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村上春樹について語る時に、僕の語ること

こんにちは、敬虔なムラカミスチャンです。村上主義者ともいいます。村上春樹の作品が大好きな人のことをよく「ハルキスト」と言いますが、まじに好きな人は自分たちをハルキストなんて呼びません。

アレは外野が「『ハルキ好きなおれ、オシャレでカッコええやろ?』って思ってるんやろ?」って言う偏見に満ちた文脈で「ハルキストじゃん笑笑」って言ってくるだけです。嘘です。さすがに偏見に満ちあふれすぎた。
でもまあ少なくとも僕の周りで自称ハルキストは1人もいません。「村上春樹が好きなことは別に誇ることではない」といういかにも村上春樹らしい考えのもと、自らを律しています。


僕がハルキストと呼ばれるのを好まない理由は、純粋に村上春樹さん本人が「あんまり好きじゃないな」って言ってるからなんですよね。詳しくは『村上さんのところ』(新潮社)をお読みください。


さてそんな僕が村上春樹について語ろうとしているわけです。ちなみに僕から見て村上春樹さんはおじいちゃんぐらいの年齢なんですが、心の中では親しみを込めてハルキくんと呼んでます。ハルキくんは僕の中ではいつも僕と同じぐらいの年齢で存在して、いつも隣で「やれやれ」って言ってくれます。

ハルキくんがデビューした1979年、僕はこの世にまだ存在していませんでした。しかもギリギリとかじゃなくて、生まれる18年前です。干支1周半分遅れて生まれてきました。僕がハルキくんの作品に出会ったのは2013年の夏です。デビューから実に34年。
つまり34年分の歴史の積み重ねと真正面から向かい合うことになったんです。ハルキくんは決して筆が早いわけではありませんが、それでもかなりの量の作品を手がけていますよね。翻訳の仕事なんかも入れたらそれこそ数えきれない。(いや、本気出せば数えられるけども。)

ハルキ君との出会い

僕は高校1年生の夏休みに『ノルウェイの森』に出会ってハルキ君にはまりました。いやあ、衝撃的でしたね。僕はそれまで読書というものを「打ち込めるものがない暇な人が仕方なくやってる」と思ってました。いや、昔の自分マジなんなん。でも本気でそう思ってたんですよ。ごめんなさい本当に。じゃあなんでそんな僕がまず『ノルウェイの森』を手に取ったのか。

カッコよかったから。

いや、かっこよかったんですよあの装丁が。

「これ持ってたらモテるわ!!」

って思ったんです。なんて浅はかな。。。

ともあれそんなこんなで読み始めたハルキ君にドはまりして、僕の人生は激変!!!

するはずもないんです。だって考えてもみてください。僕当時高校1年生。部活、恋、勉強の青春三大柱に人生の98%を搾取されてたんです。ちゃんと勉強が入ってるだけでもほめてください。読書が入り込む隙間なんてなかったんですね。ちなみに2%は睡眠。

結局僕が本格的に村上春樹を読み始めたのは大学生になってからでした。おかげで大学生になってからずいぶん性格も変わったし、人間関係とかコミュニケーションとか、いろんな変化があったように思います。ありがとう、ハルキ君。


村上春樹の読書は、危険な川下りである。

100回ぐらい言ってるので、どこかで聞いたことある人はこの段落全部すっ飛ばしてかまいません。まあ、この理論、僕しか提唱していないのでそんなにたくさんの人が聞いたことあるわけではないかと思います。

正確にはこうです。

「村上春樹の読書は、砂漠に不時着した夜に見る、危険な川下りをする夢のようなものである。」

つまりこういうことです。

読み始めたばっかりの時はウィットに富んだ比喩や気のきいた文章表現がたくさん目について、「ストーリーそのもの」よりも「言語」が楽しく感じられます。川下りでいうと、こぎ始めたばっかりで、スピードもゆっくりだし、船を制御することよりも周りの景色に気を取られがちな時間がありますよね。その感じです。鳥や草や魚、水の溜まりみたいなものが次々に目に飛び込んでくる。

そうやって周りの景色に気を取られていると、いつの間にかストーリーの濁流にのみこまれて抜け出せなくなっている。

この「あっ、やばい、もうぬけだせねえ!!」

って気づく瞬間がハルキ君の本を読んでいて一番幸せな瞬間です。(滝口景太郎調べ。標本数1。)

そして流れに抗うこともできずどんどんと川下に流されていくと遠くのほうにナイアガラ級の滝が見えてくるんです。

「やばい!!完全に死ぬ!!無理!!」

ってなりながら滝の直前まで流されていったときに、っパッと目が覚めるんです。ここが物語の終わり。いままでの川下りがまさかの夢オチ。目覚めた場所は砂漠の真ん中。完全に「ここはどこ、私はだれ?」状態です。しかも、ものすごい高揚感はあるのに、さっきまで見ていた夢の内容が全く思い出せないんです!!!

