短編小説『十一桁のガールフレンド』

久々に小説も書きました。


「将来ね、大統領になるの」
「誰が?」
「私よ」
「どの国の?」
「日本以外どこがあるのよ」
「うーん、じゃあまずこの国の政治形態を変えないと」
「冗談に決まってるじゃない。あなたってなんでそんなに気が利かないの?まじめじゃない返事をしたらおちんちんが爆発でもするの?」
「まさか。」
 麻里さんの理不尽な攻撃を僕はいつものように正面から受け止める。いつもこうなんだ、この人は。僕が麻里さんの欲しい答えが出せないとすぐに「気が利かない」っていって僕をいじめる。いじめるのが好きなのかもしれない。別に僕はいじめられるのが好きなわけではないけれど、この程度なら別段嫌なわけでもない。そんな些細な事よりも麻里さんと話ができることのほうがよっぽどうれしかった。僕にとってこの時間はほとんど天国みたいなものだった。僕は麻里さんが大好きだ。麻里さんもきっと僕のことが大好きだと思う。

僕と麻里さんが初めて話をしたのは半年前、梅雨真っ盛りで土砂降りの雨が降る夜だった。就職活動中だった僕はその日の昼(昼間はその時期にしては珍しく晴れていた。)新宿にある広告代理店の面接に行って、帰りに友達と夕食を食べてから帰る予定だった。しかし待ち合わせの時刻になってもその友達は現れなかった。約束の時間から25分遅れて、
『悪い、今日いけなくなった。この埋め合わせは必ず』
と、僕のスマホが言った。僕はやれやれと思いながら先に入っていた喫茶店で注文をしてさっさと帰ろうと思った。早く帰らないと夜の通勤ラッシュに巻き込まれてしまう。

 そんなことを考えながら食事が運ばれてくるのを待っていた僕の目に、十一桁の数字が飛び込んできた。それまでも何度も視界に入っていたはずだが、あまりにも風景になじみすぎていて気が付かなかった。その数列は僕の座っていた席のすぐ横の柱にある塗料のひび割れの上にそっと佇んでいた。まるで小鳥たちが桜の木の枝の上に列をなしてとまっているかのように、その数字はひび割れにしっくりとなじんでいた。僕はその場で胸ポケットから万年筆を取り出して、テーブルのわきに置いてあった紙ナプキンを一枚とってその数字を書き留めた。だってその数列は090から始まっていて、どう見ても電話番号だったからだ。十一桁の数字が移された紙を僕は大切にスーツの胸ポケットにしまった。

 僕は運ばれてきたナポリタンをアイスコーヒーで押し流して、足早に店を出た。急いで食べたせいで白いワイシャツにオレンジ色のシミができてしまったが、不思議と気にならなかった。今日の面接がうまくいったからかな。僕はゆっくりと沈んでいく太陽のレプリカを胸元に携えたまま電車に乗って帰った。


 大学の近くにある六畳一間のアパートに帰り着いた時、僕はもう本当にぐったりとしてしまっていた。自宅の最寄り駅に着いた瞬間、土砂降りの雨が降り出したからだ。僕のうちから駅までは自転車で十分かからないほどの距離だが、全速力で自転車をこいで帰ってきたときには夏用の薄いジャケットを通り越して肌着までびしょぬれだった。
「やってらんねーよ。」
僕は玄関でただいまの代わりに悪態をついた。スーツを脱ぎ捨てて、部屋の隅に三つ折りにして寄せてある布団に倒れこんだ。「ああ、ちゃんとハンガーにかけないと、高かったスーツにしわが寄っちゃうな」なんてことをぼんやりと考えているうちに、僕はいつの間にか眠ってしまった。


 目が覚めたとき、部屋は真っ暗だった。僕は手探りで部屋の電気をつけてから、どこにやってしまったかわからないスマホを探した。スマホは普通に鞄の中に入っていた。時間を確認する。20時27分。何時に帰ってきたんだっけ。頭が全く働かない。空気の抜けたサッカーボールみたいな頭を必死に動かして、おおよそ二時間ぐらい眠っていたのだろうと見当をつけた。寒い。濡れた肌着を着たまま眠ってしまったのだから当たり前だ。風邪を引かないうちに着替えないとな。僕はサッカーボールに必死に空気を入れて、なんとかスーツをハンガーにかけて、熱いシャワーを浴びて目を覚ました。それから水道水をコップに二杯飲んだ。ぬるかった。


 シャワーを浴びて髪の毛をドライヤーで乾かしているときにふと、夕方メモした電話番号のことを思い出した。僕は左半分だけ湿った髪の毛のままさっきハンガーにかけたスーツのポケットをあさった。喫茶店の紙ナプキンは雨に濡れてしっとりとしていたが、幸いインクはそれほど滲んでいなくて、十一個の数字はちゃんと読めた。


 僕は電話をかけるべきか、やめておくべきか、ほとんど考えないままスマホのキーを操作して発信ボタンをタップしていた。普通に考えたら結構危ない。相手が誰なのかもわからない。もしかしたら暴力団か何かの連絡ツールなのかもしれない。せめて非通知でかければよかった。それにそうでなくても夜の九時に電話をかけるのはあまり常識的な行為ではない。でもその時の僕はそんな可能性について考えるにはあまりにも疲れすぎていた。空気は入っていても僕の頭はサッカーボールなのだ。空っぽだ。だから僕はほとんど何にも考えずに呼び出し音を聞いていた。左側の頭が冷たい。9コール目で、通話モードに切り替わる。


