさに、ジリは呻いた。
「返せっ、道具を返せ!」
 声を振り絞って叫んだけれど、賊の耳には届かない。
 一瞬、憎悪に火がついて、彼ら全員を殺したいほどの思いにかられ、そのあとで自分の無力さに腹をたて、最後に言いようのない悲しさがやってきた。
 よろよろと身を起こし、道に座ったまま、涙を拭う。泥が涙で溶けて袖に無惨な筋を引いた。
「全部、全部、戦争が悪いんだ」
 ジリは地面を見つめてつぶやいた。今、反政府組織がここに来て仲間になれと言ったら、喜んで銃を手にしてしまうだろう、とジリは考えた。
 相手なんか誰でもいい。この悔しさ、この憎しみをぶつける対象がそこにあるなら。
 どんなに気をつけて暮らしても、母の願った通りに正直に、父の言いつけ通り人に優しく暮らしても、それだけでは戦争は終わらない。
 ここには正義なんかない。あるのは恐怖と憎しみと暴力だけなんだ。
 後ろから車のエンジン音が聞こえ、ジリは這うようにして道ばたに除け、それからはっとした。傷だらけだが、軍の車ではない、幌のない屋根付きの車。タイヤには溝があって、その溝が深い。外国人が乗り入れた車だ。
 車はジリを追い越したあとで急ブレーキをかけ、停止した。ドアが開いて、男が顔を出す。
「レンブラント? 地面に絵を描いてる?」
 それは、昨日ジリが市場で似顔絵を描いた東洋人、リツだった。
 必死で押さえた涙がまたあふれ出す。リツは車を降りてきて、ジリに近づき、
「絵の道具は?」
 心配そうな顔をして尋ねてきた。
「盗られちゃった」
 ジリは答え、精一杯笑った。道具を盗まれて情けなく道に転がっていた自分が、ひどく惨めで、笑うしかないと思ったのだ。
 リツは眉を寄せて頷き、ジリの腕を掴んで立ち上がらせ、
「怪我、してる」
 ジリの手首の擦り傷を指さした。地面にこすれてできた傷。痛みは感じない。ジリがそう言うと、リツは両手を大きく広げて、ジリを抱きしめてきた。ポケットだらけのごつごつした服がジリの頬にあたる。ポケットの中には何が入っているのだろう、硬くてころころした感触。
「これ、何?」
 ジリはポケットに指を当てて尋ねた。何がおかしかったのだろう、リツはふふふっと笑う。フィルムだよと返事があり、リツの頬に硬いものが当たらないようにジャケットをちょっとずらしてくれた。リツの抱擁は父を思い出させるほど優しかった。
「リツ」
 ジリは彼の胸に顔をつけたままつぶやいた。リツの手が、『なんだい?』というように軽く背中をたたく。
「写真を見たい」
 するといっそう強く抱きしめられた。
 この東洋人はやっぱりちょっと変だと、ジリは思った。写真を見たいと言ったのに、抱きしめてくるのだから。でも悪い気はしない。手ひどい略奪に遭ったあとで、怒りが憎しみに変わったことも、今こうして抱かれていると、不思議と薄れていく。少し離れた車では、金色の髪の外国人が、ドアにもたれ、手持ちぶさたな雰囲気で空を見上げている。リツは彼に何か言い、金髪の男は車の中からバッグを出して近づいてきた。リツはバッグから茶色の封筒を取りだした。
「これが写真。私はジリに写真を売らない。安心して」
 彼は昨日の会話を覚えているのだ。半ば吹き出したものの、封筒を開けたジリは一瞬、笑うことを忘れてしまった。
 市場の喧噪のなか、そこだけ空気の色が違う透明度で、一人の子供が微笑んでいる。
 それが自分であるとは、ジリにも信じられない。
 使い古しの敷布の柄も、ジリの服も、素材そのままの質感だ。だからここに写っているのは自分に間違いない。だが、ジリ本人の顔が、正確にはその表情が、ジリには信じがたく清澄だった。
「これ? 僕? 本物の僕?」
 本物だよ、とリツは微笑む。
