短編小説『十時間前のリスケジュール 』

 さみしい。

 季節のせいだろうか、柄にもなくそんなことを考えてしまった。だいたい、この部屋が広すぎる。パパが資産運用だか何だかのために買った神楽坂のマンションの間取りは2LDK。

「どう考えても私一人が住むには広すぎるわよ」

誰に向かって言っていいのかわからないから、仕方なく去年のクリスマスに元カレにもらった安っぽいスノードームに向かっていってみた。だいたいこのプレゼントも趣味が悪い。スノードームなんて何の役にも立たないし、季節が過ぎればただの扱いにくい文鎮にしかならないのに。でも物に罪はない。私は無駄なものが嫌いだけれど、だからと言って人からもらったものをやたらめったら捨てたりするような甲斐性なしでもない。たとえその文鎮がわけのわからないまま一方的に振られた元カレにもらったものだったとしても。別に引きずってるわけじゃない。このマンションで一緒に暮らしていた時に彼が使っていたものはあらかた処分した。布団も、パジャマも、歯ブラシも、マグカップも、全部。気持ちを断ち切りたいとか、そんな願掛けのためにやったのではない。ただ単に邪魔になったから捨てただけだ。

「麻里は俺がいなくたって生きていけるよ」
別れるとき、あいつは私にそう言った。当たり前じゃないか。私はもう二十六歳だ。誰かがいないと、誰かに支えてもらわないと生きていけないなんて甘ったれたことを言えるような年齢じゃない。逆になんだ。お前は私がいないと生きていけなかったのか?私に依存して生きてきて、私がいなくても生きていけるようになったから私を捨てたのか? そんな奴こっちから願い下げだ。
 どうして私はあの時、この趣味の悪いスノードームも一緒に捨ててしまわなかったのだろう。たぶん純粋に見落としていて、捨て忘れただけだ。いつ捨てられてもおかしくない。ただ、彼のものが全部なくなった後でなお私の広いリビングに居座るその半球は、今となっては完全に私のものになっていた。少なくとも普段それを眺めて、元カレを思い出していちいちセンチメンタルになったりはしない。私はそんなに乙女な年ごろでもないし、第一忙しいのだ。普段だったらそんな置物の存在にすら注意を払わない。とにかく私には時間がない。

 昼間は大学に通って政治学の勉強をする。でもまだ一年だからたいして面白い講義はないし、わけのわからない必修科目(これを教養と呼ぶなら教養は世界平和にもっともいらないものの一つだろう)や外国語科目(私は帰国子女だ。れっきとしたトライリンガルだ。)の授業に貴重な時間をむさぼり食われる。だから授業中にはほかの本を読んでいる。『マクロ経済学』とか『国際政治を演説で読み解く』とか、学術書よりの実用系が多い。『こころ』も『ライ麦畑』も『ハムレット』も『恋愛論』も読まない。私は忙しいんだ。そんな昔の本ばっかり読んでいたら現代社会に追いつけなくなってしまう。
 夕方に家に帰ったらまず寝る。ここが貴重な睡眠時間。夜にはバイトがあるのだ。24時間サービス型のホテル。夜勤のほうが払いがいいわりに仕事は少ない。ずっと座っていて、呼ばれたときだけ仕事をすればいいのでとても効率がいい。週に三回も働けば、一人で生きていく分ぐらいは簡単に稼げる。
 深夜にバイトがない日は、会員制のジムに通う。三十分かけて歩いて行って、二時間のオリジナルのメニューをこなす。インストラクターに組んでもらった、シンプルで、無駄がない、ハードでタフなメニュー。実に効率がいい。完璧にこなしてまた歩いて家に帰るころにはくたくたになっている。乳酸がたまった手足がダル重くなって気持ちいい。

