捏造された「やりたいこと」
最近こんな記事を目にした。
SNSなどの発達によって、情報発信のツールが多様化し、それに伴いハードルも低くなった。
良きにつけ悪きにつけ、世界に拡散する各人の心の声の量は増大している。
それに伴い、自分の夢を叶え、キラキラした(ように見える)人生を歩んでいる人の軌跡にも容易に触れられるようになった。
そしてまた、こんなことを心の奥底で感じる人が現れてくる。
「自分にはなんにもないな・・・」
「あの子楽しそうなのに、自分なにしてんだろ・・・」
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ぼくは1回、「やりたいこと」を捏造したことがある。
今だから言える。自信をもって。
単に自分が旅行好きなだけで、「学校でいじめられたり、障害をもって苦しんでいる人に、世界は広いんだよっていうことを伝えたい。そのための旅を提供できるようなことをしたい」っていうことを真顔で言っていた。
浅かった。
それ以上の深堀をされると、途端に戸惑ってしまう自分がそこにいた。
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以来、ぼくは「やりたいこと」を聞かれるとだんまりしてしまう。
それが本当に心からやりたいことなのか、自信がもてなくなっていた。
そもそも、20代のうちに心の底からやりたいことを見つけられる人ってどのくらいいるんだろう。
経験と失敗と思考を限りなく重ねた者だけが得られるもの、っていうイメージが、今の僕は強い。
振り返って、前述した「やりたいこと」を心から信じれるだけの積み重ねがぼくにあるのかと言うと答えはNOだ。
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なぜやりたいことを捏造してしまったのか。
キラキラした人に少しでも近づきたくて、1つ上のステージに行きたくて、
その人たちが歩んだであろうプロセスを無視して安易にやりたいことをこしらえてしまったと、今のぼくは思う。
捏造された「やりたいこと」の亡霊は、けっこう長く人の心に居座る。僕の経験上。
これ以上進むのが難しいとどこかでわかっていても、もう後戻りできなくなる。
やっぱり積み重ねの中でしか、亡霊のいない「やりたいこと」は生まれないようだ。
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冒頭の記事にあったように、就活の中でもどこにいっても、「お前何がやりたいねん」っていうフレーズがつきまとう世の中になってしまった。
その中で、空想の中のキラキラ感に惑わされて、やりたいことを偽装してしまったぼくのような人間は、たぶん少なからずいると思う(と信じたい。笑)
でも、自分がつくりあげたその虚像は、たぶん知らず知らずのうちに何かを蝕んでいくことになる。
そこから逃れられるうちに逃げることができたぼくは、まだ幸運だったのかもしれない。
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