セレスタイン扉6改

セレスタイン物語 6


 * バライトと鷹

 西府領境の外に人馬の群れが静かに出発を待っていた。
 当初の計画では王の鷹十一名と勢子四十名ほどが集合することになっていたが、実際に集まってみると八十名を超えていた。
 それぞれの鷹が連絡要員ひとりを残して配下の勢子全員を引き連れて駆けつけてきたためだった。かつて王都でバライトの直属だった武将の顔もちらほらと見られる。
 全員が集まると、バライトは鷹を集めて、状況と計画を説明した。
「昨日、王裔マージ姫が学舎の序学士ならびに学生三百名を率い、院司執行の報告を口実に王宮に押し寄せた。現在、陛下はおそらく軟禁状態にあると思われる」
 鷹たちは黙ってバライトの説明に耳を傾けていた。
「マージ姫の目的は最終的には陛下の廃位、姫自身の即位にある。あくまでも推測であるが」
 幾人かの鷹が、やはり沈黙を守ったまま頷いた。
「さきの冬から北峰領で、不穏な動きがあったことは、皆も知っての通りだ。最新の情報を掴んでいる者がいれば、話してくれ」
「傭兵千人強、というのが、鷹三人が共通して得た情報であります、将軍」
 元正規軍の斥候を勤めていた老将が低い声で答える。
「その千人は、平時、どこに駐屯している」
「王都まで徒歩で一日、騎馬で一刻半少々の山間に、訓練場を兼ねた兵舎を建てて駐屯しておりました。名目は開墾です」
「騎馬の数は?」
「多くはありません。大半は歩兵です。武具も乏しく、戦闘能力はさほどでもないと思われますが」
「気になることでも?」
「働き手が逃げ出したあとの小作の家族、女、子どもと老人など約五十人ほどを、兵舎脇の小屋に連れてきて住まわせています」
「女子ども? 狼藉はしていないだろうな」
「食事は与えているようでした。逃げ出してきた者の話を聞くと、虐待、暴行などはされていない様子です」
 女子どもは穏便に保護されているわけではない。マージ姫は目的達成のために民の犠牲は必要だと考える質だ。
「女子どもを盾にして、要求を正当化する戦法かもしれんな」
「我らもそう思います」
 兵を進軍させるにあたり、隊列の先頭に女や子ども、老人といった力の弱い民を配して攻撃を避ける。古来より謀反を企てる者がしばしば用いてきた戦法だった。
「傭兵の集団は北峰領民を装い、王都への進軍を開始している可能性がある。傭兵達は王都に入ればマージ姫の指揮下につくだろう。都下の防衛状況は不明だが、陛下の御身が危険に晒されていることは間違いない。我らはただちに東行し、王都へ潜入して陛下をお救いする」
 鷹達は全員、無言で頷いた。言葉は発しないが、バライトの指示に従い、一丸となってことにあたろうという決意は、夜闇のなかであっても感じ取れた。鷹は通常、王の密命をうけて個別に行動する。今回だけはバライトの指揮で王都へ急行するのである。混乱を避けるためにも、指示を明確に出しておく必要があった。
「騎行は鷹と勢子三組ずつ、四手に別れ、先隊の蹄音が途切れてから次隊が出発。王都までは速歩で二刻余りの道のりだが途中の連絡はなし。休みなしで王都に向かう。王都に到着したら馬は領門外のサンザ鴛鴦亭に残しておく。王都内に入ったらめいめいが潜伏しつつ南方の綿糸工場裏手へ。そこで落ち合おう。では」
 鷹達はそれぞれ麾下の勢子のもとへ戻っていった。
 バライトとホルク、他二名の鷹とその勢子達十数名がまず出発した。王都に着くのは早朝、門兵交代を報せる鐘の頃になる。
……間に合えば良いが。
 それがバライトのかすかな不安ではあった。
 休みなしの騎行のため、全速では馬が保たない。街道は平坦だが、いくつか丘がある。適度な速さを保って鷹と勢子の一団は東へ進んでいった。




 * コーディ夫人の召集

 コーディ夫人の実家の庭では、古色蒼然たる甲冑を身につけた老兵が百数十名、乱れた隊列を組んで集合していた。
 広い前庭にはあちこちに筒灯りが下げられている。使用人達は、集まったお年寄りのために屋敷の中から椅子を出したり、裏の倉庫から古びた武具を運んできたりと、忙しく働いていた。
「コーディ様、そろそろお庭がいっぱいでございます。門の外にも筒灯を下げますか」
 訊かれて振り返ったコーディ夫人は、百二十年前に先祖が使っていた古風な鎧を身につけていた。
「ヨンガ家の当主はまだ? シダ家は三人、もう来ていますね。エクルト老の代理で曾孫が参加? まあっ、十二歳! いけません、帰らせなさい。爺、バサルト家はどう?」
 忙しく点呼を取りながらコーディ夫人は最終確認に入っていた 高齢の武者には漏れなくその夫人か使用人などが付き添ってきているので、大変な人数である。
「コーディ様、カザン家の当主が見えられました」
「カザン家は……ご当主というと、今はどなた? リノ船主……って、お会いしたことないわ。えっ、船はだめです。馬か、馬車か、とにかく陸路で行きますから」
 西府領の貴族に招集をかけて、兵を集めているのは他でもない、コーディ夫人である。先刻、夫人が実家に戻ってしばらくしたとき、王都から急使が駆けつけてきた。口上を訊いて夫人は仰天した。
『王都で謀反が発生しました。都下の安全が確認できるまで、夫人は西府領を動かないようにとのことです』
 報せを寄越したのは夫のルーシェ公である。
 誰が謀反など起こしたのですか! このコーディが許しません!
 叫んで憤然と、夫人は行動を起こした。
 西府領には古い家柄の貴族が多く居住している。おおかたは先祖代々守ってきた家と同じく高齢である。若い世代は賑やかな王都に移り住み、おもに現役を退いた世代が西府には住んでいるのだった。
 王都まで馬車で半日という地の利もあり、孫世代だけが遊びに来ていたりもする。その他にも、都嫌いの変わり者、旧都の良さを偏愛する自称芸術家、傷んだ屋敷をものともせず暮らしている古物好きの貴族などがいる。
 その貴族の全家に、コーディ夫人は謀反人掃討のための出兵を要請した。王の従兄の妻として、また西府の由緒正しき古貴族筆頭として、夫人は敢然と起ったのだった。
 要請に応じて参集したのは、上は九十二歳から下は十五歳、過去に正規軍に属していた元軍人もまれにいるが、ほとんどは騒動と縁もなく平和に過ごしてきた人々だった。平素は穏やかな彼らであるが、
『王都で謀反が起きて陛下が難渋なさっておいでです』
という、コーディ夫人の言葉には、鮮やかな反応を見せた。
 曲がった背中をしゃんと伸ばし、壁の槍を下ろして駆けつけた元老将、孫に支えられて小さな馬車に乗り、馳せ参じてきた元西府領事。あるいは当主が病床にあるため、代理として参軍するという、烈女っぷりも見事な貴族夫人などである。コーディ夫人は集まった有志ひとりひとりに声をかけ、ねぎらい、励ました。
 夜明けとともにこれらの人々を率い、兵糧武具とともに王都へ向かう。ただし、貴族家の使用人の参加については、御者と兵糧運搬役などの必要最小限にとどめ、一般の領民の従軍志願は、熱意があってもこれを固く禁じた。
「どのようなことが起きても、民は守らねばなりません」
というのが、夫人の信念だった。万が一、義勇軍に危険が降りかかったとき、貴族は一命を投げ打ったとしても、それは身分に準じた責務である。だが民は為政者のなしたことがどうであれ、明日からまた家族を守り、隣人を愛しして生き抜いてゆかねばならない。というわけで、民の義勇は心意気だけを受け取り、兵は貴族のみと限定したのである。
 招集には時間がかかった。すでに就寝していた高齢の貴族は支度を調えるのに手間取った。あちこちひっくり返して埃だらけの甲冑を探し出したり、常用している飲み薬を忘れて取りに戻ったりと、なかなか思い通りに動けなかったからである。
 それでも夜明けまであと少し、というあたりで、おおむね二百人の義勇兵がコーディ夫人の屋敷の前庭に集合した。最年長の九十二歳の老貴族は、コーディ夫人がこの一隊の将となるべきと主張し、参集者の拍手をもって支持された。夫人は老貴族の発案に従い、西府領隊長の任を引き受けることにした。
 美々しい甲冑をまとい、豪華な装飾を施された剣を手に、屋敷の階段を三段上って、夫人は人々を見回した。
「皆様、私達はただいまより王都へ進撃して謀反人を征伐し、陛下をお救いします!」
 夫人が宣言すると、拍手と何故か笑い声が上がった。
「お集まりくださった皆様の勇気と、陛下への忠誠心に、心から感謝をいたします。私たちの忠心が闇を払い、王国を夜明けへ導くことを信じましょう。若き者は年功者を支え、年功者は知恵を授けして、ともに手を携え心をひとつにして、陛下をお救いするのです。さあ、参りましょう!」
 老若男女の声が応え、騎馬を先頭に、馬車八十台、歩兵なしという、およそ兵団らしからぬ一隊が進撃を開始した。コーディ夫人ももちろん馬車である。
 馬に乗るのはほんの一部で、夫人の護衛兵二騎、王都から伝令で駆けてきた学舎東館の学衛、それとこれが初陣とばかりに歓声で送り出された貴族の孫で十五歳の少年、全部合わせてもわずかに四騎である。
 馬車は年季のいった古馬車が多く、むやみとやかましい音をたて、しかも音に似合わぬ緩行であった。人々を乗せた馬車の後ろから医師二名が乗った医馬車、その後ろに水と食料を積んだ兵糧馬車が二台、最後尾は武器を積んだ武馬車三台。その武馬車の後ろからは見送りの人々がついて歩いた。
 西府の領門を出るときには、見送りの人々からいっせいに声援が送られた。
「皆様、行ってまいります! 必ず陛下をお救いして、王国の平和を取り戻してまいります! ごきげんよう! ごきげんよう!」
 夫人は自分の馬車から後方へ向かって、精一杯叫んだ。その声は小さすぎて見送りの人々には届かなかったが、護衛兵の一人が気を利かせて隊列の後方へ駆けていき、人々に向かって夫人の言葉を復唱して伝えた。
 見送りの人々はコーディ夫人の勇気と決断力を賞賛し、高齢の貴族夫人は涙ぐんで手を振った。
 遠い昔、この西府の地に外つ国の軍が押し寄せてきたとき、貴族夫人達も甲冑をつけ、槍や剣を手に、兵とともに戦った。長い戦を経て侵入軍を撃退し、王国を勝利に導いた輝かしい記憶は、数世代を経た今でも西府の人々の誇りであり、よりどころであった。コーディ夫人の身のうちにも西府の歴史に培われた矜持がある。ただし、婦人には実戦の経験はなく、この先どう行動すればいいのかについては、ほとんどなんの予見も持ち合わせていなかった。ただひたすら、陛下をお守りし、王国の平和を守らねば。そう思っていたのである。
 馬車灯はゆらゆらと揺れながら東へ東へと進んでいった。



