月を照らし照らされた人に出会った、という物語を観た、という散文

 何かを抱えて、という姿を想像したときに浮かぶのは、腹の辺りに何かを抱えてうずくまる姿ではなく、膝から下が、すねやふくらはぎが、もしくは肘から先が、手首より肘に近い辺りが、その辺りが傷だらけになっているような、そんな姿。
 日常、運転をしながら朝、街を行き交う人を、歩く、走る、待つ、進んでいく見知らぬ人の、膝から下が、肘から先が、傷だらけのそこらから、赤い液体がひたひたと滴って地面に落ちていく様を、毎日眺めている。

 あの時あの人は、あの日あの人は、交差したあの背中は横顔は、何処を歩いて何処に行くのか、今何処にいるのかいつ終わるのか。人と関わろうとしない薄暗い道に、現れては消えていく人の、その傷は、癒えはしないが聞きもしないまま。そしてまた、聞かれもしないし言えもしないのだ。この先もずうっと。

 恐らくもう、諦めのような、呆れのような、随分と長い間、道を照らしながら歩くことを、振り返っても暗すぎて見えない程、とうの昔に止めてしまった。苦楽を天秤にかけてかけて遂に皿を外した怠け者に、それでも時折現れる奇特な人に、どう笑って何を返せば良いのか毎度毎度手探りで、滴った指を咥えたまま固まるのだ。一体人間を何年やっているのか。

 道を下っていく。青空の下で、車は少なく、歩く人は居ない。両手を離れた子供達が、見て、見て、とはしゃぐ。お母さん、見て。お母さん、写真撮って。
 何故歩いたのか何処に向かったのか経緯は全く思い出せないあの日あの時、傷一つない脚で走り、傷一つない腕を伸ばし、笑顔で呼ぶ彼らの声に、傷だらけの脚と、傷だらけの腕でもって最大限に答えたあの光景は、確実に、足元を照らしている。それだけで生きていける気がする。
 誰もが、照らし、照らされて、ずうっと生きている。きっと産まれる前から死んだ後まで、照らし、照らされて、滴ったまま、歩いていく。
 淡い光が、背中を押している。

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