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流浪の職人 ~ノマディック・アルティザンに込めた想いと、3年目の決意~

ノマディック・アルティザンという、アフリカの布、キテンゲを使った一点物のお洋服を世に生み出す仕事を始めて、3年になる。

そんな節目のタイミングで、先日ケニアのナイロビでポップアップを開催した。産休明け久々の、また、結婚して、子どもが産まれてから初めてとなる、1年半ぶりの開催。

楽しみに待ってたのよ、と久しぶりに会えたお客さま。ずっとお会いしたかったお客さま。はじめてのお客さま。応援してくれている友人。実に沢山の人に来て頂き、言わずもがな、過去最高の、予想を遥かに超える業績となった。ケニア在住の日本人の方もたくさん来て下さり、また夫のソマリア&ムスリムコミュニティからもたくさん足を運んで貰えた。多くの日本人男性陣が夫の服を買ってくださり、また逆に、多くのソマリア女性陣が私の服を買ってくれた。日本人の私の夫だから、ソマリア人の彼の妻だから、という眼差しがそこにはきっとあって、それはまさしく、国際結婚の美しさを体現していたと思う。今回初めて二人で開催したポップアップに手応えを感じていて、これからも二人三脚で成長し、ケニアで数少ない(唯一かもしれない)ファッションデザイナー夫婦として、ここケニアで、ひいてはケニア国外でも、たくさんの人に知って貰えるよう、今後も活躍していきたい。

そう、ところで、私は自分のブランドが、「ケニアのブランド」であることに、設立当初から激しくこだわっている。ケニア(アフリカ)発の日本ブランドではなく、はたまた、アフリカの布を使った日本のブランドでもなく。その定義と、ケニアのファッションブランドでデザイナーは日本人、の間には割と大きな隔たりがあると思っていて、目指していることもかなり違うのではないかと思う。

ちなみに、デザインはもちろん、パターン作りも縫製も、ほぼ私がやっている。ブランド設立から3年、最もよく聞かれる質問は、「なぜ服を作(れ)るんですか?」だと思う。私のバックグラウンドが音楽だと知っている知人からしてみれば、なんでファッション?と唐突な方向転換に見えたのは間違いないし、なんで急に服が作れるようになったの?と聞かれれば、確かに専門の学校に行ったわけじゃないからそうなるよなぁ、と自分でも思う。

ノマディック・アルティザンはそもそも、ケニアにたどり着くまでの5年間、日本に帰ることなく世界を放浪していた私の、次なるフェーズとして始まった、私の人生の新たなプロジェクトだ。世界を自分の足で訪れ、この眼で目の当たりにしたい。そしてそれが何かはまだはわからないけど、自ら新しい価値をこの世に生み出す人になりたい。そう願って、全てを投げ捨てひとり日本を発ったのが、今から8年前。自分が全力を費やしてやれるその何かを探し求めて、45ヵ国をあてもなく旅し、そして初めて訪れたアフリカはルワンダで出会ったのが、アフリカ布、キテンゲだった。その鮮やかさ、大胆な柄、無限のデザインに心を奪われ、きっとこれだ、と心が応えたあの日から、私の人生の新しい章が始まって、以来、同じ所で物語を書き続けている。

当時私はオーストラリアのメルボルンで、食品会社の営業事務として働いていて、半年の休みを貰って(正しくは辞職したけど、帰って来てくれないかと誘ってもらい半年後に帰るねと約束した)中東と東アフリカを旅していた。キテンゲとの出会いの後、オーストラリアに戻った私は、来る日も来る日も買って帰って来た布を眺めながら、どうしようかな、まずはテイラーさんを現地で雇えばいいのかな、などとぐるぐる考えあぐねていた。でもテイラーさんを雇っても、私が何もわかってなかったら指示すら出せないよな、そうだよな。そうして私は、あまりよく考えもせずに、とりあえずミシンを買った。しかも、ミシンといえば日本だろうよ、と、大金をはたいて日本から取り寄せた。自慢じゃないけど、最後にミシンを触ったのはおそらく、小学生の頃に手芸クラブだった時以来だ。

▲届いた真新しいミシンをまずは部屋に飾って、マニュアルを見ながら、あ、ボビンはこうやって作るのね、あ、こうやってまっすぐ縫うのね、などど練習をした

まずは何か作ってみよう、と初めて作ったのは、ケニアのモンバサで買ったタイダイを使った、リバーシブルのトートバッグだった。裁縫の知識なんて無論ゼロで、習うとか調べるとかよりもまず、どうやったらリバーシブルのカバンができるのか、頭の中で仕組みをずっと考えていた。仕事中も、縫い目がどっちにも出ないにはどうするんだ、布を切り替えるにはどうするんだ、と、頭の中で展開図を書いては組み立てて、ああでもない、こうでもないと想像を膨らませた。そうして考え抜いたことを実践して、特にやり直すこともなく、初めてのトートバッグが、すんなり出来上がった。

