セレスタイン5扉の直し

セレスタイン物語 5


奪還計画 * サンザ鴛鴦亭にて

 サンザ鴛鴦亭(おしどりてい)は王都の領門の外、やや南よりにある。

 領門が閉鎖されたせいで、定員を大きく超える客が鴛鴦亭に押し寄せてきた。各領から王都へ入ろうとした旅人や商人が門外で足止めをくらい、加えて、いっとき都の外へ出ていた都民も入領できなくなっており、彼らが開門を待つあいだの休憩を求めて宿へ入ってきたためだった。
 鴛鴦亭の最大収容客数は百四十八人。現在、それに倍する旅客が在館し、本館別館とも満員である。布団と食事なしで無料開放した玄関広間と食堂は、足の踏み場もない有様だ。 領門の封鎖がいつまで続くのか、門外の者にはわからない。鴛鴦亭の差配が領門まで訊きに行ったが、
『いつまでなのか、我々にもわからん。それより何か食べるものを運んでくるように』
 学生たちの横柄な対応に閉口して引き返してきた。

 それを聞いてヴェンティは首を傾げた。
「学生は領門を封鎖しただけなのか? マージ姫はいったい何を考えてるんだ」
 ヴェンティとゼタが領外へ脱出したことは、姫も当然、知っているはずだ。ふたりが再び王都に潜入することを防ぐために領門を封鎖したと思われるが、それにしても出入領だけ禁じて、その後の策に進展がないのが不思議だった。徹底して捜索するつもりなら、領門外へ捜索隊を出すべきなのである。
「若、さきほど若い者を幾人か、調べにやりましたから、もう少しお待ちください」
 鴛鴦亭の差配は領門以外の極秘の抜け道を使って、都内へ偵察隊を送り込んだようだった。
「極秘の抜け道ってなんだ?」
「王都を囲んでいる城壁にはいくつか抜け穴があるのです。そのうちのひとつは北東側から王都内を通って、南へ流れ出る水路です」
「水路には柵が打ってあるんじゃないの?」
「柵は開けられます。開閉は歯車ですし、操作小屋に兵は常駐していませんから」
 都内の精肉業者に鳩をやり、柵を城壁内側からこっそり開けさせたものらしい。
「とにかく、中の様子がわかりませんと。なにしろ普段の倍近い数のお客様ですから、食料が保ちません」
「おい。食料問題が大事か、この事態で」
「若、私は差配でございます。差配の一番はお客様です。偵察に行った者がじきに南側の水路出口から戻ってきますから、それまでお待ちください」
「その水路ってさ。俺でも行ける?」
「無理ですね。開けたときでも柵の下部は水に浸かったままです。水面下へ一尋以上潜り、柵の下をくぐって、そのあと暗渠を十尋以上、泳げませんと」
「うーん、十尋か……」
 長さはともかくとして、泳げないヴェンティである。
 西館に拉致されてしまったセレスがどうなったのか、そして陛下が今、どうされているのか。さらには、ゼタの父、オルクス領兵監は無事なのか、サンザ商館はどういう状態なのか。気がかりなことばかりだった。
「若、ゼタ様がお戻りですよ」
 差配の後ろからゼタの長身が、人の波をかき分けるようにして近づいてきた。
「おーい、ゼタ、どうだった?」
「だめだ。領門外の警備にあたっている兵らのところへは、鳩は来ていない」
「ってことは、つまりオルクス殿も」
「おそらくは、身動きが取れない状況なのだと思う」
 ゼタが学舎西館の学生を蹴散らしてヴェンティを助けたために、オルクス領兵監は厳しい立場に立たされたに違いなかった。領門の外に配置された領兵のところへ、オルクスから緊急の連絡が来ていないかどうか、ゼタは確認に行ったのだが、空振りだったらしい。
「だが、父のことは心配しなくていいと思う。父を領兵監に任命されたのは陛下だ。マージ姫が何かを画策したとしても、陛下の了承なしにマージ姫が父を処罰したり解任したりは、おそらくできないだろう」
「そうか」
「それよりもヴェンティ。ちょっと気になることがある。これを見てくれ」
 ゼタは小さな紙片を差しだした。
「なんだ、これ」
「都内から飛んで出た鳩の一羽が、これをつけていたんだ」
 ゼタが広げた紙片は濃い深緑、学舎西館からどこかへ飛ばされた鳩に違いない。

『14・計画通り開始せよ』

 とだけ、書かれていた。
「14は今日の日付だよな。計画っていうのはなんだろう? 院司執行のことか?」
「ヴェンティ、院司執行をどこかへ報せるのは不自然だと思わないか。しかも命令する形で」
「たしかに」
 通常、院司執行は規模の大小にかかわらず、遂行後に執行の理由と結果を王に報告する。問題が未解決であれば相当する部署で改善策が話し合われ、実施計画の立案を経て終了するものだ。子どもの保護、慈善院預かりというような小規模な院司執行なら、三人程度で実施する。学舎が関わる執行ともなると、東館では七百人以上、西館でマージ姫が指揮した三百人あまりのものとなり、規模も大きい。だが、いずれにせよ執行後に王宮へ出向いて、王に報告するという形式は同じである。
「この、計画通り開始、っていうのが、執行とは別の何かだとすると」
「マージ姫が計画し、準備してきた何かが、院司執行をきっかけにして動き出すと。そう考えて間違いない」
「となると、やっぱり北峰領か」
「心当たりは?」
「俺の調べたところでは北峰領の小作は年寄りや子どもも含めて六百人だけど、ルーシェ公が用意して運ぶ下賜麦は千人相当量だと陛下がおっしゃっていた。おかしいのは人数だけじゃなくて、北峰領の領主は小作に下賜麦を与えるつもりなんかないと思うんだ」
 ヴェンティが配った麦を追徴と称して小作から取り上げる領主だ。王都から運ばれる麦を、素直に小作に分配するかどうか、疑わしいものがある。
「陛下からその話を聞いたとき、北峰領の領主はその千人ぶんの麦を、そっくり他へ回す腹づもりなんじゃないかなと、ちょっと思ったんだ」
「つまり、千人規模の……」
「私兵という可能性も」
 あるな、と、口には出さず、目で頷きあった。
「だけど、私兵を動かして北峰領の領主が何をするつもりか……そこがわからないんだよな。万が一謀反だとしてもさ。人数が少なすぎる。ゼタ、領兵ってさ、何人くらいいるんだ?」
「王国の領兵は総動員して八千、王都だけなら三千人強だ」
「王都だけでも兵数は北峰領の私兵のほぼ三倍ってことか。バライト親方は暴動するなら一万人って言ってたしなあ……うーん、千人ぽっち。わけがわからん」
 ふたりして考え込んでいるところへ、差配が声をかけてきた。
「若、ゼタ様、偵察隊が戻ってきました! すぐに別館裏手の馬小屋までおいでください!」
 馬小屋では半裸の若者が五人、頭を拭いたり暖かいお茶をもらったりしながら休んでいた。
「ご苦労さん。どうだった?」
 ヴェンティの問いに、若者がひとり前へ出て来て、
「都内は大混乱ですよ」
 吐き捨てるように言う。
「どのへんが混乱してる?」
「どこもかしこも、です。まず、サンザは副統全員から指令が出て、商館、商連の全部が閉鎖中。問屋も運搬も小売りも、全商い停止です」
「そりゃまた、思い切ったことを……」
 ヴェンティの祖父の時代に起きた、学舎と商館の全面対決にも似た状況に陥っていると思われた。
「副統達はどうした。商館内で籠城か」
「カンジ副統が残務のために居残ってましたが、ティント副統他数人は領門封鎖前に出領しています」
「うん。どこへ行った」
「手分けして、半分は潜伏、半分は大旦那様の行き先の、東南三国の国境近くへ異変を報せに行くと言ってたそうです」
 老練の副統らが自由なら親父殿はたぶん無事だろうとヴェンティは楽観した。どのみち心配したところで、何ができるというものでもないのだ。
「じゃ、次は都下だ。市街地はどうなってる?」
「それがですね……」
 よほど不可解なのか、若い者はしかめつらになる。
「准学マージ様のご指示だとかいって、都内の全院司が、院司執行を始めました」
 国王から院司印を授かった院司は都内に十数名、居住している。せんだっての慈善院活動を担った貴族婦人や判事を引退した老人が総動員され、学生に先導されて市場周辺を執行しまくっていると若者は言った。
「連中、何を摘発しようとしてるんだろう」
「わかりません。旅芸人の一座が旧馬場跡に天幕張ってましたけど、座頭のビョルケが十四歳未満の子どもを使役した疑いで、学舎西館の学生に連行されました」
「ビョルケが? 子どもを?」
 あり得ない話である。
「旧馬場跡から市場周辺にかけては執行の大嵐ですよ。十三、四歳前後の子どもが片っ端から捕まっちゃ王宮門前へ引っ張られてます」
「十三、四歳くらいの子ども……」
 親たちが子どもを取り返そうとして、学生と院司を追いかけ、王宮近くへ大勢で押し寄せて、大騒ぎになっているという。
 ハハハ、とヴェンティは笑い、若者は怪訝そうな顔になった。
「セレスが逃げたんだ……こりゃおかしい。西館の連中、大慌てだろうな」
 ヴェンティが何を言っているのか、若者にはわからない。差配と顔を見合わせていた。
「うんうん、わかった。それでそのあと、市場はどうなった?」
「都民がいっせいに自宅へ引っ込んでしまって、商人は店を閉めるし、職人は休業するしで。市場はがら空きです」
「戒厳令並だなあ」
「それと、どういうわけか、職人通りの宝石職人の工房と、そこから近い酒場一軒が、学生の打ち壊しに遭いました」
「工房の親方はどうした?」
「それはわかりません」
 ヴェンティもゼタも顔をしかめた。バライト親方が狙われたのだ。学舎西館のなりふりかまわぬ行動には、かすかな焦りがあるように思われた。
「その他には?」
「学舎東館の学生も動き出したみたいでした。藍色の制服が十人くらいずつ固まって、歩き回ってましたから。でも、東館が何をしようとしているのかまでは探れませんでした。なにせ、町に人が少なくなって、下手にうろうろしてると目立ってしまうもので」
「東館の学生か……」
 ルーシェ公が何を始めたのかは、今の時点ではわからない。
「どう思う? ゼタ」
 ヴェンティが問いかけると、ゼタは難しい顔をして腕組みした。
「ルーシェ公は穏健派だ。マージ姫の院司執行とは関係なく行動されていると考えていいと思う」
「父娘なのにな。どうしてああも違うのか」
 門の外で知りうるのはこれが限界だった。
 領内は不穏な状況にあり、王宮内がどういうことになっているのか、ゼタの父は無事なのかどうか、はっきりとはわからない。
 どうするよ、ゼタ、とヴェンティは腕組みした。


