見出し画像

Takk. 僕はいったい誰で今までどんな人生を生きてきたか。

はじめまして。清水拓也 Takk.と申します。改まって自己紹介をすることは稀なので、ここらでちゃんと書いてみます。目次がサマリー版になっているので、サクッと読みたい方はそちらをご覧ください。

Takk.はアイスランド語で「ありがとう」

「Takk.」はアイスランド語で「ありがとう」。シガー・ロス (Sigur Rós)のアルバム「Takk...」も有名ですね(大好き)。

僕がよく呼ばれる名前が「タク」なのと、学生の頃ホームステイ先のホストマザーが「Takuya」を発音できなかったので、確かそれ以来使っています。個人の屋号みたいなもんです。

生まれと育ちとかいろいろ

僕は1987年生まれ / 乙女座 / O型 /東京は文京区生まれ荒川区育ち。小さい頃は年上のお兄ちゃんたちに混ざって、ひたすら公園で泥だらけになる少年でした。運動がとにかく好きで、サッカーが大好き。幼稚園ではボールを蹴って園庭を走り回っていました。

スクリーンショット 2020-04-20 20.53.01

ちなみに昔から恐竜が好き。僕が小さい頃のティラノサウルスには羽毛はなかったのに、今やカラフルな羽毛が・・・みたいな話で延々盛り上がれます。恐竜にはロマンがあるんです(ガオー!恐竜最高!!)。

ちなみにちなみに、天然パーマです。小学6年生までサラサラだった髪は中学に入るとクルクルと巻きはじめ、今に至ります。長い付き合いの友達にも間違えられるし、もはやどうでもいいっちゃいいのですが。まあ、言いたいだけです。

全国ベスト8。でも試合に出れなかった

高校3年生までサッカー尽くしの毎日でした。幼稚園から中学3年生まで三菱養和というクラブチーム + 高校サッカー。ポジションはだいたいFW(1.5列目)かトップ下あたり。小学生まではスピードとドリブルで勝負すればだいたい勝てたし、地域をまたいだ有名な選抜にも選ばれたしと、今思えば栄光の時代(来るの早い...)。

スクリーンショット 2020-04-20 20.54.03

しかし中学クラブチームに集まったのは、あらゆる面で上をいくすごい選手ばかり。チームは全国ベスト8まで行ったものの僕は試合に出れず、常にリザーブにすら入れるかどうかの境界線上にいた記憶があります。

当時のチームメイトから日本代表も出て、今では秘かな自慢です。でも僕にとってサッカー選手になれなかったことは、人生最初の大きな挫折でした。

キャプテン就任。でもチームメイトと喧嘩する

高校はクラブチームから高校サッカーへ。僕はキャプテンをつとめました。試合に出て活躍するものの、キャプテン就任後の高校2年生の時に怪我に見舞われてリハビリの日々。この時期は怪我はつらいわ、キャプテンなのに試合に出れないわ、チームメイトと喧嘩するわで本当に沈みました。

まさにどん底の気分の中、この頃に発症したコリン性蕁麻疹が漢方との出会いのきっかけになり、長い時間が経過したあと、今のAunaにつながっていきます。ちなみにけっこう最近まで自分がコリン性蕁麻疹だってよくわかっていませんでした。原因不明の謎の症状とともに、20年近く生きてきたけど、まあ人生なにがどうつながるか、わからないものです。

ちなみに怪我から復帰したあとはチームメイトとの関係も修復して、最後の大会までキャプテンとして出場しました。

「サードプレイスつくりたい!」

高校3年までサッカー漬けだったので、大学ではとにかくいろんなことをやりました。サークル・フリーペーパーづくり・バイト・旅行・バンドと、まあ普通の学生ですね。

当時好きだった音楽は、くるりとSUPERCARとRADWIMPSとナンバガとフジファブリックと曽我部恵一と銀杏BOYZとCOLDPLAYとノラ・ジョーンズと・・・みたいなことを言えば、同世代の人は何となくイメージつくでしょうか。お察しの通り、下北沢とか、その辺で遊んでました。

そんな僕はある日、「サードプレイス」という概念に出会って(あ、俺これつくりたい!)と直感で思ったのでした。

スクリーンショット 2020-04-20 20.54.46

社会学部で都市社会学とオンライン/ オフラインのコミュニケーションを勉強し、本屋やカフェが好きな少年は、街に居場所をつくる的な文脈でサードプレイスをとらえて「いい!」と思ったんですね。

