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アクタージュ星アキラにみる現代SNSの「何者」主義

ジャンプで連載されているアクタージュがとても最高なのでnoteでその話をしたく描き始めています。

アクタージュは少年ジャンプに連載されている漫画。主人公である夜凪景の役者としての成長を描く漫画です。
非常に薄っぺらい説明ですが、文字で語るよりも漫画で読んだ方が早いので、漫画で読んでください。読め。
元々は作画の宇佐崎しろさんの「阿佐ヶ谷芸術高校映像科へようこそ」の数年後の物語として書かれた作品で、こちらの読み切りも最高でした。いまだに僕の家にその時のジャンプが残されています。どこにあるかはわからないけど。この作品も最高でした。

この物語、主人公である夜凪景の成長を語ってもいいんですが、それ以上に僕は彼女の役者仲間と言える「星アキラ」について語りたい。

星アキラは物語の中で自身の母である星アリサが社長の大手プロダクション、スターズの俳優。彼は発声はいいが、芝居がいまいちであると言われています。彼は努力に努力を重ねてはいるのですが、それでも天才と呼ばれる夜凪景や明神阿良也には届かないことを彼らと演技していく中でわかってきてしまいます。
しかしそれでも彼は舞台に立ち続けます。

僕の不幸はこの景色に虚しさを覚えてしまうこと
僕の不幸は君には手が届かないこと
そして彼は最後に一番の不幸に気がつきます
今ここにいる自分を 後悔していないことだ

彼は気づいてしまうのです。努力では決して超えられない壁。才能ということに気づくのです。
役者であれば誰しも主役を張れる人間を目指します。しかし彼はそこに手が届かない。それに気づいてもなお後悔しない自分がいると彼は自分を知るのです。彼は、主役になることのない「バイプレイヤー」として自分を受け入れていくのです。

正直アクタージュという漫画を読んで、もっとも私はこの物語で心を打たれました。
主役を支えるバイプレイヤーになること。自分の元々あった自身のあるべき姿出ないものになることを受け入れることの難しさ。。その心の強さと葛藤。これほどに厳しく、しかし、勇気のあることはないでしょう。
とてつもなく胸が熱くなり、美しいと感じました。

さて。ここから本題に入りたいと思います。
星アキラにみる現代の「何者」主義です。

まず、「何者」主義について語ろうと思います。
今、誰しもがSNSを使って、自己を発信することのできる時代になっています。自己を発信するというよりも、もはや自己顕示欲を示す為の場となっているように感じます。
誰しもがSNSといったことを支えることで、誰しもが何者かになれるような時代だと思います。

僕は決してこれを批判するわけではありません。むしろいいことかと思います。こうして埋もれてしまったかもしれない才能が現れることは素晴らしいことです。しかし、皆がこうあるべきであるのでしょうか。

世の中には必ずバイプレイヤーが存在します。それが世の中の「何者」になることのできない人であると思います。しかし、決してこれが悪ではありません。「何者」になることと同じように、これも素晴らしいことです。

「何者」かになることは一つ幸せだと思います。それは間違いのないことです。しかし、「何者」になれずとも、それを支える人も美しく、素晴らしいことなのです。

最近のSNSを見ると、誰しもが「何者」かになるために、必死に色々なことをしています。若くして危険を犯して海外へ行こうをする人々。自分を繕うために衣服や食べ物に大金を使って写真を投稿する人々。嘘をついてまで人気になろうとする人々。
果たしてそれが正しいことなのでしょうか。
必ず「何者」にならなくてはならないのでしょうか。

バイプレイヤーとして生きることも幸せであり、美しく素晴らしいことです。

誰しもが「何者」になれる今だからこそ、今一度考えてみてほしいと思います。

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