 

 しばしの沈黙ののち、ゼタが先に口をひらいた。
「とにかく、今、もっとも案じられるのは陛下だ。王宮には学生二百人と序学士三十人、マージ姫が今も居座っているはずだ。何をおいても、陛下をお助けせねば」
「水門の柵下泳いで、王都に入るか?」
「いや。領門突破して王宮を奪還する」
「ゼタ、そりゃ無謀ってもんだろ」
「領門の外に配備されている領兵二十四人が従ってくれる。門を封鎖している学生は武器を携帯していない。騎馬兵の入領を阻止することはできないはずだ」
「門はそれでいいよ。でも王宮に入れないだろ。あっちは二百人以上で陛下を取り囲んでるんだぜ」
「都内で領兵を招集する。兵舎の状況がわからないが、招集さえできれば王宮門の強行突破も可能だ」
「陛下の目の前で流血の大惨事か? それは不味いだろうよ、ゼタ」
「陛下はヴェンティが逃げたことをご存じないはずだ。都民鞭の刑の執行中だと案じておられると思う。セレスもまた、おそらくは逃げ出したのだろうが、マージ姫はそのことを陛下にお伝えしないだろう。ヴェンティとセレスを守りたいという陛下のご希望と引き替えに、姫が何を要求されるか」
「退位だ譲位だというようなことになったとしてもだ、ゼタ。いきなりマージ姫が即位するってことはないだろ? 順番から言ってルーシェ公だよ」
 ゼタはいっそう険しい表情になって口を閉ざした。
 無理もないとヴェンティは思う。ゼタにとって陛下は唯一の、なにものにも代えがたい君主だ。ゼタが陛下に捧げる忠誠心には、寸毫ほどの曇りもない。それは陛下がゼタに対して抱いておられる信頼と等しくもある。一身の安全を計って陛下おひとりを窮地に置いておくことはできない。ゼタにとって陛下とはそういう存在なのである。
「落ち着いて考えようぜ、ゼタ。マージ姫はここまでことを大きくしちまった手前、何も手に入れずに引き下がることはできないだろ。だから、陛下の力になりそうな者を、とにかく陥れて、陛下から引き離そうとするはずだ。ゼタが争乱の末に陛下をお救いした場合、そのまま内乱に突入するかもしれない。内乱の責任はゼタにあり、ゼタを引き立てた陛下にある、姫はそう主張する。目も当てられないことになるぜ」
「たしかに」
「陛下と姫のあいだだけなら、執行の報告とせいぜい争論で済む。だけど、陛下にお味方する形で兵が動けば、姫にとっては有利な展開ってことになるんだ。丸腰の学生を領兵が殺傷したってことになれば、それこそ姫の思うつぼだろ?」
「しかし陛下の御身が」
「心配なのはわかる。でもさ、ゼタ、たとえばこのあいだの騒動みたいに、学生が羊毛に火をつけても、商団側が防戦一方で終始して、どっちも軽い怪我で済んだから、問題にはならなかった」
 だがあの騒動で学生が一人でも死亡するようなことになっていたら、サンザは軽くて商権剥奪、悪くすれば商団解体となっただろう。マージ姫にとっては、うるさい虫を二度と王に近づけさせない口実ができ、サンザ追撃の絶好の機会になったはずだ。
「だからさ、これはお前の得意な陣立てと同じなんだと思うよ、ゼタ。退却とみせかけて敵を引きつけておいて、伏兵が腹背から攻撃するっていう戦法があるだろ」
「ヴェンティ、では我らはどこを戦線とするべきと思う?」
「学舎西館。今、ほとんどからっぽだろ、あの学舎」
 なるほど、とゼタは頷いた。
「学生がいないうちに学舎西館を占拠するというわけだな」
「そうそう。あの学舎を建てたのはサンザだからさ」
 玄関と一階の窓を閉めたら、簡単には侵入できない造りだということはわかっている。館内に残っている学生がいたら、地下の大倉庫に閉じ込めてしまえばいい。学生をふたりほど解放して、ひとりを王宮へ行かせ、もうひとりは領門へ行かせる。学舎が乗っ取られたと知れば、門を封鎖している学生も、王宮に詰めている学生も、何割かは慌てて戻ってくるだろう。西館の学生達は机上の学問には強いが、実践に弱い。立場が不利だと感じれば、脱落者も出るだろう。学生の団結が緩めば、マージ姫も強硬な態度を保つのは難しくなる。
「それやこれやのあいだに、姫の居室とかを徹底的に捜索してさ。謀反を立証する証拠かなんかを、探し出せばいいんだよ」
「証拠さえ見つかれば、ルーシェ公を動かせるか」
「うまくいけば……そう、姫は民の訴えを聞いて子どもの保護を執行しただけ。サンザは迷子の子どもを預かっただけ。陛下は姫をお咎めになることはなく、サンザの罪も問われない。ルーシェ公にも、もちろん咎はない。大団円ってわけだ。でもって、陛下には今しばらく辛抱していただく。根本的な対策を練るのはそのあとだ。それでどう?」
「いい戦法だ」
「じゃ、領門突破して早いとこ西館を乗っ取ろうぜ」
「今決めてただちにというのは無理だ。兵達に突破方法を説明せねば。学生をいたずらに傷つけぬよう、工夫も要る」
「よしわかった。俺も兵と一緒に突破方法を考えるよ。作戦会議はどこでやる?」
「ここは人が多すぎて極秘計画を練るには不向きだ。領兵の詰め所に移動しよう」
 そのときまで横で黙って話を聞いていた差配が、ふと手を伸ばしてヴェンティを引き止めた。
「若、お預かりしていたパルメ様のことですが」
「あ、そうだった。どうしてる?」
「お発ちになりました」
「行き先は」
「北峰領へ帰るとおっしゃっていましたが、それはどうやら違ったようで、西府領へ向かう街道を、徒歩で行かれました」
「西へ行ったか……となると」
「西府領に行く途中の宿屋に報せを打って、彼女の行き先をその都度押さえるよう、手配はしておきました。誰かしらが、パルメ様に接触して滞在先を提示し、身柄を確保すると思います」
「さすがサンザの差配。引き続きよく追跡してくれ。落ち着き先がわかったら、連絡を」
「承知いたしました」
 差配と分かれて庭を横切り、ヴェンティはゼタとともに混雑を避けて裏庭から裏口へと向かった。
「どうもこのところの一連の騒動に、あのパルメって姉さんが何かしら絡んでいそうな気がしてならないんだよなあ……」
ヴェンティの独り言をゼタが聞きつけ、歩速を落とした。
「ヴェンティの直感は当たるからな。どのあたりが一番引っかかる?」
「うん。いくつかあるけど、コーディ夫人が彼女のことを『お友達』だと言った、ってことかな。双方の境遇と個性から考えて、ありえないと思うんだ」
「陛下を無事にお助けすることができたら、一緒に調べよう」
 頼むよ、とヴェンティは友の肩を軽く叩いた。




