見出し画像

峠のバス


☆— またいつか 誰かが バスに乗る

 ☆—☆—☆—☆—☆

 今日一日は何があっても決して泣かないとタッソは決めた。

 山を降りることは昨日のうちに皆に教えてある。タッソが上着を羽織っていると、横の敷布に寝ていたレアノも起きあがった。小さい弟妹たち、ロッシとマリナ、キーナはまだ眠っている。キーナの敷布の向こう、ロバのオルランテはとうに目を覚ましていた。レアノが近づくとオルランテはブシシ、と鼻を鳴らしてエサを催促し、腕に顔をすり寄せて甘えた。オルランテの綱を引き、立て戸を壊さないよう気をつけながらレアノは表へ出て行った。


 小屋の前、岩だらけの痩せた山肌には緑色の草はない。今日からこのあたりの放牧民たちが夏の放牧を終えて一斉に下山する。秋から冬、そして来年の春まで、放牧民も家畜たちもツクワノの麓の町ツクワンナに降りて生活するためだ。
 だがタッソの家族にはこの秋冬、住める家がないのだった。夏の終わりにタッソは一度だけ、ツクワンナにある自分の家を見にいった。町のはずれにある小さな小屋がタッソの家だ。だが、タッソの母に金を貸していたという、見たこともない男がその小屋には住んでいた。ここはぼくの家だと言ったタッソは頬の骨がへこみそうになるほど男に殴られ、二度と来るなと叩き出されてしまったのである。
 母が借金をしていたのかどうか、タッソは知らない。去年まで、冬のあいだの暮らしはおおむね、母と姉が働いて得た収入でまかなっていた。週末の夕方になると二人は濃い化粧をして出かけていき、明け方に帰ってくる。タッソに小金や食べ物を渡し、二人は眠ってしまう。ふたりの仕事がなんなのか、タッソにもうすうすわかっていた。そうして町で冬を越すと母は山羊を買い足し、家族全員を連れて山へ放牧に行った。しばらくすると仔山羊が産まれる。仔山羊を育てて売り、あとは牛や山羊の乳から作るチーズを売りながら暮らしをつないできた。
 今年、冬の半ばに母がまず警察につかまって刑務所に入れられてしまい、一週間後には姉が『病気』だという理由で病院へ連れていかれた。しばらくすると手紙がきて、そこには機械で書いた宇で、タッソの姉の病気はとりあえず治ったのだが、今度は別の病気にかかっていることがわかったため、都会の病院へ運ばれたと書かれていた。姉はそれきり消息が知れない。
 だから今年は春に新しい山羊を買えなかった。夏に入って食べ物が底をつき、タッソは母の真似をして牛や山羊の乳で作ったチーズを売った。次に山羊そのものを売った。それから六年間一家の生活を支えてきた雌牛を売った。
 今残っているのはロバのオルランテだけだ。辛抱強く荷物運びをしてくれるオルランテ。この数日、エサが足りなくて可哀想だった。それでも小さい弟、小さい妹の相手をよくしてくれた。今日、下山したらオルランテも人手に渡る。遊牧民が一斉に山を下りるので、今日明日の町の市場はにぎわうだろう。市場の競りでオルランテを売るつもりだった。
 町外れでは小さな祭りもある。弟に、妹に、祭りを楽しませてやりたかったけれど、それはもう無理だ。オルランテを売り、弟と妹は親戚に一人ずつ預ける。タッソは町に戻って仕事を探し、一人で暮らす。そう決めたのだった。
 自分の敷布を丸めて紐でくくり、タッソは窓辺の祭壇を見上げた。山に棲まうツク神は民の祈りを百万の心の耳でもれなく聴いているという。野生の白毛鹿にそっくりな白い冠毛に全身が覆われていて、ごくまれにひとの目に触れることもあるという。ツク神を見た者は幸せになれるという言い伝えもあるが、『見た』というひとにタッソは会ったことがない。
 朝日の中でツク神の白い像はしんと静かにタッソの祈りを聞いている。
 神様、とタッソは心の中で祈った。今日一日をどうかお守りください。弟たち、妹たちにご加護を。それと、オルランテが優しい主人に買われて可愛がられますように。
「タッソ。エサと水、やってきたよ」
 レアノが戸を開けて顔を覗かせた。
「革袋に水も詰めてきた」
「そうか。そろそろみんなを起こそうか。他の家族はもう下山、始めてる?」
「エルドナの家族が降りていったよ。朝の残りだよと言って、パン少しくれた」
 レアノは小屋に入り、大きいほうから弟と妹を順番に起こして着替えを手伝った。ほったて小屋の中には金目のものは何もない。食べ物もほとんどない。山羊の乳のチーズがほんのわずか、山で採った薬草が一束、かちかちに固い干し肉がひと握り。エルドナの家族はタッソたちが貧しいのを知っているから、下山するときわざわざ近くを通ってパンをくれたのに違いない。
 弟と妹の着替えを済ませるとタッソは小屋をたたんだ。小屋を支えていた縄で材木をひとまとめにして平らな地面に置き、上に重石を載せる。来年、自分がここに来て小屋を組み立てる日が来るのだろうか、それともこれきりになってしまうのだろうか。タッソにはわからなかった。
 レアノは黙ってタッソを手伝い、作業が終わると小さな子たちにそれぞれの荷物を背負わせた。大きなものはオルランテが運んでくれる。支度が済むとタッソはマリナを背負い、レアノがキーナを抱いて、下山を始めた。