▲じゃじゃーん

謙遜しろよ、と言われても、だって、とにかくもう、ものすごく上出来だった。誰にも教わらず作れちゃったよ、と正直自分で自分に驚いたし、もうこの時点で、なんかこれは物凄く私に向いてるかもしれない、という確信があった。そこで当時暮らしていたシェアハウスのリビングを間借りして、初めての洋裁スペースを作った。そこから、朝7時から午後3時勤務のOLとして平日は働き、その後自宅に戻ってから寝るまでと土日はミシンを触る、という生活が始まった。

▲はじめてのアトリエはメルボルンのシェアハウスの、リビングの隅の小さなコーナーだった。なぜか当時のシェアメイトが「俺も作りたくなった!」と中古用品店から$20でミシンを買って来て向かいに参加。しかし彼が縫っているのを見たのはたぶん一度しかない

カバンがあまりにも簡単に出来てしまったものだから、では服はどうやったら作れるのかしら、と考えた私は、まず古着屋さんへ行った。そこで幾つか服を買って帰って来て、全ての糸をほどいて、観察した。そう、何を隠そう、私の服作りの知識の大半は、この時におこなった、服の解剖によるものである。ジャンプスーツから始め(いきなり難易度高)、パンツ、スカート、ワンピース、と解体しながら、へぇ、これはこうやって縫うのね、はぁ、こうしてるのは補強のためなのね、あ、ここはこっちと縫うのね、でひっくり返すのね?などと学んだことをメモ帳に書き留めた。解体し終わった布のパターンを眺めては、なるほど股下はこうなるのね、ああ、ポケットはこうか、などと。全部解体してから復元したりもした。
その後今に至るまでの間に、結局もちろん、服飾専門学校のテキストを買ったりオンラインの講座を受けたりして”きちんと”学び直したけれど、だからと言って真新しい知識を得たということは、正直あまりない。あの解剖に勤しんだ日々に見つけたことを、ああ、あれはやっぱり正しかったのね、あら、こんな名前がついてたのね、と答え合わせをしただけだった。今思えば、テキストの勉強から始めていたら、学んだものしか作れなかったかもしれないし、頭がこんがらがってやる気も失せて、やめていたかもしれない。

現地でテイラーさんを雇って、キテンゲで何かを作ろう計画は気づいたら、私はアフリカで服を作るのだ計画に変わり、メルボルンの仕事の契約を終えた私は、バックパックひとつとミシンを片手に、再びケニアの地に立っていた。当時はケニアに日本人が何百人も住んでいることなど知る由もなく、たった数人いたケニア人の友人を頼りにナイロビに戻って来た。そのうちの一人が家を空けているというので、しばらく泊めてもらえることになり、そこのリビングを占拠して、小さな作業場を作った。

▲ケニアで初めてのアトリエは、友人宅のリビング。日当たりが悪く、ひとりぼっちで、下界と遮断されたような毎日を送っていた

まずはGoogle Mapを眺めながら、やれ布はどこで買えるのか、ボタンはどこで買えるのか、糸は、針は、と調べては、慣れない乗合タクシーのマタツで色んなところを訪れた。地図に書いてあるところに行っても実在しないことがたくさんあって、途方にくれたのをよく覚えている。それでも根気強く続け、だいたい何処で何がいくらで買えるのかわかるようになってきた。そこからはもう、ただ、ひたすらに作り続けた。来る日も来る日も、知り合いも全然いない国で、特に外に出かける用事もなく、朝から晩まで作り続けた。最初はやっぱり、たくさん失敗もした。上下逆のまま縫ってた、裏のまま縫ってた、パターンが間違っている、縫う順序を間違えてやり直し、も効かないから最初から作り直し、等々。その度に、悔しくて泣いて、今日の1日の努力が無駄になったとふて腐れ、がっかりして小さく叫んだりした。それでも、大体は数時間から最長一晩で切り替えてミシンの前に戻った。それに昔から、集中力だけはズバ抜けて高かったので、深夜まで食事も忘れて作り続け、倒れるように寝て、目が覚めたらまたミシンの前に舞い戻る、ということもよくあった。こう振り返ると、何かに取り憑かれていたような勢いだったけど、あれは一体、なんだったのだろうか。

▲初めて作ったルームシューズのサンプル

何日も家から出ないので、久々に外に出るとケニア人の人たちが道を歩くのを見て、そうか、私ケニアに居たんだっけな、と笑えたりして。そうして制作の合間にウェブサイトをコツコツとデザインし、友人にモデルをお願いし撮影と編集も自分で行い、3年前のあの日、そっと、そわそわしながら、ポチリ、と、静かにウェブサイト公開のボタンを押した。