 写っている子供は、たしかにジリだけれど、これはただの人物写真じゃないとジリは感じた。レンブラントの描く肖像画がただの似顔絵ではないのと同じように、この写真は自分ひとりを写したものではない。写真からは荒物商の陽気な大声が聞こえてきたし、半分だけ写ってる大人の足は、何かいい掘り出し物はないかと期待して歩いているのがわかる。敷布に座って痩せた絵の具を手に笑ってる自分は、このまま何年、何十年たっても写真の中で笑い続けているのだと思うと、ジリは不思議な感動に満たされた。 
 リツはジリに、写真を封筒に入れるようにと身振りで示し、
「ジリ、よく聞いて」
 ゆっくりと話しかけてきた。
「この写真、ジリに預ける。持っていてくれれば、それでいい」
「うん」
「ジリは明日、この写真、持って、街のホテルへ行く。ダナ・ホテル。行ける?」
「僕が? 行くの? なんのために?」
「それは、言えない。信じて、行ってほしい」
 ジリはとまどいのあまり、口を閉ざした。
「フロントで、この写真を見せて、必ず」
「フロントに何があるの? ホテルに行ってもリツはもう、明日はいないんだろ?」
「いない。国に帰る」
 ではリツはいったいなんのために、自分をホテルに呼ぶのだろう。ダナ・ホテルはおおむね外国人が利用する、街で一番立派なホテルだ。
「約束して。危ないことはない。ホテルのフロントへ行く、大丈夫」
 何がなんだかわからなかったが、信じてみようとジリは思った。金髪の男が車に乗り込み、狭い道幅に四苦八苦しながら方向を変え、近づいてくる。運転席から時計を示し、リツを急かしたらしかった。
 車の向きが変わったということは、二人はこれから爆撃があるかもしれないノイエの市場か、あがないの壁へ向かうのではないだろうか。外国から、危険な紛争地域へわざわざ来て、路上の似顔絵描きの写真だけ撮って帰るカメラマンはいない。おそらく爆撃の様子を写真に撮り、本や新聞や、テレビで大勢の人に見せる、それがふたりの仕事なのだろうから。
「リツ、気をつけて」
 車に乗りかけていたリツは振り返り、あの頼もしい笑顔を見せた。リツは窓から手を出して、一度は手のひらを振って見せたが、次にはそれを拳にした。
 大丈夫、しっかり仕事してくるよと、手は言っている。
 勇気を君に。そうも言っていた。
 ジリも右手を高くあげて拳にする。
 車は砂塵を巻き上げて遠ざかっていった。




 翌日、ジリは午前中にダナ・ホテルに行ってみた。
 地元の人間の数よりも外国人が多い。せわしなく歩き回る背の高い男たちを見ているとジリは不安になった。
 フロントの手前のソファで数人の男が声高に議論している。一人は地元の男らしく、ジリにわかる言葉で話していた。様子からして通訳らしい。ジリが彼の横を通ったとき、
「政治犯十二人の釈放について、政府が要求をのんだ」
 声が聞こえてきた。
「だが解放しても戦力にはならない知識人ばかりだ。政府は遺跡の壁を守るために彼らを釈放したと発表しているが、知識人十二人で遺跡を守れるかと軍部は反発している。今後、軍と政府とでどのような話し合いがなされるか、引き続き注目していきたい。釈放予定の知識人十二人は、外出制限付きで一両日中に家族の元へ護送の予定」
 知識人。
 パパも知識人の中に入るのだろうか。一両日中ということは、遅くとも明日には帰ってくる、そういうことなんだ。どきどきしながらフロントへ行き、写真を見せると、ホテルマンはわかったというように頷いて、一抱えもある包みを運んできた。
「これ、中身は何?」
「絵の具、スケッチブック、筆、鉛筆。そろえるのに苦労した」
「えっ!」
「ただし、ラブレターはなしだ、色男」
 ホテルマンはいたずらそうににんまりする。だがジリがその場で包みを開けようとすると、
「おい。帰ってから開けろよ。ここで店を広げられちゃ迷惑だ。さあ行った行った」
 ていよく追い払われてしまった。
 画材だ。ものすごく嬉しい。でも、ひどく不思議。何故、あの東洋人は僕にこれを渡そうと思ったのだろう?
