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壊れても、なおせるもの、なおせないもの。/今週の、いちばん。69

ついていない一週間だった。
我ながら辛気くさい書き出しだが、事実そうなのだから、仕方ない。
週の半ばにいくつかアクシデントが集中し、きわめつけは、仕事でガシガシ使ってるMacBook Airの液晶画面が、喫茶店でのMTG中に、上の写真のようになってしまった。
帯が虹色の本
を作っているとはいえ、画面にまで虹がかかるとは、笑えない。

仕事上、一刻も早く元の状態で使いため、土曜日に修理店に持ち込んだ。
幸い、代替のパーツもあり、すぐになおしてもらった。
結構な出費だったが、その分土日も進めた仕事がいつか実を結んで、修理代を回収できるものと信じたい。
ちなみに、自分が持って行った店ではないが、このサイトに液晶画面の修理の様子が紹介されている。一種の職人技と言えるだろう。

少し、話が飛ぶ。
「モノ」ではないけど、壊れるものはある。
「人間関係」とか「組織」とか、そういったものも、しばしば壊れる。
いや、「壊れる」というと少々無責任な表現か。
誰かが、あるいは複数の人間が、自覚か無自覚はおくけれど、それらを「壊す」。

その後の対応は、まちまちだ。
壊れたまま放っておく場合もあるだろうし、修復を試みる場合もある。
でも、なおそうと思っても、すべてがなおせる、とは限らない。
なおすために不可欠な「パーツ」が壊れてしまうと、元どおりにはならない。

それは「信頼」なのか、「敬意」なのか、「自信」なのか、「情」なのかわからないけれど、そこに決定的な傷がついた以上、なおったように見えても、昔と同じ関係は戻らない。
年を重ねると、そんな「なおせないもの」を、たびたび見かけるようになる(すべての人がそうだとは言わないが)。

人の感情は、すぐに「取り寄せ」がきくものではない。
僕のMacBook Airのように1日で修理できればいいけれど、そんなに早くなおらないし、なおりきるとも限らない。
壊れてもなおせるものだけじゃない、と思うと、人はもっと丁寧に生きられるだろう。
ただし、それに気づくとき、たいていは、すでに手遅れだったりするのだけど。

今週のいちばん、「なおせないもの」について考えた瞬間。それは8月22日、渋谷のカフェで修理済みのmacを開いた瞬間です。

*「今週の、いちばん。」は、その1週間で僕がいちばん、心が動かされたことをふりかえる連載です

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