 秋の草花もそろそろ終わりだ。草は枯れ色にたなびき、タネが地に落ちて春を待つ。低木には赤い実がなり、鳥たちがそれを食べてよそへ運び、また新しい木が芽吹く。
 七歳になったばかりのロッシは強い向かい風を面白がって、わざと転んだり、岩に張りついてみたりする。手綱を握っているのがロッシだから、そのたびにオルランテは迷惑そうな顔をして立ち止まった。
 オルランテが歩くたびに茶色い首が上下し、優しい耳も動いていた。オルランテは今日、自分が売られることを知らない。別れたあとで山の暮らしを思い出すことがあるだろうかとタッソは考え、せめて食肉にされないようにお願いしますと、胸元のツク神のお守り袋に向かって祈った。
「タッソ。見て」
 キーナを抱いたまま、レアノがツクワノ山の頂を指さした。空に向かって鋭くとがった山の頂にほんの少しではあるが、雪が積もっているのが見えた。雪は朝日を反射して淡いオレンジ色に輝いている。
「今年最初の雪だね」
 タッソはマリナを抱き直して歩き始めた。レアノもそれきり何も言わず、五人と一頭は黙々と岩場を降りて行った。
 下山したあとで全員を、それぞれ別の町の別の親戚に預けに行くと、レアノだけには言ってある。兄弟姉妹が一緒に過ごせるのは今日が最後だ。来年はどうだろう。タッソひとりの収入で弟妹の全員が不足なく暮らせるだろうか。自信はなかった。
 振り返ってレアノとキーナが遅れていないか確かめた。レアノは一行の最後尾にいた。レアノの淡い金髪が風に吹かれて踊っている。
 ツクワノ山の頂の冠雪より、レアノの髪のほうがきれいだとタッソは思う。
 このあたりで暮らすほとんどの放牧民と同じように、タッソをはじめ、ロッシもマリナもキーナも、兄弟姉妹全員が黒い髪、焦げ茶の瞳をしている。レアノは十二年前、ツクワノ山の麓で母が拾った。母からそう聞いただけだから、本当に拾ったのか、他に事情があったのかはわからない。レアノは外国の子どもだとタッソは思う。金色がかった髪、淡い灰色の目。ツクワノの雪のように色が白くて手足が長い。タッソより年は下だが背が高い。
 小さい弟妹を預けるのもつらいけれど、タッソはレアノと別れるのが一番悲しかった。夜中に目がさめて横を見ても、レアノの金髪はそこにないのだと思うと、涙がこぼれそうになる。だけどこのままでは弟と妹、レアノも、冬を越せない。仕方がないのだと自分に言い聞かせた。
 ツクワノの山には子どもを愛する神様がいると母はよく言っていた。山から離れたらあんたたちは生きていけないよ、とも。だが家畜なしでこの山で暮らすのは無理だ。母と姉のいない今、タッソにできることはできるだけ子どもを大事にしてくれそうな親戚や知り合いを選んで、預かってくださいと頼むことだけだった。いくつかの親戚は渋い顔をした。いくつかの親戚は怒りだした。
 貧しいから贅沢はさせてやれないけれど、預かってもいいよと言ってくれたジノおじさんのところに七歳のロッシ。
 修道院の掃除婦をしているガーナおばさんのところに五歳のマリナ。
 この夏、三歳になった日に初めて言葉を話した幼いキーナは織物を作っているフィリおじさんのところ。
 そしてレアノは少し離れた町の教会の牧師さんに託す。
 タッソ白身はツクワノ山の麓の町ツクワンナで仕事を見つけ、母と姉が帰るのを待ちながら働くつもりだった。
「タッソ、笛は?」
 マリナがタッソに聞く。持ってきたよとタッソは答えた。聴きたいと請われて、マリナをおろし、オルランテに負わせた麻袋から父の形見の笛を取りだした。父から習った『山鳥』という曲を吹く。ツクワノの山に鳥が飛ぶ、神の鳥だよ、幸せを運んでくるよ、さあ山羊を放し、子どもたちは山に登れ、子どもは神の愛し児だから——という意味あいの唄である。
 吹きながらタッソの鼻の奥は少し痛んだ。だが泣かなかった。タッソが泣けば小さな弟や妹は不安になる。笛の音は山に響き、オルランテの耳もぴょこぴょこと向きを変えていた。
「レアノ、目、痛いの?」
 一番小さなキーナの声が後ろから聞こえた。
 タッソが振り向くとレアノは慌てた様子でそっぽを向く。キーナの小さな手がその頬に伸びていた。レアノをいたわるように顔を撫でている。
 レアノは泣いていたらしい。
 こみ上げる痛みを飲み込んでタッソは笛を吹き続けた。


 ジノおじさんの家はツクワノ山麓の手前、山と平地のあいだにある。
 ワインに使う葡萄を作っていて、そこそこの暮らしをしているが、子沢山なので生活はそう楽ではない。やんちゃなロッシはジノおじさんの家に着くなり、台所にすっ飛んでいった。ジノおじさんは笑顔でロッシを見送り、
「食べすぎるとおなかをこわすぞ、ロッシ!」
 それからタッソを見て、
「みんなで何か食べるかね。パンと葡萄でいいなら好きなだけおあがり」
 優しく言ってくれたが、タッソは首を横に振った。まだマリナとキーナ、レアノを送っていかなければならないからだ。
 急ぐのかい、それなら道々お食べと渡された葡萄の袋を持ち、タッソは残る三人と一緒にジノおじさんの家を出た。
 ロッシは元気な子どもだから、悲しんだり寂しがったりはしないだろう、とタッソは思う。ツクワンナからは歩いて一時間だし、ときどき来て様子を見ることもできる。
