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笑うお見合い

*歴史物だと思って読んでください。

昭和のころのお話。

母と父は私を見合いで結婚させようと考えていたらしい。

条件はたったひとつ、『資産家であること』。
彼らのお金に対する情熱はなかなかのものだった。

親の意向をうけてわたしは二回、お見合いしましたが。

どちらも、不成立でした。今思うとけっこう面白かったので、書いてみますね。

で、さわりといっちゃなんですが。

 中3の冬、父がわたしを高校へ行かせないと言い出した。理由が『中学出たら即働け』。

もうちょっと詳しく書くと、

『高校へ行かせたら三年のあいだ金がかかるし、その間は金が入らない』
『第一、女が学を身につけると男をバカにするようになるから、結婚できない』
『結婚できないとおまえみたいなブス女は焦るから、言い寄ってきたろくでなしにころっと瞞されて水商売にさせられ、身体を売るはめになる』
『しまいにゃ薬物かなんかを打たれて人生を棒に振って死ぬ』
『そうなったらこっちは大迷惑だ』
……という理由である。しゅごいでしょ。笑
(一部、不適切な表現がありますが、あの時代はこういう言葉を娘に言ってのける父親がいた、ということですので、あしからず)

中学の先生が何度か家へ来て「進学させてやってください」と、両親を説得してくれまして、めでたく高校へ行けました。
三年後、大学へ行きたいとわたしが言ったときはさらに大騒ぎとなり、父は激怒してダイニングの椅子で私を殴ってきてなかなかにハードボイルドな家庭環境だった…。まあ、それも今は昔的な話ではあります。

とまあ、こんな家庭だが、父と母は熱愛の末の駆け落ち婚。両家の親族ほぼ全員の反対を押し切って、母の実家から徒歩二十分(近すぎるだろ)の地へ駆け落ちした。
父は真剣だったらしい。なんせ求婚の台詞が泣かせます。戦後の物資難の時代、結核を患って寝付いていた母に、
「俺が絶対にお前を治して、幸せにしてやる。だから何もかも捨てて俺についてこい」
そう言ったそうで(母から聞いた)。その後、父は懸命に働いて母を看病し、なんとかいう高額な注射を一年くらい自宅で母にうち続けて、母は快癒した。それをもって両実家からの勘当も解けたと。

結婚当初はお金で苦労したらしくて、母は身体が治るとすぐに、和裁の内職をして懸命に働いたそうな。でも体調不良は数年続き、何度目かの流産のあとでドクターストップがかかり、その後養子を迎えることにしたと。その養子が、わたしです。

で、父は養子縁組なんていやだった。これは父と母、両方から聞いた。恋女房と一生ふたりでいい、子どもなんて邪魔だ。と父は思ってたらしい。
母は『子どもをしっかり育てて、自分が一人前の女として幸せであると世間様に見てもらいたい』から子どもを引き取った。と、これも母の弁です。

養子縁組成立時、わたしは五歳。ちょっとばかり早生知恵な子だった。
母と初対面のときに、『おばさん、よろしくお願いします』と言ったそうで(自分は覚えていない)、母は母で『なんてませたこと言う子だろう、可愛くない』と思ったとか。

わたしの幼少時の悪戯っぷりは書き始めるときりがない。母は本当に苦労した。もちろん、悪戯発覚して父母両方から叱責と折檻、体罰と食事抜き、罵倒監禁緊縛フルセットでほぼ虐待だろうっていう事案は頻発した。それでもスーパーワルガキだったので、そんなもん知ったこっちゃないってくらいにはわたしはタフな子どもでした。

加えて、わたしは子どもの頃、ミラクル強運の持ち主だった。近隣のお母さん方からご飯もらったり可愛がってもらったり。親からもらえないあれこれを、よそのお母さんたち、優しい女性達からわけてもらえることがある。それはわたしの人生観に少なからず関与したなあと、今も思う。

それはともかくとして、わたしの家では家庭内暴力は普通のことだったし、父は自分が子どもに暴力を振るっていることについて『親の義務、全部躾、子どものためにしている』と自信を持っていた。ただし、女房を殴ったり蹴ったりしていることは外聞が悪いと、そこだけはわきまえてたらしい。なので、外へ行くとおだやかで優しい、おとなしい旦那さん。という役をきっちり演じていたふしがある。

