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マーキームーン(Marquee Moon)

 当方、ミュージシャンでもなければ、音楽評論家でもありませんが、どうぞよろしくお願いいたします。
 皆様は、当記事にどのように辿り着きましたでしょうか。
 「マーキームーン」でググってみられたのでしょうか。
 いずれにせよ、Televisionによるこの不朽の名曲について、ご関心がおありのかたが多いでしょうか。
 ご期待に副うことができるかどうか甚だ自信はありませんが、この小考にお付き合いいただければ幸いに存じます。

知りたい情報は多分ググれば分かる
 さて、1977年はロック史に残る数々の重要な楽曲が発表された年ですが、それらの楽曲の1つがこの “Marquee Moon” といいますか、1970年代全体でみても相当に偉大な曲であると思います。
 もう皆様すでにこの偉大な曲について、何度も聴かれたことはおありでしょうし、「Marquee Moonとはどのような意味か」、「歌詞はどのような内容か」、「そもそものTelevisionのバックグラウンドは」等につきましては、このインターネットの広大な海から情報を拾得することは容易ですし、私がそれらをここで再掲する意味もなさそうです。
 もう既に十分に語られすぎているかもしれないこの楽曲に、私が今さら付け加えることができるものがあるでしょうか。

私たちの耳を捕えるもの
 以下、少し音楽理論的な話が出てきます。もしかしたら少し難しく感じられるかもしれませんが、あまりよく分からない部分が出てきた場合には、どうか「ふーん、そういうものなんだ」という程度に認識していただければと存じます。
 さて、まずは名盤ともいえるアルバム「マーキームーン」のこの表題曲のところでプレイボタンを押すか、レコードに針を落としてみましょう。冒頭で、皆様にすっかりお馴染みの「……テテ♪ ……テテ♪ ……テテ♪ ……テテ♪」というギターカッティングが鳴らされ、続いてそれに重なるように「……テロレロレロレロレ♪ ……テロレロレロレロレ♪」というギターフレーズが奏でられます。この曲の印象づけを行う、重要なオープニング部分ですね。この部分を無理やりコード(和音)にするなら、
 「Cm→E♭→Cm→E♭→…」の繰返しであるということができます。

 でもちょっと待ってください。E♭の時の「……テロレロレロレロレ♪」をよく聴くと「……ミ♭レ♭ミ♭レ♭ミ♭レ♭ミ♭レ♭ミ♭」の成分が含まれているではないですか。
 つまり、より正確に言うなら
 「Cm→E♭7→Cm→E♭7…」の繰返しということができそうです。

 この7thの音(レ♭)の音というのが曲者で、人間の耳は、冒頭のこれらのフレーズを聴くと、自然に曲の調性を「Cm(ハ短調)及びその平行キーであるE♭(変ホ長調)」と感じます。あらゆる音楽についていえるのですが、音楽の理論が分からなくとも、曲のキーというものは、幼児を含めて概ね誰もが感ずることができるものであり、それは別に「この曲はニ長調だ!」とかみたいに絶対音感で分かるという意味ではなく、ニ長調の曲を聴くと、誰でも「ニ」の音(「レ」の音)を聴けば、落ち着いた安定感を感じます。曲のキーによって、それぞれの高さの音はそれぞれの役割及び特有の印象を持つのですが、不思議なことにこれは概ね誰もが共通して感じることができるものであり、逆に言えば、だからこそ音楽という一種のコミュニケーションが成立するのだということもできるわけです。