 喜びととまどいを抱いて家に戻ると、アンリエッタの泣き声がドアの向こうから聞こえてきた。
 気丈なアンリエッタが泣くというのはただごとではない。ジリは急いでドアを開け、棒立ちになった。
「パパ……!」
 家族は全員、父親にしがみついている。皆、泣いていた。
 ひどくやつれ、右頬に痛々しい傷があり、左手は自由がきかない様子で垂れているが、とにかく、生きている父が家族のもとに戻ってきたのだ。
「ジリ。ただいま」
 その不自由な左手を、笑顔とともに父は息子に差し出した。
 おかえりパパ、と、言おうとしたが声にならない。
 抱えていた包みを放り出し、息子は父の左手にしがみついた。
 昨日まで、夜の闇の中、天井に向かって声には出さず、何度も何度も父の名前を呼んだ。心のなかで幾度も父を抱きしめた。悲しみが過ぎて苦痛に思えるほど、心細かった。
 その父が今、目の前にいる。
 ジリは、あがないの壁に感謝した。空にいる母にも感謝した。
 東洋人にもらった包みのことを思い出したのは、家族に落ち着きが戻ったあとだった。包みを開いてジリはまた驚いた。絵の具、筆、スケッチブック、どれも新品で、すばらしくきれいな印刷が施されている。
「ジリ、これはいったい、どうしたのだね? 買えるはずはないね?」
「どうして僕にこれをくれたのか、わからないんだけれど、東洋人のカメラマンにもらった」
「何故なのかわからないのに、もらってしまったのかい」
「ごめんなさい、パパ。理由もなく施しを……」
 言いかけてふいに、ジリはあることに気づいた。リツは、ジリが誰の息子であり、どういう境遇か、わかっていたのではないだろうか。
「パパ? パパには東洋人の知り合いがいる?」
「いるよ。お前が二歳か三歳のころには留学生を自宅で世話したこともある」
「リツって名前の東洋人、いなかった?」
「リツ……? いたよ。どうして名前を知っているんだい?」
「彼だ!」
 ジリは叫んで立ち上がった。
「パパ、これをくれたのは、リツだよ。大きなカメラ持って、取材に来てたんだ。二日間だけだと言って。リツはたぶん、パパに会いに来たんだ」
 父は目を見開き、怪訝そうだ。
「だが、私はそう熱心に世話をしたわけではなく、ただ彼を受け入れる予定だった別の教授が海外へ行ってしまった一週間、寝るところと食事を出した程度で」
「そのとき、何か言わなかった? 彼。将来、パパに会いに来るとか、そういうこと」
「留学生はみなそう言うんだよ。だが国の事情がこうなってから、来た人はいない。戦争中だし、普通は来ないよ」
「でも、リツは来たんだ」
 筆を手にしてじっと見ていた妹が、
「音がする。かさかさ」
 なにげなくつぶやいて、ジリに渡す。振ってみると、たしかに筆の中で紙がこすれるような音がしていた。    
「なんだろう? 何か入ってる?」
 筆の金具と棒の部分のつなぎ目に、わずかな傷がある。不思議に思いつつ傷跡をなぞってみると、筆先がゆるんではずれた。中に入っていたのは紙片を丸めたもので、広げるとかなりの大きさがあり、数字がずらっと並んで書いてあった。
「パパ。これは何?」
 父はポケットから眼鏡を取りだし、紙片を見つめた。眼鏡は片方割れていて、見づらそうだ。しばらく眺めたあとで、
「各国の新聞の……新聞社の電話番号だ。緊急時にはここへ連絡せよとある」
「緊急時……」
「私がふたたび捕らえられるようなことがあれば」