 * 准学の書架

 学舎西館の最上階、マージ姫の居室で、ヴェンティは隠し戸棚を探していた。
「どっかに絶対、あると思うんだよなあ、何かしらが」
 呟きながら壁のあちこちを叩いて回る。
「ヴェンティ、書架はどうか。書類の類いなら、本にはさんで置いてあるかもしれない」
「そうだなあ……」
 壁に沿って一巡したあとで、ヴェンティは居室南よりの書架の前に立った。
「けっこうな数だぜ。これを一冊ずつ調べるとなると、ずいぶん時間がかかるよな」
「背表紙に『謀反』と書いてはおかないだろうからな」
 珍しくゼタの冗談が出た。ヴェンティは吹き出し、
「やっぱ、姫のしたことは、ご謀反ってことになるんだろうな。今頃陛下はどうしておられるやら」
 言いながら中段端から本を一冊抜き取った。
 建国から七百年、古代というほどでもないが、王国の古い楽曲について書かれたものだった。手の込んだ装飾の施された、美しい本である。ヴェンティには文章の意味の半分も理解できない。古楽の専門用語が多くて難解な上に、曲名なのか楽器名なのか、名前を見ても判断ができなかった。
「各学部の修学内容を全部、把握しておいでなのかね、姫は」
「賢いかただからな」
「自分以外は全部、劣れる者と思うだろうな」
「いや、姫の祖父君、ファーディ公のことは尊敬しておいでだと思う」
「ルーシェ公の親父さんか」
 ゼタは返事をせず、しばし考え込む様子だった。
 階下から、なにやらもの悲しい音楽が聞こえてくる。逃げ出したり抵抗したりしないから、好きな楽器を弾かせてくれと頼んできた学生が数人いたので、領兵ひとりをつけて、自由にさせていたのだった。
「学生はどう思ってるかね、今回の姫の行動をさ」
「大半は姫の手足の如く、ってところだろう。だが、中には不信感を抱いている者もあると思う。口に出しては言わないであろうが」
「西館の学生は若いからなあ」
 東館には成人後に入学して、技術向上に励む職人なども多く在籍している。西館では歴史と古学が大半だから、ほとんどが十五歳前後で入学し、十年ほど学んだり研究したりすることになっていた。西館の設立から五年が過ぎた今、ちらほらと二十歳以上の者もいるが、大半は憧れをもってマージ姫を女神のように崇めている世代である。
 西館学生が学んでいる内容は実学にはほど遠い。修学後には歴史学者か音楽家、画家などの、やや不安定な生活が待っている。富裕家の子息なら生活の不安はないが、その他は教師となって各領の貴族の私邸へ居候するか、学んできたこととはまったく別の仕事を探すことになる。東館の修学生が、学舎を出たあと、ただちに仕事に入れるのとは大きな違いがあるのだ。
「西館の教育目的は表向き、王国の文化の研究、振興ってことになってるけどさ。姫は、あれかな。ここで自分の配下として使える為政者を育てるつもりだったのかな」
「それと、兵士か」
 去年から、古衛学と称して学生に武術指導もしている西館である。
「でもさあ、ちょっと急ぎ過ぎてないかい。今の西館に、政治能力のある学生や、実戦で使えるほど訓練を積んだ兵士がいるとは思えないよ。姫に権力だけあったってさ。政治となれば独裁はだめだろ? 下がちゃんとしてなけりゃさ」
「そうでもない。旧ガバン派の子弟が西館には大勢集まっている」
 彼らの父親、祖父、縁戚の力を引っ張り出すのは容易だ。かつてラズライト王子の継承権剥奪をもくろんだ強力な一派が在野に生き残っている。
「そのあたりはソロン序学士が周到に準備しているだろう」
「ソロン序学士の目的はやっぱり陛下の退位、姫の即位かね」
 ゼタの表情が曇り、本をめくる手が止まった。
「ヴェンティ。これは父から聞いた話なのだが」
「うん。何?」
「陛下は十五年前、王子でいらしたころに、芸人一座の踊り子を貴族の館から救出なさったことがあるんだそうだ」
「へえ?」
「女だけの舞踊一座の座頭だったとか、たいそう美しい人だったとか、まあ、父の言う美しい人というのがどれくらいのものか、私にはわからないが」
 ゼタは苦笑いし、ヴェンティも吹き出した。女性の美貌を話題にするオルクス領兵監を、ヴェンティは想像できない。
「ははーん、それってセレスのおっかさん? だよな」
 おそらくはな、とゼタは頷く。颯風殿で王はヴェンティに『セレスティアという名前の踊り子、セレスという名の十四歳前後の子ども』がビョルケ一座にいるかどうか、探してほしいと言った。
 ヴェンティの推察では、王が東方の龍を渡したのは踊り子セレスティア。セレスが王のお子かどうか可能性は半々。この母子には特別な事情がある、ということだった。
 ビョルケ一座の芸人達の前で、ぽろっと『隠し子説』を明かしたことはあるが、ゼタにきちんと説明したことはない。
「ところが、王子が踊り子を助け出したという事実を、ガバン派が利用したらしい。というより、王子が踊り子を助け出さざるを得ないようにあらかじめ仕組んだ、という可能性もあるが」
「ふーん……罠ってわけ」
「先のヴォイド陛下はガバン派が仕組んだことだとは気づかれず、たいそうお怒りになられたとか」
「王子と踊り子の恋愛? べつにいいんじゃないか?」
「いや。踊り子には夫があった。彼女、妊娠してたんだ」
「なあんだ。陛下の隠し子じゃないのかあ、残念。で、何、そのへんをこねくり回して、変なふうにヴォイド陛下に吹き込んだのが」
「そう、ファーディ公だ」
「なんつー危ない叔父さんだ」
 ゼタは苦笑いし、まったくだ、と頷く。
「ファーディ公は離間策をとったんだ。ラズライト王子には、自分が応援するから踊り子と結婚しろと熱心に勧めたそうだ」
「おお?」
「だがファーディ公は、ヴォイド陛下には、王子の不道徳な恋愛を理由に、継承権剥奪を迫った。王子が踊り子の産む子どもを、跡継ぎにしようとしていると、まことしやかに伝え、ヴォイド陛下はそれをお信じになったらしい。王子の継承権を剥奪して廃太子とすると言い出されたので、父は懸命にお引き留めしたと言っていた」
「そりゃまあ、ヴォイド陛下がお怒りになるのも無理はない」
「院司執行後のどさくさで、ヴォイド陛下もラズライト王子もそれぞれ学生に囲まれておいでだった。お疲れもあっただろうし、情報はガバン公とファーディ公からだけ入っていたから、ヴォイド陛下は混乱されていたのかもしれない」
 そういえば、と、ヴェンティはティント爺の言葉を思い出した。
 十五年前にも学舎東館の院司執行があった。学生七百人がサンザに押し寄せてきて、『こんな些細なことがどうしてここまで甚大な被害に』と、思うようなことがあったのだ。そのときの院司執行は、学博ガバン公主導の下、学生七百人を率いて行われた。執行に参加した学生全員を引き連れて、そのまま王宮へ報告と称して強訴に向かうための口実だったのだろう。
 そのガバン公の背後で糸を引いていたのはファーディ公だ。つまり、今回のマージ姫の一連の行動は、十五年前にファーディ公とガバン公がしたことと、よく似ているということになる。
「そうだったのか……。で、十五年前のそのとき、陛下はどうやって切り抜けたんだろ」
「踊り子が、颯風殿から逃げたんだそうだ。学舎学生数百人が颯殿を囲んで、王子と踊り子を監視していたのに」
「すげっ、どうやって抜け出したんだ?」
「父も、そこのところはどう考えても、わからないと言っていた」
 颯風殿は小さな林に囲まれているが、王宮の城壁の内側にある。羽根をつけて空を飛ぶ以外に、脱出できるとは思えない。
「陛下ったら。踊り子に助けられたんだなあ」
「そういうことになるな。そのとき、陛下と踊り子のあいだに、何かしらの約束があったかもしれないと、父は言っていた」
「約束って何。結婚?」
「それはわからない」
「だけどさ、踊り子のほうは結婚してたんだろ。ダンナはどうなったのよ」
「学舎東館に侵入しようとして、屋根から転落して死亡した、ということになってる」
「そっちも罠かい。侵入するのに屋根に登るかよ。窓だろ、普通」
「だが、東館の関与を示す証拠はない。十五年前だからな」
「とっくにもみ消したあとだよな」
「踊り子の夫はビョルケ一座の綱渡り芸人だったそうだ」
「あ?」
 ヴェンティは驚いて声をたてた。
「あ、それでゼタ、お前ったら、一座が来たとき、いそいそと天幕へ行ったんだな? オルクス殿が美しい人と褒めた踊り子がいるかなとか、子どもも美人かなとか、期待して。このっ、女たらしめが」
 コホン、とゼタはわざとらしく咳払いした。
「陛下にお教えできればいいかなと思っただけだ。べつに下心があったわけではない」