 少し話が横道に逸れましたが、今の話は重要な部分です。
 さて、そういうわけで、さらにベースも入ってきて、ちょっと変てこなビートではあるのですが、やはり「Cm→E♭7→Cm→E♭7…」を後押しするベースラインです。ドラムも入ってきました。リズムのアクセントは独特ですが、いかにもタテノリで、私たち日本人にも馴染みやすいビートです。
 おっと、先ほど「この7thの音(レ♭)の音が曲者で」と述べたまま、そのことを放置しておりました。今しがたドラムもビートを刻み始め、私たちは「Cm(ハ短調)及びその平行キーであるE♭(変ホ長調)」の海を漂っています。ところが、「Cm(ハ短調)及びその平行キーであるE♭(変ホ長調)」では、自然なスケール(音階)を考えると「7thの音(レ♭)」は出てこないのです。もちろん、ブルージーな音階であればそれは普通にあり得るのですが、少し専門的になりますが、Cmのコードが出てくるのであれば、主音(ミ♭)を起点としてのブルージーな音階というのはやや不自然であり、7thの音(レ♭)よりもmaj7th(レ)の音のほうが自然なのです。まあ、既に私たちは「“Marquee Moon”はこういうフレーズなのだ」と認識してしまっているため、逆に7thの音(レ♭)のほうを自然だと感じてしまうかもしれませんが……。

ミニマリズム
 ともあれ、私たちの脳は、レ♭の音に引っ掛かりを覚えながら聴き進めていきます。さあ、トム・ヴァーレインによる、腹に力の入っていない(←褒めています。)ヴォーカルも入ってきました。このヴォーカルは、この曲でドの音とミ♭の間の音が「レ」なのか「レ♭」なのかハッキリさせることを避けています。といいますか、ソの音とミ♭の音のみで歌っています。これは、別に理論的なものでも何でもなく、彼らの美意識ないしセンス(これこそ、TelevisionをTelevisionたらしめているものなのだと思いますが。)なのだと思います。つまり、ここでの彼らは、ギターやベースを弾き過ぎず、ドラムを叩き過ぎず、メロディを歌い上げ過ぎていないのです。もっといえば、それらの「過剰」を回避しているということができます。だからこそ、この曲には研ぎ澄まされた緊張感があり、張り詰めた空気があり、都会的な知性があるのだと私は思います。ここまでのヴァースで彼らが紡ぎ上げてきた音絵巻は、ジョン・ケイルやトニー・コンラッドらに源流を持ち、ニューヨーク・シーンの先達であるヴェルヴェット・アンダーグラウンドに通ずるミニマリズムの1つの形態であるように感じられ、それは、贅肉を削ぎ落とした(余白が目立った)ビート、感情的な要素を避けたメロディ、どこか冷淡な反復性にもよく表れていると思います。「クール」という形容が合致しますでしょうか。
 ここまでは、ヴァーレインのヴォーカルがちょっぴりウェットになる以外は、特に抑揚もなく、ヴェルヴェッツが少し大人になったような(?)展開です。これがニューヨーク・パンクってやつか。ヴェルヴェッツのようなサイケ色はないけど、シンプリシティってやつを実に見事に引き継いでいらっしゃること。

ある転倒
 問題は次です。皆様よく存じておられるだろうヴァース(この部分はヴォーカルパートはないものの、便宜上「ヴァース」という表現を使用させていただきます。)。
 実は、ここで件の「レ♭の音」に解決が図られるのです。

