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第一章『百目木(どめき)』

 俺は小説家になりたかった。畑仕事を抜け出して、本ばかり読んで、怒られてばかりいた。読書は百目木の山と川の外側の、世界のことを物語り、俺の好奇心をかき立てた。しかし俺の夢は叶うことはなかった。俺は戦争でロシアに出兵され、戦後、シベリアに抑留された。そして1945年の冬に、俺はチタという町で死んだ。百目木に残った、妹のユミ子だけが気がかりだった。ユミ子、守ってやれなくて、ごめんな。百目木に帰ることができなくて、ごめんな。

 ある日のこと、ひとりの青年がシベリア鉄道でチタ駅に降りたった。ユミ子の孫の拓哉だった。小雪が舞う10月、彼はバスを乗り継いで、私の眠る墓地までやってきた。彼はリュックから線香を取り出し、ライターで火をつけ、俺の眠る土へと突き刺した。懐かしい匂いだ。百目木の記憶が、走馬灯のようによみがえった。しゃがみこんで手を合わせる、拓哉の顔を見つめる。ゆっくりとまぶたを開けた彼の瞳は、あの日のユミ子の潤んだまなざしを思い出させた。

 突然、拓哉は俺を抱き上げると、リュックの中に押し込んだ。彼はそのままシベリア鉄道で、ウラジオストクへ帰った。そして半年後、彼は日本に帰国するとすぐに、百目木へと向かった。山と川の間の懐かしい、小さな村だ。拓哉は古ぼけた家に入ると、リュックを下し、中から俺を取り出した。目の前に、74年ぶりのユミ子がいた。ユミ子は「拓哉君、わざわざチタまで行ってくれて、ありがとうね」と、昔と変わらないはにかみを、深いしわの刻まれた顔に浮かべた。

 数年後の5月に、ユミ子は亡くなった。百目木の山は、新緑の木漏れ日が眩しく、奥入瀬川は雪解け水でふくれあがり、生き生きとした龍のようだった。俺たちは今、百目木の山と川の間にいる。


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