パルメの算段

 王都から西府領へ向かう道には橋が多い。川沿いに点在するいくつもの町や村、それぞれの道筋には旅人の姿も多くあった。王都を出て歩き続けたその日の夜、パルメが選んだのも、そうした町の小宿だ。宿泊と朝食だけのその宿で、パルメはようやく手足を伸ばす気になった。背負ってきた金三百を横に置いて寝台に寝転がり、あらたに手元に来た豪華な真珠の首飾りをしげしげと眺める。売り飛ばした青い宝石については、もうこれ以上の金はいらないと思った。下手に長滞在して、宝石の出所がばれたりすれば、元も子もないからだ。真珠は追加の金を望む代わりに、これで満足しなさいと、天なのか神なのかはわからないが、何かしらが与えてくれたのだと思うことにしたのである。
 それにしても、とパルメは不思議に思った。王都の中の貴族と思しき婦人の屋敷を出たのは、朝も遅い昼間近のことだ。王都領門を通って鴛鴦亭に戻り、すぐに宿を発つとパルメが言ったところ、宿の主人が、
「そうおっしゃらずに、一度、王都内のサンザ家へおいでください。団統のヴェンティがぜひともお会いしたいと申しておりますので」
 変に熱心に説得してきたのである。
 これは何か変だわね。パルメの直感は、この先に災難が待っていると報せてきた。引き留める主人を振り切るようにして宿を出て、パルメは鴛鴦亭から少し離れた、お茶と昼食を出す小さな店に入ったのである。そこでこれからのことを、あれこれ考えていると、じきに門近くで騒動が起きた気配があった。領門から人は出て来なくなり、逆に領門へ入ろうとする人々が、門の前で足止めされた様子があった。さらにしばらくすると、さっきパルメが鴛鴦亭まで乗ってきた貴族の馬車が一台、しずしずと領門を出てきて、西へ向かっていった。護衛兵がふたり、御者がひとり。その御者が怪しかった。パルメは人の名前は覚えられないたちであるが、顔は忘れない。昨夜と今朝、パルメが乗ったときと、御者は違う人物だった。今朝までの貧相な老人とはうって変わって、立派な体格の壮年で、厳しい顔つきの御者である。
——これはいよいよ、おかしなことになったわ。
 パルメは警戒し、貴族の馬車が遠ざかったあとも、しばらく店の中で息を殺すようにして、身を潜めていた。午後も遅くなってからパルメはこっそりと、鴛鴦亭近くへ戻り、様子を見た。
 若い男がふたり、深刻そうな様子で立ち話をしていた。そのうちのひとりは、パルメから宝石を買った商家の団統である。パルメは人影に紛れるようにしてその場を離れ、すぐに街道を西へ歩き始めた王都に何かが起きたらしいということはわかる。それがなんなのか、はっきりとはしないが、長居していいことはなさそうだ。
——災難は避けなければ。
先刻、西へ向かった貴族の馬車に追いついてしまわぬよう、注意しながら町と村を通り過ぎて、この町へ来たのである。小宿の主人の話では、街道に添ってそのまま進めば、かつて王国の都であった西府領に行けるという。
「にぎやかかしらね」
世間話のようにして探ってみると、
「王都ほどではありませんがね。旧都を離れたがらない古い家柄の貴族達が今も多く住んでいますし、それなりに賑わってますよ」
ということだった。それはいいわねとパルメは安堵した。人が多いほうが身を隠しやすい。
——しばらくは安宿あたりに隠れ住んで、ほとぼりが冷めたころに、小さな店でも持とうかな。
 何せ金三百があるのである。家族持ちでも五年は遊んで暮らせる額だ。
 西府領でいいんじゃない。パルメはそう考えた。かつて住んでいた北峰領に戻るつもりはなかった。それにしても、とパルメは思う。王都前で芸人一座から離れ、その後にいくつもの幸運がまとめてやってきた。芸人らと一緒に王都に入っていたら、あの青い宝石だって、売れたかどうかわかりゃしない。一晩話し相手をしてやった貴族婦人とは、顔も合わせなかっただろう。当然、真珠は手に入らなかった。それに、王都ではおかしなことが起きた。人々は門を出入りできなくなり、鴛鴦亭には門を入り損ねた大勢の人が押し寄せていたようだった。
それらの災難を、パルメはうまい具合に避けて通ることができた。
——とどのつまり、王都前で座を抜けたあたりから、あたしの運は開けたってことよね……。
 首飾りを眺めつつ、独りごちてみる。そのとき扉を軽く叩く音が聞こえ、「お客様、ちょっとよろしゅうございますか」
宿の主の声が聞こえてきた。
「もう寝るところなんだけど」
「お手間は取らせません、少しだけ」
 なんなのさと、パルメは起き上がり、扉に近づいた。
「どうしても今じゃなきゃいけないの? 迷惑なんだけど」
 ぶつくさ言いながら扉を開けてみると、そこに立っていたのは、宿の主人だけではなかった。もうひとり、初老の男が軽く笑みを浮かべている。「あ、あんた、たしか」
「はい、サンザ家副統、ティントでございます、パルメ様」
 パルメが青い宝石を買ったとき、サンザ家の団統と一緒にいた男である。
「あ、なあんだ。あたしがここにいるってこと、よくわかったわね」
「はい、じつはこの宿は、このティントめの常宿なんでございます。パルメ様がお泊まりと聞きまして、ご挨拶をと」
「そりゃまあ、ご丁寧にどうも」
 商人というものはこんなにも懇切なのかと、感心したパルメだった。
「ところでパルメ様、もしやこの先、西府領へおいでなのでは?」
「ええ、そうよ。そのつもり」
「やはりそうでございましたか。西府でお泊まりのお宿などはお決まりで?」
「行った先で探そうと思ってるんだけど」
「おやまあ、パルメ様。西府は広うございますよ。その割に宿の数は少のうございます。なにせ、貴族様のお屋敷が幅をきかせておりますのでね。わかりました、このティントめが、とっときのお宿をご紹介いたしましょう」
「あらほんと」
 あまりに都合良く話が進むので、パルメは少し警戒した。
「でもねえ。あたしったらほら、気まぐれだから。泊まるかどうかは約束できないわよ」
「そのときはそのときで、ようございます。ですが、西府でのお宿にお困りになったら、ぜひお訪ねください。ここの宿と同じくらいのお手持ちで、お泊まりになれますよ。ほんの少々、古宿ですが、そのぶん風情のあるいい宿でして、しかも主人も使用人も気の良い連中なのです」
「あ、そう。助かるわあ。なんて名前の宿?」
「錦鶸亭(にしきひわてい)というのです。ティントめは急ぎの旅ですから、ちょいとお先に参りまして、錦鶸の主に、話を通しておきましょう。ティントの口利きでとおっしゃっていただければ、多少なりお安くご案内できますよ」
「なんか、悪いみたい、そこまでしてもらっちゃ」
「いえいえ、こうしたことも商人の喜びなのでございます。この年寄りを喜ばせてくださり、パルメ様にはどれほど感謝してもし足りないほどです」
「あらら」
「おやすみのところ、お邪魔をして申し訳ありませんでした。では、失礼させていただきます。おやすみなさいませ、パルメ様」
「あ、そうね。いろいろ、ありがと。じゃ、おやすみ」
 ティントは笑顔のまま扉をそっと閉め、やがて足音が遠のいていった。
 これもまた、この一連の幸運の尻尾かと、パルメは思った。
 老齢の商人の笑顔に悪意は感じられない。宿を教えてくれただけで、他に何を要求するわけでなし、まあ、これはこれでいいか。
 パルメは扉の鍵を閉め、窓を締め、一回ずつ両方とも確認したあとで寝台に寝転がった。そしてあっさりと眠りについた。