かくして十数年。悪戯娘も成長し、高卒後、会社勤めを始めました。一年後には通信制大学に申し込み、就学開始。それを知って父も母も激怒した。例によって『女が学を身につけると…』という理由で、たとえ通信でも、大学での勉強には絶対反対である。
このときは母方の親戚が全員わたしの味方についてくれたので、父からの暴力はなかった。なんだかんだいって、父は母の実家の圧力を怖れていた。なぜかというと、母の母(わたしからみると祖母)が賢く強く、父にはとうていあらがえないほどの威厳を持ったひとだったからだ。
そののちも親の態度は冷たかったが、それは勉強とは関係ない。通信大学だから、自宅で勉強できるというのが、わたしには有り難かった。働きながら、定時後は皿洗いのバイトをし、帰宅して勉強する暮らしが始まった。
ところが数か月後、夏のスクーリング開始三日めに、母が倒れた。持病があったし、身体は弱かったので、母の病気はしかたがないことでもあります。けれどもスクーリングに行けるのは会社の夏の休暇と自分の有給を足して一季に七日が限界で、頑張れば四年で単位が取れるけれど、三日落としたらもう卒業できないというぎりぎりのスケジュールだった。
一年頑張ったけれど、二年目の夏、またしても母が体調を崩し、スクーリングに一日も行けない状況となった。結局、退学届を出して大学は諦めました。

その半年後。都心に本社を持つデザイン会社のキャラクターデザイン部門の社員募集の広告を見て応募してみた。一次審査選考通過。二次に文章と画を提出して通過。そして最終選考面接の前日。デザイン会社から送られてきてた封書を父に見つかってしまった。このときは防げなくて殴られて、あまりにひどいご面相で、結果、面接にいかれなくなった。ので、これも諦めた。

その後、棒術を独学で始め、部屋にいつでも棒を置いておくことにした。棒でオヤジを殴ろうとまでは思わなかったけれど、棒を備えてるというだけでも、抑止効果はあると予想したわけで、事実、効果はあった。
それと、『今度、出て行けと親から言われたら何もかも捨てて出て行こう』と決心したけれど、なんででしょうかね、こっちがそう決心すると、むこうは言ってこなくなるのよね。

さて、そんなこんなの数年間を経て、可愛げも聞き分けもない凶暴な娘も、二十二歳になりました。
そこへお見合いの話が来た。父方親戚筋からです。
相手は公務員。両親とは死別。広大な土地持ち。四十歳をいくつか超えている。
この話に母が飛びついた。広大な土地、が気に入ったらしい。土地を売ればいくらいくらになる、最低でも三千万はいくよと、見合い前から乗り気で嬉しそうで鼻息が荒い。
で、わたしは見合いなんかいやだったけれど、母があまりに嬉しそうだったので、むげにもできず、行きましたよ見合いに。

親戚筋のおばさまと土地持ち公務員さんとは駅で待ち合わせ。あちら様が遠くから近づいてきたときの母のひとこと。
「げっ、こりゃーだめだわ」。
人を見た目で差別しちゃいけない。みたいなことを、母はまったく考えていない。母はイケメン大好き。男は背が高いのがいい。金持ってれば最高。というのが母の好みである。(父がクリアしてるのは身長だけ)
見合い相手の土地持ち公務員さんはわたしより身長が10センチくらい低かったのでした。スーツのジャケットの前を止められない体型でした。あああ、こんなこと書いてごめんね。お顔のほうはほぼ覚えていないけれど、えーと、まあ、えーと、うーん……。という容貌でした。でも身体的なことは彼のせいじゃないし、こんなふうに書いちゃいけないんだよ。という自覚はあります。すみません。
ただし、人物全体からにじみ出る印象というか、その、何かしら明暗といいますか、それが隠しようもなく暗方向に大きく振り切れていたように思えたのであり、それは母も感じていたし、わたしも同感だったわけで、ふたりそろってこそこそと、
「ねえどうしよう、逃げちゃおうか」と母。
「そういうわけにいかないよ! お父さんの親戚じゃんか」とわたし。

でもまあ、せっかくお見合いとなったわけだし、話くらいしようよとわたしが母をなだめて喫茶店に行きましたと。
見合いは初めてだったので、わたしも何をどうしていいのか、さっぱりわからない。そもそも、わたしったら結婚に関心がない。ので、仲介してくれたおばさんに助けて貰いたかったけれど、おばさんは天候と農作物の出来具合の話をずっとしていて(農家)、彼の人となりなどの話は皆無。
かくして十数分後に、
「じゃ、あとは若いひとだけで」
と席を立ってしまった。
母も顔を背けて逃げだそうとしたので、慌てて追いかけて、ドアの近くでつかまえ、
「ちょっと〜、二人きりって、やだよかんべんしてよ」
と追いすがったけれど、振り払われてしまい、結局土地持ち公務員さんとわたしが残されてしまうという状況に。やばいぞ。
そしてこの時点で、土地持ち公務員さんはひとこともものをおっしゃってはいなかった。すごい寡黙なひとだった。

