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音楽の贈りもの

Fleetwood Mac そして誰かに贈られたものについて。


ロックが多くの分岐点を経て個性ごとのジャンル名が発生し始めたころの話を書いたことがある。
どのジャンルも好きで、なんかこう芸術的?な曲、キャッチーな曲、やかましいなコレ的な曲までわりと分け隔てなく聴いていた。つもりだが洋楽に傾きがちだったかなと今振り返るとそう思う。

というわけで(どういうわけで?)
音楽はすてき。
ありがとうフリートウッドマック。
というエピソードをひとくさり書いてみたい。

フリートウッド・マックの『噂』。
友のひとりが過去から現在までのロックに精通していて、お気に入りの曲だと言っていた。

いいなと思うとあとさき考えずにすぐに飛びつく性分なので、軽快さに惹かれてわたしもアルバムを買った。BGMにしよう。そう考えたのである。でもジャケットの写真を見て「なんだろうこれ」と思う程度に、成熟していないわたしではあった。

それはさておきフリートウッドマックを何故BGMにしようとしたのかといえば、危険物取扱試験の準備としてテキストの内容を丸暗記するためである。

二十歳をすこし過ぎたころ。
乙種四類危険物取扱主任試験を受けようと思った。

かつては国家試験で(今も?)、年に二回、もよりの大学で実施されていた。
試験準備のために配布される厚さ一センチほどのテキストには、資格取得に備えて覚えるべき数値がびっしり並んでいる。

試験までは二週間。大急ぎでテキストの中身を全部を覚える必要があった。
効率の良い暗記方法はないか。

そこで音楽記憶法を試してみることにした。
フリートウッドマックのLPをかけながら、テキストに書かれている内容を一冊分、自分で音読する。
それを手持ちの機器で録音する。
通勤の往復のあいだなど、ちょっとした空き時間に、自分の声とBGMのフリートウッドマックを繰り返し聴く。
音楽と一緒なら、細かい数値も難なく覚えることができるのでは、とわたしは考えたのだった。

Love in Storeと一緒に『第一石油類・指定数量……』と流れてくるのを、イヤホンで聴き続けたのである。

それで、試験後に困ったことになった。
フリートウッドマックが流れてくると脳内に、テキストの文章が自分の声で流れるようになってしまったのだ。
一緒に覚え込んだため、分離ができなくなったものらしい。
この記憶はいまだ健在で、フリートウッドマックを聴くと脳内に『第一石油類〜』と聞こえてきて、音楽好きのわたしを苦笑させる。

ところで、わたしがこの試験を受けようとしていた当時、民間の会社では高卒女子の労働単価は恐ろしく低かった。
所得を勤務時間で割ってみたら同年同学歴の男子の六割くらいだった…と記憶している(今も?)
わたしが勤めていた会社には社員等級というものがあった。高卒女子は問答無用の最下級だ。
等級制度は作業能力とは関係ないところで設定されており、ポジションが上がっても、なんらかの功績によって何がしかの受賞をしても、ン年以上勤続でも、一等級も上がらなかった。

でもまあ、働いて給料を得て生きていくのは当たり前だし、文句言ったってしょうがない。
大企業とはいえ、上司の脳内といったら戦前の価値観に毛が生えたような仕様だ。割り切るしかないのである。
なのでわたしも、そのあたりはきっぱりと諦めて、余計な悩みごとにはしないつもりでいた。 

けれども、仕事をしていると、『どうしてもこれは、なんとかしないとだめだな』という事態に遭遇するものなのだ。
当時、職場で使う有機溶剤は、職場ひとつで保管できるリットル数が限られており、在庫がなくなるとその都度、溶剤庫に取りに行かねばならなかった。

薬品保管庫に入れるのは男子のみと決められていた。
溶剤などが少なくなると、薬品保管庫へ行ける男性を探して、
『メタノール少ないので20リットルを2タンクぶんお願いします』
という具合に頼むのだが、すぐに請け出しに行ってもらえるときばかりとは限らない。
あちらはあちらで仕事のスケジュールがあるので、溶剤受け取りに行けない場合も多かった。

