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対称図•Nの選択1


1 名前を言ってはいけない車について

雨の夜、それもかなり遅い時刻になってNが子連れで訪ねてきた。
長い付き合いの友であり、人となりは知っている。夜間&子連れで訪ねてくるのはよほどのことと察して招き入れた。
以下、Nの来訪の理由及び述懐である。

午後5時近く、定時間際になってNに残業1時間相当の仕事が急遽持ち込まれてきたという。
もとは同じフロア別の誰かしらが担当していた仕事だが、急用ができた、誰かに代わってもらいたい、と言う理由で、Nに仕事が回ってきた。そういう事情のようである。

Nは子供を保育園に迎えに行かなければならないので、最初は断ったのだが、
「家族いるんでしょ? お迎えは家族に頼んだら?」
と、押して言われて断れず、Nは相方に電話をした。
共稼ぎで、同じ会社の別の部署に相方がいるのである。

だが相方からは
「今日は勘弁して。どうしても外せない用事がある。保育延長してもらえば?」
という返事であり、Nはすぐさま保育園に電話を入れた。延長1時間を頼み、それは受け入れてもらえた。
仕事に取り掛かり、ほぼ1時間で頼まれたことを片付け、着替えて社を出て駐車場へ向かう。
あいにくの雨だった。走っていったのだがすでにずぶ濡れ。
ところが駐車場には車がなかった。
相方が乗って帰ってしまったものらしい。その場で相方に電話をしたが、おかけになった番号は状態でつながらない。

Nは職場へ引き返した。社敷地内専用の自転車を借りて、保育園へ行こうと考えたのだ。
普通は個人使用はできないのだが、ずぶ濡れで駆けつけたNの逼迫した様子を見て、保育園往復の範囲内ということで、特例として自転車を借りることができた。

保育園まで全力疾走。
この時点で延長保育1時間の刻限を30分ほど過ぎていた。
対応してくれたのは園長で、
「しょんぼりしてAちゃんはずっと黙っていましたよ。お仕事が大事なのはわかりますが、もう少しお子さんのことも考えてあげてください」
すみません、すみませんと何度も頭を下げながら、このときNの堪忍袋の緒に小さな亀裂が入った。

子供のことを考えてないわけないじゃんか。

だが、何も言わなかった。
この園には、この後もずっとお世話になる。ここで気まずい関係になるのは避けたかった。

冷蔵庫事情のこともあり、今日は買い物もせねばなので、園長には平謝りして辞し、自転車を返却するために社へ向かった。
社内用自転車にチャイルド椅子はない。背負った子の尻を右手で支え、左手で自転車のハンドルを握り、極度の前傾姿勢で雨中を進む。
社屋前で自転車を返却し、徒歩10分程度のスーパーへ。買い物は半分駆け足、とにかく大急ぎ。
スーパーから最寄り駅までまたしても徒歩。

電車に乗って自宅近くの駅まではおおむね15分。
衣類がずぶ濡れなので座れない。子は疲れて床に座り込もうとする。抱き上げたり宥めたり背負ったりを繰り返す。
電車を降りて自宅までふたたび徒歩。
相方に電話を入れてみるも、おかけになった番号は状態、継続中。

自宅まであと少しというところで子がついに力尽き、泣き出した。
子を背負い、ビジネスバッグとスーパーの袋を持ち、家を目指す。
ここでアクシデント発生。スーパーの袋が破れて食品が転がり出てしまった。
慌てて回収しようとして子を背負ったまま身を屈めた拍子にバランスを崩し、両膝とビジネスバッグとスーパーの袋と両の手まで地につけてしまった。
子はかろうじて落とさずに済んだのが救いだ。
這ったまま食品をかき集めたが、りんごの数が合わない。近くに停めてあったよそ様の車の下に転がっていったらしく、手を伸ばしても届かない。

このときNの堪忍袋の緒に2度目の亀裂が入った。
だがまだ冷静さが残っていた。
スーパーの袋は商品パッケージの鋭利な角に負ける。それは物理。物理に怒ってもしかたがない。
ものは落下する、それは重力。重力になんの罪もない。
手の届かぬりんごは諦める。
スーパーの破れ袋を縛り直して再袋化し、回収した食品を詰め直し、いくばくかはビジネスバッグに押し込み、子を背負ってNは立ち上がった。
家のドアまであと少し。

自宅マンション前の駐車場にはNの車が停めてあった。
この車はNが購入し、相方と共用している。
車を買おうという話が最初に出たとき、Nとしては使い勝手がよくて取り回しのいいワンボックスが欲しかったのだが、相方の
「ダッサ。信じられない何そのセンス(笑)」
という謎のマウントと嘲笑に負け、結局は相方が激推ししていた車を買った。
流線型(といえば聞こえがいいが、名前を言ってはいけないアレによく似たスタイルのスポーツタイプ)の車である。
重ねて書くが、車はNが購入した。購入費、維持費、経費、ガソリン代、すべてNの財布から出ている。

車を横目で見ながら
「車があるってことは、どうしても外せない用事っていうのは、もう終わったのか…」とNは考えた。
玄関を開けて、子を下ろし、バッグを置き、スーパーの袋を置く。
玄関に常備しているおかえりくまさんタオルで子を拭き、
「ごめんね寒かったね、すぐお風呂にしようね」
なだめたり労ったりして、ダイニングに入った。
相方がテーブル前から振り返り、
「メシは?」
笑顔で聞いてくる。
このときNの堪忍袋の緒に修復不能な亀裂が入った。