ハルキ君の作品が「よくわかんない」と表現される原因がこれです。

だからよく「村上春樹ってどんな話?」っていう質問に

「女とやってる話」とか「よくわかんないけどずっと旅してる話」とか「宗教の話?」とか、ひどいと「オナニー小説」「エロ本」とまで言われたりするんです。だってどんな話か覚えてないんだもん。性描写だけは生々しくて強烈だから覚えてて、その印象だけで話すからこんな評価になるんです。かわいそうなハルキ君。

だから僕はいつもこの質問をされたら胸を張って

「川下りみたいな小説!!」

と答えていますが、説明もなしにこんなことをドヤ顔で言われた相手は100%わけわかんないと思いますし、僕のことをきちがいだと思うでしょう。

でも今の説明を読んでくださった皆様なら「なるほど、だから説明つかないのか」って納得してくれるんじゃないかなって思います。そういう白昼夢みたいな小説が好きかどうかは別として。


“善き物語”を紡いでいくために

ここはまじめな話なんでハルキ君呼びは封印しますね。”善き物語”とは村上春樹のエッセイやインタビューの中でたびたび出てくる思想の一つです。ざっくり解釈すると「世の中には人々を悪い方向に連れていく”悪しき物語”と正しい方向に導く”善き物語”の二種類が存在している。小説家は”善き物語”を紡いでいかなければいけない。」という意味です。

”悪しき物語”ってなんだ?

戦争や犯罪を助長する思想、例えば

「我々はA民族に長い間虐げられてきた!この歴史は我々にとっての恥であり、決して容認できるものではない!A民族は全員悪だ!今こそ復讐の時!全A民族を根絶やしにしろ!!」

という思想。わかりやすくて参加しやすい。強い語気でまくしたてられれば僕だって少し信じてしまうかもしれない。もしかしたらそういう側面もあるかもしれない。でもこれは悪しき物語です。

悪しき物語の1番の特徴は「簡単な言葉で語られて、深い思考を必要としない物語」ということです。もちろん言語的にわかりやすく書かれている物語がすべて悪しき物語というわけではありません。でもそれは確実に存在します。悪しき物語は人々を思考停止に追いやり、考える力を奪い、組織や団体の駒として使いやすいように洗脳します。

こいつの厄介なところは「一見正しく思えるし、何よりわかりやすい」ことなんですよね。思考力を奪われた人はこの悪しき物語の格好の餌です。

たいして”善き物語”とは

人々に対して「深く考えること」「自分の頭で答えを見つけること」を強要します。

「正しさって何だろう」

「これって正しいかもしれないけど、美しくはないよね」

「じゃあ正しいのと美しいのとでは、どっちを優先したらいいんだ?」

考えれば考えるほどわからなくなるし、考えるだけ無駄なようにも思えてきます。でも人間は考えることをやめてはいけない。答えがないからと言って、あきらめていい問題ばかりじゃないんです。善き物語はこれらの問題について考えるための思考力と経験を僕たちに与えてくれます。僕たちはこれらの蓄積をもって悪しき物語に立ち向かわなければいけないのです。

「じゃあ、善き物語と悪しき物語って、どうやって判断するの?」

「いい質問ですねえ。」(突然の授業形式)

僕の考えでは、その物語が”善き物語”になるか”悪しき物語”になるかは、ほとんど読者である僕たちにかかっています。どんなに扇動的で強い語気で語られようと、それに対して一歩立ち止まって疑う能力さえあれば、それは疑うことを教えてくれる”善き物語”になるのです。

だから僕たち読者ができることは、どんな物語であろうと、きちんと立ち止まって考えることだけなのです。僕は村上春樹のエッセイを読んでこれに気づきました。それ以来すべての作品に対して、「深く考える」「自分事として日常に落とし込んで考える」ことを意識的にできるようになりました。

村上春樹の作品は、この「深く考える」作業を自然にできるように仕組まれているのです。だから読んだ感想が「よくわからない」なんです。だって簡単にわかってはいけないから。何度も何度も読んで、考えて、かみ砕いて、人と話して、考えて読んで考えて、それでも全部はわからないように作られているんです。

