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認められるということ

こんにちは、中嶋です。

今日は朝から歯医者に向かい、結構長い時間掛かったのでちょっとだけ疲れてしました。笑

Blogにも書いたんですが、痛みに多少怯えていましたが、ほぼ痛みなく無事に終わりました。

初めに、こんな治療してもらっていたらきっと歯医者も嫌いじゃなかったのに、医療技術の進歩なのか? 歯医者さんの腕なのか? 何れにしても痛みなく治療出来る環境は嬉しいですね。

折角なので、しっかり治療していきたいと思います。


さてさて、今日のタイトルは認められるということ。


人は承認欲求ってのがあると思います。僕もあるか?ないか?と言うと多少はあります。ただ、誰に認めてもらいたいか? で、だいぶ違うのではないかな?とも思いますし、認めてもらうために自分を曲げるのも違うなと思っています。


みんなに認めてもらいたい。


若い頃は、そう思う事が多かったし、出来るだけ嫌われないようにと考えていましたし、その結果その狭間で自分自身が自分でなくなるというストレスを感じていたことも確かです。

最近、妻が言うのですが...汚い話、脱いだ後のシャツの匂いが全然違うと...ストレスがある時の匂いと全然違うと言うのです。知らない間にそうやって身体は変化を及ぼします。目眩もやばかったし、血圧も死ぬのか?ってぐらいだったし、好きなことやっているはずなのに、体調に変化を及ぼすぐらい自分ではなかったのでしょう。

認めてもらいたいとおもうがために、自分を見失い、自分の時間を効果的に使えないということは、何だかちょっと違うような気がするのです。

でも、本当に必要としている人は、そうではない自分自身、本来の自分を認めてくれます。

もし、必要とされなければ必要とされる場所で生きれば良いのです。




世界は、今、多くの若い才能を欲しがっています。



この前Blogの方に書いたけど、LOUD(韓国のオーディション番組)なんて、素晴らしい若い逸材を引き出すこと、その才能をコンテンツとして評価していくこと、サッカー界だって世界的に観ると若い選手が活躍していく場が沢山あります。

認めてもらいたい、評価されたい、

そんな若者の才能と欲求をもっともっと見出だせる社会になってほしいなぁと思っています。

勿論、才能が評価される場に行けばそれは競争です。

ただ、誰がそれをどう評価しているのか?

僕は、そっちの方をもっと大事にしないといけないんじゃないかなと?

認める側がその才能を見つけきれなかったら、そのフィルターに引っかからなかったら、ずっとその才能だっりその人材だったりは、活かされにくいと言うこと。

僕が雑草の事を学ぼうと思ったのは、そういう所で、雑草をどう観るt?、評価するか?  ただの自分の生活の中の邪魔な存在としてしか観ないのか?それとも、雑草の価値を理解しその力を評価していくのか? 



ある人の雑草の定義は

「望まれないところに生きる植物である」

しかし、アメリカの哲学者、ラルフ・W・エマーソンさんは、

「雑草とは、未だにその価値を見いだせていない植物である」


そう、若い人達も、僕みたいな50代のおじちゃんも、どう観るか?どう認めてあげるのか? 

それだけで、大きな違いを生み出す。

勿論、価値は人それぞれ違うし、正義も人それぞれ違う。

自分自身を評価してくれる人も居れば、観てもくれない人も居るだろう。

でも、もし自分自身が認めてもらえる人が1人でも居るのであれば、その瞬間にそれは価値になる。

自分が自分であることに、評価してくれる人、場所、そんな人達に認めてもらえたら嬉しいよね。


自分が自分であること。


認めてもらうために、誰かになる必要もないし、誰かの時間軸で生きることもしなくていいと思う。

自分が自分であることに、きっと認めてくれる人は居るはずだから....




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