▲公開したその日に、世界中の友達に送った手紙。その1
▲公開したその日に、世界中の友達に送った手紙。その2
▲公開したその日に、世界中の友達に送った手紙。その3


あれから3年である。基本的にやっていることはあの頃と全く変わらず、ただこの間に、まさかのアメリカから旅行で来ていて3日だけ過ごした人と、その一年後に結婚して妻となり、あれよと子どもが生まれ母になった。肩書きとそれにまつわる役割が増え、さすがに朝から深夜まで倒れるまで働くことはなくなったけれど、未だに繁忙期は育児も家事も最低限だけやって、後はシッターさんと夫に全力で任せ、午前零時まで働くことは、割と頻繁にある。こんな勝手な生活が送れるのも、同業で理解のある夫と、子育てのしやすいケニアのお陰で、むしろケニアじゃなかったら私の生活は成り立っていない。ここでの暮らしに色々困難もあれど、ケニアに心の底から感謝しているし、全てのことは、なんだかなるようになってるんだなぁと、しみじみ思う。

▲初めてケニアで自分で借りたアパートメントに構えた、新しいアトリエ。窓が広くてとにかく気持ちよくて、お気に入りの場所だった


さて、話はだいぶんズレてしまったんだけど、私がなぜ、ケニアのファッションブランドであることにこだわっているかについて、どうしても書き残しておきたい。その理由は、ノマディック・アルティザンが、「日本人である私が、アフリカを拠点に、世界に何か新しい価値を提示していくプロジェクト」であることが、私にとって、とても大切なことだからだ。

日本に一度も帰国することなく、一人で世界を歩き続けたあの5年間の旅の中で、日本人である、というだけで、一体、どれだけの恩恵を私が受けてきたのか、想像がつくだろうか。日本人は正直だから、日本人は綺麗好きだから、日本製品は丈夫だから、日本は素晴らしい国だから。日本人として生まれただけで、私が誰なのかはさておき、こんなにも好意的に、世界のあらゆる場所で、信頼され、受け入れられてしまう。今ならわかるけど、そんな国、世界に数えるほどしかないと思う。それはまるで、行く先々で、誰かが敷いてくれた、あったかくて綺麗な絨毯を歩くかのような。そしてそうなのだ。その誰かは他でもない、日本人として活躍する先人たちであり、彼らが世界に示してきた姿の賜物こそが、今日の日本という看板を築いているのである。いや、少なくとも、当時の。

そう、残念だけれど、日本あるいは日本人というだけで、問答無用で信頼されていた時代は、終わりつつあるのだと思う。様々な情報が溢れ、ますます外の世界の影響を受けやすいこの時代に、日本の世界における立ち位置はいま、急速に変化していると思う。それを少し寂しく、もどかしく思う一方で、あらゆることに変化はつきもので、ずっと同じであることなどないのだから、それもまた必然か、とも思う。

でも、だからこそ、私の番なのだ。先人たちが私に繋いでくれたバトンを、少しでも未来に託すために。日本人のものづくりはやっぱり間違いない、日本人の仕事は信頼できる、と、たとえ小さな声だとしても、世界に伝え続けるために。世界をこの目で見て、日本を外から見てきた私だからこそ、やれることが、きっとある。

そんな想いは、息子が生まれてからより一層強くなったと思う。まだ7ヶ月の息子が大きくなった未来に、自分は日本人でもあるということを、誇りに思えるように。日本人のルーツを持つ彼が、世界で生きていくその新しい時代でも、私が受けたような優しさと好意を、かけてもらえるように。

▲ミシンが4台に増えた、ケニア3代目のアトリエ。初めてケニア人テイラーさん2人を社員さんとして雇い、仲間ができて、小さなチームに

だから私にとって、世界中の色んな国から、様々なバックグラウンドの人が集まるこの国で、ケニアのファッションブランドとして受け入れて貰えることは、最初の大きなステップだと思っている。もちろん私が日本人であることで、日本はもとより、世界中に住む日本人の方からもたくさんオーダーを頂いていて。そうして日本人コミュニティから支援してもらえていることを最大の力に、私は世界で、日本人として、戦いたいのだ。そして、この大陸とその文化に恋をし、ここに住まわせてもらっている者として、あるいは、アフリカの血を半分持つ息子の母として、微力ながら、「アフリカはカッコイイ」に貢献したいのだ。いつの日か、「あの日本人がやってる超イケてるケニアのアフリカ布のファッションブランド」に、なりたいのだ。そしていつかはケニアのみならず、ヨーロッパで、北米で、もちろん日本でも、ポップアップをやりたい。10年以内には、アフリカのファッションウィークに呼ばれるようなブランドになりたい。そんな野望を、ずっと口に出して言えなかったのは、ずっと負い目があったからだと思う。まともに服飾の専門的な勉強なんてしてない私が、デザイナーなんて名乗ったらダメだろ、ケニアのファッションブランドだなんておこがましいだろ、と。でもね、この世界には、学校にすら行けずとも、独学でそれぞれの分野で道を切り開いてきた人たちがたくさんいる。それを教えてくれたのは紛れもなく、ケニアだった。


