グンジョーブタイ ロクな死にかたを観た日

雨が降っていた。憂鬱な気持ちで会場へと向かう。
バイクを走らせていると、視界に何かの亡骸が入ってきた。
猫だろうか。狸だろうか。アスファルトに散った薄茶色の毛の塊とやたら目立つ黄土色の細長い筒状の何かが見えた。身体からはみ出したであろうそれを横目に大きくハンドルを切って、避けた。


とても好きだった個人ブログがある。
淡々と綴られる文章と独特な風景画像に魅入られて、暇さえあれば覗いた。一つ目から最後まで、何度も読んだ。
そのブログの主A氏と面識はない。内容から、同じ広島市内に暮らす男性、とだけしか知り得なかった。勝手ながら随分と歳上の方だという印象を受けていた。
ある日、少しの間更新が止まるという妙に明るい文章と、それに似つかわしくない薄ら寂しい風景画像の投稿があり、更新が途絶えた。
数ヶ月経っても更新されることはなかった。なんとなく、二度と更新されることはない、と感じていた。
ひょんなことから、A氏が件の投稿の直後に亡くなっていたことを知る。期せずして、A氏本人と思われる画像も。想像よりも遥かに若く、死の間際とは思えない生きる力に溢れた表情。たった一度で、網膜に焼き付いた。
それから何度かブログを覗いた。「三ヶ月以上更新のないブログには広告が表示されます」という表示を、目にする度苦々しく思う。
数ヵ月後、驚いたことにその不快な表示が消えていた。最新の投稿は、ほんの数日前の日付。形容し難い感情に混乱しながら一気に読んだ。普段通りの、淡々と綴られた文章。紛れもなく、A氏の文章だった。
それは成りすましではなくA氏本人の「手の込んだいたずら」だったのでは、とA氏と交流があったらしい方のブログで考察がされていた。なるほど、仕掛けも頷ける。真偽は定かではないがA氏なら、と全く知らない相手であるのに納得した。
今でも、時折ブログを覗く。そして、あの不快な表示を目にする。「手の込んだいたずら」は一度きりではなく、もう一度あるかもしれない、あってほしい、という勝手な想いは、恐らくブログが消されるまでは消えない。


長く広島市内に住んでいるが通ったことの無い道は多い。観劇後アステールからの帰り、普段は通らない道をとバイクを走らせた。
ヘルメットのシールドに、僅かに水滴が垂れる。ああこの道はこの交差点に繋がってるのか、などとのんびり風景を眺めていた私は、忘れていた、しかし見覚えのある街並みに思わず声を漏らした。


学生時代、Bという友人が居た。お互い部活帰りに待ち合わせてはだらだらと喋る。出不精な私にしては珍しく、休日もよく会っては喋り倒していた。
ある時Bに、一緒に行って欲しい場所があると提案をされた。いくつかのバスを乗り継ぎ、連れて行かれたのは市内中心部からほど近い、薄暗いアパート群。古い建物の間を歩きながら、取り留めのない話をした。その街は、Bの生まれ育った街だそうだ。
Bは言った。「言ってなかったけど、ほんまは、  なんよ」と。その言葉の意味を、その時の私はなんとなく理解していた。「そうなん」と軽く返し、場を取り繕うように他の話題にすり替えた。
Bはどれだけの勇気と覚悟を持って、私にその言葉を告げたのだろうか。Bがどんな表情だったか、記憶にはない。


忘れていた、しかし記憶の何処かに残っていた見覚えのある街並みが、水滴の向こうに広がっていた。ああ、Bと二人きり、此処を歩いたんだった、と確信した。あの頃、言葉の意味は理解していても、街の持つ意味を理解していなかった。バイクを止めて薄暗いアパート群を見上げた。
Bが何処でどう生きているのか、知る由もないし知るつもりもない。

きっと、ロクでもない生き方ばかりでロクでもない死に方をするであろう私はその間際に、「そうなん」と笑って受け流したことを、そして何度考えても何と返せば良かったのかずっと言葉が見つからないことを、唯一ロクな後悔として思い返すのだろうな、と思った。


行きに避けた亡骸は最早単なる風景になっていた。薄茶色の毛の塊は遠目には落ち葉の集合体と変わらない。タイヤとアスファルトに何度もすり潰されたそれらは散り散りになって道幅目一杯に広がり生きていた色を失っていた。
私はその上を真っ直ぐ突っ切った。毛の塊だったものに視線を寄越した。口の中に胃液の味が広がった気がした。


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