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How do DMBQ play music?

 DMBQが短編ドキュメント映像作品"HOW TO MAKE MUSIC"を発表した(youtubeにて視聴可能)。

 哲学者なのか歴史学者なのか、それとも──広範にわたる知の領域を横断して思考を刷新する営みを続けたミシェル・フーコーは、自らが何者であるかをインタヴューの中で問われたのに対し「私は爆破技師です」と言い放った。

 私が"HOW TO MAKE MUSIC"を視聴し終えた後に浮かんだのは、フーコーのこの言葉だった。
 おおよそどのようなバンドも、どのような表現者も、どのような思想家も、特定のカテゴリーに押し込まれ、安易に分類されることに対しては、多少なりともネガティヴな反応を示すものだろう。フーコーもやはり、いや、彼の場合は特に、自身のアイデンティティーを固定化されることには強い拒否反応を示していたようだ。というのも、彼の思考の歩みは、自らのそれまでの思考を乗り越え、あるいは、近代以降の知が捕らわれている思考の枠組みを批判し、相対化する試みの連続であった。そういった思考の特徴ゆえ、外部からの安易なカテゴライズを受け入れることは、自身の哲学が特定の枠組みに捕らわれの身となっていることを自ら認めるようなものであり、回避せねばならないものであったのだろう。

 前置きが長くなったが、本記事の主題であるDMBQについて、本件映像で作られている音楽は、以前のDMBQ、すなわち、文字通りクァルテット編成であった時代の彼らの音楽から、ある種の刷新を施されたものであると感じられた。そもそも、それはすでにトリオ編成となった2014年からそうであったということもできようが、6年以上の時を経て、音楽的な深化を遂げてそれがより明確になったということであろう。
 2014年頃の時期は、まだ方向性がはっきり定まったとはいえなかったのであろうが、2014年8月に最初のトリオ編成によるライヴを披露した時の演奏と、その後にベーシストとしてマキさんを迎え入れてからの演奏とで少し振れ幅がみられ、また一方では、マキさんが加入後においてもクァルテット期に似たグルーヴの残存があり、あるいはクァルテット期の曲が演奏されるなど、以前のDMBQとの連続性も垣間みられた。
 現在の彼らは──こう言ってよければ──以前よりも遥かに成熟し、大人になった。これは、コロナ禍という経験によるところも大きいのかもしれない。映像中において増子さんも仰っているように、コロナの影響によりライヴを行うことができず、曲作りに徹する時期が一定程度続いたようだ(勿論、これはどのアーティストにも概ね該当することであろう)。ステイホームの大号令とともに我々も経験したように、自己の内面と向き合うことが増えたであろうし、ミュージシャンであれば音楽をやること、さらには音楽そのものについて考える時間も必然的に増すものである。
 そういった内面的な部分の反映に起因するのか、この映像作品の中で奏でられる音楽は、鑑賞者としては、手放しでただ聴いて身体的に反応して没頭することができる、といった類いのものではない。やはり「音楽をやることの重み」のようなものをズシリと受け止め、考えさせられるような音楽である。映像の中のインタヴューで和田さんが仰っている。

「何か音楽作るとか、やっていくって……恥ずかしいからあんま言えへんかったけど……やっぱり……凄いことなんやなと」

 2020年3月頃から日本が経験したコロナ流行の第一波。真っ先に悪玉のように挙げられたものの1つが、ライヴハウスであった。ライヴハウスやミニシアターといった文化の営みの場は「不要不急」という烙印とともに、有形無形の圧力を感じながらその活動の大幅な制限を余儀なくされた。その結果として、店を畳まざるを得ないような状況に追い込まれた場所も後を絶たなかった。
 前掲の和田さんの発言で「恥ずかしいからあんま言えへんかった」というのが、どのような文脈でそうであったのかははっきり分からないが「音楽という営みに対して素直に敬意や賛美の気持ちを示すこと」が何らかの理由により憚られたということではある。勿論、それは単に「無邪気に素直なことを言い表すこと」が子どもみたいでちょっと恥ずかしかった、というだけなのかもしれないが……。
 そのもう少し後で、増子さんはこのように仰っている。

「ちゃんとした落としどころを求めている部分がどうしてもあるんですよ。何か、人から言ったら絶対そんなことないって言われるかもしらんけど、意外とポップなものが多分好きなんですよね、自分。自分の中で割と普通と思ってること……音楽って、本当は……意外と好きだ、っていうことがそこに、きっちりあって……。どうも今まで乖離してたと思うけど、何となく、こう、もしかしたら、同じことしようとしてるのかもしらんっていう風に最近思ってる」