「ふーん。そうかよ」
「偽名を使うだろうから、名前は役に立たないと思って調べなかった。だが、セレスの年齢が気になった。十五年前の政変のあと生まれたとすれば、年が合ってる」
「ふんふん。そのへんのこと、どうして俺には全然教えてくれなかったんだよ」
「すまん。父から口止めされていた」
「綱渡りしてる十四歳ちょい前の子どもなんだぜ? 間違えようがないだろうが」
「綱渡り芸人は珍しくはない」
 じゃ、こっちもとっときのやつを教えておくよ、とヴェンティはゼタに向き直った。
「ビョルケ一座が入領する直前に、パルメっていう、ちょいと年増の姉さんが一座から抜けた。この姉さんはこんなデカい天青石を持ってきて、俺に買ってくれと言った」
「商団が帰ってきたときか」
「そうそう。で、パルメ姉さんは知らなかっただろうけど、石はもともとは王室の財産で、生前のヴォイド陛下がラズライト王子に、ヨメさんもらったらあげなさいよって言って、下賜されたものなんだ」
「そんなものを何故、パルメという女が持っていたんだ」
「まあ、聞けよ。でもって、その天青石は名石でさ。正式な名前は東方の龍。陛下はそれを十五年前に、わけあって手放した。天青石っていうのは、職人のあいだではセレスタインと呼ばれてる。陛下が探してる踊り子の名前はセレスティア。ビョルケ一座の綱渡り芸人見習いがセレス。全部セレスでつながってるんだ。つまり、セレスって名前が、符号なんだよ」
 踊り子をただ宮殿から逃がすだけなら、名石を持たせる必要はない。何かしらの約束があったとすれば、納得がいく。セレスティアとセレスと天青石。王はこの三者を、十五年間、待ち続けていたことになる。
「だがそうなると、パルメという女はいったい何者だ」
「北峰領で、親子とはご近所さんだったらしいよ。セレスに黙って天青石を隠して持ち歩いてきて、ちゃっかり横取りして売り飛ばした線で間違いないと思う」
「天青石は何故、パルメの手にあった?」
「そりゃもう、セレスティアさんがパルメに頼んで、セレスと天青石を逃がしたんだよ。想像だけどさ。間違いないぜ」
「逃がす……何から?」
「ガバン一派だろうさ。セレスのおっかさんのセレスティアは今、姫の隠し球になってると思う。たぶんどこかで監禁されるか何かしてさ」
「なるほど……。ファーディ公が讒言して……ヴォイド陛下は王子の継承権を……陛下は天青石を踊り子に……ガバン一派が踊り子を捕らえ、マージ姫がセレスを……ヴェンティ!」
「当たりだ、ゼタ。姫は切り札を持ってる。ヴォイド陛下が、たぶん勅書だろうけど、ファーディ公に託した公式文書を」
「発布されずに残された勅書か。踊り子とその子どもと勅書が姫のもとに揃えば、陛下の重大な落ち度として、退位を強要することができると」
「セレスを人質にして、セレスティアさんに偽りの証言をさせればいい。王子と結婚の約束があったとか、子どもを跡継ぎにしてくれると王子が言ったとか」
「ヴェンティ。お前はすごい」
「残念、すごいのはマージ姫だ」
 二人揃ってしばし沈黙し、ため息がそれに続いた。
「セレスはよくまあ、この西館から逃げたよな」
「二階の窓から綱を垂らして小鳥のように軽々と飛んで逃げたと、古楽の学生が言っていた」
「そりゃもう、古楽の連中がめいっぱい悲しい曲を弾きたくなるのも、無理はないな」
 セレスを逃がしたかどで、マージ姫から厳しい叱責があるのは明白である。
「しかし、セレスの脱走を知っていながら、姫が王宮から戻ってこないのはどうしてだろうか」
「俺」
「ヴェンティ?」
「俺を鞭でひっぱたいてヒーヒー言わせれば、陛下が保たない」
「ヴェンティが逃げたことはご存じないからか」
「姫のことだから、他にもまだ、陛下を脅す手を持ってる……気がするな。ゼタだったら、どうする?」
「戦略で言うなら陽動か。揺さぶりをかけて敵の戦意をくじく。陛下が大切にされるもの、つまり民を混乱させる」
「都民を脅すだけなら私兵千人でも十分だもんな。急ごうぜ、ゼタ。勅書っぽい何かだ。たぶん箱入り文書だろ。こんな本のあいだにはないだろうさ」
 わかった、とゼタは頷いた。ヴェンティも手に持っていた古楽の本を書架に戻した。本を押し込んだ拍子に、書架の背板のあたりで、コトリと小さな音がした。
「あれ?」
 押し込んだ本をもう一度引き出すと、またコトリと音がする。
「なんだろ、この音」
 本を引き抜いて中をのぞき込むと、書架の背板にわずかな出っぱりができていた。
「あららら、本の向こうに怪しい出っぱりが」
 手を伸ばして出っぱりに触れると、背板の一部が回転した。
「ゼタ。俺ってすごい」
「どうした」
「鍵がある」
「なんだって……」
 回転した板に、鍵がはめ込んであった。取り出して、ふたりでしげしげと見る。
「どこの鍵だろ。隠してあったところをみると、大事な何かを保管してるところの鍵……だよな、きっと」
「ヴェンティ、姫の机は?」
「机なんか斧で叩き割れば中身が出せるじゃないか。あの姫がそんなヤワなところに、大事なものを隠すわけがない。都下の金庫職人を総当たりに当たればこの鍵を」
「領兵長殿! 大変です!」
 大声とともに居室の扉が開き、領兵が駆け込んできた。
「どうした」
「サンザ商館が燃えています!」
「なんだって!」
