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ぼくと東京の5年半

11月29日。5年半住んだ東京を後にした。


その1カ月前。
福井に戻ることにする、と両親と話をして戻ってきた東京の空気を吸ったとき、なぜだか東京のことを嫌いになりかけたのを鮮明に覚えている。

「東京のことが嫌い」という会話の中で決まって出てくる風景が、「くたびれた(ように見える)サラリーマンでごったがえす電車」だと思う。


東京で暮らした日々、何度となく満員電車を経験し、何度となく足を踏まれ、何度となく出入り口のドアに顔を押し付けられた。
けれどその度に、「ああ今東京で自分は生きている」という、優越感にも似た気持ちになっていた。


なにに対しての優越感なのかはわからない。
けれども、どこにも逃げ場のない閉鎖的な箱に揺られているその時間が、確かに自分のちっちゃなプライドを保てる原動力になっていた。


ただただ、東京への憧れしかなかった中学・高校時代。

関西の大学もいくつか受けてみたけれど、はっきり言って眼中にはなかった。

「満員電車に揺られる人たち」への憧憬がその時の自分の全てだったし、
その中で揉まれることによって、「自分はちゃんと生きている」感覚を持てるとも思っていた。


そして現実、そうだった。

でも、福井での家族会議を終え東京に戻ったあの日、
あれだけ自分が拠り所にしていたその風景を途端に嫌悪する感覚に陥った。


その感覚はあまりうまく言葉で表せない。

でも、あの空間に感じていた少なからずの熱っぽいものが、すーっと冷めていくような感じがした。

今まで自分が大切にしてきた、と思っていたプライドめいたものが瓦解していって、
同時に「もうここから離れるんだな」と、ぼんやり自分の中で覚悟ができたような気がした。


「東京でしか暮らしたくない」という想いで動いた就活時代。
今となればその気持ちの正体はなんだったんだろうってたまに思う。


結局自分も、「東京に住んでいる」っていうつまらないプライドに毒されていただけなのかもねっていう気持ちにもなる。

そんな東京から離れて1カ月。

好きな気持ち一色ではなくなったその地に対して、
福井に戻ってきてから新たな意味を見出せた気がしている。



「自分の身を都合よくどこへでも隠せる場所」


こっちに戻ってきてから、「世間狭いね」って言葉を使う機会が急激に増えた。


地元の市役所で転入手続きをしてくれた人が、部活の先輩だったり。
4月から働く会社の同僚に、小中ぶりに会う人がいたり。
同じくその会社の別の同僚は、ぼくの親友ととても仲が良かったり。


そんな感じで繋がりがどんどん増えるのを楽しいと感じる一方で、
ある程度になってくると息苦しくなっていくんだろうなあと半ば怯えにも似た気持ちを持っている自分もいる。


「だって、何も悪いことできないじゃん」


この話を東京時代の友達にするとき、決まってぼくはこの言葉を使う。


一言で表すなら「不自由」なのかもしれない。

ひとり行動がわりと好きな自分にとって、行き先でばったり誰かと会う事態はなるべく避けたい。
もちろん会えてうれしい人に会えればハッピーだけど、そんな人ばかりではない。

周りの目を気にしがちなぼくにとって、東京は住みやすい街だった。


街を歩いてて通りすがる人は、基本知らない人。
何千キロも離れた地からはるばる訪れた、もう二度と交わることのないような人であることも最近は増えてきた。


雑踏に身を隠せば、なんだってできる。
この人垣をすり抜けて、どこへでも行ってやる。

そんな気にさせてくれた。

ある意味ではとても自由だったのかもしれない。


そんな東京に、たぶんぼくは憧れを抱いていた。
そんな東京が、たぶんぼくは好きだった。

もしかすると、もう一生東京に戻る機会はないのかもしれない。
戻るとしても、何十年か先になるだろう。


東京と同じくらい、福井のことも嫌いになれるだろうか。
それ以上に、福井のことを好きになれるのだろうか。


なれたらいいな。
これから何十年も暮らす、ぼくの生まれた地。

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