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「敗戦後論」後の思い 表出――加藤典洋『さようなら、ゴジラたち:戦後から遠く離れて』(岩波書店、2010年)評

山形市出身の著者が1995年に発表した論文「敗戦後論」。この論文は当時隆盛を誇っていたポストモダン派の研究者や批評家たちとの間に「歴史主体論争」を引きおこすきっかけとなった点で有名だ。

彼らを激昂させたのは「侵略戦争に関する謝罪に必ずその反対主張が伴うという分裂構造を克服し、真の謝罪主体を打ち立てるには、まず日本の300万の戦死者を悼み、それを通じてアジアの2,000万の死者への哀悼や謝罪に至る道筋が必要」という著者の主張だ。国民国家批判が十八番であった彼らにすれば、その論はナショナリズムそのもので、よりわかりやすい敵であった「新しい歴史教科書をつくる会」などと一括りにされ、まとめて叩くという手荒な扱いを受けたのだった。

だが、15年が経過した現在、当時とは異なる新しい「敗戦後論」の受けとめかたが、あちこちで散見されるようになってきた。本書は、そうした文脈を踏まえ、著者が論争後の十数年間に「戦後」をめぐって続けてきた思索の軌跡を一冊に編んだ、言わば『敗戦後論』の続編である。

ではなぜそのタイトルが「ゴジラ」なのか。著者曰く、『ゴジラ』(1954年)こそ、戦後日本の無意識を映し出す文化象徴であり、そこに人びとが投影したのは、戦場で死んだ日本の兵士たちの亡霊なのだ、という(夜に品川沖から上陸し、東京を壊しまくるゴジラは東京大空襲を、物語の終幕で海へ沈められるゴジラは戦艦大和とその死者たちを意味する)。

ゴジラという多義的な表象をいったん存在させてしまった私たちは、この「不気味なるもの」を何とか飼いならしていかねばならない。かくして、その後シリーズ化の中ではゴジラの無害化、「かわいい」化が進んでいくことになる。そこからは、現在の私たちを取り巻く無数のキャラクターの群れを「不気味なもの」から身を守るための護符と考えることもできよう。

私たちはまだ「戦後」を終わらせることができていない。終わらせるべきものが何なのか、「敗戦後論」から15年後の現在、今度こそ私たちはそれに向き合う必要がある。(了)

※『山形新聞』2010年10月03日 掲載

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