 ヴェンティは部屋を飛び出し、廊下の窓を開けた。木立と大通りの向こう、サンザ商館の屋根を越える高さに火の手が上がっている。開け始めた東の空をかすませるほどの煙が、もうもうと立ち上っていた。
「嘘だろ? なんで火事? あっ、放火か!」
 軽度の失火ならここまで大きな火事になるはずがない。商館では定期的に防火訓練もしているし、倉庫ごとに隔壁も設けている。延焼を防ぐ木々も要所要所に配してあるのだ。建物全体に火の手が回る火事など、起きようがない。大規模な火事は放火以外考えられない。敷地内の複数箇所に油を撒いて火をつけたに違いなかった。
「ヴェンティ、学舎も包囲されてるぞ」
「くそったれ!」
 ヴェンティは叫び、廊下を走っていって階段を駆け下りた。学舎入り口の扉は領兵が守っている。だが、扉を開けると、学生が二重三重の囲みを作って、ヴェンティ達が出てくるのを待ち構えているのが見えた。
「このクソ馬鹿学生ども! サンザを燃やしてどうするんだ! 都民が飢えてもいいのかよ、ちょっとはものを考えろ!」
 怒鳴ってみたが、学生の群れは揺らぎもしない。
「ゼタ、どうしよう、サンザが燃えちゃうよ」
「領兵! 包囲している学生の数はどれほどか」
「正面扉前にほぼ五十、取り巻いている学生もほぼ同数と」
「百か」
 ゼタは一瞬考え、その直後に扉を開けた。学生は武装していた。学生に許されるのは捕縛用縄と、金属のない長杖である。しかし玄関前に居並ぶ学生のうち、一割程度の者の手には長剣が握られていた。
「領兵! ただちに脱出する、援護せよ!」
 ゼタが叫んで領兵の中へ飛び込んでいった。続けて、西館へ同行していた全部の領兵が抜刀して学生に向かって走り出した。
 ゼタと領兵十四名とヴェンティがひとかたまりになって突撃すると、学生の群れは動揺し、大きく割れて剣を避けた。帯刀していた学生は剣を振り回したが、勇ましいのは声だけで、領兵にはかなわない。臆したように逃げ散り、切り込んで来るものはいなかった。
 しかし、脱出組十六名が学舎西館から大通りに続く道へ駆け出すと、学生全員でわーっと声をあげて追ってきた。追いすがる学生を領兵が迎撃すべく踏みとどまって威嚇した。ゼタとヴェンティをじゅうぶん走らせてから、迎撃の領兵がまた走り出す。そうして大通りまで走り抜けると、火の手が恐ろしい勢いで全面に迫ってきた。
 商館の使用人達が走り回り、懸命に消火に当たっている。商館裏の引き込み水路から加圧式放水機を使って消し止めようとしていたが、広がった火の手は押さえようがなかった。
 ヴェンティは商館の正面玄関前へ駆けつけた。
「あっ、若!」
 何人かの副統がヴェンティに気づいて駆け寄ってくる。
「延焼だけでも食い止めろ! 館内に取り残された者はいないだろうな? 馬たちは逃がしたか」
「人数は把握してます、グリク副統が馬全頭引き連れて水路向こうに逃がしました!」
 そのとき背後から、
「だめだ、やめろ! 学生を傷つけるな!」
 突然ゼタの絶叫が聞こえてきた。
 ヴェンティは振り返り、我が目を疑った。ゼタが学生十数人に押しつぶされるようにして、商館前の路上に倒れ伏している。
「ゼタ!」
「ヴェンティ、来るな! 逃げろ、逃げるんだ!」
 ゼタが学生達の下で叫んでいる。
 なんと、ゼタと一緒に倒れているのは、先刻、学舎内で古楽を演奏していた学生だった。楽器を胸に抱えたまま他の学生に押さえつけられ、その首元には剣が当てられている。
「お前ら……! 自分の仲間を人質にしやがったのか!」
「それがどうした!」
 体格のいい学生が叫んだ。
「学生がひとりでも死ねばゼタがやったことになるんだ! お前も学生殺しの一味ってことだ! それがいやならおとなしく縛られろ、ヴェンティ!」
「ふざけるな! 汚い真似しやがって」
「ゼタを切れ!」
 学生が叫び、他のひとりが剣を振り上げた。
「やめろーっ!」
 ヴェンティは剣の下へ飛び込んだ。ゼタの頭を庇うように突っ伏して、固まった学生を手当たり次第に押しのけた。直後に背後から何人もの学生がなだれるようにヴェンティにのしかかってきた。殴られているのか、蹴られているのか、あちこちに激しい痛みが襲ってくる。足に縄が巻かれた。手も縛られた。最後に首まわりに縄がかかった。
「ゼタ、ゼタ! 大丈夫か」
 あえぎながら頭を上げてゼタの姿を探す。ゼタは両手両足を縛られた上に学生数人に押さえつけられていた。
「捕縛終了! ただちに王宮へ行くぞ!」
 学生のひとりが号令をかけ、ゼタもヴェンティも担ぎ上げられた。
「領兵、いるか!」
 ヴェンティが叫ぶと、
「後方です!」
 ひとりが答えた。
「これは暴動だ! 兵舎へ行って領兵に」
 言えたのはそこまでだった。ヴェンティの首にかかっていた縄が、いやというほど締まったのである。
「暴動はすでに始まってるぞ、ヴェンティ」
 先頭を行く学生が振り返って言った。何がおかしいのか他の学生らも揃って高笑いする。
「北峰領の小作千人がついさっき、王都に入った。麦をよこせと連中は叫んでる。都民も王宮前にぞくぞくと集まってきてるぞ。お前らが西館で古楽なんぞを聴いてくつろいでいたあいだに、どこもかしこも大騒ぎになっていたんだ、思い知ったか!」
 異様な興奮状態の学生達は、ゼタとヴェンティを担いだまま、王宮へ駆け足の速さで突き進んでいった。