 扇の思い出

 日暮れ時の市場には人影がほとんどなかった。
 たたまれた天幕の中に潜って、セレスは半ば途方に暮れていた。

 ヴェンティが見つからないのである。
 マージという人が、たしか、市場の広場で、ナントカ鞭の刑だと言った。刑があるのなら人も集まるだろうし、何より、あの深緑色の服の集団がいるだろうから、きっとヴェンティもすぐに見つかるはず。と、セレスは思っていた。
 しかしヴェンティは見つからなかった。他にも広場があるのだろうかと、あちこち歩き回ってみたのだが、どこをどう探しても、鞭打ちの刑らしきものは行われていない。
 深緑服の集団には何度も出くわした。そのたびにセレスは荷の陰、人だかりの中へと逃げ込んでいたのだが、だんだんに市場の様子がおかしな具合になった。深緑服数人と、身なりのいい女の人、あるいは深緑服とこれまたいい服装のお爺さんなどが、路地を縫うようにして歩き、何かを探している様子があった。
 そのうち市場の店の中にいた子どもがひとり、深緑服に連れていかれた。さらに、あちこちから子どもが次々と引き立てられていき、親たちが大声で叫びながら追っていくという、異様な光景が続いた。
 市場の人々が次々と天幕をたたみ、買い物をする人の数も急に減った。急ぎ足の母親は子どもの手をしっかり握り、中には荷車に子どもを隠して運ぶ人もいた。
……深緑服の人たちが、僕を探してるんだ。
 中途半端にたたまれた感のある天幕の下へ潜り込んで隠れ、夜になるのをセレスは待った。
 ……もしもあの深緑組が、僕を探しているのだとしたら、芸人一座の天幕も見張られているはずだ。そこへのこのこ帰ったら、また深緑服に捕まってしまう。それでは逃げ出してきた意味がない。どうしよう。僕はどこへ行けばいいんだろう。
 ときどき天幕を持ち上げてあたりを見回し、人の足音を聞いては慌てて身を隠した。
 棄てられた町のように静まりかえった市場で、どうしようもなく襲ってくる心細さと戦いながら隠れている自分。何かしら不思議でならない。
 明日の夜の一座の初日を楽しみにしていたのに。
 一人前に働けないまでも、花冠を頭に乗せ、お菓子を配って、座の手伝いができると思ったのに。
 マージという女の人と深緑服達が、何故、自分を捕らえようとするのか、どれほど考えてもわからない。
 そういえば、と、遠い記憶をたぐり寄せる。
 セレスが八歳のときだった。母が『兵士に捕まった』と、パルメは言った。
 どういう理由なのかはわからない。
『いつかきっと、お母さんに会えるから、それまでは無理して会おうとしないで、我慢するんだよ』
と言われ、それを信じて今日まできた。
 僕のお母さんは何故、『兵士に捕まった』のだろう。
 それがわかれば、僕が追われる理由もわかるかもしれない。
 だが、どうすればそれを知ることができるのか。パルメに何も尋ねず、別れてしまったことが悔やまれた。
 セレスと母は北峰領の古くて大きな農家の、離れに住んでいた。
 母の仕事は庭の手入れだった。
 離れから母屋へ続く道に咲いていたたくさんの花。
 草取りや虫取り、土運びや苗の植え付けを手伝った。
 明るい陽射しの中、母は笑ったり踊ったり歌ったりしていた。
 軽やかな母の足取り。ふわりと舞い広がるスカート。
 前掛けを右手で軽くつまみ、左手で小さな扇を顔の横に開いてみせた母。
……ああ、そうだ、お母さんの踊りには扇の思い出があったんだ。
 綱渡りしながら扇を使ってみたらどうかとムントンに言われ、すぐにその気になったのは、扇の記憶が心のどこかにあったから、なのかもしれない。
 お母さん、と、心の中でセレスは母に呼びかけた。
 どこかで元気に生きてますか。
 兵士に捕まったあと、自由になりましたか。
 僕は今、深緑組に追われてます。
 でもきっと大丈夫。逃げ延びて、いつか必ずお母さんを探し出して、会いに行きます。
 そのとき僕はビョルケ一座の綱渡り芸人です。
 元気でいてください。僕が会いに行くまで。お母さん。
 半ば祈り、半ば自分に言い聞かせながら、セレスは天幕をそうっと持ち上げ、次第に暗くなっていく空を見あげた。
「ビョルケ一座の子だね?」
 ふいに頭上から声をかけられて驚き、天幕を閉じた。
「隠れなくていい。さっき、君が花畑で会ったかたの、使いの者だよ」
「あの」
 セレスはどきどきしながら、天幕を持ち上げた。ほっそりとした若い人で、濃い藍色の服を着ていた。
「出ておいで。隠れていたんだね。大丈夫、何もしないよ」
「僕を捕まえない?」
「捕まえない。約束するよ」
 声に、優しそうな響きがあった。セレスはおそるおそる、天幕の隙間から這い出した。見れば周囲に、同じ藍色の服を着た若い人が十人ほど立っている。
「花畑で君が会ったのは、私たちの学舎の学博でいらっしゃる。君を案じて、私たちに探すようにとおっしゃった……私たちは君を助けたいと思っている。急に話しかけられて驚いたかもしれないが、どうか信じてほしい」
 セレスはおそるおそる立ち上がり、周囲を見回した。
「僕を閉じ込めたり見張ったりしませんか」
「しないよ。今でも君が、ここから動きたくないと言うのであれば、私たちは夜通しここに立ち、君を見守るだけだ」
「夜通し?」
 セレスは驚き、その一言で藍色服の人々を信じる気になった。
「僕、じつは、これからどうしたらいいのか、わからないんです」
「そうだろうね。私たちにできることなら、手助けしよう」
 藍色服の若い人の口調は穏やかで、深緑服の人々のような威圧感がなかった。周囲に並ぶ人達も、深緑服の人達より年上かと思われる大人が多い。彼らの表情は穏やかで、立っている感じもどこかしら物静かだ。
「えと……じゃ、お訊きしていいですか」
「どうぞ」
「ヴェンティという人のことです。さっき、ヴェンティは深緑の服の人達に捕まり、縛られて連れていかれました。三日のあいだ、広場で鞭で叩かれるって聞いて……探してみたけど、見つからない。彼がどこにいるか、わかりますか」
「サンザ家ヴェンティは逃げたと、私たちは聞いているが」
「逃げたのですか? まわりに五十人もいたのに?」
 若い男が少し笑い、頷いた。
「捕縛されたすぐあとに、領兵長ゼタが十人ほどの領兵を率いて学生の囲みを解き、ヴェンティを連れていったという話だよ。その後、ヴェンティは領門の外へ脱出した」
 セレスは安心のあまり、両手を握りしめてその場でちょっと飛び跳ねた。藍色の一団は何を思ったのか、セレスと同じように少し跳ねた。
 なんだかおかしかった。セレスは笑い、周りの人達も笑う。
「じゃ、ヴェンティは鞭で叩かれないで済んだのですね?」
「そういうことになるね」
「良かった……」
「他に質問は?」
「あとは、あっ、そうだ。ビョルケ一座はどうなっていますか」
「座頭のビョルケが学舎西館へ連行された」
「えっ」
「私たちの学博が、今、西館へ行かれ、学生達の説得にあたっておいでだ。じきにビョルケ座頭も天幕へ戻れるだろう。安心しなさい、座頭は大丈夫だよ」
「ああ、良かった」
「さて、立ち話もどうかと思うので、移動したいが……どうかな。まだ私たちを信用できないかな」
「移動って、どこへ?」
「どこへ行きたい?」
「一座へ帰りたい……あっ、違った、ヴェンティにお礼を言わないと……あ、それも違う。あなたがたの学博様に、お礼を」
「律儀な子だね」
 藍色服の面々が皆笑顔になった。
「私たちの学博は、君のお礼の言葉をお喜びになると思うが。何よりもまず、君の安全を優先されるだろう。だから本当は一座へ帰らせてあげたいが、学舎西館の学生が天幕の入り口で見張っているので、君が見つかってしまう危険がある。それと、ヴェンティは領門の外へ出てしまったので、すぐに会うことはできないと思われる。そこで私たちは」
 若い人はいったん言葉を途切らせ、セレスをじっと見つめた。
「私たちの学舎へ、君を招待したいと考えている」
「地下室はいやです」
「私たちの学舎に地下室はないよ」
 彼は困ったような笑みを浮かべた。
「君の行き先は学博の居室ということになるだろう。私たちは君の安全のために付き添うが、それは見張りではないし、君を監禁するためでもない。君の安全が確保できたら、ビョルケ一座から誰かに来てもらおうとも考えている。どうかな」
「わかりました。そこへ行きます、僕」
 安堵の吐息が聞こえ、彼らがほっとした様子がうかがえた。
「では、行こう。念のためにと、学生服を持ってきたから、これを着て」
 藍色の服が差しだされた。セレスには少し大きかったが、引きずるほどでもない。着てみると、生地の柔らかさ軽さ、糸目の綺麗さ、驚くような上等の服だった。
「帰舎」
 ひとりが言い、四人が歩き始めた。さっきまで話していた若い人がセレスに並び、後ろにも四人が続く。しばらく歩くと、前方から深緑服の数人が近づいてきた。
「……大丈夫。気づかないと思うから。それに、その服を着ている限り、彼らは君に手出しできない。落ち着いて、そのままの速さで歩いて」
 隣の若い人が囁きかけてくる。
 セレスは頭を上げ、藍色服の面々の歩調に合わせて進んでいった。深緑服の一団は、先頭のひとりが藍色服の先頭のひとりにかすかに会釈しただけで、あとはセレスに目もくれず、早足ですれ違って遠ざかっていった。
 市場を離れる間際、セレスはちょっと背伸びして、一座の天幕があるあたりを見てみた。 重なり合う建物の屋根の向こう、白い大天幕の上部が少しだけ見える。
 明日の初日の幕は無事にあがるのだろうか。かすかな心配を抱いて、セレスは藍色服の一団と一緒に歩いて行った。