それやこれやで溶剤待ちで試験薬が作れず、後行程の部署からは頻繁に苦情が来る。
苦情はしばしば怒りと一緒にぶつけられるので、試験薬準備をする女子ズは皆、本当に困っていた。
で、あるとき、
『女子が保管庫に行ってメタノール貰ってくればいいんじゃん。20リットルくらいなら持ち上げたり運んだりできるし』
とわたしは考えた。
職場の上司に相談したら、
『女子が保管庫に入る? だめだめ。女子にはできないよ。難しい仕事だから』
とまあ、門前払いなわけで。

いろいろ調べてみたら、保管庫に入るためには乙種四類危険物取扱免許というものを持っていなければならない。ということがわかった。
試験は年二回。ちょうどそのとき、一か月ほど先に試験実施だった。

なあんだ。試験受けてみればいいんじゃん。
と、今も昔も、いろいろなことがわかっていないのに、すぐに飛びつく性格のわたしである。

受験の申し込みは直属の上司と総務課を通す。
申請書に記入して上司の承認印をもらって総務に申し込み、事務長さんが受け取り、
「申し込んでおきます。後日テキストと必要書類を送りますね」
とたしかにおっしゃったのだが。

二週間後、職場の男性が、出張届けを出した。
「明日、研修だね、今日は定時で帰ろうね」
「え? なんの研修?」
「危険物」
「えっ、それって乙四?」
「そうだよ。試験前に研修を受けないと、受験できないからね」

と、彼が見せてくれたのは、数冊のテキスト。
それと、数日前、総務から送られてきたという書類の数々。
「研修受けないと受験できないって…。わたしのところに連絡きてないし、テキストも貰ってないですよ?」

男性は不思議そうな面持ちながら、ほらこれだよと、ファイルを開いて見せてくれた。
研究員主催の受験者向け講習会、週二回、一回二時間、残業扱い。
事前研修一日、出張扱い。
試験当日一日、出張扱い、交通費全額支給。
テキスト数冊。
試験までのタイムスケジュール表。
過去試験の合否データ集。
…とまあ、この試験に必要と思われるものが全部揃っていた。

「え、わたし、これ、ひとつも貰ってないです」
「今の時点でテキストも来ていないなら、何かトラブルがあったのかもしれないから、すぐに総務に行って確認したほうがいいよ」
ですよね。研修、明日ですものね。

で、すぐに総務に行って聞いてみた。
事務長さんは、申請受理したときと同じ淡々とした顔で、
「女子の受験は前例がない、ということなので、会社を通しての申請は保留となってます」
「保留してるという連絡もいただいてないですけれど、どうしてでしょう?」
「さあ。どうしても受けたいなら、自費で受験してください。出張手当も交通費も出ませんけど」
「わかりました。明日の研修には参加してもいいんでしょうか」
「参加するしないはあなたの自由ですが、出張扱いにはなりません。研修参加のための有給休暇を取れるか否かについてはあなたの上司と相談してください」
「同じ職場の人が出張扱いになってるって言ってましたが」
「社を通しての受験ではありませんから、出張にはなりません」
「テキストはどうすれば手に入りますか」
「職場に戻ってその同僚の男性に聞いてみたらどうでしょうか。こちらにテキストの予備などはありません」

えーと。その。つまり、全部自前でなら好きにせよ。ということですね。
会社の対応の理由はこの時点ではわからなかったけれど、これ以上話しても無駄そうだと判断したので、しおしおと職場へ帰った。

いきなり研修の会場へ行っても、中に入れてもらえるかどうかわからない。
でもとにかく行くだけ行ってみよう。
門前払いをくらったら今回は諦めて、次回チャレンジしよう、と思いつつ、休暇届を書いた。