 * バライトの帰参

 都下南方の綿糸工場と羊毛の保管庫から火の手があがり、その直後に北峰領から麦を求めて千人以上の小作が入領した。王都の民は早朝の騒ぎに動揺し、一部は王宮前へ押し寄せて、王に領兵の派遣を求めている。
 サンザ商館では火事があり、いまだに消し止められていない。バライトと鷹達がサンザ鴛鴦亭に駆けつけたとき、都下は収拾しようのないほどの混乱状態だった。
「バライト様、領門の閉鎖は解かれてます。王都へ入ろうとする者と、出ようとする者でごった返して、学生達は手も足も出ない状態ですから。お入りになるなら今です、お急ぎください」
 鴛鴦亭の差配は、宿で鍛錬させてきた十数名の若者を、門前の整理のために先行させると申し出てくれた。
「都内から脱出してきた者に状況を訊いたか」
「オルクス領兵監殿が馬場に領兵二百数十名と、厩舎の馬ほぼ全頭を集めておられるそうです」
「ヴェンティとゼタは?」
「深夜、領門を突破して入領し、その後、所在を確認できておりません」
 差配とバライトが話しているあいだにも、領門あたりで領民の争いが持ち上がったのか、怒号と悲鳴が聞こえてきた。
「鷹と勢子一組を鴛鴦亭に残し、それ以外の全員で入領! 行き先は新馬場、オルクス領兵監と合流する!」
 バライトは鷹と勢子を率いて門前へ駆けた。横倒しになった荷車が門を塞いでいる。鴛鴦亭の若者が人々を門から遠ざけ、数人が荷車に縄をかけて引き起こしているところだった。その脇を一騎ずつ、鷹と勢子が速度を緩めて通過した。都下の民衆は砕け散る大波のように、押し合いながら寄せてくる。
「戦笛!」
 バライトが怒鳴ると、後方の鷹数人が、背負ってきた喇叭を吹き鳴らした。人々の群れがさーっと左右に開いて人馬を通す。逃げ遅れた民を蹄にかけぬよう、速度を緩めはしたが、そのまま王都の大通りへと抜けて出た。
「バライト殿、こちらです!」
 平服ではあるが、帯刀した領兵数名が十数騎で寄せてきた。
「オルクス領兵監はたった今、出動されました! 王宮前です、お急ぎください!」
「わかった!」
 後方に合図して全馬王宮方向へと北進する。
 王宮前広場には数えきれないほどの人々が集まって、口々に何かを叫び、ある者は身を寄せ合い、ある者は拳を振り上げていた。北峰領から送り込まれてきたとおぼしき屈強な一団は、身につけているものは小作を模したのか粗末ではあるが、最後尾の百人ほどは武器を携帯している。最前列には幼い子どもを抱いた女達、疲れ果ててへたり込んでいる老人達の姿があった。
「オルクス殿!」
 群衆の中へ割って入り、バライトが叫ぶと、王宮門前の領兵が気づいて信号旗を振ってよこした。それ以上の接近は不可、の合図だ。オルクスの姿は王宮門にもっとも近い階段の上にあった。兵装、私服の領兵数十人が入り交じって剣を構え、オルクスに従っている。門を背にしている学生達の手にも剣があった。
「このまま傭兵集団の右側をまわって門に接近する、急げ」
 バライトは馬に鞭を当て、、群衆の波を押し分けて前方へ進んだ。
 北峰領傭兵の一団が振り返り、鞘をはらって威嚇してくる。ホルクの合図で鷹と勢子数名が、携行してきた箱を投げつけた。箱ひとつにつき、百匹の蜂が封入してある。傭兵の一団は突然の蜂の攻撃に驚き、剣を落とし、悲鳴をあげて逃げまどった。後方の動揺が傭兵達を浮き足立たせた。指揮官と思われる数人が叫んだり怒鳴ったりしているが、バライトと後続の鷹達が騎馬で強引に押し進むのを、傭兵達は阻止できない。
 ホルクが紐付きの砂袋を頭の上で振り回すと、数人の傭兵が頭を覆って逃げだそうとした。小作を装っているため、後方の集団以外は戦闘用の武器などを持っていないのだ。バライトの前方に、空間ができた。馬を乗り入れると空間はさらに広がった。
 領兵が剣と槍とで傭兵を牽制し、残りの道を確保してくれたおかげで、バライトと鷹、勢子の一団も階段下へ辿りついた。バライトは素早く馬から飛び降りて階段を駆け上がり、オルクス領兵監に並んだ。
「ここは通さないぞ!」
 学生がひきつった声で叫んだ。
 叫びながらもじりじりと後退していき、学生の最後尾は門扉に張り付いていた。オルクスが一歩前へ出ると学生たちはびくりと身を縮め、剣を左右にゆらゆらと揺らして攻撃の間合いを計る様子だ。
「蜂は残してあるか」
 バライトは振り返ってホルクに尋ねた。
「三箱あります」
 声と同時に一箱がバライトの手元に渡ってきた。
「オルクス殿、蜂を投げます。学生が動揺したら全員で突破して宮殿へ」
 領兵監は黙って頷いた。バライトが箱を握って振りかぶったとき、
「扉を開けよ!」
 中からマージ姫の声が響いた。
 ざわめいていた傭兵も、集まっていた都民も、一瞬、静まった。
 王宮門の扉が開いた。
 恐ろしいほどの沈黙の中、学舎西館准学マージ姫がしずしずと姿を現した。
「我が民よ!」
 姫の声が民衆の耳を打った。
「麦を求め、救いを求めてここに集い来た民達よ! 聞くがよい」
 自信に溢れた声である。
「そなた達の訴えのすべてを、このマージが聞き入れよう。嘆く必要はない。このマージがお前達を一人残らず救ってみせる。まず、手始めにそなた達の不安をひとつ取り去ろう、罪人をこれへ!」
 マージの右手が示した先に、手足だけでなく首にまで縄をかけられたゼタとヴェンティが引き出されてきた。
「このふたりが、陛下のお心を惑わせ、都下に騒乱をもたらし、民の暮らしを脅かした張本人である。このふたりをとりわけて寵愛された陛下を案じ、国と民を案じ、私マージは幾度も忠言申し上げた。謀臣は必ずや国に害をもたらしますと。しかし陛下は私マージの言葉をお聞き届けくださらない。陛下は身も心も、このふたりの罪人に委ねてしまわれたのだ」
「謀臣とは何事ですか、姫」
 バライトは姫の言葉を遮った。とたんに傭兵集団から抗議の声が一斉にあがる。都民は傭兵達が姫によって用意された私兵だとは知らない。麦を求めて訴えにきた小作だと思っているのだ。傭兵の怒号に合わせるように、都民のいくたりかも拳を振り上げた。
「静まれ!」
 マージ姫が手を挙げて、民衆を制した。
 明け初めた朝日を浴びて姫は雄々しく神々しく、あたかも太陽が王宮前に使わした女神のようにさえ見えたのである。
「私が陛下にお願いし、北峰領小作のために千人相当の麦の下賜を、お許しいただいた。我が子に与える麦を求めて遠路を旅してきた母親達よ、安心するがよい。今年の冬小麦は租税を免除していただけるよう、このマージが必ずや陛下に進言申し上げる」
 マージは階段を降りて傭兵集団の先頭にゆっくりと近づき、母親のスカートにしがみついていた子どもに手をさしのべた。子どもは怯えて後ずさったが、後ろの兵に突き飛ばされるようにして前へつんのめり、マージが素早く抱き上げた。
「子どもに麦を!」
 マージの声に応えるように傭兵は声をたて、取り巻いている都民もつられたのか、マージ姫、マージ姫、と賞賛の声をあげる。
 歓声を背に受けて姫は階段をあがり、ふたたび王宮門前に立った。
「民よ! 我が愛する王国の民、国の宝である子ども達よ! マージは約束する。お前達を二度と飢えに晒さぬと。二度とこのような悲しみに合わせぬと。その証として、ここに捕らえた罪人ふたりを、この場で、お前達の目の前で、マージがこの手で断罪しよう。剣を持て!」
「お待ちを!」
 バライトは叫んだ。
「姫、私刑は国法に反します、ご再考を」
「よろしい。一都民の声を聞き入れて命までは奪うまい。右手か左手かをそなたが選べ。指五本で許そう。ヴェンティをこれへ」
「なりません、姫。罪状の確認と刑の確定はこれを裁判所へ任せるべきです」
「私マージが、最高判事である。王裔として、また院司印を預かる者として、私以外のいったい誰が、この罪人の刑を決定できるというのか」
「おそれながら、院司の最高位は姫の母上、コーディ夫人でいらっしゃいます。コーディ夫人がここに立ち会っておられぬ限り、姫に判事の資格はありませぬ」
「黙らぬか!」
 マージは手に持っていた准学の笏でバライトを打ち据えた。笏の端の紅玉がバライトの頬を打ち裂き、鮮血が散った。
 跪いていたヴェンティとゼタが激しく身じろぎした。
「オルクス領兵監並びに、都民バライト。両名の言動を王室への反逆とみなし、市場中央広場にて都民鞭三日に処す。学生五十名は刑の執行を監視し、必要と判断すれば相応の鞭を罪人に与えよ。捕縛!」
「姫! なりません!」
 バライトはオルクスを後方へかばい、また一歩前へ出た。
「オルクスは王都守護の要ですぞ!」
