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他人から理解されないワケ


他人から理解されない。
なかなか理解してもらえないんですけど、どーしてなんだろうか?


このように、人に理解してもらえないことを嘆いてしまう、あなたにもありますか?


他人に理解してもらえないのはそりゃ辛い。
「なんでだよ、どーしてこれがわからないだよ」
「ホットドッグの一番おいしいとこは、棒についてるカリカリしてるとこなんだよ」

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いや、これはおそらく大多数の人に理解してもらえるんじゃないかな。
ホットドッグのおいしいとここだわりはいいとして、あなたにもあなただけのこだわりや好きな事やモノがあると思います。
そして、そういうモノの中には他人にどうしても理解されないことがあるはずです。
下手すりゃ変なヤツ、不思議ちゃん扱いにまでされることもあろうかと思う。


さて、こういった変わった人に対してあーだこーだといいはじめると、結果的に「理解」しないといけないので、変わった人のことをひも解くのはあまりにも難解。


しかし、変わった人の立場でなら、いえることはあります。


というのも、僕自身もこれまでさんざん「変わっているなお前」っていわれてきたから。
いえ、じつは僕だけではない、おそらく誰もが一度は言われてきたはずだ。


なぜなら、人間ひとつやふたつ、他人と異なる変わったところがないと、精神がやられてしまうからです。


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読んで頂いている途中でスミマセン。👨
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それでは続きをお読みください。😊



理解と誤解


まず、「なんでこのよさがわかんねーのかなぁ」と、他人に理解されないことに不満を抱いたり、辛く孤独感さえ感じることもあります。
そんなことをいうあなたに聞きたい。


それは「理解されにくい」のか「誤解されやすい」のか、どっちなのだろうか?


少し深い話になります。よく考えてみてもらいたい。


あなたがもし、他人に「理解されにくい」というのは、それはもしかして「誤解されやすい」ことなのかもしれない。


そして、その誤解さえ解ければ、少しずつわかり合え、徐々に理解も深まっていくとは思いませんか?


要するに、理解されにくい前に、誤解されやすいことであるからして、その誤解を解いてあげない限り、到底理解なんてしてもらえない。


ところが、誤解が解けていないにもかかわらず、一足飛びに「理解してもらえない」と嘆いでしまう。


「理解」はしてほしいものであり、「誤解」はされたくないもの。
にもかかわらず、してほしいことがされず、してほしくないことがされてしまうのが実際起きていることだったりする。


つまり、「理解してもらえない」という心底には、「理解してほしい」といった利己的な本能が強まっているため、できれば避けたい他人の「誤解」に目を背けしまうのだ。


自分本位の「理解してほしい」は、他人がついやらかしてしまっている誤解を無視した利他的精神の欠如ともいえます。


ひどくなると、理解できない他人を理解力の欠如人間であるとレッテルを貼り、理解してもらえない他人を敵視したり蔑視したり、何様のつもりか見下したりなんかして、自尊心を保つことに躍起になることさえある。


理解してくれたら味方、理解しなかったら敵というような、両極端な考えになるのもまた、自分本位な考えが強く他人の視点に立てない利己的且つ、承認欲のあらわれではないだろうか。


とはいえさすがこのタイプは極論だが、相手に対して過剰に理解を求めてしまうという場合、それは自分の中にある世界観に引きずりこみ、他人を支配下とし「自分だけが気持ちよくなりたい」。そんなフシがあっても過言ではないはず。


他人に理解してもらいたい=自分だけが気持ちよくなりたい
他人に理解してもらえない=自分が気持ちよくなれない


誰も、あなたを気持ちよくするために理解を深めようとしているわけではない。ただ誤解を招いているだけかもしれないのです。


身も蓋もない話になるが、
他人に理解されないその原因は、他人にあるのではなく、自分にあるのではないか?

といった視点に立つことを忘れてしまっています。


理解されたい欲が強すぎて、理解されない不満が先走り、前提にある相手の誤解を解くべく施しを忘れてしまっているのです。


「前提」の違い


さっきから誤解、誤解といっているけど、その誤解を招く正体は何なのだろうか。


たとえば、日本では食器を持って食べないと「犬食い」といって行儀が悪いと思われることが多いですよね。
しかし、海外では食器を持って食べていると、がっついているように見えるため、食器を持って食べることは行儀が悪いとされています。


おそらく海外の人が初めて日本にこられたときは全く理解できないでしょう。


それに対して日本人が「これが日本の文化なんだ」といきなり外人さんに理解を求めたとしても外人さんは理解してくれないでしょう。


これはまぎれもなく文化の違いなのですが、それ以前に「国」が違います。


つまり、外人さんが理解してくれないその背景にあるのは、各々の国という「前提」の違いがあるということ。


相手の理解を求める以前に、
相手は何をどこまで知っていて、何を「前提」としていて、相手と自分とでその「前提」が共通なのか、

そうしたことに気を配らないといけない。


こうした前提の違いは、たぶん、それぞれの考え方の違いからきています。


お互いの考え方を変えることは不可能に近いが、互いには違う価値観があることを前提に理解を求めれば、認め合うことは不可能ではない。


そうはいっても、互いの価値観は強固なもので、認め合うことは容易ではないかもしれない。


しかし、そもそも前提の違いがあることに気を配らないまま、いきなり理解を求めてしまう行為はあまりにも愚の骨頂であることは確かだ。


他人に理解してもらえないというあなたにもう一度聞きます。


それは「理解されにくい」のか「誤解されやすい」のか、どっちなのだろうか?


他人に理解を求めることは、相手の価値観を蹴散らそうとしているともいえます。


こんな話があります。
他人との付き合いが苦手な人が、とある精神科医の先生に「付き合いづらい人ってどんな人ですか?」と尋ねました。
すると、精神科医の先生は「人の気持ちをわかろう、理解しよう!と一生懸命になる人です。」と聞かされ、ハッとしたそうです。


考えてみれば他人の気持ちを全て理解なんてできませんよね。
もし仮に、全てを理解できてしまったら、おそらく自分が潰れてしまうだろう。


相手のすべてを理解しようとしてはいけない。いくら傾聴しても、必ず自分のフィルターを通して聞いてしまいますから。自分の価値観に置き換えて理解しようとしますからね。これは仕方がないことです。


そしてまた、他人にすべてを理解してもらおうとしなくてもいい。

他人に理解を求めると疲れます。


それに、他人に自分のすべてを理解されたら面白くないじゃないですか。


だって、理解されていないということは、その人の考え方を超越しているということ。

理解されないことを、自分だけが理解して楽しめるってサイコーじゃないですか?

ひとりひとりが、

みんな違って、みんないい。


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またまた最後にスミマセン。👨
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最後までよんでいただき、
ありがとうございました。😊





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