「私用」
と書いて届けを出したら、上司が、
「どういう私用なんですか」
と聞いてきた。
休暇届は午前中に出すと決められていて、そのとき午後一時くらいだったので、緊急度が低ければ受理してもらえない。
「危険物取扱試験の事前研修です」
「やめたら?」
「は?」
「いや、僕もね。今度受験する男子たちに講習会開いて教えてるけど。みんな一生懸命勉強してるよ。君、勉強は?」
「今のところ、なんにもしてないです」
「ほらね。その程度ってこと。第一、女子でしょ。女子は有機溶剤の受け取りできないよ。試験受けてどうするのってことですよ」
「作業効率を考えたら、女子も溶剤庫に行けたほうがいいと思ったからです。えっ、講習やってたのなら、どうして教えてくれなかったんですか」

乙四の試験を受けたいから申請書書いたとき、彼も承認印を押した。だから、知ってたはずでしょ、受験志望者だって。

「だって女子は結婚するじゃない。結婚してやめちゃうでしょ。そういう人に時間と手間ひまかけたくないんだよね。無駄だもの」

笑顔で言われてしまった。

「研修受けられるかどうかはわからないんですけど、でも行ってみます。なので休暇、お願いします」

話しあったところで時間の無駄と思われたのか、上司は休暇に承認印を押してくれた。

帰路、同僚の女子ズを誘って喫茶店へしけこみ、今日、こういうことがあったんだよと暴露した。
皆、ちょっと怒った。少し諦めもあった。無駄なことで戦うのやめたらという意見もあった。
でも最後には「頑張って」と応援してくれた。

翌日、研修会場へ行き、こういう理由で申し込みができていないし、テキストもないんですが、参加できますかと受付で聞くと、
「大丈夫ですよ。勉強したいという気持ちは私たちとしても嬉しいです。さ、お入りください。テキストは私のをあげます。去年のものですが、内容ほとんど変わっていませんから。頑張ってください」

講師のかたが一年間使ってこられたというテキストをいただくことができた。ありがたくて、テキストの一ページめが涙でかすんだりした。

研修以前から、職場で講習を受けていた男子に比べて、スタートが遅れているため、わたしの勉強期間はかなり短い。
そしてこのあとも、職場での講習に参加できるとは思えない(あの上司では)。

なので、自分専用の学習方法を探す必要があった。
とにかくテキスト一冊分、正確に丸暗記せねばならない。
そしてすぐ、十代のころの記憶力はどうかしてたなと思い知った。
テキストを一通り読んだあとで、過去設問集を解いたのだが、全然正解できない。

そこで音楽記憶法を試してみた。
よっし、頑張るぞ。と、フリートウッドマックに励ましてもらって二週間。電車の中でも昼食中でもジョギング中もフリートウッドマックwith テキスト。ひたすら聴き倒してから受験に臨んだ。

さて試験後しばらくしてから合否の知らせがあった。

「例年に比べて合格率が若干低かったそうですよ」と、総務の事務長さんが教えてくれた。
社内の受験者の合格率はどうだったんですか、十人以上受けましたよねと尋ねたら、事務長さんはちょっと渋いお顔をなさった。
「合格したのはあなただけです」

えー………

そののち、女子が乙種四類試験を受験するとき、会社の後援を受けることができるようになった。
受験者もだんだん増えて、さらには研修や受験が出張扱いになり、講習は女子にも開かれるようになった。
ただし、お子さんのいるお母さんズはそうそう残業できない事情もあったから、自前で勉強するひとも多かったように記憶している。
溶剤庫に入るための社内のみの研修も、乙四合格の女子に門戸が開かれ、作業はしやすくなった。

フリートウッドもマクヴィーもまったくあずかり知らないことだろうけれど。
音楽の魅力でもって、極東の片隅のひとりの女子が試験に合格した。
そしてそのあとに、他の女子にも何かしらが贈られていったのだと思う。

音楽はすてき。

ありがとう、フリートウッドマック。

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