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今週の、いちばん。第17回/ニセモノの言葉でも、ホンモノの感動を生めるのか?

her」は、「言葉」の映画だった。
こうまとめるのは、すごく乱暴なことだろう。
でも、編集者である僕がこの映画を見たあと考え続けたのは、やはり「言葉」のことだった。

(*以下、多少のネタバレを含むので「これから見る」方は十分ご注意を)

個人的には、いまだ「ビースティのPVとかを撮った人」の印象が強いスパイク・ジョーンズ監督の最新作、「her」。
この映画の主人公セオドアは、ラブレターやお礼状など、あらゆる手紙の「代筆」が生業だ。
彼が代筆する手紙は、のちに本にまとめられるほど、人の心を動かす素晴らしい言葉でつづられている。
でも、それは差出人自身の言葉を離れた「ニセモノの言葉」だ。

一方、そのセオドアが恋に落ちるAI(人口知能)、サマンサも人の心を動かす言葉を持っている。
しかも、どんどん学習を続けるAIだから、ある理由で傷心中のセオドアの心を、次第にほぐしていく。
でも、それも、人ではないものが話す人の言葉という意味では、「ニセモノの言葉」と言っていい。

ところで、以前、佐村河内なる人物が「ゴーストライター」問題で世間を騒がせた。
あれは音楽の話だけど、僕も仕事柄、ライターの方の取材と執筆で本を作ることがよくある。
ライターの方にやっていただいてるのも、平たく言えば著者の方の「代筆」だ。
だから、それもあえて「ニセモノの言葉」と呼んでみよう。

誰かが、あるいは何かが関わり、翻訳、編集することでできる「ニセモノの言葉」。
でも、それらの言葉はときおり、いや、けっこう頻繁に人の感動を生む。
それは「当人がすべてを発していない」とわかったら、まったく価値がなくなるものなのだろうか?

僕はビジネス書の編集者として、よく著者候補の方に「誰が、何を言うかが大事だ」という話をする。
ようは「人と言葉をセットで受け取ったとき」に価値が生まれるのだと。
けれど、その一方で、本当に素晴らしい言葉は、誰が言ったとか関係なく素晴らしいんじゃないか、と思うこともある。
たとえ「ニセモノの言葉」であっても、その言葉とあるとき出合うことにで誰かが心動かされたとしたら、その言葉自体は「ホンモノの感動」を生んでいるじゃないかと。

僕自身、この話についてはまだ考えがまとまっていないし、手紙の代筆とAIとブックライティングを一緒に語るのにムリがあるのはわかっている。
それでも見切り発車で書いたのは、「誰が言ったか」だけにこだわる風潮は、ときとして「言葉」を狭いところに閉じ込めるんじゃないかという心配があるからだ。

本当に力のある言葉は、たとえ「ニセモノの言葉」だったとしても、海を越え、時を超え、人を揺さぶるんじゃないだろうか?
少なくとも僕は、そんな言葉を残してみたいと思うときがある。
それがたとえ、滝啓輔という人間の言葉だと記憶されなかったとしても。

今週の、いちばん言葉について考えた瞬間。それは、8月2日、銀座の映画館で「her」を見た瞬間です。

*「今週の、いちばん。」は、その1週間で僕がいちばん、心が動かされたことをふりかえる連載です(下の「このマガジンに含まれています」のリンクから全部の記事が読めます)

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