 次の行き先は修道院だ。ツクワノの麓から山伝いに歩き、丘を登っていった。丘の上の修道院にたどり着いたのは昼少し前だ。数年前、ご亭主に死なれて泣いて暮らしていたガーナおばさんは母の友達であり、ここでの仕事は母が紹介した。ガーナおばさんには子どもがいない。ずいぶん前に、マリナを引き取らせてくれないかと冗談のように言っていたのを、タッソは覚えていたのだった。
 ガーナおばさんはわずかながら収入がある。働いているところが修道院だから、マリナも安心だ。ここから離れた隣の町まで行くと、通りに立っている女たちがいて、ときどき修道院に預けられたりするが、そういう場合は給料はなしだ。働いて給料をもらっているガーナおばさんはすごいとタッソは思う。
 母さんも修道院に入れられたのならよかったのに。そうすればマリナだけでも母さんに会えたのにと考えながらタッソは修道院の呼び鈴を鳴らした。
 ロッシのときと違ってマリナはちょっと不安そうだ。丸い目をじっとタッソに向けて、
「笛、ほしい」
 小さな声でせがむ。いいよ、と頷いてタッソは笛を差し出した。ツクワノ一帯では名を知られた笛吹きだった父の形見だ。
「この笛を持っていれば空の上から父さんがマリナを見守ってくれるよ」
 タッソは笛ごとマリナの手を自分の手で包んだ。お腹がすいても、足が痛くても決して泣き言を言わないマリナ。別れがたく不惘だったが、ぐずぐずしていると今日中に全部の家を回りきれなくなってしまう。
 春になったら迎えに来るよと約束してタッソは修道院の裏手の林に引き返した。
 レアノとキーナは並んで座って葡萄を食べていた。枯れ草の上に小さな布きれを敷き、縁の欠けた絵皿にはチーズの最後のひとかけらと、今朝エルドナからもらったパン、葡萄が一房、乗せてあった。ワインに使う葡萄だからさほど甘くはないが、それでもキーナはレアノの横にちょこんと座って、レアノが皮を剥いてタネを取り去った葡萄を食べさせてくれるのを待っている。
 タッソの足音に気づいてレアノが振り返り、
「マリナ、泣かなかった?」
 心配そうに訊き、タッソは首を横に振った。
「父さんの笛をあげてきた」
 するとレアノの顔が悲しそうになった。タッソは慌てて手を振った。
「いいんだ。ぼくは自分で作った笛を持ってるから」
 修道院の裏手の林は小鳥が鳴き、光を浴びた枯れ葉がはらはらと落ちてきて、とてもきれいだ。慈しむような晩秋の日ざしの中、レアノと小さなキーナと、葡萄とチーズとパン。修道院の裏だからというわけでもないが、タッソは敬虔な気持ちになった。レアノの髪に木漏れ日が踊ってきらきらと光っている。じっと見つめているとレアノはふと目をあげ、そのとき持っていた葡萄ひと粒をタッソの口元に差し出した。タッソたちの神様とは違う教会の神様の行事だけれど、聖餐を真似て口で受け取ってみる。何かしら気恥ずかしくなってタッソが笑うとレアノも笑う。優しい笑みだった。
 静かな、つつましい食事だ。レアノと一緒に食べるこれが最後だとタッソは思う。
 小さなパンを三人で分け合って食事を終えた。そろそろ出発しなければならない。服についたパンのかけらを食べたがったのか、小鳥が一羽タッソの肩に止まり、キーナは喜んで手を叩いた。その音に驚いて小鳥は飛び立ち、頭上の枝にとまって首を傾げている。タッソは立ち上がり、服をはらって、
「このへんに落ちてるからあとでお食べよ」
 小鳥に話しかけた。レアノも立ち上がって服をはらう。キーナも真似をして一生懸命、服をふるった。
 タッソがキーナを抱いて歩き、レアノが歩きながら葡萄の皮を剥いた。オルランテの鼻先にもひとつさしだしてみたが、ブシシ、と鼻を鳴らして顔をそむけただけだ。
「キーナを預けたら、お前にも水だね、オルランテ」
 レアノは葡萄を持った手でオルランテの首筋を優しく撫でる。オルランテは丸い大きな目でレアノを見上げた。ミサのときに見た壁画のようだとタッソは思う。
 昼下がりの林は三人と一頭の他に歩く人もない。やがて丘をくだりきって麓の町ツクワンナヘ着いた。街道脇には農家と牧場がある。町並が続くようになり、食べ物を作って売っている店や、服や靴を売っているこぎれいな通りに入った。物珍しそうに目を丸くしているキーナをタッソとレアノが交互に抱いて、にぎやかな通りを過ぎた。この先は白い石壁の続く職人の通りだ。
 鍛冶屋、農具屋、荷車屋、糸屋。そして織物屋。糸をよって織り機で布にして、あちこちの市場や裕福な家に納めているのがフィリおじさんだ。親戚筋ではお金持ちで知られている。キーナはここへ預けることにしてあった。
 機織りの機械がいくつも並んだ工場の隅でおじさんは長いパイプで煙草を吸っていた。タッソの顔を見ると、困ったような表情になる。
「じつは女房が反対しててね」
 キーナを引き取りたくないと言うのだ。この子を連れていたら働けないから、とタッソは頼んだ。そうは言うけどうちにも事情があってねとおじさんはさらに渋る。そのうちフィリおじさんの奥さんが顔を出した。
「タッソ。あんたの姉さんて病気持ちで病院に行ったんだろ? キーナにうつってやしないだろうね? うちにも子どもがいるんだ、病気持ちの子なんかあたしはごめんだよ」
 怖い顔でタッソを睨む。
「キーナにはうつってないです」