「あなたで三人目よ」
そう、電話の相手は言った。
「この電話にかけてきたの、あなたで三人目」
僕はなんていっていいのかわからず、ただその声を聞いてぼぉっとしていた。
「もしもし、聞こえてる?聞こえてるのに返事しないなら切っちゃうわよ?」
「も、もしもし。聞こえて、ます。」
何とぎこちない返事だろう。ああみっともない。
「私はね、マリっていうの。麻薬の麻に郷里の里。あなたは?」
「ゆうとです。ひらがなでゆうと」
麻里さんの声は、美しかった。透き通るようなまっすぐさも、聞きほれてしまうような高音もなかったが、美しかった。低めで、少しかすんだ声。笑うと少し苦しそうになる。色っぽくて、かっこいい声だった。僕は、ほんの一瞬で麻里さんの声が好きになってしまった。
「ゆうと君か、よろしくね」

 麻里さんは、スマホを二台持っていて、普段使わない(というかほとんどさわりもしない)方の電話番号をこっそりといろんなところ(喫茶店の壁や駅のトイレ、道端に捨てられたスターバックスのプラスチックカップなど、ほんとうにいろいろなところだ。)に書いて、気付いた人が電話をかけてくるのを待っているのだという。で、僕が三人目。先にかけてきた二人は、どちらもいたずら半分でかけてきた酔っ払いだったから、少し話してすぐに着信拒否にしてしまったらしい。
 僕は、最初の電話の声で、麻里さんにほとんど心を奪われてしまっていたから、少しでも長く、その声を聞いていたいと、そればっかり考えていた。最初の電話が終わった後、僕はほとんど放心状態で、何をしゃべったのか全然覚えていなかった。ただ、
「幸せな時間だったなあ」
と、考えただけだった。
 
 僕が一生懸命話をする様子を、麻里さんは気に入ってくれて、それから週に一回ぐらいのペースで電話をするようになった。麻里さんはもう街中に電話番号を書くことはしなくなった。僕たちはたくさん話をした。麻里さんは二十六歳で、大学一年生だった。そうなるまでに、本当にたくさんの経験をした人だった。どうして麻里さんが、僕みたいな普通の大学生を話し相手として認めてくれているのか、時々不思議に思うぐらいだった。彼女の話はいつも洗練されていて、スタイリッシュで、それでいてアクロバティックで、僕はどんどん麻里さんのことが好きになった。僕にできるのは、その日読んだ本の話ぐらいだ。


「ねえ、あれ、やってよ。」
麻里さんは急に甘えた声で僕に言う。僕はそのちょっと甘えた声だけでも、ほほがゆるんでしまうのを悟られないように、わざと低い声で
「ええ、またぁ?」
という。嫌がったところで、どうせ最後にはすることになるのだが。しばらくごねた後に、僕は仕方なさそうに(本当は全然仕方なくなんてない)一冊の本を取り出して、声に出して読み始める。


「小田原熱海間に、軽便鉄道敷設の工事が始まったのは、良平の八つの年だった」
今日は、芥川の「トロッコ」。僕は自分の声がかっこいいなんて一度たりとも思ったことはないけれど、麻里さんに「私あなたの声好きよ。かわいい声してるじゃない」と言われてから、少しだけ自分の声が好きになれた。だから僕は麻里さんのために一生懸命音読する。アパートで一人で本を朗読するのは少し恥ずかしい。

 一、二ページ読んだあたりから、電話の向こうの麻里さんの息が、少しずつ、荒くなってくるのがわかる。僕は一層朗読に力を入れる。「はあ、はぁっ」と、乱れた呼吸が、イヤホンから耳に直接流れ込んでくる。もう二ページ読むと、その呼吸は、はっきりとした声に変わる。
「あっ、ああぁっ」
麻里さんは、僕の本を読む声を聞きながら、自分の性器を触っている。
何度も電話をするうちに、麻里さんは僕に本を音読してくれと頼むようになり、いつしかそれに合わせてマスターベーションをするようになっていた。僕は、意識を活字に集中させる。そうでないと読めない。麻里さんが、どうしてこんなことをするようになったのか、僕にはわからない。でも、麻里さんがきもちよくなれるなら、麻里さんが喜ぶなら、僕はなんだってできた。僕はそのぐらい、麻里さんのことが大好きだった。僕が「トロッコ」の最後の一ページを読む前に、麻里さんははてた。そしてそのままじっと、僕が読み終わるのを待っていた。
「素敵だったわ。ありがとう」
僕が全部読み終えてしまうと、麻里さんはやさしい声でそう言ってくれた。

 僕たちはそのあと何もなかったかのように一時間ほど話を続けて(いじわるな事もたくさん言われた)電話を切った。僕は、それから一人で麻里さんのことを考えながらマスターベーションをした。

 麻里さんがずっと電話をしてくれるなら、僕は彼女なんていらないや。と、本気で思った。だって僕たちは、顔も知らない相手と、こんなにもつながれているんだから。
 もし、麻里さんと会えることになったら、どんなに幸せだろう。一回だけでも会いたいな。
「一回だけ会うぐらいなら、会わないほうがましよ。会ったら、もっと会いたくなっちゃうもの」
いつか麻里さんはそんなことを言ったな。それでも僕は、麻里さんに会いたいな。一回だけの麻里さんを思い出にして、この先、一生、それを大切にして生きていきたい。
たとえ、あの素敵な声が、本当に大好きな声が、僕のイヤホンから二度と流れなくなったとしても、僕は、麻里さんに会いたい。

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