西の鷹

 馬車灯を灯して西行は続いた。
 コーディ夫人の希望で、かなり遅めの緩行である。
 西府領内へ入ったときは、周囲は真っ暗だった。バライトは馬車の速度をやや速めて、夫人の実家へと急いだ。
 夫人はおそらく今夜は実家に逗留し、王都への帰領は明日以降になるだろう。
 到着後すぐに代えの御者を手配してもらわねばならない。バライトは到着後ただちに鷹飼のホルクを探すつもりだった。
 ほどなくして、古風で優雅な門構えの屋敷の庭に入り、馬車を停めた。護衛兵が扉を開け、夫人が降りてくる。屋敷からは夫人の両親や使用人が出て来て、ひとしきりにぎやかな歓待の言葉が交わされた。彼らの会話から察するに、夫人は昨日も実家へ来ていたようである。
 王都で何が起きているのか、夫人も夫人の実家の人々も、知らない様子であった。護衛兵も夫人とともに屋敷内へ入っていく。バライトは馬車を屋敷裏へ回し、馬番に事情を話して御者の手配を頼み、すぐに屋敷を出た。
 このあたりは古い貴族の屋敷や邸宅が並び、盛り場らしきものはない。情報収集のために酒場へ行ってみようと考えた 大きな屋敷の並ぶ一帯を過ぎると、繁華街らしき一群れの灯りが見えた。
 繁華街を一巡してから、間口の狭い酒場を選んで入ってみた。さすがに旧都城下の西府らしく、こんな小さな酒場にも、貴族の流れを汲むと思われるいでたちの男が数人、固まって静かに酒を楽しんでいる。
 基盤を挟んで座っているふたりは、いずれも高齢で、バライトには聞き取れない外つ国の言葉で会話をしていた。親交のある国外からの客人を招き、歓待しているのかもしれない。旧都ならではの光景である。
 バライトは止まり木へ寄り、西府の伝統的な林檎酒を頼んだ。酒の名前は『西の鷹』。店内に王の鷹に関わる者がいれば気づくはずだ。そのまましばし、静かに酒をたしなんでいたが、話しかけてくる者はいない。小半時ほど過ごしたあとで、酒場を出た。
 次の酒場は宿屋の中にあり、さきほどの酒場よりもかなり広かった。酒場とはいえ、建物が広く、天井も高いので、風格が感じられる。察するに、貴族が手放した居館を商人が買い取り、宿と食堂、酒場などを併設して経営していると思われた。ここでも同じ『西の鷹』を注文し、グラスを回しながら待ってみた。収穫はなく、これまた黙って酒場を出る。
 三軒目を物色していると、通りの向こうから小旗を手に疾走してくる一騎とすれ違った。旗の紋章はルーシェ家のものだ。夫人の実家へ急使が駆けつけたのかもしれないとバライトは考えた。王都の騒動の情報がようやく西府へ到着したのだろう。人馬を見送ったあとで、再び三軒目の酒場を探していると、
「林檎酒をお探しですか」
 背後から声をかけてくる者があった。バライトは軽く警戒しながら振り返った。筒灯も持たず、だが伴をふたり連れた壮年らしき男である。
「このあたりにいい西の鷹を出す店があると噂に聞いたものでね」
 答えて返事を待つ。
「それなら、狩り場という名前の宿を当たってみてください。西の鷹が揃っていますよ」
 狩り場という言葉から察するに、王の鷹のひとりと思われた。
「ドジェの紹介なんだが……」
 すると相手は束の間、沈黙した。ややあって、
「酒場のドジェ、ですね」
「ああ、そう。知っているのかね」
 男は近づいてきて、軽く一礼した。
「ホルクです、親方」
「おや」
「さっき、親方が来られた小さい酒場に私の勢子がいました」
 ホルクは背後のひとりを目で示した。勢子がホルクに報せ、ホルクはバライトの様子を観察して、様子を見てから話しかけてきたものと思われた。用心深さは鷹の特性だ。
 並んで歩きながら、ホルクは低い声で囁いた。
「……ドジェから鳩が届いてきましたので。お待ちしていました」
「助かるよ」
「ドジェの酒場は打ち壊しに遭ったようです」
「やられたか」
「ドジェ本人は潜伏しています。鳩は最後の一羽かもしれません。足に黄色い糸をつけていましたから」
「そうか。『鷲』からの報せは?」
「ありません。親方が来られなかったら自分が鷹を集めて出かけようと思ってました」
「西府で何人、集められる?」
「鷹は十一人です。勢子がいますので、総勢五十人強かと」
「月の南中に合わせて全員、西府領門外に集合」
「承知しました」
「馬を頼む」
「狩りは、弓で?」
「鷹と勢子だけでいい。狩り道具は使えない獲物……が相手だ」
 ホルクはまたしばし沈黙したが、バライトの言った『獲物』の意味を理解したらしく、
「では、その通りに」
 短く言って離れていった。