「本当だろうね? 嘘言ったら承知しないよ」
「姉さんのお腹に赤ちゃんがいると病院からきた手紙に書いてありました。姉さんは赤ちゃんは欲しくない。だから病院に入って赤ちゃんを神様にお返しすると決めたんです」
 なんてことだろう、たいした顛末だね、とフィリおじさんの奥さんは眉を寄せた。
「ま、しかたないね。伝染病じゃないならいいよ。フィリの奥さんはケチだなんて人に言われちゃかなわないしね。チビさんを置いていきな」
 気の弱いフィリおじさんはため息をついて、
「タッソ。来年の春、山に戻るときにはキーナを迎えに来るんだろうね?」
 念を押してくる。はい、必ず、と答えてタッソは織物工場を出た。キーナは不思議そうな顔をしてレアノとタッソを見送っている。職人通りのはずれまで来て振り返ると、キーナはフィリおじさんと手をつなぎ、まだタッソたちを見ていた。
「タッソ、行こう」
 レアノはタッソの肩をそっと押す。石壁の途切れたところに待たせてあったオルランテの手綱を引き、ふたりは職人通りを出た。
 市場のすみの泉で水をくんでオルランテに飲ませ、毛を杭って綺麗にしてやり、顔を両手で抱いて別れを惜しんだあとで、タッソとレアノは競り市の開かれている市場へ向かった。
 町の広場では若い男女が楽しそうに踊っている。放牧を終えて山から降りてきたとおぼしき男が、町育ちの綺麗なお姉さんをしきりに口説いていた。
 タッソには奇妙な茶番のように思えたが、レアノは楽しそうにそれを見て、
「ここで知り合って、クリスマスまで仲良くすると夏至には夫婦になれるんだってさ」
 笑いながらオルランテの首筋をとんとんと指で叩く。
「オルランテ、いい子はいるかい?」
 生真面目なロバは頭を下げ、ブシシ、と鳴いた。競りの開かれる広場はもう目の前だった。
 家畜の競りの番号札をもらって人々の列に並ぶ。これでお別れだと思うとタッソの胸はしくしくと痛んだ。ほどなくしてオルランテの順番になり、競りの声がかかる。三回競ったあとで、オルランテの買い取り主は簡単に決まってしまった。どうやら旅の芸人らしき男二人組で、ギターを二つも持っていた。
「あの、荷物運びさせるんだよね? オルランテを食べたり……は、しないよね?」
 タッソがおそるおそる聞くと、二人組は大笑いし、
「ツクワノの山の神に誓ってロバは食わねえよ」
 旅の仲間だから大事にすると約束してくれた。タッソとレアノが荷物をほどくとオルランテは異変に気づいたようだった。足を踏ん張って動こうとしないのだ。
 それでも葦の葉を拠った新しい荷かごがくくりつけられると、これが新しい仕事かと諦めたらしく、おとなしく引かれていく。尻尾が右に左に動いて、やがて見慣れたお尻は角を曲がって見えなくなった。
 あとは尾根ひとつ越えてティティ湖のある隣の町まで歩いて三時間、レアノを送っていくだけだ。タッソは荷物を背負い、レアノの手を握って歩き始めた。
 ツクワノの麓ツクワンナの町から『鷲の羽根』と飛ばれる峠を越えて隣町まで行き、戻ってくると夜になる。
「今夜はどこで寝るの?」
 レアノに聞かれてタッソは考え込んだ。
「ツクワンナの……祭りをやってる広場あたりかな」
 まだ凍えるほどではないし、今夜は野宿だ。
「タッソが帰るとき、一人で怖くない?」
「夕方のバスがあれば乗るよ。オルランテを売ったお金があるから」
 坂道をあがっていくと尾根の向こうにツクワノの山が見えた。今日は雲がなく、峰までくっきり見える。真っ青な空に鋭い山頂、その雪の白さが目に痛いほどだ。
「レアノ」
「何?」
 レアノは本当はどこのどういう家に生まれたんだろうね」
「さあ。母さんは麓でぼくを拾ったって言ってたけれど」
「赤ん坊のときの服、残ってないのかな」
「下の三人が順番に使ったからボロボロ。ツクワンナの家に置いてあった。だけどもう捨てられちゃったね、きっと」
「くやしいなあ……」
「いいんだ。タッソ。べつに服なんかいらない。ぼくはツクワノの山の子どもだから」
 タッソはレアノの手をぎゅっと握った。
「ぼくかレアノ、どっちかが女の子だったら結婚してツクワンナに家を買って、いつかまたみんなと暮らせるのにね」
 するとレアノは怪訝そうな顔になった。
「結婚してなくたっていいじゃないか。ぼくとタッソ、子どもが三人。ちゃんとした家族だもの。そして来年はまた山に行こう」
 ふいにタッソは泣きたくなった。自分がまだ十四で、家族を支えるだけの収入を得られないというのはレアノも知っているのだ。だけどレアノは希望を捨てていない。その明るさが悲しかった。
 峠近くにさしかかると風は冷たく、見通しが急に悪くなって霧が出始めた。
「タッソ。今夜はぼくと一緒に教会に泊まらない? 牧師様はだめだとは言わないよ」
 レアノは心配してタッソの手を握りしめる。
「峠に霧が出る日は夜、雨になるって言うよ」
「大丈夫だよ」
「でも陽が落ちたあとの夜の山道はきっと寒いよ」
 今でも十分寒かった。小さい弟や妹を連れていたら風邪を心配しなければならないほどだ。精一杯の早足で尾根を越え、下り坂にさしかかると霧は少しずつ晴れて雲が遠のき、やがて視界が開けた。町並みがティティの湖岸に沿って広がっている。夕方の赤みがかかった暖かい光が町を包んでいた。教会の塔はひときわ目立っていて、緑の木々のあいだで赤い屋根が鮮やかだ。