 はっきりと聴き取れない部分もあるが、増子さんもやはり同様に、素直な、そしてポップなものとしての音楽への愛を述べている。ただ、本人もこれまで乖離していたと感じていたり、また「意外と」や「多分」という語ととともに使われていることからも、自身の意識としてはあまりない半ば無意識的なものであることが窺い知れる。そして、そのようなことを考えるようになったのが、前述のような、ライヴができず曲作り等ばかりやるようになってからだという。このことを勘案するに、やはりこれは、コロナ禍によってやや必然的に自らの内面と改めて向き合うようになり、自身が気づくようになったものと考えてよいと思われる。
 とはいえ、ポップといっても例えばジョニー・サンダースのような「ジャジャジャジャジャジャジャジャ♪」(←再現が難しいので映像をご覧ください。)というロックンロールをやりますというわけではなく、どう言い表してよいか増子さん自身も分からないという。畢竟するに、増子さんがここでいうポップネスは、何らかの落としどころを求めることに関係があるものであるにせよ、私たちが単純に解を求められるものでもなさそうである。

 ここまで見てきたように、増子さんも和田さんも、素直な音楽への敬意、賛美ないし愛とでもいえるものを表明しており、さらに増子さんの場合は、コロナ禍による影響により曲作りばかりするようになってからそのこと及びそれに関連する気づきについて意識するようになったとのことである。この映像作品が興味深いことの理由の1つは、コロナ禍におけるミュージシャンの営みがいかにあるかを目の当たりにすることができる、ということであるのは疑いようがない事実である(勿論それこそは、先に述べた「音楽をやることの重み」に直結するのである)。和田さんの場合は文脈が分からないが、増子さんと同様に、コロナ禍であるからこその言明なのかもしれないし、和田さんの発言の前にマキさんが仰っていた話の流れからは、そのような言明であると解釈することが自然であるように少なくとも一視聴者としては感じられた。

 ここで私たちは問うてみてもよいかもしれない。コロナ禍によって一時期どことなく身のやり場がなかった(ようにみえた)音楽は、やはり偉大なのではないか。素直に音楽は「楽しい」のではないか。そしてそれに対して外連味のない敬意を表し、あるいはそれを賛美し、またそれに対する愛を表明することは、ごく自然で普遍的なことなのではないか。

 How to make music──この映像作品の終盤は"Song Unfinished Untitled  #3"という、要するに作りかけの曲で占められる(そして締められる)。その音像は、これまでにもあった彼らの一面としてのヘヴィでドローンを多用した、深いファズやエコーで空間を埋め尽くすようなものであるが、印象としては、全体として以前より抽象的になったと思った。私が先に「大人になった」と形容したのは、そのことと関連している。増子さんの考えるポップネスがどのようなものか分からないが、少なくとも、私たちが普通に考えるところのポップネスのようなものは、以前よりも少なくなっている。もう少し言い換えると、これは固唾を飲んで見守りたい音なのである。よく考えれば、2014年のトリオ編成としての初のライヴもこのような感じだったかもしれない。ただ、あの時はあまりにも突然のことだったので、観客としての心構えができていなかった。
 精神分析の父であるジグムント・フロイトは、モーセによってユダヤの民にもたらされた一神教を、偶像崇拝的な多神教から精神的な高みによって洗練された「抽象」という面で、高度に優れたものであるとしている。DMBQのこの未完成の曲も、以前のDMBQの音のよりも、こう言ってよければ、抽象度を増してちょっとした高みに出た、あるいは深化した、そんな印象を抱いたのである。そして「ああ、これまでの彼らの踏破してきた道から、さらなる新しい領野が開けてきたな。さて、これは何と言おうか」と考えた時に思い浮かんだのが、冒頭のフーコーの言葉だったのである。そう安易にカテゴライズされえないのではないかと。

 この映像作品では彼らのインタヴューを見てからこの曲の演奏シーンとなるので、必然的に彼らの音楽への素直な気持ちを映像に代入しながらこの曲を鑑賞することとなる。音楽を目いっぱいやっているなという、至極当たり前の感想を抱きながら、一種の音楽への賛美のようなものとして観させていただいた。2018年のアルバム発表時のインタヴューでは、増子さんは「妙に観念的なバンドにシフトしていくのはイヤ」と仰っていた。本記事で私が書いたように妙な観念を振り回して評されることはあまりお好きではないかもしれないが、これはあくまで私の解釈であり、また、あくまで私はそのように楽しませていただいたということであり、1つののレスポンスという限りでとどめておいていただきたい。