喫茶店でさしむかい。お見合いだなってことは店内で一目瞭然。
無言の土地持ち公務員さん。
何をどうすればいいのかさっぱりわからないわたし。
なんなのこれ。どういう拷問なの。もう、一分も我慢できない。
「そろそろお昼ですし、別の店に行きません?」と、話しかけてみた。
「店、行かないんでわからない」
えーとその。わからないというのは、どういう店があるのかわからないというのか、それとも、行きたいのか行きたくないのか、どう応えていいのかわからないというのか、どっちだ。
でも、そう言ったそばから彼は立ち上がったので、店からは出ようと思ったらしい。
あまり遠くへ行くのもなぁと、徒歩数分のところのビルのビューレストランどうですかとわたしが提案し、彼は頷いた。
移動中、ひたすらな無言。
「ここへ来るとき、お車でしたか? 電車?」とわたしが聞き、
「電車」と土地持ち公務員さん。
「今日、晴れて良かったですね」とわたし。
「暑い」と返事。
あーもー! だめだこりゃ。と思いつつ、レストラン到着。
着席しても会話が続かない。メニューを睨んでものをおっしゃらない。
話しかけても単語しか返ってこない。
いよいよだめだ。万策尽きた。と思いつつ、メニューはかろうじて決まって、パスタが運ばれてきて、食事開始。
双方無言。
これって見合いじゃなくてお通夜だろ。と内心思うわたし。
くっそ−、広大な土地ウン千万だかに目がくらんだ母さんが全部悪い。と、こっそり母を恨んでいると、
「高校のころ、このビルの屋上でたばこ吸ってておまーりに捕まったことがある」
と、土地持ち公務員さんから突然の振り。
「えっ……」
「だからこのビルは嫌いだ」
「はあ……」
「昨日から熱があって具合が悪い。げほっげほっ」
これ、この状況を、わたしひとりで、どうやって解決すればいいんですか神様!
「具合悪いんですか? じゃ帰って休んでください」
「そうする」
と、食事も半分以上残したまま、彼は立ち上がり、ふらふら〜と出て行ってしまった。
なんなんだこれ。
見合いってこういうものなのか。
腑に落ちなかったけれど、もうどうしようもない。
好きなパスタだったのでわたしのほうは完食し、少し休んでから家へ帰った。

家に戻って、先に帰宅していた母を捕まえ、
「さっきのひとと結婚なんていやだ。断って」と言うと、
「断ったら向こうに生意気な女と思われるでしょ、あたしはいやよ、あんた自分でどうにかしなさいよ。次、いつ会うの?」
「えっ、してないよ約束なんか」
「なにさ、どうするのよ、あんたの見合いでしょ」
「見合いしろって言い出したのお母さんじゃんか!」
「あんな顔だってことは知らなかったんだもの!」
「顔の問題じゃないでしょ!?」
「えっ、あんたああいう不細工な男好きなの?」(*表現ごめんなさい)
「違うってば! とにかくおばさんに電話して断って、頼むから」
「あ、ちょっと買い物してくるわ」
逃げられたりして、ホントにもう、どうすりゃいいんだこの顛末。

でも杞憂でした。
次の日、この話を仲介してくれた親戚のおばさんから電話がかかってきた。
「あんまり若くて可愛いお嬢さんだから、なんだか気の毒になっちゃって。この話はなかったことにして」
と説明があったそうな。
あとで父方の別の親戚筋から聞いたところでは、
「あの子は貰いっ子(養子のことです)だし、たぶんそのせいでひねくれてるはずだから、きっと嫁のもらい手がないだろうし、女親もああだから(お金好きだから?)乗ってくるでしょ。小娘だけど○○とちょうどいいんじゃない?」
という理由で、わたしが選ばれたそうである。
で、会ってみたら小娘は明朗闊達、べつにひねくれてもいなかった。これなら無理して見合いしなくても、このさき他の人とご縁があるんじゃないの。じゃ、やめようか、この話。と、仲介したおばさんが思ったそうで、それで話が立ち消えたと。
本当の理由はわからない。でも、まあ、助かりました。
見合いなんて二度とごめんだ。とわたしは思ったんだけれど、母はそうじゃなかった。
で、第二弾、行きます。