だから村上春樹作品を1回だけ読んで「よくわかんない」っていう人に、僕はいつもこういってやりたくなります。

「1回で分かってたまるか!!!」

僕は10回読んでもまだわからないことだらけです。でも何度でも読める。何度だって読みたくなる。そういう風にできています。

1回読んで「わかんねぇ」2回読んで「ちょっとわかった」4回読んで「やっぱわかんねぇ」5回読んで「新たな謎が...」7回読んで「あーなるほど!」9回読んで「ん?」10回読んで「全然わからん!!!」

こうやってかみ砕いていくしかないんです。

それでも、「文体がどうしても肌に合わない」「あの性描写はちょっとないだろ」という人も多いでしょう。それならそれで構わないんです。ほかの本で「深く考える」ができている人なら。ただ一つだけ言えるのは、自分の好きな文体、わかりやすい物語ばかりを読んでいると、それはそれで思考力がなくなっていくということです。たまには自分の読書の殻を突き破って、慣れない文体や表現の本に挑んでみることも大事です。新しい発見もありますから。

「わかりやすい言葉で、わかりにくい話を書く」

これも村上春樹がよく言う言葉です。要するに、悪しき物語の一番の餌食である「言語的思考力の低い人」のために、わかりやすい言葉を使って、自然に考える力を身に着けさせるということです。これをやるのは簡単な事ではありません。でも一番大事なことです。

僕はこれからの小説家、もっと言えば物語の製作にかかわるすべての人間はこの”善き物語”を意識するべきだと考えています。純文学でも大衆文学でもエンタメ小説でもライトノベルでも漫画でも、読者に思考の余地を与えて、自分で考えさせることができる物語を紡いでいくべきだと思います。

口で言うのは簡単です。僕はまだ口でしか言えません。僕に今できるのはそういった”善き物語”をたくさん吸収して、自分の中にため込んでいくことだけです。その蓄積がいつか誰かの執筆活動の糧になると信じて。


僕にとっての村上春樹

村上春樹は僕にとっての恩人です。話したこともありません。彼の作品は僕に自力で砂漠から抜け出す力を与えてくれました。世の中の思い通りにいかないことに対して自分なりの落としどころを見つける方法を教えてくれました。

高校1年の夏、くまざわ書店ペリエ稲毛店の平積み台で『ノルウェイの森』に出会っていなかったら、僕の人生はもっと生きづらいものになっていたでしょう。僕の視野はもっと狭かったでしょう。もしかしたらそもそも編集者なんて目指していなかったかもしれません。彼が元気な間に、1度でいいからお会いして「あなたのおかげで人生が変わりました。ありがとうございました」と伝えたいです。

村上春樹という作家は、僕という学生にとっては人生を揺るがすような大きな存在でした。いつもは軽率に「村上春樹好きなんすよぉ」って言っていますが、僕は彼の作品を読むときだけはかじりつくように読みます。誰にも見つけられないその作品の良さを見つけてやろうと思って読みます。僕にとって、そんな作家の34年分の作品に向き合えるのはこの上ない幸せです。まだまだ読んでいない短編やエッセイもたくさんあります。

これから先、どんなことに気づかせてくれるのか。どんな砂漠に連れて行ってくれるのか。新作も楽しみで仕方ありません。彼と同じ時代に生きられたことをを本当に光栄に思います。

おまけ:村上春樹はノーベル賞を取れるのか

余計なお世話です笑

そもそも本人別に望んでないですし。

ただまあ個人的な予想といいますか、勝手なことを言わせてもらえれば「取ってほしくない」ですね。

そのほうがハルキ君らしい。きっと死ぬまでずっと候補に入れられて結局選ばれなくって、天国についた時の記者会見で

「やれやれ。どうせ選ばれないなら候補になんて入れないでくれよ。おかげで墓石を二つ用意しなきゃいけなくなった。ノーベル賞作家って書いてあるやつと書いてないやつ。」

みたいな冗談を言うんです。その後にすぐきれいな形の耳を持った女の子を口説く。うん。悪くないな。


ここまで読んでくれてありがとうございました。

僕の村上春樹に対する、また読書そのものに対する熱い思いが伝わればいいなと思います。この記事を読んで、「村上春樹苦手だったけど、もう一回読んでみようかな」とか「そういえば読んだことなかったな、読んでみよう」とか思ってくれる方が一人でもいれば幸いです。

みんなで”善き物語”のあふれる世界にしていきましょう。

それでは、また。



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