 でも今日はジムの日じゃない。本当は今頃ホテルの受付嬢をしているはずの時間なのだ。それが、午前中オーナーから電話で
『今日の雪のせいで大型の予約客が来られなくなっちゃって確実に暇だから、あなたお休みね!』
と言われてしまった。私の生活サイクルは分単位で綿密にスケジュールされているんだぞ。十時間後の予定を変更? ふざけないでいただきたい。これで何もかもがばらばらだ。あのオーナー、人はいいし厳しくもないから嫌いじゃないんだけど、私のことを「いつでも放り込めていつでも外していい都合のいい奴」と思っている節がある。気に食わないな。私は今日、バイトの気持ちだったんだ。ちゃんと働くために(といっても受付で本を読んでいるだけだが)気持ちを作っていたのだ。少なくとも今日はもうジムに行く気にもなれない。何せ雪がかなり降っている。仕事のためなら雪道を歩くのもやぶさかではないが、こんなコンディションの中ジムまで歩いて行ったら確実に満足にメニューがこなせず不完全燃焼になる。
 

 そういうわけで、なんにもすることがなくなってしまったのだ。だから普段は考えもしないような余計なことを考えてしまう。私にはセンチメンタルなんて似合わないんだ。キッチンに行って冷蔵庫の中身を確認する。完璧すぎるぐらいに整理されている。のどが渇いていたことに気が付いて、飲むヨーグルトを取り出して一気に飲む。冷たいドロッとした液体が私ののどにまとわりつく。飲んでしまってからちょっと寒くなってきて後悔する。まったく私は何をやっているのだ。予定が狂っただけでこんなにも調子がおかしくなってしまうものなのか。

 その時、机の上で「ムーッムーッ」という音がした。普段置きっぱなしにしている二台目のスマホ。いつもなら決まった時に確認する以外は無視するのだが、今日は特にやることもないし、何よりこのまま何もせずぼーっとしていたらまた余計なことを考えてしまいそうだ。
 画面を確認すると、半年前から電話で話すだけの不思議な関係を築いている少年からだった。確か名前はゆうと君。私より四歳年下の彼は、どうやら私に夢中らしい。
「もしもし」
「もしもしおねーさん。今、電話してよかった?」
「いいわよ。いつもは私からかけてくるのをおとなしく待ってるのに、今日は何かあったの?」
「ううん、そういうんじゃないけど。何となく、今日は僕からかけても出てもらえるような気がしたんだ」
この子はすごいな。どこかで私の動きを監視しているんじゃないのか?
「ところでおねーさん、今日は元気なさそうだけど何かあったの?」
「いや、何もないよ。というか私まだ二言ぐらいしかしゃべってないわよ」
「そうか、そうだったね」
「まあ、強いて言うなら何にもなさ過ぎて余計な事たくさん考えちゃってたって感じかな」
「あー、そういう時あるよね。なに、じゃあ、僕、結構タイミングよかった?」
この子はすぐに調子に乗る。
「そんなことないわよ。あなったってなんでそんなにすぐ自分の手柄みたいに持っていきたがるのよ。いい? かっこいい男っていうのはね、自分で立てた手柄も人のものっていうもんよ。すぐ自分の自慢話ばっかりするような男はいつまでたっても三流よ。」
ゆうと君が小さくしぼんでいく「シュウゥゥ……」という音が今にも聞こえてきそうだ。でもこのぐらい言ってやらないと、本当にすぐに有頂天になってしまうから仕方がない。
「わかったよ。僕もう自慢話はしないよ。自分の手柄も人にあげるし、稼いだお金も他人のために使う。ビンボーでも一流になれるかな?」
「ねぇ、あなた。ちょっと極端すぎよ。私何もそんな自分を切り詰めてまで善行しろなんて言ってないでしょ? かっこいい男は多くを語らないものよって言っただけじゃない。国立大学に入れる頭と要領の良さを持っていてどうしてそんな簡単なことがわからないのよ。それとも何、あなたの通っている大学ではみんなそんなに頭カッチカチなの?」
だめだ、だんだんイライラしてきてしまう。なんで私は四歳も年下の男の子にムキになっているんだ。今日はもうほんとに調子がおかしい。全部午前中の電話のせいだ。
「ごめんね、おねーさん。僕はおねーさんのことが大好きだから、いっつも緊張しちゃうんだよ。だからどうしても固くなっちゃう」
「いいのよ。私も言い過ぎたわ。ごめんなさい」
私は大人なんだから。調子をとり戻さないと。
「あなた、今日はどんな本を読んだの?」
ゆうと君は読書家だ。私と話をするのはせいぜい週に一回程度だから、その間に二~三冊の本を読んでいる。彼が読む本は私に言わせるところの「時間の無駄本」だが、彼は自分が読んだ小説の話を、まるで自分が体験した出来事のように嬉しそうに語る。悲しい本は悲しそうに語る。
「今日はね、片親の高校生の男の子が、同じような境遇の女の子に恋をする話。女の子の方は虐待まで受けていて、男の子はそれをなんとか救おうとして共依存みたいになるんだけど、結局最後には疲れちゃって、女の子を見捨てちゃう。結局男の子は助けようとしていたことも、見放したのも、すべて自分の都合で動いていただけで、女の子の人間像なんてどうでもよかったんだ。そんな話。救いがなくて、苦しくて、いい話だった」
「私には今の話の『いい話』要素が全く分からなかったわ」
「なんでよ! 世の中みんな自分の都合がいいように動いてるし、それがうまくいかなくて他人のせいにしてるじゃんか。みんなが違う理想を持っていて、みんな思い通りにならない。僕にとってのいい話っていうのは、現実世界をどれだけ象徴できているかなんだよ」
「あなたにとって思い通りにならないことって、例えばどんな事?」
「うーんそうだなあ。おねーさんがいつまでたっても僕に会ってくれないこと」
まただ。「会わない」って言っているのに。でも今日はどうしてか、あってあげてもいいような気がした。予定が狂ったからかな。私もいつもの私じゃない。