 先ほどまで「やや」安定して私たちを「Cm(ハ短調)及びその平行キーであるE♭(変ホ長調)」の海にいざなっていた反復が、唐突に異物によって切り裂かれます。正確にハッキリ聴き取るのは少し難しいですが、コードは「D♭maj7→Fm(onC)→Fm(onB♭)」という流れに切り替わるのです。ここでハッキリいえるのは、ここのヴァースのキーは「Fm(ヘ短調)」であるということですが、このキーではレ♭の音のポジションはしっかりと与えられていて、ルート音(主音)ではないけど、キーのボトムを支える重要な役割を担っています。
 「先ほどまで「やや」安定して」としたのは、私たちの耳は、レ♭の音に明確な結論を出さないまま、その問題を迂回して曲のキーを感じていたからなのですが、今や、レ♭の正体が明らかになるとともに、私たちがちょっとした転倒を強いられることとなりました。というのも、最初のリフレインの部分を、私たちは不安を抱えながらも「Cm(ハ短調)及びその平行キーであるE♭(変ホ長調)」と感じていました。それが、次のヴァースに場面転換するや、私たちはここから「Fm(ヘ短調)」を感じることとなるのですが、これは実は、曲がここで「Fm(ヘ短調)」に転調したというよりも、むしろ「最初からこの曲のキーはFm(ヘ短調)だった」という仮説が成り立つのです。
 別に、そんなことを真似したからといって彼らのような知的な音楽が作れるかというとそうではないですし、そもそも、こういった類いの音楽において重要なのは、頭デッカチな理論よりも微妙な匙加減であり、またセンスであるわけで、同じ都会的という形容を受ける音楽でも、演奏テクニックとかロジックとかをこれみよがしに見せつけてくるフュージョン等とは対極にあるのがTelevisionでありニューヨーク・パンクの一種の芸術性なのだと思うのです(別にフュージョンがダメということではありません。)。そのことを承知しつつも、この叙情的かつ依然として都会的なヴァースの音符の重なりは、実に理知的に構成されていると感じます。といっても、別に高度なことをしているのではなくて、「あー、上手いな」と思わされるのです。
 先頭の「D♭maj7」というコード、これは「メジャー・セヴンス」という形のコードなのですが、キーの主音(ファ)に対して-6度の関係にある音(レ♭)によるメジャー・セヴンスのコードは、アーバンな空気を醸し出すための常套手段のコードです。しかもそのコードのベース音となるのは、先ほどまで宙ぶらりんにされたままであったレ♭の音であるという巧妙な仕掛け。これが単に、曲ののっけから普通にこのフレーズで始まったり、あるいは明らかにこのキー(Fm(ヘ短調))であると分かる展開で始まったりしても、あまり何も感じないと思うのです。かといって、全く関係のないキーから突如転調してこのヴァースに突入したとしても、どうでしょう、何かスマートではないなと思ってしまう気もしないでもありません。はっきりと転調したのではなく、元々このキーであった、つまり、ここで問題のレ♭の引っ掛かりに明確な解決を図ることで一種の転倒を生じさせる、そのような微妙な匙加減が素敵なのだと思います。繰り返しますが、やはりこの辺りは誰でも同じことをすれば同じような結果が得られるというわけではなく、本当にデリケートな「センス」の問題であると認識しております。

都市生活者の夜
 私は、初めてこの曲を聴いた時、理屈など関係なしにここのヴァースの部分を特に気に入りました。奏でられるギターのフレーズは若干の憂いを帯びながらも、背景のコード進行は、テンションノートを使いながらしっかりと都会性をキープしております。一歩間違えると熱量が出すぎてしまうメロディだけに、ここのバランスは気を遣う箇所でしょう。それを純粋に「センスいい」と思わせてしまう(私はそう思いました。)手腕は見事です。
 さて、こうして幾分エモーショナルなギターフレーズの後、曲はコーラス部分に入り、堂々としたE♭連発からA♭maj7の静寂を得ます。やはり理屈なんて二の次、三の次として、たいそう素敵なのですが、この不思議な魅力を成り立たせている構造をちょっぴり紐解いてみてもよいのでないかと思い、ここにこうして筆をとってみた次第なのですが。少し専門的な話にもなってしまいましたし、もしかしたら若干の訂正を要する箇所もあるかもしれませんが、何卒ご容赦いただければと存じます。

 「聞こえてくる音だけが全て」の80年代が到来する前の、いわば「晩」のような時代、偶然とは思えないほど多くの優れた楽曲が生み出された年に、かねてからのインテリジェンスとアートが息づくニューヨークの音楽シーンで、やはり稀なる作品が生み出された──この時代をリアルタイムでは体験できていないですが、リアルタイムで体験したものより却って新鮮な過去があることを遡及的に発見したという感慨もありました。私の頭の中の、Televisionが活躍した時代は、Marquee Moonのバックにある情景は、あのヴァースにおけるギターフレーズのように、ちょっぴり切ないのです。