深夜の駆け引き

 マージにとって手痛い失敗が続いていた。
 セレスの逃走。ヴェンティの領外脱出。しかもヴェンティ脱出はゼタの幇助によるものだ。
 もっとも大事な駒であるセレスは、学生達の懸命の捜索も虚しく、発見できていない。
 ソロンの判断で学舎西館に確保したビョルケ座頭も、身柄を引き渡すようにとルーシェ公自らが学生の説得に来たと報告があった。
 次々と入る報告と、その対策を指示しながら、マージは謁見控えの間の椅子に座っていた。
 扉の向こう、執務室では王が相変わらずの不作法で卓に肘をついて、食事もとらずに無言のまま過ごしていると、これは室内へ詰めさせている学生の報告である。
 控えの間の卓には勅書の支度ができていた。王が署名さえすればただちに譲位となり、マージが女王として即位することができる。
 今回、好機を捕らえたことは的確な判断だった。だが態勢が十分ではない。
 配下の人材と人数がどうしようもなく不足している。学舎の資金不足も解決できていない。
 せめてヴェンティを確保できていれば、とマージは思う。
 あの生意気な商人が鞭打たれてあげる悲鳴ひとつひとつが王を焦りに駆り立て、マージを玉座へ近づけたはずだった。
「ソロン序学士は戻ったか」
 脇に控えている学生に尋ねた。
「探して参ります」
 学生が数人、控えの間から出て行った。しばらくすると、一人が戻ってきて、
「准学様、学舎東館の学生が市場で子どもを見つけたらしく、さきほど東館へ連れて入ったそうです」
「なんだと……」
 マージが振り返ると、学生は三歩ほど後ずさった。
「東館の学生が見つけたと? お前達は何をしていたのだ」
 学生は答えず、うつむいていた。
「バライトはどうした」
「行方がわかりません」
「酒場のドジェは」
「見つかっていません」
「領門封鎖に当たっている古衛学部の学生を二十人に減らし、長杖などの武器を持たせよ。門外から領兵もしくは都民が門を突破しようとした場合には、王都防御のためとして攻撃を許可する。それと、バライトとドジェを必ず探し出せ。不審な鳩は漏れなく捕らえよ」
「はい」
「北東の水門暗渠の監視を怠るな。柵は開けたままにせよ。水路を通ってヴェンティかゼタが都内へ侵入を試みる可能性がある。決して逃すな」
「准学様」
「何か」
 学生は怯えたような顔をし、背後の学生達を振り返ったのち、再びマージに向き直った。
「申せ。良案があれば聞こう」
「准学様、私たちは学生です」
「むろん」
「王室が創立し、サンザ家が学舎西館を建てました」
「学舎の歴史と成り立ちを、私に説明する気か」
「とんでもありません」
 学生は首を縮めるようにしてマージの顔色をうかがう様子である。
「私たちは、准学様が何をなさろうとしておいでなのか、わからないのです」
「王都の治安を守り、都民を守り、王室の権威を守る。他に何があろう」
 数人の学生がうろたえたように身じろぎして、違いに顔を見合わせている。ここに詰めている学生はおおむね歴史と古法、古楽等の、文化研究に携わる者達である。古衛学部の学生のように武術鍛錬をしているわけではなく、体力も実行力も乏しい。だからこそ、王宮へ引き連れてきて、ほとんど何もさせず待機させているのだ。
 王への圧迫と監視が目的だから、二百人も要らない。しかし、この二百人は自由に外へ出すわけにいかない。学究肌だけに、マージの行動に疑問を感じ、西館の行動から離れてしまう危険がある。
 マージは立ち上がり、学生達を見回した。どの顔も不安と不審の入り交じった表情を浮かべている。
「学生達よ」
 マージは静かに優しく、しかし威厳を持って話しかけた。
「王国が一日で成らぬように、平和もまた、まったき達成までには時間がかかるものだ」
 言葉を句切り、笑みを見せて、もう一度全員の顔をゆっくりと見る。
「お前達は、今、マージが何をしようとしているのか、わからないと言う。さもあろう。山あいの岩間から湧き出でた一滴は、自らの行く末を知らぬ。やがて渓流に落ち、河川に合流し、いつかは大河となって海へ向かう宿命を、生まれたばかりの清らかな一滴が知らぬとしても……それもまた愛すべきことであるが……無理からぬことだ」
 学生達は真剣なまなざしでマージの言葉を聞いていた。
「学生達よ。マージはお前達の海である。学生が流れに迷い、ときに濁り停滞することがあったとしても、私が海となってすべてを受け入れる。マージを信じよ。目先の目標を見失っても、惑ってはならぬ。お前達がマージを信じ、そしてこのマージがお前達を指揮している限り、どのような困難があったとしても、必ず大海へ、マージの元へ辿りつくのだ。わかったか」
 大半の学生はこれでほぼ、マージの言葉を信じ、安心しただろう。
 だが、この信頼は恒久的とはいえない。ささいなことを引き金に、不安と不信は再燃するものだ。
 人心の掌握は一朝にはならないものである。何度も繰り返して、彼らの心の奥深くまで刷り込まねばならない。揺るぎない信頼が彼らの心の奥深くに根付き、いかなる不安も寄せ付けなくなるまで、そしてすべての判断をマージに委ねるときがくるまで、気を緩めてはいけないのだ。
「准学様、ソロン序学士が来ました」
 後方から声が聞こえた。
「ここへ」
 マージの声に応えるように人の波が割れ、ソロン序学士が早足で近づいてきた。
「准学様、吉報でございます」
「何か」
「北の準備が整いました。予定では到着まで丸一日と見ておりましたが、領主の機転で出発を早め、早ければ今夜半、遅くとも明日の夜明け前には訴状とともに、千人あまりが領門前へ到着します」
 北峰領から、小作に偽装させた私兵千人が、小作の女子どもを連れて王都へ直訴に来るのである。
「最前列の人数は? 五十人は連れてきているであろうな」
「少し減りまして、三十数人ということです。歩かせますと時間がかかるので、王都間近までは馬車で運びます。心配は要りません」
 私兵の前面に、小作の女子どもを配し、訴求力を高めようと提案したのはソロン序学士だった。私兵の偽装を隠すには最適の策と思われた。
「あとは、彼らをいつ都内へ入らせるか、准学様のご指示を待つだけでございます」
 マージは少し考え、
「指示を待て」
 短く言ってその場を離れた。
「学生三人とソロンだけ参れ。学舎東館へ行く」
 控えの間を出て、王宮の大広間に入る。
 オルクス領兵監が彫像のように立っていた。マージに気づいたはずだが、目もくれず微動だにせず、無表情を保っている。拝礼をしないのは無礼だが、強要はしない。無礼のつけはあとで来る。本人にもわかっているはずだ
 マージは広間を突っ切り、王宮殿をあとにした。前庭を通って王宮門へ向かう。門の両脇に領兵の姿はない。門の見張りをしている西館学生は古衛学部の筆頭だ。マージの姿を見ると驚いたように駆け寄ってきた。
「准学様、どちらへ」
「持ち場を離れるな」
 厳しく言ってそのまま歩き続け、王宮門を出た。
「領兵はどうしている」
「兵舎に大半が集まっています。解散させますか」
「そのままでよい」
 どのみち兵舎脇の宿舎に引っ込むだけだ。自由を与えて不穏な動きをされるより、兵舎にまとまっていてくれたほうが牽制もしやすい。ゼタもオルクスもここにいないのだ。領兵に何かができるとは思えなかった。
 人気のない大通りを歩いて学舎東館の前庭へ入る。東門から学舎まで両脇に並木を備えた広い道があるが、無視して木立と下草の庭園を斜めに渡った。
 学舎の玄関に入ると、数人の学生が一斉に起立した。
「父上はいずこにおいでか」
 問いかけたが、返事がない。
「父上はどこかと訊いている」
 学生が拝礼をしないのは許しがたい。マージは学生のひとりにつかつかと近づき、准学笏を振り上げてその頬を叩いた。鋭い音が玄関広間に響いたが、沈黙は守られたままだった。叩かれてよろけた学生は立ち上がり、元通りの姿勢を保って、あろうことか微笑んでさえいる。学生というには年かさの男だ。おそらく、自分で店か工房を持っていて、学舎には技術を学ぶために入学したのだろう。マージの西館学舎との大きな違いは、ある程度の経験を積んだ年長者がここには大勢いるということだった。
 学生の左端には女学生もいた。長い髪を素っ気なくまとめて、化粧もしていない。マージよりは年長のようだが、これも無表情を保ったまま、マージとソロン、背後に続く西館学生を見据えているだけだ。
 西館にもこれくらい度胸の据わった学生がいてくれれば、とは思うが、今はどうしようもない。居並ぶ学生達を押しのけ、マージは廊下を進んだ。
 ルーシェ公の居室は学舎東館一階、南の端にある。それは知っていた。
 マージは西館の最上階に広い居室を持っているが、父の居室は学生の寄宿室のひとつである。学問と研究、技術開発より他に、父の関心をひくものはない。それが祖父ファーディ公をどれほど悲しませたか。祖父の日記を覚えるほど読んだマージには、父の凡庸さと頑固さが歯がゆくてならなかった。
 ルーシェ公の部屋の前に立ち、三度軽く叩いて返事も待たず、扉を開けた。床から天井までぎっしりと本の詰まった書棚が、左右の壁を覆い尽くしている。書棚の途切れるあたり、窓近くのやや広まった室内に机、椅子、小さな箪笥がある。箪笥の奥には質素なつくりの長椅子ひとつ。ルーシェ公は椅子に腰掛けていた。
 なんと、その横にセレスが座り、何故かふたりの手に、芸人が使う手玉が握られていた。
「そら来た。私の言った通りだっただろう、セレス。この人に会いたかったのではないのかね?」
 ルーシェ公は意外な言葉を口にした。
「父上。それはどういう意味でしょう」
 マージは半ば呆れ、半ば不審に思いつつ、ふたりに近づいた。
 セレスがルーシェ公の肩の後ろに顔を隠すような仕草をした。
 ふいに、激しい怒りがマージの心にわき上がってきた。
 無力を装って他人を頼る人間が、マージは大嫌いである。
 ただ可愛いというだけで、他者からやすやすと保護を引き出す子どもも嫌いだ。
 その見本のようなセレスが、今、マージの目の前で頼っている相手は、他でもない、マージの父ルーシェ公なのである。張り飛ばしたいほどセレスが憎かったが、顔にも態度にも出さなかった。
 いつものように軽く笑みを浮かべて父に挨拶し、それからセレスに目を向けた。
「セレス、またお会いしましたね」
 返事がない。 
「私に会いたいと思っていたのですか、セレス」
 面倒なので、話を急いだ。
 ルーシェ公はセレスの肩に腕を回し、励ますように叩いたあとで、
「訊いてごらん。知りたいことがあるのだろう」
 優しく促した。
 セレスは躊躇うように二度三度、瞬きしたあとで、急にくっきりとした視線をマージに向けてきた。はっとするほど、澄んだ大きな眼だった。
「姫様はどうして僕を、捕まえたのですか」
 なんの飾り気もなく、いきなり本質を突く問いだった。
「捕まえたのではありません。あなたを守ったのですよ、セレス」
「姫様は嘘を言っています」
「まあ」
 マージは悲しげな表情を作り、頬に軽く指を当ててセレスに近づいた。
「どうして、嘘だと思ったのです?」
「僕に訊くのですか」
「では誰に訊けと」
「姫様がご自分にお訊きください。僕は姫様に守ってくださいとお願いしたことはなく、守っていただくようなことがあったとも思いません」
「私マージは都民から、幼い子どもが連れ去られたあげく、サンザ家でむごい仕打ちを受けていると通報を受けて駆けつけたのですよ」
「その都民というのは誰ですか」
「報せてくれた都民のことは、口外してはいけないのです」
「僕を一座から連れ出した人は、姫様のお知り合いのかたですか」
 なかなか鋭い切り口だ。
 この子は侮れないと、マージは少し身構えた。
「ええ、顔見知りの都民です。それがどうしたというのでしょう、セレス。私は自分がすべきことをし、正しいと信じて行動しました。あなたを救いだし、保護し、陛下に報告を差し上げました」
「三百人がかりで僕を捕まえて、五十人がかりで連れていき、地下室に閉じ込めて見張りをつけたと、陛下に報告したのですか」
 ルーシェ公がふいに笑い出した。だが、何も言わない。ただただ、愉快そうに笑っているだけである。
 コーディ夫人の使用人エラが、一連の動きの引き金になったことを、ルーシェ公は知っているのではないか。
 そしてそのことを、セレスに教えてしまっているのでは。
 マージは大急ぎでセレスを懐柔する方法を、考え出さねばならなかった。だが、説得の筋書きが決まる前に、セレスが再び口を開いた。
「姫様、姫様は間違っています」
「まあ。何故、そう思うの?」
「僕が王宮へ行って、陛下に、何もかもお話ししていいですか。姫様が僕を保護したのはただの勘違いだったと、僕は陛下に言います」
「身分をわきまえなさい、セレス。それに陛下はあなたのような子どもの話を鵜呑みになさるかたではありません」
「陛下にお会いできると、学博様が約束してくださいました。僕はさっき、この学舎に入学させていただいたのです。学生は陛下にお会いすることができるそうです」
「いけません、セレス。陛下はお忙しいのですよ」
「姫様。僕には保護なんて必要なかったんです。だからヴェンティの鞭打ちの刑も、間違ってます。市場で子ども達を片っ端から捕まえてみたり、親たちを泣かせてみたり、あれも姫様が学生達に命令したことですよね。そのせいで市場は人がいなくなってしまいました。人々が家から出てきてくれなければ、芸人一座も興業ができません。こうしたこと全部、姫様の勘違いがもとです。僕が陛下にそう言うと姫様が困るのなら、姫様がご自分で陛下に言ってください」
「私を脅しているつもりですか」
「お願いしているのです。ごめんなさい、僕は礼儀作法はよくわかりません」
 さて、とルーシェ公が立ち上がった。
「マージ。行きすぎた執行だったと陛下に申し上げる勇気があれば、ここで全てを解決できる。あとはあなたの決断次第だ。考える時間が必要かね?」
「院司執行は正しく行われました。決断されるのは私ではなく、陛下です」
「さようか」
「父上はどうされるおつもりなのです」
「私はいかなる派閥にも与しない」
 ルーシェ公はのほほんと笑って言ったが、要は娘を突き放したのである。
「お祖父様がどんなにお嘆きになることでしょう」
 断腸の思いでマージは最後の刃を父に突きつけた。
「覚悟はできている。あなたに覚悟があるようにね。さあマージ。もうお行き。王宮と領門と都下に、あなたを信じて待っている学生がいる。彼らの元へ行き、准学マージとしてそして王裔の姫として、なすべきことをなさい」
 辞去の挨拶抜きでマージは父の居室を出た。
 扉の外で会話を聞いていたであろうソロン序学士が、険しい顔をしてマージを待っていた。
「北からの一団を夜明けと同時に王都へ入らせよ」
 指示を下して、マージは王宮へと歩いていった。