そして時は過ぎ、就活の時期になるのですが、僕はそもそも会社に就職するかどうかを悩んでいました。ゆくゆくは起業家か作家になりたいと思っていたのです。

しかし、これがラストチャンスだと思って就職することにしました。

サード・プレイスとは、コミュニティにおいて、自宅や職場とは隔離された、心地のよい第3の居場所を指す。サード・プレイスの例としては、カフェ、クラブ、公園などである。
出典:サード・プレイス(Wikipedia)

CCC。代官山蔦屋書店の立ち上げPJに

就職したのはCCC(カルチュア・コンビニエンス・クラブ)です。

最終面接では「街にサードプレイスを作りたい!」という情熱をもとに、一生懸命話したら採用していただきました。

CCCには3年間在籍しました。この時期のことをつらつら書くと長くなりすぎるので割愛しがちに書きますが、入社した時がちょうど代官山蔦屋書店の立ち上げ時期で、運よくそのプロジェクトに配属されました(代官山蔦屋書店がオープンするまでの2年と、オープンしてからの数ヶ月。配属されたのはAnjinという名前のラウンジのチームでした)。

よく当時から人には「楽しそうだね」とか、華やかなことをしている印象を持たれたのですが、本当に地道で気が遠くなるような小さなアクションの積み重ね。たとえば周辺のカフェを数えるとか、駐車場の車の台数を数えるとか、歩行者にひたすらアンケートをとるとか、誰も完成形がわからないまま真っ暗な森の中をひたすら(方向が合ってるかもわからず)歩くような日々だったのを覚えています。

僕は無知のくせに指示に従わずに自分の頭で考えたいという人間で、当時の諸先輩方には多大なるご迷惑をおかけしたと思います。毎日のように、めちゃくちゃ怒られました。よくトイレに閉じこもって泣いていたのを思い出します(情けねえw)

僕にとってCCCの3年間は社会の厳しさと、仕事の楽しさを教えていただいた場所です。仕事における僕の基礎、守破離の「守」はCCCで形作られました。

今でもこの本(↑)を読むとじんわりしたり、ぐっと身が引き締まったり、胸が熱くなったりします。CCCの3年間は一生忘れることができない体験でした(3年目は福岡で過ごしたのですが、その話はまた別の機会に。福岡の1年も最高でした。1年目の終わりから長らく社長室にもいたのですが、ここでは書き尽くせないので、これまた別の機会に!)

「起業家になる」のタイムリミット

僕は、早く独立しないともう後戻りできなくなると思ってCCCをやめました。福岡で小説を書いて賞に応募したものの音沙汰がなく、「作家になる」の夢を諦めて、「起業家になる」のタイムリミットを勝手に決めてしまったのです

スクリーンショット 2020-04-20 21.02.08

今思えば超自己中心的です。いただいたものに何一つ返すことなく、何をやるかも誰とやるかも決まっていないまま、CCCをあとにしました。

当時、僕は25歳。焦りと不安がごちゃ混ぜになって周りが見えておらず、理想からどんどん遠ざかる現実だけが目の前にありました(と、勝手に思い込んでいました)。同時に周りの友人も起業して結果を出しはじめ、どうにかして自分を追い込まないと起業できないと考えていました。そう。起業が目的になってしまっているのに、それすら気づいていないんです。

「CCCをやめます」と言ったあとも「戻ってきなよ」と言ってくださった先輩もいて、今でもその時の電話とか思い出すんですが、僕は頑固に「もう決めました」とかなんとか繰り返すだけでした(本当に、本当に本当に馬鹿だ!!!)。

ワンスターでWebマーケの「イロハ」を学ぶ

さて起業のためにリサーチを進めると、ぼんやりと考えていた「サードプレイス」を作るには何やらたくさんお金が必要で、今の自分には用意できそうにない、ということがわかりました(!!!!!)。

同時にインターネット関連の事業なら手早く始められると考え、ひとまずネット関連の企業に転職することにします。文章にすると呆気ないのですが、この間もいろいろアクションを起こして、相当悩んだ結果、起業のタイムリミットを数年延長することにしたのです。