「ヴェンティの右手をこれへ!」
 マージはバライトの訴えを無視し、学生から剣を受け取って鞘を振り払った。
 剣は朝日をはね返し、薄赤い光を発している。ヴェンティが猿轡を咬まされたまま膝行させられてきた。姫の足下に突き転がされ、その身の上に学生が数人がかりでのしかかった。
「姫! 国法違反ですぞ!」
 バライトは叫びつつ、背後の領兵の手から剣を奪った。
 姫が振り下ろす剣のきっさきがヴェンティの手に届く前に、飛び込んで防がねばならない。
 オルクスとバライトが姫ににじり寄り、領兵の一団はバラバラと散って傭兵集団と姫のあいだを遮った。
 そのとき、
「ヴェンティの指は余に返せ。譲位と引き替えだ」
 王が静かに言いながら歩み寄ってきた。
 王の前後左右を学生が囲んでいる。何故か十人ほどの学生が、王を守るように寄り添い、他の学生を警戒するそぶりをみせていた。
「なりませぬ、陛下!」
 周囲の者が思わず首をすくめるような声で怒鳴ったのは、オルクス領兵監だった。
「これは、この一連の姫のなさりようは……陛下がひとこと我らに『こうせよ』と仰せになれば全て解決できることですぞ! 譲位は、譲位だけはなりませぬ!」
「それが新たな火種を生むのだ、オルクス領兵監。民と臣とを巻き添えにはできぬ」
「しかしながら陛下」
「覚悟と用意はできている。受け取るがいい、マージ。王勅だ」
 王は手に持っていた勅書をくるくると丸めて紐で停め、マージ姫に向かってぽんと投げた。
「それと、王笏だ。そら」
 これも軽く放り投げてマージ姫の胸元へ届いたものの、
「印璽は重いぞ。落とすな」
 なんと、黄金の印璽が宙を飛び、学生数人が身を投げ出して地すれすれで受け取った。
「陛下……なんという作法ですか」
 マージ姫は呆れ返ったように言って、勅書と王笏とを胸に抱いている。
「余を陛下と呼ぶな。じきにそなたが女王だ。即位式は好きなように行うがいい。余は臨席せぬ。こんなばかげた茶番に最後まで付き合う気はないからな」
 王は楽しげに言い放って、姫に背を向けた。すたすたと階段を降りながら、小作に扮した傭兵達に目をやり、
「ほう、近頃の小作はずいぶんと勇ましいな。身なりもいい。健康そうで、じつに喜ばしいことだ。ヴェンティが麦を無償で放出したおかげか。それとも姫が、余には内緒で、こっそりと、彼らに麦を与えたか」
 痛烈な皮肉である。マージ姫は無言であり、一言も言い返さなかった。
「さて、母親と子ども達、それと年寄り達。余の元へ」
 王は傭兵の集団の前面に立たされていた女と子ども、高齢者を呼び寄せた。母親に抱かれた幼い子どもの頬にそっと手を触れ、笑みを浮かべる。
「腹は減っておらぬか」
 静かに話しかけ、子どもが頷くと、同じように頷きを返した。
「オルクス、この者達をそちの屋敷で引き取ってくれ。丁寧に世話をし、労ってやるがよい。体力が戻ったら北峰領の家族の元へ返してやってほしい」
「御意」
 王は女子どもと年寄りの一群をオルクスの配下の兵に託すと、再び階段を上がっていった。段上で王は、マージ姫の落とした剣を取り上げ、背後の学生に向かってぽいと投げた。学生は束を握り損なって落とし、あたふたと拾い上げる。
「ここにいる者、全員、剣を鞘へ」
 幾人かは躊躇いをあらわにしたものの、オルクスとバライトが剣を納めると、次々とそれに従った。傭兵と学生も、険しい表情ながら、王の言葉に従って剣を鞘に戻した。
「新女王即位の特赦として、ゼタ、ヴェンティ並びにオルクス、バライトの罪はこれをすべて許し、無罪とする。よいな、マージ」
 マージ姫はやはり口を閉ざしたまま、冷たい目で王を見ている。領兵がヴェンティとゼタに駆け寄り、縄を解いて立ち上がらせた。学生達はそろそろと歩を進めて、大半はマージ姫の背後に立ったが、残りはどうしたわけか、王の背後に立った。
「それと姫、せんだっての院司執行のあとで姫が要求した二点についてだが。サンザの商権剥奪と、徴兵制については、余の権限でこれを認めない。ま、姫が女王に即位すれば、いかようにも好きにするだろうが」
 王は軽く笑って振り返り、ヴェンティとゼタに素早く右目をつむってみせた。
「ただし、余は王位を退いても上王であり、国政に関与する権限を持っている。最高判事はコーディ夫人ではなく、今後は余が任に当たる」
「陛下、国政に関する大事な内容を、このような場所であからさまに」
 マージ姫が抗議したが、王は取り合う様子もない。
「続いて学舎西館の運営についてであるが、准学が女王になるため、空席となる。よって、元王国正規軍将軍であったバライトを新たな学舎西館准学に任ずる。現在西館学舎に在籍する学生達は、バライトの再試験を経て、学舎に留まるか、退学するかを選ぶように。バライト、よいか」
「陛下の御心のままに」
「さて最後は、そこに控えている体格の良い小作どもだ。ただちに王都を出て北峰領へ帰るように。即位式までは余が王だ。命令に背けば容赦はせぬ。いずれ新女王が馬だの剣だのを……ではなく、鋤鍬と種麦をお前達に与えるだろう。それまでおとなしく自分の家で待つがいい」
 傭兵達は王とマージ姫を交互に見ていたが、やがて指揮官らしき男が手を振り、ぞろぞろと移動を始めた。
 王は歩を進め、王宮の階段を身軽に降りていく。
「陛下! どちらへ行かれるのです」
 マージ姫が階段上から呼びかけた。
「どこへ行こうと姫の知ったことではない」
「陛下、あまりにも無体な仰せではありませんか、せめて私が即位するまで王宮に」
「やなこった」
 さすがにバライトも、この捨て台詞には驚いた。が、同時に小気味よいとも感じたのである。王の茶目っ気が頼もしくもあった。
 王は周囲を見回し、ぱんぱんと二度手を打った。
「今このときから余と共に歩きたいと思う者は全員、ついてくるがよい」
「王宮を捨てるのですか、陛下」
 マージ姫が階段の上から、どこかしら軽蔑の感じられる口調で呼びかけてくる。
「捨てるの捨てないのという考えがそもそも間違いだ。宮殿は私物ではない。また、余に私物はない。すべて民のものである。あとはマージがどうとでも好きにするがいい」
 王は笑いながら答え、歩み続けた。その後ろからバライトを筆頭にオルクス領兵監、ゼタ、ヴェンティ、一部の西館学生、王の鷹と勢子達、領兵、王宮内で警護にあたっていた近衛兵が続いた。さらにその後ろに書記官、執事、各種官吏、女官、料理人、庭師、掃除人などが続き、長い列になった。
「バライト殿」
 オルクス領兵監がそっと耳打ちしてきた。
「陛下はどこへ行かれるおつもりなのでしょう」
「まずはサンザ商館なのでは?」
「商館は火事で燃えましたが」
「被害状況をごらんになるおつもりかと。物資がどの程度の被害を受けたか、ご自分の目で確認されると思われます」
「どこまでも、民が一番の陛下ですな」
「さよう。我らも腹をくくらねばなりません」
「……というと、これから陛下はマージ姫に?」
「そう、全力で反旗を翻されるでしょう。姫を王位から追い落とすまで、負けられない戦になるのです。ゼタも、ヴェンティもこれからが踏ん張りどころですな。むろん、我らもです」
「腑に落ちました」
 元将軍と領兵監は並んで歩き、それぞれの胸の中で覚悟を新たにしたのである。
 その後ろからゼタとヴェンティが無言でついてきた。
「ヴェンティ、指が無事でよかったな」
 バライトが振り返って声をかけると、ヴェンティはさきほどまでの危機など忘れたように、手をひらひらさせて屈託のない笑顔を見せた。
「俺の指って、えらい高いものについちゃったわけね?」
「せいぜいその指で陛下にご恩を返せ」
「それはそうと、親方、都下に金庫職人って、どれくらいいる?」
「金庫か。十人前後だろう」
 こいつは陛下のご決断がどれほどの苦渋の果てにあったのか、わかっているのかと、ちょっと不機嫌になったバライトである。
「ねえ親方、これ、どの職人が作ったか、金庫が出来上がったあとでどこに設置したか、調べられないかな」
 ヴェンティは一本の頑丈そうな鍵を差しだした。
「どこから持ってきた」
「マージ姫の居室の書架の、本の奥。本を押し込んだら書架の背板が動いて、そこにこれがあった」
 バライトは思わず足を止め、ヴェンティが止まりきれずにぶつかった。
「いてて、急に立ち止まらないで、親方」
「ヴェンティ、お前ってやつは本当に」
「可愛いでしょ?」
「……たく、殴りたくなるぜ」
 親方言葉に戻ったバライトの胸に、ヴェンティは軽く拳を当て、
「可愛いって言いなさいよ、素直じゃないんだから」
 明るい笑顔になったのだった。