「もし私があなたと付き合ってあげるっていったら、どうする?」

特に深い意味はなかった。「え、ほんとに?」「冗談よ」で済むと思っていた。でも返ってきた声は思っていたよりも悲しそうに
「どうしてそんな嘘つくの?」
といっただけだった。私がなんて言っていいかわからないまま焦っていると、ゆうと君は付け加えた。
「僕は麻里さんに会いたいよ。顔を見て、目を見て話がしてみたい。そのぐらいならしてくれてもいいかなって思ってる。でも、僕が麻里さんと付き合うことは、ないよ。僕と麻里さんじゃ、あまりにも生きている場所が違いすぎる。どっちが上とかじゃなくて、ただ遠くにいるんだ。麻里さんだって頭がいいんだからそのぐらいわかっているでしょう? 僕はそのことを考えると、いつもたまらなく悲しくなるんだ。こんなに大好きで、こんなに会いたいのに、その先の未来は僕らにはないんだよ。僕がいつも考えないようにしていることを、今麻里さんは土足で踏みにじった。二人の大事な距離感を、上手に保ってきたバランスを、今、麻里さんは壊した」
 何も言えなかった。ゆうと君が私のことを「麻里さん」と呼んだのは、これが初めてだった。ゆうと君にとって私はどんな存在なのだろう。私にとってのゆうと君と、同じ感覚とは思えなかった。四歳も年下の男の子のデリケートな心を、私は踏みにじってしまった。
「ごめんね」
「ううん。こっちこそごめん。僕、めんどくさいよね」
そんなことない。という前に電話は切られてしまった。

 私は十畳の広いリビングに一人で残された。全部あの電話のせいだ。私は、置きっぱなしのスノードームを不燃ごみの袋に入れた。雪の降り積もるゴミ捨て場へと歩いて行ってその軽い袋を置き去りにしたとき、私はほんの少しだけ、弱くなった気がした。

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