領門突破

 十四日の月が中天に輝くころ、領門の外に二十四人の領兵が集まった。
「領門近辺の学生の数が減っている。殿軍の数を減らして、中軍を増やそう」
 領門外の馬車駐まりで最後の作戦会議となった。兵の指揮はゼタがとる。領門を封鎖している学生を、まず先鋒六人で攪乱。混乱の隙をついてゼタとヴェンティを加えた中軍十四騎と殿軍四騎とで領内へ駆け込む。先鋒と殿軍は学生を挟んで門をかため、中軍が追撃されるのを防ぐ。中軍は都下を駆け抜けて学舎へ向かう。
「学生はおそらく騎馬で追跡はしないと思うが、万が一、追っ手がかかった場合、殿軍四騎は市場方向へ行くと見せかけて、追跡を混乱させるように」
「連中、メシ抜きで半日以上立ちっぱなしだろ? 走って追いかける元気はないんじゃないか」
 ヴェンティが言うと、ゼタは首を振った。
「突破を許せば、マージ姫が激怒するのは間違いない。彼らも必死になる。それと、彼らが門を守るのは我々が外にいるからだ。ヴェンティが領内に入ってしまえば、もう門の守りはどうでもいいということになる。当然、ヴェンティ追跡が目的になるだろう。油断は禁物だ」
「夜中だよ? 騎馬で走り抜けて、俺だとわかるか?」
「この月明かりならおよその判別はつく。ひとりでも『ヴェンティだ』と叫べば、お前が集中的に追われることになる。落馬だけはするな」
「はいよ」
 ゼタは領兵ひとりひとりの肩を叩き、眼で激励したのち、馬に乗った。
「先鋒!」
 ゼタの声を合図に、六騎が駆けだした。
 領門の外に鉄柵いくつかが仕掛けられているが、偵察の調べでは脚部を地中に埋めた様子もなく、ただ置いただけの柵である。
 先鋒のうち半分が鎖付きの鉄鎌を引っかけ、騎馬が通過できる隙間を空けることになっていた。門前に先鋒が駆け寄せていって鉄鎌が柵にぶつかる音が響き、学生数人の怒号が聞こえた。
「続け!」
 ゼタの号令で残り十八騎が一斉に門を目指して走り出した。
「領兵長、学生は武器を持っています!」
 前方から先鋒隊の声が聞こえた。
「剣か、槍か!」
 ゼタが駆け馳せながら訊く。
「長杖です!」
「砂袋投擲!」
 命令の直後、先鋒隊が馬側につけていた粉混じりの砂袋を門下にまき散らした。極細挽きの小麦粉を混ぜた砂を詰めた袋を投げつけて、視界を封じるのである。粉が散ってもうもうと広がる煙幕の中、罵倒と叫声が飛び交う門下を、ゼタが率いる中軍と殿軍が駆け抜けた。
「散開!」
 ゼタが振り返って命令し、殿軍四騎は大きく左右に開き、馬首を返して門前へ駆け戻っていった。再び門前から大声と罵声が響いてきて、それが次第に遠ざかっていった。
「後方確認!」
「追っ手なし!」
「最短距離を行く、続け!」
 ひとかたまりの人馬は都下の大通りを学舎に向かって疾走していった。