 子供たちはいっせいに顔をこわばらせ、全員が沈黙した。大丈夫だよと父が笑っても、子どもたちは笑わない。ジリも笑えなかった。
「おそらく、このさき監禁などはないだろう。だが、このメモは大事にとっておこう。子供たち、もしもいつか国外に脱出あるいは亡命したとき、彼らは相談に乗ってくれる。もちろん、今、外部に知られたらただでは済まないがね。このメモは役にたつ日がくるかもしれない」
 父は紙片をつぶさに眺め、二枚目の紙を見て
「おお、これは」
 感慨深げに声をたてた。
 どうしたの、と子供たちは父のまわりを取り囲んだ。
「過去に世話した留学生の名前がある。ライザ、キリー、ステフ、ウォン……。おお、全員の、これは自筆の署名だ。どうやって集めたのだろう?」
 それはかつてさまざまな国々からビット教授のもとに来た、留学生たちの名簿でもあった。
「パパ。パパにはファンがこんなにいるんだ。すごいね。すごいよ、パパ」
 父はわずかに目をしばたかせ、
「ありがとう、と全員に言いたい」
 つぶやいて子供たちを抱き寄せた。
 紙片は小さな紙切れだ。だが、この紙には心があった。戦火の国で、こころもとなく生きている小さな家族に、紙片は希望を運んできた。戦火をものともせず、カメラを手にした東洋人リツによって届けられたのである。
「ジリ、リツは君に、何も言わなかったのかい? 私を知っているというようなことを」
「うん。全然」
「少しも変わっていないようだ。すごくシャイな男だったよ」
 懐かしそうに父は微笑んだ。
「彼が帰国したあとでね。大学の私の机の端のほうに、彼が撮影した写真が封筒に入れられて、なにげなく置いてあったことに気がついた。それはリツが撮影したものだった」
「うん」
「いつ撮ったのか、まったくわからないんだよ。それは家族の写真だった。私と妻、アンリエッタとジリ。素晴らしい写真でね。私は私の家族は物語に出てきそうな美しい家族だと思ったほどだ」
「どうしてリツは黙って写真を置いていったの?」
「自分は風景専門だから、人物は撮らないと、そういうようなことを言っていた。言ってしまったせいで、これを撮りましたとは言えなかったのだろう。そういう男だった」
「風景専門? 僕も撮られたよ」
「我が家族は例外ということかな?」
 東洋のカメラマンが撮影した家族写真は、一度めの被災で失われ、今は残っていない。そもそも、写真もアルバムも、手元にはまったくないのだった。だから、ジリが市場で撮影された写真はビット家の唯一の写真になった。
 リツが残していったジリの写真の裏には、細いペンで、
『レンブラント オンザ ロード』
 と、書かれていた。
 リツという男を育てた東洋の、地図にも載っていないような小さな国、日本とは、いったいどういう国なのだろう。ジリは考えた。
――そうだ、日本には海があるのかどうか、聞き忘れた。この次に会えたら、きっと聞こう。リツはどんな顔をするだろう。笑うと不思議に頼もしく見える、あのとびきりの笑顔で迎えてくれるだろうか。
 いつか日本へ行ってみたい。リツに会いに。
 戦争が終わったら。国に平和が訪れたら。
 夜の窓辺で十二歳のジリは、まだ見ぬ東洋の小国に思いを馳せた。


       ジリ 路上のレンブラント
       INTENSITY 1994 Side story 
       同人誌掲載作加筆修正版 2016



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