愛想と愛嬌と
最近ねー仕事も恋愛も生活もぼちぼち過ごしてますけれども、本質的に意識しているのは自分の人生の満足度をどれだけ上げられるか、ではないかなと。
自分の人生を全うしたい。楽しく生きたい。自由度は上げていきたい。みたいな。
そんな本質を大事にしつつも年齢とか仕事とかいろんな要因で価値観というのはアップデートし続ける必要はあるなと。
夢物語のような理想を見つつも、現実的な部分も見つめる。天を見上げながら、踏みしめる地をちゃんと感じるというのか、歩む一歩一歩を確かめながら歩いていくというのか。
その歩み方も、自分では良しとしてたり、自分としてはそういうもんだと思っていても、他人からの、特に近しい人が言ってくれたことによって「ちょっと違ったよね。」って気づけることというのはたくさんあるもので。
客観視ということではありますが、それでも言ってくれたことの「言わんとしていること」をちゃんと聞いておかないと、認識のズレが生まれますね。いやー、ちょっとズレてたわ。
自分という、人間という存在を「磨く」というのは本当に終わりのないことです。もちろん磨き終えたとも思ってもいないのですが、自分の中のそれなりの輝きを見ると、「なかなかいい輝きやんけ」とか「これがワイの輝き!」と感じてしまって、なかなか磨けていないアラとかは客観的に見てもらわないと気づけないもんです。
正しいと思ってることは思いこみということは大いにある。
なんだかやたらと抽象的な表現ですが、ここからはこんなことを言い出した、もうちょいと具体的な最近のことでも書いてみましょうか。
それが「気を使う」という部分のこと。
◆◆ 気遣い気配りのズレ ◆◆
結論。無理に愛想よくしない。いつもヘラヘラ笑顔にしてなくていいんだよ、ってこと。
公私、のおもに「私」の方面で、です。仕事ではね、演じなければいけない自分もあるので愛想も必要だし、多少は我慢や偽りの自分な必要なものです。仕事の自分。えらいぞ。もちろん不愛想に過ごそうってわけでもなくて。
このズレに気づけたことはある意味「本来の自分自身」の一部を再発見できたと思っておる。
◆◆ 気を使わなくていいよ ◆◆
よくね、「そんな気を使わなくてもいいよ。」って言われることがあったんです。女性に、です。
ワイとしては、レディファースト的な行動とか気配りをそう言われてるのかと思ってた。
でもそれってわりと無理なくできることなので、「いうほど気ぃ使ってないよ。」って思ってたし、伝えてた。
どうやらね違うみたいで、そこじゃなくて、それは愛想良く笑ってる部分だったぽい。
「がんばんなくていいよ。自然体でいいよ。」っていわれてなんかやっとピンときた。
楽しませようとか笑わせようとかニコニコしとこうとか、確かにしてた。
本来のワイはそんなにヘラヘラしないんよ。愛想が悪いってわけじゃなくてね。じゃあなんで笑顔でいたのかって?
接客業にずっと携わってきたのと、変なプライドの高さと、人によく思われたい、嫌われたくないという。
このあたりの感情が入り混じって必要以上に「気を使っている」「がんばっている」と見えるようなのです。
不自然なんでしょうね。ワイにとっては世渡りのためのテクニック、処世術みたいなもんです。
◆◆ 愛想笑い作り笑顔の弊害か? ◆◆
たしかにね、感情が「笑」ってなってなくても、笑顔作ってる時はあるし必要な時もある。
でもそれは無理してた部分もあったと思う。よかれと思ってね。悪気はもちろんない。感じ悪いのって、いやじゃん。
笑顔でいたほうがいい印象だし、接客業で愛想笑いスキル手に入れてたし、ニコニコしてた。
でも相手に時には不自然さを感じさせてたのかもしれない。たしかにいつもニコニコしてても気持ち悪いしな。何考えてるかわからんし。
ほんでそういう不自然さが、何考えてるかわかりにくいと言われる一つの理由だと思う。よかれと思ってたんですがね。
きついこと言われたり怒られたりしても、少し笑って「ごめんね。」って。「申し訳ないな」って気持ちをごまかすために。
たぶんね、まゆげは困ってる時の形だと思う。相手にも不自然さは伝わってるはず。
いやだな思ってることを相手に伝える時とかも「変な圧が出るとやだなぁ…」と思って真顔では言わなかったり。変な雰囲気が和らげばいいなぁと思ったりしてた。
それって自然じゃないんよね。そういう不自然さが「そんな気を使わなくてもいいよ。」って言われることにつながってる。
女性はすごい。同じ笑顔でも「どんな笑顔なのか」ってのはわかるみたいですね。
もうね、無理に笑顔作るのやめることにした。
作るんじゃなくて、湧いてくる感情のままに笑えばいいなって。それが自然体。素直に。それは愛嬌ってやつなのかな。
◆◆ Too much ◆◆
散々ねいろんなとこで言われててね、わかってはいるんだけどね。
過ぎたるは猶及ばざるが如し
これって、善意でもそうなんよ。良かれと思ってることね。良かれと思ってやってることも、やりすぎると相手は受け止めきれなくなる。
やりすぎってねいいことにも起こるんですね。よかれと思って「笑顔」を作りすぎたよ。ほんまの「笑」の感情があるときだけにするわ。
相手が求めてないのにアドバイスしちゃったり
必要以上にアレもコレも説明しちゃったり
よかれと思って気配りしすぎたり
相手が受け止めきれないとそれはやりすぎよな。
とにかく、笑顔の安売りはしないようにする。
そのためには心から、「笑」の感情でちゃんと笑う。
でも感じ悪くならないようにする。
ワイの場合ね、振り返ってみると作り笑顔、愛想笑い多いので、やめすぎると興味わかないものや笑えないものに対して真顔でズバズバ言っちゃいそう。。。
「ちょっとわからんわ。」「なにがおもろいの?」「大変だね。」「で?」
素直に思ったこと言うのは悪いことではないけど、人の関わりにおいてはもうすこし優しい表現ができるようにしよう。
このズバズバ言っちゃいそうな部分はワイにとっての別の課題にもつながります笑
「人にかみつく」という課題。
これはまた次の機会に深掘りして見ます。
愛想笑いや作り笑いをしすぎた故に、それが自分の中で普通になっていたのだけれど、ワイのことを見てくれる人はちゃんとそれを伝えてくれた。
ある方面にやりすぎたからこそ、反対側をやってみて、いいとこでバランス取れるように、選んで使いこなせるようになる。
やはりなにごともバランスですね。いつも真ん中に。
うんうん、だいたいいつもいい感じよな。
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