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さらば蓬莱1~日治台湾の落日~

「蓬莱」とは、神仙が住むという中国の伝説の島。日治時代、日本より物資豊かで気候温暖な台湾に、日本人はこの別称を付けました。
 表紙写真は、現在の基隆港。かつては日本と台湾を結ぶ航路の港でした。終戦後、台湾北部に居住していた日本人はここから引揚げました。

*日治台湾は「日治(日本統治)時代の台湾」を意味する私の造語です(2008年頃から使っていますが、もしすでに存在する言葉でしたらお知らせください)

その1 8月15日のあと

『海角七号』といえば、そこそこの台湾通なら知っている、2008年公開の台湾の人気映画です。
 個人的には、日本人女性がこんなにひんぱんにわめいたり、キレたりする?という印象が強いのですが、中孝介さんの「トモコ・・・」で始まる手紙の朗読は切なくてちょっと泣きました。
 でもこの映画で私が一番驚いたのは、日本人教師が引揚げ船に乗り込むシーンでした。丸で客船。乗っている日本人(この教師も)だって帽子にコート姿とか、丸で旅行に行くみたい。
 難民船さながらの状況だったことを、まさか台湾では全然知られていないのか、それともビジュアル的に見栄え良くしたためなのか。もし前者であったら、日本人はなおさら知らないはずです。そういうわけで、今回は終戦後、台湾にいた日本人がどうなったかについてのお話です。

 まずは、終戦時に15才(女学校生徒)だった竹中信子先生の体験談を紹介します。先生は、祖父の代から蘇墺(台湾北東部)に住む湾生(台湾で生まれ育った日本人)で、引き揚げ時に初めて日本に行ったそうです。親や祖父の代から台湾にいる日本人には、こういう人は珍しくありませんでした。
 

蘇墺の市場にて。町の近海は素晴らしい漁場で、海鮮が豊富


昭和20年 8月15日
挺身隊(戦時中、工場や病院などへ女性が手伝いとして行くこと)で動員されていた病院で終戦の第一報を聞いたが、ピンとこなかった。夕方、「動員は今日で終わり」と言われた。
 
8月16日
新聞一面に、徹底抗戦と終戦詔勅の2つの記事が掲載されていた。何をしたらいいか分からず、同級生たちと動員先の病院へ行く。そこである兵士から「敗戦はお前ら国民がだらしなかったせいだ」と八つ当たりされたが、少尉から「今までご苦労様、これからは新しい日本のために勉強しなさい」と言われ、泣けた。
 
8月末
廟の前に台湾人男性数百人が集まり、日本時代の恨みを訴える集会を開いていた。こっそり見ていたら気が付かれ、「日本人がいるぞ!」と石を投げつけられた。昨日まで仲良くしていたのになぜ?と逃げながら泣いた。
 
9月
台湾人報復の話が頻繁に聞こえてくる=若い男性を見つけると台湾の青年団が殴る。警官や軍事教練官がトラックにしばりつけられ、市内を引きずり回された。家に一人でいた女性が台湾人に強姦された。それまで日本人にすりよっていた台湾人が一転、リンチの首謀者になることも多発(1)。
 民間の会社や商店は経営を続けていたが、明日はどうなるか分からない+公務系日本人の多くは失業=道端で家財道具を売る人が増え始める。ただし「日本人から物を買うな、もらうな、発見次第没収」と国民党が命じたので、都市部ではなりを潜めていった。
 
10月10日
突如として、新聞紙面が全文中国語に。
 
10月15日
国民党第1陣、基隆上陸。蘇墺に近い宜蘭にやってくると聞いた台湾人同級生たちが、「港まで迎えに行こう」と聞こえよがしにはしゃいでいた。が、翌日にはションボリしていた。自分も国民党軍を見たが、あまりのみすぼらしさとだらしなさに唖然とした(2)。

10月~年末
軍人とその家族が引き揚げ始める(3)。「民間人も引き揚げさせられる」と「希望すれば台湾に残ることができる」の噂が飛び交い、日本人は寄るとさわると「お宅は引揚げか残留か」の話に。例え総引揚げでも、今の日本は焼け野原なので4,5年先になるという噂が有力だった。そこで、農業を始める日本人もいた。
 
昭和21年 1月末~2月上旬
隣組の回覧板で引揚げの通達が突然来る。持ち物や集合日はすでに決まっていた。1か月足らずで準備しなければならず、どの家庭も大変だった。
 
3月
知り合いの台湾人たちと送別会。ペットの子ザルと犬を託す(動物は連れていけなかった)。
 引揚げ当日は隣組ごとに地元小学校に集合後、引き揚げ者専用列車で基隆へ。途中「規定上の金銭は没収」というニセ兵士が来て、港で船出を待つ間の費用として余分に持ってきたお金を、乗客全員がだまし取られた。
 港の倉庫で一晩明かした後、荷物検査を経て乗船。3段にぎゅうぎゅう詰にされ、足も伸ばせない。トイレは甲板に2か所だけ。駆逐艦だったのでたった2日で鹿児島に着いたが、みなひどい船酔いに苦しんだ。
 
1)先生は、蘇墺のある警部が町の広場でリンチされる現場を目撃。かつてはこの警部の子分気取りだった台湾人たちが殴る蹴るの制裁を与えたが、警部は「戦争に負けただけで心は負けていない!」と屈しなかった。夫人と娘が土下座して「もう許してください」と泣いて頼んでも止まず、警部はこの時の傷が元でのちに死亡したという。

2)15日に基隆に上陸した国民党軍は、17日に台北市内をパレードしたが、祖国の軍隊の晴れ姿を拝もうと集まった市民たちは一様に失望した。敗戦した日本兵ですら軍服も軍靴ももっときれいだったのに、何より姿勢や顔つきがあまりにだらしないので驚いたという。

3)国民党は、日本の兵力が残っているのを嫌がった。また日本の軍人たちも戦犯の罪状追求されることを恐れ、「帰国してよい」という通達をもらうと真っ先に引き揚げていったという。


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