 後ろから車の音が聞こえてきた。泥だらけ傷だらけのおんぼろバスだ。ボスボスと音をたて、真っ黒い煙を吐いて二人を追い越し、山道をくだっていく。
「タッソ、帰りには本当にバスに乗るんだよ。きっとだよ」
 レアノが念を押し、タッソは頷いた。
「もうすぐだよ。急ごう、レアノ」
 レアノの手を握り直し、タッソは歩みを早めた。


 牧師はタッソとレアノの姿を見ると笑顔になった。
「天使が二人きました。今日は素晴らしい日です」
 そう言ってレアノを抱きしめ、タッソを抱きしめた。半年山にいて、今日降りてきたばかりの二人だ。着ているものもみすぼらしい、埃まみれで顔も真っ黒。自分たちのどこが天使なのだろうとタッソは思う。だけど他でもない牧師様が天使と言うのだから、やはり山の子どもは神の愛し児なのだろうか。でも牧師様の神様は十字架の上にいて、タッソの神様は山に棲んでいるのだから。やっぱりちょっと違うのかな、とも考える。
「お茶と、クッキーをいかがかな? さっき信者のかたからいただいたのですよ」
 クッキー。去年山を降りた日に食べたきりだ。タッソもレアノもほとんど同時にお腹が鳴った。さあおいでなさいと二人の背中に牧師が手を添えたが、タッソは首を振った。
「今日中に峠を越えてツクワンナにもどりますから」
 レアノが気落ちしたように目を閉じた。タッソが泊まると言い出すことを今まで期待していたのだ。だがここで足を止めると帰るのがつらくなる。
「あの、つまり、今日は放牧の人々が一斉に下山したので、ツクワンナでは祭りがあるのです。笛を吹いておあしをもらって、一日も早く家族を呼び戻したいので」
 すると牧師はタッソの手を取って自分の左手に乗せ、
「神の祝福がありますように」
 さらにレアノの手を重ねて右手で包んだ。
 暖かい牧師の手と対照的なレアノの冷たい指。手のひらを重ねて温めてやりたい。でももうお別れだ。長居はできないし、してはいけない。ゆっくりと手を引っ込め、それじゃ帰りますとタッソは背中を向けた。
「気をつけるんですよ」
 牧師が優しく声をかける。タッソは振り返って頷いた。
「タッソ。春になったら、また会えるんだよね?」
 レアノの声も聞こえた。タッソはもう一度振り向いた。それからレアノの視線を振り切って駆け出した。教会を出て一目散に山へ向かう。
 これで半年、レアノには会えない。いや、もしかするともっと長く、一年か二年、タッソが本当に一人で家族を食べさせていけるようになるのはずっとあとだ。そしてやはり幼い子ども達、タッソを父親のように思っている末のキーナから順番に引き取って行かなければならないのだから、どうしてもレアノは最後になる。
 レアノはおそらく教会から学校へ行くようになるだろう。気だてのいい子だから別の家庭に引き取られるかもしれない。そうしたらあの厳しい山の暮らしに戻りたいとは思わなくなる。
 レアノ、レアノ、と心で呼んだ。歯をくいしばって呼んだ。
 何故、離ればなれにならなくちゃいけないんだ。大好きなのに、こんなに好きなのに。走っても走ってもレアノの面影が、その絹糸みたいに細い柔らかい髪の色が、そして遠くを見ているような灰色の瞳が、タッソの心を追いかけてくる。
 大通りを駆け続け、そのままバス乗り場を過ぎた。オルランテを売った金は、さっきレアノの背負っていた袋に押し込んだから、タッソは一文無しだ。ツクワノの麓の町に戻ったとき、金があったら自分はきっとオルランテを探し回り、買い戻してしまうに違いない。レアノのいない町、そしてたったひとりの自分。手元に戻せるのはオルランテだけだ。でも家族全員をあちこちに預けておいて、自分の慰みのためだけにロバを残すなんてことを、ツクワノの神はきっとお許しにならない。
 だから自分は走っていって峠を越え、なんとしてでもツクワンナに戻って、今夜から働かなくちゃいけない。何も考えずにいられるくらい、めちゃくちゃに働く。そうすればこの胸の痛みも少しはましになるはずだ。
 坂道を駆け上がり、さっきレアノと並んで教会の塔を見たところまでいっきに登っていった。日が落ちた町、見えるのは灯りだけだ。どこが教会なのか、タッソにはもうわからない。
 しばらく佇んで休んでいたら、雨粒が顔にあたった。冷たい雨だった。低い尾根でも夜は見晴らしが悪い。怖くはないが、雨の峠は危険でもある。歩き出して三分もしないうちに霧がたちこめ、雨は小粒な雹まじりの驟雨になった。
 服から出ているところにあたる雨は肌を切るほどに冷たい。首筋から入り込む雨、足に染み込んでくる泥水、次第に重くなる麻袋。あたりは暗くて、走ることはできなかった。雹混じりの雨に打たれて歩き続け、峠にさしかかったとき、ボスボスという大きな音が聞こえ、白い灯りが後ろから近づいてきた。峠を越えてツクワノの町へ行くバスだ。バスはタッソを追い抜いて少し走り、やがて停まった。
 どうしたんだろう、故障かしらといぶかしく近づいたタッソの頭上から、
「おい子ども」
 太い声が降ってきた。
「乗りな。この先のツクワンナヘ行くんだろ」