ベンチャー企業を何社も訪問して、ワンスターという会社に転職しました。

ワンスターは「デジタル領域におけるダイレクトマーケティング支援」が事業ドメインで、当時30人程度のベンチャー企業でした(今はもっともっと成長拡大しています)。

ワンスターでは本当にいろんなことを任せていただきました。Web自体素人の僕は、CPAもCTRもCVRもわからず、0から「イロハ」を学びました。必死に食らいつきつつ失敗もたくさんしたけど、周りの人にもクライアントにも本当に恵まれました。だんだんと仕事が理解できるようになると、メディアプランニングや広告運用、クリエイティブ制作やCRMなど、多岐にわたる業務に関わり実践する機会をいただきました。

しかし入社時に「2年以内に起業します」と伝えた通り、2014年末にワンスターをやめます。今の僕はもっといろんな方法があったと思えるのですが、自ら延長したタイムリミットをもう延ばせないと(勝手な)覚悟を決めていました。

本の選書サービス=Amazonのリコメンドの人力版

CCCでの経験(3年目は巨大書店でO2O企画)と、ワンスターでのデジタルの経験から、「本の選書サービス=Amazonのリコメンドの人力版」が僕の起業アイディアでした。

2015年の年初は、この起業アイディアを元にVCの方々にお会いする日々がはじまります。

しかし、多少の貯金以外があるだけで収入はなく、資金調達できなかったらどうするかのプランBはありませんでした。今思えば手刀で気絶させてでも会社に残らせたいところですが、(なんとかなる)という気持ちと、(タイムリミットがきた。起業しなきゃ)みたいな強迫観念のもと、不安な2015年をスタートさせます。

結果、3ヶ月間で様々なVCの方にお会いしたものの、一つとして良い返事はいただけませんでした。当時の僕は3ヶ月の行脚を終えて心身ともに疲れきっていました。

今の自分なら、いろいろ言いたいことがあります。他にも資金を調達する方法はあるし、MVP作るのにそんなにお金は必要なのか疑問だし、会社やめなくてもVCの方には会えたし・・・セルフツッコミすると多すぎて気が遠くなってきます。振り返ると、当時の僕にこの方法(MVP作ってエクイティで資金調達)は合っていなかったように思えます。そういった意味では、資金調達できなくて本当によかったです。

※念のため。「当時の僕の場合は」の話です。VC・スタートアップを否定する気持ちは全くありません。

Techbook Inc.(VOYAGEと共催イベントも)

2015年3月の終わり。資金調達を諦めて途方に暮れた僕は、とりあえず会社を作ります。というより、「会社を作る以外にすることがなかった」の方が正しいのですが(笑)

そして何度かの意味不明な役所間の往復を終えて、Techbookという会社が誕生します。

スクリーンショット 2020-04-20 17.41.06

「プランBはない」と書いたのですが、頭のどこかでリスクヘッジ的に考えていたことはあって、それが「コンテンツマーケティング」でした。

だいたいこんなことを考えていました。

「Webマーケの知識」 × 「文章を書く力」がある自分なら勝機がある
・「クリックさせる」ために一瞬の勝負をするWeb広告(バナーとか)よりも、記事を繰り返し読んでもらって共感してもらいたい。
・コンテンツ(記事)で人の心を動かすことを仕事にできたら素晴らしい。
プッシュ型ではなくて、コンテンツで引き寄せるプル型のマーケティングノウハウを自ら実践してTechbookにおけるクライアントへの提供価値としたい。
一時のニーズに瞬間的に応えるのではなく、顧客との関係を長期的に捉え、田畑を耕すように愛されるブランド・サービスをお手伝いしたい

まあ、いろいろ考えていたもののノウハウはないので(笑)、まずはTechbookのオウンドメディアを立ち上げ、自らの経験をシェアする形でコツコツとコンテンツを更新しはじめます(※現在メディア自体はもう存在しません)。

スクリーンショット 2020-04-20 20.22.47

ここでもいろんなことがあったのですが、結果だけ言うと6ヶ月後に初めての問い合わせがあり(某大手広告代理店)、そのあと別の会社から初受注しました。

初めての入金は12万円。全身震えるほど嬉しかったのを覚えています。内容はコンテンツマーケのための記事制作で、自社メディアのノウハウを元に記事を作って納品しました。