この話のあとでわたしは母に、二度と見合いはしないよと宣言したのだが、あにはからんや二度目の話が来た。

お相手は六十歳近い大店のご主人で寡夫さんである。息子さんがいる。
息子さんが私より年上で既婚。息子さんにはお子さんふたり。この息子さんの奥さんが仕事のできるひとで、自分のやりたい仕事につきたい。だから専業主婦をしてくれる女性を探して、再婚してくれと、義父さんに言っているそうな。
義父さんが再婚したら、そのひとに子どもふたりの面倒を見てもらいたい、家事もやってもらいたい、ついでに今まで自分が手伝ってきた家業のほうも、やってほしい。ということらしかった。
困り果てたお父さんが、誰かちょうどいい人はいないかと聞いてきたものらしい。それを母が法事か何かの時に聞きつけてきた。

今回の肝は『大店のご主人』である。
資産はいかほどか、少なくてもこれくらいはもらえるはずと、母の胸算用は前回同様。
父は権威とか看板とかにめっぽう弱い人なので、相手が大店の主人と聞いて、ころっと「いいんじゃねえか。話、通せよ」
だがしかし。この見合いが成立すると、わたしは四十近い年齢差の夫を持ち、子供を産んだことが一度もないのに孫がふたりできて、その育児をし、自分より年上の義息子と義娘を持ち、家事全般こなしたあげく、家業の手伝いもするという、あっぱれな身分になってしまうわけだ。
で、どうしたわけか、わたしはそのころ自分の人生をすっかりぶん投げてしまっていた。だから「いいんじゃない。やってみてだめならわたしが死ねばいいんだし」と、不穏なことを言ってのけ、父は「そういうことなら話を進めてみようじゃねえか。死んでも遺産ぐらいはもらえるだろ?」と、何もかも全然、わかっていない人だった。笑

母も父もこの話に乗り気だったので、あいだに入った親戚の人にすぐさま連絡をしたらしい。ところが、それが母の母、わたしにとって祖母の耳に入った。
この祖母は、とてつもなく強く正しく賢いひとだった。
静かな声で、夫婦揃って会いに来い、と電話がかかってきたらしい。
父は怖がって逃げたが、母は自分の親のことだし逆らえない。頭を低くして出かけていってドレッド級の雷をくらい、泣いて逃げ帰ってきた。
祖母がどのように母を叱りつけたか、あとで母の姉である伯母に尋ねたが、「あんたは知らなくていい」
と、教えてはもらえず、ゆえに詳細はわからない。
伯母が後日、わたしに、
「あんたにはね、あんな親でごめんね。本当にすまない。あんたをあの家に引き取らせたことを、今も悔いてる。とおばあちゃんが言ってたから、それだけ伝えておく」
というわけで、二度目の見合いは祖母の一撃で終結した。私に火の粉はふりかからず、母が叱られてそれで終わってしまった。お祖母ちゃん、ありがとうございました。

三度目の見合い話はない。母が懲りてしまったのだろう、父の部下だとかいう豪農の跡取り息子さんが申し込んできたときも、とりたてて推してはこなかった。なので、わたしもさっぱり断って終わったように記憶してる。
あのころは見合い話のたびに『冗談じゃないぜ』と憤慨したものだが、今となってみればどれも面白いエピソードだった。だからもう一回くらい何かしらで揉めてみてもよかったんじゃないか。と思ったりする。

母も父ももういない。
晩年の母は優しくおだやかになり、施設に逢いに行くと、
「あんたこんな時間にここに来てて大丈夫なの? ご飯のしたくは? 買い物は? あたしのことはいいから早く帰りなさい」
なんて言って、わたしを泣かしたりした。
認知症でアルツハイマーで要介護5で、記憶は十五分くらいしか保たなくなっても。母は母だったのだと思う。

あの変な見合いのとき、ドレッド一喝でもって助けてくれた祖母に、心から感謝してる。本当にありがとう。でもわたしはあの母のもとに引き取られてよかったと思ってる。だから謝らないでくださいお祖母ちゃん。悔いたりしないでください。
というようなことを、先日の墓参りのおりに祖母の墓前で考えたりした。


なんだかしょうもない昭和的見合いの顛末、ここまでです。お粗末様でした。







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