 運転手が窓を開けて窓枠に肘を乗せ、タッソを見下ろしていた。
 文無しなんだ、とタッソは答えた。運転手の太い眉が上がり、
「放牧終わって山降りたとこじゃないのか」
 怪訝そうに訊いてくる。
「山を下りたあとで全部すっちゃったんだ」
 ガハハハと笑い声が闇に響いた。
「その年で悪い遊びでもしたのかよ。ああ?」
 タッソは答えず、歩き始めた。バスもブルンブルンと震えた音を出して、まるで一緒に笑ってるみたいだ。
「おい子ども。オレはここでお前みたいなボロっちい子どもひとり乗せたところでなんの儲けにもなんねえんだよ」
 運転手は言わずもがなのことを言う。
「けどな。それは子どもひとり乗せたとしても損にもならねえ、ってことだ。ほれ乗りな。この先、雹ばっかりになるぜ」
 変な理屈だ。タッソは吹き出した。
 バスの乗客も皆タッソのほうを見て、『ボロっちい』子どもと口の悪い運転手のやりとりを聞いている様子だ。
「わかった。乗るよ。ありがとう」
 タッソは引き返し、バスに乗った。じつは今までに三回くらいしかバスに乗ったことがない。バスの中は電気がうっすらついていて、なんとなく不気味だ。星と月と、たき火とろうそくの灯りの他に光を知らないタッソには、バスの灯りはどこか気味が悪い。タッソを拾ったバスは峠をめざしてガッコンガッコン揺れながら走り出した。
 濡れた服で椅子に座っていいものかどうか、タッソは迷った。そこで後ろのほうまで歩いていって通路に座り込んだ。椅子の支柱にもたれて足を投げ出し、ため息をついて顔の雫を袖で拭く。顔を上げると同時にタッソの目の前に茶色い包みが差し出された。皺だらけの老婆がタッソをのぞき込み、
「じつは荷物が重くてねえ。持っていってくれないかい」
 その目が優しく笑っている。受け取ってみるとわずかに暖かい。
「お婆さん、これは何?」
「息子の嫁が作ったのさ。ありがたいんだけれど、年寄りにはちょっと硬くて歯がたたないんでねえ。あんた、助けると思って持っていっておくれ」
 油紙をめくって中をのぞき込み、タッソは驚いた。詰め物をして焼いたらしい鳥料理、まるごとだ。
「だめだよお婆さん、こんなにたくさん、もらえないよ」
 理由もなく他人様から施しを受けてはいけないというのは母の教えだ。
「そりゃもちろん、ただではあげないよ。ツクワノの放牧民は唄や笛や、踊りがうまいんだろ? 何か聴かせておくれ。なにしろこの山道でねえ。暗くて外は見えないし。退屈なんだよ」
 バスの中の人々がみな振り返って、期待に満ちた表情で自分を見ていることにタッソは気がついた。
 最初の仕事なんだ、とタッソは思った。そこで麻袋から笛を取りだした。
 父の形見よりは音が落ちるが、自分が作った笛である。呼吸を整えて、「峠の鳥」という得意の唄を一曲吹いたところ、拍手があがった。前の座席からクッキーが一箱、人々の手を渡ってきてタッソの麻袋の前に置かれた。タッソにしてみればたいへんな報酬である。そこでさらに一曲吹いた。すると今度は手の込んだ織物の飾り紐が一本、前のほうの座席から送られてきた。祭りや祝い事に使うような、長くてとてもきれいな紐だ。普通のときならこんな高価なものは受け取れないと返すところだが、今日は素直に受け取ることにした。
 乗客に礼を言って笛を降ろしたとき、突然、運転手が朗々と、外国の謡曲を歌い出した。タッソの全然知らない唄だ。晴れ晴れと気持ちのいい唄で、外国の言葉だから意味もわからないが、座席からは口笛や喝采があがっている。運転手は調子よく歌っていたが、唄は途中から、『アモーレ、アモーレ』だけの歌詞になった。どうやら聴き覚えた唄の途中まで歌詞を知っていて、そのあとはうろ覚えだから一つの言葉だけを繰り返して旋律を歌ってるようだった。
 車内はやんやの喝采だ。頭の上に手を挙げて手拍子を打っている男がいる。椅子の手すりを叩いて拍子を追いかけている女のひともいる。曲はそう難しいことはない。タッソも唇に笛をあて、運転手の歌声に合わせて笛を吹いた。
 バスは峠を過ぎ、ツクワノの町並の灯りが眼下にちらちらと揺れている。明りと唄と、笛と手拍子を乗せたバスは町を目指して山道を下って行った。


 バスを降りたタッソは町外れの広場に向かった。
 山にいればこの時間は家族全員で眠っている。だが町は起きていた。人々は酒に浮かれたようすで、踊ったり騒いだりしている。若い男女は恋の成就をかけてさざめいていたし、年かさの二人連れは広場脇の石造りの椅子に腰掛けて寄り添っていた。広場の中央の祭り火は人々の顔を淡く柔らかく照らしている。
 タッソはまず露天商の天幕へ行った。売れ残った品物をたたんでいる服売りの露店で、すこしキズのある服上下を値切りに値切って、クッキー一箱と交換した。本当はバスの中で貰った組み紐を代金代わりにしたかったのだが、露天商が、
「この紐はものが良すぎて売り物にならん」
 受け取らなかったのだった。
 放牧民相手に向こう一か月ぶんの稼ぎをあげた露天商は、気前が良かった。これじゃ儲けにならないよと文句を垂れながらも、タッソに厚手のフカフカの上着と、裾がすり切れているがしっかりした作りのズボンを手渡してくれた。なんと別れ際には、おまけだと言ってつばのある帽子までつけてくれた。