それぞれの長い夜に


「准学様! 誰とは定かでない騎馬が十数騎、王宮前を通り過ぎました!」
 王宮門前に配しておいた学生が、息せき切って報せにきた。
 マージは立ち上がり、背後の学生に目配せした。学生が控えの間と執務室のあいだの扉を薄く開けて王の状態を確認する。
 王は執務室の椅子をくっつけて並べ、横たわって仮眠中である。相変わらずの威厳に乏しい態度に、マージは少し呆れた。
 王が執務室外の状況に気づいていないことを確認すると、マージは控えの間を出て広間へ入った。
「騎馬の行き先はどこか」
「東へ行きました。見たところ、領兵の一団だったようです」
「学生百名、王宮を出て学舎西館へ急行。ヴェンティを捕縛せよ」
「あれはヴェンティだったのですか?」
 学生は目を見開き、驚いた顔になった。愚問には答えないマージである。
「ヴェンティはセレスが西館を脱出したことを知らぬ。館内へ捜索に入るはずだ。入館させて出口を塞げ。必ず捕らえよ」
 序学士十人が、それぞれ指導する学生十名ずつを引き連れて王宮から出て行った。
「都下に分散した学生を呼び戻し、王宮周辺の街路を塞げ。領兵兵舎と宿舎に兵の移動その他の変化がないか確認せよ」
 マージはふと、大広間出入口付近に目をやった。
「……オルクスはどこへ行った」
「さきほど、出ていきました」
 教練を受けていない学生の、最大の欠点はこれだ。危機予測ができないのである。
 だが、叱っている余裕はない。対策と指示が必要だ。
「オルクスの行き先はどこか」
「尾行はつけてあります。一番近い報告では、オルクスの自邸横の新馬場と」
「古衛部学生二十名、馬場へ行き、オルクスを捕縛、監禁せよ。抵抗すれば謀反とみなす。教練経験者は武具をもってオルクスに当たれ。ビョルケ一座の天幕はどうなっている」
「監視中です」
「芸人全員を天幕のひとつに監禁せよ。監視を怠るな。ひとりも外へ出してはならぬ」
 そこへ学生がひとり、粉だらけになって駆け込んできた。
「准学様、ヴェンティとゼタと思われるふたりが、騎馬兵十数騎を連れて領門を破りました!」
「わかっている。門に戻れ」
「門は騎馬の領兵十人に占拠されました」
 槌で一打ちされたような衝撃があった。だが、動揺をいささかも顔には出さなかった。
「ソロン序学士。捕らえておいたコポルの家族と、現在までに学舎に寝返っている近衛兵の家族を鎖縛し、急ぎ領門前へ連れて行け。領兵が領門を明け渡さないと言い張ったらコポルらの家族の命を手駒として交渉せよ。領門はどうあっても取り返さねばならぬ。北からの一団が到着する前に門を押さえるのだ」
「承知しました。古誌部学生に実行させます」
 ソロンが日頃から手足のように使っている十数人の学生が、頷き合いながら、早足で広間から出て行った。
「じきに北の一団が領門へ到着する。到着次第、夜明けを待たず入領させ、王宮前まで直行させよ」
「夜明け前では都民が集まりませんが」
 ソロンが眉を寄せて訊き返してくる。
 北から乗り込んでくる一団が、都下で声高に王の失政を訴え、それを都民が目の当たりにする。それがソロンの目的なのである。
「都民を目覚めさせればよいではないか。都下南方の綿糸工場、羊毛保管庫に火を放て。領兵厩舎にも火を放ち、全馬放逐せよ」
 火事と偽装暴動で都民は恐慌を来し、助けを求めて王宮前に殺到するだろう。混乱によって追い詰められるのは王であり、マージではない。マージは事態を収拾する側に立つ。遠慮は不要だ。
「准学様!」
 そこへ学生数人が、これも慌てふためいた様子で駆け込んできた。
「領兵厩舎から馬が脱走しました」
「なんだと」
「領兵が兵装を解いて少人数ずつ兵舎から抜け出していたらしく、二百人近い人数で厩舎へ押し寄せて、馬を誘導して逃げたのです」
「馬と領兵の行き先は」
 尋ねるまでもない。オルクスの馬場である。
「やられたか……」
 王の下命なく大隊規模の領兵を動かせば、オルクスといえど、処罰は免れない。それを承知でオルクスは兵を動かしたのだ。明らかにマージへの宣戦布告である。マージを王の政敵とみなして、オルクスが領兵を指揮したら、どうなるか。
 現在、兵舎と兵宿舎にいる領兵約三千。
 ひるがえって、学舎には学生三百。兵と呼べる古衛学部の学生はわずかに五十。学生の大多数は文化研究に携わる者達であり、とうていオルクスの敵ではない。
「准学様、どういたしますか」
 ソロン序学士が、相変わらずの冷静な声で言って近づいてきた。
「サンザ商館に火を放て」
 マージの言葉に驚いたのか、さすがのソロンも即答できない様子だった。
「サンザ商館は学舎西館の目の前だ。ヴェンティがいかに剛毅でも、黙って見ていることはできぬはず。ヴェンティが出てくればゼタも必ずついてくる。オルクスは息子とその親友の危機を放置して王宮へなだれ込むような愚挙は冒すまい」
「ですが准学様、サンザ商館の倉庫には領内の民が向こう一か月は暮らせるほどの食料物資が蓄えられています。それを燃やし尽くせば、都民のみならず、学舎も困窮することになりませんか」
「どのみち食料は領外から運ばれてくるものだ。私が新政を敷けば食糧問題は三日で解決できる。序学士達は何も恐れず私の命令を」
「准学様、陛下がお呼びです!」
 マージの背後から学生が呼んだ。振り返ってみると、謁見控えの間の扉が開いていた。なんと、その奥の執務室の扉も開けっぱなしになっている。
「扉を閉めぬか!」
 マージの剣幕に驚いたのか、ふたつの扉が音をたてて閉まった。
 序学士も学生も、全員が押し黙り、不気味な沈黙が続いた。
「ここまで命令したことは実行するように。私は陛下にお会いしてくる」
 それだけ言うとマージはゆっくりと向きを変えた。閉められたばかりの控えの間の扉を開け、控えの間を横切り、学生達のあいだを割って執務室に入る。
 円卓の向こうで王は相変わらず頬杖をつき、遊びに飽きた子どものような顔をしていた。
「お呼びでございますか、陛下」
 マージは微笑み、さきほどまでの剣幕などかけらもない優しい声で問いかけた。
 王は返事をせず、つまらなそうに頷いて見せただけだ。
 マージが椅子に腰掛けると同時に王は、
「剪定を誤れば花は咲かぬ」
 短く言って、ふっと笑った。
 何かを示唆したのだろう。正確には探れなかった。自分でも意外だったが、マージは少しばかり破れかぶれな気分になり、
「邪魔な木であれば伐採すればよいのです、陛下」
 笑みは絶やさず、しかし冷淡に言い放った。
 王は軽く頷き、
「譲位する」
 いきなりの宣言だった。
 マージは眉をひそめ、何か悪い言葉でも聞いたかのような表情を作った。
 申し出に飛びつけば、譲位の宣言を待っていたと白状するようなものだ。ここは何をおいても、慎重に対処せねばならない。
「……というわけだ。ルーシェ公を呼んでもらいたい」
「陛下、譲位などと。冗談はおやめくださいませ。それに父ルーシェ公は政治に関心はありませんわ」 
「譲位に先立ち、マージを学博に任命する。学舎は西館と東館を分離する。マージは引き続き西館を指導せよ」
「東館はどうなさいます?」
「余は上王としてルーシェ公を補佐しつつ、東館学博を勤めよう。この案でどうか」
 あくまで、マージには譲位しない。いったんルーシェ公に譲位しておいて時間を稼ぎ、上王として権力も保ちつつ、重祚の準備を始める。王の意図は明白だった。
「何故、そのようなことをお考えになられたのか、お訊きしてもよろしゅうございますか、陛下」
「民のために最善の策だからだ。マージ、そなたは急ぎ過ぎている。急ぐ余り、民を置き去りにしていると思わぬか」
「民の心はいつでも取り戻せます。それに、マージは何も急いではおりません。陛下と同じように、民の幸せを思い、民を愛しております」
「では、都下各所への放火並びに武力行使をやめよ」
 マージは卓の下の両手を軽く握りしめた。情報は何一つ、ここへは入ってきていないはず。それなのに、王がこのようなことを言い出したのは何故か。広間でマージが学生に下した命令を、扉の陰で聞いていたからに他ならない。
 執務室から王を決して出すなと、学生達には言い聞かせておいた。にもかかわらず、扉はふたつとも開いていた。学生の中の誰かが、王の間者であったか、あるいはこの数刻で王に懐柔されて寝返った学生がいるのか。
 いずれにせよ、学舎西館を今一度、引き締めなければならない。
「マージ。このあたりで終わりにせぬか」
 王は自分が不利な立場にあるとは思っていない。それどころか、余裕があるかのように見せかけている。『機を見よ、撤退せよ』と、王の威を以てマージに言いたいらしい。
 マージは引き下がる気はなかった。生真面目な表情を作ってマージは立ち上がった。
「今一度、お時間をさし上げます、陛下。マージは控えの間でお待ちしています。それと陛下、マージがお願い申し上げたのは、商権と徴兵制でした。陛下からルーシェ公への譲位や、マージの学博位などではありません」
「どうあっても応じぬか、マージ」
「応じる応じないの言葉は、今のマージにふさわしくありません。陛下が、マージのお願いを聞き届けてくださるか、拒まれるか。そうではありませんか」
「マージの願いは容れられぬ」
 返事はせず、マージは円卓を離れた。扉前で振り返って居並ぶ学生達を一渡り見回す。誰が裏切り者なのか、マージにはわからなかった。再び歩を進め、控えの間へ入り、着座する。
 一刻あまりのちには北からの一団が到着する。
 マージの人生で、もっとも長い夜になりそうだった。




     セレスタイン物語6へ続く




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