が、Nにはまだ冷静さが残っていた。
「どうしても外せない用事っていうのはもう終わったの?」
と、相方を気遣って尋ねてみた。
相方は束の間、何を聞かれているのかわからない、という顔をした。しばしのち、
「ああ…まぁたぶん大丈夫っしょ、今のところリードしてるし」

こいつは何語を喋っているのだ。
と、Nは思ったそうである。
そしてすぐに合点がいった。

野球か。
テレビか。
そっか。
どうしても、外せない用事ってか。野球が。

アナウンス、球場サウンド、打球の音、CMと、テレビは律儀に放送を続けている。
テーブルの上にはビール。空き缶あり。適当に破いて開けたと思しきポテチの袋。
スマホ画面は下向き。
しばし言葉を失って沈黙したNに向かって
「だーかーらー、メシは何? さっきも聞いたけど(笑)」
相方は再度尋ねてきた。
言葉の破壊力はさほどでもなかったが、ここでNの堪忍袋の緒は木っ端微塵になった。

黙って浴室へ行き、湯を張る。
子を湯に入れてあたため、ぬくもったところで上がらせて服を着せ、自分も着替えた。
園服を洗濯機に入れたあたりで
「まだなのかなメシはー?」
相方がスマホを見ながら聞いてきた。

車のキーを手に、子どもを抱いて
「酸素。有り余ってるから存分にどうぞ」
笑顔で答えて家を出た。
相方はNの言葉に対して理解値ゼロという顔をしていたそうである。

Nは近隣のファミレスへ行き、子に食事をさせた。
だが自分は紅茶だけだった。何か食べたりなどしたら、怒りに燃料補給されて発火してしまうかも。と思ったからだ。
コンビニで子が食事を終えるころ、相方から電話がかかってきた。
「何か買いに行ってるの? 疲れてるなら唐揚げとかの簡単なものでいいし最悪コンビニメシでもいいよ」
このときNは控えめに表現したとしても◯意が湧いたという。

「気持ち悪くて吐きそうだし食事の支度もしたくない。何か食べたいなら自分でコンビニに行って買ってきて食べて」
「なんだよそれー。なんでそういうこと家を出る前に言わないのかな、知ってたでしょ何度もメシはって聞いてたの」
面倒くさいので電話を切った。
その後、子が食事を終えてから近くのコンビニに行き、牛乳1リットルを1本買い、Nはわたしの家に来た。

以上が午後5時から5時間のあいだにNに起きたことである。

Nが持参した牛乳をマグカップに注いでレンチン。
ホットミルクをふうふうしながらNは『除湿機買おうかと思うんだー』みたいなノリで
「離婚しようかと思うんだ」と言った。
「うん。すれば?」
わたしがそう言うとNはびっくりしたような顔になり、
「普通、引き止めるもんだろうが、こういうときは」
言いながら笑い出す。

普通の反応なんて、元から期待してなかっただろう。だからわたしに会いにきたのだ。
今はNの理性が平常値に戻ってくるのを待つだけだ。
「怒りで作った壁を言葉で超えるのはとても難しい。仕事柄それは骨身に染みている」
「物書きめ」
「褒めるな」
Nは笑い、
「なんかこう、カッカしてたのがばかばかしくなってきたなぁ」
少し表情が和んできた。
「解決案、頼む」
よし。

「では提案1」
 わたしはデスクから一冊の本を持ってきてテーブルに置いた。
「これを読んでおく」
「ほうほう」
「提案2。ところどころに付箋をつける。特に、裁判、弁護士、親権等のページには赤付箋。それを隠してある体を装って、迂闊な感じに家のどこかにセットする」
「迂闊とは」
「一見、相方から隠しているかのように見せかけておきながら、相方が必ず目にして意識する、ないしは手に取らずにはいられなくなるような状況をつくる」
「意味がわからない」
だろうな、とは思う。
Nはとても賢いが、謀略や心理操作といような面での能力はほぼゼロだ。

「つまり、離婚に際して、第三者の介入があること、当事者同士の協議離婚で簡単に別れるわけではないと相手に知らせておく。ということ」
「そっか」
ハラ減ってきたというので、仕事のお供のビスケットを出した。
ホットミルクに浸して食べると胃に優しい。
「提案3。車を売り飛ばす」
「車ないと困る」
「売った金で使いやすい小さい車を買う」
「なるほど」
「新しい車のキーは相方に渡さない」
「なんで? あ、そっか。ダサいとか言って乗りたがらないから、キーを渡す必要はないってことかな?」
それもあるけど、ちょっと違うなぁ。
「そもそも車ってやつは、乗る人の利便性快適さ、使用目的に合致したものを選ぶのが最適解。それ以上のものを求めるのであればご自分で買ってねどうぞ。ってこと」
「うん。わかった」
この柔軟さがNの長所であり、同時に弱いところでもある。

時計を見てNは椅子から立った。
「そろそろ帰るね。遅くに急に来てすまなかった」
「なんの」
明日、少し難しい仕事が入るという。
帰って寝るわとNは子どもを抱いて笑った。
車に乗る間際、子がうっすら目を覚ましたのか、小さな声で何か言っているのが、玄関前にいる私にも聞こえてくる。
離婚はまだ決定ではなく、検討中と見えた。
Nと子と相方に良き結論が出るといいなと思いつつ、テールランプが見えなくなるまで見送った。










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