「お客さん、愛しいひとに会うために『鷲の羽根』を越えてきたね?」
 露天商はタッソを見て笑う。
「どうしてわかるの?」
「だって服が濡れているじゃないか。峠の雨にやられたんだろ? だけれどもこの若い色男は落ち込んじゃいない、たいそう元気だ。それはつまりだな、彼女は色好い返事をよこしたってことさ。違うかい」
「露天商やめて占い師になったら?」
 アハハと露天商は大笑いした。
「お客さん、クリスマスまでにプロポーズしな。そうすりや夏至にはお祝いだ」
「この服を着て、帽子を被って申し込みに行くよ」
 露天商の冗談にのって、タッソも笑った。
 露店から少し離れた暗がりで濡れた服を脱ぎ、買ったばかりの上着を着る。木と木のあいだに紐を渡し、濡れた服を引っかけてタッソは広場にもどった。
 足下に缶を置き、笛を吹く。十分ほど吹いたとき、銅貨が一枚、缶に投げ込まれた。さらに十分過ぎて、今度は銀貨が入った。投げ入れたのはいい身なりの裕福そうな女のひとだ。銅貨と銀貨を手にタッソは木陰に戻り、さっきバスでお婆さんからもらった鳥料理を少し食べた。空気が乾いているので干しておいた服も生乾きになっている。
 今夜の野宿場所は広場の奥の石造りの祭壇脇、木々が茂っている林と決めた。タッソの他にもここで野宿する人々がいて、粗末なテントがちらほらと立っていた。今日、山から降りてきて市場で家畜を売り、宿賃を惜しんで野宿し、明日自分の家にもどる放牧民がほとんどだ。売られずにいた家畜も固まってそばにいて、時々鳴き声をたてていた。
 動物がいるので気持ちが落ち着く。ここで寝ようと決めてタッソは麻袋から敷布を出した。湿っているが使えないというほどでもない。広げて横たわると山の草地の匂いがした。それからありったけの衣類と布類を身体にかけ、目を閉じた。
 ロッシは今頃ジノおじさんの家族と一緒にベッドで眠っているだろうか。マリナは笛を枕元に置いて、キーナは職人通りの石造りの家で、そしてレアノは教会の小部屋で。
 今朝目覚めたとき、何があっても泣かないと誓った自分を思い出す。大丈夫だった。何度も泣きたくなったけれど、最後はとてもいいことが続いたし、元気になれた。ツクワノの山の神様が力を貸してくれたのかもしれない。タッソは神様に感謝した。
 来年の春、弟妹を呼び戻し、山羊を追いながら山へ登る自分を思い描く。峰の頂の雪が明日にはもっと広がっているように、自分も大きくなる。
 正直なところ、レアノと別れたとき、タッソは『もうだめだ』と思った。
 だが今は違う。頑張って働いて、来年は全員一緒にツクワノの山に登る。銀貨一枚を大事にすれば山羊三頭が買える。冬のあいだ頑張って働けば山羊の数は増える。十頭を越えたところでまずキーナを呼び戻し、十五頭を越えたらマリナを呼び、二十頭でロッシ、二十五頭でレアノだ。
 レアノ。遠い町で眠っているレアノ。
 ツクワノの山の神様、教会の神様、どうか迎えに行くまで山へ戻りたいと思うレアノのままにしておいてください。
 首から提げたツク神のお守り袋を握りしめ、タッソはうつらうつらとしながら神に祈った。山道で、峰の雪を指さしたレアノの横顔が心に浮かぶ。意識の水底にたゆたう金髪を思い描きながら眠ろうとした、そのとき、
「タッソ」
 誰かの呼ぶ声でタッソは目をあけた。目の前に膝が見える。
「タッソ?」
 もう一度名前を呼ばれてタッソは跳ね起きた。
 髪から雫をしたたらせ、服もずっしり水を含んで重そうに、そこに居たのはレアノだった。
「レアノ……! どうしてここに」
「峠を越えてきた」
「えっ」
「噂には聞いていたけれどすごい雨だった。タッソも濡れただろう?」
 あまりにびっくりしたのでタッソは何も言えなくなってしまった。雹まじりの峠を走っているレアノの姿が目に浮かび、それはあまりに痛々しくて、タッソの胸も痛い。
 レアノは背中の麻袋を地面に降ろし、皮袋を取り出した。
「これを、見つけたんだ、タッソ」
 タッソの手をとって革袋を乗せる。オルランテを売ったお金が入っている革袋だ。
「それで、牧師様にお願いして出してもらった。タッソ」
「何」
「タッソは、ぼくとロッシとマリナとキーナとオルランテのことを、一生懸命考えた」
「そうだよ」
「だけど、タッソのことは考えなかった。全然、考えなかった。だから誰かがタッソのことを考えなくちゃいけない。それでぼくは、ぼくがタッソのことを考えよう、そう思った」
 レアノの優しい灰色の瞳はタッソを見つめて微笑んでいる。
「ねえタッソ、ぼくも働くよ。どこかの家の山羊の世話でもいいし、職人の家の下働きでもいい。タッソにできることならぼくにもできる。そして来年の春になったら山羊二十五頭、タッソとぼくと、ロッシとマリナ、キーナ、みんな一緒に山へ行こう」
 神様、誓いを破ります、ごめんなさい、とタッソはまず謝った。頷いたのと同時に涙が頬を伝って膝に落ちた。レアノの白い指がタッソの頬をそっと撫でる。 
 神様はここにいる、とタッソは思った。
 山から降り、二人のすぐそばにいて二人の話を聞き、二人の様子を見て静かに頷いているような気がした。
 ありがとうございます。レアノを大事にします、とタッソは神に感謝した。