 *王裔の朝食

 学舎東館の朝は硝子の鈴音で始まる。
 各階の階段脇に、子猫の耳ほどの小さな鈴が百数十個ほども提げられていて、下から細い紐を引くと、涼しげな音色をたてる。この音を始業の予鈴とし、各学部の学生たちが教室や制作室へ、またある者は研究室へと向かうのだった。
 セレスはルーシェ公の居室にいた。朝食は小さなパンふたつ、暖めた牛乳、香りのいいお茶、干しぶどう十粒ほどとスモモひとつ。セレスにだけ、チーズと蜂蜜がついた。
 王様の従兄で学舎の学博なのに、ずいぶんと質素な朝ごはんなんだなあと、セレスは思ったが、言わずにいた。
「慎ましい朝食で、驚いたかな」
 ルーシェ公はにこやかに問いかけてくる。
「おいしく……いただいてます」
 パンの表面が香ばしくてぱりぱりしていて、たしかに美味しいのだった。
「この朝食は、陛下の朝のお食事内容とほぼ同じなのだよ」
「そうなんですか?」
「遠い昔、この国が王を初めて戴いたとき、民に約束された朝食だ。全ての民に、たとえどのように貧しい民であっても、これだけの朝食を与えるとね。その建国の精神を忘れぬよう、歴代の王は皆、この朝食を続けてこられた」
「学博様は王様ではないのに」
 そうだね、とルーシェ公は微笑む。
「昔は私も、これよりははるかに贅沢な食事をとっていた。少し考えることがあって、十五年ほど前から、この朝食に変えたのだよ」
「学博様の家族も?」
「いや、私だけだ」
「十五年前、学博様は何を『少し』考えたのですか」
「あなたは賢い子だね」
 干しぶどうをつまみ、学博ルーシェ公は楽しげに笑う。
「じつは十五年前に私は大切な友をひとり失った……友と言っていいのかどうか、迷うところではあるが」
「あの花畑の石の下にお友達が眠ってらっしゃるのですか」
「いやはや、これは」
 ルーシェ公は手を止め、大きく目を見開いた。
「そうか。花のあとには新たな芽が育つか……」
 セレスには意味がわからなかった。
 西館から逃げ出したとき、花畑でルーシェ公に会った。花に埋もれるようにして置かれていた綺麗な石。そのときのルーシェ公の、どこか寂しげな笑みを思い出した。秘密ではなくただの石だとルーシェ公は言った。だが、きっと、秘密があるのだろうと、セレスは思ったのである。
 居室の扉を三度ほど軽く叩く音が聞こえ、
「学博様、ブライスです」
 若い男の声が聞こえた。
「開いていますよ。お入り」
 ルーシェ公の声に応えて入室してきたのは、昨日の夕方、セレスを市場から助け出してくれた若い人だった。ブライスと名乗った彼は、部屋に入って来るとセレスに向かって軽く笑みをよこしたが、話しかけてはこなかった。
「王宮前はどうなったかね」
 ルーシェ公はお茶を一口飲んでブライスに尋ねた。
「明け方の騒動はひとまず、収まりました」
「そうか。現況は?」
「陛下はサンザ家商館へお出ましになり、その後、学舎西館へお遷りです。陛下をお守りする一団も随行した様子でした」
「姫はどうしている」
「引き続き王宮においでです。学生数人が西館から王宮へ、荷の移動を始めました」
 そうか、とルーシェ公はお茶のカップを置いて、しばし黙考した。
「学博様、西館のことですが。先刻、都下の金庫職人数人が入館し、その後に大工、石工が次々と呼ばれています」
「ほう」
「職人達は東館の卒業生です。呼んで事情を訊きますか」
「いや、その必要はない。おそらく陛下のお望みに従って、ことが運ばれているのだろう。案ずることはない、ブライス。私たちは今までと同じように、静観し、見守り、学舎の本分を守るだけだ」
「わかりました」
「そうそう、西館の准学位はどうなったかね」
「バライト殿が着任されると、聞いております」
「西館に学使を送り、学博位と准学位について、一度お尋ねしておこう。陛下のご下命あれば私が准学に、バライト殿が学博に。マージが即位する前に、お決めいただくのがよいと思う」
「早急に学使の手配をいたします」
「都民の様子はどうか」
「まだ混乱しているようです。なにしろサンザ商館が全焼しましたから」
 セレスは思わず立ち上がって、えっ、と声をたてた。
「ヴェンティの家が、ですか? 火事になったのですか?」
「さようでございます、セレス様」
 ブライスが答え、ルーシェ公がやんわりと、
「尊称はいけない、ブライス」
 たしなめるように言った。それからセレスに笑顔を向け、
「大丈夫だよ。ヴェンティは無事だ。サンザに限らず多くの商館は、ふいの災害のために、さまざまな備えをしている。館がひとつ燃えたくらいで、へこたれるサンザではない。おそらくは」
 言葉を区切って、何かを思い出すかのような目をした。
「……復興がすでに始まっているはずだ。ヴェンティは忙しくしていることだろう。見通しがたてば、ヴェンティはきっとセレスに会いにくる。もう少し、ここで待ちなさい」
「はい」
「私の居室では退屈だろう、ブライスに案内させるから学舎の中を見学しておいで。新入生の見学は学生達を喜ばせるだろう。さ、行きなさい」
「学生の皆さんが喜んでくださるなら、僕、行って挨拶してきます。学博様、その前にひとつ、お訊きしていいですか」
「何かね」
「学博様は僕のお父さんですか」
 ルーシェ公もブライスも、一瞬、ひどく驚いた顔をした。
「あ……違うんですね、ごめんなさい、失礼なことを言いました、僕」
 セレスはおおいに焦り、慌てて謝った。
 セレスがこんなふうに考えたのは、ここへ来るまでのさまざまな出来事を全部合わせると、もしかしたら、と思ったからなのだった。
 なんの根拠もなかったが、自分が特別に大事にされている気がしたのである。
「セレス」
 ルーシェ公は卓上に手を伸ばし、セレスの頬に軽く触れた。
「もしもあなたが私の息子ならば、どれほど嬉しいだろう。どれほど大きな希望になっただろう……だが、違うのだよ。残念でならないが、あなたは私の息子ではない」
「すみません、変なことを言いました」
「変ではない。謝る必要もない。だが、このことは当分、誰にも何も、尋ねてはいけない。約束してくれるね」
「はい。約束します」
 ルーシェ公の目に、かすかな光があった。

……涙ぐんでいらっしゃる……

 そう思うと、セレスも急に悲しくなった。公の悲しみが、それがなんなのかはわからなかったが、セレスの胸に染みたのであある。
「学舎を案内しましょう」
 ブライスがセレスを促した。
「行っておいで」
 ルーシェ公は笑みを取り戻し、朝食を終える様子で席を立つ。
 セレスもそれ以上は何も訊かず、はい、とだけ言って立ち上がった。