▲先日のポップアップのブース。朝一で天気が生憎に見えるけど、この後よく晴れました


先日のポップアップで、忘れられない出来事があった。白髪の女性が一人、少し微笑みながら私のブースに入ってきた。迷うことなくルームシューズを触り、いくつかの柄を見比べたあと、私の方を向き直して、「改良したのね」と微笑みかけた。その瞬間、やっぱりそうだ、と確信する。彼女は3年前、初めて私がケニアでポップアップをしたあの日に、ルームシューズを買ってくれた女性だった。「あの、もしかして、」と尋ねると、彼女は驚いたように「あら、よく覚えていたわね!そうよ、あの時ルームシューズを買ったのよ私。洗っては履き続け、ついに破れるまで履き潰したの。だから、新しいのを買わなくちゃ、と思って。」そうして新しい一足を購入してくれた。
「あなたが初めてマーケットに登場したあの日のこと、よく覚えてるわ。小さな机ひとつと、ハンガーラックひとつのスペースで。それが見てご覧なさい!こんなに広いスペースと、たくさんのラックに商品に。誰かの成長していく軌跡を見れて、嬉しいわ。」そう言って、彼女は颯爽とブースを後にした。

▲初めてケニアで開催したポップアップのブース。1つのハンガーラックと、テーブルだけ


この3年間、来る日も来る日も、ただただ黙々と作り続け、ずっと同じ場所に留まっているような気がして不安になったこともあったけど、そうだよ私、実は一歩ずつ、前に進んでいるじゃないか。何と比較するでもなく、私は私のペースで、まわりの流れの速さや華やかさにも微塵も影響されることなく、私が目指すそのゴールに向かって、ただただ、愚直にものづくりをしていくだけだ。目標にたどり着くには20年30年かかるかもしれないけど、全然いい。だって、ただつくることが好きだから、なんかそんなに生き急ぐ必要って、ないんだもの。

▲ヴィレッジ・マーケット。ケニアで商品を取り扱ってもらうなら、絶対にここからがいいと、ずっと思い続けてた場所。写真はwebの海からパクりました

最後に、ちょっと宣伝だけれど、この7月から、ケニアで一番イケてるショッピングモール、The Village Market(ザ・ヴィレッジ・マーケット)のセレクトショップで、ノマディック・アルティザンの取り扱いが始まる。実はグランドオープンのタイミングでラブコールを貰っていたのだけど、妊娠中の悪阻真っ只中に貰ったメッセージに3ヶ月ほど全く気付かず、ストアがオープンして話題になってからそれに気づくという失態。さらに、セレクトショップに並べられるほど手持ち商品がないことや、オンラインのローンチを優先したりなど、色んな私の都合にも待ち続けてくださり、今回ようやくタイミングが整って、スタートできることになった。「今ナイロビで、一番洗練されたキテンゲのブランドだと思うわ」と、キュレーターの方に言ってもらえた時には、鳥肌が立った。正直、アジア人、アフリカン、西洋人の全てを対象に洋服を作ると、サイズや体つきの違いなどが多様すぎて、デザインを書くにもサイズ展開を考えるのも物凄く大変で、「あー無理かも」と弱音を吐きたくなる瞬間もある。でも、ケニア人のお客様に、「こんなおしゃれなデザインのキテンゲワンピ、今まで見たことないわ」と言ってもらえたり、アジア人のお客様に、「ケニアじゃどのキテンゲのブランドも私には大きすぎるから、私のサイズもあって嬉しい」と言われたり、西洋人のお客様に、「お土産みたいなクオリティじゃない、モダンなキテンゲのファッションに出会えて嬉しい」などと言われると、よーしもっと頑張るぞ、とふつふつとエネルギーがこみ上げてくる。

やりたいこと、作りたいものは山のようにあって、まだまだキャパシティが全然追いついてなくて、なかなか思うように進められてない部分もあるけれど、一つずつ、一歩ずつ、確実に前に進んで行こうと思っている。こんな私のささやかな奮闘記を、これからも長い目で気にかけて頂けたら、とても有り難い。超絶マイペースな私だけれど、ぶれない使命感とものづくりに対する熱量は、ちょっとやそっとじゃ揺るがないほど、強靭で膨大だ。


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