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約束

 出かける=散歩。という生活をしている。遠くへは行けない。体調のよいとき、天気のよいとき、時間の都合がつくときを選んで、近隣を歩き回っている。

 わたしの住まいから、歩いて十分ほどのところに稲荷神社がある。小さいながら地域の鎮守でもあり、夏祭りのときはここから子ども御輿が出発する、いわば祭主だ。その稲荷社の、十坪あるかないかという小さな境内に、銀杏(いちょう)の切り株がある。写真の銀杏は切り株から毎年少しだけ伸びる銀杏のひこばえで、樹高は三十センチほどだろうか。野草に埋もれているから、近づいてみないとそこに銀杏があるということに気づかない。この幼いひこばえは毎年、市の美化デーのときに根元から切り取られている。だからこんもりとした銀杏の小さな繁みを見ることができるのは、春先から五月いっぱいだけだ。

 切り株の直径は一メートル以上ある。樹高はどれほどだったのか、正確には知らない。が、最後の紅葉を見た時、近隣の二階建ての家の屋根が木の半分ほどの高さだったように思うから、おそらく十メートルはあっただろう。晩秋から初冬にかけて、澄んだ空気のなか、曙光を浴びて紅葉が美しかった。あるいはこの地域特有の強い西風が山肌を駆け下りてくる黄昏どき、冷たい指さきを握りしめてふっと見上げると、幾千幾万、幾数十万の葉がさざめき、それを見ていると人恋しくて何かさみしくて、誰かに無性に優しくしてやりたい気分になる。銀杏はそうした時期に葉を染める。輝く葉のいろは陽を透かしてどこまでも優しい。が、切られてしまったあとなので、余計に美しかったと思っているだけなのかもしれないから、少し割り引いて書こう。べつに特別とか格別というのではなく、稲荷社の銀杏は普通の銀杏、でした。
  とまあ、それはさておいて、さして広くもないが、朝晩は抜け道走行でそれなりに渋滞する市道が稲荷社の真横にあり、銀杏の南北には住宅がちらほらとある。落葉の時期、雨に濡れた枯葉が原因で車がスリップして危険だったのか。はたまたご近所さんの雨樋に枯葉が詰まって困っていらしたのか。原因は定かではないが、数年前、銀杏は忽然と姿を消した。切り株には「雑な仕事を……」としか云いようのないささくれだらけの鋸あとがあり、銀杏の無念を思うと言葉も思いつかなかった。奇しくも同じ頃、鎌倉では由緒ある銀杏が倒れた。あちらは銀杏を愛した大勢の人々が悲しみ、悼み、なんとかして命をつなごうとさまざまな策がたてられ、細胞を培養して二代目をつくる(?)というような話になったように記憶している。が、こちらの稲荷社の銀杏は由緒もない普通の銀杏で、近年ではことに迷惑がられた銀杏(だったらしい)から、ひこばえでさえ、三十センチであっても生存を許されずに地際すれすれで切り捨てられている。無念の二乗である。

 伐採された直後の年、ひこばえは春から三か月ほどのあいだに一メートル近く伸びた。綺麗な葉をして、幹が切られても生きてるよと教えてくれて、なんだか嬉しかったが、市民全員参加の美化デー(たぶん昔の田植え時期の、村総出でおこなう草刈りか水路掃除の名残だと思われる作業)で、また裸になった。手入れのしやすい樹高で繰り返し弱剪定をしてひこばえの枝数などを調整し、こんもりと銀杏の小木作りにするという発想は、自治体にも市にもなかったらしい。翌年もまたひこばえは伸びた。またしても美化デーで地際からばっさり刈られた。三年目あたりから、ひこばえの樹高は少しずつ低くなってきて、今は三十センチ伸びるかどうかといったところだ。三十センチでも刈られてしまうので、夏にはあとかたもなくなっている。この先、何年かしたらおそらく根が力尽きて、ひこばえは出なくなるだろう。この銀杏が何年生きてきたのかわたしは知らない。もしかしたら百年か、それを超える年月、ここに立っていたのかもしれない。電線も舗装道路もなく、あぜ道と小川と水田だけが社と銀杏を取り囲んでいた時代を、そのころから空と山と風とを、この銀杏は観てきたかもしれない。長い年月、親しんだ景色を、銀杏は憶えているのだろうか。それともそうしたことは何も記憶していないのだろうか。

 木を「切る」という表現を好まない。拙著に書くときも「枝をおろす」というように言葉を選ぶ。でも、この銀杏は「切られた」のだとあえて書こうと思う。銀杏は今も少しずつ、毎年、いのちの終焉へと近づいていく。切ることを決めた自治体や市がどうだとか判断の是非だとか、そうしたことを言う気はない。ただ、この銀杏が命ながらえて、一本でもひこばえが出て、一枚でも葉が出てくるのであれば、必ず毎年ここへ来て写真を撮って、話しかけるよと約束した。自分の命があと何年あるのかわからないし、案外、ひこばえのほうが数センチになっても何十年も保って、私が煙になるほうが早いのかもしれないが。

 そのときは煙になっても会いに来るから忘れないでいてくれ。

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