   * 危険な秘密

「なんか、隠してるでしょ」
 ヴェンティは西館の准学居室で机の上に軽く尻を載せ、腕組みして尋ねた。
 王は書架の前に立っている。先刻ヴェンティが鍵を探し出した書架をのぞき込んだり、本を出したりしていた。
「どの隠し事のことか。王など隠し事だらけだ」
 ラズライト王はそらとぼけたふうに、振り返りもせず答えた。
「大事な何かですよ。もー、内緒にするからこうやって、俺、もとい、私が苦労する羽目になるんです。言っちゃえば済むのにさ。そうすればそれに添って、最短距離で答えを探せるのに」
「最短距離には犠牲がつきもの」
「誰が犠牲になるってんですよ。マージ姫でしょ? 陛下を王宮から叩きだした張本人ですよ? 何、遠慮してるんですか」
「従兄の娘だから」
「謀反人です」
「それでも従兄の娘だ」
「臣下なら極刑でしょうよ」
「裁判所ならばそう主張するだろう」
 ヴェンティは机の上の本を手にとってぱらぱらとめくり、腹立ち紛れに音をたてて元に戻した。
「も一回訊くけど。セレスティアって、誰?」
「元踊り子」
「そのダンナは?」
 返事がなかった。
 やはり、踊り子の夫、十五年前に学舎東館の屋根から転落して死亡した男が、鍵なのだとヴェンティは思う。
「教えてくれないんですね。じゃ、勝手に調べちゃうからね。俺の調査力と直感力はご存じでしょ。必ず洗い出しますから覚悟してください」
「弟だ」
「へっ?」
「セレスは余の弟の息子だ。つまり甥だ。絶対に口外するな。一言でもしゃべったら、余の寝台にくくりつけて死ぬまで外へ出さぬぞ」
「あのね」
 王は振り返り、ヴェンティを書架の前に手招きした。
「ここか? 鍵があったのは。古楽の本の後ろ側」
「そうです。そこから鍵が出たんです。……そんなことじゃなくて。それって、誰と誰が知ってるんです?」
「余とバライトとルーシェ」
「国家機密ってわけですね」
「そうだ。ファーディ公も知らなかった」
 ファーディ公が知っていた場合と、知らなかった場合の危険度の違いを、さすがのヴェンティもすぐには見通せなかった。
「どうだ、難しいだろう」
 王は悪戯そうな顔で笑う。
「弟もセレスティアも、何も知らずにそのまま、民として、芸人として生きていけば、王宮で暮らすよりはずっと幸せだったはずだ」
「ヴォイド陛下もそう思われたんでしょうかね」
「父上は恐妻家でいらした」
 最低。とは言わなかったが、正直なところ、最低。としか言いようがない。
「セレスティアの美貌と評判が、ガバン公一派とファーディ公の目を引いてしまったのだと思う。弟は自分の身分を知らなかったし、弟を捕らえた連中も、セレスティアの夫を人質にしただけと考え、真実は知らなかった」
「そしてお人好しのお兄ちゃんが罠にかかったと」
 ま、そういうことだ、と王は頷いた。
「セレスティアは類い希な踊り子だった。あのルーシェ公でさえ余とともに一座の観覧に行った後、しばらくは恋煩いしていたほどだからな」
「すげ……。あれ? 陛下はどうだったんです?」
「弟の嫁だ。羨ましかったが、それだけだ」
「あ、そう」
 ヴェンティが一度だけ、颯殿で会ったほっそりした綺麗なお姉さんが、たぶんセレスティアだったのだろう。あの堅物のオルクス領兵監が『たいそう美しい人』と賞した踊り子である。残念ながら、彼女の容貌の正確な記憶はヴェンティにはない。
「類い稀な踊り子に愛された陛下の弟君はどんなかただったんですかね」
「弟はセレスティアより三歳下で、亡くなったおりには十七歳だった」
「あいたたた……それはまた、なんと」
 ヴェンティより年下である。王がどれほど心を痛めたか。想像しただけで辛くなってしまいそうだった。
「セレスティアをガバン公の屋敷から助け出すのは簡単だったが、弟は東館に捕らわれて厳重に監視されていた。思いあまって当時、学舎准学だったルーシェ公に事情を話したら、快く救出を引き受けてくれたのだが」
「うまくいかなかったんですね」
「途中まではうまくいった。弟に制服を着せ、ルーシェ公は芸人のふりをして、弟を脱出させようとしたらしい。だが、ルーシェ公は学生に追われて矢で射られ」
「げっ」
 学生が保持していいのは捕縛縄と金属なしの長杖と決まっている。
罪なき民に弓引く学生が当時はいたのだ。それだけ、ガバン公とファーディ公の野心は激しかったということになる。
「ルーシェ公が射られたと気づいて、弟は引き返した。ルーシェ公を救い出して花壇に隠し、自分は追っ手を引きつけて、結局は東館の最上階へ追い詰められ、屋根からトウヒの大木へ飛んだ。トウヒは弟を受け止めたが、そこを射られた」
 少年はトウヒの梢から飛んだ。そして悲しい結末となった。
「墓碑銘のない墓がある。東館の庭の一角にはルーシェ公が丹精している花畑があり、弟はそこに眠っている……いつか余は、セレスをそこへ連れていき、弟と甥に詫びねばならぬ」
「あの子は恨まないと思いますよ」
「セレスティアも同じことを言っていた」
「それが、セレスティアさんとの約束だったんですか。セレスを父親の墓前に連れていって、謝罪するというのが」
 王はしばしのあいだ口を閉ざし、考え込む様子である。
「ここまで言っちゃったんですから、もう全部。お願いします」
「国家機密をこうも次々と」
「聞いておかないと、俺も私もゼタも道に迷うんです。的確な判断は正確な情報から、ですよ、陛下」
 さようか、と王はため息をつく。
「セレスが十三、四歳になったら、会いにきてほしいと、余はセレスティアに頼んだ。セレスが王子であることを望むか、民の暮らしを望むかを尋ね、セレスの望み通りにすると申し出た」
「またそういう、騒動のタネになりそうなことを……」
 ファーディ公が知ったら泣いて喜んだかもしれない約束である。
「セレスは余の弟の子であるから、マージよりも継承権は上位にある。もしもセレスが受け入れてくれれば、余の甥であることを公表し、養嗣子として余のそばに置いて育て、立太子を経て帝王学を施そうと考えた」
「だから、陛下ご自身は結婚しなかったと」
「まあ、そういうことだ」
「んとにもー。無欲だったらありゃしない。で、セレスティアさんは? どう答えたんです」
「彼女はきっぱりと拒否した。王位を望む子には育てないと。民として育てあげ、必ず余に会いに来て、セレスが幸せであることを証明すると」
「立派じゃないですか」
 セレスの言動を、ほんのわずかだがヴェンティは知っている。
 サンザ家で『おばさん』を待っていたあいだも、熱心に手玉の練習をしていた。
 一座へ戻ったらどうかとヴェンティが勧めたとき、セレスはどう応じたか。
『ここを動かないとおばさんに約束しましたから』
と、答えたのだ。
 学生に捕まったとき、セレスは自分ももみくちゃにされながら、ヴェンティを助けようとして手を伸ばしてきた。
 そして、五十人の学生に連れ去られたあと、たったひとりで西館から、古楽学生の弁によれば『小鳥のように軽やかに飛んで逃げた』のである。
「陛下、セレスはいいやつです。幼いなりに律儀で信念もあり、人を思いやる気持ちを持っています。そして知恵と勇気と行動力があります。陛下の薫陶を受けて育ち、即位すればきっと見事な王になるでしょう。でもあの子は王位を望まない。そう思います」
「惜しいような、嬉しいような。余は複雑な心境である……」
「セレスティアさんが心配ですね」
「マージは五年間、彼女を保護してきたと言っている。セレスティアを捕らえたのはおそらくガバン一派だろう。それを野望ごと、マージが引き継いだ。余が譲位をせねば、マージは何をしでかしたか」
 王がセレスと接触すれば、マージ姫の手元にあるヴォイド王の勅書がものを言う。
 裏付けとして、祖父ファーディ公の日記も公開されるだろう。
 王が譲位をあくまでも拒めば、セレスティアの身に何が起きるかわからない。
 さらにヴェンティを筆頭にサンザが潰され、次いでゼタ、オルクスが標的となって、領兵制度が壊滅する危険があった。
「姫のもとにある切り札をひとつずつ、陛下の手元へ取り戻さないとだめですね」
「まさしくその通りだ。父上の勅書、ファーディ公の日記、セレスティア、そしてセレス」
「セレスは東館でルーシェ公と一緒だと報せが来たから、まあ、当面は無事として」
「ルーシェがセレスを可愛がっているだろうと思うと、何かしら腹がたつ」
 何言ってんですかと、ヴェンティは吹き出した。
「陛下には俺がいるでしょ」
「うーん……」
 ヴェンティは王の脇腹を肘でつつき、王はたまりかねた様子で笑い出した。
「まずは、階段下の壁に埋め込まれてるあの金庫に何が入っているか。それを確かめてから、ってことですね」
 現在、金庫職人、大工、石工の数名が、金庫の掘り出しにかかっている。
 勅書と日記があれば言うことなしだが、開けてみなければわからない。
「あとは……セレスティアさんの捜索が当面の課題ですね」
「そうだ」
「探すなら今です。即位前後は向こうもバタバタしてるでしょ。新政の開始で姫は忙しくなるだろうし、姫を支える人材も急には揃わないし」
「しかり。では、命ずる。ヴェンティはバライトから探索を引き継ぎ、セレスティアを探し、救出せよ」
「俺?」
「他に誰が?」
「ゼタは?」
「では、ゼタも同じく、探索に当たらせよう。呼んでくるがいい」
「陛下~、んもう、商館の立て直しもしなくちゃいけないってのに、どうするんですよ」
「両立せよ」
「これだ」
 ヴェンティはぼやき、そして王は笑った。


       **セレスタイン物語 7へ続く

 



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