それからの日々はメディア経由の問い合わせから受注して、ひたすら記事を作り、自分の知識がベースにある案件は自らも手を動かし、ないものはディレクションをしてフリーランスのライターさんにお任せすることで、超低空飛行ながら売上を積み上げていきました。

画像3

2017年にはVOYAGEさんと共同企画で、ハッカソンのマーケター版“マーケソン”を開催しました。起業当時には想像すらしなかったことです。

NICE n EASY→Auna

Techbookでの仕事は継続する中で、すこし余裕が出てきた僕は新しいサービスを作ってみようと何度も試みました。

例えばアーティストの絵が靴にプリントされて売れるとアーティストに還元されるサービスだったり、飲みきりサイズのビオワインがサブスクで届くサービスだったり、視察と称した出張に行き、いくつかの会社と商談をして、プロトタイプも作りました。

2つのサービスは途中で頓挫したのですが、生き残って具現化できたのがNICE n EASYです。

スクリーンショット 2020-04-13 13.11.03

2017年11月にMakuakeでクラウドファンディングをして、2018年2月に商品化まで漕ぎ着け、メディアにも取り上げていただきました。

動画も作りました。

そして、NICE n EASYはAunaになりました。

本当にいろんな人との関わり合いの中で、Aunaは存在しています。(動画はAuna New Year Gathering 2020の様子)

Aunaについてはこちらが詳しいです。

2018, 2019年は難しい局面を迎える

実は2018, 2019年に難しい局面を迎えました。

NICE n EASYのためにTechbookの新規問い合わせを停止した上に、既存クライアントのオウンドメディアが停止したのです。

しばらく苦しい時期が続きましたが、運がいいことに、継続的にお付き合いがあるクライアントが僕に声をかけてくださいました。オウンドメディアだけでなく、ブランディングなども含めて深く関わらせていただけるようになったのです。

2019年からはこの形で数社契約させていただき、複数社契約のフリーランスに近い形で仕事をしています。

僕は本当に運がいいと思います。確かに苦しい時期はありますが、クライアントにも恵まれて何とか今日も生きています(近いうちに、直近の仕事は別の形でまとめます)。

2020、春

僕はこの5年ほど、ほぼすべてリモートワークで完結できたので、カフェでよく仕事をしていました。カフェとカフェの間を歩いたり、自転車で走ったりして日中を過ごす、まるで社会の隙間を飛ぶ「糸が切れた凧」のようでした。

そんな僕も時が経つにつれて仕事が増え、NICE n EASYを通じて人との出会いが増え、社会との接続をゆっくりと取り戻していきました

画像5

この時期の人との出会いは数え切れないほどあります。「仕事で活きる人脈か」を見ている人は本当に稀で、「僕がどこの誰で、何をしているか」よりも、目の前の会話を楽しんで一緒に笑ってくれる気持ちのいい人たちにたくさん出会えました。

画像6

これは僕自身が損得関係なく楽しい人と一緒に時間を過ごそうとした結果だと思っているし、これからもこのスタンスでいきます。

そして2020年、春。世界は急激な変化に晒されました。多くの人の命が奪われ、多くの人々が困窮し、とても苦しい状況が続きました。

糸が切れた凧だった僕は、社会との接続を絶たれ、無知と無謀ゆえに孤独と戦い続けてきました。そんな僕が僕自身を肯定できるようになったのも、出会った人たちのおかげ。だからこの季節を越えて、また会いたい人たちと会えるように。おいしいご飯を囲んで笑い合えるように、と僕は心から祈っていました。

拙いかもしれませんが、noteで懸命に自己紹介をしてみました。

ここまで読んでくれて、本当にありがとうございます。

2020年5月にVann Inc.へ

※ここからは2020年8月に追記しています。

久しぶりに読み返すと思っていたより長文。それでも僕の周りで「読んだよ!」と言ってくれた人がいて、本当に感謝です。

さて、Techbookは2020年5月に「Vann Inc.」と名前を変えました。その辺の話はここに書いています。

プレスリリースにもありがたいコメントをいただき、つくづく運や縁に恵まれていると実感(苦しい時期もあったけど、歩みを止めずよかった)。

VannもAunaも道半ば。これからもまだ見ぬ世界に向けて歩みを進めます。

この記事が参加している募集

自己紹介

ありがとうございます!好きな本を買うか、旅に出ます。