 レアノはびしょ濡れの服を脱いだ。タッソも自分が着ていた服を脱いだ。乾いた服は分け合い、濡れた服は木々に紐を渡してぶら下げた。それからさっき、バスの中でお婆さんに貰った鳥肉の料理を広げた。レアノは目を丸くした。
「同じもの、ぼくも貰った」
 レアノも麻袋から、タッソが貰ったのとそっくりな包みを出す。
「峠近くで前が見えなくて歩いていたら、後ろからバスがきてね」
 レアノは身振り手振りで説明する。
「声の大きな運転手さんが、こう言ったんだ。『おい子ども。オレはこんなところで子どもひとり乗せたところでなんの儲けにもならない』」
 なぁんだ、とタッソは吹き出した。
「そのあと『だけど乗せたって損にもならない』って?」
「そうそう。なんで知ってるの?」
「ぼくも同じこと言われてバスに乗ったんだ」
「本当?」
 それから二人はお互いがバスに乗ったいきさつを話した。
 バスに乗って、椅子が濡れるといけないから、後ろのほうまで行った。そうしたらすぐ前に座っていたお婆さんが鳥料理を差し出して、何か音楽をやっておくれと言った。タッソは笛を吹き、レアノはレインスティックを振り鳴らして歌を歌った。箱入りのクッキーをもらい、飾り紐がそれに続いた。そして運転手が外国の歌を歌い出した。
「最後のほう、アモーレ、アモーレって、それだけじゃなかった?」
「そうだよ。おもしろい運転手だったね」
 二人一緒に笑って鳥料理を食べた。ふたつの料理がまったく同じ味だと二人は気づいた。
「え、ちょっと待ってレアノ。まさか同じお婆さんってことは……ないよね?」
「タッソ、飾り紐、見せて」
 レアノが最後に貰ったという飾り紐は、色から模様から、長さ、編み目の端の房の数までタッソが貰ったものとそっくり同じだ。
「これ、変だよ」
 タッソの手元をのぞき込んで、レアノも頷く。
「運転手とバスは同じでも、わかる。だけど乗ってる人も同じ、話したことも同じ、しかもお婆さんのくれた料理は同じ味で、飾り紐がお揃いって……こんなことってあるかな」
「そう言えばタッソ」
 レアノは何かを思い出すような顔になり、
「ぼくが教会を出るとき、牧師様がこうおっしゃったんだ……」
——この時間にはバスはもう走っていませんよ、レアノ。峠はきっと雨でしょう。気をつけて行くのですよ——。
 そしてレアノに、雨水が身体まで染み通らないようにと、ビニールという材料でできた、透き通ってつるつるした上着を一個くれた。でもレアノは上着を使わなかった。タッソもこうして雨に打たれて峠を越えたはずだと思ったからだ。たたむと信じられないほど小さくなるそのつるつるした上着は、バスを降りるときお婆さんにあげてしまった。だからもう手元にはないけれど、と、レアノは言う。
 二人は同時に少し考え込み、
「ねえタッソ?」
「うん、レアノ」
 互いの目を見つめ合って同時に頷いた。
 あのバスは峠を越える子どもを乗せようと、神様が走らせてくださったバスなのではないだろうか。ツクワノの山の神様か、牧師様のところの神様かはわからない。けれども、とにかく神様は夕方、峠を越えて一人で帰ろうとしていたタッソをバスに乗せ、夜にはタッソを追いかけるレアノを乗せた。乗っていたお婆さんも、『アモーレ』と歌った運転手も、ことによると神様の御遣い、つまり教会の牧師様がおっしゃるところの『天使様』だったのじゃないだろうか。
「……守ってくださったんだ。ねえ、タッソ」
 二人は一緒にツクワノの山の方角を見上げた。月の光に照らされてわずかに頂の雪のあるあたり、稜線だけが見える。
「もしもあの人たちが天使様だったのなら、あのつるつるした上着、もらっても困るだろうね」
 レアノが言い、タッソは一瞬、つるつるの上着を広げて困り顔になっているお婆さん天使を想像して吹き出した。人間が着る上着には羽根を出す穴はないのだ。
 それからふと思いついて首を横に振った。
「ううん、レアノ。それはね。きっとこうだよ。またいつか誰かがバスに乗る。そしてそのつるつるした上着を貰うんだ。ぼくらが鳥料理やクッキーや組み紐を貰ったように。神様はそのつるつるの……ビニールの上着っていうものを貰って喜ぶ子どもを、探してくださるんだよ」
「そうだね」
 ふたりは寄り添って山に向かい、今日起きたあれこれを思い出して感謝した。それから並んで横になり、ありったけの布類を身体にかけた。
「明日、広場の芸人を探して、オルランテを買い戻そうよ、タッソ」
 二人いればオルランテの世話もできる。辛抱強くて気だてのいいロバは大事な家族だ。明日もツクワノの山から放牧民は降りてくる。芸人もきっと広場にとどまって一仕事するだろう。探し出して買い戻そう、と二人は話し合った。
「寒くない? レアノ」
「大丈夫だよ」
 レアノはタッソにぎゅっと抱きついて笑う。二人の子どもはここがどこよりも暖かい場所だと知っていた。


 ツクワノの山の上、月がゆっくりと夜空を渡ってゆく。
 山の頂の冠雪は月に照らされ、ツクワンナの町を静かに見下ろしていた。



            峠のバス Fin


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?